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2017年7月30日 (日)

作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論 ―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―

作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論

―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―

 

「寺院の伽藍配置様式」考―似ている別様式の存在理由-において、次の仮説を述べました。


似ているが少し違う様式がなぜ存在するかといえば、ある様式はそれと似た様式と連なっており、しかしそれぞれが違った別の様式として残っている以上、その様式を採用した人たちが、意識的にせよ無意識的にせよ、その果たす役割や意味に違いがあることを知って採用しているからです。

この仮説に基づいて、伽藍様式の変遷過程につて次のような作業仮説を思いつきました。

 

基本的な潮流は次の三つのムーブメントです。

❶講堂を回廊内に取り込もうとする動き

❷塔を回廊外に放擲しようとする動き

❸金堂に回廊を取り付けようとする動き(この結果、講堂が回廊外になることが起きる)

 

私が思いついた伽藍配置の変遷は次のようになります。

(1)仏舎利が重要視されていたころ、塔を中心とした寺院が建立された。

飛鳥寺(=法興寺)

(2)仏像が尊重されてきたころ、回廊内に塔と金堂を配する寺院が建立された。

縦型寺院:山田寺式、横型寺院:法隆寺式。

(3)経典の講義に使う講堂を回廊に取り付けた寺院が建立された(❶の過程)。

縦型:四天王寺式、横型:法起寺式、観世音寺式(観世音寺、川原寺)。

このムーブメントのなかで、(2)の回廊を講堂に取り付ける改造も行われた(法隆寺西院)。

(4)仏塔の重要性が薄れていくなかで複数の塔をもつ寺院が建立された(❷の兆し)。

薬師寺式(本薬師寺)。

(5)講堂を回廊内に取り込んだ寺院が建立された(❶)。

大官大寺。この動きの中で、(3)の寺院の中に講堂を取り込もうと改造(講堂を金堂に改造し、講堂を北に新設し、それを囲う回廊・僧坊を増設)する寺院があった。

川原寺、南滋賀町廃寺。大官大寺は百濟寺以来の古式も維持しようとしているようにもみえる。

(6)(5)とは別の動きとして、(3)の寺院から塔を回廊外に出してしまう寺院も建立された(❷)。これは中門から出た回廊が講堂に取り付き、回廊内には金堂だけを配する伽藍配置(塔がない「金堂院」が構成される)で、従来説から無視されている伽藍配置様式です(“プレ国分寺式”と仮称したい)。仏像崇拝期とでもいうべき時代。

元興寺、信濃国分二寺(僧寺と尼寺)、肥後国分尼寺など。

(7)塔を回廊外に配し、回廊が金堂に取り付き、その結果として講堂が回廊外となる寺院が建立された。中門からでた回廊が金堂に取り付き、回廊内には伽藍の無い「金堂前庭院」が形成される。

東大寺式(大安寺、東大寺)、“国分寺式”(諸國国分寺の中の幾つかの国分寺)(❷、❸)。


厳密には創建年代が作業仮説通りの変遷順序になるとは限りませんが、このような流れを想定すると、様々登場する伽藍配置変遷のあらすじが見えるのではないでしょうか。

寺院が重要視する機能をもつ伽藍が、礼拝する仏舎利を収めた仏塔→経典の講義をする講堂→礼拝する仏像を納めた金堂→集団での読経する金堂前庭(大法会)、というように変遷していったのではないでしょうか。



……………追記(2017/08/03)……………
なお、金堂を囲う回廊の外に、南に双塔(4,6)北に僧坊で囲った講堂(5)を配し、回廊が金堂に取り付いた金堂前庭(7)を形成している東大寺(総国分寺)はわが国寺院の伽藍配置様式の集大成(最終形態)と呼べるのかもしれません。

東大寺の金堂北側の回廊及び僧坊院並びに西塔を除いたものが「国分二寺図」の僧寺伽藍配置で、これが正真正銘の「国分寺式」である(先行説あり)。
この「国分寺式」(東大寺式伽藍配置のサブセット版)の新造国分寺が播磨国分寺で、その伽藍配置の仕様が次であるとしたのが私の提起した作業仮説でした。

《作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置》
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/01/post-c216.html
1)回廊(内郭区画)は、縦横比が2:3の横長のもの。
2)中門からでた回廊は金堂両妻南寄りにとりつく(回廊内に伽藍なし)
(3)中門・金堂間と金堂・講堂間は等距離〔これは伽藍間距離の関係〕。
4)回廊(内郭区画)の南北幅(南辺・北辺間)と中門・南大門(内郭・外郭間)は等距離〔これは区画間距離の関係〕。
5)塔は単塔で東塔(中軸線の東)。
6)(単塔なのであるが、双塔と仮定したときの)塔心々線と金堂心の距離は、(4)の回廊南北幅(南辺・北辺間距離)の1.5倍。比で表すと3:2〔これは、「塔は中門と南大門との中間に置く」を「中心伽藍の金堂を基点として定義したもの」と思われます〕。
7)金堂中軸線と東塔の距離は、(6)の塔心々線・金堂心間距離の1.25倍。比で表すと5:4。

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コメント

勉強になります。

西村さま
コメントありがとうございます。

❶は仏教の教義が浸透していく流れ
❷は塔(仏舎利)の意義が薄れていく流れ
❸は大法会が盛んになっていく流れ
と考えています。

妄想をたくましくすれば、「金堂院」(回廊内は金堂だけ)は、
仏像崇拝が極めて高まった時期ではないかと思います。

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