2019年3月25日 (月)

素直な解釈と屈折した解釈

素直な解釈と屈折した解釈

―どちらが正しい解釈か―[古田史学]

 「到」と「至」の違い―似ているようで違うもの―で私は次のように書きました。

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〔前略〕「至」と「到」の意味の違い、すなわち「至」(=「~まで」)と「到」(=「着いた」「なった」「達した」)の違いなのです。

 以上が、「到」という漢字が二箇所「到其北岸狗邪韓國」と「到伊都國」だけに使われていた理由なのです。つまり、女王国の「北岸狗邪韓國」に到着した(着いた)、と陳寿は書いているのです。女王国の領域内においては「世有王」のいる「伊都國」は到着した(着いた)と書き、その他の国は「至(~まで)…(餘)里」と書いているのです。

 「到」という漢字からも「狗邪韓國」が「今使譯所通三十國」に含まれることがわかるのです。

やはり「真実は細部に宿る」だったのです。

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 さて、この上記の解釈に対して、次のような主張がなされると予想されます。それがされるのは、「狗邪韓國」を「今使譯所通三十國」に含めたくないという動機からです。

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「女王国の北岸に着いた」と言っているだけで「狗邪韓國」が「今使譯所通三十國」に含まれるという証明にはならない

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 なるほどなるほど、そのような解釈も「可能」です。「可能」と言った真の意味は、そのような解釈も「無理すればできないわけではない」と言ったのです。

 私が「無理すれば」と言った理由は、「できないわけではない」けれども「そのような言葉の使い方はしない」ということです。

 それを具体的に説明しましょう。今、貴方が友人と新宿駅にいて、東京駅に行くことにしたとしましょう。東京の交通事情に詳しくない方のために少し説明をしますと、新宿駅から東京駅には中央線が一番短時間で行けます。山手線(やまのてせん)の外回り(時計回り)や内回り(反時計回り)でも行けます。ただ、ここは中央線を使うことにします。新宿から中央線で行くと、神田駅が東京駅の手前の駅になります。

 さて、神田駅に来た時、貴方は友人に「東京駅の手前神田駅に着いた」とわざわざ言うでしょうか。仮に友人が東京の交通事情に詳しくなかったとしても、東京駅(目的とする場所)に着いた時に「(東京駅に)着いたよ」と言うところでしょう。英語なら「Here We are!」というでしょう。このように「着いた」という言葉は、目的とする場所に着いたときに言うのが自然な使い方なのです。

 ですから、上記の解釈は屈折している不自然な解釈なのです。だから「そのような解釈も「可能」です」が、それは無理やりそのように解釈しているのです。つまり、自説に都合が悪い場合にそのように解釈していることが見てとれます。だから、そのような解釈を行った結果は、袋小路に入る羽目になる(わかるものもわからなくなる)のです。

 言葉を、私たちが普段している素直な解釈をせずに屈折した解釈をすれば、その行き着く先は、「屁理屈」の連鎖にならざるを得なくなるのです。

 確かに「ああも言えればこうも言えるのは論証ではない」かもしれませんが、「屈折した不自然な解釈で「こうも言える」と言ってみたところで、「投馬國」が比定できる効果があるわけではないのですから、言葉を屈折解釈した“反論”にはたして価値があるのでしょうか、疑問です。私には「屈折した不自然な解釈」が「理性を使った解釈」である、とは思えません

なぜ「前期難波宮九州王朝複都説」なのか

なぜ「前期難波宮九州王朝複都」なのか

―「「両京制」とする正木さんの意見に納得」―[古田史学]

 古賀達也さまが、「古賀達也の洛中洛外日記 第1861話 2019/03/18 前期難波宮は「副都」か「首都」か」において、「(「前期難波宮九州王朝複都説(副都説から変更)」が)古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。」という「問いかけ」がありましたので、ブログ記事「九州王朝複都説」への意見―学説は自由なもの―で私の拙見を述べたところ、古賀達也さまからコメントにて次のようなご説明をいただきました皆様のお目に触れ易いようにコメントより記事として転載いたします。古賀さま、ご説明ありがとうございます。
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「太宰府」は「倭京」としての天孫降臨以来の伝統的首都として、前期難波宮造営後の七世紀後半に至っても水城や阿志岐山城などの防衛施設が増強されており、遷都後の「もぬけの殻」の様子はうかがえません。従って、遷都は考えにくいと思います。ただし、牛頚須恵器窯跡群での生産が七世紀中頃から減少しますから、この理由として、前期難波宮への大量の官僚と家族の異動に伴った現象とわたしは考えています。白村江戦に須恵器工人が動員されたとする説も出されています。

難波京はその規模や列島の比較的中央に位置することから、全国を律令と評制による統治のための主に「行政府」としての機能を有す「複都」と考えています。

上記の観点から「両京制」とする正木さんの意見に納得したしだいです。まだ多くの謎が残っていますので、これからも研究を続けます。

古賀達也

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コメントが表示されるのに時間がかかっています

コメントをご記入くださった皆様へ
ココログがリニューアルされた後、公開を承認しているコメントがブログ上に公開されるまでかなり時間がかかっています。ブログ主もどうなっているのか不安に駆られるような状況です。「せっかく書いたコメントはどうなったんだ」と思われる状況が発生しておりますが、しばらくこのような状況が改善されずに続くと思われ、コメントを入れてくださった皆様にはご迷惑をお掛けしておりますが、ご理解くださるようお願いいたします。

2019年3月22日 (金)

『三國志』の「裴注」について

『三國志』の「裴注」について

私の基本的な態度[古田史学]

 なんの新しい知見も提供するものではありませんが、『三國志』の「裴注」については、私は次のような認識を基本にして臨んでいます。

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信憑性の薄い史料は採らず簡潔な叙述を宗とする陳寿は、行なわれていることは書き、行われていないことは書かなかった(また、陳寿は「簡潔さ」を損なう「親切な説明」は不要と考えていますので「わかる人にはわかること」も書きません)。それが故に、「(簡潔過ぎる)『三國志』を注釈せよ」と命じられた裴松之は、陳寿が「採らず・書かなかったこと」を補う注を入れた。こう考えるのが「裴注」に対する整合性のある理解である。

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一例を挙げれば裴注「魏略曰:其俗不知正歳四節,但計春耕秋收為年紀。」については、『魏略』は信憑性が薄いとして陳寿が採らなかった史料であり、不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」は、陳寿が書かなかった倭人の習俗(倭人が知らない・していないこと)を補ったものとして解釈します。つまり、「倭人はこんな(陳寿は書くべきだった)ことをしています」という注ではない、として解釈します。すなわち、陳寿は「(他国では~をやっているが)倭人は~をしていない」とは書かないので、「魏書 烏丸鮮卑東夷傳」にある他の国でしている(書かれている)ことを倭人はしていなかったことを裴松之が補っているものと解釈します。つまり、裴注」は陳寿の「書きもらしたこと(書かなければいけなかったこと)」を補ったものではないのですから、不知正歳四節但計春耕秋収為年紀の例でいえば不知正歳四節但計春耕秋収為年紀に関係する「他の国でしている(書かれている)こと」を見出してはじめてこれを正しく解釈することができる、と考えます。「魏略曰;不知正歳四節但計春耕秋収為年紀は、ほんの一例にすぎません。

「到」と「至」の違い

「到」と「至」の違い

―似ているようで違うもの―[古田史学]


 『三國志』「魏書 烏丸鮮卑東夷傳」倭人条に次のようにあります(一部抜粋)。

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倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絶島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里末盧國,有四千餘戸,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戸。東行不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戸。南邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戸。自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

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 お気づきだと思いますが、「到」という漢字は二箇所「其北岸狗邪韓國」と「伊都國」だけに使われていて、残りは「至」なのです。

 では、なぜこのように「到」という漢字が二箇所なのだろうか。これが私の立てた「問い」です。


 漢字のことは漢字辞典によるのが一番です。いつもどおり携帯性抜群の北京・商務印書館編『新華字典 改訂版』(東方書店、2000年2月25日改訂版第1刷)を引いてみました(簡体字は国字に直しました)。

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到 dao4声

❶達到,到達:~北京.~十二点.不~両万人.堅持~底.[到処] 処処,不論哪里。❷往:~祖国最需要的地方去.❸周到,全願得着:有不~的地方請原諒.❹表示動作的効果:辦得~.做不~.達~先進水平.〔P.89〕

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至 zhi4声

❶到:由南~北〔この「由」は「自」と同じ意味です。山田〕.~今未忘.[至于]1.表示可能達到某種程度:他還不~~不知道.2.介詞,表示另提一事〔「另」は「別の」とか「この外の」という意味です〕:~~個人得失,他根本不考慮.[以至]一直到:自城市~~農村,愛国衛生運動普遍展開.❷極,最:~誠,~少.〔P.638〕

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 「到」と「至」は「いたる」と読んで同じように見えても、「」は、「北京に着いた。十二時になった。二万人に達しなかっ。」などからわかるように、「着いた」「なった」「達した」という意味合いです。また、「」は、「南から北まで。今まで忘れず。」などからわかるように、「~まで」という意味合いが強い「いたる」なのです。例えば、総勘定元帳の表紙や背表紙には「○○年○○月○○日 ××年××月××日」と書きますが、この「至」を「到」と書いたら何か変な感じがするでしょう。

 このように違う「感じ」を抱くことが「至」と「到」の意味の違い、すなわち「至」(=「~まで」)と「到」(=「着いた」「なった」「達した」)の違いなのです。


 以上が、「」という漢字が二箇所「其北岸狗邪韓國」と「伊都國」だけに使われていた理由なのです。つまり、女王国の北岸狗邪韓國」に到着した(着いた)、と陳寿は書いているのです。女王国の領域内においては世有王」のいる「伊都國」は到着した(着いた)と書き、その他の国は「(~まで)…(餘)里」と書いているのです。

 「到」という漢字からも「狗邪韓國」が「今使譯所通三十國」に含まれることがわかるのです。

やはり「真実は細部に宿る」だったのです。

2019年3月21日 (木)

「九州王朝複都説」への意見

「九州王朝複都説」への意見

学説は自由なもの[古田史学]

 古賀達也さまが、「洛洛メール便2019年3月21日で送付された「古賀達也の洛中洛外日記 第1861話 2019/03/18 前期難波宮は「副都」か「首都」か」において、次の「問いかけ」をなされましたので、それについて意見を述べさせて頂きます。

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〔前略〕

 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-captal city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的な断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。

 はたして、この“問題の先送り”のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。

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 『古代に真実を求めて―失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学論集第二十集)の東京出版記念講演会だと記憶していますが、私は古賀さまに次のような内容の質問をしました。

 「服部さまが官僚を収容できる官衙として前期難波宮が日本一の規模をもつことを発表されました。私ももっともなことと思いました。そこで古賀さまにご質問いたしますが「前期難波宮が『副都』であって『首都』ではない」という根拠は何でしょうか?

 古賀さまは「はじめて答えられない質問を受けました。」とお応えくださいました。私は、この回答をいただいて十分でした。なぜなら、次のように理解したからです。

古賀さまは、『首都』といいたいが、その確実な証拠をまだ提示できないので、現在のところでは『副都』とされている」ということです。

 この私の勝手な理解は、古賀さまの「学問的な断定がまだできない状況」という表現、並びに「副都」から「複都」への変更ということからも、間違っていなかったと確信しています。

 さて、「問いかけ」のひとつ「“問題の先送り”のような案が、学問的に妥当なものか」ということについて意見を述べますと、「『断言できないことを断言しない』のは学問的に妥当です」と私は考えます。また、「“問題の先送り”は学問的に妥当です」すなわち「学問は未だ解決できていない問題は“先送り”するのが原則」だと考えるからです。「首都」だとしたいが確実な証拠がない場合に「首都」だというのは学問的には「軽率」の誹りを受けるでしょう。「首都」だとしたいのに「副都」であると言うのは学問的には「不誠実」ではないでしょうか。つまり、「複都制(multi-capital system)」を古賀さまが苦し紛れで創作したのであれば非難されるでしょう。しかし、「天武紀」に複都制(multi-capital system)が言及されていることでもわかる通り、「複都制(multi-capital system)」は古賀さまの創作ではないのですから、「複都」という表現が「古賀さまの学説の置かれている状況に最もふさわしく、また、適している」なら、それが「学問的に妥当」なのだ、と私は考えます。私は、複都制は「天武紀」に始まったものではない、と妄想していますので、古賀さまの「複都」説の受け入れは容易です(個人的な話ですみません)。

 次に、「問いかけ」のもうひとつ「(「副都」説を「複都」説に変更することが)古田学派内で支持を得ることができるかどうか」ということについて意見を述べますと、「首都」説派の方々は「複都」説の方が(「副都」説よりも)「首都」説に歩み寄ったということですから、これに文句を垂れるのはただの「偏屈者(理屈がわからない者)」だと思います。一方、「副都」説を「複都」説に変更することに反対する方々は、もともと「副都」説自体に反対していた方々ですから、意に介す必要はないわけです。つまり、いままで(「副都」説)よりも支持が得られるということです。また、学問は新しい知見で更新(アップデート)していくのが当然なものですから、「コロコロと自説を変更する」などという学問に無関係な理屈で攻撃する輩は、学問に関わるべきではない人々(神学や宗教向きの人々)ですから、相手にしない(「そしらむ人はそしりてよ」)でよいのではないでしょうか。

 最後に気になったことについて意見を述べます。加藤健さまの「「副都(secondary capital sity)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうか」というご意見には違和感がありました。学説というものは多くの方々(一元史観の方々をも含めて)の検証を経て淘汰されていくべきものだ、と私は考えております。古田学派の研究者が何人いらっしゃるか知りませんが、その古田学派の研究者達が「過たない(間違いをしない)」という根拠はどこにもないでしょう。彼らの決定した統一見解が常に正しいという保証を誰が与えるのでしょうか。私にはそんなことをする(学説に「統一見解」を持ち込む)古田学派というものは、単なる「政党」や「家元制度」や「宗教団体」にしか見えません。仮にも万一「古田史学の会」がそのような団体と化したならば即座に脱退させていただく覚悟です。それほどの違和感があるご意見でした。ただし、運動団体として「統一見解」を否定するつもりは全くありません。現に私は「戦後型皇国史観に抗する学問」を私的に「綱領的文書」としております

 以上、個人的な見解を述べさせて頂きました。

2019年3月20日 (水)

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「萬二千餘里」と「三十國」

「萬二千餘里」と「三十國」

「部分」の総和=「全体」[古田史学]

 古田武彦先生(の著作)から学んだことの一つに「細部をおろそかにしない」(古田先生の言葉ではありません)という「論証における態度」があります。

 『「邪馬台国」はなかった』からの引用ではなく、私のいいかげんな記憶で書かせていただきますが、古田先生は『三國志』「魏書 烏丸鮮卑東夷傳」倭人条に「自郡至女王國萬二千餘里。」とあるのに、その里程の部分を全部足しても「萬二千餘里」にならなかったことに苦慮されていて、お風呂で「半周読法」をすれば「萬二千餘里」になることを発見され、「わかった、わかった」と裸で飛び出されて、奥様を驚かせてしまった、というエピソードが載っていたような記憶があります(記憶で書いておりますので多少の違いはご容赦ください)。

 古田先生は、論証にあたっては「だいたいそんなもんで、まあ合っているだろう」などと、われわれが考えがちなことは絶対にしないお方でした。

 部分を全部足したら全体に一致しなければならない、と考えて「萬二千餘里」にならないことに悩まれていたのです。

 「東山道十五國」についても、古田先生なら、「東山道」の国を全部足せば「十五國」にならなければおかしい、と申されたでしょう。

 「今使譯所通三十國」についても、古田先生なら、「今使譯所通三十國」とあるのだから「今使譯所通」の国を全部足せば「三十國」にならなければおかしい、と申されるでしょう。

 部分を全部足したら全体に一致しなければならない。つまり、数が出てきたら、「部分」の総和=「全体」でなければおかしいのです。これが「細部をおろそかにしない」ということであり、私は「真実は細部に宿る」と考えています。

図解「今使譯所通三十國」

図解「今使譯所通三十國」

―ベン図でわかる「今使譯所通三十國」―[古田史学]


 皆さんは学校で「ベン図」というものを習ったと思う。そこで、陳寿の『三國志』「魏書 烏丸鮮卑東夷傳」倭人条にある「今使譯所通三十國」の「三十國」を「ベン図」で図解してみました。文章を追うより図の方が「一目瞭然」だと思います。

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倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國

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図解「今使譯所通三十國」
Photo

少し補足すれば、「女王国」同様に「狗奴國」にも属する国が有ったと思われます(無ければ30:1で容易につぶせるはずです)が、魏の大義名分において敵対する国々を詳しくは書かず、反女王国の盟主「狗奴國」で代表させた推測します。この推測が当たっているとすれば、「狗奴國」を屈服させるのは困難だったと思われます(女王國が帯方郡に頼った理由がこれだと思われるのです)。しかし、『三國志』にはそのような直接的な記述はありませんので、これは想像の域をでません。

【2019/03/21追記】
「自女王國以北」を「女王国」を別として8ヶ国としましたが、自女王國以北」という言葉に「女王国」を含めれば9ヶ国数えられます。どちらであろうと30ヶ国が変わることはありません。また、今使譯所通三十國」に無理やり「狗奴國」を含めるアイデア(動機はある国を抜きたいため)もあると思いますが、そうすると「狗奴國」は「一国で女王国以下29ヶ国を相手にできるほど強大な国」となり、なぜ「狗奴國」が倭人の盟主となっていないのかを説明できません(無理筋です)。

2019年3月19日 (火)

「自女王國以北,其戸數道里可得略載」の国+「其餘旁國遠絶,不可得詳」の国=「今使譯所通三十國」

論理の赴くところ(2019年3月の3)

「推定」と「事実」は大違い―[古田史学]

 James Macさまがそのブログ 古田史学とMe の記事 「投馬国」に関する事 (記事末に全文を転載させていただきました)で、私のお応えしたコメントと記事に対して、次のように述べられています。

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山田様から示された当方のコメントに対する山田氏のコメント及びその後掲載された論を見て、違和感を感じました。私の論とかなり噛み合っていなかったからです。もちろん「ミスリード」してしまったのは私の方であり、何か誤解のある書き方をしたのかもしれないなと思っています。

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 この件につきましては、James Macさまが「ミスリード」されたのではなく、James Macさまが「違和感を感じました」と言われる「ミスリード」をしたのは私の方でした(実は意図してそうしました)。その理由を申し上げる義務があると感じましたので、この記事を掲載しています。

 まず、私は次のように書きました(下線部分にその意図があります)。

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次の『三國志』「魏書 烏丸鮮卑東夷傳」倭人条から、James Macさまは「投馬國」が「邪馬壹国」の北にあるとお認めいただける、として回答いたします

>自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。

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 まず、JamesMacさまが「投馬國」が「自女王國以北」にあることを認められるか否かで、JamesMacさまのご指摘が有効か無効かがかかっている、と考えていました。つまり、JamesMacさまと私のコメントが「噛み合っていなかった」のは、まさにこの「投馬國」が「自女王國以北」にあるか否か、という点が噛み合っていないと思ったからです。

 このことを認識しておりましたので、次の記事でJamesMacさまが当然ご存知の「排中律」から記事を始めました。ですから、JamesMacさまが「しかし山田様の議論を見ていて「私見」がより深まったことは確かであり(それは山田様の論理進行とは異なりますが)、良い機会を与えていただいたことに感謝いたします。」と書かれたところまでは、私の「ミスリード」(説明不足)であり、申し訳ありませんでした。

 さて、それ以降については、いまだに議論が全く噛み合っていません。


James Mac さまの推定

推定その1.全てを「一大率」がサポートしていた

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「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定していました

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

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「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていた」というのは「であろうことを推定していました」とされている通り、これは「推定」です。


推定その2.
全て「伊都国」からの方向と距離を示している

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 ここでは「伊都国」について「郡使往來常所駐」という書き方がされており、このことは「伊都国」がいわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのがその直後に書かれた以下の記事です。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 これらの記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)

 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきと考えます

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全て「伊都国」からの方向と距離を示している」というのも「「起点」は当然「伊都国」と見るべき」というのも、James Mac さまが「考える」とおっしゃっているように、全てJames Mac さま の「考え」です。


推定その3.
(魏使は)「投馬国」を視察した後「伊都国」へ戻り最終的な帰途についた

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 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しています。またそれはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています

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引用しませんが、上記は「と推定しています」「いう行程を想定しています」とある通り、全てJames Mac さま の「推定」・「想定」です。


推定その4.
(魏使は)「一大率」の案内がなければ「対馬国」には行けなかった

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また「私見」では、というより大方の意見もそうでしょうが、この行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみています。そうであるなら石田氏が提唱し山田様が賛意を表明したように、「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」には「郡治」から誰が案内したのかと考えてしまいます。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません

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 これは、推定その1.に基づいている推定ですが、「一大率」が女王国への出入国管理を統括していたと仮定しても、倭人条に「倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。」とあるように、倭人は中国王朝に古来から朝貢してきている(周代からあったと考えられています)ので、中国側に(楽浪郡・帯方郡などが置かれたこともあって)それなりの情報があったと考えられますので、「投馬国」に「一大率」の案内がなければ行けなかったと断言はできません。「彼ら〔「一大率」〕は「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったと仮定したところで、「一大率」の案内がなければ「対馬国」には行けなかった、ということにはなりません。「とは思われません」も推定です。「ああも言えればこうも言えるのは論証ではない」のです。


推定その5.
韓半島と「対馬国」の間に国境があった

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 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことを考えると、「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えられないこととなります。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「対馬国」でありまた「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」からのものではないと考えざるを得ません。

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 「ここに「国境」があったらしいことを考える」とある通り、これも推定です。私が 論理の赴くところ(2019年3月の2)―「今使譯所通三十國」を特定(注)する―論証(その実態はただの「検算」)した通り、「今使譯所通三十國」に含まれる「狗邪韓國」は倭國の領域であり(「其北岸狗邪韓國」)、James Mac さまの「考え」は見当はずれだったのです。また、推定その4.に関係しますが、魏使が「一大率」の案内なしに「投馬国」に行ける状況があったことを「「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます」とまで言えるものなのでしょうか、疑問です。このようにJames Macさまの「推定」を挙げていけばまだまだあるのですが、このあたりで省略させていただいて、一番私が疑問に感じたところ(根拠なき想像)を挙げさせていただきます。
(注)不適当な「比定」という言葉を「特定」に訂正しました


根拠なき想像

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 ただし石田氏及び山田氏が特に問題とされた「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬については現時点で「名案」というほどのものはありません。ただ、上で推察したように「一大率」の「検査対象」の「諸国」の中に「投馬国」があると考えると、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ、この「諸国」の中にも「投馬国」は入っているはずですが、「投馬国」以外は全て「邪馬壹国」の「北」にあることは確かと思われますから「諸国」という概念で括ってしまうと「投馬国」が「伊都国」から見て「南」にあった場合でも、いわば「十把一絡げ」にされてしまったという可能性があり、本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略したのではないかと見ています。

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 まず、「「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬について」名案があるかどうかではなく、石田泉城さまより従来説が説明できなかったことを解決する仮説が既に提出されているのですから、その仮説が成り立つか成り立たないかという見解を示し、否定される場合はその根拠(証拠)をお示しください。

 次に、James Mac さまが言われる「「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ」とは、一体何を意味しているのでしょう。「今使譯所通三十國」の三十國」が特定された今、「「諸国」が隠されている」とおっしゃる根拠(証拠)はどこにあるのでしょうか。「「十把一絡げ」にされてしまった」「本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略した」という根拠(証拠)はどこにあるのでしょうか。それらすべての根拠(証拠)James Mac さまの「頭の中」にあるのでしょうか。いつも確実な史料と明晰な分析に基づいた論旨で貫かれているJames Mac さまの考察とは思われません。


 私は推定推測という手段を否定するために述べているのではありません推理は大事です)。監査という仕事に携わってきた経験から推理して深読み”することは大事であると存じております。しかしながら、推理して深読み”して「事実を当てる」こともあれば「読みっている」こともある、それを知っております。『論語』に「過ちて改めざる、是を過ちという」(衛霊公第十五29)とあります。私は、過去の自説に捉われないように心掛けており、間違っていれば潔く認めて改めます。

 私がJames Mac さまに期待することは、次の二点についてご見解を(私の二つの記事に対する反論を)示していただくことですどちらも私の説ではございませんが…

①「投馬国」が「自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。」とある「自女王國以北,其戸數道里可得略載」の国(A)か、または「其餘旁國遠絶,不可得詳。」の国(B=¬A)か。この文章は排中律(A∨¬A)」で書かれています。つまり、A(「自女王國以北,其戸數道里可得略載」の国)+¬A(「其餘旁國遠絶,不可得詳。」の国(B))=「今使譯所通三十國」です(これは私の想像ではなく、『三國志』に書いてある事実です)

②「狗邪韓國」と「投馬国」が「今使譯所通三十國」に含まれるか否か「三十國」は既に特定されています。これも『三國志』に書いてある事実です)
なお、自分の好きなようにできる「諸国」などという概念をもちださないようにお願いします(注文を付けさせていただきます)

 余談ですが、私が皇帝なら「今使譯所通三十國」と書いてありながら、その「三十國」とはどの国なのか、それが特定できない報告書を提出されたら、そんな報告書を書いた官吏は文字通り「首」にします。「報告書」は命がかかっているのです(現代の会社においても「監査報告書」如何で首になる社員がいます)

以上が、私とJames Mac さまの議論がなぜ噛み合っていないのか、という理由です。上記①と②に対する反論をお待ちしております。


James Mac さまの記事
(全文を転載させていただきました。〔〕は私の加筆です。)…………………………………………………………………………………………………………

「投馬国」に関する事

2019年03月16日 | 古代史

 Sanmao様(山田様)のブログはいつも刺激を受ける記事であふれていますが、今回は石田泉城氏(「古田史学の会」の友好団体である「古田史学の会・東海」の関係者)の論について書かれており( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html )、そこでは『魏志倭人伝』に書かれた「投馬国」の位置に関して書かれていました。しかしその内容にやや異議があったことから以下のようなコメントをさせていただきました。

『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を示した山田様はこれをどう捉えているのでしょうか。なぜ「全陸行」ではないのかが明確でなければ「水行」とあるから「九州島の内部ではない」とは即断できないと思います。

私見を示すと、「半島」の移動は「本来は全水行」としたかったものの、危険な水域があったため「陸行」せざるを得なかったと見ています。

当時「沿岸航法」を採用する限り、遠距離移動は「水行」が最も適した移動手段であったと思われます。「陸行」するには「道」が必要であり、当時「半島」も「倭」も遠距離移動のための「道」が整備されていたとは思われないからです。

「陸行」の場合野生動物(狼、虎、野犬など)の危険もあり、さらに夜盗などに出会うことも想定する必要があります。悪天候にあっても避難場所があるかどうかさえ判りません。今のように方向指示があるわけでもなく、「陸行」がそれほど安定的な移動手段であったかは疑問です。

『倭人伝』の中には「行くに前を見ず」という表現もあり、「道路整備」がそれほど進んでいなかったらしいことが窺え、「陸行」には障害が多かったのではないでしょうか。ただ半島の場合「西南部」には島が多いことと陸地が複雑な出入りをしており、「沿岸航法」では座礁の危険性があると認識していたものではないでしょうか。そのため「陸行」に切り替えたものと考えています。いわば「やむを得ず」という形ではなかったでしょうか。

このことから「投馬国」の位置についての議論においても、「全水行」だから行き先が「島」であるとは断定できないとみています。たとえ「陸行」で行ける場所であっても「水行」の方が「安全」と判断されたからともいえる余地があるからです。』

 これに対して山田様から示された当方のコメントに対する山田氏のコメント「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html#comment-142360602 」及びその後掲載された論「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/2019-4841.html 」)を見て、違和感を感じました。私の論とかなり噛み合っていなかったからです。もちろん「ミスリード」してしまったのは私の方であり、何か誤解のある書き方をしたのかもしれないなと思っています。

 当方のコメントの趣旨は「郡治から狗邪韓国までが全陸行ではない」という基本認識から始まっています。文章から見て当初は「水行」しているのは明らかですから「郡治から当初水行」した後「陸行」に移っていることとなりますが、この最初の「水行」の持つ意味は何かというところに着眼したものです。なぜ最初から「陸行」ではないのかというところから「陸行で行けるところであれば陸行したはず」という石田氏の提示した主題と矛盾している実態があることについての言及がないことを指摘したものです。

 ということでの当方の論は「投馬国」の位置の問題というより、それを「島」と決めた石田氏の論についてのものであったわけです。しかし山田様の議論を見ていて「私見」がより深まったことは確かであり(それは山田様の論理進行とは異なりますが)、良い機会を与えていただいたことに感謝いたします。〔ここまでが私の「ミスリード」が原因による「噛み合っていなかった」ことです。位置が間違ってましたので直しました。山田〕

 以前から当方は「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定していました。これに加え今回の議論の中でその「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性が更に明らかとなったと見ています。

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 」

 ここでは「伊都国」について「郡使往來常所駐」という書き方がされており、このことは「伊都国」がいわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのがその直後に書かれた以下の記事です。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 これらの記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)

 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきと考えます。

 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しています。またそれはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。

 また「私見」では、というより大方の意見もそうでしょうが、この行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみています。そうであるなら石田氏が提唱し山田様が賛意を表明したように、「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」には「郡治」から誰が案内したのかと考えてしまいます。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。

 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことを考えると、「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えられないこととなります。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「対馬国」でありまた「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」からのものではないと考えざるを得ません。

 また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その中に「投馬国」もあったという可能性が高いことを考えると、その「投馬国」も「一大率」の検察下にあったこととなりますから「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「投馬国」など「諸国」との間にあったとは思われないこととなります。それは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同一ですから、「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「一大率」の検察対象である「諸国」の中に入っていると理解すべきでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。

 ただし石田氏及び山田氏が特に問題とされた「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬については現時点で「名案」というほどのものはありません。ただ、上で推察したように「一大率」の「検査対象」の「諸国」の中に「投馬国」があると考えると、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ、この「諸国」の中にも「投馬国」は入っているはずですが、「投馬国」以外は全て「邪馬壹国」の「北」にあることは確かと思われますから「諸国」という概念で括ってしまうと「投馬国」が「伊都国」から見て「南」にあった場合でも、いわば「十把一絡げ」にされてしまったという可能性があり、本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略したのではないかと見ています。

 いずれにしましても考察を深める機会を与えて頂いたこと山田様及び石田氏に感謝する次第です。

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