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2017年7月10日 (月)

“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺“南大門”、塑像の証言―

“大安寺式伽藍配置”は無かった(「歴史は「暗記物」なのか」改題)
―大安寺“南大門”、塑像の証言―[古代史][神社・寺院]

「受験勉強」というものがあります。そのなかに「歴史」もあります。この「受験勉強の歴史」というのは「暗記物」と言われる「とにかく覚えてなんぼ」なのです。「入学試験」も記憶力を試すようなものばかりが目に付きます。疑問を持たずに覚えまくれば良い点が取れる。こんなものは「歴史」という科学ではありません。「科学」は「仮説」に基づいているのですから、「歴史」も「仮説」に基づいているのです。「仮説」は「真実」ではないので、いつか覆ることがあります。現在、「通説」とか「定説」とか言われているものだって「仮説」なのです。

「大安寺式伽藍配置」と言われる伽藍様式があります。一言でいえば仏塔を南大門の南に配する様式です。これについては、以前から納得がいきませんでした。「南大門」というのは俗界と区切られた寺域を繋ぐ重要な門(Outer Gate)だと私は理解しています。この内側が寺で外側が俗界なのです。だから、「回廊で区切って聖域とした」と弁解されても、「南大門」の南に「塔院」を置くのは納得ができません。それでいいのなら「南大門」は不要でしょう。ところが、大安寺には「南大門」があり、その南に「塔院」があります。これは納得できません。では、どうであれば納得できるのでしょうか。「塔院」の南に発掘されていない「南大門」があって、現在「南大門」と呼ばれているものが「南大門」でなければ、私は納得できるのです。

そこで調べてみたら、次のような記述があるのを見つけました(『大安寺・南大門から出土した天平の仏像』、奈良市埋蔵文化財調査センター速報展示史料№10より)。
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史跡大安寺旧境内内南大門地区の保存整備事業に関わる発掘調査で、塑像(仏像)が破片で30点あまり出土しました。すべて南大門の北側階段を覆う堆積土から出土しました。
塑像はすべてが火災等で焼けていましたが、製造技法や形態的な特徴を観察できるものが3点ありました。現存する奈良時代の塑像と比較したところ、共通する点が多いことなどから、奈良時代に作られたものと判断しました。

記録に残っていた大安寺の塑像

大安寺には、大安寺の縁起と財産目録をまとめた『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『資財帳』)が残っています。これは天平19年(747)に収録したもので、以下のような記載があります。

「[土聶] 四天王像二具在南中門
右天平十四年歳次壬午寺奉造」

「[土聶](しょう)」とは塑像を指し、天平14年(742)に製作された塑像の四天王像二具(2組)が、「南中門」に安置されていたという内容です。大安寺に現存する塑像は在りませんので、当時の大安寺に所在した塑像について知ることのできる貴重な記録です。

それでは、「南中門」とはどの門を指すのでしょうか。『資財帳』には「南中門」の他、「南大門」、「中門」と3つの門の名称が記されていますが、それぞれ門の位置に関する記載はありません。現在までに発掘調査で確認している門は、金堂の南にある門2つのみで、位置関係から南大門、中門にあてられています。このうちのいずれかが、『資財帳』に記されている「南中門」にあたるという説があります。
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長く引用しましたが、「現在までに発掘調査で確認している門は、金堂の南にある門2つのみで、位置関係から南大門、中門にあてられています。このうちのいずれかが、『資財帳』に記されている「南中門」にあたるという説があります。」とあるではありませんか。史料には門が3つ(中門、南中門、南大門)あるというのです。そして、この報告書はこの出土した塑像を記録にある「四天王像」(南中門)と推定しているようです。

「大安寺式伽藍配置」は無かった

ここまでくれば簡単です。回廊が発している門は中門(Inner Gate)に間違いありません。塑像が「北側階段を覆う堆積土から出土」した“南大門”は中門のすぐ南にあり、中門と“南大門の間に他の門が建つ余地はありません。そして、その“南大門の南に東西の「塔院」があります。「大安寺式伽藍配置」など創作しなくてもよいのです。従来通りの寺院の伽藍配置に従えば、“南大門としたのが誤りで、これは記録にある「南中門」に違いなく、「塔院」の南に発掘されていない「南大門」が存在するのです。論理的に考えればそうとしか考えられないのです。誰なのでしょう。「大安寺式伽藍配置」を創作したのは。この「仮説:大安寺式伽藍配置」は間違っています。「このうちのいずれかが、『資財帳』に記されている「南中門」にあたるという説があります。」とありますが、これもおかしいのです。「“南大門とされているのが「南中門」にあたる」と言えるのです。誰に遠慮しているのでしょう。不思議です。古代史学界では、誰か“偉い学者”が言い出すと皆「右へならえ」をする風習があるように思われます。私はアマチュアなので学者の“権威”など恐れません。誰が唱えようと「仮説は仮説」なのですから。

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