2018年9月24日 (月)

今夜は「仲秋の名月」

今夜は「仲秋の名月」

EXCEL版「HY式月齢計算」の再配布[]

 

 今日は、2018年9月24日です。EXCEL版「HY式月齢計算」に入力すると次の様でした。
Photo

 朔望月29.53日の1/2は14.765…≒14.8日ですから、この月齢14.8
〔「月齢」は小数点1位で表すのが慣例です〕の瞬間が「満月」になります。

 「HY式月齢計算」によれば〔以下、この前提での話です〕UT(世界時=グリニジ地方時)で翌日250時(真夜中)の月齢が14.6ですから、UTで満月の時刻は次式で求められます。

14.765日-14.6)×24時間(一日)=3.96≒4時間

つまり、UTで翌日25日午前4時ごろが満月になります

JST(日本標準時=明石地方時)は、UTより9時間進んでいますから翌日25日午後1時(=4+9=13時)に満月ということです。しかし、真昼には月は見えませんので、今夜が「仲秋の名月」です。

JSTの真夜中の月齢14.214.60.37514.22514.2)と翌日の真夜中の月齢15.215.60.37515.22515.2)では、次のように26日の夜の方が14.8に近い(月と太陽の黄経差が180度に近い)のですが、“農暦”(「時憲暦」)では今日(9月24日)が旧暦8月15なので、今夜が「仲秋節」(すなわち「仲秋の名月」)なのです。

14.814.20.6

14.815.2=-0.4

 

 正確に言えば、旧暦の15日は月齢14.0を含む日なので、満月が後になることが多いのです。後になったとしても真昼であれば見ることができませんから、“(名月という意味での)満月”は前日とする方が合理的なのかも知れません。

 

国立天文台暦Wiki 名月必ずしも満月ならず

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C3E6BDA9A4CECCBEB7EEA4C8A4CF2FCCBEB7EEC9ACA4BAA4B7A4E2CBFEB7EEA4CAA4E9A4BA.html

 

 再度EXCEL版「HY式月齢計算」をアップロードします。興味があればダウンロードしてください。

EXCEL版「HY式月齢計算」
「20180924.xlsx」をダウンロード
【注意】このソフトは、いかなる対価も受けず無償にて善意により配布しているものです。再販は認めません。このソフトを使ったことによって起きたいかなる損害も、私は一切その責任は負いません。このようなご懸念がある場合は決してご使用にならないでください。

 「HY式月齢計算」は、JDを用いて古代史で用いられた暦の検証用として作成した(JD0.0を上元としている)ため、現在に適用すると(誤差の累積で)1~2時間程度(月齢では0.1に満たない程度)の誤差が生じるかも知れません。

「中村幸雄論集」を読む1

「中村幸雄論集」を読む1

誤読されていた日本書紀[古田史学]

 

 古田史学で今も輝き続けているのが中村幸雄氏の論文です。ご存知の方も多いと思いますが、もっと注目されてよい論文としてリンクしました。

 

中村幸雄氏の論文

誤読されていた日本書紀─天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察─

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamura.html

 

 James Macさんの論考(私が紹介してきた「『古事記』序文の主人公」シリーズ)は、この中村幸雄氏の論文のテーマを発展的に深めたものであると理解しています。私は、倭国政権交代史においては、天武天皇より天智天皇(「天命開別天皇」)の方がより注目されるべき存在だと思っています。その理由は、701年からはじまる「日本国」は天智天皇を王朝の開祖としていると考えるからです。それを中村幸雄氏が「誤読されていた日本書紀」で明らかにした、と考えています。

 

【古賀達也さまのコメント】2018/09/25追加転載)

…………………………………………………………………………………………………………

山田様

中村幸雄さんの論文をご紹介いただき、ありがとうございます。

中村さんは私にとって生涯忘れ得ぬお一人です。

古田史学会報に掲載した拙稿の一部をここに転載させてください。

古賀達也


古田史学会報 2000年6月12日 No.38 「学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟」

  いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。

(注)2、故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱・・・『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。

投稿: 古賀達也 | 2018924 () 2007

…………………………………………………………………………………………………………

2018年9月23日 (日)

会津若松 「戊辰戦争」式典行われる

「戊辰戦争」式典行われる

明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト[現代]

 

毎日新聞 デジタル毎日の記事

会津若松 戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ

毎日新聞2018923 0855(最終更新 923 0855)

https://mainichi.jp/articles/20180923/k00/00e/040/141000c


Photo_2
必読参考図書
原田伊織著『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕』(講談社、講談社文庫(は)1122017年6月15日第1刷、ISBN 978-4-06-293683-5

『古事記』序文の主人公は誰か(続)

『古事記』序文の主人公は誰か(続)

James Macさんの『古事記』考(続)[図書や論考等の紹介]

 

 先のブログ記事

『古事記』序文の主人公は誰かJamesMacさんの『古事記』考―[図書や論考の紹介]

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/09/post-d489.html

James Macさんの『古事記』考をご紹介いたしましたが、その続き記事が古田史学とMeに掲載されていましたので、ご紹介いたします。

【ブログ表題にリンクを貼るようにしました(アドレスも貼ってありますが)】

 

『古事記』の成立事情と「隠蔽」について 20180915 | 古代史

(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2016/08/21)(旧ホームページ記事の転載)

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/d6a8d7abeb06c167775c3236c67fcab2

 

『古事記』偽書説について 20180915 | 古代史

(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2012/05/26)(旧ホームページ記事の転載)

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/36707ce62e8741759768f12ee1862528

 

「天智」という人物について 20180921 | 古代史

(この項の作成日 2012/05/25、最終更新 2015/03/13)旧ホームページ記事の転載

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/cffc55c379f5de8209f5f353f1360371

 

福原長者原官衙遺跡の尺度について

福原長者原官衙遺跡の尺度について

正始弩尺の1.2倍29.16㎝が出現[古代史]

 

肥さんの要望により、次のブログ記事にある遺跡の尺度をさぐってみました。確たる結論は得られませんでしたが、大溝心々間距離145.80mが魏尺(正始弩尺)の1.2倍の29.16(前期難波宮でも29.2㎝前後が使用されている)の500尺に相当することがわかりました。

 

肥さんの夢ブログ

★★★ 福原長者原遺跡 ★★★ 20189 6 () 古田史学

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-4ca2.html

 上記ブログで紹介されている福原長者原官衙遺跡の国史跡指定記念講演会資料には、「7世紀中ごろから8世紀にかけては、1尺が0.292m~0.302mに復元される。」(―4―)とありますが、この寸法の「ものさし」の現物は一点も出土していない、と思われます。唐尺(“天平尺”)は29.63㎝、正倉院撥鏤尺は29.7㎝、曲尺は30.30㎝です。

Photo
「図3 福原長者原官衙遺跡 平面図」より一部切り抜き

遺跡指定面積24,293.47㎡

第Ⅰ期政庁

区画溝SD050 幅4.5m、

東西127.8m

南北135m+α

 

第Ⅱ期政庁

区画溝:一辺150m四方、東には11.8mの空閑地、西には11.7mの空閑地、南には11.8mの空閑地と4.5mの大溝、東西大溝内々距離141.3m

回廊状遺構(掘立柱)SA030:一辺117.8m四方、南門心と南西隅の距離58.9m

東西棟建物(北寄り・ほぼ中軸線上)SB010 南庇、東西7間、南北3間

八脚門の南門(回廊南辺)SB001 東西3間、南北2間、桁行8.52m、梁行4.92m

四脚門の東門(回廊東辺)

 

【検討結果】

             晉後尺 24.50㎝  最近尺度名  1尺長さ 幾尺

大溝幅       4.50m    18.37   該当尺度無し

南門梁行      4.92m    20.08      唐小尺 24.692㎝  19.93

南門桁行      8.52m    34.78   1.2×正始弩尺 29.16㎝  29.22

西空閑地      11.70m    47.76   1.2×正始弩尺 29.16㎝  40.12

東空閑地      11.80m    48.16       梁尺 29.50㎝  40.00

南門心南西隅    58.90m    240.41       梁尺 29.50㎝  199.66

回廊状遺構一辺  117.80m    480.82    1.25×奈良尺 36.85㎝  319.67

大溝東西内々距離 141.30m    576.73      奈良尺 29.485㎝ 479.23

大溝東西外々距離 150.30m    613.47      奈良尺 29.485㎝ 509.75

大溝心間距離   145.80m    595.10   1.2×正始弩尺 29.16㎝  500.00

 

2018年9月22日 (土)

久米官衙遺跡の尺度(その2)

久米官衙遺跡の尺度(その2)

前期難波宮の尺度との関係が?[妄想]

 

先のブログ記事

久米官衙遺跡の“南朝尺”―隋・唐小尺(隋「開皇官尺」の1/1.2≒24.692㎝)

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/09/post-175d.html

で隋・唐小尺(隋「開皇官尺」の1/1.2≒24.692㎝)としましたが、総長において、

縦(南北)が140-138.2752m(560尺)=1.7248m、

横(東西)が125-123.46m(500尺)=1.54m

も差があります。

 では、この差をなくすような尺度があるのかといえば、現物(ものさし)はないのですが、次の図書のP.36に図21・内裏前殿の礎石の配置図が載っており、P34の本文に下記のような記載がありました。

『東アジアに開かれた古代王宮 難波宮』(積山洋著、新泉社、シリーズ「遺跡を学ぶ」0952014年8月15日)

…………………………………………………………………………………………………………

中国風の宮室プラン

前期難波宮の従来の王宮にない特質の第一は唐の宮室の設計思想をとりいれたことである。中心部の内裏・朝堂院、またその南の東西朝集堂、宮城南門にいたる配置は、ひと目でわかるように南北の中軸線を基準とする左右対称である。朝堂院は日本独自のものだが、内裏から南にのびる軸線上に王宮を統合する設計は、魏晋南北朝(三~六世紀)以来、中国の伝統であり、難波宮はこれをとりいれたのである。建築に際しての寸法も、一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている。

…………………………………………………………………………………………………………
この一尺=二九・二センチ前後が「唐大尺」と呼ぶべきものであるかどうかは問題なのですが、取り敢えずそれは置いておくことにしましょう。

 私は、この一尺=二九・二センチ前後を「正始弩尺」(24.300㎝)の1.2倍29.16㎝と考えたのですが、この29.16㎝を使っているのではないか、と考えてみました。

 

125m÷29.16㎝=428.66941015

140m÷29.16㎝=480.109739368…

 

もし、29.2㎝(図書の一尺=二九・二センチ前後)を使えば

125m÷29.2㎝=428.08219178

140m÷29.2㎝=479.452054794…

 

どちらにしても東西が428尺、南北が480尺と推定されます。

29.16㎝と29.2㎝のどちらの誤差が大きいか比べてみます。

東西

29.16㎝×428=124.8048m、125-124.8048=0.1952

29.2㎝×428=124.976m、125-124.976=0.024

南北

29.16㎝×480=139.968m、140-139.968=0.032

29.2㎝×480=140.16m、140-140.16=―0.16

少しばかりですが、29.2㎝の方が誤差が少ないようですので29.2㎝という尺度を採用してみれば、回廊状遺構の東西長と南北長は次のように復元できます。

東西(横)29.2㎝×428=124.976m

南北(縦)29.2㎝×480=140.16m

 

実物のものさしは発見されていませんが、前掲図書で前期難波宮の使用尺度とされた29.2cmであると、極めて誤差の少ない完数428と480が得られるようです。なお、正始弩尺の1.2倍としても極めて誤差の少ない完数428と480が得られます。

久米官衙遺跡の“南朝尺”

久米官衙遺跡の“南朝尺”

隋・唐小尺(隋「開皇官尺」の1/1.224.692㎝)

 

肥さんの夢ブログ

久米官衙遺跡よ、お前も「南朝尺」か? 2018年9月22日 古田史学

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-e90b.html
が掲載されている。

久米官衙遺跡で「回廊状遺構の長さが、東西125m、南北140mという情報を得た」として、「とりあえず、2.45m(南朝尺の1尺)で割ってみる。

125÷2.45=50.1

140÷2.45=60.1

おーーっ。ごく整数に近いではないか(しかも、「両方とも十の位だ)!」とあります。

 ここで「2.45m(南朝尺の1尺)」とあるのは「2.45m(“南朝尺”1丈10尺〕)」の書き誤りです(しかもこの“南朝尺”は「晉後尺」=24.5㎝)。しかし、どういう計算でこうなるのか。

125÷2.45=51.0204081632…

140÷2.45=57.1428571428…

 これは単なる計算間違いなのだろうと思う。

 

 では、この125mと140mがどんな尺度であるのかをどのように調べたらよいのだろうか。一つの方法論を提示する。

 

(一) 回廊状遺構の長さはある尺度(1尺=X㎝)による、と仮定する。

(二) 縦横比に法則性があると仮定する。

(三) 礎石・柱穴或いはその抜き取り痕の中心を測るに際して誤差があったと仮定する。

(四) 回廊状遺構の内柱か外柱か不明だが、側柱間距離であると仮定する。

(五) 回廊状遺構の柱間距離は(縦・横ともに)「等距離」だったと仮定する。

(六) 柱間距離がある尺度(1尺=X㎝)で設計されていると仮定する。

 

 以上の仮定を置いて推定するものとする。

回廊状遺構の創建時における柱の中心と発掘調査において推定した柱の中心との乖離誤差をα㎝と仮定する。

 そう仮定すると、創建時の回廊状遺構の長さは次のようになる。

125m-2α㎝<=A×X㎝<=125m+2α㎝

140m-2α㎝<=B×X㎝<=140m+2α㎝

 

 いま、調査推定値で縦横比を取ってみる。

140÷125=1.12

125÷140=0.89285714285…+0.01≒0.9

1.12に±0.01しても(1.11と1.13)完数が得られず、0.9の方が(二)を満たしている。よって、縦横比は縦1に対して横はその9割と考えることにする。

A0.9×B、よって上記不等式は次のようになる。

 

125m-2α㎝<=A×X㎝<=125m+2α㎝

140m-2α㎝<=(A/0.9)×X㎝<=140m+2α㎝

 

下式から上式を引く。

(140m-125m)<=A×(1/0.9-1/1)×X㎝<=(140m-125m)

(140m-125m)=A×0.1×X

15=0.1×A×X㎝、150=A×X

 

125(=5×5×5)と140(=5×2×2×7)の最大公約数は5。

柱間が等間隔(五)とすれば、この15mは使用尺度のA倍であるはずである。

15m÷5m=3、よって縦横の差は3間(とは限らないが一応3間としておく)。

 

5m、これを既知の尺度で割ってみたところ、次のものが候補として挙がった。

隋・唐小尺(隋「開皇官尺」29.63㎝÷1.224.692㎝)

5m÷24.692㎝=20.0304462783…≒20.0、よってX24.692㎝とする。

20×24.692㎝=4.9384m

よって、125mは、4.9384m×5×5=123.46m(500尺)

140mは、4.9384m×2×2×7=138.2752m(560尺)

すなわち、回廊状遺構の長さは、以上のように復元される、としよう。

 

肥さんは“南朝尺”(「晉後尺」=24.5㎝)としたが、私の推測では「隋・唐小尺」(隋「開皇官尺」29.63㎝÷1.224.692㎝)であった。

 

「隋・唐小尺」(隋「開皇官尺」29.63㎝÷1.224.692㎝)は、隋・唐が江南を支配した時、江南で使用されていた尺度であると考えられ、つまりこれも“南朝尺”といえるのである。

 “南朝尺”を「晉後尺(24.5㎝)」と決めつけるのは誤りのもとである。「晉後尺(24.5㎝)」だけが“南朝尺”だという誤解は改める必要があるだろう。

2018年9月16日 (日)

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場

服部静尚さんの論証(指摘)[著書や論考等の紹介]

〔【訂正のお知らせ】

「天武が飛鳥浄御原宮で即位した」と言う記事は『日本書紀』にはありません。と書いたのは見落としによる誤りでしたので訂正いたします。『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」は天武二年二月条にもありますので、四ヶ所です。よって番号も訂正しました。〕

 

 古賀達也さんのブログ古賀達也の洛中洛外日記に、飛鳥浄御原宮について、服部静尚さんの「眼から鱗」の新説が紹介されていました。次は私の要約です。

 

当時、発布した「浄御原令」を運用する政務に必要な数千人規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府しかない。

 

この服部さんの指摘は、とても重いと思います。どんな説を唱えようと学問は自由ですが、文献であれ考古学的事実であれ、この服部さんの指摘をクリアできなければ、ただの「たわごと」にすぎません。

 服部さんだけが、この当然ともいえる事実を見いだせたのは、律令制に必要な官僚の人員の研究によるものだと感じました。

 では、我々が(服部さんを除いて)誰も気づかなかったのは何故なのでしょうか。私は「気づかなかった」のではなく「騙されていた」と気づきました。どのように騙されていたのか。朱鳥元年(686)七月条の記事「戊午(20)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」この文章によって騙されていたのです。原文は次の通りです。

 

《朱鳥元年(六八六)七月》戊午20日〕、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥浄御原宮

 

騙しの手口はこうです。

「朱鳥、此を阿訶美苔利という。」これは割注(訓を示す訓注)にすぎませんから、本文だけなら「改元曰朱鳥元年。名宮曰飛鳥浄御原宮。」となります。この「仍」を解すれば「朱鳥」だから「飛鳥」と宮の名に冠したのだということでしょう。すなわち、朱鳥元年以前は「浄御原宮」というのが宮の名だったのです。「鳥」という漢字を使って騙したのです(九州から近畿へ宮を移動させた)。元から地名を冠していた宮名だったなら、改元曰朱鳥元年。仍名宮曰飛鳥浄御原宮。」という記事自体が不審なものです。つまり、もともと宮名は「浄御原宮」で「浄御原」は地名だった、と考えるのが自然です。

 また、「天武が飛鳥浄御原宮で即位した」と言う記事は『日本書紀』にはありません。〔誤りにより削除〕『日本書紀』に「飛鳥浄御原宮」が登場するのは次の→四〕ヶ所のみです。朱鳥元年の記事は→四〕番目(最後)に登場します。❹が騙しの手口だったということからは、❶も❷も❸も後から直されたもの、と考えられます。私は「騙されていた」と書きましたが、もしかすると「後勘校者、知之也。」という史官の作為だったのかも知れません。

 

❶《天智天皇七年(六六八)二月》

 二月丙辰朔戊寅23日〕、立古人大兄皇子女倭姫王、爲皇后。遂納四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女、曰遠智娘。〈或本云、美濃津子娘。〉生一男二女。其一曰大田皇女。其二曰鸕野皇女。及有天下、居于飛鳥浄御原宮。後移宮于藤原。其三曰建皇子。唖不能語。〈或本云、遠智娘生一男二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘。生大田皇女與娑羅々皇女。〉次有遠智娘弟、曰姪娘。生御名部皇女與阿陪皇女。阿陪皇女、及有天下、居于藤原宮。後移都于乃樂。〈或本云、名姪娘曰櫻井娘。〉次有阿倍倉梯麻呂大臣女、曰橘娘。生飛鳥皇女與新田部皇女。次有蘇我赤兄大臣女、曰常陸娘。生山邊皇女。又有宮人生男女者四人。有忍海造小龍女、曰色夫古娘。生一男二女。其一曰大江皇女。其二曰川嶋皇子。其三曰泉皇女。又有栗隈首德萬女、曰黒媛娘。生水主皇女。又有越道君伊羅都賣、生施基皇子。又有伊賀釆女宅子娘、生伊賀皇子。後宇曰大友皇子。

 

❷《天武天皇元年(六七二)九月

是歳、営宮室於岡本宮南。即冬、遷以居焉。是謂飛鳥浄御原宮

〔「是歳」条そのものが年次移動を疑われる記事が多いのに、さらに次の記事「冬十一月戊子朔辛亥」との間に「是歳」条が割り込んでいるのは不審です。〕

 

《天武天皇二年(六七三)二月》二月丁巳朔癸未27日〕、天皇命有司設壇場、即帝位於飛鳥浄御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃。生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女、生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女、生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘、生一男二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘、生二男二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。

 

《朱鳥元年(六八六)七月》

戊午20日〕、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥浄御原宮

 

 さらに、久冨直子さんの「太宰府の観世音寺の山号は「清水山」で、これも「浄御原」と関係してるのではないか」という指摘も絶対見逃せません。

 私は「山号の機能」(主旨ではありません)を「多くの同名の寺があるとき、その識別に役立つ」と考えました。観(世)音寺という寺が多く存在していたとき、国名などより識別能力があります。例えば、信濃国に「観音寺」が二ヶ所にあったら、国名の上にさらに「郡名」を指定しないと識別できません。同じ寺名に同じ山号はつけませんから、山号の方が識別能力が高い、と考えました。

 我が家の菩提寺は「磯村山釈迦寺」といいます。「磯村」と呼ばれる地域にあります(町名番地ではなく「古来からの地域の呼び名」です。「大浦」とか「新浜」などもそれです)。

 □□山○○寺、○○には多くは仏や菩薩の名が入ります(観世音寺、釋迦寺、弥勒寺など)。□□には古来からある地域名が採用されることが多いでしょう(清水山、磯村山など)。太宰府にある寺が「清水山観世音寺」なら「清水」という古来からある地域名があるのではないか。それは「町名」には残らず、大字とか小字に残っているのではないか。そして九州に多い「原(ばる・ばら)」がついているのではないか(「清水原」)。

 

 妄想の域に踏み込めば「清原」「御井」などから「清御井原」「清御原」「浄御原」などの別表記の登場する余地があるのではないだろうか。

 いずれにせよ、服部さんの指摘はとても重要なものだと考えます。

 

古賀さんのブログ記事(第1748話、第1749話)を転載させていただきます。

…………………………………………………………………………………………………………

1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。

 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました

「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。

②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。

③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。

 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。

 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。

 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)

…………………………………………………………………………………………………………

1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。

 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。

 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就()さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条

 「庚戌(29)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条

 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条

「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。

 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。

 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)

…………………………………………………………………………………………………………

2018年9月15日 (土)

妄想『出雲王朝』と稲作

妄想『出雲王朝』と稲作

「天神」が何故皇室の祖先なのか[妄想]

 

 「天神」をWikipediaは「天界にいる神として、地祇と並び称される。雷・雨・水と結びつけられ荒ぶる神として恐れられる一方、農耕の神として信仰された。」と説明しています。

 妄想なのでWikipediaの記述が正しいかどうかは論じません。また、後世の、菅原道真の祟りを恐れて天神として祀る「天神」(「北野天満宮」などの祭神、北野の天神さん)は対象にしません。

 

 この「天神」と神格化・抽象化された人物は「天王(さま)」なのです。「天王(さま)」とは「神祖熊野大神奇御食野尊(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」つまり「速玉須佐之男命(はやたますさのおのみこと)」です。

 

 日本の「神」というのは、キリスト教などの「一神教の神」ではなく、人間を祀ったものです。どんな人間かといえば、かつて「支配者」だった者です。だから「神祖(かむろぎ)」というのは「支配者を祀った祖神(最初の神)」という意味になります。私はこれを「かつての王朝の祖」と解釈します。須佐之男命がかつて日本列島の最初の王朝の支配者だというのが「神祖(かむろぎ)」の意味だと理解します(事実かどうかではなく、そういう主張であると理解します)。

 

 ではなぜ皇室が「天神」を祖先とするのかといえば、前王朝を完全否定しない「国譲り(禅譲)」であったからです(実際が禅譲であったかどうかには関係なく、「武力討伐」ではない「国譲り」という形を取らざるを得ない「弱さ」があった)。つまり「天照(阿麻弖留)」を祭祀する勢力は「須佐之男命を祖とする王朝」(以下「出雲王朝」といいます)の権威を引き継いで成立したのです。そうでなければ皆から認められない「弱さ」があったのです(他を屈服させることができなかった)。ここに皇室(九州王朝を含めて)が「大神(おおみわ)神社」・「石上(いそのかみ)神宮」・「大和(おおやまと)神社」・「熊野本宮大社」・「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」(上賀茂)などの「大国主」や「大物主」(「天照國照彦天火明奇甕玉饒速日尊」)を祀る神社に参拝し続ける理由(しなければならない理由)があるのです(参拝しないと、譲られたとしている自らの権威を正当化できない。離反が起きる)。

 

 つぎに「奇御食野尊」について解釈してみます。「奇(くし)」とは「めずらしい、すぐれている」という意味です。「野」とは「(郊外の)広い平らな土地」です。「御食(みけ)」とは「食料」のことです。「御食(みけ)」に「御」には「ありがたい」と敬った感じが込められています。「奇御食野」とは「(郊外にある=町中にはない)めずらしい、すぐれているありがたい食料の(採れる)広い平らな土地」という意味です。わたしはこれを「稲(いね)の採れる広く平らな土地」と解釈しました。つまり「稲田」です。

 須佐之男命の妻は稲田姫(櫛稲田比賣・奇稲田比賣)です。「奇御食野尊」と「奇稲田比賣」という夫婦で、見事に「(同義の男女による)対」をなしています。

 ではこの夫婦の子供を見てみましょう。

嫡長子が「清野湯山主三名狹漏彦八島野尊(すがのゆやまぬし みなさるひこ やしまぬ みこと)」(「野」が「篠」とか「手」とかがある)、八島士奴美(『古事記』)。

次子が「五十猛命」

第三子が「大屋津姫」

第四子が「抓津姫」

第五子が「天照國照彦天火明奇甕玉饒速日尊」(大物主・奇玉・櫛玉・(泉津)事解(之)(よもつことさかのお)・大年(おおとし)とも)

第六子が「宇迦御魂(うかのみたま)」(倉稲玉・稲荷とも)

第七子が「磐坂彦」…磐坂神社の祭神

第八子が「須世理姫」(須世理比賣、「大国主」の皇后)…島根県「出雲大社」の摂社「大神大后神社」の祭神。「大国主」は婿入りして「出雲王朝」を継承した。古代ではこのパターンが頻出します。「多紀理毘売」(宗像大社奥津宮)は「大国主」の九州における現地妻です(皇后ではない)。九州勢が「出雲王朝」の臣下№1にのし上がる手段とした、と考えられます。

 

 第六子に「宇迦御魂(うかのみたま)」(倉稲玉稲荷とも)が居ることも、「奇御食野」の解釈が間違っていないことを裏付けています。稲田は「出雲王朝」によって全国に広められたのかもしれません。事実かどうかわかりませんが、それを誇っているように感じます。〔なお、ここには「建御名方富命」が登場しませんが、建御名方富命の出自には諸説があり、定まっていません。〕

 

 最期に残った「熊野大神」ですが、私は「熊」は「高麗(こま)」と同義ではないかと考えています。「百済」の都市(扶余が奪われた後の首都)に「熊津(ゆうしん)」があります。「熊」=「高麗(こま)koria」=朝鮮半島と理解しています。すなわち、「出雲王朝」(開祖:須佐之男命)の出自は朝鮮半島であった、と考えます(少なくとも須佐之男命の祖先は朝鮮半島にいた)。「出雲王朝」は先祖が朝鮮半島からやってきたことを誇っているのです。これで「神祖熊野大神奇御食野尊(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の解釈は済みました。次は、この速玉須佐之男命がなぜ「天王」なのかということですが、このブログ記事が「妄想」であることを念頭において、読んでください。

 

 「天王」の「王」は説明がいらないと思います。古代(よりもっと古い)では「王」というのは「天子」(これは後世の概念です)と同義でした。この世の支配者の意味です。

 解釈すべき問題は「天」の方にあります。これを「天空」の「天」と考えること自体、すでに誤っています(歴史では天空は天文観測にだけが登場する)。歴史では「天」は史書にでてくる「天」と考えねばなりません。史書にでてくる「天」を「天空」の「天」で「コスモロジー」だなどと言っていることがすでに間違っています。

 

 史書に出てくる「天」は「高天原(たかまのはら)」が初出です。「天神」・「天王」の「天」を、この「高天原」の「天」と考えねば「人(支配者)を祀った神」という概念と整合しないでしょう。この「人(支配者)」が居た場所が「高天原(たかあまばる)」です。人が天空に居るわけがありませんから、「高天原」が地球上の何処かであることは確かです。「天岩戸説話」がダイヤモンドリングがみられる「皆既日食」であり、それに該当する皆既日食は、紀元前二〇六年七月六日に朝鮮半島で起きた皆既日食しかないことが明らかになっています(九州古代史の会編『古代史論文集「倭国」とは何か ―「倭国」を徹底して研究する―』(筆者:松中裕二・庄司圭次・兼川 晋、同時代社、20061220日、B6版、ISBN 4-88683-592-9)、松中裕二 氏の論文安本美典『古代天皇在位十年年説』を批判する ――「卑弥呼=天照大神説」の検証」(同書・第一章)参照)。

 これから「高」というのは「朝鮮半島」だと解釈します。

 

 なお、天照大神の日食(天岩戸神話)については、次のブログ記事で松中裕二氏の論文を紹介しています。検証したい方はこのブログ記事をご覧ください。

図書紹介『「倭国」とは何か』― 高天原は何処か

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/02/post-304a.html

 

 では、「天」とは何か。「天(あま)」と読めば「大海人(おおあま)皇子」を想起します(「高天(たかま)=たかあま」であり、「天」を「あま」と読んでいることは確かです)。「天(あま)」とは「海人(あま)」なのではないか。「海人(あま)」は「海上を往来して交易をおこなう人びと」であり、「天」というのは「海を活躍場所とする人々」のことです。「天の」というのは「海人の」という意味になります。

 

 「原(はら)」というのは「高天原(たかまのはら)」という訓注に従えば「はら」ですが、九州では「ばる」と読まれています。また「原(ばら)」とも読まれます(サーフィン大会などが開催される鴨川海水浴場は「前原海岸(まえばらかいがん)」)。「原」は「はら」のほか「ばる」「ばら」とも読まれています。日本語において(原因は中国語に起因する?)「b」と「m」が交換可能なことがよくあります(人馬(jinba)、伝馬(denma))。「むら(mura、村・邑)」という音韻は、「まらmara」「ばらbara」「ばるbaru」と同じなのではないか、と考えました(この「まら」については別途妄想する予定です)。「原」の意味は「(通常では「村」程度の広さの)支配領域(縄張り)」であり、つまり「原(ばる、ばら)」というのは「(通常では村程度の)支配地域」のことです(支配対象外なのが「野原」)。これの少し広い「支配地域(縄張り)」が「州(しま)」(文字通りの「島」くらいの広さ)といわれるのではないか、と考えます。

 

 以上から「高天原」とは「朝鮮半島の、海を活躍場所とする人々の、支配領域(縄張り)」と解釈しました。これから「天王」とは「海を活躍場所とする人々を支配する王」という意味になります。「須佐之男命」の支配領域は(「海原」(『古事記』)・「滄海之原」(『日本書紀』))となっています。

 「須佐之男命」は、名前が「奇御食野尊」とある通り、全国に稲田をひろめたことを誇っています。クーデターによって「出雲王朝」を継承した者は、稲田をひろめた彼の功績を貶めるために、「田の畔を破壊した乱暴者」として描くしかないのです。そうやって自らを正当化し前王朝の信望を低下させようとしたのです。

 

 以上のことを念頭において、再度Wikipediaの「天神」の説明をお読みください(「天界」という解釈は全くの間違いです)。「天神」とは、「天王(さま)」(「神祖熊野大神奇御食野尊・速玉須佐之男命)が神格化された神(かっては支配者だった人間)のことです。

…………………………………………………………………………………………………………

天界にいる神として、地祇と並び称される。雷・雨・水と結びつけられ荒ぶる神として恐れられる一方、農耕の神として信仰された。

…………………………………………………………………………………………………………

 「稲田の神」は当然に「農耕の神」です。「乱暴者」として描かれる「須佐之男命」は当然に「荒ぶる神」です。「海を活躍場所とする人々を支配する王」は当然に「海を支配する」者です。

 

 皇室が物部の神社に参拝し続ける理由は、「出雲王朝」を「国譲り」という形で継承したからである、と考えられます(「(伊勢)神宮」には参拝していません)。そして、その継承の実質相手は「出雲王朝」の「大物主(天照國照彦天火明奇甕玉饒速日尊)」であった、と考えられます(皇室が参拝している神社は、「邇藝速日(大物主)」を祀る「物部」の神社であって、「大国主」を祀る「出雲大社」には参拝していない)。

 

 物部の神社に参拝した“天皇”(この呼称は後のもの)は、饒速日尊大物主)から継承したことが自分の権威の証しである、と認識していたことになるのです。また、それゆえに物部の影響下にある者達(日本列島の広範囲の有力者達)は従っていた、と考えられるのです。

 

 これが「物部」が、「物部守屋」が滅んだ後も、しつこいくらいに歴史に登場する理由なのだろう、と私は考えています。「物部守屋」など「物部」のほんの一部分でしかないのです。「出雲王朝」の影響は「古く、広く、深かった」から「国譲り」という形になったのだ、と考えています。

「古く、広く、深い」影響力があった理由は、「稲田」「稲荷」にあったと考えています。私の妄想によれば、「出雲王朝」が「稲」と最も深く関わる王朝であったからです(正確に言えば「稲」ではなく「『稲田』と呼ばれる新式田圃」)

 それ故に、『古事記』『日本書紀』ともに、「稲田」を誇っている「須佐之男命・素戔嗚尊」を貶めるために、田の畔を破壊した乱暴者として彼を描いている、と考えられます。それほど彼の功績(稲田をひろめた「出雲王朝」)は人々の記憶に残っていた、と考えられるのです。

 この妄想の価値は(妄想にも価値があると仮定しての話ですが)、「出雲王朝」(須佐之男命)が稲田をひろめたことに深く関わっていて、彼らのその功績を貶めるために、須佐之男命を「畔を破壊(あはなち)した乱暴者」として『古事記』『日本書紀』が書いていることを明らかにしたことです。これから逆推すれば、「稲田」という仕組みをひろめたのは「出雲王朝」(という主張を認めれば)の功績であったかもしれないという、新らたな仮説を生むヒントを提供したことかもしれません(手前味噌・自画自賛です)。

 

《参考資料》

【統治するのは海】

『古事記』

此時伊邪那伎命、大歡喜詔、吾者生生子而、於生終得三貴子、即其御頸珠之玉緒母由良邇〈此四字以音。下效此。〉取由良迦志而、賜天照大御神而詔之、汝命者、所知高天原矣、事依而賜也。故、其御頸珠名、謂御倉板擧之神。〈訓板擧云多那。〉次詔月讀命、汝命者、所知夜之食國矣、事依也。〈訓食云袁須。〉次詔建速須佐之男命、汝命者、所知海原矣、事依也。

 

『日本書紀』

《第五段一書第十一》一書曰、伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔鳴尊者、可以御滄海之原也。

 

 

【田の畔を破壊する乱暴者】

『古事記』

爾速須佐之男命、白于天照大御神、我心清明。故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝云而、於勝佐備、〈此二字以音。〉天照大御神之營田之阿〈此阿字以音。〉埋其溝、亦其於聞看大嘗之殿、屎麻理〈此二字以音。〉散。故、雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告、如屎、醉而吐散登許曾〈此三字以音。〉我那勢之命、爲如此。又離田之阿、埋溝者、地矣阿多良斯登許曾〈自阿以下七字以音。〉我那勢之命、爲如此登〈此一字以音。〉詔雖直、猶其惡態不止而轉。

 

『日本書紀』

《第七段本文》是後、素戔鳴尊之爲行也。甚無状。何則天照大神、以天狭田・長田爲御田。時素戔鳴尊、春則重播種子、〈重播種子。此云璽枳磨枳。〉毀其畔〈毀。此云波那豆。〉

2018年9月14日 (金)

祭囃子でスウィングしよう

祭囃子でスウィングしよう

笛の吹き手が演奏の要[芸術]

 

 先のブログ記事

笛で太鼓の演奏が変わる―祭囃子は笛が指揮者―[芸術]

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/09/post-6536.html

で次のように述べました。

…………………………………………………………………………………………………………

確かなことは、この笛吹きが上手だとチャンチキや太鼓の歯切れまでも良くなって「お囃子」自体がとても上手に聞こえるようなのです。

…………………………………………………………………………………………………………

 「鴨川合同祭」の二日目(9月9日)15:00に、ほーこー(山鉾のことを地元ではこういう)3台、やたい(屋台、地車のこと)4台、神輿7基、かつぎやーてー(担ぎ屋台)1基が鴨川駅東口前広場に集合して、祭囃子の競演が行われました。

 どこの演奏が上手か聴き比べることはできません。隣り合って演奏しているので音が重なって聞き分けられないからです。そこで、マーチングのシング・シング・シングのように、ピタッと撥(ばち)が揃っているかを見ました。

 私の見るところ「諏訪講」(諏訪神社の氏子)が一番きれいに揃っていました。

YouTube

撥が揃っている諏訪講の演奏風景(15秒)

https://youtu.be/86fD31CwADE

 

 集合場所から出発すれば単独の演奏を聞くことができます。4:10~9:00までの笛の吹き手が一番上手で、太鼓の叩き手もチャンチキの叩き手もノッテ演奏しています。最後の方は子どもが叩き手に加わり、笛吹に「ゆっくり吹いて」と要求を出しているシーンが見られます(笛が指揮手)。

YouTube

のれる祭囃子(2018鴨川合同祭 諏訪講)(1220秒)

https://youtu.be/gPn76HJ83iE

 

トリビア:諏訪神社(祭神は建御名方命)の山鉾の人形は「神功皇后」とあり、わけを訊いたところ、「江戸時代に神田で使っていたものを、明治時代に購入したから」との答えでした。そういえば、白幡神社の屋台も飛騨高山から買ったという話を聞いたことがありました。氏子が負担するのですから、よほどの(京都で例えれば「任天堂」とか「京セラ」クラスの)パトロンがつかない限り新造することは無理なのです。

«『古事記』序文の主人公は誰か

2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ

最近のトラックバック