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2018年5月21日 (月)

九州王朝の「東大寺」問題(1)~(3)

九州王朝の「東大寺」問題(1)~(3)

総国府寺はどこか(その1)[古田史学][著書や論考等の紹介]

 

 古賀達也さん(「古田史学の会」代表、多元的「国分寺」研究発起人)が、自ら提起された《九州王朝の「東大寺」問題》(九州王朝にとっての「東大寺」〔総国府寺〕はどこか)というテーマについての考察をご自身のブログ 古賀達也の洛中洛外日記 で連載されています(古田史学の会HP新古代学の扉」にも掲載されています)。

 

 私の多元的「国分寺」研究サークル活動の一つとして、古賀達也の洛中洛外日記の《九州王朝の「東大寺」問題》の記事は、古賀さんのご了解のもと、引き続きご紹介させていただきます。

なお、「総国府寺はどこか」は私が「私のブログ記事の
副題」として私の責任でつけたもので、古賀さまに了解を受けているわけでではありません。古賀さまには関りのないものであることをお断りしておきます。


第1667話 
2018/05/10
九州王朝の「東大寺」問題(1)


第1670話 
2018/05/12
九州王朝の「東大寺」問題(2)

第1671話 2018/05/13
九州王朝の「東大寺」問題(3)


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九州王朝の「東大寺」問題(1)

 

 一昨日の東京出張では、代理店やお客様との夕食の予定が入らなかったので、肥沼孝治さん宮崎宇史さん冨川ケイ子さんと夕食をご一緒し、夜遅くまで5時間以上にわたり古代史談義を行いました。そこでの話題は、『論語』の二倍年暦、多元的「国分寺」研究、九州王朝の「東大寺」問題、そしてわたしが5月27日の多元的古代研究会主催「万葉集と漢文を読む会」で発表予定の「もう一つのONライン 670年(天智九年庚午)の画期」など多岐にわたり、とても有意義でした。

 中でも精力的に多元的「国分寺」研究に取り組んでおられる肥沼さんとの対話には大きな刺激を受けました。古田学派の研究者で進められている多元的「国分寺」研究の成果はいずれ『古代に真実を求めて』で特集したいと願っていますが、そのためにはどうしても避けて通れない研究テーマがあります。それは九州王朝にとっての「東大寺」はどこかという問題です。

 大和朝廷による国分寺の場合、その全国国分寺の「総本山」としての東大寺がありますが、もし九州王朝による「国分寺(国府寺)」創建が先行したのであれば、同様に九州王朝にとっての「東大寺」が九州王朝の中枢領域(筑前・筑後)にあってほしいところです。ところがその九州王朝「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないのです。しかも、この問題についての古田学派内での研究を見ません。この問題抜きでの多元的「国分寺」研究特集は完成しないとわたしは思うのです。(つづく)

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九州王朝の「東大寺」問題(2)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないという問題を検討するうえで、まず押さえなければならないのはその時代です。九州年号の倭京元年(618)以降の7世紀前半であれば太宰府(倭京)遷都後ですから、その建立地は筑前と考えるべきでしょう。それ以前の6世紀なら筑後の可能性が高いように思います。もちろん肥後や肥前の可能性も否定できません。

 九州王朝が「国府寺」建立を諸国に命じたのは告貴元年(594)が有力とわたしは考えています。その詳細は「洛中洛外日記」718話「『告期の儀』と九州年号『告貴』」に記しましたが、おおよそ次のような理由です。

 ①九州年号「告貴」は「貴を告げる」という字義であり、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とはよほど貴い事だったと思われる。

 ②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に次のような「国分寺(国府寺)建立」記事がある。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 ③この年は推古2年だが、『日本書紀』の同年に次の記事がある。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 ④これらの史料事実から、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)を建立せよという「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性がある。

 ⑤そうであれば、『日本書紀』推古2年条の佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映と考えられる。

 以上ような論理展開により、わたしは九州年号「告貴」は九州王朝の「国府寺」建立詔に基づく年号と考えました。従って、告貴元年頃に九州王朝が全国の「国府寺」の「総本山」を建立したとすれば、その場所は太宰府遷都以前の王都と考えられる筑後が最もふさわしいということになります。しかし、6世紀末頃の大型寺院遺構が筑後から出土したという報告を今のところわたしは知りません。(つづく)

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九州王朝の「東大寺」問題(3)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院遺跡が筑後から見つかっていないことから、次に7世紀初頭から太宰府遷都した倭京元年(618)頃の筑前を検討してみました。

 九州王朝を代表する寺院である観世音寺は創建が白鳳10年(670)と考えられますから、全国国府寺の「総本山」とすることができません。この他には太宰府条坊都市内に「般若寺」が出土していますが、これも創建瓦として観世音寺と同じ老司Ⅰ式が出土しているため、7世紀後半頃となり、「総本山」とするには時代が新しく対象から外れます。

 そこでわたしが注目しているのが観世音寺寺域から出土した百済系素弁軒丸瓦です。「洛中洛外日記」1638〜1644話「百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)〜(6)」で論じましたが、白鳳10年創建の観世音寺に先行する寺院がこの地に存在していたことはまず間違いないと思われます。ただ、礎石などの遺構は不明です。太宰府条坊の右郭中心部の「通古賀」の北東ですから、条坊都市造営に当たり、全国国府寺の「総本山」が置かれていても妥当な位置ではないでしょうか。しかもご本尊は百済伝来の阿弥陀如来像ですから、格式からしても問題ないと思いますがいかがでしょうか。

 この他の有力候補遺跡としては筑前ではありませんが、小郡市の井上廃寺があります。出土瓦編年の再検討が必要ですが、候補としてあげておきたいと思います。

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コメント

わたしは594年の66ヶ国国府寺説には疑問を持っています。
当時は中国では隋の時代ですが、そこには全国に塔を設けると言うのはありますが、全国に同じ名称の寺院を造った例がありません。
もう少し時代が下った唐になると、武則天以降3例あります。
この国府寺の話しは後の時代の付け加えと思います。
ただし、同じ名称の寺院で無くて、国毎に寺院を造らせたというのは可能性のあることと思います。

hattoriさま
コメント・ご指摘ありがとうございます。

>594年の66ヶ国国府寺説には疑問を持っています。

たしかに594年に諸国が66ヶ国あったということは疑問です。

>国府寺の話しは後の時代の付け加えと思います。

後の時代で付け加えた話であったということも考えられますが、日本国の聖武天皇が始めて統一的な寺院名(金光明四天王護国之寺・法華滅罪之寺)の官寺を建立させたという話はもっと疑問に感じます。少なくとも700年以前は倭国(九州王朝)の時代で、その国府に付属寺院(官立の寺院)があったのであれば(なかったのであれば根底的に否定されますが)、九州王朝のもとで統一的な名称で寺院が建立或いは改称などで設けられたと考えるのは無理な話ではないと思います(史料根拠のない妄想ですが)。

もし、それが統一的寺院名ではなくて「筑紫寺」「播磨寺」「伊予寺」などのように諸国の国名を冠する寺院名であったとするならば、その伽藍様式は同一ではなかったか、というような妄想すら覚えます。さらに妄想を暴走させれば、当初には統一的伽藍様式がなかったとしても、既存寺院を改造した諸国「国分寺」が、後から完成した「東大寺」の伽藍配置(正確に言えば「国分二寺図」)に似せて改造を加えたようなことすらも、「日本国」以前の時代(九州王朝時代)に前例があったからではなかったか、ということも私は考えています(もちろん妄想です)。

この妄想の根拠(??)は日本国の「始めて」というのはほとんど「倭国(九州王朝)のものまね」ばかりだからです。日本国の「始めて」というを信じるのは「一元史観」だけで、多元史観の感覚では日本国の「始めて」というのはまず信じられるものではないと私は思っています。

hattoriさんに対する反論にならない(根拠のひとかけらもない)妄想ばかりで申し訳ありません。

山田様
全般を否定する意見では無くて、国府寺の名称にこだわらなくてよいのでは、
もし統一名称であってもこの時期にこだわらない方がよいのでは、という意見です。
その程度におとりください。
1、実は、隋書には無いのですが、法琳(572-640)が選定した『辯正論』という文献に
「(開皇五年585)~始龍潜之日 所経行処四十五州 皆造大興國寺」というのがあって、
ここから585年に既に全国に同一名称の寺院を造ったのだと当初私は考えていました。
しかし、「龍潜之日」というのは天子になる前のことですので585年ではありません。
隋の楊堅は天子になる前に大興國寺を45州に造らせたということになりますが、この記事の前の所で開皇四年584に大興國寺と大興善寺を造ったとあるので矛盾しているのです。
この矛盾を解消するには、「龍潜之日」を楊堅の死後604年以後のことと考えねばなりません。
そうすると、594年では倭国の方が早いとなってしまうのです。
2、これは以前にも言いましたが、『聖徳太子伝記』には九州年号が数カ所使われていて、1つの理由として、九州年号があるのは九州王朝の記事の転用の証拠として594年説が出ていますが、
この部分は九州年号の記載がありません。九州王朝の記事の転用だと私も考えますが、その594年というのは少し疑ってみてもよいのではないかと思います。
3、私は次のように考えます。
(1)遣隋使の600年以降から7世紀初頭にかけての時期に、倭国の国家事業として全国に寺院の建立が行われた。
(2)その後のある時期に、国府寺を建立もしくは(先の寺院の中から)選定することがなされた。
(3)近畿天皇家が政権をとった後に(聖武天皇の時代か?)、先の国府寺を踏まえて、始めて国分寺を建立・選定した。

hattoriさま
ご指摘の補足説明及びご教示ありがとうございます。

>全般を否定する意見では無くて、国府寺の名称にこだわらなくてよいのでは、
もし統一名称であってもこの時期にこだわらない方がよいのでは、という意見です。

私もそう受け止めましたが、妄想癖がありつい妄想を述べてしまいました。

国分寺遺跡を(まだほんの少しだけですが)見ると、金堂だけ(あるいは塔だけ)が建立されていて、
後から(少し時代が降ったと感じますが)塔や金堂などが追加造営されているケースが多いように感じています。
通説では蘇我氏の氏寺「飛鳥寺」(一塔三金堂といわれている)が最初の寺院とされており、わが国の「寺院」は「金堂」または「仏塔」だけの時代はないとされているようですが、仏塔と又は金堂だけを建てて「寺」としていた時期(初期段階)があったのではないかと妄想しています。そう考えると古代寺院遺跡の謎が少なくなるように思われます。

>(1)遣隋使の600年以降から7世紀初頭にかけての時期に、倭国の国家事業として全国に寺院の建立が行われた。
 (2)その後のある時期に、国府寺を建立もしくは(先の寺院の中から)選定することがなされた。
 (3)近畿天皇家が政権をとった後に(聖武天皇の時代か?)、先の国府寺を踏まえて、始めて国分寺を建立・選定した。

hattoriさんのこのお考えにつきましては、倭国も「中国のものまねをしている」と考えれば、「(1)遣隋使の600年以降から7世紀初頭にかけての時期に、倭国の国家事業として全国に寺院の建立が行われた。」と考えるのは妥当と思われます。
ただ、中国では仏教は北朝だけに伝わったわけではない(北朝による大弾圧もあった)でしょうから、南朝(隋に滅ぼされる前)あるいは南朝系百済と通交していた時代に仏教は倭国(九州王朝)に伝わっていたと私は考えます。とすれば倭国王家の氏寺や諸国地方権力者の氏寺が600年以前から全国各地に建立されていた(蘇我氏の飛鳥寺のように)と考えられます。
と考えれば倭国(九州王朝)が「隋のものまね」ではなく、わが国が隋より先に「既存寺院(多くは某かの氏寺)から国府寺(国税でまかなう官寺)を選定した(適当な氏寺が無ければ建立した)」という可能性は捨てられないのではないでしょうか?
(当然、国税を徴収する中央集権的制度が前提になりますが・・・)

古代官道にせよ、仏教にせよ「隋・唐」から始まったわけではないので、このような妄想もしてしまいます。

ただ、この妄想も(1)(2)(3)のお考えに反論しているわけではなく、「捨てきれない妄想」とお考え下さい。

いつもご教示くださり、ありがとうございます。

山田様
仰るとおりわたしは、国家事業としての全国での寺院建立は隋もしくは唐の影響を受けたもの
という前提で話しました。ご指摘のように南朝よりの影響も十分に考えられます。
しかしわたしの知る限り、全国に同一名称の寺院建立の記録が残っているのは、隋と唐であって、
梁にも陳にも見当たりません。
特に梁の武帝(蕭衍)の仏教帰依は、捨身(自身の身を寺院に差し出し、その身柄の引き取りのための身代金を支払うことで寄付する)を3度も繰り返すような形で行っています。文字通りの仏教帰依です。
これに較べると、隋の場合は「菩薩天子として人民を導く」という政治の手段として利用しています。
わたしはこれが国家仏教と考えています。その後620年代(唐)になると、道先仏後の方針で僧尼の
活動に制限をかける方向(道僧格)に変化します。
このような時代背景を考えると、倭国の国家事業としての寺院建立は隋の影響が大きいと考えざるをえないのですが。

hattoriさま
重ねてのご教示ありがとうございます。

>梁の武帝(蕭衍)の仏教帰依は、捨身(自身の身を寺院に差し出し、その身柄の引き取りのための身代金を支払うことで寄付する)を3度も繰り返すような形で行っています。文字通りの仏教帰依です。
これに較べると、隋の場合は「菩薩天子として人民を導く」という政治の手段として利用しています。
わたしはこれが国家仏教と考えています。

おっしゃる通り「全国に同一名称の寺院建立」・「国家仏教」という点では「倭国の国家事業としての寺院建立は隋の影響が大きいと考えざるをえない」と思います。

ただ、「海東の菩薩天子」「海西の菩薩天子」という、対等意識というか対抗意識というか、
そのような過剰意識がどこから生まれてくるのかを考えると、
単に「隋の影響」と考えると「ただのコンプレックス(劣等感)」として説明せざるを得ず、
「馬鹿な倭國王」という評価にならざるを得ません(古今東西、馬鹿な指導者がいることは確かですが)。
倭国が年号を建てて冊封体制から独立した時期は、南朝でも梁の武帝(蕭衍)のような皇帝も出ている通り仏教が国家指導者に浸透していた時代と考えられますので、「全国に同一名称の寺院建立」をしたと考えなければ、独立国の指導者(中国皇帝という頼るものがなくなってしまった)として「仏教に帰依」し、さらに「鎮護国家」(仏に自身の朝廷の安泰を護持してもらう)という思いに駆られ、全国の国府に寺院の建立を進めたとも考えられます。それが「自信」というか「菩薩天子はお前だけじゃないぞ」という意識の根底にあったればこそ「海東の菩薩天子」「海西の菩薩天子」という国書の文言につながったのだと妄想いたしました。

倭國はもともと南朝系国家であり、北朝(独立後は南朝にも)に対する北側の防備は朝鮮半島に南朝系国家を藩屏として配し、海を渡って有明海側からの襲来に備えるという国家防衛策を一貫して取ってきたましたので、隋に対してあのような国書を出したのだと考えられます。あの国書は北朝隋に傾倒する前のものだと私は考えました。隋に傾倒する馬鹿な倭国天子がついうっかり「海東の菩薩天子」「海西の菩薩天子」という国書を出してしまったとするなら、倭国には馬鹿な君主だけではなくそのような国書を出すとどのような事態が起きるか予測できない臣下しかいなかった、ということになります。
そのように歴史を解釈するのは私の性に合わないので、倭国は北朝隋のまねをしたのではなく独自に全国に寺院を(国家事業として)建立したと妄想したわけです。

私はこの妄想を温めているというだけのことで、決してhattoriさんの「倭国の国家事業としての寺院建立は隋の影響が大きいと考えざるをえない」を否定しているわけではありません。

度重なるご教示を頂きまして、本当にありがとうございます。

山田様
服部様

服部様の以下のコメントに少々異議を唱えます。

>1、実は、隋書には無いのですが、法琳(572-640)が選定した『辯正論』という文献に
>「(開皇五年585)~始龍潜之日 所経行処四十五州 皆造大興國寺」というのがあって、
>ここから585年に既に全国に同一名称の寺院を造ったのだと当初私は考えていました。
>しかし、「龍潜之日」というのは天子になる前のことですので585年ではありません。
>隋の楊堅は天子になる前に大興國寺を45州に造らせたということになりますが、この記事の前の所で開皇四年584に大興國寺と大興善寺を造ったとあるので矛盾しているのです。
>この矛盾を解消するには、「龍潜之日」を楊堅の死後604年以後のことと考えねばなりません。
>そうすると、594年では倭国の方が早いとなってしまうのです。

 当方の理解では、この『辯正論』の記事の「開皇五年」という年次に直接結びつく部分は「皆造大興國寺」だけであって、その前の「始龍潜之日 所経行処四十五州」という部分の年次は、そこに書かれた「始」という文字が示すように「開皇五年」ではないと思われます。
 編年体などにおいて、年次が示された後に書かれたものは原則その年次に起きたことと理解すべきですが、その関連として「以前はこうであった」などという事項を記そうとする場合、「始」「初」「後」などというような「文字」を示す事によりその年次と切り離す記述法が用いられるようです。
 例えば以下の「武帝紀」の例では、「初平十年春正月」という年次の記事の中で別の時点の事を述べるときには『初討譚時』、『後竟捕得』というような表現をしています。

「初平十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。下令曰 其與袁氏同惡者,與之更始。令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之于法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封為列侯。『初討譚時』,民亡椎冰,令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰 聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。民垂泣而去 『後竟捕得』。」「三國志/魏書 武帝紀 曹操」

 この『辯正論』の記事も同様に考えるべきではないでしょうか。つまり「皇帝」になる以前の「龍潜之日」に四十五州に「経」を「行」ったことがあり(それが事実かは別として)、その「州」に対して「皇帝」即位後「大興國寺」を造ったというわけです。そうであれば「倭国」の場合よりも年次として前になりますから「矛盾」はなくなります。少なくとも「潜龍之日」というのが「死後」を示す例は見あたりませんから、これを「高祖」死後のことと理解する必要はないと思います。

James Macさま
いつも閲覧とご教示ありがとうございます。

お説の通りとすれば、
『聖徳太子伝記』による「594年説」も疑問ではない
ということなのですね。

ご教示ありがとうございます。

James Mac様
山田様
ご指摘ありがとうございます。
もう一度弁正論の当該カ所を読んで、James Macさんの理解が良いと思いました。
そうすると、楊堅は581年即位、584年に育った般若寺を大興國寺とし、出身地の随州に
大興國寺を造り、京師に大興善寺を造ったのち、585年そこで菩薩戒を受けるのです、その間に四十五州に大興國寺を造ったことになりますね。諾。
「594年説にこだわらなくてよいのでは」という私の考えの理由に、あと2点の理由があります。
倭国がこの情報を何時知ったかと言う点です。遣隋使は600年と607年(楊堅は604年に亡くなっていますので後者は煬帝の時期です)と隋書ではなっていますので、私はここで確実な情報と政策意図を理解したのではないかと考えました。
次に、594年説の出所である『聖徳太子伝記』の太子二十三歳項の国府ごとに仏閣建立記事には、次のような前後文があります。
「しかれば法花(華)経には聚沙為佛塔皆己成仏道と説給へり。いかにいはんや財寶を随分つくして堂塔を造立し供養するをや、しかればすなわち天竺がらんのはしめは須達長者一百余院をこんりうせし祇園精舎これなり。震旦国には漢の明帝の御世に建立し給ひけり。白馬寺の佛閣すなわちこれ漢朝の精舎ののはしめ也。日本我朝には又いまの佛法最初四天王寺これなり。はやくをの〃〃力をはげまして国々所々に下向して国府ことに大伽藍をこんりうし給へり。かるがゆへに諸国にこと〃〃く1カ所づゝからんを造立し侍りけれは、財ある者は一人か願として佛閣を建立す。これによってたかき山の峯、ふかき谷のそこ在々所々に大小の堂塔佛閣諸国に充満してそのかずをしらす建立し侍り。此年より仏舎を寺となづく。これより以前はあるひは大殿、あるひは仏舎と称、又は人形殿となつく。」
これによると、「国府寺」ではなく「寺」と名付けたことになります。

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