科野からの便り―最新記事―

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2021年2月28日 (日)

『史記』に記された「暦」(12)―漢代の定点(その6)日蝕検証WS―

『史記』に記された「暦」(12)
―漢代の定点(その6)日蝕検証WS[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 前回(『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕― 2021212日)からだいぶ時間が経ってしまいました。そのわけは、日蝕を検証するためのワークシート(Excel)を作成していたからです。

Hyws20210301xlsx

 なぜこれが必要だったかといえば、サロス周期(6585.3212日)によって同じような日蝕が起きるということから、『漢書』武帝紀に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」と書かれた日蝕によってその前後±6585.3212日にも日蝕が起きているだろうと予測して、調べることができる、と考えたからです。

 武帝紀(元光元年)秋七月癸未の日蝕は西暦-133(紀元前134)年8月29日で、そのJDN,672,710ですから、±6585.3212日すれば同じような日蝕があるはずです。

 「国立天文台データベース」によれば、前掲日蝕は世界時(UT)03:06に始まり(推算月齢は29.423644416)、05:40に蝕の最大(蝕甚:月齢は当然0.0)となり、08:14(月齢は0.10694445)に終わったとあります(推算月齢はWSによる)。蝕甚の時刻はUT 05:40でこのJD1,672,709.7361とわかります。そこから、1サロス周期遡れば(-6585.3212日)JD 1,666,124.4149であり、すぐさま西暦(世界時:UTGMT-151(紀元前152)87215727.36とわかり、JDを入力した瞬間に朔(新月)と確認できるので、西暦を計算する必要もなく、朔(新月、日蝕が起きる必要条件)であることも確認できます。さらに1サロス遡ったら、JD1,659,539.0937で、西暦-169728141456.54とわかります(もちろん朔です)。

 このように作業が簡単になるばかりではなく、経度の入力を行えば(例えば前漢の首都長安の東経10859分)を入力してあれば、日蝕時(UT)における長安のLMT(地方平均(太陽)時)が(例えば前掲武帝紀の「(元光元年)秋七月癸未」なら、12554704が蝕甚(蝕の最大))とわかるので、見える日蝕かどうかも確認できます。

 まあ、このような便利なツールを作っていたわけです。

 今日は、日蝕を検証するためのWSが出来上がったという報告だけです(申し訳ない)。

 次回は、このWSを用いて、前漢代に起きたと『漢書』にかかれている日蝕とその西暦を突合する作業を行います。

2021年2月23日 (火)

科野からの便り(25)―真田・大倉編④―

科野からの便り(25)
―真田・大倉編④―
[コラム]
 昨日(2021/02/19 () 12:56)、吉村八洲男さまから「「科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④」が届きましたので掲載いたします。
 この論考は、❶地形と遺跡の位置関係、❷地形と偏在する古墳、❸特色ある地名、❹驚くほどの広域から寄進を受ける豪壮な神社(「三島神社」)の「奉加帳」の半数以上を占める同姓の氏子一族の「姓」からと、多方面から「弥生時代から真田で製鉄が行なわれていた」(「弥生の鉄」)を論証しています。私は充分だと思いました。皆さんはどう思われますでしょうか。
 なお、いつもの通り、文中へのリンクの貼り付け・強調下線引きなどは、山田の一存で行ないました。また、付注(〔注x〕)とその注釈は山田の独断で行っています(責任は山田にあります)。ご承知おきください。
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科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④

上田市  吉村 八洲男

1.始めに

  (二十三)では、「山辺邦彦」氏の出された「真田は製鉄の適地である」仮説を紹介・検証し、「古代製鉄」に重要な「4種の鉱石」を推量しました。

 前回の論考では、それをさらに地質学からの「科学の眼」で分析し、「出土物」の画像などでお報せしました。

 山辺氏の「仮説」と私の「歴史観」とが合致したと思える昨年11月に発見した真田・大倉の鉄滓」ですが、そこから「真田・大倉」での「古代製鉄」が画像で再現されたかと思われます。

 『「仮説」の正しさ』も、「鉄滓」などの「画像」を通して科学的に証明されました。「仮説」が示した「4種の鉱石」も確定できたのです。

 もちろん「古代製鉄」を考えた時、「製鉄の原料」への推測が最大の問題です。僅かと思える「添加剤(造滓剤)」以上に、これこそが重要な「鉱石」でしょう。これなしには「製鉄」が出来ないわけですから。

 そう考えた時、「科野」では、材料の入手しやすさからも「砂鉄」を原材料とした「製鉄」を主に考えて良いと思われます。古代「たたら製鉄」の「原材料」と推定される「砂鉄」と同じであったと思います(この理由は既に述べてあります)。

 「真田・大倉」では、「実相院(金縄山・かなづなやま)」の『「玢岩(ヒン岩)」』が最大の原料か、と予想されます(画像でも証明しました)。

 恐らく「金縄山」からは「玢岩」として切り出し、「実相院」からは「風化土」として掘り出したかと思われます。共に、「ヒン岩(花崗岩由来)」の風化により形成された「鉱石」「砂鉄」です。(この地域では珍しい「チタン」が含まれます)。これは、「風化」状態が異なっているかも知れませんが「たたら製鉄」で使われる「真砂土(まさど)」と同じ種類の「砂鉄」です。

 これに関連した驚愕の事実が、既に発表されている「遺跡報告書」の内容と結びつくのですが、これについては最後に述べましょう。

 さて、『「真田」が製鉄の適地である』事は、既に証明されました。ですから、「仮説」が示すもう一つの結論は、『どんな時代にでも「製鉄」が可能だった』です。

 残念ながら私の発見した「鉄滓」は、江戸時代の「製鉄」を示しています(これだけでも驚くべき発見なのですが)。

 しかし、「仮説」からは、古代の「製鉄」も当然あったと言う結論にもなります。

 「真田」の自然や地層は古代から変わっていないからです。その時、『いつ頃から、誰により?』この「製鉄」が始まったのか、それを推測し証明しなくてはなりません。

 もちろん、これを説明した「文献」などありません。ですから、私には残された微かな手掛かりを頼りに推定していくことしか出来ません。

 しかし私たちは既に「山辺」説の正しさを知りました。証拠となる「鉄滓」も見つけました。間違いなく、「真田・大倉」では「製鉄」が行われていたのです。そして、ここから新たに「真田の歴史・科野の古代史」を組み立てる事が可能なのだ、と思い到ります。

 今迄の歴史は、『「真田」の「製鉄」など、あり得ない』とし、「鉄」の存在抜きに組み立てられた「歴史・古代史」なのです。答えが出た以上、もう一度「製鉄がなされた」観点から「真田」の「古代」を考え直す必要があるのです!これは、当たり前でしょう!

 きっと手掛かりがある筈です。そしてそこからは別の歴史が組み立てられるかも知れません。なにしろ、「真田」は「製鉄の適地」なのです。それを証明したのが、「傍陽・大倉」の「鉄滓(鉄)」の存在で、それを私たちの手で発見したのですから・・・

 

2.『真田町誌』から

 「真田の古代」を再考しようとした時、既刊の「発掘報告書」の内容を確認し、そこから論考をスタートさせなくてはいけません。これは必須の事と思われます。そこには考古学者が全力を傾けた渾身の成果があるからです。(それを顧みない「唯我独尊」の想像や理論、そして誤った利用、共に厳に慎まなくてはいけないでしょう。)

 それを纏めあげたのが『真田町誌 』と思われ、そこには多くの考古事実や学問成果が述べられています(類書のなかで、「真田町誌」は特に優れた内容を持ちます)。

 そして私の推測には、遺跡のある特定な場所の「発掘報告書」内容より、地域全体を描写し時代の流れも窺える「真田町誌」表現の方が適しているかと思えます。「点」ではなく「面」としての「真田」古代への推測が可能になるからです。

 ですから、これからの「製鉄」への追求には、どうしても『町誌』の助力(?)が必要になると思われます。

 そこで、『真田町誌』(平成10年版)〔以下『町誌』という〕 を引用しながら、判明している「真田古代の考古事実」を参考にし、その内容から「鉄が造られ始めた時代」への推測を行ってみます。

 その結果、驚きの事実(結論)が浮かび上がって来ます。ぜひ、一緒にご判断下さい。

 平成の大合併では「長野県上田市」に編入された「真田町」です、面積も小さくつい見過ごされますが、実は日本の歴史を考えた時、重要な位置を占める地域と思われます。

 「先史・縄文時代」「弥生時代」は言うに及ばず、「真田一族(戦国時代・江戸時代も)」への重要な叙述・言及などが『町誌』には必要で、結果日本歴史を縦断するような内容・事実に富んだものになるからです。

 まず、「先史時代・縄文時代」です。数多くの遺跡が「真田町」に集中します。そこからは、全国でもめったにない貴重な地域と私には思われます。

 特に「縄文時代」のそれらの遺跡が、「菅平」を中心として多数確認されます。しかもこれらが、「前期」「中期」「後期」と遺跡時代を分類(特定)出来る程に豊富にあります(詳細は『町誌』でご確認下さい)。全国でも珍しい地域なのです。

 当時の日本人口の10%は、「長野県」を中心とした「中部山岳地帯」に住んでいたと言われます。寒さは厳しいのですが必要とする食料に恵まれた古代人に適した地域だったのでしょう。「中部高地を代表する遺跡集中地域である。」(『町誌』68頁)のが「真田町」なのです。

 遺跡の残存からは、「真田町(菅平も)」地域が、社会生産・交易を含む経済活動などで当時の重要地域であったと思われ、そこにはこれら遺跡同士を結ぶ幾つかの「古代道」が存在したと推定されています。

 『町誌』では、こう言っています。

 「・・・縄文時代全期間について言える事であるが、菅平高原の後葉の遺跡が、その後今日までの交通路に沿って見られることから、移動や交易に関わって生活痕跡が遺されたものもあるのかも知れない。」(同115頁)

 ここでの「道」とは、「大笹道」〔注1〕のことです。この道などへの説明や、「菅平高原」をふくむ「真田町」の重要性については、すでに「科野からの便り(七)」で言及しているので、ぜひご参照頂けたら幸いです。

 皆様に改めてご確認いただきたい事は、少なくとも「縄文時代後葉(後期)」では、「大笹道」が人々の経済活動、社会活動を支える重要道であり、幹線道路であった、という事です。

 人々の移動があったからこそ「道」が出来たのです。移動により交易が可能となり、文化や経済も分担しあう事が出来ます。「道」を使う事で、文化活動や社会・経済活動が進歩して行ったと思えます。「道」に沿って遺跡が残るのは、当然な事なのかも知れません。

 「北信」〔注2〕を出発地とした時、この「大笹道」を辿れば、「関東」に通じます。「東北」にも通じたかも知れません。逆も当然あります。互いが往来し合える重要な「道」だったのです。

 ですから私には、「鉄の文化を持った人々」「外部から到来した人々」などがこの道を利用した事には、疑いが無いように思えます。

 「弥生期」となった時にも「大笹道」をつかった移動の痕跡が、やはり「菅平高原」の遺跡にみられます。こう書かれます。

 「唐沢岩陰の栗林式土器は形・模様などが北信地域で出土しているものとよく似ており、長野・須坂方面から菅平に持ち込まれたものと考えられる」(同163頁)

 「栗林式土器」〔注3〕が、これからの私の論考で、「キーポイント」となる「弥生期」の土器なのですが、『町誌』に書かれたように「菅平」「真田」ではこの土器が多く見つかっています。

 そして『町誌』では、「箱清水式土器」〔注4〕が完形で見つかった例も挙げ、「北信」(北部信州の事です・長野県下の千曲川下流域つまり長野市、須坂市、中野市周辺などを言う)の文化が持ち込まれた、と推定しています。順当な推論と思えます。

 「縄文期」から続く「大笹道」に沿った移動の結果であり、「道」を使って人と文化の移動があった事を証明しています。

 ところがこれは、「上田市」(合併前、千曲川流域を中心とする)に、「弥生前期・中期」の遺跡が殆ど見られないのとは、好対照を示します。それと同時に「上田市」には、「栗林式土器」がほとんど発見されないのです。

 つまり、「上田市」にはない「遺跡」や「栗林式土器」が、この時代の「菅平」「真田」には多くある事になります。

 そして驚く事に、千曲川最上流の「佐久地域」に、この「栗林式土器」が多出するのです。つまり、「北信・中野」→「真田」→「佐久」です。

 この事実からも、「上田」はパスされてしまった、としか思えません。この土器と遺跡が、千曲川中流域(上田周辺)にはないのですから(これらへの疑問が、「古田史学会報No.136」での推論です)。

 これらの「考古事実」から、『ある人々が「中野」(北信)から「真田」へ至り、そのまま「佐久」へと向かった』と考えていい事になります。同時にこれが、「佐久」に残る遺跡や遺品などの「考古事実」を説明出来る推論だ、と私は思います。「真田」から、「佐久」へ行ったのです。

 そして、「弥生前・中期」の「遺跡」が「上田」にはないのですから、この期の「栗林土器」の伝播は、「下流から上流」という千曲川沿いの道を利用(経由)した移動・進出ではない事になります。今迄の定説とは全く違いますが、これは確かな事と思われます。

 千曲川沿いの道より「山の道」が重要と判断され、その道が選ばれたのです。「外部(県外)から進出」し、この地域へ至ったと思える事が「山の道」を選んだ理由なのかも知れません。

 いずれにせよ、「北信・中野」から来た人々は、間違いなく「大笹道」を利用して「真田」へとやって来た、そこから彼らは「佐久」地域へ至るようになったと思われます。さらなる歴史の進展からは、そこも「群馬」「関東」方面を目指した途中(経過)地点なのかとも思えますが・・・。

 弥生時代の「真田町」、そこは「北信」と「佐久地域」を結んだ重要地であったのです。

 「北信・中野」で「2000年前」の「鉄の二次加工場」が発見されました。「佐久地域」では、「弥生期中期後半(3世紀後半)」から「鉄製品」が増加した、と判明しています。

 ですから、地理的条件からも、社会的条件からも両者の中間地である「真田」に「弥生期の鉄の痕跡」があってもおかしくはないのです。私は、そう信じます。

 

3.「弥生の鉄」が見えて来た①(「真田町誌」から)

 ここで、「弥生期」の「真田町」を再考します。

 現在へも続く自然条件下の「真田町」の地形は、典型的な「谷地形」を示します。谷沿いの狭い土地を利用して「町」があります。ごくわずかに「平担部」はありますが、それ以外は、ほとんどが川によってつくられた傾斜地にある狭い耕作地です。全国どこにでもある「谷によって造られた小さな山間部」といって良いでしょう。

 谷を流れる「神川(かんがわ)」に沿い下った「上田市」周辺は、歴史的には、長野県の中で「稲作」の開始が最も遅れた地域と言われています。それもあり、自然条件が厳しいこの頃の「真田町」では、「稲作」によるメリットを十分に受けたとは思えません。

 前述した地形からも「稲作」が可能な土地は少なく、貴重な「耕作可能地」(「平坦部」)は僅かだったと思えます。

 ところが驚く事に、「真田町」では「古墳」が「約三十基」(!)発見されています。

 この地域の「弥生期」「古墳期」文化の充実、社会の構造などがもたらした結果かと思えますが、説明されている古代「社会・経済」情勢から考えると、この数は異常な「数」となります。「生産力」がない所に、多数の「古墳」が築造されているからです。

 その上、この「約三十基の古墳」は、わずかな「平坦地」の一つ、「本原・下原」地区に集中しています。耕作が出来る、貴重な土地に造られているのです。

 それらの環境や時代の様子を、『町誌』ではこう説明しています。

 『谷地形の発達したこれらの地域では、米の収穫は多くを期待できず、青銅器を持つ事ができた有力者を輩出した、集落の経営基盤が何であったのかは定かではない。』(同148頁)

 この時代の経済活動を主に支えたのが「稲作」ですが、「真田」の「地形や自然」を見ると、これが地域の経済を支えたとは到底思えません。

 これは長野県古代への叙述部分ですが、これが「弥生期の真田町」にもぴったりとあてはまります。

 この時代の経済活動を主に支えたのが「稲作」ですが、「真田」の「地形や自然」を見ると、これが地域の経済を支えたとは到底思えません。

 「真田」は典型的な「谷地形」で、平坦な広い「耕作可能地」は少ないのです。

 では「真田町」の「古墳・三十基」を支えた「経済基盤」は何だったのでしょう。「約三十基」の古墳造成を支えた「産業」は何だったのでしょう?

 実は、「考古学」では、未だにその「答え」が出ていません。不明なのです。解らないのですが、現実には「古墳」が狭い場所から「約三十基」発掘されているのです。

 ですから「真田町」には、何らかの「経済基盤」「産業」が有った筈です。なければこの「古墳」が造れません。ある「産業」の恩恵で、狭小でわずかな平坦部しかない「真田町」に「約三十基」の古墳が造られたとしか考えられないのです。

 『町誌』の作者も、『水稲以外にも集落の人口を支える基盤を(なにか)有していたのか』(同148頁)と予想しています。何らかの「産業」・「経済基盤」があり、それにより集落が造れ、古墳が造れたのだ、と予想しているのです。

 何だったのでしょうか?『町誌』に、「答え」は示されていないのです。

 ところでこの「古墳群」には、珍しい特徴がいくつかあります。再び『町誌』の表現を借ります。

 『しかし、問題はこの大きな集落に対応する古墳が見当たらない事である。真田町に存在する約三十基の古墳はすべて神川左岸に所在し、四日市遺跡がある右岸側には一基もないのである。』(同204頁)

 説明が遅れましたが、「四日市遺跡」〔注5〕 とは、「真田町」最大の、「縄文期」から始まる大集落の遺跡です。つまり、縄文期からの大集落は「神川」右岸に存在するのですが、なぜかそれに対応する「古墳」はない、と『町誌』は言っているのです。

 そうなのです。なんと「約三十基の古墳」は、すべてが「神川左岸」にしかないのです!驚きの分布を示しているのです!

 今迄は、「本原地区」は、墳墓の集中する地域だからだ、と説明されてきました。だが、これにはいささか納得できません。

 この地区は、「真田町」の入口を占める重要な「地域」であり、耕作を可能とする貴重な「平坦部」を有する地区でもあります。しかも、大集落が集中した「四日市遺跡」とは離れていません。隣り合わせです。

 そこが、「墳墓」の置かれる地域なのでしょうか。

 どうして「真田」の入口に当たる貴重な「本原地区」に「古墳」を造り、しかも「神川の左岸」だけが「古墳(墳墓)」の地域なのでしょう?不審です。奥地には、なにか重要な「産業」があったのでしょうか?そうとしか思えません。

 さらに「古墳」の特色を挙げてみましょう。

 『全ての「古墳」には、「横穴式石室」があったか』(同217頁)いくつかは破壊されたものもあり、完全断定はしていない、と推定されています。

 そして、『全ての「古墳」形状が「円墳」と思われ』(同216頁)、『「石室」は「玄室」と「羨道」がはっきり別れた「両袖型」が多いか』(同217頁)と推測されているのです。

 さらに「祭祀」に使われたと思える「石製模造品」も「古墳」がのこる「本原」地域の住居跡でしか発見されません(境田遺跡〔注6〕など)。「古墳」と同じ傾向を示します。

 これは、「古墳」築造者たちが、ある同一集団に属していたと想像出来る「特色」です。同一な価値観による生活様式を持っていたとも言えます。これが「左岸」にしかない「古墳」の共通した特徴であり、「祭祀」の様式なのです。

 最新の「古墳」研究では、いわゆる「横穴式古墳」は北九州で発生したもの、と結論付けられています。そこから「朝鮮」に及び、全国にも波及したと結論されています。

 「祭祀」での「石製模造品」使用も、ある集団の、ある意味が与えられていたと考えられ始めています。

 そうすると、「真田」の「古墳」の造成者とは、北九州からの集団となるのですが・・・

 そして、この「古墳」の分布や特色から生まれた推測が、実は「製鉄」との関連を示していると考えられます(それが、この論考のメインです)。

 繰り返しましょう、『あれだけの数の古墳は築造し得ない』(同204頁)と書かれた「約三十基の古墳」は、それを支えた「地域の経済的基盤」が不明なのです。そして、「古墳」の様式や場所には特徴的な「ある偏り(特色)」がありました。

 私は思います。その「経済基盤」が、「製鉄」であっては、おかしいのでしょうか?

 「製鉄」が、「古代真田」に「富・利益」をもたらし、多数の「古墳」が造られたのではないでしょうか?「製鉄」が、「古墳」に偏りを齎したのではないでしょうか?

 

4.「弥生の鉄」が見えて来た②(地名から)

 ここで、「『町誌』の定説的解釈」を脇において、あらためて「地名」による「歴史解釈」を試みてみます。

 この「地名解釈」が、ある貴重な推測をもたらします。しかも「数カ所の地名」への解釈ですから、「鉄」の存在を推定する根拠にも十分なりえる筈です。

 「公図」にも残る「真田」の「地名」(地域名)からの推測です(明治時代の「地図」にも同じ「地名」表現があります)。

 それが、「あか」地名です。

*前回の「真田・傍陽地区」略図に「あか地名」(赤石・赤田・赤田・「上田」赤坂)を重ねます。
「あか」地名の図
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 驚く事に、この「真田」「あか(赤)地」は、すべて「神川」の右岸にある地名です。つまり「古墳」の造られていない地域にある「地名」です。そこからは、両者に何らかの関係があったと疑う事が出来ます。

 こう考えた時、「あか」とは、「あかがね」ではないか、「金属」からの「色」ではないか、と思い到ります。つまり上流で「金属(鉄・銅など)」関連の事業が行われ、その為に「あか色」が発生し、水が「あかく」色づき、それが長年続いた結果この地名が生まれたのではないでしょうか。

 影響が、「石」や「田」に及び、特徴的な「赤石」「赤田」地名が付いたと思われます(しかも「赤田」という地名は二カ所にわたり存在します)。

 具体的には、「ベンガラ・あか」〔注7〕の発生です。「朱色」を示すこの色は、古代にあっては、「金属精錬」「製鉄」と切っても切れません。そこから、生まれる事が多いのです。

 「真田」でのこの「地名」は、「ベンガラ」がこの地でも発生したことを物語っているのではないでしょうか。「製鉄」関連事業の存在が、この「あか」地名(「赤石」「赤田」地名)を生んだのではないでしょうか。(下流の「神科」には、「赤坂古墳」もあります)。

 この地名こそ、「傍陽地区」の川の上流で、「鉱石」を採掘し、「精錬」を行っていた証明であると私には思われます。「ベンガラ」が発生したと判断されるのです。

 前々回〔便り(二十三)〕に紹介した「八賀」氏の論文(「古代鉄生産をめぐって」)にも、類似の内容表現があります。

 それが、美濃国にある「赤坂古墳」についての論文です(偶然ですが上田「神科」の古墳も同名の『「あか」坂古墳』です)。論文末尾の「まとめにかえて」に、こう書かれます。

 『・・・本鉄鉱脈の特筆は鉱脈が露頭にちかい状態である。地下に坑道を掘る必要のない点は、精錬の技術の習得後は、容易に作業が展開したと考えられるし、山腹から流下する酸化第二鉄、すなわちベンガラは、容易に古代の器等に塗布された事が想定できる。

 「真田」の「鉱山」の特徴については、前々回に既に紹介してあります。「露天掘り中心の採掘」などは、よく似ています。が、異なる点は、「主原料」です。

 美濃・赤坂鉱山では、「純度の高い赤鉄鉱(鉄成分60%とも)」によるものと説明されます。「精錬」時、「ベンガラ」が多量に発生して当然といえます。

 ところが「真田」では、「砂鉄」(風化ヒン岩)を主力原材料とする為、「鉄鉱脈」には及びません。どうしても「添加剤・造滓剤」の使用を想定することに成りました。

 けれども重要な共通点があった筈です。それが両者とも、「原料(鉱石)」からの「精錬」を行なっていた点です。これを行わなくては、「鉱石」が「鉄」になりません。

 ですから「真田・傍陽地区」でも、「八賀」氏が述べた「山腹から流下するベンガラ」が当然発生した、と思えます(真田のほうがはるかに少なかっただろう)。

 この「赤石」「赤田」という「地名」は、それを証明しているのではないでしょうか。

 「製鉄」「精錬」を行った「真田・傍陽」でも、やはり「ベンガラ」が発生したと思えます。そして、「あか」地名が付いたのです。

 地元在住の関口守一氏は、「焼津(やきつ)」地名(「大倉」地の下に隣接する「山」名です)も同様ではないか、と指摘されました。

 そこには、周囲の「黒土」とは不釣り合いな「赤色土」の部分があり、そこではなぜか樹木が育たなかったと言います。不毛な「赤色土」があったからこそ「焼津」と命名されたのですが、「ベンガラ」の存在とその集中により「赤色土」になっただけでなく、ここでは軽い「鉱毒」現象が発生したのかも知れないと言われました。鋭い見解かと思えます。

 そしてここからは、「製鉄」と「古墳」との関わりが明解となります。「本原」の古墳が、「神川」左岸に集中する理由がわかるのです。

 「神川右岸」へは、「傍陽地区」から「傍陽川」が注ぎ込みます。「製鉄」を行っていた地域を通る「傍陽川」(水)には、「ベンガラ」「それらを含む化学物質」が含まれていたと予想されます。

 「古墳」造成者は、それを知っていました。ですから、それを避ける為に「約三十基の古墳」をすべて「左岸」に作ったのではないでしょうか。

 古代人に十分な科学的知識があったと即断出来ませんが、「川」の水が示す状態から、「古墳」が「ベンガラ」色に染まるだろうと察知してしたのでしょう。「傍陽地区」からの川水には、好ましくない成分が含まれることも、認知していたと思われます。

 こうして「神川」左岸、やや小高い所に「約三十基の古墳」が造られているのだ、と私は思います。「古墳」造成者は、「川」の状況を十分に認知し、その判断の上から「古墳」を「左岸」に築造したのです。

 「好ましくない」「右岸」を避けたのです。そうでなくては、同じ様式と思える「約三十基の古墳」が一斉に「左岸」に築造されません。そこでの「祭祀」も行えません。

 そして、この判断をした「古墳」を造成した人々は、「製鉄」を行っていた人々と同じ集団に属していただろうとも解ります。

 こうして、結論が導かれます。

 「真田」の「古墳」を造った人びとは、以前からの「製鉄」の存在と、それがもたらす現象(結果)を知っていたのです。だから、本原地区「左岸」に「古墳」を作ったのです。それは仕方がない現象だと思い、「必要悪」のように感じていたと思えます。

 やはり「弥生期」にはすでに「製鉄」が行なわれていたのです。「古墳時代」の人々が、「影響が少ない」「左岸」に「約三十基の古墳」を作ったのですから。「古墳期」以前「弥生期」に「製鉄」が行われていたのです。

 私が「傍陽・大倉」で発見した「鉄滓」は画像からも「江戸時代」の物かと推測されました。

 しかし、すでに「弥生時代」の「大倉」の人は、「製鉄の適地」「真田」で「製鉄」を行っていたのです。

 「約三十基の古墳」がそう言っているからです。この推論に間違いないと思われます。

 

5.「弥生の鉄」が見えて来た③「半田一族」の解明 から)

 さて最後にある「妄想」を試みます。それが、「半田」一族への追求で、その由来・意味する所などへの想定です。まったく無意味な事かもしれませんが、私には重要な事と思われます。どうか、お聞きください。

 私が「鉄滓」を発見した「大倉」の下の部落が「三島平」で、そこが「三島神社」がある所です。現「真田町傍陽地区」の最奥地にこの神社があるのですが、立地とは不釣り合いと思える「豪華」な「神社」です(現存する建物からも往時が偲ばれます)。

 「鎌倉時代」に行われた、この「三島神社」改築に際しての「奉加帳」が、「半田家」(半田俊一氏)に現存しています。貴重なそのコピーを見ると、「神科」「上田」を始め「青木」「坂城」からまで神社に「寄進」が寄せられています。驚く程に広域から、多くの人が「神社」に「寄進」をしています。

 この時代、「三島神社」が、この地域を代表する重要な「名刹」であったことがここから良く解るのですが、この資料に記載されている「神社」周辺の有力者の「姓」は、半数以上が「半田」姓です。

 ここからは、往時(少なくとも鎌倉時代)の「三島神社」を支えた有力者とは、「半田一族」の人々であったと、推断してよいと思われます。

 さらに、部落を通る「川」が「半田入谷(はんだいりや)川」で、「姓名由来」の命名と思われ、さらに「三島平」部落を下った所に「石仏」6体が残る「地蔵堂」があるのですが、ここより上部がすべて「半田一族」の領地(広大!)だったという「伝承」も残ります。やはり地域の有力一族だった、と推断して良いと思われます(私の「鉄滓」発見場所も、その範囲内です)。

 「製鉄」を始めたのは「半田一族」である、という持論を持つ郷土史家「堀内薫」氏の存在を前々回に紹介しましたが、一族は、前述した豪壮な「三島神社」さえその領地内に持っていた訳ですから、堀内氏の推測は十分あり得る事かと私にも思えます。

 ところが、この「半田一族」が、問題なのです。

 一族の由来に関する「伝承」が「半田」家、その親戚にも何も伝わっていないのです。

 「それに関係した事は、見た事も聞いたこともない」と、「半田俊一」氏は言います。

 お持ちの「先祖伝来」という黒光りのする「石仏」も拝見しましたが、私の力量もあり「一族の由来」推定への手掛かりにはなりませんでした。「先祖」不明なのです。

 釈然としないままの私でしたが、ある時「鉄」との関連を考えるうちに閃いたことがありました。

 漢字表記に捕われる必要はない、「半田」は、「音」では「はんだ」です。これは「ハンダ」のことではないだろうか。そして「はん・だ」という「二音」ではないだろうか?

 「ハンダ」とは、金属溶着の際の材料やその作業を示す「ハンダ」です。今も日本語に残ります(現在では「錫と鉛の合金」を材料とした「溶接」を意味します)。

 しかし実は、この「ハンダ」語には、ぴったりした漢字表記がなく、由来の説明も困難なのです。

 ウイキペディア(Wikipedia「はんだ」)では、この「はんだ(ハンダ)」をこう説明しています。

 「はんだ」という名称は、仮名書きされる事が一般的で、カタカナ書きされる事もある・・・「半田」「盤陀」などの当て字がある

 『「はんだ」の語源は地名由来とも、人名由来ともされるがはっきりしない

 さらに、『英語の「ソルダー」を「反田」と漢字音写したものを「はんだ」と誤読し、それに「半田」という事を当てた』という珍説までが紹介されています。

 ここからは、「真田」の「半田」は、「ハンダ」の「当て字」と言う解釈ができます。

 しかし「妄想」ですからそれ以上は進展しません。「ウキペディア」の説明のままで、由来は不明で、謎の言葉なのです。

 「江戸時代」の人々でも、この語への適切な解釈や統一した表記はないようで、難問だった事が「ウイキペディア」では説明されています。

 『万宝鄙事記 』、『和漢三才図会 』、「歌舞伎狂言のセリフ」でもこの語の説明が、それぞれ異なる解釈からなされているようです(詳細は、「ウキペディア」でご覧ください)。

 ところが、この「はんだ」語への「説明部分」を先入観なしによむと、ある解釈が可能になります。

 それが中国語による「はんだ」語説明の部分で、そこからの解釈です。

 「ウイキペディア」では、こう書かれます。

 『中国語では*[火旱]、または「釬」、稈猂料、銲錫、*[火旱]接剤、鑞である。』とあります。発音は「hanヽ」とあります。(吉村・*[火旱]」;火偏に旁は旱の文字。」)

 これが「はんだ」語を解釈する時、大切な内容を示していると私は判断しました。「妄想」が続くのです。この語の発音が、「はん」と言う日本語発音と酷似するからです。中国語「はん」から、日本語「はん・はんだ」語が生まれたのかも知れません。

 そこで、「*[火旱]」と言う漢字(言葉)を、「諸橋轍次」『大漢和辞典』で調べて見ます。

 「ウキペディア」の説明と似ています。そこでは、*[火旱]」とは「釬」字と同じ意味で、「熯」とも同じである〔注8〕、と説明されています。

 これら3字の中で、「熯」字はあまり見かけませんが、「火気。又かわかす。」意味です。そしてもう一つの、「*[火旱]」字も余り使用されなかったようです。

 類似したこれらの3字の中では、「釬」字が多用されたようで、『大漢和辞典』 では多くの説明が「釬」字に費やされています。

 その「釬」字について、同書の説明を詳細に調べます。

 「釬」には、①こてあて ②ゆごて ③はんだ、などの意味があり、発音は「han₄」とあります。発音は、「ハン、カン」の中間音と言ったらよいのでしょうか。驚く事にこれは、他の2字の発音と、ほぼ同じです。特に「*[火旱]」とは、同一です(ブログ主である「山田春廣」氏のご教示によると、「han₄」と「hanは同一発音の表示〔注9〕のようです。勉強不足もあり、「ウキペディア」と『大漢和辞典』 と言う別資料の表現がそれぞれ違う事から、別内容と考えてしまいました)。

 さらに注目すべきは、③はんだ にある説明です。

 「釬、金銀令相着」(広韻)、つまり『金・銀を繋ぎ合わせるもの』と書かれます。これは「接着」です。次に、「釬、一日、固金鉄薬」(集韻)ともあります。『金・鉄を固める薬』という意味で、「接着」ではないのですから「金・銀」を作る・固める素材と思えます。

 さらに、熟語には、「釬薬」という例があります。これも、『金属を固めるための薬』と説明されます。『釬薬、以硼砂合銅為之、用胡桐汁合銀、堅如石、凡玉石刀柄之類釬薬、加銀一分其中永不脱』(物理小識)とあります。『ホウ砂と銅を併せて釬薬を作る。「胡桐汁」を「銀」に加えると強固な「銀」になる。さらに「銀」一分を加えるとその効果が抜けない(大意です)』とも書かれます。

 金属の「接着」・「溶接」という意味と共に、「添加剤(造滓剤)」使用により「金属」を固め、より強固なものにする、と言う意味があります。

 ですから音が似通ったこれらの3字(語)は、ほぼ同じ意味を持っていると思えます。

 それは、火力を使った「金属」(「真田」では「鉄」)の「精錬」作業を説明した、または同一の内容のように思います。火力により「鉱石」を溶かし、それらを繋ぎ合わせ、強固な「鉄」に仕上げているからです。原材料「砂鉄」に、「珪石、マンガン」を添加しているのです(前に紹介した「仮説」や「写真」をご参考に)。

 つまり、「真田」での「製鉄」時の一連の作業は、中国語「はん」発音の三語が示す内容と同一なのだと思われます。

 真田・「古代製鉄」では、原料である「鉱石」を「はん」していたのではないでしょうか。

 そこでは、「はん」が行われていたのではないでしょうか?

(続)

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注1 「大笹道」 …… この道の地図は、科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―注5「大笹道」をご覧ください。 

注2 「北信」 …… 行政地域区分としては「【北信地域】中野市、飯山市、山ノ内町、木島平村、野沢温泉村、栄村」(図、ともに長野県のHPより)ですが、吉村さんはこの論考では「北部信州の事です・長野県下の千曲川下流域つまり長野市、須坂市、中野市周辺など」の意味で使っています(ご留意ください)。
【北信地域】図
Photo_20210221171201

注3 「栗林式土器」 …… 栗林遺跡から出土した弥生中期の土器。栗林遺跡は弥生時代中期の「栗林式」土器の標式遺跡となっている。
「栗林式(壺形)土器」(長野県埋蔵文化財センター 「南大原遺跡」 報告書刊行しました より)
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※私(山田)の「妄想」を一言。「印」と言っていながら「鳥を示した」などと言う理解の仕方は理解できません。「矢印」ならまず「矢」でしょう。
栗林式土器(馬場伸一郎「弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究」より)
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千曲川周辺遺跡地図柳沢遺跡org「柳沢遺跡の周辺遺跡」より)
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注4 「箱清水式土器」 …… 信濃の国、現在の長野県。その北部地域には、弥生時代中期後半から後期にかけて、鮮やかな赤で飾られた独特の土器が発達しました。それは中期の「栗林式土器」と呼ばれる土器群と、後期の「箱清水式土器」と呼ばれる土器群です。特に後者の分布する地域は「赤い土器のクニ」とも称され、成熟した稲作農耕が発達するとともに、青銅器や鉄器を伴う独特の弥生文化が形成されていたことが近年の考古学的調査の結果、明らかとなってきました。東京国立博文館のHPより)
「箱清水式土器」上田市立信濃国分寺資料館編『―常設展示解説―上田地方の古代文化』)より
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注5 「四日市遺跡」 …… 真田町教育委員会「長野県小県郡真田町埋蔵文化財調査報告書 四日市遺跡」(1990.3)には次のように、「四日市遺跡」の地理的環境が説明されています。
1 地理的環境
小県郡真田町は、上田盆地の北東 に位置する。四阿山山麓西側に拡がる菅平高原を始めとして、大部分を山地が占めているが、その菅平高原から南西に流れ出、いずれは千曲川と合流する神川沿岸、さらにその支流である洗馬川沿岸、神川左岸と段丘崖をもって接する本原扇状地面の地域に谷平野が発達している。これらの平坦面は、一括して神川渓谷平野とも呼ばれており、上田盆地から放射状に伸びる谷平野のひとつとして数えられる。また、特にここでは、神川が上田盆地に注ぐ際、標高672,9mの虚空蔵山を西にして狭除部となることから、上田盆地との境界を明瞭なものにしている。
四日市遺跡の位置する横尾地区は、神川による堆積平坦面、いわゆる神川扇状地面上にあるが、支流の洗馬川扇状地面とも接しており、殊に広く開けた地である。横尾山塊の南麓でもあり、用水的役割を果たす大柏木川が流下することもあって、居住するには好適な地と言えよう。
本遺跡は、横尾地区の中でも、現在の集落の中心からやや南に外れた神川右岸の河岸段丘端に位置している。

注6 境田遺跡 …… 真田町教育委員会 1996 『真田町埋蔵文化財発掘調査報告書8:境田遺跡・西田遺跡』 一本原地区県営農村活性化住環境整備事業に伴 う緊急発掘調査報告書一という副題がついていて次のようにあります。
真田郷には昔から松代や群馬に通ずる交通路があり、古墳時代の集落もこの要衝の地に発展してきました。境田遺跡・西田遺跡はこの真田郷の南玄関口にあたります。
境田遺跡では以前から土師器・須恵器の破片が田畑に散見され、関係機関では埋蔵文化財の包蔵地 として注目されてきた ところであります。(同書「序」より抜粋)
3 古墳時代 の遺構 と遺物
古墳時代の遺構は住居址が3軒と竪穴状遺構1基、土坑1基が検出され、良好な一括資料が得られた。特に石製模造品の出土は当町では過去に例がなく、注 目される また、住居址2軒から特徴のある煙道が検出された。
(同書―20―より抜粋。強調下線は山田による。)

注7 「ベンガラ・あか」 …… 弁柄(べんがら、オランダ語: Bengala 、紅殻とも表記[1])あるいは酸化鉄赤(英語: Red Iron Oxide )は、赤色顔料・研磨剤のひとつ。酸化第二鉄[1](赤色酸化鉄、酸化鉄(III)、Fe2O3)を主要発色成分とする。Wikipedia「弁柄」より抜粋)

注8 「*[火旱]」とは「釬」字と同じ意味で、「熯」とも同じである …… 私(山田)が常に携行している文庫版よりさらに小さい 北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日 日本語版改訂版第1刷、ISBN 4-497-20001-9 3587)にも、179頁に次のようにあります(簡体字は国字に直しています)。
………………………………………………………………………………………………………………………
*[火旱](*釬、*han4 用溶化的金属或某些非金属把工件連接起来,或溶化的金属修補金属器物:電~.銅~.
加工材料を溶かした金属・微量非金属で溶接するのに用いる(もの・こと)、あるいは、金属の器物を溶かした金属で捕修する(もの・こと)山田訳〕
………………………………………………………………………………………………………………………
 「*釬、*」とあるのは、この漢字を用いても意味は同じ(つまり、こうも書く)という意味です。「*[火旱]」という漢字の意味は、簡単に言えば「“はんだ付(づ)け”に用いる“はんだ”」あるいは「“はんだ付(づ)”」です。

注9 「han₄」と「han」は同一発音の表示 …… 中国語の学習で最初に習うのが「四声」です。漢字の発声は一文字だけでも抑揚があって、これを間違うと意味が異なる(違う漢字を思い浮かべる)ので、話が通じないことがあるようです。高く平らかに発声するのが「第1声」(子供が落ちそうなのを見て「アーッ」と悲鳴を上げる時の感じ)、低くから高くに発声するのが「第2声」(信じられないと言う時の「ええっ」)、低くから更に低くそして戻るのが「第3声」(失敗をやっちゃったなという場合の「あ~ぁ」)、高くから低くへ下がるのが「第4声」(鴉の鳴き声の「カァ」)です。この「第4声」を示す「」が上に付いた「a」の文字が MicrosiftIMEの標準漢字辞書にないため、「han₄」や「han」のようにして表しています。

2021年2月18日 (木)

「春秋」とは何か?―「学問」って何?―

「春秋」とは何か?
「学問」って何?[著書や論考等の紹介][古田史学]

 「『学問(科学)』とは、新しい知見を得るための努力」だと私は考えています。まず、「努力」がなければなりません(見聞きしたことをおぼえる「耳学問」は「学問」にあらず)。また、「新しい知見」と言っても、「自分自身が知らなかったことを知る」ための努力は「学問」ではありません(それは「受験勉強」のごときもの。学問の基礎にはなるが)。「人類が知らなかったこと(地域や分野は「日本史」のように限定されていても良い)」を知るための努力を言っています。

 「新しい知見」はどのようにして得られるのか?「いままでに得られていない知見」を見つけなければ、「新しい知見」を求めようもありません。

 その「見つけ方」はどのようにするのか?そのやり方は「いままでの知見」の中に「疑問点」を見つけることです。ただ単に「疑問点」を見つければ新しい知見が得られるのかと言えば、そうではなくて、「新しい知見」につながる「疑問点」を見つける必要があります。

 「新しい知見」につながる「疑問点」を見つけるにはどうするか?その方法を学ぶのが「学問」です。

 つまり、「学問」とは「新しい知見」を得られる「問い」の立て方を学ぶことです。それができれば、あとはその「問い」の「答え」を見つける「努力」をすることです。つまり「学問」とは、「新しい知見」を得られる「問い」の立て方を学び、その「問い」の「答え」見つける「努力」をすることだ、と私は考えています。

 「お前のゴタクなどどうでもいい」と思われたことでしょうから、本題に入ります。

 昨日(2021/02/17)、「古田史学会報№1622021215日 号)」が届きました。どれも秀逸な論考ばかりでしたが、私のゴタクに関わる意味で「素晴しい『問い』」がありました。次のものです。

 

(1)正木裕氏「『豊国法師』とは誰か」(「高良玉垂大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ
 「通説」が根拠もなく「豊国」を「百濟」と考えている(何故「百濟」と書かなかったんだ?と突っ込める)ことに対して、九州の「豊国」(「豊前」+「豊後」)と答えています。普通に考えれば当然ですが「一元史観」は普通には考えないようです。

(2)西村秀己氏「倭国ナンバーワンは何と呼ばれていたのか?」(「天皇」「皇子」称号について
 文献に称号として登場しない「天子」は概念であり「天皇」「皇帝」「王」が称号であるとしてこの「問い」を立てられています。

(3)西村秀己氏「孔子は何故「春秋」という言葉を使ったのだろうか?」(割付担当の穴埋めヨタ話 「春秋」とは何か
 魯は周とは異なる暦を使っていること、「論語」には二倍年暦を思わせる表現が頻出することから、少なくとも魯は二倍年暦を使っていたのではないだろうか?とさらに具体的な問いを投げかけてらっしゃる。そして、「孔子は魯の「春」と「秋」を併せて「一年」の暦を「王」たる周が使っている。という意味を込めて『春秋』としたのではないだろうか?」という仮説を提示されています。

 我田引水になりますが、冬至から夏至までを「春」、夏至から冬至までを「秋」という、私のアイデアにご賛同くださっています(感謝)。
 なお、このアイデアは なぜ「春秋」と言うのか―西村秀己氏が解明―2021119 () で述べたものです。このブログ記事に、古賀達也さまからこのアイデアに「留意」する旨のコメントを頂戴しています。

 最後に、妄想をひとつ。

 以前に「大皇弟」考―大皇弟は「天子」の弟-2017419()というブログ記事を載せましたが、「天子」は概念であって称号ではないとすれば「大皇弟は『大皇』の弟」になります。「大皇」は文献(『日本書紀』)に現れた称号です。また『隋書』俀國傳に「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」「王妻號雞彌」とあり、この「雞彌」は「王(きみ)」「大王(おほきみ」(男女問わず。「額田王(ぬかたのおほきみ」)ではないかと思われます。序列で言えば「大王(おほきみ)」>「王(きみ)」でしょう。本来「大王(おほきみ)」は「王のなかの王(King of kings)」のことだったろうと思われますが「大王」の「大」が「大小」の「大〔「おおきい」の意〕」と受け止められないように(おう)」を「(おう)」に漢字を変更して「王のなかの王(King of kings)」を表現しようとしたのではないかと考えます(何時から「大皇(おほきみ)」を「天皇(すめらみこと)」と変更したかは不明ですが・・・)。

2021年2月12日 (金)

『史記』に記された「暦」(11)―漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕―

『史記』に記された「暦」(11)
漢代の定点(その5) 前漢代の日蝕[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 紀元前134/08/19 13:31 0゚06 '皆既日食(62)とあるのが『漢書』本紀(武帝紀)に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」JDN 1 672 710〔国立天文台データベース:世界時(UT):始03:06、甚05:40、終08:14〕と書かれた日蝕です。誰かの何かの役に立つかもしれないと考え、目的に必要なデータだけでなく調べ上げたすべてのデータを掲載しました。次回はこのデータの中から『漢書』本紀に記された日蝕を特定する作業を行う予定です。

…………………………………………………………………………………………………………………………

観測地点:長安(北緯3416分、東経10857分)
時刻表示:地方平均(太陽)時(LMTLocal Mean Time
日月会合の検索条件:離角1度以内
検索した期間:紀元前206年~紀元後9年

(note)観測地点(長安)の日蝕の「日時」「離角〔注1〕」のデータは 株式会社アストロアーツ社製ステラナビゲータ11によるものです(データA)。「見え方」とあるのは、日食を観測できる地帯で最も良い状態の日蝕(食の最大=食甚(しょくじん))を観測できる地点で見た場合です(観測地点でそう見えるということではありません)。「見え方」と「サロス番号〔注2〕」は、国立天文台暦計算室「日月食等データベース」によっています(データB)。「ステラナビゲータ11」のデータ(データA)の「年」によって国立天文台「日月食等データベース」に登録されている日蝕を検索し(データB)、データAとデータBの「月日」を突合・確認してデータAとデータBを統合したものが下記データです。

 なお、「ステラナビゲータ11」と国立天文台暦計算室「日月食等データベース」が食い違っている場合がありますが、「ステラナビゲータ11」はアルゴリズムに従った計算で求めており、それがほぼ(=食い違っているデータを除外すればすべて)「日月食等データベース」に一致していることを考慮すると、「日月食等データベース」のデータの方に、国立天文台暦計算室で計算した結果を「日月食等データベース」に登録する(手入力したか)際に誤入力があったと思われます。特に「日本で見えない日食」には細心の注意が払われず、誤りが発見される機会も稀ということが誤りを訂正する機会を無くしていると思われます(これは私の独断と偏見によるものであり、事実かどうかは不明です)。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

日時(*は地平線下の現象) 離角  見え方サロス番号

紀元前206/07/07 05:45 013' 皆既日食(62
紀元前205/01/01 08:46 018' 金環日食(67
紀元前205/12/20 09:17 022' 部分日食(77
紀元前204/05/17 06:47 037' 部分日食(44
紀元前203/05/06 21:54 *001' 金環皆既日食(54
紀元前203/10/30 02:34 *041' 金環皆既日食(59
紀元前202/04/26 01:39 *052' 金環日食(64
紀元前202/10/19 19:35 *028' 皆既日食(69
紀元前201/10/08 08:38 037' 皆既日食(79
紀元前200/03/04 18:57 *046' 部分日食(31
紀元前200/09/27 21:58 *058' 部分日食(51
紀元前199/02/22 05:12 *020' 皆既日食(56
紀元前199/08/18 07:26 038' 金環日食(61
紀元前198/02/11 23:14 *039' 皆既日食(66
紀元前198/08/07 08:00 002' 金環日食(71
紀元前197/07/26 17:33 033' 金環日食(81
紀元前197/12/22 04:11 *045' 部分日食(48
紀元前196/12/11 03:31 *013' 金環日食(58
紀元前195/06/06 16:56 014' 皆既日食(63
紀元前195/11/30 04:18 *024' 金環日食(68
紀元前194/05/27 04:28 *006' 皆既日食(73
紀元前193/10/09 18:38 *012' 部分日食(50
紀元前192/04/04 23:03 *047' 金環日食(55
紀元前192/09/29 07:03 019' 皆既日食(60
紀元前191/03/25 02:43 *024' 金環日食(65
紀元前190/03/14 16:05 046' 皆既日食(75
紀元前189/03/03 06:19 *049' 〔国立天文台:-188/02/02 部分日食47〕
紀元前189/07/28 04:18 *036' 部分日食(52
紀元前188/07/17 15:24 006' 皆既日食(62
紀元前187/01/11 19:52 *011' 金環日食(67
紀元前187/12/31 19:52 *046' 部分日食(77
紀元前185/05/17 02:58 *010' 金環皆既日食(54
紀元前184/05/06 07:15 045' 金環日食(64
紀元前184/10/30 02:26 *001' 皆既日食(69
紀元前183/10/19 19:40 *013' 皆既日食(79
紀元前182/03/16 01:14 *036' 部分日食(46
紀元前181/03/04 15:38 006' 皆既日食(56
紀元前180/08/17 18:01 021' 金環日食(71
紀元前179/08/06 23:40 *011' 金環日食(81
紀元前178/01/02 13:51 013' 部分日食(48
紀元前178/12/22 12:13 023' 金環日食(58
紀元前177/06/16 23:31 *053' 皆既日食(63
紀元前176/06/06 12:03 026' 皆既日食(73
紀元前175/05/26 20:45 *059' 部分日食(83
紀元前175/10/21 01:42 *050' 部分日食(50
紀元前174/10/10 18:00 027' 皆既日食(60
紀元前173/04/04 10:04 030' 金環日食(65
紀元前173/09/29 01:41 *036' 金環日食(70
紀元前172/03/24 23:43 *033' 皆既日食(75
紀元前171/08/08 13:52 047' 部分日食(52
紀元前170/02/02 21:13 *024' 金環皆既日食(57
紀元前170/07/28 22:30 *029' 皆既日食(62
紀元前169/01/23 02:01 *007' 金環日食(67
紀元前169/07/17 13:04 038' 皆既日食(72
紀元前168/01/11 02:07 *046' 部分日食(77
紀元前168/06/07 23:26 *036' 部分日食(44
紀元前167/05/28 09:19 019' 金環日食(54
紀元前167/11/20 21:58 *049' 皆既日食(59
紀元前166/05/17 16:20 018' 金環日食(64
紀元前166/11/10 11:19 028' 皆既日食(69
紀元前165/05/05 16:59 060' 金環日食(74
紀元前165/10/30 02:25 *039' 皆既日食(79
紀元前164/03/26 07:25 023' 部分日食(46
紀元前164/10/19 14:26 054' 〔国立天文台:-163/09/19 部分日食51〕
紀元前163/03/15 23:16 *001' 皆既日食(56
紀元前162/03/05 16:37 044' 皆既日食(66
紀元前162/08/29 00:05 *027' 金環日食(71
紀元前161/08/17 05:21 *030' 金環日食(81
紀元前160/01/12 22:28 *045' 部分日食(48
紀元前160/08/06 21:46 *048' 部分日食(91
紀元前159/01/01 21:54 *006' 金環日食(58
紀元前159/06/28 05:20 *054' 皆既日食(63
紀元前159/12/21 23:12 *029' 金環日食(68
紀元前158/06/17 20:50 *001' 金環皆既日食(73
紀元前157/06/06 01:23 *031' 部分日食(83
紀元前157/10/31 10:27 041' 部分日食(50
紀元前156/04/26 12:27 059' 金環日食(55
紀元前156/10/21 01:09 *008' 金環皆既日食(60
紀元前155/04/15 19:22 *000' 金環皆既日食(65
紀元前155/10/10 08:33 025' 金環日食(70
紀元前154/04/05 05:44 *001' 皆既日食(75
紀元前154/08/30 19:29 *059' 金環日食(80
紀元前153/08/18 21:10 *019' 部分日食(52
紀元前152/02/13 03:13 *049' 金環皆既日食(57
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紀元前 02/07/31 10:20 056' 皆既日食(84
紀元前 01/06/20 20:15 *019' 部分日食(56
紀元前 01/12/14 23:06 *046' 金環日食(61
AD   01/06/10 11:17 004' 皆既日食(66
AD   01/12/04 00:35 *009' 金環日食(71
AD   02/11/23 08:46 008' 金環皆既日食(81
AD   04/04/08 17:34 028' 金環日食(58
AD   04/10/03 03:37 *057' 金環皆既日食(63
AD   05/03/28 23:00 *025' 金環皆既日食(68
AD   05/09/22 12:36 026' 金環日食(73
AD   06/09/11 15:25 008' 金環日食(83
AD   07/02/06 19:58 *053' 部分日食(50
AD   07/08/31 16:02 049' 部分日食(93
AD   08/01/27 05:44 *001' 金環日食(60
AD   08/07/21 09:25 050' 皆既日食(65
AD   09/01/15 12:08 056' 金環日食(70
AD   09/07/11 01:46 *037' 皆既日食(75

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注1 「離角」 …… 日食の場合は、天球上における太陽の中心と月の中心との角距離(太陽―観測者―月のなす角度)のこと。
離角(りかく)とは、位置天文学において、ある点から見た2つの天体のなす角度である。Wikipedia「離角」より抜粋)

注2 サロス番号 …… 複数のサロス(周期は同一)があるので番号をつけて識別している。
サロス周期(サロスしゅうき、Saros)は、太陽と地球と月の位置関係が相対的にほぼ同じような配置になる周期で、1サロス周期は6585.3212日である(約18年と10日あるいは11日と8時間。1日の曖昧さがあるのは、その期間中に閏年が5回入るか4回入るかの違いのため)。単にサロスと呼ぶこともある。1サロスごとに、ある日食または月食から1サロス後にはほぼ同じ条件の日食または月食が起こることから、天文学発達以前は、暦学ないし経験則的にこの性質によって、人類は日食や月食が起こる日を予測してきた[1]。〔中略〕
天文学的には、サロス周期は月と太陽の周期の倍数が同じ(公倍数)になるために起こる。1サロスは以下の時間に等しい[3]。
223朔望月=6585.3212日
242交点月=6585.3575日
239近点月=6585.5375日
19食年=6585.782日
上記の値は、18年11日8時間(閏年の配置によっては18年10日8時間)にほぼ等しく、そのため日食や月食の状況も、同じサロス周期に属する場合は非常に似たものとなるのである。〔中略〕
1サロス周期は223朔望月なので、ある朔(または望)を1番目とすると、そこから数えて223番目までの朔(望)はみな異なる周期に属する。224番目の朔(望)は、1番目と同じ周期に入る。同時進行している223の周期のうち太陽、地球、月がうまく重なって日食や月食となるものは一部の系列しかない。その一部も毎回少しずつ場所がずれていき、やがて食を起こさなくなる。その一方で、今まで食を作らなかった周期が新たな系列となって食を起こすようになる。すなわち、日食の場合で見れば、あるサロスに属する日食は最初に北極(南極)地方で月の影[4]がごくわずかに地球に接する軽い部分食として始まる。しだいに月の影は地球に近づき、北極(南極)地方で中心食[5]が見られるようになり、その後中心食帯は徐々に南下(北上)し、赤道を越えて南極(北極)地方に移動、最後に部分食となって終わる。そのような状態が繰り返し起こって進行するので、日食や月食の発生が途絶えることはない。日食のサロスの系列は、一つにつき食が69〜86回(1,226〜1,532年間)起こるまで持続する。平均すると77回(1,370年間)である。サロス系列の始まりと終わりは部分日食で、系列の中ほどに約48回の皆既食または金環食を含む。
歴史時代に日食を起こしたサロス系列には、ゲオルグ・ファン・デン・ベルグ (George van den Bergh) によって番号が付けられている。2011年7月1日より前には、117から155までの番号を付けられた39本の系列が進行していた。2011年7月1日に156番の系列が南極近海の部分食として発生し、現在は40本の系列が進行している。2054年8月3日の同じく南極近海での部分食を最後に117番が消滅するまでは40本の系列が進行する[6]。Wikipedia「サロス周期」より抜粋)

2021年2月11日 (木)

「出雲商業高校」グルーピー38―令和2年度ふれあいコンサート―

「出雲商業高校」グルーピー38
令和2年度ふれあいコンサート[「出雲商業高校」グルーピー] 

021.02.11 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部「Sing,Sing,Sing」「A Whole New World」「It Don't Mean A Thing」/令和2年度ふれあいコンサート
投稿者コメント
2021年2月11日
令和2年度ふれあいコンサート
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
♪ 演奏リスト ♪
Sing,Sing,Sing

A Whole New World
It Don't Mean A Thing

「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―

「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)
「新式」寺院を更に分類したら[多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ】
⑤因幡国分寺を「東大寺式」と見るのは「整数比がなく不適当」でしたので訂正しました(Bタイプの可能性あり
また、⑦出雲国分寺
が「信濃国分寺(僧寺)」と似ていることから「珍しい伽藍配置」としたのを訂正しました(創建時期がA→Cと変遷する過渡期の可能性あり)。【訂正のお知らせ終わり】

肥さんの夢ブログ塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 に次のようにコメントしたら、下記の返信をいただきました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
肥えさんへ
わかりやすい分類、ありがとうございます。
塔を回廊外に置く寺院について一点期待するとすれば、
「古式寺院に塔を後付けしたタイプ」と
「国分二寺図式のタイプ」とを分けると、
さらに情報が豊かになるのではないでしょうか。
ご存じでしょうが、古式寺院は南大門と中門・回廊の間が狭い(塔を置く余地がない)、か、どこかに3:2の比率がある、ので簡単に識別可能だと思います。

投稿: 山田春廣 | 2021年2月 5日 (金) 09:21
…………………………………………………………………………………………………………………………

山田さんへ
コメントありがとうございます。
〔上記コメント引用割愛〕
そうでしたね。

国名がわかりますか?
わかれば,すぐに追加させていただきます。

投稿: 肥さん | 2021年2月 5日 (金) 10:58
…………………………………………………………………………………………………………………………

 さて、課題を振られてしまったので、とりあえずわかる範囲で調べてみました。
 夢ブログには、次のようにあります。
…………………………………………………………………………………………………………………………

「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」 三十三国

西海道―なし

南海道―淡路国、阿波国、土佐国

山陽道―播磨国、美作国、備前国、安芸国、周防国、長門国

山陰道―丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国

畿内―山城国、大和国、河内国、和泉国

東海道―伊賀国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国

東山道―近江国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国

北陸道―若狭国、佐渡国

…………………………………………………………………………………………………………………………

 「とりあえず」と言ったのは「次のこと(聖武太上天皇周忌齋會に間に合った26ヶ国の国分寺)だけから」、と言う意味です。 

(1)756年、聖武太上天皇が崩御された。
《天平勝宝八歳(七五六)五月》〇五月乙卯〔2日〕、遣左大弁正四位下大伴宿禰古麻呂、并中臣・忌部等、奉幣帛於伊勢大神宮。」免天下諸国今年田租。是日、太上天皇崩於寝殿。遺詔、以中務卿従四位上道祖王為皇太子。

(2)756年、聖武太上天皇周忌斎会荘嚴用具が国分寺(金光明寺)に頒下(配付)された。
《天平勝宝八歳(七五六)十二月》己亥〔20日〕越後、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、阿波、讃岐、伊予、土左、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向等廿六国、国別頒下灌頂幡一具・道場幡卌九首・緋綱二条、以充周忌御斎荘飾。用了、収置金光明寺、永為寺物、随事出用之。

(3)757年、聖武太上天皇周忌齋會が執り行われた。
《天平宝字元年(七五七)五月》〇 五月己酉〔2日〕太上天皇周忌也。請僧千五百余人於東大寺、設斎焉。

4)759年、初めて「国分二寺図(僧寺と尼寺の基本設計図)」が諸国に頒下(配付)された。
《天平宝字三年(七五九)十一月》辛未〔9日〕、勅坂東八国。陸奥国若有急速、索援軍者。国別差発二千已下兵。択国司精幹者一人。押領速相救援。頒下国分二寺図於天下諸国。

  確認しておくべきことは、①越後、②丹波、③丹後④但馬⑤因幡⑥伯耆⑦出雲、⑧石見、⑨美作⑩備前、⑪備中、⑫備後、⑬安芸⑭周防⑮長門、⑯紀伊、⑰阿波、⑱讃岐、⑲伊予、⑳土左、㉑筑後、㉒肥前、㉓肥後、㉔豊前、㉕豊後、㉖日向26ヶ国(の国分寺)に周忌斎会荘飾用具が配られたということで、これ以外の国分寺は周忌斎会を執り行える状態になかった(つまり七重塔が未完成)ということです。

 この聖武太上天皇周忌齋會を執り行なえた26ヶ国のうちで、夢ブログで「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」三十三国として挙げられているのは、次の13ヶ国(の国分寺)です。
…………………………………………………………………………………………………………………………

《「古式寺院に七重塔を追加した国分寺」の疑いがある13ヶ国》

西海道―なし(夢ブログの表に)

南海道―⑰阿波、⑳土左

山陽道―⑨美作、⑩備前、⑬安芸、⑭周防、⑮長門

山陰道―③丹後、④但馬、⑤因幡、⑥伯耆、⑦出雲

畿内 ―なし

東海道―なし

東山道―なし

北陸道―①越後

…………………………………………………………………………………………………………………………

 すなわち、聖武太上天皇周忌斎会に間に合った諸国(26ヶ国)のうち、①越後・③丹後・④但馬・⑤因幡・⑥伯耆・⑦出雲・⑨美作・⑩備前・⑬安芸・⑭周防・⑮長門・⑰阿波・⑳土左13ヶ国の国分寺が古式寺院に「七重塔」の建立が完了したので周忌斎会を執り行えた可能性(つまり古式寺院を改造した寺院である可能性)があるわけです。もちろん、「金光明四天王護国之寺」(国分僧寺)として新建された寺院である可能性もあります。

  また、周忌斎会に間に合った26ヶ国のうちで上記(13ヶ国の国分寺)に含まれなかった②丹波・⑧石見・⑪備中⑫備後⑯紀伊⑱讃岐⑲伊予㉑筑後㉒肥前㉓肥後・㉔豊前・㉕豊後・㉖日向13ヶ国の国分寺のうち、西海道の㉑筑後・㉒肥前・㉓肥後・㉕豊後の4ヶ国、南海道の⑯紀伊・⑱讃岐・⑲伊予の3ヶ国、山陰道の②丹波、山陽道の⑪備中・⑫備後の2ヶ国、これら計10ヶ国の国分寺は「古式寺院」(塔が回廊内)です(周忌斎会までに七重塔を建て終えたかと)。 

残った⑧石見・㉔豊前・㉖日向3ヶ国の国分寺は「新式」(回廊外に塔)であるが、「古式」を改造した寺院でもなく、「国分寺式(『国分二寺図』式)」でもない寺院、ということになるのでしょうか(今回は調査対象外です)。

 今、「古式」寺院(Aタイプ)ではない「新式」寺院を次のように3タイプ(B,,D)に分けます。 

タイプ:「古式」寺院(古式寺院もタイプは多いですが、今回は「ひとまとめ」にして論じます)。
タイプ:「『古式』改造型新式」寺院
タイプ:「非『国分二寺図』型(『国分二寺図』型ではない)新式」(いわゆる“国分寺式”)寺院
タイプ:「国分寺式(『国分二寺図』型)新式寺院

  この4タイプに分ければ、伽藍配置様式の変遷は「A→B→C→D」の順である(仮説)と考えられ、⑧石見・㉔豊前・㉖日向の3ヶ国の国分寺はCタイプの「非『国分二寺図』型新式」に属するものと思われます((2)(3)(4)「頒下国分二寺図」以前の「新式」寺院だから)。

 では、「古式」寺院を改造した可能性がある13ヶ国の国分寺を調べてみましょう。 

⑰阿波国分寺徳島市教育委員会 1981 『徳島市埋蔵文化財調査報告書9:阿波国分寺跡第3次調査概報』徳島市教育委員会より)
阿波国分寺跡伽藍配置推定図
Photo_20210211152101
 私の判断:国分寺式(「国分二寺図」式)ではない「新式」(Cタイプ) 

⑳土左国分寺高知県南国市教育委員会 2009 『南国市埋蔵文化財発掘調査報告書24:土佐国分寺跡』高知県南国市教育委員会より)
調査報告書24より
24
 伽藍配置は不明 

⑨美作国分寺津山市教育委員会/津山弥生の里文化財センター 2002 『津山市埋蔵文化財発掘調査報告72:美作国分寺跡』津山市教育委員会/津山弥生の里文化財センターより)
 報告書には「伽藍配置」という項目がなかった。
美作国分寺想像図 ほか
Photo_20210211152401

 創建時の国分寺跡は、現在の国分寺の西方に隣接して立ち、寺域はほぼ2町四方とされる[2]。伽藍配置は、南から南門・中門・金堂・講堂が直線上に立ち、中門と金堂は回廊で接続しその東南に塔が位置するという、典型的な国分寺式の配置である[2]。また、講堂北方には別の礎石建物が確認されている。
 出土品から推測される年代は、国分寺建立の詔からまもなくの造営、平安時代末の衰退と見られる[2]。出土品の中でも特に、創建期の軒瓦の文様が平城宮朝堂院の瓦と似ていることが注目される[2]。Wikipedia「美作国分寺」より抜粋)
 私の判断:Wikipediaは「典型的な国分寺式の配置」と言っているが、「国分寺式(『国分二寺図』式)」ではない(変遷タイプCである)ことは、聖武太上天皇周忌齋會に参加した国分寺(かろうじて間に合ったか)であることから明らかです。

⑩備前国分寺岡山県赤磐市教育委員会 2009 『赤磐市文化財調査報告3:備前国分寺跡』岡山県赤磐市教育委員会より)
備前国分寺 伽藍配置復元図
Photo_20210211152901

 私の判断:「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」と同じ金堂院型(金堂を回廊が囲む)」古式寺院に七重塔を後付けした伽藍配置です。ただ、「四天王寺式」を改造した可能性も残っています。 

⑬安芸国分寺(発掘報告書が刊行物として発行され「奈文研」のデータベースに公開されていない)
案内板の写真
Photo_20210211153001
復元模型の写真
Photo_20210211153201
 私の判断:明らかに南大門と中門の距離が狭すぎて塔を配する余地がない「古式」寺院(おそらく「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」のような「金堂院型」)を改造し(金堂に回廊を付け替えて)、西塔を加えたもの 

⑭周防国分寺(発掘調査報告書を見つけられず)
旧境内
古代の旧境内の寺域は、南北約2町・東西約1町10間。古代の創建期から現在まで同じ規模で残るとして著名で、現在までの発掘調査でもほぼ確実視されている[3]。また伽藍については、1953-1955年(昭和28-30年)の発掘調査で金堂・塔・回廊・中門・南門・裏門の遺構が検出・推定されたが、その後の調査で中門・回廊の検出は疑問視されているなど、伽藍中枢の様相は依然明らかではない[3]。
Wikipedia「周防国分寺」より抜粋)
 伽藍配置は不明。 

⑮長門国分寺
 遺跡そのものがはっきりしていない(8町(960m)×6町(720m)程度の敷地。瓦や土器なども発掘されている)。
 伽藍配置は不明。

③丹後国分寺
中世再興後の丹後国分寺の寺地移動について
Photo_20210211153401
創建期丹後国分寺の遺構等は発掘調査が実施されていない。
 伽藍配置は不明。 

④但馬国分寺
僧寺跡は、現国分寺付近に位置する(位置)。寺域は1町半(約160メートル)四方と全国では中規模[3]。伽藍は南から南門・中門・金堂を南北一直線に配し、中門左右から出た回廊が金堂左右に取り付く[2]。また、金堂西方には塔を配する[2]。Wikipedia「但馬国分寺」より抜粋)
図 但馬国分寺跡朝日新聞デジタルより)
Photo_20210211154101
 私の判断:これも「古式」寺院(おそらく「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」のような「金堂院型」)を改造し(金堂に回廊を付け替えて)、西塔を加えたもの。 

⑤因幡国分寺
因幡国分寺伽藍推定図
Photo_20210211154301

 私の判断:これは「非国分寺式(新式)」(Cタイプ)と見えますが、回廊の形状が「大官大寺」のようでもあり、東大寺のようでもあるので迷うところですが、南門と中門(回廊)の距離が、塔を置く充分な広さがあるので、やはりCタイプで東大寺に倣ったものと考えれば、塔を二基配してはいないが「東大寺式」と呼べるかも知れません(「『国分二寺図』式」に近い大変貴重なタイプです)。ただ、回廊と塔の方位が異なっているので、改造寺院である可能性もあると思えます(塔と回廊のどちらが先に建てられたか)。 

⑥伯耆国分寺
史跡伯耆国分寺跡案内図
Photo_20210211155101
 私の判断:これも、南門と回廊の距離が、塔を置く充分な広さがあるので、やはりCタイプ(「国分二寺図」型ではない新式)です。

⑦出雲国分寺
出雲国分寺 第96図 区画溝位置図
96
出雲国分寺 第97図 3・4次調査区と測量成果図の合成図
97
出雲国分寺復元想像図
Photo_20210211155401
 これは「信濃国分寺(僧寺)」と同様の伽藍配置です。「古式」に属する(南門・回廊間が狭い)縦型の「金堂院型」寺院と異なって、南門と金堂を囲った回廊との距離が広く、塔をその間に置いた横型の「金堂院型」「新式」寺院(「横型の金堂院型新式寺院」とでも言うべきか)です。いわゆる“国分寺式”(Cタイプ)と「国分寺式(『国分二寺圖』式)」(Dタイプ)の過渡期のものなのか(金堂を取り除き、講堂の位置に置けば、Dタイプです)塔の方位と金堂院・回廊の方位が「信濃国分寺(僧寺)」のように異なっていれば「五重塔から七重塔へ改造した寺院」の可能性もあります。

①越後国分寺
 現在の五智国分寺は上杉謙信が再興したもので、古代の越後国分寺は所在そのものが不明なようです(諸説あり)。

結語
 今回は、聖武太上天皇周忌斎会に間に合った26ヶ国の国分寺の中から、肥さんの夢ブログ 塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 で「新式」とされた国分寺を抽出して、発掘調査報告書を精査することなく、「私がパッと見た印象」によって判断したものですから、確かな結論を得るには発掘調査報告書の精査が今後の課題として残ります。

 それに留意して頂けば、私は判断は次の通りです。
❶「古式」寺院を改造して「新式」寺院とした国分寺(Bタイプ)2ヶ国
⑩備前国分寺、⑬安芸国分寺

❷いわゆる“国分寺式” (「『国分二寺図』型ではない新式」)国分寺(Cタイプ)4ヶ国
⑰阿波国分寺、⑨美作国分寺、④但馬国分寺、⑥伯耆国分寺

❸上記❷(Cタイプ)に分類されるが、改造寺院(Bタイプ)の可能性もあるDタイプ(「国分寺(『国分二寺図』)式」)に近い国分寺 2ヶ国
⑤因幡国分寺「東大寺式」か、あるいは改造寺院(Bタイプ)の可能性も)⑦出雲国分寺(CとDの中間のよう)

❹遺跡の遺存状態や発掘調査の進捗状況などによって伽藍配置が不明な国分寺 5ヶ国
⑳土左国分寺、⑭周防国分寺、⑮長門国分寺、③丹後国分寺、①越後国分寺

❺調査せず「とりあえずCタイプか」とした、周忌斎会に間に合った26ヶ国に含まれてない国分寺 3ヶ国
⑧石見国分寺、㉔豊前国分寺、㉖日向国分寺

❻肥さんの表にあるが、周忌斎会26ヶ国に登場しない「新式」国分寺
淡路国分寺、播磨国分寺、山城国分寺、大和国分寺、河内国分寺、和泉国分寺、伊賀国分寺、尾張国分寺、三河国分寺、遠江国分寺、駿河国分寺、伊豆国分寺、武蔵国分寺、常陸国分寺、近江国分寺、信濃国分寺、上野国分寺、下野国分寺、陸奥国分寺、若狭国分寺、佐渡国分寺、これら21ヶ国の国分寺はBタイプあるいはCタイプのどちらかです。これらの国分寺については、今回私は未調査ですが、多元的「国分寺」研究サークルのサイトには、既にこれらの国分寺についての調査結果があるかも知れません(忘れてしまいました)。

 なお、播磨国分寺が「国分二寺図」に基づいて新造された国分寺であるという仮説は、次のブログをご覧ください。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017110 ()
「国分二寺図」の伽藍配置―東大寺がモデルとなった―2018519 ()
 また、信濃国分寺(僧寺・尼寺)の「金堂院型」伽藍配置図は、信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられたをご覧ください。

2021年2月10日 (水)

「京都橘高校」グルーピー77―ジョイントコンサート2016―

「京都橘高校」グルーピー77
ジョイントコンサート2016[「京都橘高校」グルーピー]

 2016年収録ですが、2021/02/10に投稿されたものです。

ジョイントコンサート2016 京都橘高校吹奏楽部 Kyoto Tachibana SHS Band(Jul 18, 2016)
投稿者コメント
TACHIBANA Joint Concert Series 2016より(2016年7月18日)
♩Winter Games
♩Seaside Bound
♩Sing Sing Sing
※切り抜き編集用に撮影したもののため、見づらい個所がございます。

2021年2月 9日 (火)

『史記』に記された「暦」(10)―漢代の定点(その4)―

『史記』に記された「暦」(10)
漢代の定点(その4)―[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

【おしらせ】

「『史記』に記された「暦」(9)—漢代の定点(その3)」—を飛ばして付番していたので、すでに「・・・暦(10)— ・・・(その4)—」として投稿してあったものを「『史記』に記された「暦」()―漢代の定点(その)―」に表題を変更しました。ご了承ください。【お知らせ終わり】

 今回は、先に述べた筋書き(『史記』に記された「暦」(8)―漢代の定点(その2)―を参照ください)が破綻したかという内容です。

 『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その)―で、『漢書』本紀に記された22番目の日蝕について次のように書きました。

…………………………………………………………………………………………………………………………

(22)元光元年冬十一月,初令郡國舉孝廉各一人。

夏四月,赦天下,〔中略〕

五月,詔賢良曰:「〔中略〕

星辰不孛,日月不蝕,山陵不崩,川谷不塞;〔中略〕朕親覽焉。」〔中略〕

秋七月癸未,日有蝕之。〈32〉〔これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦が元光元年のものであることを決定づけた西暦(J暦)紀元前134(-133)年8月19日(JDN 1 672 710)の日蝕である。おそらく癸未は「七月」であろう。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 「おそらく癸未は「七月」であろう。」こう即断したのが軽率でした。「」と書いてなかったのは「それなりの理由」があったのです。次をご覧ください。
表2 元光元年(前134年)の朔日の干支(橋本敬造「顓頊暦元と歳星紀年法」より)
2134
 表2の顓頊暦の部分だけを書きだしてみればわかると思います。

《出土木簡(顓頊暦)》                  

元光元年 朔干支 番号 月日数(翌月朔番号-当月朔番号で算出した)

十月  己丑  25  30

十一月 己未  55  29

十二月 戊子  24  30

正月  戊午  54  30

二月  戊子  24  29

三月  丁巳  53  30

四月  丁亥  23  29

五月  丙辰  52  30

六月  丙戌  22  29  干支 番号 翌日 番号  翌々日 番号

七月  乙卯  51  30  癸未 19  甲申 20(晦) 乙酉  21八月朔)

八月  乙酉  21  29

九月  甲寅  50  30

後九月 甲申  20  29

 

 『漢書』武帝紀に「(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。」と書かれたのが、西暦紀元前134(-133)年819日(JDN 1 672 710)の日蝕です。表2の通り元光元年の七月「第1日」が「乙卯」ならば、癸未」の日付は「29日」であり「(七月30日)」ではなかったのです。それゆえ(かどうかは不確かですが)、「晦」とは書かずに「七月癸未」とだけ書いたのではないかとも思われます(暦が二日もズレていた?)。このようなことを確認するためには顓頊暦の長暦が必要なのかもしれません。

 また、付言すれば、表2に「第1日」と記されているのが意味深です。「朔」だとは言っていないのです(専門家は流石ですね)。

 今回は、史料から迫るという部分について早くも目論見が外れたという報告となりました(しょうもな)

 次回は、調査した前漢代の日蝕のデータを紹介する予定です(こちらから迫る方に望みがありそうです)。

ゲーム機PS5・Xboxの供給不足の理由―日本の研究開発力の底力―

ゲーム機PS5・Xboxの供給不足の理由
日本の研究開発力の底力[現代]

 私はPS4を買ってみたけど以降はゲームをしていませんが、PS5が発売されたことには関心があって(買う気は全くないのに)、ネットでニュースなどを眺めたりしています。ゲーム機の発売には「転売ヤー」が「公然と暗躍()」しているようで販売価格の何倍もの値で取引されたりしているようです。それを見て、「ダフ屋」は取り締まられるのになぜ取り締まれないのか、Sonyはもっと量産すればいいのに、などと思ったりします。

 ところが、ゲーム機の製造会社(SonyMicrosoft)は、「もっと量産したいけれどできない」のだそうです。理由は、「ゲーム機に使用するCPU(Central Processing Unit,中央演算処理装置)GPU(Graphics Processing Unit,図学処理装置)の供給が少ないから」なのだそうです。

 PS5やXboxのCPUGPUAMD(Advanced Micro Devices, Inc)が供給しています。安いパソコンにはIntelではなくAMDの互換CPUが使われていたりします。

 AMDが量産すればいいじゃないか、と思われるでしょうが、実は、当該CPUGPUAMDが製造しているのではないのです。

 ここからは半導体業界の話になるのですが、CPUGPUなどのIC(integrated circuit,集積回路)チップは、半導体を設計する「ファブレス」(生産を行う工場などの施設(fabrication facilities)を自社で持たない(=less))と呼ばれる企業(AMDAppleなど)が「ファウンドリ」(foundry、半導体産業において、実際に半導体デバイス(半導体チップ)を生産する工場)または「ファブ(fab)」(fabrication facility(製造工場)の略)とよばれる企業(台湾のTSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Company,半導体シェア54%)など)に生産委託して造られています。

 とくに、最近はスマートフォン・ディスプレイ・自動車などで特注品の需要が増え続けており、TSMCでは注文順に製造しているが常に受注残がある状態だそうです。

 特に安全性に関わる自動車部品に使用されるICチップは、製造途中での設計変更などは受け付けない(当初もらった設計通りに・指定された設備仕様で製造する契約)とされています(事故原因が究明できなくなるし、責任の所在も不明になりますからね)。

 TSMC側では需要を満たすために生産設備の拡充は充分にしているそうです。なのにICチップの供給が追い付いていない。その理由は半導体の製造に必要な材料の供給が不足しているとのことです。その「半導体の製造に必要な材料」とは「ABF基盤」というものなのです。

 「ABF基盤」とは何でしょうか。ICチップ(半導体)は、「プリント基板」に取り付けるためにピンや足(ムカデのような)を付けた容器にパッケージ(包装)されています(市場で見ることができるのはこのパッケージされた状態のものです)。

 半導体自体の回路の幅はナノ単位のものですが、「プリント基板」への接合部のパッケージ内の回路は当然ミリ単位です。これを接合するには回路同士が干渉しないようにする絶縁体を利用した中継回路の基盤が必要です。このパッケージ内の基盤を「ABF基盤」といいます。TSMCの供給が追い付かないのは、この「ABF基盤」の供給が追い付かない(半導体ウエファーができても商品にできない(パッケージできない))のです。
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 この「ABF基盤」に必要な素材が「ABF」と呼ばれるフィルムです。ABFの正式名称は「Ajinomoto Build-up Film(味の素ビルドアップフィルム)」といいます。この「ABF」の市場占有率はほぼ100%!だそうです。もちろん味の素グループでもこの量産に励んでいますが急増する需要に追い付いていけないのが現状のようです。

 ABFについては、ABFフィルム(味の素株式会社・ホーム)研究開発〉イノベーションストーリー〉ABFフィルム)をご覧ください。
 さらに詳しく知りたい方は味の素ファインテクノ㈱・HOME > 電子材料 > 層間絶縁材料「味の素ビルドアップフィルム」(ABF)をご覧ください(味の素ファインテクノは絶縁材料ABFシリーズをはじめとする味の素グループのファインケミカル事業の中核を担う会社です)。

Abf

 「調味料」の会社の研究開発半導体素材がシェア100%になる。・・・驚くべき日本の研究者の努力ではないでしょうか。

 「朴・李」で手っ取り早く儲けようとするかの半島のかの国の人々には到底無理なことですね。

2021年2月 7日 (日)

「京都橘高校」グルーピー76―ジョイントコンサート2017―

「京都橘高校」グルーピー76
ジョイントコンサート2017[「京都橘高校」グルーピー]

 2017年に収録されたものですが、2021/02/07に投稿されたものです。

♪Merry-Go-Round
Winter Games
Down By the Riverside
I'm in the Mood for Dancing(ダンシング・シスター)
Sing Sing Sing

ジョイントコンサート2017 京都橘高校吹奏楽部 Kyoto Tachibana SHS Band(May 28, 2017)
投稿者コメント
TACHIBANA Joint Concert Series 2017より(2017年5月28日)
※一部公開済の動画です(Fixed Angle)。

「復元」と「復原」の違い―微妙だが明らかに違う―

「復元」と「復原」の違い
微妙だが明らかに違う[sanmao知恵袋]

 皆さんは「ふくげん」と聞いて、どちらを思い浮かべますか?多くの方は「復元」の方ではないかと思います。では、考古学の分野ではどう使い分けているのでしょうか。下記は、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所のブログサイト「奈文研ブログ」「(156)復原と復元の違い(201715 09:00) からの引用です(イラストと間隔をあけるための改行は省略)。
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改造前に戻すか 新築か

 「ふくげん」された平城宮(奈良市)の大極殿。今回は、この「ふくげん」という言葉について考えたいと思います。

 この言葉の誕生は近代で、比較的若い言葉です。でも、ひとことに「ふくげん」といっても意味の範囲は広く、漢字も「復元」と「復原」の二つがあります。辞書では、どちらも「もとの姿に戻すこと」(日本国語大辞典)とありますが、どう違うのでしょうか。

 文化財の世界では、「復元」は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味します。各地の遺跡で竪穴建物や古代建築が建てられ、近世城郭の天守や御殿なども「復元」されています。いわば、新築の建物に「ふくげん」するのです。

 これに対して「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉です。多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われています。「復原」は建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。例えば、屋根が瓦葺(ぶ)きから後世に銅板葺きに変わっていたものを、元の姿に「ふくげん」するといった具合です。

 同じ読みでも、古建築の修理現場では両者を細かく使い分けているのです。

(奈良文化財研究所研究員 海野聡)◇イラスト・岡本友紀

(読売新聞2016年10月30日掲載)

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 「奈文研」のブログでは建物に限って解説されていますが、建物に限らず見つかったものが、元々の状態とはかけ離れた状態(壊れている、一部分しかない等)の場合に「元あった状態」(つまり、元の「完全と思われる状態」)を見せるようにすることが「復元」です。例を挙げれば、壊れた欠片から埴輪や土器を粘土で補って完形にして見せるのが「復元」です。

 「復原」は「変遷」が想定される(「時間」という概念に関わる)場合に、それぞれの時点で「復元」をする必要があるので、「復元」するスキルも必要ですが、なにより手間がかかります。例えば、複数の時代にまたがる遺跡の場合がこれに該当します。建物の礎石や柱穴しかない場合でも、各時代における建物の位置関係を明らかにした上で、各時代における建物等が当時どのようであったか「復原」するわけです。すなわち、「復元」と違って「復原」は「時間」と言う要素が関わっているのです。この「時間軸」の有・無が「復原」と「復元」の違いなのです。

 科学の分野の「学術用語」に「復原性」とか「復原力」とかがありますが、これも「時間軸」がある言葉だから「復原」と言っているのです。バネが元(の位置)に戻る「復原性」(時間が経つともとに戻る性質)とか「復原力」(「力」F=m*α(αは「加速度」=「速度(距離/時間)の微分」))には「時間」という要素が含まれているからです。この「時間軸」を考慮していない説明は、ただ「『復元』と『復原』はそういうものだと覚えろ」とか「『復元』だけつかえばよい」とか丸暗記(受験生にはこれでよいが)を強要しているだけの説明です。

2021年2月 6日 (土)

『史記』に記された「暦」(9)―漢代の定点(その3)―

『史記』に記された「暦」(9)
漢代の定点(その)―[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 『漢書』本紀に記されている日蝕記事をリストアップしました。語句「日有」が46ヶ所、語句「日有」が7ヶ所、合わせて53ヶ所でした。その日食を「」中で言及している箇所が5ヶ所(文帝紀1、元帝紀2、成帝紀1、哀帝紀1)ありますので、『漢書』本紀には48件の日蝕が記録されていることになります。

 次が、『漢書』本紀にある日蝕(日食)の記録です。「()」(半角の括弧)で囲った数字で示したのが48件の日蝕です。「〈〉」で囲った数字は各紀の段落番号で、後で検索しやすくしただけのものですので、特に気にせず無視して頂けるものです。

 前漢の皇帝〔注1〕紀ごとの内訳(高后紀を含む)は、高帝紀3件、惠帝紀2件、高后紀2件、文帝紀4件、景帝紀8件、武帝紀8件、昭帝紀2件、宣帝紀3件、元帝紀3件、成帝紀9件、哀帝紀2件、平帝紀2件、合計48件です。景帝紀8件、武帝紀8件、成帝紀9件に日蝕記事が多い理由は、これまでのところは「不明」と言っておきましょう。
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高帝紀上〔太祖・髙皇帝(劉邦)前206~前195年、前202年即位〕
(1)三年冬十月,韓信、張耳東下井陘擊趙,斬陳餘,獲趙王歇。置常山、代郡。甲戌日有食之(2)十一月癸卯日有食之。〈50
高帝紀下
(3)(九年)夏六月乙未日有食之。〈32 

恵帝紀〔恵帝(劉盈)前195~前188年〕
(4)(七年)春正月辛丑日有蝕之(5)夏五月丁卯,日有蝕之,既。〈27
〔正月朔の日干支が辛丑、五月朔の日干支が丁卯となっている。五月朔の日蝕は皆既日蝕だったようだ(日蝕が起きるのは朔の時)。〕

高后紀〔高皇后(呂雉)前202~前195年、前180年死去〕
(6)二年〔中略〕春正月乙卯,地震,羌道、武都道山崩。夏六月丙戌日有蝕之。〈3
〔朔ではなく晦の日蝕なので既に暦が一日ずれている。〕
(7)七年冬十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。春正月丁丑,趙王友幽死于邸。己丑日有蝕之。〈8 

文帝紀〔太宗・文帝(劉恒)前180~前157年〕
(8)(二年)十一月癸卯日有食之。詔曰:「朕聞之,天生民,為之置君以養治之。〔中略〕十一月日有食之,適見于天,災孰大焉!〔中略〕 。」〈14
(9)三年冬十月丁酉日有食之(10)十一月丁卯日有蝕之。〈20
(11)四年夏四月丙寅日有蝕之〔後略〕67

景帝紀〔景帝(劉啓)前157~前141年。前7年・中年7年・後3年〕
(12)(三年)二月壬子日有食之。〈19
(13)(四年)十月戊戌日有蝕之25
(14)七年冬十一月庚寅日有蝕之30〔(紀元前150年)夏四月乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹(のちの武帝)為皇太子。〕
(15)(中二年九月)甲戌日有蝕之44〔景帝中二年は紀元前148年〕
(16)三年冬十一月,〔中略〕
春正月,皇太后崩〔景帝中三年は紀元前147年。景帝の時の皇太后は竇皇后(竇猗房(竇猗))であるが、Wikipedia「竇皇后 (漢文帝)」によれば建元六年(紀元前135年)死去とある。不審だ。〕
夏旱,禁酤酒。秋九月,蝗。有星于西北。戊戌日有蝕之47(はい)とは彗星(ほうきぼし)のこと〕
四年春三月,起德陽宮。
(17)(五年)十月戊午,日有蝕之54
〔月順が正常なので、十月から記す紀年法を変更したように見えるが、次の(18)と整合しないので、「五年」の書き漏れと考えられる。〕
(18)六年冬十月,行幸雍,郊五畤。
春三月,雨雪。
五月,詔曰:〔中略〕
六月,匈奴入鴈門,至武泉,入上郡,取苑馬。吏卒戰死者二千人。
秋七月辛亥日有蝕之65
(19)後元年春正月,詔曰:「〔中略〕
五月,地震。秋七月乙巳日有蝕之。〈67〔景帝後元年は前143年〕
三年春正月,詔曰:「〔中略〕。」甲子帝崩于未央宮。〈77〔前141年3月9日〕 

武帝紀〔世宗・武帝(劉徹)前141~前87年〕
(20)二年冬十月,〔中略〕
春二月丙戌日有蝕之夏四月戊申,有如日夜出。〈10
(21)三年春,〔中略〕九月丙子日有蝕之17
(22)元光元年冬十一月,初令郡國舉孝廉各一人。
夏四月,赦天下,〔中略〕
五月,詔賢良曰:「〔中略〕
星辰不孛,日月不蝕,山陵不崩,川谷不塞;〔中略〕朕親覽焉。」〔中略〕
秋七月癸未,日有蝕之32〔これが1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡にある暦元光元年のものであることを決定づけた西暦(J暦)紀元前134(-133)年8月19日JDN 1 672 710の日蝕である。おそらく癸未は「七月」であろう。〕
(23)(元朔)二年冬,〔中略〕
春正月,詔曰:「〔中略〕
三月乙亥日有蝕之。〈61
(24)元狩元年冬十月,〔中略〕
五月乙巳日有蝕之。〈83
五年冬十月,〔中略〕127
十一月辛巳朔旦,冬至〔中略〕
(25)夏四月〔中略〕丁丑日有蝕之。〈131〔「十一月辛巳旦冬至」なのに「夏四月丁丑,日有蝕之。」というのが不審。〕
(26)(元狩四年)冬十月甲寅日有蝕之。〈217〉
(27)(征和四年)秋八月辛酉日有蝕之238 

昭帝紀〔昭帝(劉 弗陵)前87~前74年〕
(28)(始元三年)十一月壬辰日有蝕之。〈25〉〔何故、十一月なのか?〕
(29)(元鳳元年)秋七月乙亥日有蝕之49 

宣帝紀〔中宗・宣帝(劉詢)前74~前48年〕
(30)(本始四年)十二月癸亥日有蝕之。〈31
(31)(神爵四年)冬十二月乙酉日有蝕之98
(32)(五鳳三年)夏四月辛丑日有蝕之詔曰:「〔中略〕。」〈111

元帝紀〔高宗・元帝(劉奭)前48~前33年〕
(33)(永光二年)三月壬戌日有蝕之。詔曰:「〔中略〕。乃壬戌,日有蝕之〔中略〕」〈32
(34)(永光二年)夏六月〔中略〕戊寅日有蝕之詔曰:「〔中略〕六月日有蝕之〔中略〕」〈43
(35)(建昭五年夏六月)壬申日有蝕之67 

成帝紀〔統宗・成帝(劉驁)前33~前7年〕
(36)(建始三年)冬十二月戊申日有蝕之〔中略〕30
(37)(河平元年)夏四月己亥日有蝕之,既。詔曰:「〔中略〕」大赦天下。〈37
(38)(河平三年)秋八月乙卯日有蝕之。〈43
(39)(河平四年)三月癸丑日有蝕之。〈48
(40)(陽朔元年)春二月丁未日有蝕之。〈54
(41)(永始二年)二月癸未夜,星隕如雨。乙酉日有蝕之。詔曰:「〔中略〕日有蝕之〔中略〕」〈93
(42)(永始)三年春正月己卯日有蝕之。詔曰:「〔中略〕」〈97
(43)(永始四年)秋七月辛未日有蝕之。〈105
(44)元延元年春正月己亥日有蝕之。〈106 

哀帝紀〔哀帝(劉欣)前7~前1年〕
(45)元壽元年春正月辛丑日有蝕之。詔曰:「〔中略〕。乃正月日有蝕之〔中略〕。大赦天下。」〈37
(46)(元壽二年)夏四月壬辰日有蝕之。〈43 

平帝紀〔平帝(劉衎)前1~後5年〕
(47)(元始元年)夏五月丁巳日有蝕之〔中略〕。〈8
(48)(元始二年)九月戊申日有蝕之。赦天下徒。〈21

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 今回は、『漢書』本紀中に記されている日蝕のリストアップだけでしたが、本日はここまでとします。次回は、このリストにある日蝕が、天文学で推算されているどの日蝕に該当するかを特定することを試みる予定です。 

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注1 前漢の皇帝 …… 次の通り。在位期間は通説(Wikipedia)に従って記しています。
代  廟号  諡号  姓名  在位
1   太祖  髙皇帝 劉邦  前206~前195
2       恵帝  劉盈  前195~前188
3   少帝      劉某  前188~前184
4           劉弘  前184~前180
5   太宗  文帝  劉恒  前180~前157
6       景帝  劉啓  前157~前141
7   世宗  武帝  劉徹  前141~前87
8       昭帝  劉弗陵 前87~前74
9       廃帝  劉賀  前74
10  中宗  宣帝  劉詢  前74~前48
11  高宗  元帝  劉奭  前48~前33
12  統宗  成帝  劉驁  前33~前7
13      哀帝  劉欣  前7~前1
14      平帝  劉衎  前1~後5
(15)         劉嬰  後5~後8

2021年2月 5日 (金)

伽藍配置と出土瓦―肥えさんの夢ブログ―

伽藍配置と出土瓦
肥えさんの夢ブログ[著書や論考等の紹介][多元的「国分寺」研究]

 「伽藍配置」と「出土瓦」を関係づけてわかりやすく分類した 肥えさんの夢ブログの記事 塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 20212 5() をご紹介します。

 とても興味深い情報が浮き彫りになっている内容と図が掲載されています。ぜひご覧下さい。

2021年2月 4日 (木)

『史記』に記された「暦」(8)―漢代の定点(その2)―

『史記』に記された「暦」(8)
漢代の定点(その)―[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 前回の 『史記』に記された「暦」(7)―漢代の定点(その1)― では、『漢書』本紀の武帝紀にある日蝕が「晦」(つごもり、朔(ついたち)の前日)に記されていることから、前漢初に用いられた「顓頊暦」が前漢初には既に一日遅れていたことを確認し、その暦の遅れ具合から「顓頊暦がいつごろに制定されたか」推測できるのではないか、と述べました。今回はそれを行う予定でしたが、より理解しやすくするために、「推測できる」とした根拠を先に説明しておこうと思います。 

 まず、「顓頊暦」は“古六暦”の一つであり、“古六暦”の特徴は次の通りです。

(1)一年を365日+1/4日とする「四分暦」である(太陽年はユリウス暦の365.25日と同じ)。

(2)メトン周期(19太陽年=235朔望月で季節と朔が一致)を基にした「章法」(19年間に7閏月を置くメソッド)の暦である。

 さらに、「顓頊暦」を“古六暦”の例外的存在にしている特徴は次のものです。

(3)「顓頊暦」の暦元(暦の「上元」)は「夜半(午前0) ・冬至」ではなく「正午・立春」である。

 上記から、日蝕(新月の時に起きる現象)の日を調べることで次のことがわかります(たぶん)

(4)「朔」で起きる日蝕が「晦」(朔の前日)の出来事としていつごろから記録されるようになったか。

(5)最後の「朔」日蝕の日から最初の「晦」日蝕の日までの経過年数。

(6)経過年数と「章法」の「置閏法」から、その間の閏年の回数(おおよその予想)。

(7)「朔日蝕」の月と「晦日蝕」の月から「閏月」の正確な回数及びその間の朔望月数(わかる「だろう運転」)。

(8)「顓頊暦」の「暦元」の時刻が「正午」なので、「暦」が0.5日以上遅れると「一日」遅れる現象が生じる。すなわち、最後の「朔日蝕」の日の新月の時刻が何時頃だったかによって推測範囲が広がってしまうのですが、「四分暦」のズレ(遅れ)る速度は一定なので、経過年数・経過月数などから、最後の「朔日蝕」の場合の新月の時刻が何時かが大体わかる(はず)。つまり、制定してから最後の「朔日蝕」の日の新月の時刻にまで遅れるのに要する年数がわかる。

 以上のように考えています。どこでこの筋書きが頓挫するでしょうか。

 

 上記のやり方ではなく、単純に「四分暦」(3651/4日)と実際の太陽年(回帰年)365.24219040(J2000.0値)との差でおよその年数は求まる(約128年、次式参照)のですが、より精密に(史書と照合しながら)求めようとして上記のようにしているのです(果たして目論見通りになるでしょうか)。

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「四分暦」の回帰年(①)=365.25日

J2000.0の回帰年(②)=365.2421904日

一年の差(③=①-②)=0.0078096日

一日に達する年数(1/③)=128.0475312年128

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 この推算法だと、「顓頊暦」の制定時期は、「晦日蝕」が『漢書』に最初に現れた年の約128年前となります(少し「粗雑」な感じ)。

 「日蝕(新月の時に起きる現象)の日を調べる」作業量は尨大(Huge)になりそうです。

 そんな理由で、今回は「推測できる」とした根拠の説明だけになりましたが、本日はこれまでとします。

2021年2月 3日 (水)

『史記』に記された「暦」(7)―漢代の定点(その1)―[暦][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

『史記』に記された「暦」(7)
漢代の定点(その1)―[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 2021129()投稿の「紀年法」の納得できない解説―「太陰太陽暦」の「紀年法」―で、後漢・建武元年(西暦25年)年干支「乙酉」(干支番号21)が現代まで続いていることを確認し、また、2021130()投稿の『史記』に記された「暦」(6)―予備知識「紀年法」―)で、歳星(木星) や仮想天体「太歳」の天球上の位置(「十二次」や「十二辰」)で紀年する方法の変遷をまとめて、「次回は今回の予備知識をもとにして、それ以前の紀年法がどうなっていたかを探る予定です(うまくいきますかどうか…)。」と述べました。今回は、予告通り、「それ(後漢の建武元年(西暦25年、年干支「乙酉」))以前の紀年法がどうなっていたかを探る」ことにしましょう。王莽の「新」は割愛し、その前の前漢のどこまでが確認できるかをやってみましょう。

 まず、1973年に臨沂銀雀山2号墓から出土した竹簡の暦譜で、元光元年〔注1〕のものでこの暦が「顓頊暦」であることを決定づけたのは、『漢書』本紀 武帝紀 に「秋七月癸未,日有蝕之。」とある西暦(J暦)紀元前134(-133)年819日(JDN 1 672 710)の日蝕でした。

 ご存知でしょうが、日蝕は太陽と月が会合して起きるのですから、赤道座標において太陽--地球が一直線上に並ぶ位置関係なので、当然新月の時に起きる現象です。また、太陰太陽暦は新月の時を含む日を「朔(ついたち)」としています。ところが、『漢書』に記された日蝕は次のようにあります(抜粋)。

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《高帝紀》

秦三年十月,齊將田都畔田榮,將兵助項羽救趙。〔中略〕

十一月,項羽殺宋義,并其兵渡河,自立為上將軍,諸將黥布等皆屬。

十二月,沛公引兵至栗,遇剛武侯,奪其軍四千餘人,并之,與魏將皇欣、武滿軍合,攻秦軍,破之。〔中略〕

二月,沛公從碭北攻昌邑,遇彭越。〔中略〕

三月,攻開封,未拔。〔中略〕

六月,與南陽守齮戰犨東,大破之。〔中略〕

八月,沛公攻武關,入秦。秦相趙高恐,乃殺二世,使人來,欲約分王關中,沛公不許。〔中略〕

九月,趙高立二世兄子子嬰為秦王。子嬰誅滅趙高,遣將將兵距嶢關。

(高帝)元年冬十月,五星聚于東井。沛公至霸上。秦王子嬰素車白馬,係頸以組,封皇帝璽符節,降枳道旁。〔後略〕


《武帝紀》

(武帝三年)九月丙子晦,日有蝕之。

元光元年冬十一月,初令郡國舉孝廉各一人。〔中略〕

夏四月,赦天下,賜民長子爵一級。〔中略〕

五月,詔賢良曰:〔中略〕

(元光元年)秋七月癸未,日有蝕之。顓頊暦。西暦紀元前134年8月19日JDN 1 672 710

(元光)二年冬十月,行幸雍,祠五畤。

春,〔中略〕

夏六月,〔中略〕

秋九月,令民大酺五日。

(元光)三年春,河水徙,從頓丘東南流入勃海。

(元光三年)三月乙亥晦,日有蝕之。

元朔元年冬十一月,詔曰:〔中略〕

十二月,江都王非薨。〔中略〕

春三月甲子,立皇后衛氏。詔曰:〔中略〕

(元朔)二年冬,賜淮南王、菑川王几杖,毋朝。

春正月,詔曰:〔中略〕

(元朔二年)三月乙亥晦,日有蝕之。

夏,〔中略〕

,燕王定國有罪,自殺。

三年春,罷蒼海郡。三月,詔曰:〔後略〕

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 注目して頂きたいのは、次の二点です。

第一点:前漢初の顓頊暦は、十月から始まっている(平年=12ヶ月の年なら九月で終る)こと。

 高帝紀(高帝=劉邦)に「秦三年」が「十月」から始まり「九月」に二世皇帝(嬴 胡亥)の亡き後に秦王に立てられた嬴子嬰が趙高を誅滅したことが記されていますので、秦の顓頊暦は「十月」から始まり「九月」に終わることが確認できます。

 また、武帝紀においても、「元光元年」が「冬十一月」から「秋七月」の日蝕を含んで「秋九月」まで、「(元光)二年」が「冬十月」から「秋九月」まで、「元朔元年」が「冬十一月」から「春三月乙亥晦」の日蝕を含んで「秋(七・八・九月)」まで記されていることから、どんなに早くてみても、武帝の代まで「十月」から始まり「九月」に終わる秦の顓頊暦が用いられていたことが確認できました。

第二点:「晦」(つごもり、月末日)に日蝕が記録されていることがある。

 この元光元年秋秋七月癸未の前((武帝三年)九月丙子,日有蝕之。)と後((元光元年)三月乙亥,日有蝕之。)の日蝕が「」(つごもり、月末日)となっていますので、顓頊暦はこの当時「日にちが既に1日遅れていた」ことになります(「晦」の翌日が「朔」)。ということから、「(元光元年)秋七月 ,日有蝕之。」とあるのは「秋七月,日有蝕之。」の「」が省かれているのだと考えられます。元朔二年(注2)にも「三月乙亥,日有蝕之。」とありますのでこれは確かでしょう。

 さて、上記二点を確認する過程で、次の問題に気付きました。

A:顓頊暦が十月に始まり九月に終わる紀年法だとすると、亥月(十月)を正始とする暦法であるのに、十二月(丑月)の翌月(寅月)を「端月」〔注3〕(「正月」の意)と称するのは矛盾ではないだろうか?

 顓頊暦は十月(亥月)から始め(つまり、冬至月を十一月(丑月)とし)て、寅月を正始(正月)とするのは「夏正」と呼ばれることから、「顓頊暦は「夏正」を用いた」(橋本敬造「顓頊暦元と歳星紀年法」1987)とされています。上記Aという疑問からは、「亥月」を「十月」としたのは「夏正」を採用した「漢王朝」の書き換えではなかろうか?という疑問が生じるのです。臨沂銀雀山2号墓から出土した漢代の竹簡の暦譜(漢の「顓頊暦」)がそう記されていたとしても、「秦の『顓頊暦』」は「亥月」を正始とする“秦正”と呼べるものだったのではないだろうか。つまり「漢王朝」以前の秦の歴史は「漢王朝」によって記されているので、秦王朝の暦譜を漢王朝式に書き換えているのではないだろうか、という疑問が生じます(「秦王国の出土物」に「亥月」を「十月」と書かれていれば話は別ですが・・・)。ただし、秦・始皇帝政の避諱で「正月」を「端月」と言っていた事実からすれば、少なくとも始皇帝の時には「夏正(寅月正始)」であったのは確かでしょう。すなわち、「夏正」を始めたのは「漢王朝」ではなかったことになります(「夏正」秦始皇帝採用説)。そして、始皇帝以前の「秦王国」は「亥月正始」の“秦正(亥月正始)”であった可能性があります(秦王国「亥月正始」説)。あるいは、「秦王国」時代に“秦正”から「夏正」に変更された(秦王国「夏正」採用説)の可能性があります。(これらは疑問Aから生じた、何の証拠もない「妄想」です。)

 

B:太陰太陽暦の暦法の原則(新月を含む日が「朔:一日(ついたち)」)からすれば、漢代の顓頊暦制定時から一日ズレれたと考えられるので、顓頊暦のおよその制定年代が推算できるのではなかろうか?

 暦法を採用する時からズレているような「暦」は絶対採用されません(「暦の正確さ」は王朝の威信・正統性の問題だから)。採用・公布時には正確な暦だったに違いないのです。

 ということから、Aは考古学的出土物に関わる問題なので、浅学非才の素人が「妄想」する以外は出る幕はありませんが、Bについては「予備知識」の程度でなんとか迫れるかも知れません。

 ということで、次回は「顓頊暦」がいつごろに制定されたかを推測してみたいと思います。

(途中ですが本日はこれまで。)

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注1 元光元年 …… 「元光」という年号は元年(紀元前134)から六年(紀元前129年)までの6年間とされています。
元光(げんこう)は、中国、前漢の武帝の治世に用いられた第2の元号(紀元前134年 - 紀元前129年)。
元々は単に元年・2年・3年とだけされていたが、後に各年代に名称を付けることが建議され、さかのぼって、この年代は彗星が出現したことから「元光」と名付けられた。(Wikipedia「元光(漢)」より抜粋)

注2 元朔二年 …… 紀元前127年。「元朔」という年号は元年(紀元前128)から六年(紀元前123)までの6年間とされています。
元朔(げんさく)は、中国、前漢代の元号(紀元前128年 - 紀元前123年)。
武帝の第3元。元々は、単に元年・2年・3年とだけされていたが、後に各年代に名称を付けることが建議され、さかのぼって、この年代は「元朔」と名付けられた。Wikipedia「元朔」より抜粋)

注3 「端月」 …… 秦朝(紀元前221年~紀元前206)では、「正月」を避諱してこう呼んだ。
10月を年始とし、閏月を年末である9月の後(後9月)に置く歳末置閏法をとっていた。ただし、10月は10月と呼び、正月と呼んだりしなかった。正月は立春の月であり、二十四節気の起点とした。また正確には始皇帝の諱である政を避諱して端月と呼んでいた。Wikipedia「顓頊暦」より抜粋)

USAで「武漢肺炎」が終息しない原因―マスクが政治化する頑固さ―

USAで「武漢肺炎」が終息しない原因
マスクが政治化する頑固さ[現代]

 皆さんはアメリカ合衆国での武漢肺炎蔓延の酷さをご存知だと思いますが、その精神的原因と思われる動画をご紹介します。
 私もそうですが英語の聴き取りが不得手な方は英語字幕(自動生成)をON にして(pauseをかけながら)ご覧ください。

Don't be a sheep': Defiant Washington sheriff suggests residents ignore mask order

 マスクをするのが「他人に従う」こと(sheep)になるだって?「気は確かか?確(しっか)りしろ!」と言いたくなります。敢えて「独断と偏見」で言えば、ステロタイプかも知れませんが、日本で過ごした経験のある方や日本好きな方を例外として除けば、アメリカ人はほぼこんなものだと思います。「自己絶対正義」で、日本人のことを「全体主義的」と評する人びとです。

2021年1月31日 (日)

「マスクをしない権利」だと⤴?!―「歴史を捏造する権利」だと⤴?!―[現代]

「マスクをしない権利」だと⤴?!
「歴史を捏造する権利」だと⤴?![現代]

 BLMだとか、マスクをしない権利だとか、嘘をついていい権利だとか、歴史を捏造する権利だとか、性転換者の女性競技参加権だとか、クレヨンの「肌色」は差別だ!とか・・・わけわからんことを喚いたり、やったりする者どもの本質を表現している歌を見つけた。

あべりょう の歌う「駐輪禁止ですよ」(YouTube)

・見て見ぬふり

・注意されると逆ギレ

・ルールを破ってそれを忘れ

・モラル守るという面倒から逃げ

・自分を正当化(『自己絶対正義』(Wikipedia「日〇 歴史共同研究」より))

・自己愛が強く、自己評価を下げたくない

・愛されたい(「〇〇〇〇に対する愛情はないのかーっ!」(Wikipedia「日〇 歴史共同研究」  より))

歌手の考えや楽曲の良し悪しはどうでもいいが、歌詞の内容は現代の世相を鋭く突いていると思う。どこかの半島の民族もこれだ。

2021年1月30日 (土)

『史記』に記された「暦」(6)―予備知識「紀年法」―

『史記』に記された「暦」(6) 
予備知識「紀年法」[][二倍年暦(二倍年齢)][古田史学]

 『史記』に記された「暦」(5)―「顓頊暦」が第一候補に―20201225()のブログで、『史記』卷二十六 曆書第四〖曆術甲子篇〗に記されている暦の年干支が、漢・武帝の太初元年(西暦前104年とされている)の六十歳名「焉逢攝提格」(「太歳紀年法」〔注1〕による)が「甲寅」年であれば、西暦紀元前104年の年干支「丁丑」と23年も食い違っている、と述べました(紀元前127年(現在の年干支で「甲寅」年)-紀元前104年(曆術甲子篇では「焉逢攝提格(甲寅年)」)=23年)。今回は、その食い違いを解明するための予備知識をまとめてみようと試みました(まとめきれたとは言い難いですが…)。

 Wikipedia「干支」には、「太歳紀年法」が次のように説明されています(抜粋、下線・付注は山田、改行は字下げに変更)。下記の引用は飛ばしていただいても論旨はわかるようになっています。

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太歳紀年法
太歳と木星の移動
 太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく紀年法である。
 木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。
 中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。
 さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。
〔中略〕
 漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。
 この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。
〔中略〕
 この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。
 ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた
 前漢の太初元年(紀元前104年)[10]の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。

 干支紀年法
 後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[11]。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。
 民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。〔後略〕
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 紀年法の変遷の要点を抜き出すと次のようになります。

(1)紀年法が行われる前に、天球の赤道座標系として「十二辰」〔注2〕が用いられていた。

(2)次いで、天球赤道座標系の「十二次」〔注1参照〕における歳星(木星)の位置で記す「歳星紀年法」が戦国時代(中頃)に始まった(表記の仕方は「歳在星紀」などのよう)。

(3)次いで、「十二辰」における仮想天体「太歳」(歳星と逆回り)〔注3〕の位置で記す「太歳紀年法」が戦国時代(中期以降)に行われた(表記の仕方は「太歳在寅」のよう)。

(4)秦の始皇帝元年(紀元前246年)に、木星が亥にあり(「歳星在亥」)、太歳が寅にある年(「太歳在寅」)とする新基準を設けた。これが事実上の標準(デファクト・スタンダード)となった。

(5)次いで、戦国時代以降漢初までの間に(Wikipedia「爾雅」からはそう受けとれる)太歳が位置する各「年」に、「十干(歳陽)」と「十二辰(歳陰)」とを組み合わせた名称を設けて使用する「六十歳名法(太歳紀年法)」が行われた(表記の仕方は「焉逢摂提格」(甲寅年)などです)。

(6)漢代に入ると、十干と組み合わせた干支で太歳の位置で記述すること(“干支太歳紀年法”)が広く行われるようになった(「太歳甲寅」など。)。

(7)前漢の太初元年(紀元前104年、-103年)の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。

(8)三統暦は、超辰は114年に一次ずれるとし、丁丑に改めた太初元年を再び丙子に戻し、太始二年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。

(9)後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。(これ以前は、歳星(木星)・太歳の位置による紀年法です。したがって、約86年に一次(太歳は一辰)ずれるので、それを人為的に調整(「超辰」)してきたことになります。)

(10)元和二年(西暦85年)の改暦で、三統暦の超辰法自体が廃止され、以後、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく「干支紀年法」が用いられた(表記の仕方は「太歳庚寅」のよう。例:「是年也太歳庚寅(『日本書紀』))。

 前回のブログ 「紀年法」の納得できない解説―「太陰太陽暦」の「紀年法」― で、現代の年干支は後漢・光武帝建武元年(西暦25年)の干支「乙酉」(干支番号21)から連続していることを確認しました。次回は今回の予備知識をもとにして、それ以前の紀年法がどうなっていたかを探る予定です(うまくいきますかどうか…)。

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注1 六十歳名「焉逢攝提格」(「太歳紀年法」による) …… 维基百科,自由的百科全书「太歳紀年」(中文版Wikipedia)には、次のようにあります。
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太歲紀年大约是西汉时历家根据歳星在天空运行所处区域所取的名称,并以此名称纪年。
〔太歳紀年()とは、おおまかには、前漢時の歴史家が歳星(木星)が天球を運行する区域に名称を付けて、この名称をもってする紀年()です。〕
依次和十二个太歳年名相配,配法和后世天干地支的配法相同,组成六十个年名,六十年周而复始。
12個の太歳年名を順に配し、この配し方と後世の十干十二支の配し方は同じで、六十個の年名を組み上げて、六十年で繰り返します。〕
分为歳陰和歳陽的名称。
〔歳陰と歳陽の名称を分けています。〕
《史記·天官书》中的寫法和《爾雅·释天》不同,茲列表於下:[1]
〔『史記·天官書』中の書き方と『爾雅·釈天』の書き方は同じではなく、以下の通りです。〕
※以下、「歳名」は、簡体字を繁体字(又は国旧字)に可能な限り変換しています(山田)。

歳陽
 天干  甲  乙   丙  丁   戊  己   庚  辛   壬  癸
『爾雅』 閼蓬 旃蒙 柔兆 強圉 著雝 屠維 上章 重光 玄黓 昭陽
『史記』 焉逢 端蒙 遊兆 彊梧 徒維 祝犁 商橫 昭陽 橫艾 尚章

歳陰
 地支  子   丑   寅    卯   辰   巳       午   未  申   酉  戌   亥

『爾雅』 困敦 赤奮若 攝提格 單閼 執徐 大荒落     敦牂 協洽 涒灘 作鄂 閹茂 大淵獻
『史記』 困敦 赤奮若 攝提格 單閼 執徐 大荒駱/大芒落 敦牂 叶洽 涒灘 作鄂 淹茂 大淵獻
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 「太歳紀年法」は、天球上の赤道座標系「十二次」における歳星(木星)の位置によって紀年する「歳星紀年法」がもとになっています。
 もとになった「歳星紀年法」は、「戦国期以降に行われ」た(Wikipedia十二次より)、歳星(木星)が約12年で天球を一周することから、天球を天の赤道帯にそって西から東に十二等分した座標における歳星(木星)位置で年を記す方法です(「歳在星紀」、「歳在大火」のように記述します)。因みに「十二次」は、星紀(せいき)・玄枵(げんきょう)・娵訾(しゅし)・降婁(こうろう)・大梁(たいりょう)・実沈(じっちん)・鶉首(じゅんしゅ)・鶉火(じゅんか)・鶉尾(じゅんび)・寿星(じゅせい)・大火(たいか)・析木(せきぼく)です。
 「十二次」は「黄道十二宮とは違い、二至二分をはじめとする中気は十二次の始点ではなく中央に来るように区分されます。国立天文台・暦Wiki「十二次」より)
※「節気」と「節気」の中央に来るように区分されるのが「中気」です。「始点ではなく中央に来るように区分され」ることも、私が「二倍年暦」での「春年」を、「冬至から夏至まで」(「春分」が中央に来る)、「秋年」を「夏至から冬至まで」(「秋分」が中央に来る)とする論拠の一つです。
 ところが、「木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。」ことから「そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。」(Wikipedia「干支」より抜粋)

 「中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。
 さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。
 十二辰(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)は配当の方向および順序が東から西へと逆になっているが、区分領域は十二次と全く同じである。(Wikipedia「十二次」より)

「十二次」と「十二辰」(橋本敬造「顓頊暦元と歳星紀年法」より、彩色は山田による。)
Photo_20210130180901
【注意】この「歳陰(太陰)紀年法」(紫の線に基づく下記①と②)は太初元年の歳名を巡る混乱を解決するために(紫の線が)提唱されたもので、「超辰」で簡単に説明できるものです。この図はあくまで「『十二次』と『十二辰』の關係」を説明するためのものです。「歳星紀年法」と「太歳紀年法」の関係は注3の図をご覧ください。
「十干」を「歳陽」とも、「十二支」を「歳陰」とも言います。上図は、①「歳陰紀年法」・②「太陰紀年法」・③「歳星紀年法」という三つの「紀年法」を併せて表現しています。
①「歳陰紀年法」は、「歳星」の位置を「十二辰(十二支)」(図の内周の「子」「丑」…など)で記します。
②「太陰紀年法」は、仮想天体「太歳」の位置を「十二辰(十二支)」で記します。
③「歳星紀年法」は、「歳星」の位置を「十二次」(図の外周の「星紀」「玄枵」…など)で記します。

 記された言葉で識別するなら、「歳在〇〇」とあれば「歳星紀年法」、「太歳在〇」とあれば「太歳紀年法」、年に「閼逢摂提格」のような名がついていれば、漢代に行われた「六十歳名法(太歳紀年法)」で、『史記』卷二十六 曆書第四〖曆術甲子篇〗に記されている暦の紀年法がこれです。

注2 「十二辰」 …… 天球の赤道座標である「十二次」に「十二支」を逆順で配当したものをいう(注1の図を参照)。ちなみに「十二辰」というのは「十二支」の古称(「十干」の古称は「十日」)です。

注3 仮想天体「太歳」(歳星と逆回り) …… 次図をご覧ください。この紫の線が秦・始皇帝元年(紀元前246年)に定められた基準なのです。
図1 太歳紀年法(橋本敬造「顓頊暦元と歳星紀年法」より、彩色は山田による)
Photo_20210130181001

2021年1月29日 (金)

「紀年法」の納得できない解説―「太陰太陽暦」の「紀年法」―

「紀年法」の納得できない解説
―「太陰太陽暦」の「紀年法」[]

 「紀年法」をWikipediaは次のように解説しています(下線は山田による)。
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紀年法は、元年と1年経過するごとに加算する原則があるのみで、元日は定義しない。これに対し暦法は、月や太陽の運行に従って1か月ごとの日数を定めてから1年の長さと元日を定義する。つまり年月日で暦を表すには紀年法と暦法の両方が必要となる。したがって改元により新しい紀年法を採用した日が必ず元日になるとは限らず、あるいは暦の月日が不連続となることがある。〔中略〕日本においては、暦法と同様に、紀年法も「○○暦」と呼称されたり、紀年法が暦法の一部と認識されてしまうことも多く、両者が混同されることがある。西暦は、かつて紀年法としては「西洋紀元」「西紀」という語で区別されていたが、やがて混同され、どちらも西暦とよばれている。現在の西暦は、暦法としてはグレゴリオ暦を指すが、紀年法としてはキリスト紀元である。Wikipedia「紀年法」より抜粋)
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 この解説の「突っ込みどころ」は次の点です。

(1)「1年経過するごとに」とあるが、この「1」の長さはどう決めたか。

(2)「年月日で暦を表すには紀年法と暦法の両方が必要」とあるが、「年月日」を決める「太陰太陽暦」の「暦法」は「紀年法」を含んでいる。

(3)「紀年法は、元年と1年経過するごとに加算する原則があるのみで、元日は定義しない」と定義したのであるから、「改元により新しい紀年法を採用した日が必ず元日になるとは限らず、あるいは暦の月日が不連続となることがある」とする説明を加えることは不適切である(控えめに言っても「蛇足」)。

(4)「西暦は、かつて紀年法としては「西洋紀元」「西紀」という語で区別されていた」とされるが、ユリウス暦の「紀年法」は何とよばれていたのだろうか。 

 (1)~(4)それぞれについて納得できない点を詳述します。

(1)この解説は単純な「太陽暦」を前提にして説明しています。すなわち、「(太陰太陽暦の)暦法」に関しての知識が足りていません。「ユリウス暦」では1年が3651/4日、「グレゴリオ暦」では1年が365日+97/400(365.2425日)、これを暗黙の前提にして「1年経過するごとに」と解説しています。
 「太陰太陽暦」では、1年12朔望月+(M/Y)×朔望月(ただし、M,YはM/Y<1である自然数)で定めて、つまり朔望月(月の満ち欠けの日数)で定めています。
 たとえば、メトン周期(235朔望月=19太陽年で季節と朔が一致する)に基づいた、19年間に7閏月を置く「章法」(暦法のメソッド)では、1太陽年=(12499/940)×朔望月です(「四分暦」)。
 「太陽暦」が地球の自転の周期日数だけで1年(の日数)を定めている。それに対して、「太陰太陽暦」は衛星「月」の「朔望月」(盈虧の周期日数)で定めている、これだけの違いなのです(「太陰太陽暦」なので、太陽年が把握されていることは等式から明らか)。

(2)「年月日」を記す暦法は当然「年」を決めている。それはどのように決めているか。
①「元年」は「上元」年である。
 「上元」は、例えば「甲子夜半朔旦冬至」(日干支が甲子で、午前零時に新月かつ冬至であった日)というように定めている(この日を元年の元旦とする。この「旦(元日)」は「暦(こよみ)」をつくる際には用いるが、「積年」(「紀年法」)には関係しない)。
②「暦をつくる年」までの「経過年数」は「上元」年からの「積年」である。
 「上元」年は、具体的には「暦書」(暦法を記した書物)に(「今より遡ること××年」とか「元号○○年の歳積××年算外」のように記されています。すなわち、「今」あるいは「元号○○年」という年(上元を定める起点となる年)は「上元××年」に該当するのです(「西暦△△年」と同じ)。また、「暦をつくる年」までの年数が「積年」です。暦をつくる年の「積年」を□□年とすると、この暦をつくる年は「上元□□年」と呼べることになります(「暦法」はそんな呼び方はしませんし、そんなことには無頓着です)。
 つまり、「太陰太陽暦」の元年(「上元」年)は「暦法」ごとに異なっていて(同じこともある)、あえて「積年」を表に出さないだけなのです。「太陰太陽暦」の「上元」は「紀元」であるが暦法ごとに異なっていて、これはイエス誕生以前の紀元前45年から導入された頃の「ユリウス暦」と現行の「グレゴリオ暦」の「元年」は異なっていることと同じなのです。

(3)もう、おわかりだと思いますが、「グレゴリオ暦」への改暦(15821015日)についても、「ユリウス暦」の1582年10月4日の翌日は「グレゴリオ暦」の1582年10月15日となっていて(10日飛ばした)、「暦の月日が不連続」なのです。さらに言えば、アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton)の誕生日は16421225日(クリスマスデー)ですが、このクリスマスデーは「ユリウス暦」で、グレゴリオ暦ではニュートンの誕生日は164314日なのです(暦によって年も違ってきます)。
 ですから、紀年法は「元日は定義しない」としているのですから、「(暦法は)改元により新しい紀年法を採用した日が必ず元日になるとは限らず、あるいは暦の月日が不連続となることがある。」のは当たり前のことであり、「暦法」にとって全くの筋違いな「いいがかり」です。

(4)以上から、Wikipediaの説明は、「太陰太陽暦」が「暦法」ごとに異なる紀元・元期(「上元」年)を持つ「紀年法」を含んでいることを無視した、「西洋・キリスト教の紀年法」(「太陽暦(J暦・G)」)に偏った解説だと思います(「太陰太陽暦」の理解が足りていない)。

 なお、木星(歳星)の天球上の位置(赤道座標系)で年を記す「歳星紀年法」や、木星と逆方向に運行する仮想天体「太歳」の天球上の位置(赤道座標系)で年を記す「太歳紀年法」は、木星の天球上の周期がピッタリ12年ではなくて11.862年であるため、約86年に一次(太歳は一辰)ずれるのを調整していました(「超辰」という)。
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干支紀年法

後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[11]。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。Wikipedia「干支」より抜粋、下線は山田による)。
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 後漢・光武帝建武二十六年(西暦50年)に「庚戌を辛亥と〔「超辰」〕すべき年であった。」が「超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。」「この時から…〔中略〕…絶えることなく現在まで続いている」とあります。検証してみましょう。

 2021年は辛丑(かのと(の)うし)です。22運(60年×221,320年)遡った701(倭年号(九州年号)「大化7年」・日本年号「大宝元年」)が同じ「辛丑です。さらに11運(60年×11660年)遡った41年(701年-660年=41年)が同じ「辛丑」です、「辛丑」の干支番号は37です(甲子=0とする)。よって、西暦4年41年-37年=4年)が「甲子(干支番号0)」年です。西暦50年(後漢・光武帝建武二十六年)の干支番号は4650年-4年=46)です。干支番号46の干支は「庚戌」です。このように後漢・光武帝建武二十六年(西暦50年)の干支が、引き続き現在にまで続いていることが確認できました。少なくとも後漢・光武帝建武二十六年(西暦50年)の年干支「庚戌」は定点にしてよいようです。つまり、後漢・建武元年(西暦25年)干支「乙酉」干支番号21(建武26年「庚戌」干支番号4625年=干支番号21も定点にしてよいでしょう。

 このように定点にできる年を遡らせていけば、『史記』卷二十六 曆書第四〖曆術甲子篇〗の「年干支23年のずれ問題」の解決の糸口が見つかるかも知れません(見つからないかも知れません)。いずれにしてもこの「超辰」が厄介なものであることは間違いなさそうです。

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