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2023年9月13日 (水)

「蕨手文」の証言 ②―上田市周辺の「複合・蕨手文」―

 「蕨手文」の証言 ②上田市周辺の「複合・蕨手文」[コラム]

 吉村八洲男さまから、多元的古代研究会の会誌「多元 No177 SEp.2023」に掲載された論稿をご寄稿いただきましたので掲載いたします。私事にて掲載が遅れましたことをお詫び申し上げます。

 なお、多元誌と当ブログでは、段組みや縦横書き等、表示上多くのことが異なります。それに伴って、論稿の原文・写真サイズ等を編集しています。また、ブログでは山田が独断で注記を加えております。それらのことをご承知おきください。

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「蕨手文」の証言 ②

上田市周辺の「複合・蕨手文」

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 前号(注1)6月例会(注2)で、全国で上田周辺だけにある『6枚の「蕨手文・瓦」』追及の重要性を指摘した。『「蕨手文・瓦」はいつの時代を示すのか?』

 今回は「蕨手文」から推論を試み、九州(「王塚」)と「上田」との密接な関係を論断したい。我々は認識すべきと思われる、『王塚古墳築造の一族が、上田へ進出した!』

 

2.「蕨手(わらびて)文」について

 最大公約数的ではあるが、「蕨手文」を以下のように理解する。

 「の」の字形、さらにそこに直線部分を持つ文様の総称で、形状が「蕨(手)」に似る事からこう名称付けられる(日本だけの用語だが)。文様は単独形を基本とし、左右(上下)方向へ「対」に又は「連読」して描かれ、蕨手が同時に左右を向いている「双頭形」としても描かれている。基本とする文様形状の類似から、「葵(き)文」「渦巻文」なども「蕨手文」の範疇に含めて良いと思われる。

 この文様は、人類始原期から、東アジア一帯で、身近に使用された文様である(近世にも使用例がある)。日本でも縄文期・弥生期・古墳期を通じ出土する。「土器」「剣の装身具」などに刻まれるが、「剣の柄」の形状を「蕨手」にデザインした例もある。中国では「西周」以後の「瓦の歴史」でも重要な位置・役割を果たしている。「(軒丸)瓦文様」として使用される例が多いからで、中国を代表する「雲文様」も「蕨手文」の変化形・発展形と考えられているようだ。

 この文様の発生時期・意味・歴史などについては諸説がありここで言及しきれない。

 だが一つの肝要事がある。それは蕨手文様史上ある画期が九州「王塚古墳・蕨手文壁画」に認められる事だ。「王塚古墳・壁画」にしか認められないある重要事があるのだ。

 それが、「蕨手文形状(の変化)」である。これが「王塚古墳」を中心とした「6世紀古墳壁画」だけに明瞭に現れる。発見した考古学者はそれに驚き、「王塚古墳」の「蕨手文」を「複合蕨手文」と名称付け、独自な様式と認定し「分類」も試みる。

 「の」の字形蕨手文、「対」と思える2種の「蕨手文」を「Aタイプ外向き」と「Bタイプ内向き」とし、計「三分類」としたのだ。

(出典:「描かれた黄泉の世界 王塚古墳」 柳沢一男 新泉社 から)

① 『複合蕨手文様』 「の」の字形
図1
Photo_20230913144101

②『複合蕨手文』 Bタイプ「内向き蕨手文」
図2
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③『複合蕨手文』 Aタイプ「外向き蕨手文」
図3
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 「それまでにない日本独自の蕨手文様」と判断された理由を説明する。

 中国「蕨手文・雲文」などでは、文様は「線」で描かれる。基本形は、一本の線で描かれる(「雲文」瓦は、分割線で区切られた中に基本形・派生した文様を持つ)。

 それに対し「王塚・蕨手文様」では、「一つの蕨手文様」作成に「複数の蕨手(線)」が使われる。さらにその「線」を使い「面」も造られているのだ。

 それがそれまでの「蕨手文」とは全く異なっていた。「画期」とされる所以なのだ。

 「王塚・壁画」の「外向き蕨手文(図3)」で確認してほしい。まず「緑色(線)」で「蕨手」が2個描かれ、さらに「赤色・黄色」を使い「蕨手(面)」が描かれる。

 「複数の色による線(面)」から一つの「蕨手文様」が造られているのだ。「蕨手文」が重なっているのである。

 この特徴ある文様作成法は、分類された『内向き蕨手文(図2)』、『「の」の字形蕨手文(図1)』でも同じであった(だから「複合蕨手文」と判定されたのだ)。

 もう一つ奇妙な事にも気づいた。この「複合蕨手文」は、北九州で「6世紀」築造の「古墳」にしか認められなかったのだ。「外向き複合蕨手文」は「6個」(9個説もある)の「古墳」から、「内向き複合蕨手文」に至っては「王塚古墳」にしか認められなかったのだ(後に「金官伽耶」王墓から「外向き蕨手文」が認められるが)。

 だが、それ以上の追及はなされなかった。「複合蕨手文」は「王塚古墳」を中心とした「6個の古墳」にしか残らない貴重な文様とされ、それが定説となっている。

 

3.真田(上田市)の「蕨手文」

 真田町「出早雄(いずはやお)神社」境内にある「5社」と呼ばれる5個の「神社型小石祉」を観察していた時だ。奇妙な文様が「5社」石祉の特定位置に刻まれている事に気がついた。

真田町本原「出速雄神社」内・「5社」 図4    特定位置(斜線部)図5Photo_20230913144501

豊受皇大社 図6         金毘羅社 図7     正八幡社 図8Photo_20230913144801

 驚くことに古い苔むした「神社型小石祉」すべてが「神社名」を持ち「神」を持ち崇拝を受けていた。私は当たり前としていたある重要事に再度気づかされた。『「神社型小石祉」は、往時、「神社」だったのだ!』

 小石祉となった理由は様々であろう。体制変化による神の変化が最大理由だろうが、建築物の劣化・事故、自然災害による散逸などがすぐに想像された。

 「合祀(ごうし)」からは神々の共存が許されたとも思えた。散逸していた神々・神社が「小石祉」となり、再度神社境内に集められ祀られたと思量された。

 だから確信したのだ。「石祉」が「神社」だったなら、特定の位置(場所)にある「文様」には「特別な意味」がある筈だ!

 その位置は「懸魚(けぎょ)」と呼ばれ、現代神社(建築)でも「最重要」とされる場所である。ここに「神紋」を置き、信仰の姿を示すのが普通と思える。

 私は結論した。「神社型小石祉」が神社だった時、「神社神紋」もこの位置にあった。「小石祉文様」は、往時の「神社」の信仰の姿を示している!そして思った。これら多くの「小石祉」に、ある特定する「文様」が認められた時、文様に代表されるある「信仰」を、この神社は持っていた、と。

 そして何回か真田町の神社を訪れ気が付いた。「これは『外向きタイプ・複合蕨手文』ではないか?」。調べ廻った真田神社境内の「小石祉」には、「出早雄社」と「類似する文様」が数多く残されていたのである。

横尾社 図9     戸沢社 図10          実相院 図11
Photo_20230913145201

 共通する特徴が解る。『「対(左右に)」となる蕨手が、外方向へ、複数本描かれている』のである。「外向き・複合蕨手文」の特徴そのままだった。類似の文様も次々と発見された。「真田町・神社境内」の「小石祉」の「定位置(懸魚)」には、多くの「外向き複合蕨手文」がデザインされていたのである。

 とにかく私は驚いた。真田町の神社を片っ端から探し回ったものだ。

天満宮 図12        三峰社 図13    誉田足玉神社 図14
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 驚くことに、「真田町・神社」からは「16個」の「外向き複合蕨手文」が確認された。ない筈の「複合蕨手文」が、「真田町(上田)」にはあったのだ!!

 「王塚古墳・壁画・外向き複合蕨手文」が「真田町・小石祉・外向き複合蕨手文」へと変化する過程は容易に予想できた。

「王塚古墳・壁画」 図15    「真田町・神社型小石祉」 図16
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 私は手を広げ上田地域を中心に千曲川中流域を探し廻った。そして、続々と発見したのだ。 「50個(以上)!」、とんでもない合計数だったのだ!

 念のため、「上田市」での「外向き複合蕨手文(の一部)」を提示する。

(はなぶさ)神社 図17 東條建代神社 図18  堀川神社 図19
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 「50個以上の文様」はすべて「写真採録済」だ。すべてをこの紙上で提示したいのだが、スペースがない。「石祉」所在場所(神社)を、地域地図に落とし込む。

「外向き複合蕨手文」を「懸魚」に持つ石祉(神社)所在略図 図20
図20
Photo_20230913145801

 

4.終わりに

 この略地図は様々な教示を与えてくれる。更なる「考古資料」と考え併せると主張とする「ある歴史定説の再考」が暗示されると思えるが、それへの言及は次号となる。

 ただ、確定させてほしい。九州以外には認められない「外向き複合蕨手文」が、上田周辺には「50個以上」残っている事実だ。その理由は、説明されるべきであろう。

 だが私にとって、上田の「謎の蕨手文・瓦」解明が可能となった事が喜ばしい。

 「王塚・壁画」では、「内向き」・「外向き」が対になって表示・使用されていた。上田「謎の蕨手文・瓦」は「内向き蕨手文」である。だとしたら、「50個」の「外向き蕨手文」を「懸魚」に使った人々が、「内向き蕨手文」を「瓦」に使い「蕨手文・瓦」を造ったと推量出来ないだろうか。貴重な「内向き蕨手文」を「瓦・寺」へ使い、進出してきたと思えるのだ。「謎の蕨手瓦」は「6世紀の瓦」と結論される。

(終)

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注1 前号 ‥‥‥ 次のブログ記事として掲載しています。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった2023年829()

注2 6月例会 ‥‥‥ 多元的古代研究会で催された6月例会で、「青木村 「8点瓦の証明」」と題する発表で使ったスライドをご寄稿いただいており、次のブログに掲載しています。吉村さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。
「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―2023年913()

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」―

「多元の会」6月例会で使った「スライド」―青木村 「8点瓦の証明」[コラム]

 吉村八洲男さまからこのスライドのご寄稿に際し、「説明記述はありません」とのコメントを頂いております。発表は口頭でなされているため資料の写真が主です。これもブログに掲載した方が良いと判断しました。スライドの画像のスクリーンショットを掲載しています。ご了承ください。

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2023年9月 2日 (土)

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言―

「多元」月例会(令和5年7月)―青木村「蕨手文瓦」の証言[コラム]

 吉村八洲男さまから届いていた「多元の会」の令和5年7月例会の論稿を遅ればせながら掲載いたします。複合蕨手文を古墳に使った一族が上田へ進出した説明がされる次号が待ち遠しいですね。

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多元」月例会(R5・7)

青木村「蕨手文瓦」の証言

上田市 吉村八洲男

 *「瓦・8点」の内、「蕨手文軒丸瓦・軒先瓦・丸瓦・女瓦」を持参しました。私論考をご理解される時、どうか参考にしてください。

 

1.初めに

 「多元誌」7月号(No.176)で、上田市に隣接する青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告(注1)しました。「瓦8点」(注2)が示す重大さ・『8世紀「信濃国分寺」の補修用に焼成された瓦ではなく、「東山道」経由で関西(?)から搬入された瓦でもない』・に改めて気が付きます。

 

2.「青木瓦8点」の詳細

① 「瓦8点」が神社へ至るまでの由来

 宮司・「宮原満」氏から説明を受けました。古来からの歴史を持つ地域の名社である事、「神社(里宮)」の位置が変遷を重ねた事、「社宝」が多く「土器」なども多く寄贈されていた、などでした。そして「8点」瓦の詳細ないきさつが昭和17年作成の「神社昇格祈願書」に書かれている、と言われました。

 私は「神社昇格書」を調査しました。そこには『9点の「瓦」が「農民」から寄贈された』と明記されていたのです。その際の写真も添付されていました。写真には今回確認された8点中「4点の瓦」が写っていました(もう1枚は紛失したという)。「瓦」に書かれた「9」という数字の意味が分かりました。「9点の瓦」が寄贈されたから、と判断されました。「8」「9」と「瓦」へ記して「瓦の数」を主張・確認したのです。だが、神社の所有中にそのうちの1点が紛失したようです。だから私が確認した時には「8点の瓦」となっていたのです。

 さらに「昇格書」には、「中挾(なかばさみ)」地区での神社所有地が複数記載されていました。広大な「農地」が点在していたのです。現在(江戸期古地図でも)、「中挟地区」には「こまゆみ」という「字(あざ)名」が残っています。「この地に神社があった」事は確実と思えました。「往時、そこに「神宮寺」を持っていた」という宮司の記憶・伝承が裏付けられたのです。「子檀嶺神社は、「中挟地区」に神宮寺を持っていた」のです。「農民」により、そこから「瓦」が出土したのです。「瓦」表面に書かれた「中○」とは、「中挾」ではないかと予想されました。「画数」が多いため、判読不明になっているのです(「赤外線調査」が必要です)。

不明と思える「数字・漢字」ですが、追及すると逆に「瓦」の真実、資料性が証明されます。「8点瓦の資料性」は確定的と思えました。この「瓦」は、『「中挾」地にあった「神宮寺跡」から「農民」により「9点」同時に発見され、そして「鑑定」後に「子檀嶺神社」に奉納された(返された)』のです。「神社昇格祈願書」はそう断言します。

② 8点瓦への「岩石分析」

 私は8点瓦を「岩石分析」する事としました。「真田での鉄滓」発見時にお世話になった地質学者「山辺邦彦」氏に依頼しました(氏については紹介済です)この論考では「蕨手文瓦」・「軒前(先)瓦」の「分析表」を提示します。残る「分析表・解説」などは、このブログ内に添付しますので、ご参照ください。
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 特徴的な「文様」を持つ2点の瓦だが「分析」からも驚くべき差異が見られた。「軒先瓦」(右)が異常で特殊な成分を持っていたのである。それが「火山ガラス」成分で、しかも少なからず含まれていたのだ。この成分は他の7点瓦には含まれない「特別な成分」だった。川辺氏は言った。

 『私の長年の研究生活でも、この成分を持つ粘土(「瓦」の成分)には遭遇した事がない。少なくも上田(長野県下でも)では見ていない。これを除く7点瓦は、多少の差異はあっても「流紋岩・そこからの由来土」と推定されるから、この「火山ガラス」成分の異常さが際立つ。シラス台地(又は類似地)の粘土由来が想像される。火山灰・火砕流が含まれやすいからだ、その候補としては「九州」が予想されるかも』。

 どうやら8点瓦中でも「軒先瓦」は特別な意味を持つ瓦と言ってよいようだ。「文様」だけでなく「成分」も特殊なのである。留意すべき「瓦」と思えた。

 続いて、氏は貴重な感想を述べられた。

 『「8点瓦」はすべて「須恵器」と言っていいほどに焼き固められている。瓦表面の「黒色」からは「1200度」前後の高温で焼かれた瓦と想像される。これは「須恵器」焼成温度でもある(「平窯」の内の「穴窯」で焼成された?「ダルマ窯」なら8~900度)。

 また、「成分分析」からは、「原料土」に「水簸(すいひ・みずぶるい)」を行い、「瓦用」に改良したかと思える例があった。長石・石英(を含む土・成分)の極端な偏在がそれを示す、そこからは「須恵器」作成に習熟した人々がこれらの「瓦」を造ったと想像される。

 そして「原料粘土」出土地が特定される瓦では、「立科町芦田坂山付近・土」使用が確認される』。

 そこは「千曲川流域」ではなく山間部である。予想外の場所だった。「信濃国分寺」創建以前の「瓦」(「須恵器的な瓦」も含め)の存在はまだこの地では確認されていない。貴重な資料となると思えた。そしてそれは、「初期仏教・初期瓦」へのある予想・推定へと繋がっていく・・・「青木8点瓦」分析からは、驚くべき推定が生まれたのだ。

③ 観察

 青木「瓦」で奇妙な事が確認された。「8点」中「4点」の瓦に「組み合わせ」があると思えたのだ。偶然からの「8点の瓦」ではないと予想された。確認が必要であろう。
Photo_20230902134701
Photo_20230902134702

 両者の「接合」は、疑われてよいと思える。全国でも貴重な例と思えた。

 「信濃国分寺」関連論考をまとめた「信濃国分寺・発掘50年誌(国分寺資料館発行)」中に、発掘された「蕨手文瓦」の接合技法を予想した図が載せられている。次図だ。
Photo_20230902134801
 「丸瓦」部分と推定される「瓦」が未発見のため「予測図」としたと思えるが、青木のケースと似ている事に驚く。

 青木「8点瓦」中では、「「蕨手文瓦」と「丸瓦」」に「接合」関係を認めてよいと思えた。両者には「接合・組み合わせ」があったのである。

 参考までに確認した8点瓦中、「蕨手文瓦」と「丸瓦」を重ねてみた。下図である。
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 下に置かれる黒色の瓦が「蕨手文瓦」で、その上に「丸瓦」を重ねた。ほぼ重なっていると見て取れよう。

 それぞれの「瓦」が持つ本義からも、「丸瓦」の先端に「蕨手文瓦」が接合されていたと思える。「瓦定説」に貴重な例として取り上げられてよいと思えた。

 青木「蕨手文瓦」にはさらに驚きの事実がある。

 「瓦」直径が「19.2」cmある事で、上田・坂城での既出土瓦の直径(5枚共に「17.8cm」)を大きく上回る。日本中に「7枚」しかないのだからその中での最長となる。「瓦定説」では、「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」(注3)が言われている。そこからは、青木「瓦」の古さが疑われてよいのである。上田「蕨手文瓦」よりは古いのではないだろうか。

 さらに「回転台(ろくろ)」を使用してこの「蕨手文瓦」が造られたか、とも観察された。これも貴重な例と思える。

 さて、もう一組の「瓦組み合わせ」を推測してみたい。
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 観察の結果、「軒先瓦」と「女瓦(平瓦)」のカーブが一致したのである。「まさか」と私は思った。再三確認したが間違い・誤解はなかった。『両者は「接合」されていた』と思えた。「軒先瓦」に残る「上部のざらつき(破断面)」もその結論を支持していた。

 驚くことに青木では、この二つは、別々の「瓦」である、でも「接合されていた」と観察されるのだ・・・「まさか!」。

 「瓦定説」は、そう言っていない。

 「宇瓦(吉村註・軒先(前)瓦のこと)は日本で独自に考案されたもので、それ以前は軒先にも女瓦が葺かれていたと考えられる」「(・前略・)斑鳩寺ではこの時、はじめて文様をもつ宇瓦を採用する。ここで用いられた宇瓦は、瓦当文様を笵押しするのではなく、一つひとつ手彫りする」(「古瓦の考古学」有吉重蔵編 ニューサイエンス社 2018 から)

 つまり、「女瓦」の先端部から「軒先瓦」が派生・生成するとし、最古の「宇瓦」は「斑鳩寺」(法隆寺)だと言うのだ(下図の「宇瓦」例を参考に)。
Photo_20230902135301

 青木の瓦はどうなるのだ!

 誰がどう見ても、「軒先瓦(宇瓦)」は「女瓦」とは別個に存在している。そして観察からは、「軒先瓦文様」が「笵押し」されたとも推測されるのである。「手彫り」ではないのだ。

 「瓦定説」からは、青木瓦はどう説明されるのだ?

 青木瓦は、「斑鳩寺」創建より「古い時代」に造られた、と私は推量する。勿論「信濃国分寺」創建(8世紀)より遥かに古くなる(「多元」誌の私論考(注4)をご覧ください)。

「瓦定説」への見直しも必須となる。それとも青木瓦は「定説」の範疇に入らない特殊な瓦だと言うのだろうか。

 最後に既・出土の上田「蕨手文瓦」と青木「蕨手文瓦」との関係について追述する。

 両者の関係は、『「蕨手文軒先瓦」が、「丸瓦」とどう接合されていたか』で簡略に判断できると思える。そこで、上田・坂城「蕨手文瓦」の裏面「接合部」を示す。Photo_20230902135501
 既に示した青木「蕨手文様瓦」「裏面接合部」と比較してほしい。目視でも「瓦の厚さ」が均一でないと解る(しかも凸凹している)。さらに、「接合部分」が広すぎたり、狭すぎたりしているとも解る。均等に「瓦裏面」に設置されていない。「瓦」とその「接合部分」の観察から、上田「瓦」の「作成技術の未熟さ」が読み取れるのだ。

 青木「瓦」が上田「蕨手文瓦」を生んだ、と断定してよいだろう。上田・坂城「蕨手文軒丸瓦」は、青木「瓦」から技術的な影響を受けたと思える。

 

3.終わりに

 「謎の瓦」と言われてきた上田「蕨手文瓦」だが、正しい作成時代はいつだろう。

 青木「瓦」は『8世紀「信濃国分寺」築造』どころかそれ以前の「瓦」か、と推定して来た。だがこれ以上の論議は「水掛け論」になりかねないとも思える。

 私は「瓦」に残る「蕨手文様」への追及が解決の「鍵」となると思っている。上田の「蕨手文」は、九州「王塚古墳・壁画」との緊密な関連を主張すると思っているからだ。

 「王塚古墳壁画」の「蕨手文」は、日本でも「王塚」にしかない独自な「複合蕨手文様」、と「考古学」からは言われている。もしそれが「上田」にあったなら・・・

 『古墳を築造した一族・「蕨手文」を使った一族が、上田・「科野」へ進出した』、のではないだろうか(次号で説明します)。そして「蕨手文一族」の進出が証明された時、『果たして「磐井の乱」があったのか』が次の大問題となるのだ。

 上田・「科野」での「60もの考古資料」は言っている。『上田へ「蕨手文一族」が進出して来た』、『「磐井の乱」はなかった、「磐井事件」があったのだ』と。

(終)

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注1 青木村「子檀嶺(こまゆみね)神社」での「蕨手文瓦(瓦当)を含む8点瓦の確認」を報告‥‥‥ 次のブログ記事をご覧ください。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年919()
なお、「初期瓦」と「仮設寺」2022124()でも論及しています。

注2 「瓦8点」 ‥‥‥ 詳細は次のブログ記事をご覧ください。
「初期瓦」と「仮設寺」2022年124()

注3 「直径大の瓦」⇒「直径小の瓦」 ‥‥‥ 瓦の大きさの変遷において、左側(大きい方)が右側(小さい方)より古いことを表すためにこの論稿では記号「⇒」を用いている。

注4 「多元」誌の私論考 ‥‥‥ 当ブログ(sanmaoの暦歴徒然草)の右欄にあるカテゴリーcategory 中の上から7番目にある「コラム」を選択すると吉村さんの寄稿論文を掲載したブログ記事が抽出表示されます。そのうち多元的古代研究会会誌「多元」に掲載されたものは次の通りです(掲載日の新しい順)。
「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―2023年829()
神科条里と「番匠」②―条里と「国府寺」(「多元No.174 Mar.2023」掲載)―2023年37()

2023年8月29日 (火)

大兄ではなかった中大兄皇子―ただの「中皇子」だった―

大兄ではなかった中大兄皇子
ただの「中皇子」だった[古代史]

 

Wikipediaの説明(以下Wikipediaの説明文の下線は山田によるものです。)

 「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。Wikipedia「天智天皇」より) 

大兄(おおえ、おいね)[1]は、6世紀前期から7世紀中期までの倭国(日本)において、一部の王族が持った呼称・称号である。大兄の称号を持つ皇子は、有力な大王位継承資格者と考えられている。

概要

「大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている。

当時、治天下大王の地位継承は、大王の一世王にあたる皇子(王子)に優先権が認められており、その中で長兄→次兄→・・・→末弟というように兄弟間で行われ(兄弟継承)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。当時は一夫多妻であり、大王家に複数の同母兄弟グループが存在していたが、この同母兄弟間の長男が「大兄」という称号を保有していた。従って、大兄が同時期に複数存在したこともあり、「大兄」を称する皇子同士でしばしば皇位継承の紛争が起こった[2]。

しかし、「大兄」は同時期に一人に限られていたとする説もある。これによると、「大兄」は皇太子の先駆ともいえる制度的称号であり、「大兄」の称号を保有する皇子が皇位に即くか、即位以前に死亡するかで「大兄」の地位が移動したという[要出典]。

大兄略史

『日本書紀』の中に「大兄」を付けて呼ばれる皇子は8人いる。5世紀前半に大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ、履中天皇)が「大兄」として初めて現れているが、制度としては未確立であったと思われる。「大兄」としての実在性が確かな最初の人物は、6世紀前期にいた継体天皇の長子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、安閑天皇)である。安閑天皇には男子がおらず、次兄の宣化天皇が後継したが同様に男子がいなかったため、末弟の欽明天皇が代を継いだと日本書紀は伝えるが、欽明天皇が安閑・宣化を滅ぼしたとする説、さらには欽明朝と安閑・宣化朝が並立していたとする説もある。

その後の「大兄」には欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子(やたたまかつのおおえのみこ)、欽明天皇を後継した敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、敏達天皇の異母兄弟である大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)[3]、用明天皇の子厩戸皇子(推古天皇の「皇太子」・「摂政」)の長子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の長子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいるが、これらの大兄のうち大王位に即いた例の方が少ない。さらに推古天皇の死後には、「大兄」の嫡男(田村皇子・後の舒明天皇)と「皇太子」・「摂政」の嫡男である「大兄」(山背大兄王)のどちらが皇位継承に相応しいかで紛争を起こしたケースも存在する。このことは、当時の皇位継承の決定方法が明確に規定されていなかったこと、たとえ「大兄」の称号を保有していても治天下大王を継承できる訳ではなかったことを表している(用明天皇の嫡男であり、推古天皇の最有力後継候補であった厩戸皇子が「大兄」を称していないことにも注意を払うべきであろう)。

大王家において、最後の「大兄」と見られるのが中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)である[4]。天智天皇の後を継いだ大友皇子(弘文天皇)はもはや「大兄」と呼ばれることはなく、その後も「大兄」の称号は絶えている。すなわち、皇位継承者の決定方法がこの頃に明確に定められたのではないかと考えられる。その皇位継承法とはおそらく、兄弟間の継承を廃し、治天下大王が没したと同時にその長子へ継承する方式だったと推測される。このため、天智天皇の長子である大友皇子が即位することになり、皇位承継の道を閉ざされた大海人皇子(天武天皇)が叛乱(壬申の乱)を起こした一因となったのであろう。Wikipedia「大兄」より)

 

Wikipediaの説明は本当だろうか?

 「大兄」は、「『太子』継承資格」ではなく「『大王位』継承資格」ならば、天皇家なら「皇太子」、そうでなければ「太子」を意味する。以下、この仮説を検討する。 

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子、欽明天皇134月(552年)に「箭田珠勝皇子薨(みう)せぬ」とある。『古事記』では八田王。)、④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子。押坂彦人皇子、麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いたために継承の機会が失われた。今の皇室は、押坂彦人大兄皇子の男系子孫。)、⑤大兄皇子(用明天皇)、⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)、⑦古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも。乙巳の変の後、中大兄皇子に攻め殺された。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。)、⑧中大兄皇子(天智天皇) 

さて、この8人を即位事情あるいは即位してない事情を検討してみよう。

⑥山背大兄王は天皇の皇子ではないので除外すると、天皇家の大兄で天皇に即位していないのは、③箭田珠勝大兄皇子、④押坂彦人大兄皇子、⑦古人大兄皇子 の3人である。

③箭田珠勝大兄皇子は即位の機会が訪れる以前に無くなっている。

④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)は、30 敏達天皇→31 用明天皇→32 崇峻天皇→33 推古天皇と兄弟継承が続いて、即位の機会が無かった。

⑦古人大兄皇子は、⑧中大兄皇子が起こした「乙巳の変」で皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り(と話はなっているが、実際には力ずくで皇位継承を断念させられたということだろう)、吉野に出家したが中大兄皇子に攻め殺された(後顧の憂いを断つためだろう)。

 

天皇家の大兄は皇太子

さあ、これでどうでしょうか?8人の大兄は、

(第1群)天皇に即位している大兄

①大兄去来穂別皇子(履中天皇)、②勾大兄皇子(安閑天皇)、⑤大兄皇子(用明天皇)の3人。

(第2群)即位機会を迎ず死亡している大兄

③箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の第一皇子)と④押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)の2人。

(第3群)天皇家ではない大兄(天皇に即位する資格のない大兄)

⑥山背大兄王(厩戸皇子の長子)1人。

(第4群)殺された大兄と殺した大兄(この2人は「乙巳の変」の当事者)

資格を奪われて殺された⑦古人大兄皇子と資格を奪って殺した⑧中大兄皇子の2人です。

 

結論

 「大兄」の称号は、天皇家ならば「皇太子」の意味である。天皇家でなければ「太子」の意味である。

 天皇家なら「『中』大兄」というのは「中皇太子」となり、そんな「皇位継承資格」は存在しない。また、実際に「中大兄皇子」以外に「中大兄」はいない(称号「大兄」を持つのは8人だけとされている)。つまり「中大兄皇子」は単に「中皇子」だったのを「乙巳の変」後に「大兄」を付加して「中『大兄』皇子」を名乗ったものと推測される。「中大兄皇子」と名乗った理由は、大兄(皇太子)でないものが大兄を武力で退けて皇太子になった(後で天皇になる)ことを繕うためである。

「蕨手文瓦」の証言―「磐井の乱」はなかった―

「蕨手文瓦」の証言「磐井の乱」はなかった[コラム]

 吉村八洲男さまからご寄稿いただきました「多元」令和5年7月号に掲載された論考を掲載いたします。7月号とあります通り、だいぶ前にご寄稿いただいていたのですが、私事の都合でブログ更新を怠り、このように著しく掲載が遅れてしまいました。吉村八洲男さま、並びにその論稿の掲載を楽しみにされていた皆様に心からお詫び申し上げます。掲載が遅れたものは、これ以外にもご寄稿いただいております。順次掲載する予定ですので、よろしくお願いいたします。

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「蕨手文瓦」の証言

「磐井の乱」はなかった(「多元」令和5年/7月)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 「磐井の乱」と「蕨手文」とを結び付けた James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考(注1)「古田会ニュース・209号」で紹介しました。氏は、6世紀中期築造とされる「王塚古墳・壁画」に描かれる「蕨手文」と、6世紀初め「磐井の乱」とを結び付けた驚愕の新見解を主張されました。「乱」とは九州王朝内の権力争いの事で、「磐井の君」を倒し(殺害し)新たに「九州王権」支配者となったのが「物部氏」であるとし、そのシンボル(部族を象徴する印章・神紋)が「蕨手文」だとしたのです。この事件を「近畿王朝勢」「日本書紀」が「磐井の乱」と表現し、最大限利用した、と主張されたのです。

 この論考が発表されて数年後(一昨年)です、私はこの論考の正否を決める「考古資料」を、上田周辺・「科野の国」で確認しました。具体的に言うと「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」を含む8点の瓦、地域神社に残る「蕨手文石祀」、関連する「考古資料」です。

 それら「考古資料」がすべてMac氏説を支持している、と私には思えました。『「磐井の乱」はなかった、だが「磐井事件」があったのだ』と断言していると思えたのです。

 これからそのいくつかを紹介します。「科野の国」に現存する「考古資料」と、そこからの推論に是非御理解を頂きたいと思います。これらの「証拠」が、Mac氏説だけでなく、古田先生『「磐井の乱」はなかった』説の正しさを証明すると思えるのです。

 

2.上田の「蕨手文・瓦」

 驚く事に「科野」には、全国にない貴重な「蕨手文」資料がありました。それが「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」で、上田周辺で「7枚」確認されています。「信濃国分寺跡(僧寺跡2尼寺跡1窯跡1)」・坂城「込山廃寺跡・土井の入窯跡」・須坂「左願寺跡」で発掘されていました(その内2枚が「信濃国分寺資料館」に展示されています)。Photo_20230829123201

 「考古学」からは、複数の「軒丸瓦」に残る「蕨手文様」が確定されていたのです。

 となると文様考古資料が「複数」存在するのは「王塚古墳・壁画」と「上田周辺・蕨手文瓦」だけとなります。この事実からは、両者の関連が考えられます。日本中探してもこの両地にしかないのですから、それが当然でしょう!

 が残念な事に、上田地域「複数資料(蕨手文瓦)」の存在は全く留意されて来ませんでした。ある決定的な理由(判断)があったからです。

 『「蕨手文瓦」とは、「信濃国分寺」創建以後に焼成された瓦だ!』こう解釈されて来たのです。この地域の仏教文化は「聖武天皇の詔による信濃国分寺創建に始まる」、と無条件で信じ込まれて来たのです。国分寺創建は8世紀です。ですから『上田「蕨手文瓦」は、『「6世紀」に築造された「王塚古墳」とは無関係』と断定されて来ました。

 こうして考古学者は、8世紀創建「信濃国分寺」関連から「蕨手文瓦」解釈を試みます。ただその時、上田のみで発見された事がネックになります。それは「他とは比較・研究が不可能な瓦」を意味するからです。郷土史家が苦しむ原因でした。

 例えば8世紀以降創建された寺院の「軒丸瓦(瓦当)」は、全国ほぼすべてが「蓮華文様」です(「古代瓦様式の定説))。「蕨手文瓦」ではありません。ですからやはり「比較しようのない例外的な文様瓦」となるのです。ただ上田周辺「蕨手文瓦」」すべてが「千曲川左岸」からの出土でしたから「国分寺」と何らかの関連が予想されました。

 しかし確たる結論は出ませんでした。こうしてこの上田周辺「蕨手文様(瓦)」は、「蕨手文に似ているが解釈は不能、全国にない奇妙な文様」とされ、『正式な地位(歴史解釈)が付けられない不審な「瓦」』とする判定・評価だけが確定するのです。

 ですから「蕨手文瓦」へは「珍説・珍解釈」が多出します。地域性が強い(ローカルで)稚拙な文様と推定されます。そして豪族(又は職人)達が、思い付くまま(手慰み)に、「信濃国分寺」「補修」の為焼成した「瓦」とされ、これらが定説となります。

 同時に「信濃国分寺(僧寺が中心)跡」出土「瓦」へは考古学から詳細な研究が進みます。そして「760頃の信濃国分寺創建」が確定します。「東大寺形式の瓦」が大量に出土し「瓦の組み合わせ」も確定した事が要因でした(東大寺瓦形式6235タイプ「軒丸瓦」と6732タイプ「軒先瓦」、「複弁蓮華文」瓦当・「複合唐草文」軒先瓦など)。

 ところが最近寺域に残る「瓦窯跡」にある瓦の分析から、「信濃国分寺創建」と無関係と思える古い様式の「瓦(「7世紀?」)」の混在が確認されました。各種「単(素)弁蓮華文瓦」・各種「軒先瓦」などで、「蕨手文瓦」もその仲間とされます(「尼寺」周囲からも発見された)。「文様・製法」に明らかな違いがあると確認されました。

 矛盾するこの二種「瓦群」の存在を整合させるため、「国分寺(僧寺)」創建に際し「先行建物」が造られたか、と言う推定になります。その建物(寺?)に「創建瓦」より古い形式の各種「瓦」が使われたという推測です(全国の「国分寺創建時の不審」解釈にこの論理が使われます)。そしてこれが新しい定説になりつつあるのが現状なのです。

 疑問が多い「信濃国分寺」創建に関しようやく新しい推定が始まったと私には思えます。それはそれで喜ばしい事なのですが、肝心の上田周辺「蕨手文瓦」への歴史的評価は放置されたままでした。

 

3.青木村での「蕨手文瓦を含む8点瓦」の発見

 一昨年私は、上田市に隣接した青木村・田沢地区・「子檀嶺(こまゆみね)神社」で「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認しました。

 瓦は、「蕨手文軒丸瓦(瓦当)」・「軒平(前)瓦」・「丸瓦(男瓦?)」・「女瓦」、さらに他の瓦が4点、計「8点」ありました。以下です。

Photo_20230829123301

Photo_20230829123302

 この青木「蕨手文瓦を含む8点瓦」への「観察・岩石分析からの推論」は貴重なものでした。「定説」にはない驚きの推論が生まれたからです。列挙してみます。

 「瓦」が神社に至った事情・根拠がはっきりしていて、疑う余地がない。

 地質学者の「瓦・岩石分析」からは「土・瓦・窯」への注目すべき推定が生まれた。特に「8点瓦」中の「軒前瓦」は「九州」由来かと推定された。

 「瓦」観察から「8点」中の「4点」に「組み合わせ」が推定された。そこから『「8点」は同一寺(神宮寺)の瓦で、多数発見の瓦を代表した瓦』、と予想された。

 青木「蕨手文瓦」と既出土上田周辺「蕨手文瓦」とを比較した結果、「青木瓦はより古い時代の瓦」と推定され、青木瓦が上田周辺瓦へ影響を与えたと思える。

 これらの「発見瓦」からの推論は、定説である『東山道からの「蕨手文瓦・搬入説」』を否定するものでした。後ほど、この詳細は発表します(長くなりこの論考頁には収まりません)。

 

4.「蕨手文瓦」が示す時代

 青木村の「蕨手文様(瓦)」発見からは衝撃的な推論が生まれます。

 説明しましょう。青木村は「信濃国分寺」からは10数キロ離れています。そこは「千曲川右岸」であり、標高も高くなります。ですからそれまでの「蕨手文瓦」とは明らかに異なります。左岸にある「信濃国分寺」との関連は推論できません。更に、青木「蕨手文瓦」が上田「蕨手文瓦」より古いとも推定されました。

 これらから「信濃国分寺創建前に仮の建物があった」説は成り立たないのです。

 理由は簡単でしょう。青木村に、上田から10数キロ離れた青木村に、「蕨手文瓦」があったからです。上田と青木に「創建準備の建物」を造る事などあり得ません。

 ですから上田に『「蕨手文」を使った創建準備の建物を造る』筈などないのです。

 これは子供でも解る論理でしょう。

 「蕨手文瓦」は、「信濃国分寺」を「補修」する為「豪族(職人)」が「思い付きで作った瓦」でもありません。「信濃国分寺創建以後の瓦」説も成立しないのです。

 繰り返します。「信濃国分寺創建」と「蕨手文瓦」には関係などないのです。「蕨手文瓦」時代の方が古いのです。「蕨手文瓦」のあった場所に、次の時代「信濃国分寺」が創建されたと考えられるのです。

 そして青木「蕨手文瓦」の発見は、もう一つの推定を生みます。「蕨手文瓦」を「信濃国分寺」と結びつける必要はありませんでした。ですから、上田を中心とした「科野」各地から「蕨手文瓦」が発見されている、と解釈されます。

 再確認して下さい。なんと「科野」各地の「廃寺跡」から「蕨手文瓦」が出土しているのです。須坂「左岸廃寺跡」・坂城「込山廃寺跡」がそうです。青木「神宮寺」からの発見も同じではないでしょうか。

 「蕨手文瓦」のすべては「軒丸瓦」です。ですから当然、「寺」と結びつきます。8世紀「信濃国分寺創建」以前に、「科野」には「仏教」が伝来していたと推論出来るのです。「蕨手文瓦」は、その寺(X寺)に使われた瓦と思えます。

 

5.終わりに

『「蕨手文(瓦)」が示す時代』を具体的に考えなくてはなりません。何時でしょう?

 そしてその「答え」は、「科野(上田が中心)」の「蕨手文考古資料(群)」に残されている、と私は信じています。今回は「蕨手文瓦」について紹介しました。続いて次回は「50点」は残る「蕨手文(神社)石址」に言及します。

 6世紀にしか残らない筈の「蕨手文(「複合蕨手文」)」が、半端ない数で「瓦」や「石祉」に残っているのです。郷土史家は言及していません。だが「王塚古墳」に「蕨手文」を残した一族の『「科野」進出』を推論してよいのではないでしょうか。

 そして思います。「乱」があったならこの進出は不可能だろう、と。「60もの蕨手文」を「科野」に残せないからです。果たして「乱」があったのか、それが疑われる「蕨手文考古資料群」の遺存・分布なのです。「磐井の君」と、「蕨手文一族」とは別勢力ではないか? Mac氏論考は正しいのではないだろうか?

 私は上田地域に「蕨手文」を使った一族は、「6世紀」北九州に「王塚古墳」を築造した一族だと思います。彼らが「科野」に進出し、仏教を広め、「ある寺(X寺)」を創建したと信じています。「磐井の乱」は起きていない、だが「磐井事件があった」とも信じています。「九州勢」同士で王権を争った、と信じているのです。

(終)

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注1 James Mac(阿部周一)氏の秀逸な論考 ‥‥‥ 阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉

2023年5月25日 (木)

古代ギリシアと太陰太陽暦―元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―

古代ギリシアと太陰太陽暦
元嘉暦は「メトン周期」を用いたのか?―[]

 元嘉暦は19年間に7閏を置く「章法」なので「メトン周期」を用いていると思っていましたが、それは早合点であることがわかりましたので報告します。 

古代ギリシアで発見された太陽と月の周期の比例関係

周期名(誕生時期)

発見・考案者

特徴や改良点

メトン周期
(B.C. 432
)

B.C.5世紀のアテナイの人

19年=235朔望月=6,940とする。19年に7閏月を入れれば1年と1ヶ月が合うとする(「章法」)。

カリポス周期
(B.C. 370
年ころ)

アテナイで活動した
キュジコス生まれの人

1太陽年を365.25日として19年=6939.75日。これを4倍した76年27,759日でメトン周期の4倍より1日減る。235月も4倍して940月27,759日とした。

1太陽年=27,759日÷76年=365.25日

1朔望月=27,759日÷940月≒29.530851日

ヒッパルコス周期
(B.C.330
年採用)

B.C.2世紀ころの

ニケヤの天文学者

カリポス周期をさらに4倍して1日を引き、

3043,760111,035とした。

1太陽年≒365.24671日、1朔望月≒29.530585日

《実際》

 

太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 

太陰太陽暦の太陽と月の周期の比例関係


暦名


採用時期・選者編者


周期の調整メソッド


古六暦(こりくれき)
(古四分暦)


漢代以前

不明


「章法」:1章= 19年に7閏月を置く= 235
1
太陽年= 3651/4日(四分暦)= 365.25日と見られている。
朔望月は詳細が不明です。


後漢四分暦
(ごかんしぶんれき)


後漢 元和二年(85)
編訢、李梵


1蔀= 76年940月27,759日
1太陽年= 1461(周天)÷ 4(日法)365.25日3651/4
1
朔望月= 27,759(蔀日940(蔀月)29.530851日


元嘉暦
(げんかれき)


宋 元嘉廿二年(445)
何承天


1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)365.24671日

1朔望月= 22,207(通数)÷ 752(日法)29.530585


《実際》


 


太陽年=365.2422日、朔望月=29.53059

 元嘉暦の朔望月は、太陽と月の周期が合う(整数になる)最小公倍数と見られる222,070(分子)と一日の長さと見られる7,520(分子)が10で約されていると思われます(邪推です)。

 

元嘉暦が用いた周期はメトン周期ではなかった

 『宋書』卷十三 志第三 律曆下「元嘉曆法」には、常数(定数)が次のようにあります(下線部分彩色部分の八ヶ所だけをご覧ください)。
…………………………………………………………………………………………………………………………
,十九。
紀法,六百八。
章月,二百三十五。
紀月,七千五百二十
章閏,七。
紀日,二十二萬二千七十。
度分,七十五。
度法,三百四。
氣法,二十四。
餘數,一千五百九十五。
歲中,十二。
日法,七百五十二。
沒餘,一百九十六。
通數,二萬二千二百七。
通法,四十七。
沒法,三百一十九。
月周,四千六十四。
周天,十一萬一千三十五。
通周,二萬七百二十一。
周日日餘,四百一十七。
周虛,三百三十五。
會數,一百六十。
交限數,八百五十九。
會月,九百三十九。
朔望合數,八十。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 次は東京天文台の暦Wiki元嘉暦 (げんかれき) / 建元暦†から抜粋しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
1太陽年= 222070(紀日608(紀法)365.24671日
1朔望月= 22207(通数752(日法)29.530585日
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「元嘉暦」の下線部分は「章法」ですが、「章法」は閏月の置き方で使っているだけで、太陽と月の周期を合わせるために用いていたのはメトン周期(19年=235朔望月)ではなく、メトン周期を32倍し、太陽年は608年222,070日とし、朔望月は7,520ヶ月の数値を用いて計算していました(この半分がヒッパルコス周期304年3,760月111,035日です)。すなわち、元嘉暦が用いていたのは「ヒッパルコス周期」だったのです。

 これと同じように「後漢四分暦」が用いていたのは「カリポス周期」だったのです。

2023年5月17日 (水)

朔望月と月朔―太陰太陽暦の日付―

朔望月と月朔
太陰太陽暦の日付[]

 前回の暦カテゴリー記事 回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―では、麟徳甲子元暦(麟徳暦)を例にとって、太陰太陽暦はどのように日干支を求めているかを説明しました。説明のもとにした資料は、臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」の次の箇所です。
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麟德甲子元曆
上元甲子,距今大唐,歲積二十六萬九千八百八十算。
推法:一千三百四十。
期實:四十八萬九千四百二十八。
旬周:六十。

    推氣序術
置入甲子元積算距今所求年,以期乘之,為期總。滿法得一為積日,不滿為小餘。旬去積日,不盡為大餘。命大餘起甲子算外,即所求年天正中氣冬至恆日及大小餘。天正建子,律氣所由,故陰陽發斂,皆從其時為自。

〖意訳〗
「上元」の日干支は甲子で、麟德元年甲子年〔西暦664年〕から259,880年遡った年〔西暦-269,216年〕である。
「推法」〔一日の長さ、『新唐書』は「總法」と呼ぶ〕は1,340
「期實」〔回帰年、冬至から月の冬至までの長さ〕は489,428
「旬周」〔六十干支が一巡する干支の数〕は60

    「氣」〔二十四節気〕の序〔並びの最初〕の求め方
甲子元〔甲子年の上元〕から今所求年〔暦をつくる年〕まで年数〔積年〕を置き、それに期〔期實、回帰年の日数〕を乗じて期總〔積年の長さ〕とする。
法〔推法・總法〕を満たすと一つとして〔数えて、その数を〕「積日」とし、〔推法・總法を〕滿たさなければ〔その余りを〕「小餘」とする。「積日」から「旬」〔旬周〕去り〔引けるだけ引き去って〕って不盡〔その余り〕を大餘〔六十干支の余り〕とする。
すなわち求める年の天正中氣冬至恆日〔平気法(平均太陽年)による天正冬至の積日〕とその大餘〔日干支を特定する数値〕・小餘〔その時刻を示す数値〕である。
天正〔冬至のある月〕を子〔子月〕に建てる〔月の名称十二支で呼ぶ。〕。氣を律する〔判断基準とする〕所由〔ゆえん〕は、つまり陰陽〔月・太陽〕・四季の日の長短が皆自然とその時〔二十四氣の時〕に従うからである。
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前回のおさらい

 前回は、暦をつくる年を西暦697(倭国の持統十一年・文武元年)と仮定して、その天正冬至(暦をつくる年の前年の冬至)の日干支の求め方を示しました。

 上元(西暦-269,216)から天正冬至(暦をつくる年の前年(696)の冬至)までの年数(積年)269,913年に太陽年の日数をかけて、上元からの経過日数(天正積日) 98,584,313日を求めて、天正積日から干支が一巡する数60を引けるだけ(1,643,071回、98,584,260 日)引くと53日余る(98,584,313日-98,584,260 日=53日)。上元の日干支は甲子なのでこれは甲子日から53日経った日が天正冬至ということになります。天正冬至の日干支は干支表から「丁巳」と求まりました。以上は前回の「おさらい」です。 

 ちなみにExcel元嘉暦では、697年(丁酉年)の前年696(丙申年)の冬至は1119日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)となっています。暦法が違っても696年の冬至(697年の天正冬至)はこの日(日干支「丁巳」、JDN 1,975,624)の近辺になるでしょう(暦の冬至が実際の冬至と大きくずれたら使い物になりません)。なお、元嘉暦では「上元」の中気が「雨水」なので、積年(上元からの経過年数)に一年の平均日数を乗じた日数(積日)だけ経過した日は「雨水」ですので、当年(丁酉年)の「雨水」は、正月21日(戊午、JD 1,975,685 )となっています。

元嘉暦における697年の前年(696年)の冬至
Photo_20230517180001
 

太陰太陽暦の日付の決め方

 太陰太陽暦は月の満ち欠けの周期を一月(ひとつき)としていて、新月(朔)となる日をその月の第一日(ついたち)とします。月の満ち欠けの周期(その日数を「朔望月」という)には凡そ29.27日~29.83日の幅があり、これを平均した平均朔望月は 約29.530589 日です。満ち欠けの周期が約25.53日なので暦(こよみ)の一日にぴったりとは合わず、満ち欠けが一巡りする度に新月となる時刻が約半日づつ移動していきます。したがって、太陰太陽暦のでは一月(ひとつき)29日の月(小月)30日の月(大月)が生じることになります(これはとてもやっかいです)

 今回は、太陰太陽暦はどのように朔(月の第一日=新月となる時刻を含む日)を求めているかを説明したいと思います。前回も言いましたが、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」というのが説明する動機です。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 麟徳甲子元暦では、平朔法(平均朔望月によって朔の日を求める仕方)によって朔の日(日干支)を次のように求めるとしています。
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    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
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 さて、日干支は積年と太陽年(回帰年)から天正積日を求めて、干支が何巡かした余りで求まりましたが、朔を求めるには月の満ち欠けの周期日数(朔望月)が必要です。

麟徳甲子元暦は、一日の周期を1,340として、月の満ち欠けの平均周期(恆朔實)を39,571としています。すなわち、平均朔望月は(恆朔實)39,571÷1,340(推法)29日 + 711/1,340 29.530597となっています。 

 まず、上元から天正冬至までの日数である天正積日98,584,313日は平均朔望月で何ヶ月になるかを求めます。

臺北市鼎文書局(底本:清懼盈齋刻本)(後晉)劉昫撰;楊家駱主編『舊唐書』志第十三曆二「麟德甲子元曆」には上掲に続いて次のようにあります。
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    求恆次氣術

因冬至大小餘,加大餘十五、小餘二百九十二、小分六之五。小分滿,從小餘;小餘滿總法之,從大餘一。大餘滿旬周之。以次轉加,而命各得其所求。他皆放此。凡氣餘朔大餘為日,小餘為辰也。
〔求土王(土用を求める)と求沒日術(沒日の求め方)を飛ばして〕

    推朔端

列期總,以恆朔實除之為積月,不滿為閏餘。滿總法為閏日,不滿為閏辰。以閏日減冬至大餘,辰減小餘,即所求年天正月恆朔大小餘。命大餘以甲子算外,即其日也。天正者,日南至之月也。恆朔者,不朒不盈之常數也。(中略)以天正恆朔小餘加閏餘,以減期總,餘為總實。

〖意訳〗
    朔からの端数を計算する
期總〔積年に期實を乗じた長さの数値〕を,恆朔實〔月の満ち欠けの周期の長さ〕で除して積月〔上元からの経過月数(整数値)〕とし、〔恆朔實に〕滿たない〔期總の余りを〕閏餘とする。〔閏餘が〕總法を滿たせば〔その満たした数値(整数)を〕閏日とし,滿たさない〔閏餘の〕余りを閏辰とする。〔天正〕冬至の大餘〔日数〕から閏日を減じ、〔天正冬至の〕小餘から辰〔閏辰〕を減じれば、求める年の〔前年の〕天正月恆朔〔冬至のある月の平均朔望月(平朔法)による朔日〕の大餘と小餘が求まる。甲子から大餘を数えればその日が天正冬至なのだ。天正とは、日南至之月〔太陽が最も南(低い位置)にある月=冬至のある月〕である。恆朔とは、不朒不盈之常數〔伸びも縮みもない定数、つまり満ち欠けの周期を平均した定数〕である。(中略)天正恆朔小餘を閏餘に加えたものを期總から減じて,餘を總實とする。
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天正冬至と天正月朔
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「期總(きそう)(新唐書は「朞總」とある)は積年(上元から天正冬年までの年数)269,913年に太陽年の周期 489,428を乗じたもので、計算すると132,102,979,764 になります。これを月の満ち欠けの周期(恆朔實)39,571 で割った商が積月3,338,378で、余りが23,926 「閏餘」、これを一日の周期(推法、総法)1,340で割った商17日が「閏日」、その余り1,146が「閏辰」とあります。ここで注意しなければならないのは閏日17日の余りが1,146ありますので、17日以上つまり18日目に天正冬至があるということです。

上元は朔(新月)なのでそれから満ち欠けが3,338,378周した朔から数えて18日目が天正冬至になり、つまり天正冬至から数えて18遡った日が朔です(すなわち天正冬至の干支番号から18引いた番号が朔の日干支になります)。つまり「丁巳」(番号53、甲子=0)から18引いた干支番号35己亥(つちのとのい)が朔のある日(すなわち月の第1日、ついたち)となります。

 天正月とは冬至のある月のことで、建子とある(天正月を子月とする)ので、寅月を正始(正月)とする夏正では、天正月(子月)は11月に当たります。

天正平朔日11月1日が干支番号35己亥(つちのとのい)とわかったので、天正平朔日の大餘・小餘に朔望月の大餘29日と小餘711/1340 を次々に加えれば次々と月朔が求まります。小餘の積み重なりで29日の月か30日の月かが決まります。

697年麟徳暦平朔(儀鳳暦)の月朔
697
 ちなみに697年8月朔の日干支は「甲子」(JDN 1,975,871 )となっています。元嘉暦では697年8月朔の日干支は乙丑(JDN 1,975,872)となっています。

2023年5月14日 (日)

干支に番号を振る―『長慶宣明暦』では―

干支に番号を振る
『長慶宣明暦』では[]

 これは「暦」というよりも、「算数」に関することがらなので、カテゴリーは「雑」としました。

 何の話かというと、六十干支の各干支に番号を振る場合、甲子から始まるから甲子の番号を1とするのが良いかどうか、という話です。

 コンピュータ処理には甲子0~癸亥59と振る方が便利なので、私のExcel版「元嘉暦」も甲子の番号を0としています。

 コンピュータを使わなくても計算するには0~59と振る方が良いと考えた人は昔からいるようで、唐の徐昻という人が編纂して、わが国にも伝わって貞観四年(862)~貞享元年(1684)823年間行用された「長慶宣明暦」も甲子を0として計算していました。安藤有益著『長慶宣明暦算法』には「甲子」の上に付された番号が「空」(0)となっています。

国文学研究資料館の『長慶宣明暦算法』
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 徐昻の『長慶宣明暦』そのものが甲子を「空」としていたことも確認できました。
京都大学貴重資料デジタルアーカイブの『長慶宣明暦』
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2023年5月13日 (土)

「京都橘高校」グルーピー105―59回定期演奏会 メイキング映像―

「京都橘高校」グルーピー105
59回定期演奏会 メイキング映像[「京都橘高校」グルーピー]

 臨場感あふれる映像をお楽しみください。 コメントに中文がたくさんあることにも台湾双十節出演の反響が大きかったことがうかがえます。

【舞台裏に密着】京都橘高校吹奏楽部第59回定期演奏会 メイキング映像
投稿者コメント
2023
年3月25,26日に行われた第59回定期演奏会の裏側を収めた映像です!
映像協力:日本パルス

2023年5月11日 (木)

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―

回帰年と日干支―太陰太陽暦の日干支―[]

 太陰太陽暦の「回帰年」(季節が一巡する周期)は「冬至」から次の「冬至」までの日数(端数込み)となっています。厳密には現在の「太陽年」(春分から次の春分までの日数(端数込み))とは異なりますが、太陰太陽暦は、はるか遠くに「上元」(暦の元期)をとっているので太陽年と同等なものと考えてよいでしょう。

 今回は、太陰太陽暦がどのように暦の日干支を求めているのかを説明したいと思います。説明する動機は、「他人に説明するのがもっと良い理解を深める方法だ」という言葉があるからです。ということなので、知っている方はスルーしてください。 

 その前に「時間」をどのように表すか、という問題をクリアにしておかねばなりません。現在は、一日を24時間、一時間を60分、1分を60秒、つまり一日を、「セシウム原子のマイクロ波の振動を9,192,631,770回数えたときを1秒と定義」した86,400秒として時間を表しています。

 では、古代の天文観測において天体の周期をどう表せばよいでしょうか。一日を単位として用いればよいでしょうか。1太陽年は約365.24219日ですが、一方平均朔望月は約29.530589日です。太陰太陽暦では、一太陽年が何ヶ月かということも計算しなければなりませんから、太陽年・平均朔望月・1太陽年の月数、これらを全て分数で表しておかねばならないのです。つまり、時間を軸にして計算しようとすると大変なことになる(というよりも、やってられない)のです。

 そこで、古代の賢人は「章法」(倭国も採用した「元嘉暦」は最後の「章法暦」です)という時間を軸にしている暦法(19年を一章とする)を捨てて「破章法」という暦法を考えだしました。

 破章法の肝は、「一日(の時間)を適当な数値で表して、天体の周期をその数値を軸にして表す」というものです。古代の支那では小数点を使わず分数を使っています。分数を使うことで「有効桁数を小数点第何位までにするか」と悩む必要が無くなります(端数も分数のまま表しておく方が正確です)。

 

戊寅元暦(戊寅暦)】(唐・武徳二年(619)~麟徳元年(664)までの46年間)

太陽の周期数=3,456,675

地球の自転周期数=9,464

太陽年=3,456,675÷9,464365日 + 2,315/9,464(=365.244611日)

月の周期数=384,075

朔望月を計算するための地球の自転周期数=13,006

朔望月= 384,075÷13,006==29日 + 29/13,006(=29.530601日)

 

麟徳甲子元暦(麟徳暦)】(唐・麟徳二年(665)~開元十六年(728)64年間)

太陽の周期数=489,428

地球の自転周期数=1,340

太陽年= 489,428 ÷ 1,340365 328/1,340(=365.24478日)

月の周期数=39,571

地球の自転周期数=1,340

朔望月= 39,571 ÷ 1,34029 711/1,340(=29.530597日)

 最初の破章法暦である「戊寅元暦」は、太陽年と朔望月とで、割る数値が9,46413,006と異なっています。麟徳暦は徹底して同じ1,340を用いています。これらの数値はそれぞれに意味があるのではなく、実際の観測数値に合う分子と分母を探し出したのではないかと思われます(もしかすると、うまい方法があった(例えば連分数展開とか)のかもしれません)。

 

 日干支をどのように求めるかという本題に戻ります。

 麟徳暦を例にとりましょう。
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 麟徳暦の上元は、麟德元年(664年、甲子)から遡ること269,880年前(西暦-268,216年、甲子)となっています。

 今、西暦697年の暦をつくると仮定します。

積年は 269,913年(=(上元までの歳積 269.880年-麟徳元年 664年)+ 西暦 697年)。

これに太陽の周期数 489,428 を乗じると積年の太陽の周期数は 132,102,979,764 です。

これを地球の自転周期数(一日) 1,340 で割ると上元から暦をつくる前年の冬至までの日数 98,584,313日 + 344/1,340 がでます。日干支の話なので、この一日に満たない端数 344/1,340 は忘れておきましょう。

上元の日干支は甲子なので、上元から暦をつくる前年の冬至(これを「天正冬至」といいます)までの日数 98,584,313日から干支の数 60 を引けるだけ引きます( 1,643,071回 引けます)。
干支数 60×1,643,071回= 98,584,260 なので余りは 53(日) です。
上元の甲子日から60干支が 1,643,071循 して余ったのが 53日 なのですから、天正冬至の直前の甲子日からこの日数だけ天正冬至の日が離れていることになります。
つまり、甲子の干支番号を1とするならば干支番号54の干支「丁巳」が、甲子の干支番号を0とするならば干支番号53の干支「丁巳」が天正冬至の日の日干支なのです。

 前年の冬至の日の日干支が求まれば当然に暦をつくる年の冬至の日の日干支も求まります。当然その間の24節気の日干支も求まります。太陰太陽暦の日干支はこのようにして求めています。

 暦カテゴリーの次回は、太陰太陽暦における月の第一日(ついたち)の求め方を予定しています。

 

2023年5月10日 (水)

月の満ち欠け―上弦の月と下弦の月―

月の満ち欠け
上弦の月下弦の月[]

 「太陰太陽暦」は、地球の衛星である「月」がどのように見えるか(満ち欠けの状態)によって日付(何日か)を決めています(つまり、日付の決め方は太陰暦法です)。

 また、月々の第一日(ついたち)は「朔(さく)」(新月)となる時刻を含む日を朔(ついたち)としていますが、それ以外にも「上弦」(「上弦の月」の時刻を含む日)・「望」(「満月」の時刻を含む日)・「下弦」(「下弦の月」の時刻を含む日)も表示しています。

 月の満ち欠けは、途中(三日月など)を省きますが、新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月と変遷することは知ってはいるのですが、どちらも半月である「上弦の月」と「下弦の月」が実際にどう違うのかを知らなかったので、調べてみました(知ってる方はスルーしてください)。

 半月を弓に見立てて明暗の境目の線を「弓の弦(つる)」とし、上向きを「上弦」、下向きを「下弦」というのだろうくらいに高をくくっていたのですが、そんな曖昧な理解では半月を見ても判別できませんでした。

 次図は地球の公転面を北極側から見た概念図です。太陽の光線は上側からが注いでいるとして描いてあります。

月の満ち欠け図
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 北極側から見て地球は反時計周りに(つまり西から東へと)自転しています。すなわち、天球は東から西へと回転しています。

 朝・昼・夕・夜と記されている矢印は、その時刻に「南中」(天体が子午線上に来る)月が見えることを示しています。つまり、矢印の先にあるのは南中時刻に見える月の形を表しています。

 「朔(さく)」の月は昼に南中します。すなわち、朝に昇り夕に没します(新月なので日蝕の時以外見えません)。

 「上弦」の月は夕に南中します。すなわち、昼に昇り夜に没します。

 「望」(満月)の月は夜に南中します。すなわち、夕に昇り朝に没します。

 「下弦」の月は朝に南中します。すなわち、夜に昇り昼に没します。

 

 上弦の月と下弦の月の違いをまとめてみます。

 昼に東から昇り、夕方に南中して、夜に西に没するのが上弦の月です。

 夜に東から昇り、朝方に南中して、昼に西に没するのが下弦の月です。

 月は天空が暗い方がよく見えることを考慮すれば、夕方から深夜にかけて西に没していくのが上元の月で、深夜から朝方にかけて東から昇ってくるのが下弦の月と言えるでしょう。

 時刻だけでみれば、夕方から深夜に見えるのが上弦の月で、深夜から朝方に見えるのが下弦の月です。

 方角だけで見れば、西に没するのが上弦の月で、東から昇るのが下弦の月です。

2023年5月 9日 (火)

「京都橘高校」グルーピー104―(another)海の中道海浜公園にて―

「京都橘高校」グルーピー104
(another)海の中道海浜公園にて―[「京都橘高校」グルーピー]

グルーピー102とは別の方の投稿動画です。

パレード
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道公園パレード(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて

コンサートステージ
京都橘高校吹奏楽部 / となりのトトロメドレー 宝島(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて

マーチングステージ
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 マーチングステージ(May 5, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月5日 海の中道海浜公園にて
※強風による風雑音のため、聴き苦しい場面が多々ございます。申し訳ございません・・・

「京都橘高校」グルーピー103―第62回博多どんたく パレード―

「京都橘高校」グルーピー103
第62回博多どんたく パレード[「京都橘高校」グルーピー] 

グルーピー101とは別の方の投稿動画です。演奏曲にチャプターを入れてくれています。

コメントに曲名が入ってます。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード SCENE1(May 4, 2023)
投稿者コメント
2023年5月4日 第62回博多どんたく港まつり パレード
※見ずらい箇所が多々ございます。
-- Playlist --
00:48 Down by the Riverside

02:56 We Are Confidence Man (Confidence Man JP Theme)
04:31 Be Our Guest (Beauty and the Beast)
05:10 We're All in this Together (High School Musical)
06:09 Les Champs-Élysées a.k.a. Waterloo Road (Mike Wilsh, Mike Deighan)
07:14 Mambo No. 5 (Damaso Prado Perez)
08:22 Heigh-Ho (Snow White and the Seven Dwarfs)
09:36 American Patrol (Frank White Meacham)
10:43 Smoke on the Water (Deep Purple)
11:49 When You Wish Upon A Star (Pinocchio, Leigh Harline and Ned Washington)
13:39 Tristeza (Haroldo Lobo, Niltinho)
16:37 Down by the Riverside
18:45 We Are Confidence Man (Confidence Man JP Theme)
20:21 Be Our Guest (Beauty and the Beast)
20:59 We're All in this Together (High School Musical)
21:59 Les Champs-Élysées a.k.a. Waterloo Road (Mike Wilsh, Mike Deighan)
23:04 Mambo No. 5 (Damaso Prado Perez)
24:13 Heigh-Ho (Snow White and the Seven Dwarfs)

 複数カメラ編集版
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード SCENE2(May 4, 2023)
投稿者コメント
2023
年5月4日 第62回博多どんたく港まつり パレード
複数カメラ編集版です。
・慶次郎前田
・HIROさん
・SUNAMEさん
・Tsubame Planningさん

 

 

 

 

2023年5月 7日 (日)

「京都橘高校」グルーピー102―海の中道海浜公園にて―

「京都橘高校」グルーピー102
海の中道海浜公園にて―[「京都橘高校」グルーピー]

海の中道海浜公園の位置(Google Earth より)
Google-earth_20230507104301

パレードです。
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 / parade / Multi-camera edit / Kyoto Tachibana SHS Band / May 5, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / Uminonakamichi Seaside Park / 2023年5月5日 / マルチカメラ編集 / 海の中道海浜公園での京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。
撮影者
st.taketo
慶次郎前田さん
Belle-raphonさん
uncle parさん
8809masaさん
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。他、動画の無断転載は固くお断り致します。 1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント
以上、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。

#京都橘 #Tachibana #海の中道海浜公園

 

座奏です。
京都橘高校吹奏楽部 / 海の中道海浜公園 / 大芝生広場コンサートステージ / Kyoto Tachibana SHS Band / May 5, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / Uminonakamichi Seaside Park / 2023年5月5日 / 海の中道海浜公園、大芝生広場での京都橘高校吹奏楽部の皆様のコンサートステージからの動画です。
♬ となりのトトロメドレー
♬ 宝島
◎お願い◎」以下、上記と同文にて割愛しています。

「京都橘高校」グルーピー101―第62回博多どんたく―

「京都橘高校」グルーピー101
第62回博多どんたく[「京都橘高校」グルーピー]

 

パレードのシングルカメラバージョンです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード / 1 camera version / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 博多どんたくパレード / 2023年5月4日 
第62回博多どんたくパレードでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。 1 camera version
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。他、動画の無断転載は固くお断り致します。
1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント

以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです
#京都橘 #Tachibana #どんたくパレード

 

パレードのマルチカメラ編集バージョンです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第62回博多どんたく パレード / Multi-camera version / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 博多どんたくパレード / 2023年5月4日 / マルチカメラ編集バージョン。 
第62回博多どんたくパレードでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。 撮影者 st.taketo Belle-raphonさん uncle parさん 8809masaさん
◎お願い◎」以下は上記と同文にて割愛しています。

 

ステージマーチングです。
京都橘高校吹奏楽部 / 第23回どんたく花のマーチングフェスティバル / Kyoto Tachibana SHS Band / May 4, 2023「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / 2023年5月4日 /
第23回どんたく花のマーチングフェスティバルでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のステージマーチングからの動画です。

◎お願い◎」以下同文

2023年5月 2日 (火)

「磐井の乱」と「蕨手文様」―東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-

「磐井の乱」と「蕨手文様」東京古田会ニュース・令和五年4月号掲載論考-[コラム]

 2023/04/26、吉村八洲男さまよりご寄稿いただいたのですが、私事で手付かずになって掲載が遅れてしましました。申し訳ありません。なお、本文中へのリンクの貼り付けは山田が独断で行っています。
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「磐井の乱」と「蕨手文様」(東京古田会ニュース・R5・4)

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 先月号掲載の新保高之氏による『磐井の乱 架空説を考える』を拝読し、力をいただいた。新保氏はこの論考で、『「日本書紀」編者が、九州王朝内で起こった権力闘争事件に関わる史料を悪盗用し、九州王朝の権力者を近畿天皇家が討滅した記事に仕立て上げたのではないか』と主張された。「磐井の乱」への新見解と思えた。

 この「磐井の乱」について、古田先生がその解釈に関し大きく論考を変えられた事は周知の事であろう。先生は最初の頃(「失われた九州王朝」「古代は輝いていた」などで)、「磐井の乱」とは『大和王朝「継体」のクーデター、「継体の乱」であった』と断言され、さらに「磐井の君」がなした業績(「九州年号」制定や律令の施行など)を推論し、改めて「九州王朝」の存在を主張されたのである。多元視点からのこれら新解釈に接した時の感銘は、今でも私には鮮明だ。

 だが、後の著作「古田武彦の古代史百問百答」に至り、「乱」への解釈は一変する。『「磐井の乱」は、「日本書紀」の作り事、架空の出来事だった』とされ、「磐井の乱・架空説・造作説」とも言える論理を展開されたのである。「磐井の乱」自体が「日本書紀」作成者による「机の上の作文」だとされたのだ。解釈を大きく転換されたと私には思えた。

 先生のこの変化に私は戸惑った。一時は「磐井の君」が消えた、九州王朝説にも疑問が出たとさえ思った位だ。

 これ以後、この問題に正面から取りくみ論考した「多元論者」は少ないようだ(だから「磐井の乱」解釈には「一元歴史観による解釈」が大手を振っている)。

 それに対し、新保氏の論考は新鮮であった。まず古田武彦氏の主張の変化やそれへの論考を丁寧に掬い取り、整理説明されたのだ。そしてそれらを比較・検討され、冒頭での新解釈に至ったと私には判断された。

 だから説得力を持っていると思え賛意を表するのだが、同時に古田氏「磐井の乱・架空説」への新たな追求・論考を我々に促しているとも思えた。

 

2.「架空説・造作説」と「考古」

 古田先生は最終的には「乱・造作説」に至ったのだが、変化に至った論拠は明白だった。主たる理由は、「考古的な裏付けがない」事だったのだ。

 「磐井の乱」があったなら、舞台となる「北九州」の「考古」には明白な変化が残っている筈だ、とされたのだ。考古からの「証拠」が残るとされたのである。ところが「土器の形式やデザイン」「神護石」などには全く変化がなく、「鶴見山古墳」の「石人・石馬」へも別解釈が可能であった。だからこれらの「考古」判断から、体制には大きな変化はなかったと推論され、『「考古」に裏付けられない「磐井の乱・実在論」はあり得ない』と結論されたのである。結果、前論を翻したような論考に至ったと思える。

 しかし私は思う。本当に「考古(資料)」がなかったのだろうか、と。「土器・神護石・石人石馬」だけが「考古(資料)」ではないだろう。他にも「考古(資料)」はあるのだ。だから再度の「乱」見解の際、先生が結論を急がれてしまったようにも見えたのだ。

 私は九州には、変化を証明する別・「考古(資料)」がある、と判断する。そしてその九州「考古(資料)」は主張する。『「磐井の乱」は「継体の乱」ではない、そして「架空の事件」でもない』と。

 「乱」について再確認しよう。「日本書紀」からの定説では、「磐井の乱」とは「北九州勢力」と「近畿王朝」とが争った事件とする。そしてこの二大勢力が争ったのだから、「土器・神護石」などの「考古」には当然変化が出た筈だ、と先生は予想されたのであろう。

 だが、実はもう一つの解釈が許されると思う。それは『「磐井の乱」とは「九州王朝」内の権力争いだった』とする解釈だ。

 体制内の「別・九州勢力」による「磐井の君・殺害事件」・「磐井体制へのクーデター」と解釈するのである。そしてこの「磐井事件」を近畿王朝が利用したと考えるのだ。「近畿王朝」がこの「事件」を「磐井の乱」と名付け、「日本書紀」で漢籍を使った勇壮な物語にした、とするのだ(これらの推論が、新保氏見解と同じなのだ)。

 「磐井の乱」を「磐井殺害事件」と解釈するのだが、留意すべきは、この新解釈をしても『九州「考古」には瞠目すべき「変化」がなかった』事で、新解釈にもやはり不利な点と思える。

 「近畿勢」との対立を想定した時でも、北九州には「考古の変化」はなかったのだ。それを「九州王朝内の争い」とすると、「九州」という狭い範囲が舞台だから「考古(資料)変化」は一段と見出だしにくくなると思える。もし見出せなければ再び「乱・架空説」に戻るのだ。だから新解釈を試みる時、「考古(資料)」の提示は必須の条件となろう。

 繰り返すが、「変化」を主張する「別・考古資料」が実在すると私は推定する。気づかなかっただけ、と思う。そしてその「考古」への推定から、『「磐井の君殺害事件」は「九州王朝」内の権力争い、実在の事件だった』と結論されるのだ。

 

3.「磐井事件」への「考古」アプローチ

 きっかけは、「James Mac(阿部周一)」氏のブログ「古田史学とMe」上の論考(2018・5・31)阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉を知ったからである。

 James Mac氏はそこで、二つの「考古資料(判断材料)」を提示された。タイトル名にある「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」である。詳細はブログ記事をお読み頂ければと思うのだが、簡潔にここで紹介させて頂く(文責は吉村です)。

 「阿蘇溶結凝灰岩(灰色岩)」を使った「石棺」は、5世紀中ごろから近畿地方を中心とした古墳に残されていた。使われた原料石は、熊本県(「氷川」・「菊池川」が中心)産出と判断されていた。

 それがある時期(6世紀前半から6世紀終末)、「近畿」で見られなくなる。中断する。

 この中断期間を挟み、7世紀になり、同じ「原料石」を使った「石棺」の利用が再開される。

 これは考古学では著名な一連の出来事であり、研究者はその変化(中断・再開)の理由を様々に解釈して来た。結局は、「不明」と結論されるのだが・・・

 さて九州には「蕨手文様」「壁画」を持った古墳がありその特徴も認められていた。

 「600」もの「装飾古墳」中、「蕨手文様」古墳はわずかに「8個」、しかも「終末期」のみの出現であった。「7個」が「水縄山山地周辺」・「筑後川」流域にあり「肥後(熊本県)」にないのも不審に思われていた(所在地の偏在)。そして「蕨手文古墳」の出現は、6世紀初期「日ノ岡古墳」からで6世紀末の「重定古墳」が最後であった。

 これは前述した近畿地方での「石棺」利用(石材産地を含め)とは対称的と思える事績だ。ここに着目したJames Mac氏は、「阿蘇溶結凝灰岩」と「蕨手文古墳」という二つの「考古資料」を「磐井の乱」と関連付け、瞠目すべき秀逸な論考を展開したのである。

 『「阿蘇溶結凝灰岩灰色」を使用した石棺が、近畿で造られない「6世紀前半」から「6世紀終末」までの「約六十年間」は、「筑後」において「蕨手文古墳」が出現し、そして造られる「60年間」と重なる。そしてそれは、「磐井の乱」が起きた時代とほぼ同時期の出来事だ』と考察したのである。驚嘆すべき指摘であった。

 熊本産「石棺」利用勢力と、筑後「蕨手文様」利用勢力とを対比させたのである。「蕨手文」を持った勢力により、「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)石棺」勢力が追われた期間があり、それが「磐井事件」からの期間と重なっている、と推定したのである。

 私は、「蕨手文様」勢力が「石棺」利用勢力を追放し、王権を奪った、と推量した。「体制内権力争い」の「痕跡」を「考古資料」から指摘したものと思えた。著名な数々の「考古資料」が明らかな「考古の変化」を示している、それがJames Mac氏の論考を裏付けているとも思えた。『「磐井事件」の実在』が証明されたと感じたのだ。 
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「王塚古墳・蕨手文」
 さらにJames Mac氏は、文献からもこの推定を裏付けた。

 「磐井殺害事件」により、連綿と続いて来た「倭国王権一族」は「九州王朝王者(の座)」から追われ「雌伏」させられるのだが、その痕跡が「日本書紀」に残るとされたのだ。

 「推古紀」」の以下の記事が根拠であった。

 「(推古)十五年(607年)春二月庚申朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祇。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今富朕世。祭祀神祇。豈有怠乎。故群臣共為竭心宜拝神祇。

 文章の大意は、『「昔(曩者)は」「吾が皇祖天皇は天下を治めていた(宰世也)」。そして今、自分がそのような立場に立った(今富朕世)。・・・』と思われる。この「推古」の言葉から、「昔」と「今」の間に「宰相」ではなかった時期があったと読み解いたのである。

 確かにそう書かれている。

 更に、「推古天皇」が述べた「昔(の時代)」をこう推定した。「日本書紀」、「垂仁天皇廿五年(丙申前五)」の記述からである。

 「(前略)我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。(中略)今富朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」と書かれていた文章の後半には『「推古天皇」の言葉と同一』と言える部分もあった。だからこの「垂仁天皇」の言葉を意識して「推古」が「詔」を発したと推定したのである。

 James Mac氏は、「垂仁天皇」から「推古天皇」の間、「倭国王権・一族」が「雌伏していた(させられていた)」とした。この期間が「王権」を追われた期間であろう、「推古」がそう言っている、と主張したのである。

 さらにこの「事件」を引き起こした「首謀者(一族)」も推定する。

 「壁画」に見られる「蕨手・盾・靫・太刀文様」は、「戦闘」を宗(むね)とした一族にふさわしい「文様」であろう。そう考えた時「蕨手古墳」の近くには、戦闘集団と言われている「物部一族」が依拠した「浮羽町」がある事に気づく。

 James Mac氏は、「物部一族」がこの事件の首謀者であろうと推定した。彼らが「磐井の君」を殺害し、「九州王朝」の実権を握ったとした。「蕨手文・古墳」は彼らが築造した古墳で、それを築造する権力を持った事が、体制内で権力が移動した「証拠」だとしたのである。「倭国王権・一族」は「蕨手古墳」が築造されていた間、「雌伏」させられたとしたのだ。

 「ない」とされて来た「考古(資料)」は実在する。それこそが『「磐井の乱」はなかった。が、「磐井事件」があった』事を証明している、こうJames Mac氏は主張したのだ。

 

4.「蕨手文様」と上田(又は

  James Mac氏の論考は革新的だった。氏の「論証」は実在する「考古(資料)」で組み立てられていた。謎とされた「磐井の乱」も、この「多元的新解釈」で解明されると思えた。

 実は、このJames Mac氏論考で取り上げられた「蕨手文様」が、「科野・上田地域」には存在していた。「蕨手文」の「軒丸瓦」があったのだ(「6個」が確認されていた)。「蕨手文」は、上田だけに「考古(資料)」として残っていたのである。日本中探しても、その密集は「九州」と「上田」にしかない。だから、その関連は当たり前であろう。

 私はJames Mac氏の論考に教示され、第一回「古代史セミナー」で、『「上田・蕨手文様軒丸瓦」と「磐井の乱」』についての論考を試みた。この文様を「手慰み・思いつきによる文様」としてきた「定説」には大きな不審があり、改めて九州との関連を見直すべきだ、と主張した(ただ残念ながら反応は全くなかった)。

だがJames Mac氏論考が発表されてから数年を経た一昨年、その「論考の正しさ」を証明する出来事に遭遇した。私自身が「蕨手文・軒丸瓦」「軒先瓦」「男瓦」を含む「8点の瓦」を発見したのである。
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「蕨手文・軒丸瓦」

 そしてそれを調べれば調べるほど、James Mac氏論考を裏付ける推定が次々と生まれた。推定通りだったのだ。これには驚ろかされた。

 James Mac氏論考は、発表後に出土した「考古資料」からの推定を「予言した」ものと思えた。この事実が氏の主張の正しさを物語る、そう私は判断した。

 James Mac氏の論考した「磐井事件・解釈」が正しいと私は改めて思ったのだ。

 

5.終わりに

 追及の結果、「上田地域」からは重要な「蕨手関連考古(資料)」がいくつか確認された。「蕨手文」についても、その意味・来歴への新たな推定が可能となった。そこからは、「上田地域」には「蕨手文様考古(資料)」があふれているとも判断された。

 古代からと思える「物部氏」関連の「地名」もいくつか確認出来た。彼らが信仰した「高良社」の密集も確認できた(上田だけで6社!)。そして、発見「瓦」への推測からは、「寺(仏教)」への貴重な試論が生まれてくる。

 最大の収穫は、「物部氏」に加担し協力した、ある「一族」への推定が生まれた事だ。そしてそれが「なぜ蕨手文様だったのか」への推定とも繋がる・・・

 私の推論は、独りよがりになりつつある。求められれば、発見「瓦」を持ち込み説明したい。それへの「鑑定」・他を通し是非とも皆様のご批判をお聞きしたいのである。

(終)

2023年4月15日 (土)

「京都橘高校」グルーピー100―関西テレビNewsから―

「京都橘高校」グルーピー100
―関西テレビNewsから―[「京都橘高校」グルーピー] 

 「京都橘高校」グルーピー100回目記念として、テレビNewsを2つご紹介します。部長さんはピッコロ、いつもバトンで指揮されているドラムメジャーさんはトロンボーンの奏者です。 

台湾の双十節(国慶節)での招待公演に関するもの
【特集】マーチングの強豪・京都橘高校吹奏楽部が台湾でパフォーマンス!コロナ禍を走り抜けた生徒たち

119期生の卒業記念となる「第59回定期演奏会」に関するもの
【特集】京都橘高校吹奏楽部 "涙の"卒業公演 前売りチケットは5分で完売 海外からのファンも応援に【関西テレビ・報道ランナー】

2023年4月10日 (月)

「しなの(科野)」語源考―「多元の会」月例会・令和5年4月―

「しなの(科野)」語源考
「多元の会」月例会・令和5年4月―[コラム]

 吉村八洲男さまより、多元の会で発表された論考をご寄稿いただきましたので、掲載いたします。文中のリンクは山田によるものです。

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「しなの(科野)」語源考 (多元月例会・R5・4)

上田市  吉村八洲男

1.初めに

 機会を与えて頂き、感謝いたします。既に「国分寺・尼寺論」に始まり、「条理」「真田の鉄」「青木の蕨手文瓦」、と何回か皆様にお聞きいただきました。今回も同じように顰蹙を招きかねない話題・推論なのですが、今迄の回数に免じてお許しください。

 「上田」と言うとすぐに戦国期・「真田一族」を想起します。ありがたい事なのですが「古代史」分野に限ると「マイナス」面が非常に多いと感じます。「真田一族の家系・祖先」を追及しても「中世」で止まります。古代へと歴史を遡れないのです。

 しかし考え直して下さい。「黒曜石産地・星糞(ほしくそ)峠」と「上田」は、十数キロしか離れていません。つまり「星糞峠・和田峠」の麓は「上田」なのです。「峠」に隣接する旧石器・縄文時代「男女(おめくら)」遺跡とも離れていないのです。

 これからの話題、『「上田」は古い時代からの歴史が推量される珍しい地域だ』をご理解ください。私は「しなの・科野」とは「上田」の事で(これに間違いはない!)、「始原期の古代史」と密接に繋がる地、と思っています。「上田」の古代(始原期も含め)へ更なるご理解を頂きたい。

 

2.遺伝性疾患・「アミロイドニューロパチー」の意味する事

 この遺伝性の病気については、古賀達也氏が「洛中洛外日記・1720話」〔肥後と信州の共通遺伝性疾患分布〕で取り上げられ、「2050話」〔古代の九州と信州の諸接点〕でも再論されています。

 見逃してしまう話題ですが、この病気の存在は、歴史判断を左右しかねない重要な問題を内包していると私は判断しています。「しなの」論と密接に関係します。

 まずこの病気について簡単に説明してみます。

 この病気は「常染色体の優性遺伝」による疾患、つまり「染色体の突然変異」が引き起こす疾患で、「親から子へと50パーセントの確率で遺伝」するのが特色のようです。内科医であれば知らない人がいない程の有名な病気と言います。驚くことに、特殊とも言えるこの「遺伝性疾患」が、「長野県」と「熊本県」に集中して出現します(両県の、現在での「集積地」までが特定されています)。

 この医学事実の存在は何を意味するのでしょう。不思議で奇異な事と思えます。遺伝子解析、DNA読み取りなど科学的手法による歴史探求・解釈が行われる現在です。

 この不審への解答がなされるべきと思われます。

 ところが、ピンポインで両県に起こっているこの現象の原因にはまだ答えが出ていないようです。放置されたままです。推定を試みてもいいかとも思えました。

 まず両県だけにある「自然要因」、「生活要因」がその「原因」、とする推定・主張は出ていません。素人目にも、それを原因とする説明はおかしく思えます。

 となると、「人的要因(条件)」が大きく関わっていると考えざるを得ません。「血統」・「血脈」が移動し遺伝した、つまり「人の移動」説が現状の分布を説明する唯一の方法ではないでしょうか。

 「太古から両県には、人の移動・『往来』・があった」。驚きますが、それが答えと思えます。

 

3.歴史に残る両県の『往来』

 驚くことに「歴史」ではすでにこの不審な現象への回答が出されています。

 両県には、古代から人の移動があったとして来たのです。

 始原期の両県の「人の移動」について「上田市誌」では、「(異本)阿蘇系図」・「旧事本紀(国造記)」からの推測が取り上げられています。

 『「神武天皇」の子、「神八井耳(かみやいみみ)命」の子孫「建五百建(たけいおたけ)命」が科野国造になり、その子の一方「速瓶玉(はやみかたま)命」は阿蘇国造になり、もう一方の子「建稲背(たていなせ)命」は科野国造になります。

 「習合」による加筆部分(特に神武天皇部分)があったでしょうが、両県は始原期(創世期)から「人の移動・つながり」があり、しかも「科野(長野)」が先で「阿蘇(熊本)」が後だったとしているのです。

 伝承を記録しただけの信憑性のない文献から、との批判はあるでしょうが、伝承にせよ「長野県」から「熊本県へという「移動」は、記録されているのです。

 だがそこを過ぎて古代歴史解釈は大きく変化しました。大和王権の進展が歴史の進展だ、としたのです。そしてその時、『「熊本県」から「長野県」へと人が移動した』とする解釈が、「定説・主流」になります。「古事記」などを通した「一方通行」とも言える歴史解釈です。

 「神武天皇」・「神八井耳命」に繋がる「物部氏・多(おお)氏・蘇我氏」一族の動向が全国へ強い影響を与えたとされますが、「科野」でも同じでした。特に「多氏(於氏)」の一族が現在に繋がる地名「小県(ちいさがた・上田もその一部)」を決め、諸政策も行ったとしました。「諏訪信仰」との強い結びつきも指摘されました。「河内国」を根拠としたこの「多(おお)氏一族」の流れが「肥後国」にあるとされ、「多氏」が「肥後」と「科野」を結び付けた、と解釈されます。その一族が大挙して「肥後」から「科野」に来たと解釈したのです。

 上田(塩田)「阿曽神社」・その「宝剣(布留御魂剣)」も奈良県「石上神社」から分祀されたとしました。彼らは次には「常陸国」へとその勢力を広げたと郷土史家・歴史家は考えました。「近畿(地方)」が中心、その影響を強く受けたとしたのです。

 これに対し現在では、「鉄」や「蕨手文」の伝来・「八面大王」伝承の究明などから、「北九州」からの「人・文化」の移動を考えます。直近の新聞記事も長野市「塩崎遺跡」で「遠賀式土器」が数百点発掘されたと伝えます。紀元前3~4世紀と判定しました。北九州からの到来は間違いないと思えます。

 だがよく考えてみて下さい。方向は同じでも(「北九州」でも)、それでは『「熊本県」から』という設定された条件をクリアーしていません。

 「北九州」に、遺伝性「アミロイドニュロパチー」疾病は濃厚に存在していないようなのです。

 「長野」と「熊本」、両県の往来を特定する別試案が欲しいと思えます。

 

4.「長野県」から「熊本県」への移動

 「伝承」は交流関係があったと推測しますが、まだまだ不足と言えそうです。

 だが、「科野・長野」から「肥後・熊本」への移動を説明する最高の解決策があります。いやそれこそが、この疾病の持つ特殊な分布を説明する唯一の方法だと私は信じています。それを説明していきましょう。

 上田市の「塩田地区」に「阿曽神社」があります。その発祥は不明、さらに中断(放置)期間が長いとも言われる、ありふれた小さな神社です。しかしそうでしょうか。この神社こそが重要と思えるのです。ここが手がかりなのです。

 ここが「和田家文書」に書かれる「阿蘇辺族」が依拠した地・神社だ、と私は信じています。神社名が暗示するように、ここが「科野」の「あそ・阿蘇」地であったと信じているからです。一連の「和田文書」記載事実の正しさからそう信じます。

 始原期に「阿蘇辺の森」に住んでいた彼らが、やがて列島を南下し、各地に「あそ名称を残したと言われます。その彼らが「科野(上田)・塩田」にも移り住み「あそ・阿曽」を名乗った、やがてその「阿曽」族の一部が「肥後・熊本」の「阿蘇へと移動したと考えるのである。ピンポイントで「肥後・阿蘇」へと移動したと考えます。そう考えると述べてきた問題(現象)へ無理ない説明がつきます。

 歴史伝承の通り「科野・阿曽」の人々が「熊本・阿蘇」の「祖」であったと考え、その移動の際、問題とする遺伝性疾病も「熊本」へ伝わったと推量するのです。

 『「科野」から「熊本」へ移動した』という推定の理由を更に挙げてみます。

 全国にある「あそ」地ですが、「長野」と「熊本」だけにある伝承が残ります。

 それが「蹴裂(けさく)伝承」です。これは「国土創生」譚で、その地方の開拓・開墾を物語る伝承であり、全国には数多くみられます。

 だが「あそ」地を名乗る中では、「長野」と「熊本」にしか残っていません。主人公は「科野」では「鼠」、「熊本」では「建磐建命」です。両者を比較すると(古田先生の「言」を借りれば)『動物が主人公』である「長野」の伝承の方が古いと判断されます。ですから、古形を示す「科野」から「肥後」へと移動した事となります。

 このような「伝承・民話」の世界で限定すると、「科野・塩田」は相当に古そうです。「塩田」の伝承は「苧環(おだまき)形」という古形を取るのが多いと言われます。後世では別話となる民話が「一つの民話」として連続して語られるのです。

 「上田(塩田)」が発祥と言われ「人獣婚姻譚」としても有名な「小泉小太郎(竜の子太郎)」話も「三年寝太郎」話と繋がり、「一民話」として伝わります(太郎が成長して「寝太郎」となる)。そしてそのような形式こそ、「民話の原型」とも言われます。「塩田」の民話は、古い民話が多いとも言えるのです。

 一方、「熊本・阿蘇」の伝承には特徴的なことが少ないと思えます、多くが「建磐建命」を主人公とするありふれた伝承です。「土蜘蛛」を滅ぼし土地を開拓します。その関連伝承が多数です。明らかに両者は異なり「科野」の方が古いと思われます。

 7年ほど前、「阿曽神社」境内から「宝(?)」が偶然発見されました。「鶏の卵石」と伝承されて来た「卵形をした3石」でした。しかし、この3石の出現に私は大変驚きました。「宝」として大切にされた時代の古さが想起されたからです。

 「文化」が進み「鉄」の時代を迎えた時、「石」を宝にする神社・人々がいるでしょうか?あり得ない事です。つまり、「石」を宝にした時代は「鉄」より遥か以前だと判断されるのです。そして「岩石分析」からの推定もそれを支持しました。

 「石の宝」を持った「阿曽神社」の起源は、相当に古いと思えます。

 「3石」にさえ意味があるかと私は思いました。古田先生が、「角陽国」への追及を通し、「3」の持つ意味を考察されていたからだ。

 「3石神社・三笠神社」は全国に今も残ります。福岡「宝満(三笠)神社」のルーツは「3石」だといいます。そして「熊本・阿蘇神社」の創建時の宝も、「3石柱」だったと「三代実録」の記載から説明されています(「阿蘇市誌」から)。

 列島を南下した「阿蘇辺族」の宝は、「3石」であったのかも知れない・・・

 推論への決定的と思える根拠があります。

 「科野・阿曽神社」に向かい、「根子(ねこ)岳」と「烏帽子(えぼし)岳」が聳え立っています。この山々が正面とも言える位置にあり、連なっています。そしてなんと「熊本・阿蘇神社」近くにも、「根子岳」と「烏帽子岳」があるのです。同名称の山が存在するのです。この三地名は「セット」と思えます(「根子」名はやや新しいか、「阿蘇神社」のお土産には「猫」が使われます)。

 同一地名の存在は、偶然ではないと思えます。「科野」から「肥後」への移動を物語るのではないでしょうか。さらに上田盆地には、「たていわ(立岩)」地名さえ残ります。「熊本・阿蘇神社」の主人公、「建磐竜命」を想起してしまいます・・・

 いずれにせよ、「科野」と「肥後」は無関係ではあり得ません。ともに「あそ」地・神社を持ち、同一山名を持ち、伝承を持つからです。そして、「科野・阿曽」の方が古いかと判断されるのです。

 「科野・阿蘇(曽)族」が「火の国(肥後)」へ向かったのではないだろうか?

 

5.「しお・塩」は「しよっぱい」か?

 「まくら」が長すぎました。本題・「上田の塩」・に切り替えます。ただ最初にお願いしておきます、これから話題とする「上田市」は「上田盆地」とほぼ同義だと考えて下さい(平成の合併以前の地域名という事)そこからの推論が重要だからです。

 「上田市」は「千曲川」によりほぼ二分され、片方が「塩田地区」と呼ばれます。

 緩やかな傾斜のある平地とさえ言ってもよい一帯で、「縄文期」からの数々の遺跡から「文化の先進地」だったと考えられています。「地名」も古い独特のものが多く残ります。「塩田」名も「平安期」文献には既にあり、現在とほぼ同一地域を示していたようです。

 しかし、よくよく考えてみると、「塩」があったと言う変な地区名称です。そして、もう片方の「上田地区」(標高がやや低い)には「塩」地名が皆無です。

 太古の上田盆地は海の底であった、だから「塩」が残り「塩田」地名が付けられた、とするのが今迄の説明です。そうだとすると、少ない平地しかなく標高の低い「上田地区」にこそ「塩」地名が残らなくてはいけません。乾燥していく過程で最後まで「水(塩水)」が残るのが「上田地区」と思われるからです。ところが実際には「塩地名」は、「塩田地区」にしかありません。不思議な事でした。

 数年前です。「古田先生」が「しなの」地名について見解を述べられました。「言素論」による「日本語の成り立ち」から「地名」を解釈された時です。

 『「しなの」の「し」は、「ちくし」の「し」であろう。共に「し」は「死」である、その地では、「生き死に」が繰り返されていたと思える。だから「し」が残るのだ。松本にある「ふかし・深志」地名もそこから考えるべきであろう』。

 記憶に強く残りました。「しなの」は、「しなの・科野・信濃」ではない。「し+な+の」であっても不思議ではないと感じたのです。「言素」からの追及が肝要と思えました。「那」は、「水辺の領域」を意味するとも知りました。

 「しなの」とは、「死+那+野」とさえ考えたものです。

 

6.「塩田地区」の「しお・塩」

 そう考えたとき、「上田・塩田地区」の奇妙な地名が想起されます。略図をご覧ください。Photo_20230406155601

 「塩田地区」には、驚くほどの「塩」地名がありました。さらに「上田盆地」以外にも、ここを取り囲むように「塩」地名が点在します。

 そして地区内「塩」地名に、ある特徴的「塩地名」があります。「塩野」名です。部落名(字名)なのですが、同一名称が地区内に二か所あるのです。それぞれを「前山の塩野」と「保野の塩野」と呼び分けます。そして共に「塩野神社」を持ちます、ですから「本家」争いを繰り広げる事となります、「俺の神社の方が古い!」。

 更にそれぞれにある池も、「塩野池」と「塩吹池」と似通い、「塩野川」さえあります。

 「塩田地区」の「塩野(部落)」の「塩野(神社・池・川)」、と三重構造を持つ「塩」地名が、離れて、同時に存在するのです。

 まだ「塩」地名があります。「盆地」はずれには「塩尻」があり、「塩川」もあります。隣接する青木村には「塩野入池」もあります。

 そして、「上田盆地」を取り囲むように「塩崎(長野市)」・「塩原(小諸市)」「大塩(丸子町)」「塩名田(佐久市)」があるのです・・・

 この地(一帯)には「塩」地名が溢れています。「塩(salt)」と考えると、「塩田地区」はひどくしょっぱい地域だったと思えます。三重構造を持つ「塩野」地区などは、「塩の濃厚遺存地」となります。おかしいでしょう。

 だが、上田の「歴史学・学者」は、無条件で『「しお」=「塩・salt」』として来ました。疑いを持つ事はありませんでした。(全国でも同じだったのでしょうか?)

 けれども「地質学」者は違います。「上田盆地」は「地質学」からは注目されていました。「上田泥流(古浅間山が崩壊し発生)」という地質学上の大事件が起こった場所で、その発生時期を巡っては大論争があったからです。

 結論は、「紀元前9000年頃の発生」となったのですが、幸運な事に(?)その際「上田盆地の地質・地層・土壌」は、徹底的と言える程に調査されたのです。

 「上田泥流・紀元前9000年頃発生」説を提唱し、数年かけてそれを確定させた「地質学者」に聞きました。『「塩田地区」に、「塩(salt)」はあったのですか?』

 答えは明確でした。「そんなものは、なかった。話題にすらなっていない。ただ、歴史家たちは「あった」と強く主張している。だから、あったのかも知れないが・・・我々としては、「塩」とは「粘土質の強い土(粘着性がある土壌)」の事と理解している。そうとしか考えられない

 驚きます。「塩田」に「塩(salt)」はなかったというのです・・・しょっぱくなかったと言うのです。地質学者はそう断定していたのです。論争による数多い「調査」結果からそう結論していたのです・・・

 

6.「しお」「しなの」語源考

 私は地名分布への不審と科学者の見解から、「しお」とは、「塩(salt)」ではないと主張します。別解釈をすべきです。その時、古田先生の「言素論」が想起されます。

 「しお」とは「塩」ではなく、「「し+お」ではないでしょうか。先生は、「し」とは「死」であると言われました。そこからの気付きです。

 「し」を「死」とした時、この「し・死」語は「言素で名詞」と思えます。「名詞」は「動詞」と接続し、容易に次の語が生まれます。「死・す」「死・ぬ」がその例です。

 そう考えた時、「し」を持つ類似語例が浮かびます。

 「し+ける」(時化る・湿化る)・「し+なる」(曲る・級る)・「し+げる」(繁る)などなどです(「し+のぶ」(忍ぶ・偲ぶ)もそうかも知れません)。

 明らかに、「し」は「名詞」です。それを「語幹」にして「動詞」が接続し、様々な意味を持つ言葉となっています。「しなの」もそうなのではないでしょうか。

 ただ、「し=死」と限定する事はないとも思います。「し(死)・お・だ」では「ゾンビ」の国になってしまいますから。

 私は、「し」とは「変化」を意味した言葉、と結論しました。

 天気(晴天)が変化する事を「し・ける(時化る)」と言います。直線が変化する事を「し・なる(曲る)」と言います。乾燥しているものが水分を得て「し・ける(湿る)」のです。枯れ枝から葉が生まれ「し・げる(繁る)」のです。先生の言われた「し・死」も、生き物が最後に至る「変化」と思いました。

 「し」という「言素」は、「変化」を意味した言葉だったのではないでしょうか。

 「し=変化」が多い「地」が、「し・な・の」「し・お・だ」ではないでしょうか?

 広大な山野を持ち急峻な地形を持つ長野県ですが、降雨時すべての水は「千曲川・天竜川」に注ぎ込みます。現在でもこれら中心「河川」の変化は、想像以上に激しいものです(江戸期、千曲市では「6m以上」の水位上昇が記録されています)。さらに「火山活動」による地形の変化もあります。これら自然の変化は人間の生活に深刻な影響をもたらし、生存を脅かし続けたと思われます。

 河川流域地は、この変化する「川(筋)」により形成されます。つまり、「変化する水辺(流域地)に形成された場所(野)」が「しなの」と思えます。

 「し・変化する」、「な・水辺の」、「の・野(地域)」が、「しなの」ではないでしょうか。

 「しなの」の語源については定説がありません。様々な予想がなされ、「議論百出」状態です。そしていずれの主張も「一長一短」と思われます。

 江戸期から考察がなされ始めた為、「姨捨説話」からの連想とも言える「級坂(しなさか)」説(山が多く曲がった坂道が多い)が中心ですが(賀茂真淵・本居宣長以来)、「科の木」があるから「科野」であるというおかしな主張さえなされます。「古事記」・「諏訪信仰」と結びつけた「風神」説も、有力です。直近では「河成段丘」説が主張されました(関裕二氏)。いずれも「しな」を「級」と考えます。「しな」語をどう解釈するかで、諸説が分かれます。

 だが、「し」+「な」ではないでしょうか?

 「し」「な」と言う「言素」に立ち返ることが、旧石器時代からの歴史を持つ「しなの」語解釈には必要な事と思われます。長い歴史が「しなの」語を育んできたのですから。

 残る「塩・しお」地名も、「し=変化」からと考えます。「し(変化)+お」となります。

 ただ「お」が問題で、それについては私にもすっきりとした説明ができません。古代の「母音」は今より多いと言われます。ですから「お」表記であっても、いくつかの「お」発音が予想されるからです。

 「ふぉ」「ほ」に近い「お」発音とすると、「穂」を意味すると思えますから、「穂」「(変化が)目立つ・激しい」という意味となります。

 「お」発音のままとすると、「(変化が)ある・広がる」の意味と思われます。漢字での表記は「於・多・尾」などでしょう。

 ただ、どちらでもあまり変わりがないようですね。失礼しました!

 

7.終わりに

 「音」で呼ばれていた「しなの・地域名」ですが、やがて漢字が使用され漢字で表記されるようになります。

 その時人々は、「しな」を一語とし、「科(窪み・穴を意味する)」と表記した様です。古賀達也氏の予想ですが、私も同意します。

 縄文期の黒曜石の採掘は、クレーターを思わせる「窪み・穴」から採石したとするのが至近の定説です。世界でも珍しい「縄文鉱山」からの採掘です。今でも「星糞峠」「虫倉山」斜面には、無数の窪み・穴の存在が確認されています。

 縄文人は、大地・自然を変化させ「採掘場・鉱山」にしたと思えます。「自然」を「しな」させ、「鉱山」に作り変え黒曜石を採掘したといえそうです。

 だから「しな」を「科」と表記したのです。それが、「黒曜石産地・星糞峠」の麓でもあった「上田」を、「科野国」と表記した始まりだったと思えます。

(終)

2023年4月 7日 (金)

「松江商業高校」グルーピー12―京都さくらパレード―

「松江商業高校」グルーピー12
第22回京都さくらパレード[「松江商業高校」グルーピー]

【追加のお知らせ】
ステージ・パフォーマンスに続いてパレードが投稿されましたので、追加しました。【追加のお知らせ 終わり】

 グルーピー11とは別のチャンネルの動画です。京都橘スタイルをとる松江商業高校吹奏楽部としては初参加のさくらパレードです。

 UP公認動画 / 松江商業高等学校吹奏楽部 / 京都さくらパレード / stage performance / 松商Brass「4k」March 21, 2023
投稿者コメント
※UP公認動画です。
松江商業高等学校吹奏楽部 / 京都さくらパレード / Kyoto Sakura Parade
2023年3月21日、第22回京都さくらパレードでの松商Brassの皆様のステージ演奏からの動画です。
※主催の京都市及び 松江商業高等学校吹奏楽部様からの許可を得てUPしております。
※音源のライセンス関係で広告が表示される事があります。
 動画の無断転載はお断り致します。
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以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。
#松商Brass #松江商業 #さくらパレード

UP公認動画 / 松江商業高等学校吹奏楽部 / 京都さくらパレード / parade / 松商Brass「4k」March 21, 2023
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※UP公認動画です。
松江商業高等学校吹奏楽部 / 京都さくらパレード / Kyoto Sakura Parade
2023年3月21日、第22回京都さくらパレードでの松商Brassの皆様のパレードからの動画です。
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「京都橘高校」グルーピー99―ローズ・パレード会長来日歓迎演奏―

「京都橘高校」グルーピー99
ローズ・パレード会長来日歓迎演奏[「京都橘高校」グルーピー]

 京都橘吹奏楽部が、2025年正月にアメリカ合衆国カリフォルニア州のパサデナで行われるローズ・パレードに参加申請し(Apply for the 2025 Rose Parade)、会長(開催実行委員長)が「京都橘高校」を訪問した時の歓迎演奏のYouTube動画を見つけましたのでご紹介します。ローズ・パレード側としては願ってもないことなのでしょうから、出場を認める旨を伝えるために会長自らが来日したと思われますので、京都橘吹奏楽部の3回目(①2012年・②2018年・③2025年)のローズ・パレード出場は確実と思われます。ローズ・パレードには出場した後5年間は出場できない決まりがあります。武漢肺炎ウイルスのパンデミックなどで2025年への出場申請になったと思われます(私の推測にすぎません)。歓迎演奏の「愛の賛歌」で会長が感動して涙を見せる場面があります。 

以下、どちらも外国人のYouTubeチャンネルです。

ローズパレード会長来日歓迎演奏 | 海外の反応
山田のコメント
この男性の方は、「歓迎演奏」をWelcome Dance と言ったり、ベニー・グッドマンのsing sing sing も知らなかったりと、京都橘吹奏楽部のことはほとんどご存じないようです。いや、演奏しながらダンスをするのがどれほど大変なのか知らないのですから、吹奏楽をご存じないのかもしれません。 

ローズパレード会長来日歓迎演奏。2025年ローズパレードに向けてエントリー開始!

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