« 「元嘉暦」の知識2《基本知識》2 | トップページ | 『日本書紀』の「太歳」を考える ― 仲哀と仁賢の謎 ― »

2017年5月18日 (木)

「○○道」はやはり軍管区であった― 天武紀の証言 ―

「○○道」はやはり軍管区であった

― 天武紀の証言 ―

 

「東山道十五國都督」記事がなぜ景行紀にあるのか(その1)― 盗まれた「九州王朝の事績」において、次の仮説を述べました。

…………………………………………………………………………………………………………

倭國(九州王朝)の「都督」は各方面を防衛する國軍(國防軍)の最高級指揮官である。

各方面は、軍用道路である「官道」ごとに「軍事管区(管轄区域)」が定められていて、「北陸道」「東山道」「東海道」というのはこの「軍事管区」の名称であった。

「東山道都督」が存在したのであれば、「北陸道都督」「東海道都督」も存在したとしなければならず、「西海道都督」、「南海道都督」そして「北海道都督」も存在したことになる。

…………………………………………………………………………………………………………


その後、『日本書紀』を調べていて、つぎの記事が目にとまりました。

天武天皇元年(六七二)六月の記事(「壬申の乱」)です。

…………………………………………………………………………………………………………

「丙戌。旦於朝明郡迹太川辺、望拝天照大神。是時。益人益到之奏曰。所置関者非山部王。石川王。是大津皇子也。便随益人参来矣。大分君恵尺。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山辺君安摩呂。小墾田猪手。泥部胝枳。大分君稚臣。根連金身。漆部友背之輩従之。天皇大喜。将及郡家。男依乗騨来奏曰。美濃師三千人、得塞不破道。於是天皇美雄依之務。既到郡家。先遣高市皇子於不破。令監軍事。遣山背部小田。安斗連阿加布。東海軍。又遣稚桜部臣五百瀬。土師連馬手。東山軍。是日。天皇宿于桑名郡家。即停以不進。是時。近江朝聞大皇弟入東國。其群臣悉愕。京内震動。或遁欲入東國。或退将匿山沢。爰大友皇子謂群臣曰。将何計。一臣進曰。遅謀将後。不如。急聚驍騎、乗跡而逐之。皇子不従。則以韋那公磐鍬。書直薬。忍坂直大摩侶遣于東國。以穂積臣百足。及弟五百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男与磐手曰。筑紫大宰栗隅王与吉備國守当摩公広嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國、授苻之日。紿広嶋令解刀。磐手乃抜刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王承苻対曰。筑紫國者元戍辺賊之難也。其峻城。深隍、臨海守者。豈為内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩剣立于側而無退。於是男按剣欲進。還恐見亡。故不能成事、而空還之。東方騨使磐鍬等将及不破。磐鍬独疑山中有兵。以後之緩之行。時伏兵自山出。遮薬等之後。磐鍬見之、知薬等見捕。則返逃走僅得脱。当是時。大伴連馬来田。弟吹負並見時否。以称病退於倭家。然知其登嗣位者、必所居吉野大皇弟矣。是以馬来田先従天皇。唯吹負留謂。立名于一時、欲寧艱難。即招一二族及諸豪傑。僅得数十人。」

…………………………………………………………………………………………………………

 

ここに美濃師東海軍」「東山軍」とあります。「美濃師」というのは軍管区「美濃路」におかれた軍隊と思われます。「東海軍」「東山軍」というのは軍管区「東海道」「東山道」に置かれた軍隊のことだと思われます。「美濃師」「東海軍」「東山軍」と軍隊の名称の前に「發」という字(動詞)が使われています。これは単に軍隊をそう呼んだというのではなく、組織され有事に備えて常設して待機させてある軍隊を「(命令して)發動させた」ということです。「國家が有事に備えて常設して待機させてある軍隊」というのは、通常「國軍(國防軍)」と呼ばれるものです。「美濃師」「東海軍」「東山軍」という存在が國軍全体の幾パーセントに該当するのかは不明ですが、國軍が桑名郡家にとどまっている大皇弟(大海人皇子)側についたと知った近江朝側の人々は「是時。近江朝聞大皇弟入東國。其群臣悉愕。京内震動。或遁欲入東國。或退将匿山沢。」

「是の時に、近江朝、大皇弟東國に入りたまふことを聞きて、其の群臣悉に愕ぢて、京の内震動く。或いは遁れて東國に入らむとす。或いは退きて山澤に匿れむとす。」(岩波古典文学大系68『日本書紀 下』の訓読文)となるわけです。従来はこれを『日本書紀』の修辞とみていたのかもしれません(或いはそうでないかもしれません)。確かなことは、「美濃師」「東海軍」「東山軍」と呼称される國軍が存在していたということです。

 

筑紫國は特別な國

 

もうひとつ注目すべきことがあります。近江朝側が次のような認識をしていることです。

「其筑紫大宰栗隅王与吉備國守当摩公広嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。」

「其れ筑紫大宰栗隈王と、吉備國守當摩公広嶋と、二人、元より大皇弟に隷きまつること有り。疑はくは反くこと有らむか。若し服はぬ色有らば、即ち殺せ。」(岩波古典文学大系68『日本書紀 下』の訓読文)

筑紫大宰栗隈王と吉備國守當摩公広嶋この二人は、元々大皇弟の直属の配下だったというのです。だからこちらにつかなければ殺せと言っています。筑紫大宰や吉備國守になる人物の上司だったというのです。さらに注目すべきは、近江朝から筑紫大宰に援軍をよこせという命令に対して、栗隈王の応答が「筑紫國者〔中略〕今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。」と言っています。

「筑紫國は、〔中略〕今命を畏みて軍を發さば、國空しけむ。若し不意之外に、倉卒なる事有らば、頓に社稷傾きなむ。然して後に百たび臣を殺すと雖も、何の益かあらむ。豈敢へて徳を背かむや。輙く兵を動さざることは、其れ是の縁なり」(岩波古典文学大系68『日本書紀 下』の訓読文)

栗隈王は、「(筑紫大宰のもとにある軍隊は、)筑紫國を守る軍隊なのだから、筑紫国を空にしてもしものことがあったら社稷が傾くから出動させることはできない、これが援軍をださない理由だ」と言っているのです。二つのことが見えます。一つは筑紫大宰のもとには特別な軍隊(指揮官は大宰帥)があるということ。この軍隊は筑紫国を軍管区としていること。

もう一つは、栗隈王が「社稷」といっていることです。もしこの社稷が「近江朝廷」だとすると矛盾です。栗隈王のいう「社稷」は薩夜麻の帰国によって再建された倭国(九州王朝)ということにならざるを得ません。

 

以上から、①筑紫大宰のもとにある軍隊は「筑紫國」を守る軍隊であること、②筑紫國内に社稷(朝廷)があること、がわかります。朝廷(王宮)のある筑紫國を守る軍隊とは何でしょうか。私は、「首都防衛軍」であると考えます。首都以外は官道(軍管区)ごとに國軍(方面軍)がおかれたのでしょう。

この『日本書紀』にある「東海軍」「東山軍」は東山道軍、北陸道軍、東海道軍、西海道軍、南海道軍、北海道軍などが置かれたという仮説の例証になるのではないでしょうか。

 

また、妄想の域に踏み込めば、「美濃師」があったのであれば、武蔵路には「武蔵師」、信濃路には「信濃師」、飛騨路には「飛騨師」、木曾路には「木曾師」が置かれたのかもしれません。

そしてこの軍管区「○○道」の「○○道軍」の最高司令官が「○○道都督」であったのではないでしょうか。

私は、「評」は行政区分であるが「○○道」は軍管区であると考えています。

« 「元嘉暦」の知識2《基本知識》2 | トップページ | 『日本書紀』の「太歳」を考える ― 仲哀と仁賢の謎 ― »

コメント

山田さんへ

すごい発見です!
ありがとうございます!!
また古代官道について,「やる気のスイッチ」が入りました。
今後ともよろしくお願いいたします。m●m

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/65161/65295364

この記事へのトラックバック一覧です: 「○○道」はやはり軍管区であった― 天武紀の証言 ―:

« 「元嘉暦」の知識2《基本知識》2 | トップページ | 『日本書紀』の「太歳」を考える ― 仲哀と仁賢の謎 ― »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ

最近のトラックバック