妄想「元興寺」考― なくせない寺「元興寺」 ―
妄想「元興寺」考
― なくせない寺「元興寺」―[妄想][古代史]
元興寺・法興寺・飛鳥寺については様々に論じられています。
曰く、
❶元興寺は蘇我氏が飛鳥に建立した法興寺の後身である。つまり別名が三つある。
(法興寺が平城京に遷ると元興寺になり、飛鳥の法興寺も残って飛鳥寺・本元興寺に。)
曰く、
❷本当は蘇我氏が建てたのが元興寺で、『日本書紀』がそれを法興寺と偽った。
(だから、法興寺が平城京に遷ると元興寺となるので、法興寺は別の寺である。)
法興寺=飛鳥寺というのは定説のようです。となれば、問題は元興寺と法興寺は同じ寺なのか否かということです。
❶への疑問は、①なぜ平城京に元興寺の寺名で移さねばならないのか?ということです。法興寺であるなら平城京へ法興寺として移転すればよいではないか、ということです。①への一つの答えは、「始徙建元興寺左京六条四坊」(『続日本紀』靈龜二年(716年)五月条)〔元興寺を始めて(平城京の)左京六条四坊に徙建(うつした)つ。〕とあるから、元興寺がなくなってしまうので、法興寺を遷して元興寺としたのだろう、というものです。もうひとつの答えが次の「❷だから」というものです。
❷への疑問は、②なぜ『日本書紀』が蘇我氏の元興寺を法興寺と偽らねばならなかったのか?ということです。②への一つの答えは、再建された法隆寺は九州王朝の法興寺を移築したものだからそれを隠蔽するためである、というものです。
なるほど、一見するとそれなりの説得力をもっているように見えます。しかし私は次のような理由で腑に落ちませんでした。
❶に対しては元興寺がなくなって困る理由が説明されていません。❷に対しては法隆寺の移築元を法興寺としたために、蘇我氏の飛鳥寺を元興寺に(つまり自説に都合がよいように)原文改訂したように思えます。
『日本書紀』の記事を原文改訂せずに解釈してみることにします。
「元興」と「法興」
この二つの寺名において、どちらが寺の名として「始源的寺名」なのでしょうか。
「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。(Wikipedia)
Wikipediaの説明は「日本で最初に」とありますので、❶説(元興寺=法興寺)に立っているようです(別寺ならば「最初」が二つあることになってしまう)。また、「仏法が興隆した寺院」というのはおかしな説明です。まるで寺名が後世につけられたかの如く書いてあります。創建するとき(造営を始める前に)に寺名をつけるはずですから、「仏法を興隆する寺院」あるいは「仏法を興す寺院」であるとの意である、と説明するべきです。さらに、どちらも「仏法を興す寺」という意味だとしたら、「法興」も「元興」違いが無いことになります。ことばが違うのは、区別する(「意味」あるいは「もの」の違いを表す)ために違ったことばを使うのだと私は考えます。下品な喩ですみませんが、「みそ」と「くそ」は違うのです。Wikipediaの説明は「みそくそ」です。
そこで、「元興寺」と「法興寺」という寺名について妄想してみました。
法興寺…「佛法を興す寺院」という意味。
元興寺…「佛法を興す元にする寺院」という意味。元祖ということです。
以上から「法興寺」より「元興寺」の方がより「始源的寺名」であり、「法興寺」より「元興寺」の方が「仏法にとって重要な寺名」なのだと思います。「日本で最初に」という言葉を使うのであれば、「元興寺」こそがそれにふさわしい寺院名なのです。したがって、寺院名からは「法興寺」より「元興寺」の方が先に建立された寺院であることになります。
とすれば、仏教を奉ずる王朝であるなら、王朝交代があろうと(いや王朝交代時であればなおさら)、「元興寺」という寺名は継承すべき重要な寺院名であると言わねばなりません。
創建記録が無かった!
ここで「肥さんの夢ブログ(中社)」http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/の肥さんが駆使される「無かった」の論理を使います。
法興寺の創建は記録がありますが、元興寺には創建の記録がありませんでした。
『日本書紀』からそれぞれの初出記事を抜粋します。
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【法興寺】
《崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月》
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣、〈闕名字。〉倶率軍兵、從志紀郡、到澁澁河家。大連親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨。其軍強盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、參廻却還。是時、廐戸皇子、束髪於額、〈古俗、年少兒年、十五六間、束髪於額。十七八間、分爲角子。今亦爲之。〉而随軍後。自忖度口、將無見敗。非願難成。乃斮斮取白膠木、疾作四天王像、置於頂髪、而發誓言、〈白膠木、此云農利泥。〉今若使我勝敵、必當奉爲護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣又發誓言、凡諸天王・大神王等、助衞於我、使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔、流通參寶。誓已嚴種々兵、而進討伐。爰有迹見首赤檮、射墮大連於枝下、而誅大連并其子等。由是、大連之軍、忽然自敗。合軍悉被皁衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原、改姓換名者。或有逃亡不知所向者。時人相謂曰、蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計、而殺大連矣。平亂之後、於攝津國、造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田莊。以田壹萬頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地、起法興寺。
【元興寺】
《推古天皇十四年(六〇六)四月》
十四年夏四月乙酉朔壬辰〔8日〕、銅繍丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像、高於金堂戸、以不得納堂。於是、諸工人等議曰、破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工、以不壞戸得入堂。即日、設齋。於是、會集人衆、不可勝數。自是年初毎寺、四月八日七月十五日設齋。
〔創建年が記されていないが元興寺の金堂は既に出來上がっていた。銅繍丈六佛像が元興寺に納められたこの日(JD 1942539、小満(中))から全ての寺で毎年4月8日齋會(花祭り、釈迦牟尼の誕生日)及び7月15日齋會(盂蘭盆會)が開始されている。〕
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元興寺はこのように創建の記事がなく、いきなり丈六佛像が金堂に入るの入らないのという、なんとも唐突で不審な説話とともに登場しています。本来、金堂は佛像を安置し礼拝するために建てられるもので、本尊は既にあったはずなのに、あとから佛像が入る入らないなどというのは滑稽で奇妙な話といわねばなりません。
法興寺は初出以外にもかなりの回数で登場しますが、元興寺は次の記事と併せて二ヶ所しか登場しません。
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【元興寺】(『日本書紀』では二度目で最後の記事)
《推古天皇十七年(六〇九)五月》
五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍、二人、而副百濟人等、送本國。至于對馬、以道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。
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百済人を本国(百済)に送り返すとき、對馬に至ってから十一人が留ることを上表し、元興寺に住まわせたという話です。これは元興寺が對馬の近くにないと不自然な話ではないでしょうか。元興寺が例えば飛鳥(奈良県)にあると解釈すると、わざわざ飛鳥(奈良県)に戻させたことになりますし、百済人が對馬に至ってから上表した意味が不明となります。そんな解釈はわざわざ解読不能にしている解釈と言えます。百済人は(同じ留まるなら百済に近い場所に留まりたかったから)對馬に至ってから上表したのであり、對馬の近くに元興寺があるからそこに住まわせた、と解釈すれば何の不自然さもありません。
以上から私は、元興寺は法興寺より以前に創建された九州にあった寺院だと考えます。
妄想を暴走させれば、九州王朝の元興寺は近畿地方のどこかに移築され、そこから更に平城京に遷されたと考えます。
元興寺(九州)→元興寺(近畿のどこか)→大安寺(平城京左京六条四坊)
これは元興寺が大安寺になったという意味ではありません。「元興寺を平城京左京六条四坊に徙(うつ)し建つ」と『続日本紀』にあり、711年に焼亡した藤原京大官大寺(高市大寺)を平城京に遷す(大安寺=平城京大官大寺)とき、元興寺の伽藍を移築したということです。
そして、「元興寺」という寺院が失われないように、“ヤマトの元興寺”(蘇我氏の「法興寺」)を移築して平城京「元興寺」としたのだと考えます。王朝交代時には重要な寺院であった「元興寺」ではあったけれども、「日本国」となって歳月を経れば不要な寺院と化していったと思われます。
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山田さんへ
東京の肥さんです。
「無かった」の論理のご活用,ありがとうございます。
「下手な鉄砲も・・・」ということもありますので,
ぜひごヒイキをお願いいたします。
投稿: 肥さん | 2018年2月 3日 (土) 04時02分
肥さんへ
この「無かった」の論理はとても強力です。
これからも活用させていただきます。
ご指導よろしくお願いいたします。
投稿: 山田 | 2018年2月 3日 (土) 21時13分