「しなの(科野)」語源考
―「多元の会」月例会・令和5年4月―[コラム]
吉村八洲男さまより、多元の会で発表された論考をご寄稿いただきましたので、掲載いたします。文中のリンクは山田によるものです。
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「しなの(科野)」語源考 (多元月例会・R5・4)
上田市 吉村八洲男
1.初めに
機会を与えて頂き、感謝いたします。既に「国分寺・尼寺論」に始まり、「条理」「真田の鉄」「青木の蕨手文瓦」、と何回か皆様にお聞きいただきました。今回も同じように顰蹙を招きかねない話題・推論なのですが、今迄の回数に免じてお許しください。
「上田」と言うとすぐに戦国期・「真田一族」を想起します。ありがたい事なのですが「古代史」分野に限ると「マイナス」面が非常に多いと感じます。「真田一族の家系・祖先」を追及しても「中世」で止まります。古代へと歴史を遡れないのです。
しかし考え直して下さい。「黒曜石産地・星糞(ほしくそ)峠」と「上田」は、十数キロしか離れていません。つまり「星糞峠・和田峠」の麓は「上田」なのです。「峠」に隣接する旧石器・縄文時代「男女(おめくら)」遺跡とも離れていないのです。
これからの話題、『「上田」は古い時代からの歴史が推量される珍しい地域だ』をご理解ください。私は「しなの・科野」とは「上田」の事で(これに間違いはない!)、「始原期の古代史」と密接に繋がる地、と思っています。「上田」の古代(始原期も含め)へ更なるご理解を頂きたい。
2.遺伝性疾患・「アミロイドニューロパチー」の意味する事
この遺伝性の病気については、古賀達也氏が「洛中洛外日記・1720話」〔肥後と信州の共通遺伝性疾患分布〕で取り上げられ、「2050話」〔古代の九州と信州の諸接点〕でも再論されています。
見逃してしまう話題ですが、この病気の存在は、歴史判断を左右しかねない重要な問題を内包していると私は判断しています。「しなの」論と密接に関係します。
まずこの病気について簡単に説明してみます。
この病気は「常染色体の優性遺伝」による疾患、つまり「染色体の突然変異」が引き起こす疾患で、「親から子へと50パーセントの確率で遺伝」するのが特色のようです。内科医であれば知らない人がいない程の有名な病気と言います。驚くことに、特殊とも言えるこの「遺伝性疾患」が、「長野県」と「熊本県」に集中して出現します(両県の、現在での「集積地」までが特定されています)。
この医学事実の存在は何を意味するのでしょう。不思議で奇異な事と思えます。遺伝子解析、DNA読み取りなど科学的手法による歴史探求・解釈が行われる現在です。
この不審への解答がなされるべきと思われます。
ところが、ピンポインで両県に起こっているこの現象の原因にはまだ答えが出ていないようです。放置されたままです。推定を試みてもいいかとも思えました。
まず両県だけにある「自然要因」、「生活要因」がその「原因」、とする推定・主張は出ていません。素人目にも、それを原因とする説明はおかしく思えます。
となると、「人的要因(条件)」が大きく関わっていると考えざるを得ません。「血統」・「血脈」が移動し遺伝した、つまり「人の移動」説が現状の分布を説明する唯一の方法ではないでしょうか。
「太古から両県には、人の移動・『往来』・があった」。驚きますが、それが答えと思えます。
3.歴史に残る両県の『往来』
驚くことに「歴史」ではすでにこの不審な現象への回答が出されています。
両県には、古代から人の移動があったとして来たのです。
始原期の両県の「人の移動」について「上田市誌」では、「(異本)阿蘇系図」・「旧事本紀(国造記)」からの推測が取り上げられています。
『「神武天皇」の子、「神八井耳(かみやいみみ)命」の子孫「建五百建(たけいおたけ)命」が科野国造になり、その子の一方「速瓶玉(はやみかたま)命」は阿蘇国造になり、もう一方の子「建稲背(たていなせ)命」は科野国造になります。』
「習合」による加筆部分(特に神武天皇部分)があったでしょうが、両県は始原期(創世期)から「人の移動・つながり」があり、しかも「科野(長野)」が先で「阿蘇(熊本)」が後だったとしているのです。
伝承を記録しただけの信憑性のない文献から、との批判はあるでしょうが、伝承にせよ「長野県」から「熊本県へという「移動」は、記録されているのです。
だがそこを過ぎて古代歴史解釈は大きく変化しました。大和王権の進展が歴史の進展だ、としたのです。そしてその時、『「熊本県」から「長野県」へと人が移動した』とする解釈が、「定説・主流」になります。「古事記」などを通した「一方通行」とも言える歴史解釈です。
「神武天皇」・「神八井耳命」に繋がる「物部氏・多(おお)氏・蘇我氏」一族の動向が全国へ強い影響を与えたとされますが、「科野」でも同じでした。特に「多氏(於氏)」の一族が現在に繋がる地名「小県(ちいさがた・上田もその一部)」を決め、諸政策も行ったとしました。「諏訪信仰」との強い結びつきも指摘されました。「河内国」を根拠としたこの「多(おお)氏一族」の流れが「肥後国」にあるとされ、「多氏」が「肥後」と「科野」を結び付けた、と解釈されます。その一族が大挙して「肥後」から「科野」に来たと解釈したのです。
上田(塩田)「阿曽神社」・その「宝剣(布留御魂剣)」も奈良県「石上神社」から分祀されたとしました。彼らは次には「常陸国」へとその勢力を広げたと郷土史家・歴史家は考えました。「近畿(地方)」が中心、その影響を強く受けたとしたのです。
これに対し現在では、「鉄」や「蕨手文」の伝来・「八面大王」伝承の究明などから、「北九州」からの「人・文化」の移動を考えます。直近の新聞記事も長野市「塩崎遺跡」で「遠賀式土器」が数百点発掘されたと伝えます。紀元前3~4世紀と判定しました。北九州からの到来は間違いないと思えます。
だがよく考えてみて下さい。方向は同じでも(「北九州」でも)、それでは『「熊本県」から』という設定された条件をクリアーしていません。
「北九州」に、遺伝性「アミロイドニュロパチー」疾病は濃厚に存在していないようなのです。
「長野」と「熊本」、両県の往来を特定する別試案が欲しいと思えます。
4.「長野県」から「熊本県」への移動
「伝承」は交流関係があったと推測しますが、まだまだ不足と言えそうです。
だが、「科野・長野」から「肥後・熊本」への移動を説明する最高の解決策があります。いやそれこそが、この疾病の持つ特殊な分布を説明する唯一の方法だと私は信じています。それを説明していきましょう。
上田市の「塩田地区」に「阿曽神社」があります。その発祥は不明、さらに中断(放置)期間が長いとも言われる、ありふれた小さな神社です。しかしそうでしょうか。この神社こそが重要と思えるのです。ここが手がかりなのです。
ここが「和田家文書」に書かれる「阿蘇辺族」が依拠した地・神社だ、と私は信じています。神社名が暗示するように、ここが「科野」の「あそ・阿蘇」地であったと信じているからです。一連の「和田文書」記載事実の正しさからそう信じます。
始原期に「阿蘇辺の森」に住んでいた彼らが、やがて列島を南下し、各地に「あそ名称を残したと言われます。その彼らが「科野(上田)・塩田」にも移り住み「あそ・阿曽」を名乗った、やがてその「阿曽」族の一部が「肥後・熊本」の「阿蘇へと移動したと考えるのである。ピンポイントで「肥後・阿蘇」へと移動したと考えます。そう考えると述べてきた問題(現象)へ無理ない説明がつきます。
歴史伝承の通り「科野・阿曽」の人々が「熊本・阿蘇」の「祖」であったと考え、その移動の際、問題とする遺伝性疾病も「熊本」へ伝わったと推量するのです。
『「科野」から「熊本」へ移動した』という推定の理由を更に挙げてみます。
全国にある「あそ」地ですが、「長野」と「熊本」だけにある伝承が残ります。
それが「蹴裂(けさく)伝承」です。これは「国土創生」譚で、その地方の開拓・開墾を物語る伝承であり、全国には数多くみられます。
だが「あそ」地を名乗る中では、「長野」と「熊本」にしか残っていません。主人公は「科野」では「鼠」、「熊本」では「建磐建命」です。両者を比較すると(古田先生の「言」を借りれば)『動物が主人公』である「長野」の伝承の方が古いと判断されます。ですから、古形を示す「科野」から「肥後」へと移動した事となります。
このような「伝承・民話」の世界で限定すると、「科野・塩田」は相当に古そうです。「塩田」の伝承は「苧環(おだまき)形」という古形を取るのが多いと言われます。後世では別話となる民話が「一つの民話」として連続して語られるのです。
「上田(塩田)」が発祥と言われ「人獣婚姻譚」としても有名な「小泉小太郎(竜の子太郎)」話も「三年寝太郎」話と繋がり、「一民話」として伝わります(太郎が成長して「寝太郎」となる)。そしてそのような形式こそ、「民話の原型」とも言われます。「塩田」の民話は、古い民話が多いとも言えるのです。
一方、「熊本・阿蘇」の伝承には特徴的なことが少ないと思えます、多くが「建磐建命」を主人公とするありふれた伝承です。「土蜘蛛」を滅ぼし土地を開拓します。その関連伝承が多数です。明らかに両者は異なり「科野」の方が古いと思われます。
7年ほど前、「阿曽神社」境内から「宝(?)」が偶然発見されました。「鶏の卵石」と伝承されて来た「卵形をした3石」でした。しかし、この3石の出現に私は大変驚きました。「宝」として大切にされた時代の古さが想起されたからです。
「文化」が進み「鉄」の時代を迎えた時、「石」を宝にする神社・人々がいるでしょうか?あり得ない事です。つまり、「石」を宝にした時代は「鉄」より遥か以前だと判断されるのです。そして「岩石分析」からの推定もそれを支持しました。
「石の宝」を持った「阿曽神社」の起源は、相当に古いと思えます。
「3石」にさえ意味があるかと私は思いました。古田先生が、「角陽国」への追及を通し、「3」の持つ意味を考察されていたからだ。
「3石神社・三笠神社」は全国に今も残ります。福岡「宝満(三笠)神社」のルーツは「3石」だといいます。そして「熊本・阿蘇神社」の創建時の宝も、「3石柱」だったと「三代実録」の記載から説明されています(「阿蘇市誌」から)。
列島を南下した「阿蘇辺族」の宝は、「3石」であったのかも知れない・・・
推論への決定的と思える根拠があります。
「科野・阿曽神社」に向かい、「根子(ねこ)岳」と「烏帽子(えぼし)岳」が聳え立っています。この山々が正面とも言える位置にあり、連なっています。そしてなんと「熊本・阿蘇神社」近くにも、「根子岳」と「烏帽子岳」があるのです。同名称の山が存在するのです。この三地名は「セット」と思えます(「根子」名はやや新しいか、「阿蘇神社」のお土産には「猫」が使われます)。
同一地名の存在は、偶然ではないと思えます。「科野」から「肥後」への移動を物語るのではないでしょうか。さらに上田盆地には、「たていわ(立岩)」地名さえ残ります。「熊本・阿蘇神社」の主人公、「建磐竜命」を想起してしまいます・・・
いずれにせよ、「科野」と「肥後」は無関係ではあり得ません。ともに「あそ」地・神社を持ち、同一山名を持ち、伝承を持つからです。そして、「科野・阿曽」の方が古いかと判断されるのです。
「科野・阿蘇(曽)族」が「火の国(肥後)」へ向かったのではないだろうか?
5.「しお・塩」は「しよっぱい」か?
「まくら」が長すぎました。本題・「上田の塩」・に切り替えます。ただ最初にお願いしておきます、これから話題とする「上田市」は「上田盆地」とほぼ同義だと考えて下さい(平成の合併以前の地域名という事)そこからの推論が重要だからです。
「上田市」は「千曲川」によりほぼ二分され、片方が「塩田地区」と呼ばれます。
緩やかな傾斜のある平地とさえ言ってもよい一帯で、「縄文期」からの数々の遺跡から「文化の先進地」だったと考えられています。「地名」も古い独特のものが多く残ります。「塩田」名も「平安期」文献には既にあり、現在とほぼ同一地域を示していたようです。
しかし、よくよく考えてみると、「塩」があったと言う変な地区名称です。そして、もう片方の「上田地区」(標高がやや低い)には「塩」地名が皆無です。
太古の上田盆地は海の底であった、だから「塩」が残り「塩田」地名が付けられた、とするのが今迄の説明です。そうだとすると、少ない平地しかなく標高の低い「上田地区」にこそ「塩」地名が残らなくてはいけません。乾燥していく過程で最後まで「水(塩水)」が残るのが「上田地区」と思われるからです。ところが実際には「塩地名」は、「塩田地区」にしかありません。不思議な事でした。
数年前です。「古田先生」が「しなの」地名について見解を述べられました。「言素論」による「日本語の成り立ち」から「地名」を解釈された時です。
『「しなの」の「し」は、「ちくし」の「し」であろう。共に「し」は「死」である、その地では、「生き死に」が繰り返されていたと思える。だから「し」が残るのだ。松本にある「ふかし・深志」地名もそこから考えるべきであろう』。
記憶に強く残りました。「しなの」は、「しなの・科野・信濃」ではない。「し+な+の」であっても不思議ではないと感じたのです。「言素」からの追及が肝要と思えました。「那」は、「水辺の領域」を意味するとも知りました。
「しなの」とは、「死+那+野」とさえ考えたものです。
6.「塩田地区」の「しお・塩」
そう考えたとき、「上田・塩田地区」の奇妙な地名が想起されます。略図をご覧ください。
「塩田地区」には、驚くほどの「塩」地名がありました。さらに「上田盆地」以外にも、ここを取り囲むように「塩」地名が点在します。
そして地区内「塩」地名に、ある特徴的「塩地名」があります。「塩野」名です。部落名(字名)なのですが、同一名称が地区内に二か所あるのです。それぞれを「前山の塩野」と「保野の塩野」と呼び分けます。そして共に「塩野神社」を持ちます、ですから「本家」争いを繰り広げる事となります、「俺の神社の方が古い!」。
更にそれぞれにある池も、「塩野池」と「塩吹池」と似通い、「塩野川」さえあります。
「塩田地区」の「塩野(部落)」の「塩野(神社・池・川)」、と三重構造を持つ「塩」地名が、離れて、同時に存在するのです。
まだ「塩」地名があります。「盆地」はずれには「塩尻」があり、「塩川」もあります。隣接する青木村には「塩野入池」もあります。
そして、「上田盆地」を取り囲むように「塩崎(長野市)」・「塩原(小諸市)」「大塩(丸子町)」「塩名田(佐久市)」があるのです・・・
この地(一帯)には「塩」地名が溢れています。「塩(salt)」と考えると、「塩田地区」はひどくしょっぱい地域だったと思えます。三重構造を持つ「塩野」地区などは、「塩の濃厚遺存地」となります。おかしいでしょう。
だが、上田の「歴史学・学者」は、無条件で『「しお」=「塩・salt」』として来ました。疑いを持つ事はありませんでした。(全国でも同じだったのでしょうか?)
けれども「地質学」者は違います。「上田盆地」は「地質学」からは注目されていました。「上田泥流(古浅間山が崩壊し発生)」という地質学上の大事件が起こった場所で、その発生時期を巡っては大論争があったからです。
結論は、「紀元前9000年頃の発生」となったのですが、幸運な事に(?)その際「上田盆地の地質・地層・土壌」は、徹底的と言える程に調査されたのです。
「上田泥流・紀元前9000年頃発生」説を提唱し、数年かけてそれを確定させた「地質学者」に聞きました。『「塩田地区」に、「塩(salt)」はあったのですか?』
答えは明確でした。「そんなものは、なかった。話題にすらなっていない。ただ、歴史家たちは「あった」と強く主張している。だから、あったのかも知れないが・・・我々としては、「塩」とは「粘土質の強い土(粘着性がある土壌)」の事と理解している。そうとしか考えられない」
驚きます。「塩田」に「塩(salt)」はなかったというのです・・・しょっぱくなかったと言うのです。地質学者はそう断定していたのです。論争による数多い「調査」結果からそう結論していたのです・・・
6.「しお」「しなの」語源考
私は地名分布への不審と科学者の見解から、「しお」とは、「塩(salt)」ではないと主張します。別解釈をすべきです。その時、古田先生の「言素論」が想起されます。
「しお」とは「塩」ではなく、「「し+お」ではないでしょうか。先生は、「し」とは「死」であると言われました。そこからの気付きです。
「し」を「死」とした時、この「し・死」語は「言素で名詞」と思えます。「名詞」は「動詞」と接続し、容易に次の語が生まれます。「死・す」「死・ぬ」がその例です。
そう考えた時、「し」を持つ類似語例が浮かびます。
「し+ける」(時化る・湿化る)・「し+なる」(曲る・級る)・「し+げる」(繁る)などなどです(「し+のぶ」(忍ぶ・偲ぶ)もそうかも知れません)。
明らかに、「し」は「名詞」です。それを「語幹」にして「動詞」が接続し、様々な意味を持つ言葉となっています。「しなの」もそうなのではないでしょうか。
ただ、「し=死」と限定する事はないとも思います。「し(死)・お・だ」では「ゾンビ」の国になってしまいますから。
私は、「し」とは「変化」を意味した言葉、と結論しました。
天気(晴天)が変化する事を「し・ける(時化る)」と言います。直線が変化する事を「し・なる(曲る)」と言います。乾燥しているものが水分を得て「し・ける(湿る)」のです。枯れ枝から葉が生まれ「し・げる(繁る)」のです。先生の言われた「し・死」も、生き物が最後に至る「変化」と思いました。
「し」という「言素」は、「変化」を意味した言葉だったのではないでしょうか。
「し=変化」が多い「地」が、「し・な・の」「し・お・だ」ではないでしょうか?
広大な山野を持ち急峻な地形を持つ長野県ですが、降雨時すべての水は「千曲川・天竜川」に注ぎ込みます。現在でもこれら中心「河川」の変化は、想像以上に激しいものです(江戸期、千曲市では「6m以上」の水位上昇が記録されています)。さらに「火山活動」による地形の変化もあります。これら自然の変化は人間の生活に深刻な影響をもたらし、生存を脅かし続けたと思われます。
河川流域地は、この変化する「川(筋)」により形成されます。つまり、「変化する水辺(流域地)に形成された場所(野)」が「しなの」と思えます。
「し・変化する」、「な・水辺の」、「の・野(地域)」が、「しなの」ではないでしょうか。
「しなの」の語源については定説がありません。様々な予想がなされ、「議論百出」状態です。そしていずれの主張も「一長一短」と思われます。
江戸期から考察がなされ始めた為、「姨捨説話」からの連想とも言える「級坂(しなさか)」説(山が多く曲がった坂道が多い)が中心ですが(賀茂真淵・本居宣長以来)、「科の木」があるから「科野」であるというおかしな主張さえなされます。「古事記」・「諏訪信仰」と結びつけた「風神」説も、有力です。直近では「河成段丘」説が主張されました(関裕二氏)。いずれも「しな」を「級」と考えます。「しな」語をどう解釈するかで、諸説が分かれます。
だが、「し」+「な」ではないでしょうか?
「し」「な」と言う「言素」に立ち返ることが、旧石器時代からの歴史を持つ「しなの」語解釈には必要な事と思われます。長い歴史が「しなの」語を育んできたのですから。
残る「塩・しお」地名も、「し=変化」からと考えます。「し(変化)+お」となります。
ただ「お」が問題で、それについては私にもすっきりとした説明ができません。古代の「母音」は今より多いと言われます。ですから「お」表記であっても、いくつかの「お」発音が予想されるからです。
「ふぉ」「ほ」に近い「お」発音とすると、「穂」を意味すると思えますから、「穂」「(変化が)目立つ・激しい」という意味となります。
「お」発音のままとすると、「(変化が)ある・広がる」の意味と思われます。漢字での表記は「於・多・尾」などでしょう。
ただ、どちらでもあまり変わりがないようですね。失礼しました!
7.終わりに
「音」で呼ばれていた「しなの・地域名」ですが、やがて漢字が使用され漢字で表記されるようになります。
その時人々は、「しな」を一語とし、「科(窪み・穴を意味する)」と表記した様です。古賀達也氏の予想ですが、私も同意します。
縄文期の黒曜石の採掘は、クレーターを思わせる「窪み・穴」から採石したとするのが至近の定説です。世界でも珍しい「縄文鉱山」からの採掘です。今でも「星糞峠」「虫倉山」斜面には、無数の窪み・穴の存在が確認されています。
縄文人は、大地・自然を変化させ「採掘場・鉱山」にしたと思えます。「自然」を「しな」させ、「鉱山」に作り変え黒曜石を採掘したといえそうです。
だから「しな」を「科」と表記したのです。それが、「黒曜石産地・星糞峠」の麓でもあった「上田」を、「科野国」と表記した始まりだったと思えます。
(終)
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