2018年12月18日 (火)

『出雲風土記』と「出雲王朝」の暦(その2)

『出雲風土記』と「出雲王朝」の暦(その2)

「古六暦」を調べてみた[]


 「
三統暦」(新・王莽A.D.8~A.D.85(後漢四分暦」採用まで))が「上元積年法」(暦元を遠い過去に置く)を採っていたと書きましたが、これは中国の統一王朝として「はじめて」採用されたという意味で、それ以前の「古六暦」も「上元積年法」を採っていました。

 

【古六暦】(正始月の十二支順に並べてあります)

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❶「黄帝暦」(「周正」:子月仲冬月(旧暦11月)を正始とする)上元辛卯、至今二百七十六萬八百六十三算外。正子朔甲子冬至。

❷「周暦」(「周正」:子月仲冬月(旧暦11月)を正始とする)上元丁巳、至今二百七十六萬一千一百三十算外

❸「魯暦」(「周正」:子月仲冬月(旧暦11月)んを正始とする)上元庚子、至今二百七十六萬一千三百三十四算外

子月(「周正」11(閏10)、8(閏7)、4(閏3)、13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1

❹「殷暦」(「殷正」:丑月季冬月(旧暦12月)を正始とする)上元甲寅、至今二百七十六萬一千八十算外

丑月(「殷正」10(閏9)、7(閏6)、3(閏2)、12(閏11)、9(閏8)、5(閏4)、1正月が閏月

❺「夏暦」(「夏正」:寅月孟春月(旧暦正月)を正始とする)上元乙丑、至今二百七十六萬五百八十九算外

寅月(「夏正」9(閏8)、6(閏7)、2(閏1)、11(閏10)、8(閏7)、4(閏3)、13(閏12

❻「顓頊暦(センギョクレキ)」(亥月孟冬月(旧暦11月)を正始とする)上元乙卯、至今二百七十六萬一千一十九算外。正午朔己巳立春。〔注1〕

亥月    13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1)、12(閏11)、8(閏7)、4(閏3

〔注1〕基準時点が正子(午前0時、「夜半」)ではなく、正午(12時)であることが最近の考古学的発見で判明した(山東省臨沂出土前漢墓第二号墓出土竹簡暦書武帝元光元年BC134)

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「殷正」(寅月丑月正始)の「景初暦」は、章首から起算して3年目閏8月、6年目閏5月、9年目閏1月、11年目閏10月、13年目閏7月、17年目閏3月、19年目閏12月に閏月となります。〔書き間違いを訂正しました。(誤)→(正)丑月

 基本的に「章法」においては(太陽年や朔望月の数値が通常の範囲なら)閏月がどこ(何年目の幾月目)に現れるかは決まってしまいます。それは次の理由です。

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❶「章法」の一年の平均月数(章年平均月数)は「章月235」÷「章歳19」=12.36842105ケ月/年と決まっている。

❷「章法暦」は、「中気間日数」(二十四節気の中気から次の中気までの日数、つまり太陽年を12等分した日数)を「月平均太陽太陰日数差」(「章閏法」(太陽年と太陰年の日数差)を12ヶ月で除した一月当りの日数差)で割った「置閏法(太陽年と太陰年の日数差が1朔望月に達する月数)を用いて、章首から一年後とに一年の平均月数(章年平均月数)の累計をとり、その累計を「置閏法」で除して、その整数部が繰り上がる年に閏月を置き(「閏年」)小数部の日数によってその年の幾月目に閏月を置くかを決めています(詳しくは添付図 閏計算表をご覧ください)。

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 つまり、❶は「章法」である限り同じであり、❷の「置閏法」は太陽年と朔望月によって決まる数値であり、「章法」は太陽年と朔望月がリンク(太陽年=(12+7/19)*朔望月)していますので、多少、暦法により太陽年や朔望月の数値が異なろうと、「章法」の「置閏法」の値はそれほど異ならないのです。通常33.571 428 558 459533.571 428 579 9898位に収まると考えられます。この程度の差では、閏月を何年目の幾月目に置くかが、「章法」の暦であれば変わるはずはありません。実際にそれを検証してみました。次の様でした。

 

太陽年の最大値は「太初暦」の365.2501624日、最小値は「元嘉暦」の365.2467105日です。朔望月の最大値は「太初暦」の29.5308642日、最小値は「乾象暦」の29.5305422日です。「章法」ですから太陽年と朔望月はリンクしていますので、「後漢四分暦」とこの三暦について、太陽年と太陰年の日数差を調べてみると次のようになります。

《太陽年と太陰年の日数差》

後漢四分暦

太陽年=「周天1,461/「日法4」=1,461/4、太陰年=朔望月(「蔀日27,759/「蔀月940」)*「歳中12」=(27,75912/940

太陽年太陰年日数差=1,461/4-(27,75912/940=(1,461940427,75912/4940)=40,908/3,76010.87978723

太初暦

太陽年=562,120/1,539、太陰年=(2,392/81*「歳中12

太陽年太陰年日数差=562,120/1,539122,392/81=(562,12081122,3921,539/1,53981)=1,356,264/124,65910.87979207

乾象暦

 

太陽年=「周天215,130/「紀法589」=215,130/589、太陰年=「通法43,026/「日法1,457*「歳中12」=1243,026/1,457

太陽年太陰年日数差=215,130/5891243,026/1,457=(215,1301,4571243,026589/5891,457)=9,336,642/858,17310.87967345

元嘉暦

 

太陽年=「周天111,035/「度法304」=111,035/304、太陰年=「通数22,207/「日法752*「歳中12」=1222,207/752

太陽年太陰年日数差=111,035/3041222,207/752=(111,0357521222,207304/304752)=2,487,184/228,60810.87968925

 

 太陽年太陰年日数差をまとめると次のとおり。

「後漢四分暦」=10.879 787 23

「太初暦」  =10.879 792 07日(最大値)

「乾象暦」  =10.879 673 45日(最小値)

「元嘉暦」  =10.879 689 25

 

「置閏法」は中気間日数を月平均陰陽日数差で除したものです。これを最大値の「太初暦」と最小値の「乾象暦」について求めてみます。

《「置閏法」の値》

太初暦」(最大値)

月平均陰陽日数差=10.87979207/120.906 649 339

中気間日数=2*(太陽年(562,120/1,539/24節気=2*(562,120/1,539/24=(562,120/1,539/12562,120/(1,53912)30.43751354

置閏法=中気間日数/月平均陰陽日数差=(562,120/(1,53912)/10.87979207/12)=(562,120/(1,53912))*(12/10.87979207)=(562,12012/1,53912*10.87979207)=6,745,440/221,61633.571 428 579 9898

乾象暦」(最小値)

月平均陰陽日数差=10.87967345/120.906639454

中気間日数=2*(太陽年(215,130/589/24節気=(215,130/589/1230.43718166

置閏法=中気間日数/月平均陰陽日数差=((215,130/589/12/10.87967345/12)=(215,130/58912))*(12/10.87967345)=(215,13012/((58912)*10.87967345)=33.571 428 558 4595

どちらも34ヶ月目に閏月を入れるということでは変わりはありません。

この置閏法の数値で章首からの章年平均月数の累計値を割り、その整数値が増加する時に閏月を入れるので、それをこの二暦について計算してみました。

太初暦閏計算表
Photo

乾象暦閏計算表
Photo_2

このように最大値の「太初暦」でも最小値の「乾象暦」でも、「置閏法」による閏月は次のように「太初暦」も「乾象暦」も一致しています。これは「置閏法」を使う「章法」はあらかたこのようになる、といっていいと思います。

三年閏八月()、六年閏五月()、九年閏一月(2)、十一年閏十月(11)、十四年閏七月(8)、十七年閏三月()、十九年閏十二月(13

 

9→6→2→11→8→4→13

古記の古暦は次の通りでした。

三年閏九月(10)、六年閏六月(7)、九年閏三月()、十一年閏十一月(12)、十四年閏八月()、十七年閏五月()、十九年閏十二月(13

10→7→4→12→9→6→13

まず、一致しているのは閏月を置く年です。

三年目、六年目、九年目、十一年目、十四年目、十七年目、十九年目。

このくらいはわかっていた時代の暦なのでしょう。「章法」が発見された時代には当然これくらいのことはわかっていたはずです。

次に閏月が一致しているのは十九年目閏十二月だけです。

 

 ところが、すこし気になる点があります。それは、古記の古暦の閏月を一月早めてみると次のようになります。

【古記の古暦の閏月を1月早めた暦】

三年閏八月(9)六年閏五月(6)、九年閏二月(3)、十一年閏十月(11十四年閏七月(8)、十七年閏四月(5)、十九年閏十一月(12)。

【置閏法章法暦】

三年閏八月(9)六年閏五月(6)、九年閏一月(2)、十一年閏十月(11十四年閏七月(8)、十七年閏三月(4)、十九年閏十二月(13)。

 

「古記古暦」9→6→3→11→8→5→12

「置閏法暦」9→6→2→11→8→4→13

 連続している2回が二ヶ所(三年・六年と十一年・十四年)で一致しています。

 

「殷正」暦との似ているように思われます(殷正暦だという判断ではありません)。

「置潤法」には至らないが「置閏法」(「章法」は法則的に中気の無い月が7回現れる)のような法則性に気付いてはいないが気付き始めている段階のような感じもします。

 

 では、これを増田論文に記されている次(山田の引いた下線部分)のように決めつけられるでしょうか。

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「古記」の暦数についての注釈は、内山守常が指摘するように、『春秋正義』文公元年条と『尚書正義』尭典の文章の一部を抜粋して合成・修飾したものである(4) そして、『春秋正義』は、「古記」のいう暦数を、古暦と称している。この古暦は、後漢四分暦と同じ四分暦法に基づく暦である。元嘉暦・儀鳳暦は四分暦法によっていない。

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 『尚書正義』は単に「章法」において閏月を置かないと不都合が起きる、と言っているだけで、たぶん私が説明しても同じように言うと思います。「古典」に記されていることをもって「合成」したと断じるのはいかがなものでしょうか。また、『春秋正義』文公元年条と古記に記された古暦とは、同じではないようです。

【『古記』の「古暦」】

三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月。

【『春秋正義』文公元年条の古暦】

三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏四月、十九年閏十二月

【「置閏法」による閏月】

三年閏八月、六年閏五月、九年閏一月、十一年閏十月)、十四年閏七月、十七年閏三月、十九年閏十二月。

 このように暦法では「「十七年閏四月」の方が正しく」などといえる根拠など一つもないのです(どのような暦法もありうる)。「暦法上は『春秋正義』の「十七年閏四月」の方が正しく、「古記」の方は誤写であろう」と決めつけるのは、実証主義者が陥る根拠なき“原文改訂”です。

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 『十三経注疏附校勘記』(清・阮元校勘)に収録された「春秋左伝注疏・巻第十八」・「伝」文公元年条の「疏」には、次のような注釈がある。

 

 正義曰、古今暦法、推閏月之術、皆以閏余、減章歳余、以歳中乗之、章閏而一、所得為積月、命起天正算外、閏所在也、其有進退、以中気定之、無中気則閏月也。古暦、十九年為一章、章有七閏、入章三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏四月、十九年閏十二月、・・・大率三十二月則置閏・・・。

 「古記」が、陰陽頭の職掌の一つである暦数の注釈に、右の『春秋正義』の文章から引用していることは明白である。なお、「古記」は、「十七年閏五月」とするが、暦法上は『春秋正義』の「十七年閏四月」の方が正しく、「古記」の方は誤写であろう

 また、『十三経注疏附校勘記』・「尚書注疏巻第二・堯典第一」・「経」の「乃命羲和」・「伝」の「咨嗟」条の「疏」の終わりの方には、次のような注釈がある。

 

 正義曰、・・・所以無閏時不定歳不成者、若以閏無三年、差一月、則以正月為二月、毎月皆差、九年差三月、即以春為夏、若十七年差六月、即四時相反、時何由定歳、何得成乎、故須置閏、以定四時。

 

 「古記」の閏月を置かない場合の不都合を説明した部分は、右の『尚書正義』から採って修飾したものであろう

 「古記」は、これに続けて、 (1)「春秋正義に曰く、古今の暦を言うものは大率(おおむね)皆周天を以て、三百六十五度四分度の一と為す。・・・故に一歳を十有二月と為す。日月は動くものにして、行度に大量有りと雖も、少しく盈縮有らざること能はず」、 (2)「また曰く、期は三百有六旬〔有六日〕、謂えらく、冬至より冬至に至る、必らずこの数を満す。・・・暦法に於ては〔一日を〕分けるに九百四十分となし、月行日に及ぶは必ず四百九十九分なり。これ半ばを二十九分過ぐ。今一歳周は、三百六十五日四分日の一あり。・・・。一巻正義文」という。

 右の文章のうち、 (1)の部分は、『十三経注疏附校勘記』「春秋左伝注疏巻第三」・「経」隠公三年条の「疏」の中にみえ、 (2)の部分は同書「春秋左伝注疏巻・第十八」・「伝」文公元年条の「疏」にある。これらは、四分暦法を解説したものであって、「古記」のいう暦数が四分暦法であることを証明している。

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水野良樹さん(いきものがかり)の錯覚

水野良樹さん(いきものがかり)の錯覚

芸術作品は一方通行[芸術]

 

肥さんの夢ブログ

「いきものがかり」の歌詞にはなぜ「主語」が少ないのか20181218 () が紹介されていた。この水野良樹さんの「音楽論」に批評を加えさせて頂きました。

 

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水野良樹さん(いきものがかり)の錯覚

鴨川市 山田春廣

 

 水野良樹さんは、所得税の申告書の職業欄に「音楽家(ミュージシャン)」のような類の職業名をかいていると推測します。とすれば、水野良樹さんは「職業音楽家」なのです。だから、楽曲が売れることを考えるのは当然であり、「みんなのもの」(多くの人々に愛されるもの=大ヒット)になる「ものづくり」を考えるのは当然のことです。そして、そのために「音楽家」がどのような考えを持って自分の歌詞・楽曲をつくるのかは自由であり、他人がとやかく言う筋合いでないことは言うまでもありません。どんな音楽理論を持って「ものづくり」をされようと、「職業音楽家」にとっては結果が全てなのですから。

 ただ、他の「音楽作家(作詞家を含む)」の作品を引き合いに出して分析するような、つまり「音楽論」を語るのであれば、その語った「音楽論」に対して何らかの批評をされることも覚悟していると思います(書籍まであるようです。脚注参照)。私は水野良樹さんにインタビューしたこともなければ、著作を読んだこともありません。しかし、読んでいないために批評に至らない点があれば批判されることもあって当然ですが、「だったら批評などするな」というのは暴論です。発表されたこと(音楽論)を知った範囲で語ることは許されると考えます。業務妨害をする意図は全くありません。水野良樹さんの音楽論について語っているだけです。「いきものがかり」や水野良樹さんのファンのお気に召さなくとも、言いたいことは言う、というスタンスで書かせていただきます。

 

 さて、私が問題とするのは「「いきものがかり」の歌詞にはなぜ「主語」が少ないのか」と題する文春オンラインの近藤正高さんが書かれた記事〔注1〕のなかで、前掲の「問い」への「答え」と思われる次の文章があるからです(記事末に全文を転載〔注2〕)。

〔注1〕この文春オンラインに掲載された近藤正高さんが書かれた記事は、水野良樹さん側(本人でなくても)の了解を得て掲載されているという前提で私は書いています。もしこの記事が事実とは異なるようであれば、その抗議は私にではなく近藤正高さん宛にするようお願いいたします。

〔注2〕そうしないと私がどんな情報に基づいて批評をしているのかご理解いただけないというのが全文転載の理由です。

なぜ具体性がなく、主語が明確じゃない歌をつくるのかと言えば、どんな価値観の人でも、どんなコミュニティにいる人でも、年齢に関係なく、そこはつながるだろうという隙間があるのではないかと思っているからです


 水野良樹さんは「コミュニケーション(※3という。私の理解ではその言葉は「双方向性」という意味を含んでいます。水野良樹さんの言葉の使い方を問題にしているのではありません。「音楽」(芸術一般も)というものは原理的に「一方通行」なのです。もちろん、演奏や歌唱が終ったあとスタンディング・オベーションや大喝采はあるでしょう。だから「双方向だ」というなら、CDが大ヒットしたことも「コミュニケーション」と言えます。でもそれは「職業音楽家」のそれであって、「芸術家」としてのものでしょうか。スタンディング・オベーションや大喝采やCDの大ヒットは、「芸術家」の次回へのモチベーションを高めるとは思います。しかし「芸術作品」は本質的に「一方通行」なのです。芸術家に最も必要で重要なことは、心の底から「表現したい」「伝えたい」と強く思っていることがある、ということです。すなわち、その表現されたものの「主語」は芸術家の「強い思い」なのです。鑑賞する側は、芸術家の「強い思い」に深く共感を覚えたとき、その作品に感動するのです。主語があるとかないとか(「匿名性」)など、どうでもいいことなのです。作品は作家の手を離れ「独り歩きする」ものです。すなわち、「コミュニケーション」などというのは「幻想」又は「言葉の装飾」です。


 一例を挙げましょう。吉田拓郎「今日までそして明日から」(『青春の詩』)は、「わたしは」「わたしは」と主語の連発です。もちろん、水野良樹さんの言う「作家の名が前面に出ると「みんなのものになれない」」ということもあり得ます。つまり、二十歳そこそこの若造(当時の吉田拓郎)が「今日まで生きてきました」などというのは烏滸(おこ)がましい、と受け取れば共感を得ることはないかと思います。しかしながら、その歌詞の中に謳われている、今日まで人々と関りながら生きてきた そして今明日からもそうして生きていくだろう(人々と関りながら生きていこう)、という静かな決意に吉田拓郎の年齢など無関係に共感を覚えるのです。そして、吉田拓郎も私もいなくなっても、この歌はどこかで誰かが口ずさんでいる、と私は思っています。


 水野良樹さんの錯覚は、芸術作品は「一方通行」のものであるのに、「コミュニケーション」云々と言うところにあって、それは作家が「表現したい」「伝えたい」という強い「思い」こそが人々の共感を呼び起こす源であるという点を軽視していると、私は考えます。

 芸術家に必要なのは「表現したい」「伝えたい」という「強い思い」であり、すなわちそれは水野良樹さんが、かつて否定した「自分自身の中にあるものを表現するもの」なのです。主語がある(「匿名性」が無い)から共感を得られないのではなく「自分自身の中にあるもの」が「たいしたものではない」と人々の共感を得ることができないのです。水野良樹さんの「自分自身の中にあるもの」を私たちに強く訴えかけて欲しいと願うものです。

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文春オンライン

白復活! 「いきものがかり」の歌詞にはなぜ「主語」が少ないのか

近藤 正高 2018/12/17 17:00下線は私 山田による〕

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 昨年1月に「放牧」を宣言して活動を休止していたいきものがかりが、去る113日、グループの19回目の結成記念日に「集牧」し、活動を再開した。集牧後初のステージは、この大晦日に2年ぶりに出場するNHK『紅白歌合戦』となる。そのいきものがかりのリーダーである水野良樹は、きょう1217日が誕生日で、36歳を迎えた。

 

デビュー10周年を過ぎて「放牧」した理由

いきものがかりのメインソングライター水野良樹(左)は19821217日生まれ© 文春オンライン いきものがかりのメインソングライター水野良樹(左)は19821217日生まれ

 水野は神奈川県立厚木高校時代、小学校からの同級生である山下穂尊(ほたか)と一緒に路上ライブを始めた。いきものがかりはそのとき命名したもので、2人が小学生のころ、クラスで飼っていた金魚に餌をやる「生き物係り」だったことに由来する。しばらくすると、路上ライブに彼らの同級生の妹の吉岡聖恵(きよえ)が加わり、3人組として活動をスタートさせた。

 

 いきものがかりはその後、路上ライブやライブハウスでの活動を経て、20063月、シングル「SAKURA」でメジャーデビュー。以来、「帰りたくなったよ」(2008年)、「ありがとう」(2010年)、「風が吹いている」(2012年)など数々のヒット曲を生み出してきた。「放牧」はデビュー10周年をすぎたのを機に、《それぞれの未来を、もっと広げるために。3人の物語を、もっと長く、もっと楽しく、続けるために》メンバーそれぞれが一度、自由になってみようということで宣言された。

 

「『放牧』前と後で曲作りへの考え方が変わった」

 水野は放牧期間中、ほかのアーティストに提供するため楽曲を7080曲書いたという(※1)。それと並行して、NHKEテレの番組で作詞家・阿久悠の軌跡を関係者などと対話しながらたどったり、広告・クリエイティブの専門誌『ブレーン』で各分野のスタンダード商品の開発者にインタビューしたりと、ほかのクリエイターから話を聞く機会も多かった。阿久悠に関しては、阿久が遺した未発表詞に水野が曲をつけ、当時アイドルグループのNMB48に所属していた山本彩に提供もしている。

 

 水野はこれらの仕事を通じ、つくり手としての自らの考え方や手法を見直すことにもなったようだ。たとえば、放牧前のある鼎談では《音楽って本来は自分自身の中にあるものを表現するものだと思っていた》、《でも続けるうちに、「自分のことを言わないほうがいい。聞いてくれる人がどう思うかを大切にする」という方向に自然に変わっていきました》と語っていたのが(※2)、放牧期間中の糸井重里との対談では、さらに以下のように考え方が変わってきたことを明かしている。

 

じつはぼくはしばらく、「多くの人たちに届く歌を作るには、自分の存在が、歌から完全に消えたほうがいいのかもしれない」とか思っていたんです。でもこのごろ、違うんじゃないかと思いはじめていて。(中略)聞いてくれる人たちとつながるためには「自分」がゼロではダメだというか。そうしないと、コミュニケーションが成立しないんですよ》(※3

 

阿久悠さんの歌詞は「みんなのものになった」

 ただし、一方で水野は、作家の名が前面に出ると「みんなのものになれない」ので、ある種の匿名性も大事だと思うと話している阿久悠の歌詞もまさに匿名性があったからこそ、《「阿久悠さん」という作詞家の手を離れて、みんなのものになったものがとても多い気がする》と分析する(※3)。

 

 こうした発言を総合するに、水野がめざすのは、適度に「自分」を出して人々とコミュニケーションを成立させながら、一方で匿名性をもって多くの人に共有される作品……とでもなるだろうか。それはスタンダードたる条件といえるが、現代はスタンダードが生まれにくい時代でもある。これについて彼は、別の対談でこんなふうに語っている。

 

1万人の方がCDを買ってくれたとして、そこからどんどん派生して、買っていない人も自然に聴いているということは起こりづらくなっているように思います。「あなたはそれが好きなのね」で終わって、コミュニティ同士の横断がない。そこがすごく嫌だなとは思っているんです。いきものがかりというグループを長年やらせていただいていて、なぜ具体性がなく、主語が明確じゃない歌をつくるのかと言えば、どんな価値観の人でも、どんなコミュニティにいる人でも、年齢に関係なく、そこはつながるだろうという隙間があるのではないかと思っているからです》(※4

 

「上を向いて歩こう」みたいな曲を作りたい

 言われてみると、いきものがかりの曲にはたしかに主語があまり出てこない。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』の主題歌にもなった前出の「ありがとう」では、「あなた」は出てくるが、具体的に誰がどんな人に向かって「ありがとう」と伝えようとしているのかはわからない。だからこそ、聞き手がさまざまな人間関係に置き換えて感情移入することができる。なお、水野は同じ対談で、自分が参考にしている歌の成功事例として坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年)をあげている。

 

《「上を向いて歩こう」というメッセージは普遍的なものになっていて、その言葉を聞いた人はみんな「前向き」なイメージを持つと思うんです。それぐらい、世の中に影響を与えている。「こういう音楽だ」とカテゴライズされておらず、「上を向いて歩こう」は「上を向いて歩こう」でしかありえない。そして、メッセージが広く伝わり、みなが意識しないぐらい一般化されている、僕もああいう曲をつくりたいと思っているんです》(※4

 

 いきものがかりには、インディーズ時代にライブハウスに出演していたころ、未知の観客にファンになってもらうため、必ずやっていたことがある。それは、メンバー紹介やその日に演奏する全曲の歌詞を書いたパンフレットを配布することだ(※5)。ちょっとした工夫だが、そんなふうにファンとコミュニケーションをとるすべを初期から模索してきたからこそ、その後の彼らがあったのだろう。水野にとって放牧は、プロデュース力にさらに磨きをかける期間でもあったといえる。集牧したいきものがかりが、彼のリードのもと、どんな新時代のスタンダードたる作品をつくっていくのか、いまから楽しみだ。

 

1 『Number20181220日号

2 『ブレーン』201610月号

3  水野良樹・糸井重里「阿久悠さんのこと。」第3回 (「ほぼ日刊イトイ新聞」20171018日)

4 『ブレーン』201711月号

5 水野良樹『いきものがたり』(小学館)、『ブレーン』20182月号

 

(近藤 正高)

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2018年12月17日 (月)

「京都橘高校」グルーピー24

「京都橘高校」グルーピー24

―幻の第28回全日本マーチングコンテスト全国大会金賞映像―[芸術]

 

 なんと!うかつなことに、第28回全日本マーチングコンテスト全国大会で「金賞〔注〕」を受賞した201511月に大阪城ホールでの京都橘高校のマーチング・ドリルの動画を紹介していませんでした。抜けていたと今気づくとは「間抜け」でした。お詫びに大会前後の京都橘吹奏楽部の皆さんの様子をとらえた貴重な映像(このような動画も私はとても好きです)ともにリンクでお届します、と思って検索したのですが、「第28回全日本マーチングコンテスト金賞受賞京都橘高校吹奏楽部のパフォーマンス映像」は、「幻のお宝映像」のようです。無い袖は振れなかったのです。

〔注〕審査結果発表の際、「金賞(きんしょう)」と「銀賞(ぎんしょう)」とを聞き分けてもらうために、「金賞」を「ゴールド金賞」と発表しています。正式の賞名は「金賞」です。

 

京都橘高校吹奏楽部/Kyoto Tachibana SHS Band】第28回全日本マーチングコンテスト① 演奏前

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28回全日本マーチングコンテスト
20151122() / 大阪城ホール
高等学校以上の部 1315分開場・1400分開演
審査員(50音順)
小串俊寿 (サクソフォーン 東京音楽大学)
加藤明久 (クラリネット NHK交響楽団)
須山芳博 (ホルン 武蔵野音楽大学)
田中 弘 (トランペット Osaka Shion Wind Orchestra
藤井むつ子 (打楽器 洗足学園音楽大学)
松岡裕雅 (オーボエ 日本フィルハーモニー交響楽団)
若狭和良 (トロンボーン エリザベト音楽大学)
高等学校以上の部
出演順 賞  支部 都道府県 団体名     演奏予定時刻
11   金賞 関西 京都府  京都橘高等学校 15:10
元になった動画〔改行とともに省きました〕

京都橘高校吹奏楽部/Kyoto Tachibana SHS Band】第28回全日本マーチングコンテスト② 演奏終了後撮影会

投稿者コメント〔①と同じにつき割愛、山田〕

 

「京都橘高校」グルーピー23

「京都橘高校」グルーピー23

フィールド・ドリルも最高[芸術]

 

 こういうアングルの固定カメラでとらえると、動きがピタッとそろっているのが際立つ。

京都橘高校吹奏楽部 2018 第58回 3000人の吹奏楽(画質修正Ver. ) Kyoto Tachibana SHS Band

投稿者コメント
以前投稿した京都橘高校吹奏楽部さんの3000人の吹奏楽の画質を素人なりにできるだけ修正したものです。元動画自体粗い為、修正してもかなり粗いシーンがあります。又、ディスプレイによってはエッジがきつく見えるかもしれません。
修正Ver.ですけど全部作り直しています。
袋のガサガサ音等、演奏の音にも影響するので私では消去できませんでした...
冒頭、ガードさんの左やってしまいました。全画面で見て下さい。何でいつも投稿してから気付くのだろう()

Make magic!
♪おはロック
Fire Ball
The Rose
Sing Sing Sing

2018年12月16日 (日)

荒井由実「14番目の月」

荒井由実「14番目の月」

何日の月のことか[]

 

 暦計算に疲れた頭に、箸休めのクイズを一つ。

 

 荒井由実さんの曲に、題名「14番目の月」というのがあります。

つぎの夜から 欠ける満月より

14番目の月が いちばん好き

と歌っています。さて、この「14番目の月」は何日の月でしょうか?☚ますます疲れないか?!

ますます疲れた方は荒井由実さんの曲をお聽きください。

実はこの曲、アルバム「40周年記念ベストアルバム 日本の恋と、ユーミンと。」では、DISC2で13番目の曲なのです(おしい!)。14番目の曲は「翳りゆく部屋」でした。







正解は「十五日」です。つまり「14番目の月」とは「十五夜の月」なのです。

解説
14番目の月」とは月齢14.0の月です。日にちは、次のようになっています。
月齢0.0(新月)を含む日が朔(ついたち)
月齢1.0を含む日が二日(ふつか)
・・・
月齢14.0を含む日が十五日。この日の夜の月が「十五夜の月」
・・・
月齢28.0を含む日が二十九日

月齢29.0を含む日が三十日 ただし、0.5日経つと朔(新月)になってしまうので約半分は朔(ついたち)になります。 

平均朔望月(新月から次の新月までの日数)は約29.5日です(正確には下記の式で求まります)。

満月(望・望月)はその半分なので、月齢14.75

つまり、実際にそうなるかどうかは別として、十五夜の月が一番満月に近いということです。

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」(藤原道長)を皮肉ったような歌詞なのです。☚おいおい、言い過ぎだろうが!

望月わが世思ふ 道長の 諸行無常を 知らぬかなしさ」(sanmao)

朔望月Wikipediaより抜粋)

…………………………………………………………………………………………………………

平均朔望月(日) = 29.530 588 853(日) + 0.000 000 002 162 ×

ここで、Y は、J2000.020001112時(地球時 TT))からのユリウス年数である。 したがって、1ユリウス世紀につき、0.000 000 2162日、すなわち 約0.018 68秒ずつ長くなることになる。

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『出雲風土記』と「出雲王朝」の暦(その1)

『出雲風土記』と「出雲王朝」の暦(その1)

戦国時代以前の暦法の可能性[]

 

はじめに

 増田修の研究論文「倭国の暦法と時刻制度」基づいて〔注1〕、「古記」に記された暦法について、『出雲風土記』の「識語」にある暦日(天平五年二月三十日)がある暦法(現時点で「何暦」かが不明)と、“古六暦”と呼ばれている「古暦」との関係を考察してみます。なお、この記事が一回で完結するかどうかわかりませんので、とりあえず「(その1)」としてあります。

〔注1〕本来ならば「古記」そのものにあたるべきなのでしょうが、私は増田修氏のような暦や古文書についての専門知識を持っていない素人なので、増田修氏の研究論文に依って考察することをご容赦ください。もし、私の依拠した増田修氏の論文「倭国の暦法と時刻制度」に誤りがあった場合は、増田修氏の研究論文「倭国の暦法と時刻制度」に対する反対論文を発表して頂きたいと思います。もちろん、私の記事に対してその点をご指摘頂くことは大歓迎いたします。ただ、「増田修氏の論文を鵜呑みにした」というようなご批判はご容赦願います。

 

「古記」の記す「古暦」

 増田修氏の研究論文「倭国の暦法と時刻制度」(以下、「増田論文」と略す)には次のようにあります。

…………………………………………………………………………………………………………

「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差(たが)ひ、正月を反て二月と為す。未だ九年に盈(みた)ざるに、巳に、三月を校(かぞ)へ、則ち春を以て夏と為す、未だ十七年に盈(みた)ざるに、則ち六月差校し、便(すなわ)ち春を以て秋と為す。」と注釈している。「古記」は (1) 一九年を一章とし、その間に閏月を七回置くという、章法に基づく暦法を説き、(2) 閏月を置く基準として、一章の中の第何年目に閏何月を置くという型を示し、(3) そして、もし閏月を置かなければ、季節が定まらず、年月が整わないという、不都合が起こるという。「古記」は暦数の注釈を、具体的な暦法でもって説明しているのである。

…………………………………………………………………………………………………………

 十九年を一章(「十九年を一章」)として七閏月(「〔①〕三年閏九月、〔②〕六年閏六月、〔③〕九年閏三月、〔④〕十一年閏十一月、〔⑤〕十四年閏八月、〔⑥〕十七年閏五月、〔⑦〕十九年閏十二月」)と7閏月を置いているので「章法」であるのは確かです。

 また、「一章の中の第何年目に閏何月を置くという型を示し」ていますので、ある意味で“置閏法”(規則があるという意味にすぎません)を持っています。

古暦が「章法」で「四分暦」(一年を365日+1/4日とする暦)であるということは、次の式から朔望月は決まっているということです。

太陽年=(12+7/19)×朔望月

すなわち、朔望月=太陽年/12+7/19)=(365+1/4)/12+7/19)=(1,461/4)/235/19)=(1,461/4)×(19/235)=(1,461×19/(4×235)=27,759/94029499/940

つまり、「章法」の「四分暦」は、太陽年が365+1/4 日、朔望月が29499/940 日、と固定なのです。

図 章法四分暦の置閏法の計算
Photo

正規の「置閏法」(合理的な閏月の置き方=二十四節気のうちの中気が存在しない月に閏月を置く方法=「章法」では「19年間に中気が存在しない月が7回起きる」という事実に基づく方法)なら、置閏年とその置閏月が自然科学的に決まってしまうのです。ただ、正始月を何月(子月・丑月・寅月)にするかで「何月」という呼び方が変わります。そこで、「置閏法」(中気の無い月を閏月とする方法)を正始月を何月にするか(十二パターン)によってどうなるかを調べてみました。次のようになりました。実際に存在するかどうかに無関係に当てはめています(網羅するため)。

図 章法四分暦の置閏法による閏月表(夏正)
Photo_2

…………………………………………………………………………………………………………

〈正始月〉 〈幾月目(閏月名)〉

子月(周正)11(閏10)、8(閏7)、4(閏3)、13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1

丑月(殷正)10(閏9)、7(閏6)、3(閏2)、12(閏11)、9(閏8)、5(閏4)、1正月が閏月

寅月(夏正)9(閏8)、6(閏7)、2(閏1)、11(閏10)、8(閏7)、4(閏3)、13(閏12

卯月    8(閏7)、5(閏4)、1正月が閏月)、10(閏9)、7(閏6)、3(閏2)、12(閏11

辰月    7(閏6)、4(閏3)、13(閏12)、9(閏8)、6(閏5)、2(閏1)、11(閏10

巳月    6(閏5)、3(閏2)、12(閏11)、8(閏7)、5(閏4)、1正月が閏月)、10(閏9

午月    5(閏4)、2(閏1)、11(閏10)、7(閏6)、4(閏3)、13(閏12)、9(閏8)

未月    4(閏3)、1正月が閏月)、10(閏9)、6(閏5)、3(閏2)、12(閏11)、8(閏7

申月    3(閏2)、13(閏12)、9(閏8)、5(閏4)、2(閏1)、11(閏10)、7(閏6

酉月    2(閏1)、12(閏11)、8(閏7)、4(閏3)、1正月が閏月)、10(閏9)、6(閏5

戌月    1正月が閏月)、11(閏10)、7(閏6)、3(閏2)、13(閏12)、9(閏8)、5(閏4

亥月    13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1)、12(閏11)、8(閏7)、4(閏3

…………………………………………………………………………………………………………

 「古記」には「三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月」と書かれているようですので、上記の正始月とする十二支月のうち、「正月を閏月」とするのは古記の暦にはありません。よって、丑月・卯月・巳月・未月・酉月・戌月を正始月とする6つの章法四分暦は「古記」の「古暦」には該当しません。残るのは、次の6つとなります。

…………………………………………………………………………………………………………

〈正始月〉 〈幾月目(閏月名)〉

子月(周正)11(閏108(閏74(閏3)、13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1

寅月(夏正)9(閏8)、6(閏72(閏1)、11(閏108(閏74(閏3)、13(閏12

辰月    7(閏6)、4(閏3)、13(閏12)、9(閏8)、6(閏5)、2(閏1)、11(閏10

午月    5(閏42(閏1)、11(閏107(閏6)、4(閏3)、13(閏12)、9(閏8)

申月    3(閏213(閏12)、9(閏8)、5(閏42(閏1)、11(閏107(閏6

亥月    13(閏12)、10(閏9)、6(閏5)、2(閏1)、12(閏11)、8(閏74(閏3

…………………………………………………………………………………………………………

「古記」の「古暦」には「閏二月」・「閏四月」・「閏七月」・「閏十月」はありません。すると、このように全滅してしまいました。すなわち、「古記」の「古暦」の閏月の置き方は「置閏法」(閏月を中気の無い月に置く方法)によらない“置閏法”(「置閏法」もどき)であることが判明しました。つまり、「閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差(たが)ひ、正月を反て二月と為す。未だ九年に盈(みた)ざるに、巳に、三月を校(かぞ)へ、則ち春を以て夏と為す、未だ十七年に盈(みた)ざるに、則ち六月差校し、便(すなわ)ち春を以て秋と為す。」とある理由、すなわち、19年間に閏月を7回置かないと季節が合わなくなるという不都合があるから閏月を7回置く必要がある、という理由だけに基づいて任意に決めた暦法であったということです。

 

青銅器時代(「周」・春秋時代)の暦の可能性も

 以上から言えることは、「章法」が発見される400年以上まえから「二十四節気(「太陽暦」)」は行われていましたので、「ともかく季節は合わせないと」という必要性のみによって閏月を何年目の何月に置くかを決めた、と考えるしかありません。

 このことは何を意味しているかといえば、戦国時代の暦法より古い時代の暦法(考えられるのは青銅器時代「周」・春秋時代の暦法である可能性が高いといえるのではないでしょうか。

学術誌もインターネットの時代

学術誌もインターネットの時代

博士号授与要件の論文掲載の業績と認められている[現代]

 

 学術誌もインターネット時代となって久しく、既に論文審査がずさんな粗悪学術誌「ハゲタカジャーナル」が盛行してきていて、それが問題化しているようです。鳥井真平記者の署名記事です。全文を転載します。なお、記事には添付図がありますので是非原文を閲覧ください。

 

デジタル毎日(毎日新聞社)

粗悪学術誌掲載で博士号 8大学院、業績として認定
毎日新聞20181216 0645(最終更新 1216 0645)

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 インターネット専用の学術誌に論文審査がずさんな粗悪学術誌「ハゲタカジャーナル」が増えている問題で、佐藤翔(しょう)同志社大准教授(図書館情報学)が医学博士論文106本を抽出調査したところ、7.5%に当たる8本にハゲタカ誌への論文掲載が業績として明記されていた。ほとんどの大学が「査読(内容チェック)付き学術誌への論文掲載」を博士号授与の要件としており、要件を満たすためハゲタカ誌を利用した可能性がある。

<粗悪学術誌>投稿の准教授「査読素通り」 背景に教授圧力
<粗悪学術誌>「出版社」の事務所で中古車販売 
<粗悪学術誌>論文削除応じず 都立病院の投稿、手数料まで請求
<粗悪学術誌 研究者、手軽に実績 投稿、数日で了承>
<粗悪学術誌 論文投稿、日本5000本超 業績水増しか> 
〔以上5つは、リンクが貼られている関連記事です。山田〕

 調査は、国立情報学研究所の博士論文データベースを利用した。名称に「医学」を含む博士号を2017年に授与された大学院生の論文1381本(今年5月末時点)から無作為に200本を選び、全文を入手できた106本について、博士論文の基となった研究の論文を確認した。

 ハゲタカ誌の判別には、米国の研究者がまとめたリストを用いた。8大学院の計8本が該当し、うち4本は、研究費を交付する米国の政府機関から「公正さを欠き、虚偽がある」と提訴されたことがある出版社の学術誌に掲載されていた。

 4本のうち1本の著者の医学博士号を審査した近畿地方の公立大は、査読付き学術誌への論文掲載を要件としていたが、173月に授与したという。大学の担当者は「教授会でしっかりと審査している」と話し、授与に問題はなかったとの見解を示した。

 佐藤准教授は「今回はサンプル調査で氷山の一角。医学以外の分野も調べれば、より大きな数になると考えられる。ハゲタカ誌の論文を基に博士号が授与される例が存在することは大きな問題だ」と指摘している。【鳥井真平

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「京都橘高校」グルーピー22

「京都橘高校」グルーピー22

“ほらっちゃ先輩”のローズ・パレード[芸術]

 

 2012年のローズ・パレードです。コンピレーション版ですので、元動画を見たい方は投稿者がコメント欄にアドレスをリンクしていますので、そちらからどうぞ。

 

2012 Rose Parade Kyoto Tachibana SHS Band Compilation 京都橘高校マーチングバンド コンピレーション画像改善版/Better Image Quality Version

投稿者コメント
京都橘高校マーチングバンドが2012年ローズ・パレードに参加しました。ローズ・パレードの性質上、多くの方が様々な場所で撮影を行っており、その動画が点在しています。
それぞれに素晴らしい動画なのですが、ファンとしてはローズ・パレードの流れに従ってパフォーマンスを観たいという思いに至り、時系列にまとめてみました。
最後になりましたが、京都橘マーチングバンドの皆さん、ならびにYoutubeに動画をアップしてくださった皆さんに心より感謝いたします。

Kyoto Tachibana SH Band participated in 2012 Rose Parade. For the characteristic of the parade, so many people took movies at so many places. So, there are a lots of Tachibana's movies at Youtube and they are spreaded everywhere.
As a big fan, I would like to watch the Tachibana's performance at Rose Parade as they have done. So, I just line them up in time order.
At lsat, I would like to appreciate for all the member of Kyoto Tachibana SH Band and the movie owners. Thank you!
元動画/Original Movie
〔アドレス省略〕

2018年12月15日 (土)

日本列島には「青銅器時代」は存在しなかったのか?

日本列島には「青銅器時代」は存在しなかったのか?

「一元史観」の「タラレバ古代史」[古田史学]

 

古代史では「一元史観一辺倒」のWikipediaであることは承知しているが、次の説明には開いた口がふさがらなかった(「青銅器時代」より抜粋、字体変更・朱字化・下線は山田による)。

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 石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており青銅器は祭器としてのみ使用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている

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 これほど「お粗末な説明」を見たことがない。

石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。」これはその通りである。「石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば」との前提であれば「その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しない」のは論理として間違っていない。

 だから、「石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝」わった事実を示してくれるのかと期待するのは当然であろう。

 しかし、「日本は、その典型例である。」というだけで、その事実を示さない。その後に出てくるのかと期待すると「日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており」とあり、「誰がどういう根拠に基づいてそう言ったのか」か出典で示されるのかと思いきや、それも無い。

 さらにあきれるのは「青銅器は祭器としてのみ使用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行した」と考えるというのだ。「青銅器は祭器としてのみ使用され」たという事実は示されることがない。 つまり、論理的にはこういう論法なのだ。

 

日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わった

青銅器は祭器としてのみ使用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行した

石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝れば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しない

日本は、その典型例である。

 

 こんな非論理的な説明をするのは「頭がどうかしている」か「意図してこういう説明をしている」かのどちらかである(Wikipediaの筆者さま、好きな方を選びたまえ)。

次は、Wikipediaの「荒神谷遺跡」からの抜粋である(〔〕内は山田による)。

 

【「荒神谷遺跡」(Wikipediaより】】(字体変更・朱字化・〔〕内は山田による)

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「荒神谷遺跡」が正式名であるが、地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。

1983年(昭和58年)広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘調査が開始された。1984 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358〔これは銅矛である〕、銅鐸6個、銅矛16〔これは瓊矛である〕が出土した。銅剣〔銅矛〕1985年、銅鐸・銅矛〔瓊矛〕1987年(昭和62年)に国の重要文化財に指定されていたが、1998年(平成10年)に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されている。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定された。斐川町(現:出雲市)が中心となり1995年(平成7年)に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備された。2005年(平成17年)には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われている。現在、出土品は2007年(平成19年)3月に出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。

銅剣〔銅矛〕の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。〔中略〕

弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

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 反証を挙げるまでもないが、念のために反証を挙げておこう。

 

・弥生時代の遺跡である荒神谷遺跡から鉄器は出土していない。(「日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わった」への反証)

・誤認され銅剣とされている銅矛青銅器は武器である。(「青銅器は祭器としてのみ使用され」への反証)

 

 言うまでもないと思うが、「出雲王朝」時代は青銅器時代を含んでいるのである。

 なぜ、「一元史観」がこんなデマゴギーを吹聴しているのかを考えると時代比定をごまかそうとしていると考えられる。つまり、中国から青銅器時代が伝わったことを隠蔽しようとしていると考えられる。

 

青銅器時代Wikipediaより抜粋)】(字体変更・朱字化・下線は山田による)

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青銅器時代とは、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の一つである三時期法に依拠する概念である。この三時期法は、社会の歴史的な時間の流れを、主に利用されていた道具の材料によって石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する考え方であり、青銅器時代はその中の真ん中の時代に相当する。また、この時代区分は先ヨーロッパ史を中心に考えて提唱されたものであるが、中東、インド、中国にも適用することが可能である。青銅器時代は多くの文明において国家形成の開始された時期に当たり、世界最古の文字が発明されたのもこの時期にあたる。このため、各文明においては先史時代と歴史時代の両方の面を持つ。

〔中略〕

中国では、紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて甘粛省や青海省といった黄河最上流部に栄えた馬家窯文化において青銅の物品が発見されており、この時期に青銅器時代に移行したと考えられている。その後、黄河中下流域に栄えた龍山文化や二里頭文化を経て、紀元前1600年頃には二里岡文化に代表される中国最古の王朝である殷(商)が成立した。殷代の青銅器は、饕餮(トウテツ)文と呼ばれる複雑な文様が青銅器の表面に鋳造されていることで知られる。その後周代を経てから春秋時代紀元前770年〜紀元前400年ごろまでが青銅器時代に相当し、鼎に代表されるさまざまな特異な青銅器が生まれた。こうした青銅器の表面にはしばしば文字が鋳造されるか刻まれ、金文と呼ばれて貴重な資料となっている。

…………………………………………………………………………………………………………

 

 こういうことだろう。中国では春秋時代(紀元前770年~紀元前400年ころ)までが青銅器時代に相当する。するとわが国に青銅器時代があるとなれば、少なくとも紀元前400年ころまでにはわが国に青銅器(鉄器は含まない)が伝わったことになる。

 つまり「出雲王朝」が青銅器時代に日本列島を(どれだけの範囲で、どの程度統治していたかを別として)統治していたことを隠蔽したいのだと思う。それほど「出雲王朝」の統治期間は長かったのだと考えられる。

 なお、この青銅器時代の年代を考えると戦国時代の暦法が前漢時代に「出雲王朝」に伝わったことは無理でも何でもない想定であると思われる(事実だと主張しているのではありません)。

 

2018年12月14日 (金)

“古暦”について

“古暦”について

大宝令の注釈書「古記」の暦はどれか[]

 

ヤマト王朝(近畿天皇家)は古暦を用いていた

 ヤマト王朝(近畿天皇家)の「大宝令」の注釈書「古記」に示された暦法は、『春秋正義』のいう「古暦」であることを、増田修氏の研究論文「倭国の暦法と時刻制度」が明らかにした。「古暦」とは「後漢四分暦」(後漢)「太初暦」(前漢)以前の「四分暦」(一年を365日と「四分の一」日とする暦法の総称)をいう。

 この「古い四分暦」が行用されていた痕跡は、『出雲風土記』や「正倉院文書の出勤簿」に「天平五(733)年二月三十日」という暦日として現存する(この暦日までに存在する四分暦以外の暦法では二月は小の月(二十九日の月)となる)。

 

その古暦は実際に用いられていた

 「天平五(733)年二月三十日」という暦日が現存するならば、少なくとも「天平五(733)年二月三十日」までこの暦(古い四分暦法によるこよみ)が行用されていたとするのが暦に関する「基本的認識」である。この「基本的認識(行用されていた)」は立証しなくても良いものとされている、と私は認識している。逆に「史書」に書かれている暦日については行用されていたことを立証する必要がある。その理由は言うまでもないであろう。公的な提出書類や出勤簿に暦(こよみ)に存在しない日付を記入したら受け付けてもらえないし、一方の「史書」というのは、編纂する権力の都合で「どうとでも書けるしろもの」だからだ。

 

暦はたびたび改暦された

 暦は使い続けられるものであるが、問題点が発覚すれば改訂(改暦)されるものでもあった。主な改暦は次のようである。

 

太初暦」(前漢・武帝太初元年B.C.104~?)古暦がまちまちであったのを統一して「夏正(寅月正始)」を採用した。

 

三統暦」(新・王莽A.D.8~A.D.85(後漢四分暦まで))上元積年法(暦元を遠い過去に置く)を用いた。以来これにならう。

【倭国関連】

A.D.57年、光武帝から金印紫綬受く。「漢 委奴 國王」(“志賀島の金印”)

 

後漢四分暦(後漢・章帝A.D.85~献帝220(延康元年))太初暦と同一干支の日に対して季節と朔を0.75日(3/4日)早めたもので、三統暦を含めた四分之一法による暦面1日のズレを補正した。「四分暦」としては最期のものである。

 

乾象暦」(呉(三国)・黄武二年223年~天紀三年280年)後漢時代に完成していた。日食・月食・星食を予測することができるようにした。

【倭国関連】

太朝臣安萬侶の墓誌の干支(養老七年十二月十五日乙巳)が一致するのは「乾象暦」だけ。太氏は呉滅亡後の亡命者。

 

景初暦」(魏・明帝青龍五年・景初元年237年~晋~宋・文帝元嘉二十一年444年(「元嘉暦」採用))夏正青龍五年三月季春(弥生)は改元と殷正改暦で景初元年四月孟夏(卯月)に。〔青龍五年三月を景初元年四月としたとする説では景初元年は11ヶ月しかない年である。〕

北魏・道武帝元興元年398年~太武帝正平元年451年)

西晋・武帝(司馬炎)泰始元年265年、「景初暦」の名称を「泰始暦」と改める。

・武帝(劉裕)永初元年六月420年、「泰始暦」の名称を「永初暦」と改める。

【倭国関連】

魏・景初二年六月238年公孫淵滅亡、俾彌呼遺使奉献。下賜物は封され、翌年倭国に送られる。

魏・正始四年243年、倭王が使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を派遣し、生口・倭錦・絳靑[糸兼]・緜衣・帛布・丹木・[犭付]・短弓矢を献じた。掖邪狗等は、皇帝に拝謁し(壹拝)率善中郎將印綬を授けられた。

魏・正始八年247年、王頎が帯方郡太守に赴任した。女王卑彌呼は狗奴國王の卑彌弓呼と平素から不和で、倭載斯の烏越等を遣わして攻撃しあっている状況を(王頎に)告げた。(太守は)塞曹掾史の張政等を遣わして詔書と黄幢を授けて檄文で難升米に告諭した。

卑彌呼が死んだ時、冢(円く土を盛った墓)を(普通よりも)大きく作った。その直径は百歩余り。殉死埋葬した奴卑は百人余り。男王を立てたものの國中が服さず、互いに殺しあった。それで十三歳の壹與という卑彌呼の宗教後継者を女王に立てて(またか)、國中がやっと安定した。張政等は檄文を以て壹與に告諭した。壹與は倭大夫で率善中郎將の掖邪狗等二十人に張政等が還るのを送らせた。(都まで送ったので)臺(魏朝廷、天子)にご挨拶をして、男女生口三十人、白珠五千・孔靑大句珠二枚・異文雜錦二十匹を献上()した。

「正始中(240-249)、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王。並受中國爵命。」(『梁書』)これは誤認記事で、「國中不服、更相誅殺」という混乱は、永く見積もっても俾弥呼の死から壱与の貢献までの間で247年中の短期間である。

呉・永安三年260年、この年に会稽郡は分郡されて、南部を建安郡、東冶縣を建平郡と改めた。三國志”会稽東治”への”共同改訂”「会稽東」は成立しえない。

316年、晋滅亡、南北朝時代始まる(倭國多鏡墓時代の終焉)

367年、高句麗来襲に備え、倭国高良山に中枢部を移す。

369年、高良玉垂命(初代)、高村宮造営。

390年、高良玉垂命(初代)、没す。次代(おそらく讃)即位。

421年、宋・高祖永初二年、倭讃修貢(『宋書』巻九十七・夷蛮)

425年、宋・太祖文帝元嘉二年、倭國讃奉表献方物(『宋書』巻九十七・夷蛮)

(おそらく同年)讃死、弟珍立。(『宋書』巻九十七・夷蛮)

438年、宋・太祖文帝元嘉十五年、珍,遺使貢献。詔除安東将軍倭國王(『宋書』巻五・本紀第五)

431年、宋・太祖文帝・元嘉三年、北魏と和睦。

439年、北魏、華北を統一、南北朝時代始まる。

〔442年(この年或いは翌年)、珍死、濟立。〕

443年、「(元嘉)二十年、倭國王濟、遺使奉献。」(珍死濟立)(『宋書』巻九十七・夷蛮)

「(元嘉)二十年、倭國王濟、遺使奉献。」(珍死濟立)。

 

元嘉暦」(宋・太祖文帝元嘉二十二年445年~梁・武帝高祖(蕭衍)天監八年509年)

宋・太祖文帝元嘉二十年443年、何承天(東晋~宋)が「景初暦」の冬至3日のずれを指摘し編纂。〔「太初暦」B.C.104から「景初暦」までに冬至が既に2日遅れてしまっていた。通算すると冬至が3日も遅れてしまっていた。〕

【倭国関連】

448年、倭國、熊津を末多王に割譲し、百濟を再興。「以久麻那利賜末多王」(『日本舊記』)

450年、北魏、宋との和睦を破棄し侵攻。

451年、宋・文帝元嘉二十八年、使持節・都督・六國諸軍事が加えられた

461年(この年の末)濟死か?

462年、宋・世祖孝武帝(駿)大明6年、「世祖大明六年、詔曰、倭王世子興・・・宜授爵号可安東将軍・倭國王」(おそらく年始『宋書』)

〔468年、倭王・世子倶崩・薨?倭王旨・称制?(『百済本紀』)〕

478年、宋・順帝昇明二年、「遺使上表、・・・詔除武使持節・都督・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭國王」(『宋書』)

479年、齊・高帝(蕭道成)建元元年479年、宋禅譲により齊(南齊・蕭齊)建国、「新進除使持節・・・倭王武號為鎮東大将軍」(『南齊書』、宋〔“趙宋”、10世紀に趙匡胤が建てた王朝、後に金に華北を奪われ南遷して南宋となる〕が改名、もとの名『齊書』)、「元嘉暦」の名称を「建元暦」と改める。

494年、齊・高祖明帝(蕭鸞)建武元年、明帝詔除「高祖即位、進武號征東将軍」。(『梁書』倭國伝)

510年、齊の相国蕭衍がクーデターを起こし、皇帝を粛清。同母弟和帝を擁立。

502年、梁・高祖武帝(蕭衍)天監元年、禅譲により梁建国(四月蕭衍が皇帝に即位)、「進武號征東将軍」(『梁書』)倭国を高句麗・百濟(大将軍)の格下扱い。

 

大明暦」(梁・高祖武帝(蕭衍)天監九年510年~陳・(後主)禎明三年589年(隋により滅亡)。祖冲之(宋~斉)により宋・大明六年462年に完成したが当時不採用。

「章法」が19年に7閏を置くとしているが、次の式により、月行周期により日行周期が固定されているので、正確な太陽年と朔望月が求まると「章法」が障害となったので「破章法」という「章法」ではない暦法をとった(最初の「破章法」暦)。歳差をはじめて採用。古代の暦のなかでは極めて正確な数値をもった暦として評価されている。

【「章法」暦】

太陽年=(12ヶ月+/19)×朔望月(19年間に閏月を置く)

【「破章法」暦】

太陽年=(12ヶ月+M/Y)×朔望月(Y年間にM閏月を置く)

〔これなら太陽年と朔望月が正確に求まった後に、朔望月に満たない端数をM/Yと分数化すればよいわけです。因みに大明暦はY=391、M=144であり、すなわち391年間に144閏月を置く暦になっています。〕

 

古い暦は問題だらけ

 以上のように問題を解決するために改暦(暦法を改善)してきた歴史があるので、最新の暦法がある(入手できる)のに「古い暦法を採用すれば問題を惹き起こす」と明らかに知っているわけです。これは暦を知っているものであれば周知の事実です。はっきり言えば「古い暦は使い物にならない」と知っているのです。ましてや「暦」の正確さは「王朝」の信用に関わるわけですから、「古い暦は使い物にならない」のです。以上から、「ヤマト王朝(近畿天皇家)は古暦を用いていた」ということは「ヤマト王朝(近畿天皇家)は古暦をずっと用い続けてきた」と考えざるをえないのです。

 

ヤマトに古暦が伝わった時代

『日本書紀』には欽明天皇十四年(五五三)六月に百濟から暦博士等が来て暦本(こよみ、カレンダー)をもたらしたことが記されています。

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《欽明天皇十四年(五五三)六月》六月、遣内臣、〈闕名。〉使於百濟。仍賜良馬二疋・同船二隻・弓五十張・箭五十具。勅云、所請軍者、随王所須。別勅、医博士・易博士・暦博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月。宜付還使相代。又卜書・暦本・種種藥物、可付送。

…………………………………………………………………………………………………………

この五五三年に入手できる最新の暦法は梁の「大明暦」です。しかし、梁の現行の暦書が入手可能とは思われません。もし百濟が梁の暦を受容していれば「暦本」が大明暦であった可能性があります。しかしどうもこの記事は納得できるものではありありません。「大明暦」の前は元嘉暦」(正確には齊の「建元暦」)ですが、これも「四分暦」ではありません。その前は宋の永初暦」(中身は「景初暦」)ですが、これも「四分暦」ではありません。その前は「後漢四分暦」ですが、これは「四分暦」ですが、置閏法(閏月をどこに置くかを決めるルール)をもっています(「古暦」には一致しない)。前漢の「太初暦」も置閏法(中気の無い月を閏月とするルールがあります。)また、「三統暦」以降の「上元積年法」も無いようです。

 以上から、「古記」に記されている「古暦」は、前漢よりもっと前の「上元積年法」ではない「置閏法を持たない」「章法」の「四分暦」ということになります。ということは「三統暦」が入手できるようになるA.D.85(「後漢四分暦」採用)以前に「後漢四分暦」以前の「古暦」の暦計算ができる暦博士の來邦ともともに暦書を入手したと考えるのが論理的な結論になります(事実がそうだという主張をしているのではありません)。ざっと考えれば、前漢の時代に戦国時代の暦を入手したと考えて良いのではないでしょうか。

 

もう一つの可能性

 以上は、ヤマト王朝が直接(どこからでもよいが)暦法を入手したと考えてきたわけですが、もう一つの可能性があります。それは「景初暦」・「泰始暦」・「永初暦」及び「元嘉暦」・「建元暦」のような可能性、すなわち前王朝を「禅譲」によって継承して前王朝の暦の名称を改めただけで使い続けたという可能性です。増田修氏は「倭国の暦法と時刻制度」において「倭国」の古暦を「日本国」が引き継いだと考えたわけですが、増田修氏が誤った原因は「倭国(九州王朝)」の暦が「元嘉暦」であることを「失念」したからです。では、お前のいうもう一つの可能性という「禅譲を受けた前王朝」とは何か、という質問を受けると思います。その可能性は「出雲王朝」です。何を言うんだ「出雲王朝」はクーデターで「九州王朝」に“国譲り”(禅譲)したではないか。その「九州王朝」の暦は「元嘉暦」だと言ったばかりじゃないか。そのような抗議を受けると思います。しかし「出雲王朝」の政権を簒奪した「九州王朝」にすべての「出雲王朝」側が屈服したわけではないことは建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の科野国の例もある通りで、全国の神々が従ったとは考えられません(『日本書紀』はそう読ませようとしているが)。大和盆地も出雲王朝側が依然と支配していた可能性はあります。私は大物主=大国主というフィクションには加担しません。大物主は大国主と別の神(別人)と考えています。では「大物主」とは誰か。大国主に匹敵するだけの権威を持つ「出雲王朝」に縁をもつ神(人物)は一人しかいません。邇藝速日命です。なぜかこの神は『古事記』に一箇所登場するだけです。

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故爾邇藝速日命參赴、白於天神御子、聞天神御子天降坐。故、追參降來、即獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命〈此者物部連、穂積臣、[女采]臣祖也。〉故、如此言向平和荒夫琉神等、〈夫琉二字以音。〉退撥不伏之人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。

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 邇藝速日命は「登美毘古之妹、登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命」の父で、宇摩志麻遲命物部の祖と祀られる人物です。物部の祖の父親が「大物主」=邇藝速日命とすれば不思議なことは何もなく、全国各地の有力神社が出雲系であることも矛盾がありません。邇藝速日命の称号は「天照國照彦天火明奇甕玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)」といいます。アマテル大神ですら「天照大御神あまてるおおみかみ」という称号です。瓊瓊杵尊でも「天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)」です。瓊瓊杵尊の父も「正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかつあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと〔注、私は「天」をすべて「あま」と読みます。〕

 

称号の読みを並べてみます。

 

あまてるくにてるひこあまのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと

あまてるおおみかみ

あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと

まさかつあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと

 

 一目瞭然とはこういうことです。この神が歴史に登場しない方がおかしいのです。

実際に登場しています。巧妙に隠されて。大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神「大物主」です。この神は実は出雲系の神邇藝速日命です。この神と三嶋湟咋之女(むすめ)勢夜陀多良比賣(せやだらひめ)との間に生まれた娘が神武天皇の皇后「富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」(『古事記』)、「媛蹈鞴五十鈴媛命」(『日本書紀』)です。つまり、神武天皇は大物主(天照國照彦天火明奇甕玉饒速日尊)の婿殿となって「神日本磐余彦」となれたのです〔注、長兄 彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、次兄 稻飯命(いなひのみこと)、三兄 三毛入野尊(みけいりの(ぬ)のみこと)、これらの兄はすべて名をもっているが、神武だけは「彦(ひこ)」(男くらいの意)と呼ばれるだけで、兄達がすべて亡くなってしまった結果彼(彦)が婿入りすることができて大和盆地の磐余地方に居せるようになって、はじめて名が「磐余彦」となった〕。「物部」は「出雲王朝」のプリンス邇藝速日の末裔や臣下で全国に「物部」つまり「出雲王朝」の末裔や支持者が根をはっていたのです。物部守屋なんぞは一部地域の「物部」に過ぎず、彼が滅んだとしても「物部」は滅んではいないのです。話を戻せば、ヤマト王朝(近畿天皇家)は「出雲王朝」から禅譲を受けた(大国主と同じように婿殿となって)と考えられるのです。もちろん、これは「もう一つの可能性」に過ぎませんが、この「古暦」が「出雲王朝」の暦を継承した可能性も否定できない、と私は考えています。この可能性をたどれば、前漢の時代に戦国時代の暦を入手したのは「出雲王朝」だったとも考えられるのです。つまり、「古記」に記された「四分暦」は「出雲王朝」で使われていた暦だった可能性もあるのです〔「出雲王朝」に暦がなければ、諸国の神々が(言い伝えによれば)旧暦十月(亥月)に参集することができなかったはずです〕

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