「飛鳥時代」なんていらない
「文化と時代」考
― 「飛鳥時代」なんていらない
―
「時代」の定義は比較的簡単です。「何時(いつ)から何時(いつ)までの時期」と時間で定義されるべきものだからです。
「時代」の定義に比べると「文化」の定義は困難を伴います。その理由は、人々がその属する社会(人の集合)の中で身につけた共通する習慣(behavior、振る舞い方)及びその習慣からのアウトプット(生産物や製品)の総体が「文化」であるため、研究者によって着目する対象が異なれば文化の定義も違ってきてしまうからです。
人の活動は均一ではありません。弥生時代といわれる時間帯において、地域によっては鉄器を使い、土師器(庄内土器)も縄文土器も使い、磨製石器もまだ使っていることもあるでしょう。ではその地域の文化は、何文化(古墳文化・弥生文化・縄文文化・新石器文化)なのでしょうか。おそらく研究者によって見解が異なるものと思います。
私は、古代を論じていながら、恥ずかしい話ですが去年まで次のことに気づいていませんでした。
「飛鳥文化」の時代が「飛鳥時代」ではない
わが国の時代区分は次のようになっています。
旧石器時代:打製石器の時代(約3万5千年前~)
(新石器時代:磨製石器の時代、わが国では縄文時代に含まれます。)
縄文時代: 約1万5千年前(温暖化・縄文海進)~紀元前10世紀前半まで
弥生時代:紀元前10世紀後半(九州北部で水稻耕作)から紀元後3世紀半ばまで
古墳時代:3世紀半ば過ぎから平城京に遷都(710)するまで
奈良時代:和銅三年(710)から平安京に遷都(延暦十三年(794))するまで
平安時代:延暦十三年(794)から守護・地頭設置権確立(文治元年(1185))まで
鎌倉時代:文治元年(1185)から鎌倉幕府滅亡(元弘三年・正慶二年(1333))まで
〔以下割愛〕
「飛鳥時代」は「乙巳の変」(645)~「壬申の乱」(672)
つまり「飛鳥時代」というのは古墳時代の一部分を特別にこう呼んでいるだけです。
では、文化史的区分はどうなっているのでしょうか。次のようです。
飛鳥文化:およその時代は、仏教公伝(533説・552説)~「乙巳の変」(645)
その特徴:南北朝の文化影響があり国際性豊か(法隆寺・法興寺・難波天王寺)
白鳳文化:およその時代は「乙巳の変」(645)~平城京遷都(710)まで
その特徴:おおらかなさわやかさ、倭風文化(薬師寺・高松塚古墳壁画・万葉仮名)
天平文化:およその時代は、平城京遷都(710)~8世紀の中頃(天平年間(729~749)を
最盛期とする奈良時代の文化)
その特徴:壮大で華やかな貴族文化(唐招提寺・東大寺四天王像・興福寺阿修羅像)
文化と時代の奇々怪々
飛鳥文化は古墳時代の文化
白鳳文化は「飛鳥時代」の文化
このような奇怪なことになっています。その原因は、次のことにあります。
❶古墳時代という時代区分の中に「飛鳥時代」という特別な時代を設けたこと。
❷時代区分が、考古学上の時代区分「古墳時代」に寄りかかっていること
❸時代特徴がある文化の性格を把握できていないため、「白鳳文化の時代が飛鳥時代」という奇妙な結果となっている。
❹
一元史観なので、時代を政治区分できていない、つまり、ローカル(ヤマト偏重)かつ不完全な時代区分をしていること(『日本書紀』に登場する倭年号(九州年号)のように断片的)。
本来なら「白鳳文化」の時代が「白鳳時代(661~683)」というべきではないでしょうか。厳密には白村江敗戦(663)~大宝建元に至るまで(700)が「白鳳時代(倭国(九州王朝)が滅亡していく時代)」なのかも知れません。
結語
「飛鳥時代」という恣意的で不完全な時代区分は不要です。
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