「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を読んで ―中小路駿逸先生の論理の赴くところ―
「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を読んで
―中小路駿逸先生の論理の赴くところ―[論理の赴くところ][古田史学]
上記論文の私の理解(各章の要旨)を次に示します(勝手解釈です)。
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はじめに
今に伝わる『日本書紀』は、『続日本紀』が「日本紀」としているもの(「紀」三十巻、系図一巻)の系図一巻を除いた「紀」三十巻と同一形態であり、同一の書である。
『続日本紀』以外に『万葉集』の左注にも「日本書紀」・「日本紀」・「紀」とあって、「日本紀」を通称だ略称だと詮索しても意味はない。
『日本書紀』・『日本紀』のいずれが真の書名なのか、及び、「日本書紀」の名の意味が何なのかが今だに未解決である。
第一節
本居宣長は、「日本書」とは、「並ぶところある時のわざなるに、是は何に対ひたる名ぞや、ただ漢国に対へられたりと見えて、彼に辺つらへる題号なりしかし、〔云々〕」と言って“あるまじきもの”とした。宣長の理路は次の通りである。
一 「書」に国号を冠するのは、別国の存在をいうことだ。
二 わが国には別国なぞ無かった(「皇国は、天地の共遠長く天津日嗣統坐て、かはらせ賜ふことし無ければ…」)
三 ゆえに「日本書」という字面は不適当である。
宣長以外に、『日本書』という紀伝体史書を想定し、その「紀」の部分だという説まで出ている。
あってもなくてもよさそうな、というよりもむしろ、後世、宣長の反発を買うような字をつけたのはなにゆえか、問題について理路を踏んで考えてみたい。
第二節
この書物の真の書名が何であったにせよ、あってもなくてもさしつかえない「書」という文字を、この書物の名の一部としてつけた人間がいたこと、これはたしかである。問題はなぜ「書」と言う文字をつけたかである。
答えは、前例があったからである。前例とは中国史書である。宣長は『漢書』『晉書』しか挙げておらず、『三国志』の「魏書」「蜀書」「呉書」に言及していない。一つの王朝について叙述したものが「書」であり、並立した複数の王朝の全部を収めたものが「志」である。紀伝体だから「書」なのではない。紀伝体であっても、『史記』・『南史』・『北史』のように、興亡・継起した複数の王朝について叙述したものが「史」である。
宣長は、“交替”どころか“並立”もなかったとすべきで、気づきが不充分だ。
第三節
①単一の王朝のみを叙述したのが「書」である。
②名を「日本紀」としうる書物に「書」の字をふした人物がいる。
この二つの事実を並べてみると、二つの立場(歴史観)が考えられる。
一は、本居宣長と同じ歴史観(わが列島上には古来から一王朝)である。もう一つは、中国史書と同じ歴史観(複数の王朝を認める)である。
一元史観(本居宣長流)と多元史観(中国史書流)は両立しえない、不倶戴天である。故人は論争させることはできないから、根拠もしくは反証例となしうる『古事記』と『日本書紀』の記述内容が何れに合致するかを確かめれば良いだろう。そんなに時間はかからない。一元史観の本居宣長に、わが国には別国なぞ無かったという根拠を求めればすむのだ。宣長は全く根拠を示していない。
第四節
『記・紀』はいずれも、神武以前に天孫降臨によって九州に天下を治める皇孫(その子孫)がいて(天下の大きさはどうでもよい)、神武はその天下を治めていたとはされていない。そして神武が大和に苦労して侵攻し、その地を治めたとしている。つまり本流(皇孫直系)と傍流(傍系)が存在したとしている。分流が本流より格上だったということは成り立たず、むしろ本流が格上だったという解釈を『記・紀』の叙述は妨げていない。宣長の方が尊大で、『記・紀』を叙した朝廷のほうが控えめである。朝廷自体が自らの歴史の骨格を事実より控えめに書くことは、万が一にもあり得ない。よって、根拠を示さぬ宣長よりも『記・紀』の叙述のほうが真実(に近い)と判断せざるをえない。播磨国に仏教が伝来したという記述は傍流が播磨国すら統属させていない事実を示している。『日本書紀』の叙述は次の骨格を示している。
一 わが王権は、元来、九州系の一傍流に発する一分王権であった。
二 この列島上には、わが王権に先住し、あるいは並立する王権があった。
三 これらの王権のうちで、わが王権は元来最高の権威をもつものではなかったという解釈は妨げていない。
宣長の立場は単なる幻想であり、『記・紀』のしめす骨格こそ事実である。
ここに至るのは、次の方法によったからである。
一 まず、所与の対象―この場合は史料の文辞―を観察し、そこに何があり、何がないかを見きわめ、そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする。
二 そして、その対象の示すところのものが真か否かは、右のことののちに考える。
これが真実なるものに到達するための平凡かつ有効な手順である。
ところが、これに反して、宣長をはじめとする従来の日本古代史に関する人々の思考の手順は、おおむね次のようである。
❶まず、歴史について、特定の骨組みを、権威あり、かつ自明にして不動のものとして据え、これを思考の前提とする。
❷その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしてもその前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する。
❸そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えをだす。
❹この〔やり方の〕場合、史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。
❺そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切、これを問わない。
書名「日本書紀」の意味は、「この列島上において興亡し交替した、時には並立した複数の王権の一つであった時期の“わが王朝(国号『日本』のみ)”について叙述した紀伝体史書の「紀」(歴代帝王の年代記)にあたるもの」というものである。
〔「書」が何故「紀伝体」なのかと言えば、歴代帝王の年代記である「紀」を含めば、必然的に歴代帝王順に記す(紀伝体)ことになるからです。親から子、子から孫へと記述していかないと、書くにも読むにも面倒で分かりにくいものになります。〕
第五節
“六国史”(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)のうち書名に「書」の字をもつのは『日本書紀』だけである。
『日本書紀』の奏上は、元正天皇の即位(霊亀元年、七一五)から五年経過した養老四年(七二〇)である。『日本書紀』は持統天皇の皇太子への譲位で三十巻が完了しており、史書は歴史を叙述するものであるから、文武天皇・元明天皇・元正天皇の時代は現代であり、持統朝までが歴史時代とされているのである。
持統朝までが歴史時代とされる理由は、持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方政権であった大和王権が列島上唯一の代表的王権としての実態を備えた“天孫降臨”の再演にもまがう「重大な変化」があったからである。
この「重大な変化」とは『続日本紀』文武天皇五年条にある列島唯一の天子の威儀を整え、元号を制定(「大宝」建元)し、「令(大宝律令)」の施行という天子のみ行いうるという行動を、はじめてとるに至ったということ以外にない。これは外国史料とよく対応する。
結論として、書名「日本書紀」の「書」の字は、中国における先例にもかない、その書物自体の記述内容にも対応し、持統朝以前の“わが朝”の歴史の骨格を、正直に告げている。一片の幻想にもとづいてこれを不当とした宣長の見解こそ、きわめて不当なものであった。
おわりに
これ(結論)に反論するには、通念に合うように史料を解釈して提示しても無効であり、「通念それ自体の本来の根拠」を提示 しなければならない。それは不可能であろう。
一つ、つけ加える。
『古事記』の出雲に関する話の中に、『紀』には記されていない部分がある。大国主が正妻須世理毘賣のほかに、高志(越)の沼河比賣と胸形(宗像)の多紀理毘賣を娶った一段がその例である。その段のなかで、この神の正妻須世理毘賣は本文に「嫡后」と書かれているのである。「后」としているのはその夫をその国において並ぶことなき唯一の主権者として扱ったにひとしい。そしてこの八千矛の神(大国主)はのちに高天原の権力にたいして“国譲り”をしている。この話は高天原系(降臨した九州系)の権力にとって前王朝の話として扱われている。そして『紀』にはこの一段は完全に省かれている。これも、『紀』が“わが王朝のみの歴史”を叙述するための書であることの一証である。
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以上が、中小路駿逸先生の論文に対するわたしの理解です。
中小路先生の論文の要約・理解を示しただけでは面白くないので、得意の「妄想」を述べてみたい。
書名「日本書紀」の「書」の字は、中国における先例にもかない、その書物自体の記述内容にも対応し、持統朝以前の“わが朝”の歴史の骨格を、正直に告げているのであるが、なぜ『日本紀』でもよいものをそこまで厳密に書名を「日本書紀」としたのだろうか。それは唐朝(厳密には武周朝)に提出するため、唐の歴史書と内容体裁ともに整合したものとせねばならなかったからである。だから正規の(唐に提出した)書名が『日本書紀』であり、みなこれに従ったのだ。だから『日本紀』が通称となっているのだ(妄想です)。
妄想ではなく付け加えれば、『古事記』の該当段は次の通りであり、わたしが
《古田史学会報№141を読んで―正木稿「出雲王朝と宗像」に疑問―》
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/08/post-fda5.html
で示した、「正妻の須世理姫を祀っているのは出雲大社だけですので、出雲王朝の皇后は須世理姫だと考えられます(出雲王朝は須佐之男から始まる。大国主は須世理姫を娶って正系の資格を得た婿養子)。」
という見解は、『古事記』の記事と一致(史書と伝承の一致)しています。『古事記』の引用が一部だけではどこにあるかわかりませんので、前後含めて岩波文庫版より抜粋しておきます。大国主が五つ名をもつ話、「稻羽之素菟」の話、銅鐸が破壊されて鋳なおされる話、何度読んでもおもしろいですね。
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故、是以其速須佐之男命、宮可造作之地、求出雲國。爾到坐須賀〈此二字以音、下效此。〉地而詔之、吾來此地、我御心須賀須賀斯而、其地作宮坐。故、其地者於今云須賀也。茲大神、初作須賀宮之時、自其地雲立騰。爾作御歌。其歌曰、
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
於是喚其足名椎神、告言汝者任我宮之首、且負名號稻田宮主須賀之八耳神。
故、其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。〈自士下三字以音。下效此。〉又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神。次宇迦之御魂神。〈二柱。宇迦二字以音。〉兄八嶋士奴美神、娶大山津見神之女、名木花知流〈此二字以音。〉比賣、生子、布波能母遲久奴須奴神。此神、娶淤迦美神之女、名日河比賣、生子、深淵之水夜禮花神。〈夜禮二字以音。〉此神、娶天之都度閇知泥〈上〉神、〈自都下五字以音。〉生子、淤美豆奴神、〈此神名以音。〉此神、娶布怒豆怒神〈此神名以音。〉之女、名布帝耳〈上〉神、〈布帝二字以音。〉生子、天之冬衣神。此神、娶刺國大〈上〉神之女、名刺國若比賣、生子、大國主神。亦名謂大穴牟遲神。〈牟遲二字以音。〉亦名謂葦原色許男神、〈色許二字以音。〉亦名謂八千矛神。亦名謂宇都志國玉神。〈宇都志三字以音。〉并有五名。
故、此大國主神之兄弟、八十神坐。然皆國者、避於大國主神。所以避者、其八十神、各有欲婚稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神負帒、爲從者率往。於是到氣多之前時、裸菟伏也。爾八十神謂其菟云、汝將爲者、浴此海鹽、當風吹而、伏高山尾上。故、其菟從八十神之教而伏。爾其鹽隨乾、其身皮悉風見吹拆。故、痛苦泣伏者、最後之來大穴牟遲神、見其菟言、何由汝泣伏。菟答言、僕在淤岐嶋、雖欲度此地、無度因。故、欺海和邇〈此二字以音。下效此。〉言、吾與汝競欲計族之多小。故、汝者隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上、走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云、汝者我見欺言竟、即伏最端和邇、捕我悉剥我衣服。因此泣患者、先行八十神之命以、誨告浴海鹽、當風伏。故、爲如教者、我身悉傷。於是大穴牟遲神、教告其菟、今急往此水門、以水洗汝身、即取其水門之蒲黄、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差。故、爲如教、其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故、其菟白大穴牟遲神、此八十神者、必不得八上比賣。雖負帒、汝命獲之。
於是八上比賣、答八十神言、吾者不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。故、爾八十神怒、欲殺大穴牟遲神、共議而、至伯岐國之手間山本云、赤猪在此山。故、和禮〈此二字以音。〉共追下者、汝待取。若不待取者、必將殺汝云而、以火燒似猪大石而轉落。爾追下取時、即於其石所燒著而死。爾其御祖命、哭患而、參上于天、請神産巣日之命時、乃遣[討/虫]貝比賣與蛤貝比賣、令作活。爾[討/虫]貝比賣岐佐宜〈此三字以音。〉集而、蛤貝比賣待承而、塗母乳汁者、成麗壯夫〈訓壯夫云袁等古。〉而出遊行。於是八十神見、且欺率入山而、切伏大樹、茹矢打立其木、令入其中、即打離其氷目矢而拷殺也。爾亦其御祖命、哭乍求者、得見、即折其木而取出活、告其子言、汝者有此間者、遂爲八十神所滅、乃速遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神、覓追臻而、矢刺乞時、自木俣漏逃而云、可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言、甚麗神來。爾其大神出見而、告此者謂之葦原色許男、即喚入而、令寢其蛇室。於是其妻須勢理毘賣命、以蛇比禮〈二字以音。〉授其夫云、其蛇將咋、以此比禮三擧打撥。故、如教者、蛇自靜。故、平寢出之。亦來日夜者、入呉公與蜂室、且授呉公蜂之比禮、教如先。故、平出之。亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢。故、入其野時、即以火廻燒其野。於是不知所出之間、鼠來云、内者富良富良〈此四字以音。〉外者須夫須夫。〈此四字以音。〉如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也。其矢羽者、其鼠子等皆喫也。於是其妻須世理毘賣者、持喪具而哭來、其父大神者、思已死訖、出立其野。爾持其矢以奉之時、率入家而、喚入八田間大室而、令取其頭之虱。故爾見其頭者、呉公多在。於是其妻、以牟久木實與赤土、授其夫。故、咋破其木實、含赤土唾出者、其大神、以爲咋破呉公唾出而、於心思愛而寢。爾握其大神之髮、其室毎椽結著而、五百引石、取塞其室戸、負其妻須世理毘賣、即取持其大神之生大刀與生弓矢、及其天詔琴而、逃出之時、其天沼琴、拂樹而地動鳴。故、其所寢大神、聞驚而、引仆其室。然解結椽髮之間、遠逃。故爾追至黄泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰、其汝所持之生大刀、生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮〈二字以音。〉爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山〈三字以音。〉之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、〈此四字以音。〉於高天原氷椽多迦斯理〈此四字以音。〉而居。是奴也。故、持其大刀、弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。故其八上比賣者、如先期美刀阿多波志都。〈此七字以音。〉故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺狹木俣而返。故、名其子云木俣神、亦名謂御井神也。
此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇 阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能加多理其登母 許遠婆
爾其沼河比賣、未開戸、自内歌曰、
夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆
阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 恵美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆
故、其夜者、不合而、明日夜、爲御合也。
又其神之嫡后須勢理毘賣命、甚爲嫉妬。故、其日子遲神和備弖。〈三字以音。〉自出雲將上坐倭國而、束裝立時、片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、
奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟敍 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆
爾其后、取大御酒坏、立依指擧而、歌曰、
夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
如此歌、即爲宇伎由比〈四字以音。〉而、宇那賀氣理弖。〈六字以音。〉至今鎭坐也。此謂之神語也。
故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神、多紀理毘賣命、生子。阿遲〈二字以音。〉鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。亦娶八嶋牟遲能神〈自牟下三字以音。〉之女、鳥耳神、生子。鳥鳴海神。〈訓鳴云那留。〉此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神、〈田下毘又自伊下至邇皆以音。〉生子、國忍富神。此神、娶葦那陀迦神、〈自那下三字以音。〉亦名、八河江比賣、生子、速甕之多氣佐波夜遲奴美神。〈自多下八字以音。〉此神、娶天之甕主神之女、前玉比賣、生子、甕主日子神。此神、娶淤加美神之女、比那良志毘賣、〈此神名以音。〉生子、多比理岐志麻流美神。〈此神名以音。〉此神、娶比比羅木之其花麻豆美神〈木上三字、花下三字以音。〉之女、活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。〈美呂二字以音。〉此神、娶敷山主神之女、青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。〈度美二字以音。〉此神、娶天狹霧神之女、遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。
右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。
……………………………………………………………………………………………………
なお、肥さんが「ヤバイ書名」One of them(ワン・ノブ・ゼム)と興奮しているのは、「書」としたのだから他王朝を前提している、だから九州王朝の傍証になる、という感じなのかも知れませんが、私は次のように考えています。
集合論で集合を表すとき、内包的定義{x|xは・・・}と外延的定義{a,b,c,d,e,f,…,x,…}とがあります。「〇〇書」というのは、「書」という集合の元(要素)を取り出しているもので、とりたてて他の元(要素)の存在を主張しているのではないと考えます。文書という集合を考えると、「〇〇航空機事故調査報告書」は「〇〇航空機事故調査報告」である文書(内包的定義に該当する元)を表し、「環境調査中間報告書」は「環境調査中間報告」である文書を示しているだけです(最終報告もあるだろうという推測は可能ですが、しかし、最終報告書の存在・実現を保証してはいません)。
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山田さんへ
中小路駿逸氏の論文に対しての要約・理解にとどまらず,
その論理の赴くところ,ご自身の「妄想」を展開されているのが素晴らしいです。
私の「One of them(ワン・ノブ・ゼム)」的理解は,浅いものでした。
ありがとうございました。
投稿: 肥さん | 2017年8月19日 (土) 21時47分
肥さんへ
コメントありがとうございます。
ひとえに肥さんが論文を見つけ出して下さったおかげです。
>私の「One of them(ワン・ノブ・ゼム)」的理解は,浅いものでした。
この肥さんの興奮でわたしはかなり考えたことを告白せねばなりません。
いい「頭の体操」になりました。ありがとうございます。
なんといっても「肥さんの夢ブログ」はわたしの必需品です。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿: 山田 | 2017年8月19日 (土) 22時27分