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2018年1月13日 (土)

実験古代船「野生号」の錯覚― 櫂(オール)で渡れるはずがない―

実験古代船「野生号」の錯覚
― 櫂(オール)で渡れるはずがない―

「野性号」とは、1975年、角川書店社長 角川春樹
氏が企画した、魏志倭人伝の渡海に使った冒険実験古代船です。櫂(オール)による人力だけで渡海を試みました。しかし、「野生号」は曳航しなければ「朝鮮海峡」(釜山→対馬)を渡れませんでした。

「野生号」の航路は、韓国・釜山(「朝鮮海峡」、対馬海峡西水道、最時速6km対馬島(倭人伝「瀚海」、対馬海峡東水道、およその流速時速2km)壱岐島(「玄界(灘)」)呼子(玄界(灘)沿岸~博多湾)博多でした。

対馬暖流は、対馬海峡の西水道と東水道から入り込むときの速さはおおよそ時速2kmで、西水道(「朝鮮海峡」)では最流速が時速6kmになるそうです。日本海に入れば時速2kmくらいになり津軽海峡を抜けて太平洋に出ます。

私が何を言いたいかといえば、縄文時代から撚絲(よりいと)はあり、弓矢の弦(つる)もあり、漁労網もあるので、当然に布も(莚・ゴザ程度のものでも)編めるはずです。布と綱(撚絲でつくれる)があれば「帆」がつくれます。丸木舟だとしても外側にフロート(アウトリガーoutrigger)をつければ安定は増し、帆を張っても転覆しないはずです。

人類が海を渡るとき、オール(櫂)で漕ぎ渡ったと考えるのは間違っています。」という動力を使わず航海ができると考えていることにそもそもの間違いがあるのです。私は多くの考古学者とは考えが違い、人類が海を渡るとき使う舟は「帆船」であったと考えています。津軽海峡も例外ではありません。

【『三国志』魏書倭人伝(抜粋)】
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倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘

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古代史」カテゴリの記事

コメント

ということは,実験古代船「野生号」は,
ものすごい成果を古代史研究にもたらしたということになりますね!
いわく「古代の人たちも,帆船を作っていた」という。

肥さん
コメントありがとうございます。

〉実験古代船「野生号」は,
ものすごい成果を古代史研究にもたらした

そうかもしれません。
しかし、参考にした学説はオール(櫂、人力)説で、
縄文時代には帆は使っていなかったとの考えであり、
「帆を使って航海していた」というのは「地動説」のようで、
いまだに考古学界の認識は改まっていないようです。

“帆船”という言葉の響きが大型船をイメージするので、
単に「帆を使って航海をしていた」といった方がいいかもしれません。

妄想の域に踏み込めば「天鳥船」というもそれだったかも・・・。
鳥には翼が有り、気流をとらえて利用しますから。
また、「天磐樟船」というのはキール(keel、船底竜骨)に堅く重い櫲樟を、
さらにキールに石板のバラスト(ballast、錘)をつけた帆船かもしれません。
帆を張ると倒れやすくなるので船体が戻るような錘をつける必要があります。

古代の人の技術は道具に比して高度だったと思います。
現代でも当時の道具ではどう実現したか解らない(再現できない)ことが
とても多いようです。もちろん現在の道具を用いれば再現できるのですが。

倭人の舟は仰る通りだっただろうと思います。僕は当時の交易は倭人の舟ではなく中国の船を使っていたのではないかと思っています。つまり準構造船ではなく構造船です。魏志倭人伝は三国志の中の東夷伝倭人条ですが、三国志の中には有名な「赤壁の戦い」があります。ここで魏が使っていた船は3階建ての構造船です。倭との交易ではそこまで大きな船ではなかったかもしれませんが、いやしくも中国の使者は偉い人です。遭難の危険を犯してまで倭国に来る必要はありません。なので逆に言えば野生号とは比較にならない安全な船で来ていたのだと思います。

としちゃんさま
閲覧・コメント・ご教示、ありがとうございます。

>三国志の中には有名な「赤壁の戦い」があります。ここで魏が使っていた船は3階建ての構造船です。
>中国の使者は偉い人です。遭難の危険を犯してまで倭国に来る必要はありません。なので逆に言えば野生号とは比較にならない安全な船で来ていたのだと思います。

なるほど。魏の明帝からの贈答品(銅鏡百枚など)を邪馬一国の女王俾彌呼に届けるのに、渡海で遭難してしまっては一大事ですものね。
 ということは、魏使達は、出発時から魏の構造船を使用していて、「ある目的」で半島を陸行した。そして、魏使達を陸揚げした構造船は、済州島(投馬国:石田泉城さまの説)を回って「狗邪韓国」で陸行した魏使達の到着を待っていた。こういう可能性もありますね。
有力な仮説の可能性を含んだご教示、ありがとうございます。
今後とも宜しくお願いいたします。

記事、拝見いたしました。

当時の舟が帆船かどうかはわかりませんが、野性号の実験が失敗したのは文献学者の誤読によるものだと考えています。

釜山から対馬に渡ったのではなくて、半島にそって水行し、ある程度のところまで行ったら離岸し、海流に流される感じで対馬に向かったのです。倭人伝原文を正確に読めばそう記されています。

水さま
閲覧とコメントありがとうございます。
また、コメントチェックを怠り、頂いたコメントの公開が遅れたことをお詫び申し上げます。

最初に申しあげたいことは、私の記事は「(魏使達が)櫂(オール)で朝鮮海流を漕ぎ渡った(できた)ことを実証する試み」であった野性号は「櫂(オール)では朝鮮海流を漕ぎ渡渡れなかったので、実証することに失敗した」という意見です(実証実験の失敗ということで、本質的には倭人伝の解釈とは無関係なのです)。

まず、「野性号の実験が失敗したのは文献学者の誤読によるもの」とのご指摘についてですが、❶「文献学者の(帆船を用いなかったという)誤読」によってそれに依拠した「野性号の実験が失敗した」、と言うものか、❷「野性号の実験が失敗した」とするのは「文献学者の(『三國志』魏志倭人伝を)誤読」した解釈によっているからだ、と言うものかが私には判断が付かなかったことを一言申しておきます(❷ではないかと推測してはいるのですが・・・)。

それはさておき、「釜山から対馬に渡ったのではなくて、半島にそって水行し、ある程度のところまで行ったら離岸し、海流に流される感じで対馬に向かった」「倭人伝原文を正確に読めばそう記されています。」というご意見について、違和感がありましたので述べさせていただきます。

『三國志』魏書 烏丸鮮卑東夷傳 倭人条には、帯方郡より倭までの行程について、「從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對馬國。」とあり、古田史学では「歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,」を「ジグザグに(「乍南乍東」)七千餘里を陸行して(海峡国家である倭国の)北岸狗邪韓國に至る」と理解しています。もちろんこの部分だけなら、ご意見のように「半島にそって水行し、ある程度のところまで行ったら離岸し、海流に流される感じで対馬に向かった」と言う解釈もできなくもないでしょう(そうだとすると「始度一海,千餘里至對馬國。」の解釈は苦しい)。

ところが、「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。(中略)自郡至女王國萬二千餘里。」とあり、「水行十日,陸行一月。」と陸行に一月要したと書かれています。また「帯方郡より女王の都する邪馬壹國まで萬二千餘里。」と総里数が記されています(魏・晋朝の一里は約75m程度の「短里」です)。

陸行を拾ってみます。對馬國(「方可四百餘里」)を半周800里+一大國(「方可三百里」)を半周600里+末盧國(「東南陸行五百里」)から伊都國500里+伊都國(「東南至百里」から奴國100里+奴國(「東行至不彌國百里」)」から不彌國(女王国に隣接)100里=2,100里となります。
一里約75mで換算すると2,100里は157,500m(約158㎞)です。これを「陸行一月」というのですから、ひと月が小月(29日)としても、一日あたり約5,431m(約5.431㎞)だけ進んだことになります。歩いても1時間あれば移動できる距離です。辻褄が全く合っていません。

一方、朝鮮半島を一月かけて陸行したとします。狗邪韓國から對馬國まで1,000余里(「始度一海,千餘里」)+對馬國から一大國まで1,000余里(「又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國」)+一大國から末盧國まで1000余里(「又渡一海,千餘里至末盧國」)=3,000余里(朝鮮半島の狗邪韓國から九州島の末盧國まで水行した距離)。ここまで陸行水行の計は10,000里です。

すなわち、朝鮮半島内陸行7000余里+半島から九州島への水行距離3,000余里+對馬國から不彌國までの陸行距離2,100里=12,100余里(総里数)

「余(あまり)」という漢字は「不明な数」(わかっていない数)には用いません(割り算の答えの「商」と「余」)。知っている数(既知の数)をある単位以下を省いて表示するときに用います(その点はおおよその程度・分量を表す「許(ばかり)」と異なります)。ですから、12,100余里は千里単位で表示すれば12,000余里(「自郡至女王國萬二千餘里」)と表示できます。

私の拙い理解とは多少異なりますが、半島陸行という解釈では共通する正木 裕 氏の論稿 『倭人伝』の里程記事は正しかった 「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算 (2014年 4月6日 古田史学会報 121号 掲載)も参照なさってください。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho121/kai12106.html

もちろん、貴方さまの全水行説で「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。(中略)自郡至女王國萬二千餘里。」が矛盾なく合理的に理解できる解釈が成り立つのであれば、それも一説を形成できると思います。
改めて「萬二千餘里」の内訳を確認することができましたので感謝しております。コメントのご投稿ありがとうございました。

参考として魏志倭人伝の原文を掲載しておきます。
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《『三國志』卷三十 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十 東夷 倭 [底本:宋紹興本]》
倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。計其道里,當在會稽、東冶之東。其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與儋耳、朱崖同。倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟臥息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。其行來渡海詣中國,恆使一人,不梳頭,不去蟣蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。若行者吉善,共顧其生口財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。有獮猴、黑雉。其俗舉事行來,有所云為,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。其會同坐起,父子男女無別,人性嗜酒。見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。婦人不淫,不妒忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者沒其妻子,重者滅其門戶。及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣國,國有市,交易有無,使大倭監之。自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。下戶與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬。對應聲曰噫,比如然諾。

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑眾,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羌。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!

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