信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた
論理の赴くところ(その10)
―信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた―
上田市在住の吉村八洲男さまが提起された「“信濃国分尼寺”とされている○○寺は信濃国分僧寺創建以前からあった寺院」という命題について、私は次の諸事実を考慮すれば、間違いのない命題であると確信しています。考古学的出土物ではなく、論理的にそうでしかありえないのです。
〖中軸線の方位の違い〗
僧寺と〇〇寺は中軸線の方位が異なっている。これは造営時期が違うこと(時期が違えば造営主体の違いも考えられるが)を示している。造営時期の前後関係は、次の〖僧寺の“参道”〗で判断できる。少なくとも「同時期ではない」ことは確かなのだ。
〖僧寺の“参道”〗
信濃国分僧寺の中軸線に近い細い方の“参道”(中門から南大門(心より少し西寄り)を通る、参道ではないだろうがこう呼んでおく)は○○寺の方位と同じである。僧寺建立前からあった道と考えられる。○○寺が先とすれば説明がつくが、僧寺が先に建立されたとすると何故この方位で“参道”をつくったか説明がつかない。○○寺と僧寺の間の北側にある田の畔もいくつか○○寺と同じ方位であり、僧寺の寺域の中(北西隅)にも存在している。
〖中門(内郭)と南大門(外郭)の距離〗
塔の有無に関わらず、〇〇寺は外郭区画(南大門)と内郭区間(中門)の距離が狭い(金堂~中門>中門~南大門)が、僧寺は広い(金堂~中門<中門~南大門)。南大門と中門の間が狭い〇〇寺の方が古式寺院の様相を保っている。どちらが古い様式に近いか、ということだ。
〖回廊基壇(外側)の縦横比3:2〗
○○寺が古式縦型寺院ならば、どこかに3:2の区画比があるはずと考えて探したところ、回廊の基壇外側が東西幅2に対して南北幅が3の割合であった。これも古式寺院の様相を保っている。僧寺はこのような比はどこにも見出せない。これは、「第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図」で判明した。
なお、上田市立信濃国分寺資料館編『―常設展示解説―上田地方の古代文化』にある「信濃国分僧寺・尼寺の伽藍配置図(奈良時代)」(-37-)は、寸法が全く信頼できない図であることをお断りしておきます。これは奈良国立文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」データベースからダウンロードできます。(『―常設展示解説―上田地方の古代文化』は↓こちらから)
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?all=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%8C%96
〖房(僧尼の居室)の面積〗
狭い推定の僧房288.0㎡<“尼房”291.6㎡<広い推定の僧房316.8㎡となっており、○○寺と僧寺の房(居室)の面積がそれほど違わない。聖武天皇の詔では、僧寺には二十人、尼寺には十人の僧尼を置くと定めがあり、「この定めは守られなかった(信濃だけ?それとも全国で?)」としない限り説明がつかない。これは森郁夫氏が問題と考えたと吉村さまが既に指摘されたことだ。
「僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名為法華滅罪之寺。」(『続日本紀』、天平十三年(七四一)三月乙巳〔24日〕、聖武天皇の詔より抜粋)
○○寺の“尼房”跡は「検出された栗石群の配列から、中央に8mの間を置いて、東西に5間の建物が想定され、全体で間口44m、奥行き8.1mの規模と推定された。」(上田市立信濃国分寺資料館編集発行『2014年 企画展 信濃国分寺跡 発掘五十年』、平成26年9月26日、「第63図 尼寺跡の検出遺構と堂宇想定図」-33-より)
中央8mは居室空間ではないから、間口は3.6m×5間+8m+3.6m×5間=44mなので、房(居室)の面積は3.6×10間×8.1m=291.6㎡である。
僧寺の僧坊跡は「金堂と講堂を結ぶ中軸線から東約50~60mに石塊群が広がる区域があり、礎石と栗石と思われるものが数か所あり南北に長い建物跡が推定され、僧坊跡と推定された。その規模は、東西は4間(9.6m)、南北は中央に幅4.2mの馬道を置いて、左右に3.3mの間隔で5間、全長34.2mを想定した。」(上田市立信濃国分寺資料館編集発行『2014年 企画展 信濃国分寺跡 発掘五十年』、平成26年9月26日、「第69図 僧房跡遺構図」-39-より)
僧房の数値は間違っている。馬道4.2mが間違っていないと仮定すれば、3.3m×5間+4.2m+3.3m×5間=37.2mであるか、または3.0m×5間+4.2m+3.0m×5間=34.2mのどちらかであろう。広い方をとると房(居室)の面積は3.3m×10間×9.6m(4間)=316.8㎡である。狭い方をとれば3.0m×10間×9.6m(4間)=288.0㎡である。
〖僧寺と〇〇寺の距離〗
僧寺と“尼寺”の距離が近すぎる。研究史においても「また、国分寺の北西約200mの地字政所を国府と考えたほか、西南200mほどにある尼寺跡伝承地を尼寺と認めながらも、僧寺に近すぎることに疑念を抱き、…〔以下略〕」(上田市立信濃国分寺資料館編集発行『2014年 企画展 信濃国分寺跡 発掘五十年』、-5-より)とある。
「僧寺築地と尼寺築地までは約40.00mで近接している。」(上田市立信濃国分寺資料館編『―常設展示解説―上田地方の古代文化』、「信濃国分寺の伽藍地と伽藍の規模」-37-より)
〖単廊と複廊〗
〇〇寺は単廊、僧寺は複廊である。
「飛鳥・藤原京時代の寺院は単廊ばかりで、宮城(きゅうじょう)以外には複廊形式は使われていません。」(宮本長二郎著・イラストレーター穂積和夫『【新装版】
平城京 古代の都市計画と建築』(草思社、2010年3月5日、P.84より)
〖講堂両妻に取り付く回廊の位置〗
○○寺は単純に中央に取り付いている。人の思考傾向を考えれば、南寄りに取り付く形の後に中央に取り付く形を考えたとするよりも、中央に取り付く形の後に南寄りに取り付く形を考えたとする方が自然だと思う。これは感覚の問題だから、「俺は違う」と強弁する方もいるかもしれない。それを否定する気はないが、そう考えるのは“我を張ったへそ曲がり”だとは思う。私は素直に考えることを心掛けている。
論理の赴くところ
〇〇寺は信濃国分僧寺以前に造営された寺院だとしても、このようなこと全てに何ら矛盾がない。これが「論理的帰結」である。だから、〇〇寺が信濃国分僧寺の後に造営された何らかの事実を示さない限り、上記の事柄にいくら反論してもそれは「反論のための反論」であり、どんな弁を弄しようと、学問の進展に何ら貢献するものではない。
挙証責任の在処(ありか)
以上の論理的帰結にどんなに反論(たいていは屁理屈)しても、「○○寺は信濃国分僧寺より後の時代に造営された」とする挙証責任は反論する側にある。そもそも○○寺が後につくられたとする根拠は何もなく、間違っていたのだ。それを逆であるかのように錯覚してはいけない。
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コメント
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吉村八洲男さまからメールで「コメント」をいただきました(2月28日20:23着)。過分のご評価をいただき、気恥しいのですが、コメントということですので、そのままにコピー代筆させていただきます。
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吉村です。「多元」誌に掲載された「信濃国分寺」の関する私の論考にご評価を頂き感謝いたします。川端俊一郎氏の「法隆寺のものさし」に触発され、上田○○寺も中国「造営方式」が適用された(当然南朝尺)と推測したものですが、山田さんのブログはその上をいくもので、参考になりました。
特に今迄の「国府寺」研究が中軸線の差異だけに集中していたのに対し、内郭と外郭部分内の距離、古代縦型寺院に頻出する3:2という「黄金比」(回廊基壇などにも)、講堂に取りつく回廊位置の基準など様々な観点があるという論理、なるほどと思います。
対仏教観の違いが伽藍配置の差異となって行くという論考とあいまり、すばらしい展開と思われ、是非「多元」誌などで詳しくご発表下さい。改めて勉強します。それでは。
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吉村さま、コメントありがとうございます。
〉山田さんのブログはその上をいくもので、…
とんでもございません。吉村さまの論考に刺激を受け、追っかけさせて頂いているだけです。
〉内郭と外郭部分内の距離、古代縦型寺院に頻出する3:2…
これは《多元的「国分寺」研究サークル》のメンバーの方との協業で得られたものでした。
横型寺院の法隆寺にも縦横比2:3が、回廊(単廊)隅内側柱間の距離で出現します。また、新式寺院としては総国分寺東大寺大仏殿前庭を形成する回廊も縦横比が2:3です。東大寺は伽藍配置様式の総集形の様相を呈しています。
〉対仏教観の違いが伽藍配置の差異となって行く…
これは既に先学により主張されているものです。私の主張は、従来説が「正式な伽藍配置様式」として全く論じることがない「回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍様式」(○○寺、信濃国分僧寺、元興寺、いくつかの“国分尼寺” ほか)を、塔を回廊内に配置する「古式寺院」と回廊が金堂に取り付く「国分寺型新式寺院」の中間期(過渡期)に現れた伽藍配置様式として位置付けるべきだというものです。この主張が正しいとするならば、○○寺・信濃国分僧寺などは聖武詔勅以前に創建された可能性も考える必要がでる、ということです。
多元的「国分寺」研究として、今後も信濃国分二寺を考察してまいります。
つきましては、これからもご教示よろしくお願いいたします。
投稿: 山田春廣 | 2018年2月28日 (水) 23時19分