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2018年4月27日 (金)

「仮設段階・仮設建物」はたわごと

「仮設段階・仮設建物」はたわごと

―上総国分寺の例証―

 

下記記事は読まなくても掲載した図を見ていただけは判ると思います。

「上総国分寺」検討作業の中間報告(1)― 上総国分僧寺寺地区画の方位 -

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/10/post-e262.html

「上総国分寺」検討作業の中間報告(2)― 上総国分尼寺寺地区画の方位 -

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/10/post-5b0a.html

「上総国分寺」検討作業の中間報告(3)― 伽藍方位の謎・僧寺編

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/10/post-ad2b.html

「上総国分寺」検討作業の中間報告(4)― 伽藍配置図の再現に苦戦

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/11/post-9e2e.html

「上総国分寺」検討作業の中間報告(5)― 尼寺の伽藍配置座標データ

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/11/post-920c.html

で報告しましたが、当時は画像をアップできなかったので、わかりにくかったと思います。

 

僧寺と尼寺の方位の特色

以上のことから、次のようなことが考えられます。

(1)理由はまだ不明であるが、「僧寺の北辺」と「尼寺の南辺」は約170.07m幅の平行線上にあることから、同時期に掘られた(少なくとも設計と繩打ちがされた)。

(2)正方位の建物を除外すれば、7~8度東偏した寺地区画と方位を同じくするのが掘立柱建物で、やや西偏した方位を同じくするのが礎石建伽藍であることを考えると、東偏した寺地区画の方が先行する時代で、やや西偏した外郭区画の方が後の時代のものである。

(3)正確な正方位(真北)を指していないことは、磁北(磁石が示す北極)を使っている

(真北を得る天文観測技術を持っていないことを意味している)。

(4)磁北を使っていること及びやや西偏した外郭区画が後の時代であるとすれば、上総国分寺の造営は、磁気偏角が東偏から西偏へと推移する時代にまたがっていた。

(5)方位からは(4)を前提すれば、尼寺の西辺の方が僧寺の西辺より東偏していることを考慮すれば、尼寺が僧寺より先に計画されたことになる。

(6)磁北を使っていること及び神門古墳群を避けて僧寺寺地区画溝を掘っていることから、7~8度東偏した寺地区画と方位を同じくする掘立柱建物を造営したのは在地勢力と考えられる。

(7)以上のことから、上総国分寺が天平十三年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”によって創建されたというのは成り立たない。つまり、天平十三年以前に既にこの二寺の造営計画が実施されていた。だから、7~8度東偏する掘立柱建物群を“仮設的段階”とするのは「一元史観による虚構」(聖武天皇の“国分寺建立の詔”によって国分寺が創建されたとする虚構)である。

 

Photo

資料館配布資料

 

Photo_2
資料館配布資料に補助線を入れたもの

 

Photo_3
僧寺寺地区画が避けた神門古墳群(滝口図)

僧寺は次のような伽藍の変遷があったと考えられる。

1)寺地区画溝と同方位の“講堂(かどうか不明)”が付属施設とともに建てられた。

2)時期がかなり隔たった後、外郭区画溝西辺と同方位(ほぼ正方位)の塔などが建てられた。

3)中門の位置を外郭区画溝から求めた後、磁北によって方位を定め、中門から南大門と金堂の距離を測った(1:2)。

4)しかしそのまま金堂を配置すると講堂(として使うことを決めた建物)が浮いてしまうので、中門・南大門と同じ方位(建物の向きが同じ)となるように講堂から金堂の位置を決めた。

5)この様な配置の仕方をしたので、回廊の方位はどれに合わせることもできなくなってしまったので、回廊基壇の四隅を金堂心からの距離で決めて回廊を造った。

 

以上のように考えると“仮設的段階”などというのは、ただの「たわごと」に過ぎない。塔基壇が七重塔のものだとすれば塔以前に“講堂”が建っていたのであり、聖武詔勅以前のはるか昔に“講堂”が建てられていて、そこに七重塔を建てたが、国分寺としての伽藍は整わず、その後に、はちゃめちゃではあるが「一応それらしい寺院に整えようとした」のだと言える。

 

Photo_4
尼寺の描かれていない
X期中軸線(金堂・講堂心、ほぼ正方位)(滝口図)

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多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

コメント

山田さんへ
多元的「国分寺」研究の報告,ありがとうございます。
私もそろそろ「国分寺」復帰をと思っているのですが,
東山道十五国の比定や伊勢神宮の九州王朝創設が面白すぎて,
ついつい4月は突っ走ってしまいました。

しかし,服部さんの瓦の研究も導入されたことから,
今年は多元的「国分寺」研究の方も頑張らねばと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。(o^-^o)

肥さんへ
コメントありがとうございます。

>東山道十五国の比定や伊勢神宮の九州王朝創設が面白すぎて,
 ついつい4月は突っ走ってしまいました。

伊勢神宮に限りませんが、寺院と並んで神社も強力な手掛かりを提供してくれます。
多元的「国分寺」研究においても神社が手掛かりとなる例もあると思いますよ。

ともかく、肥さんの復帰がなによりです。よろしくお願いいたします。

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