ポピュラーな伽藍配置
ポピュラーな伽藍配置
―森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」並びに貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」―[著書や論考等の紹介]
森郁夫氏の「わが国寺院の伽藍配置」と貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」の二論文をご紹介します。この論文で寺院の伽藍配置についての理解が得られます。論文を読むのがおっくうな方に伽藍配置の画像だけを抜粋して紹介します。詳しくは是非論文をお読みください。
森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」
http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/13/013_ronbun_a.pdf
まず、蘇我氏の氏寺「飛鳥寺」です。“一塔三金堂”といわれていますが“東金堂”“西金堂”といわれている建物が「金堂」かどうかはわかっていません。邸宅を改造した寺院です。
飛鳥寺の伽藍配置
四天王寺の伽藍配置は、中門から見て塔・金堂が縦に並んだ「四天王寺式(伽藍配置)」といわれる形式です。この伽藍配置は回廊(内郭区画)の縦横比が3:2となっています。若草伽藍も「四天王寺式」です。
四天王寺の伽藍配置
山田寺の伽藍配置は、「四天王寺式」と同じ縦型ですが、中門から出た回廊がそのまま一周して中門に戻っている「山田寺式(伽藍配置)」と呼ばれる様式です。その回廊の南北幅は塔と金堂によって三等分されています。中門を出た回廊がそのまま中門に戻る様式は最も古い様式と考えられます。
山田寺の伽藍配置
法隆寺の伽藍配置は、中門から見て西に塔、東に南面した金堂を配する「法隆寺式(伽藍配置)」といわれる横型の伽藍配置です。回廊は中門を出た回廊がそのまま中門に戻る最も古い様式です(現在の回廊は凸形に改造され講堂に取り付いています)。この伽藍配置をとる寺院の数は比較的多く、吉備池廃寺(百済大寺)・海会寺も「法隆寺式」です。
法隆寺の伽藍配置
川原寺の伽藍配置は、明らかに創建時のものではなく、「観世音寺式」の講堂を金堂に改造し新たに増築した講堂を東大寺のような僧房で囲おうとしたようにみえます。川原寺しかない伽藍配置を「川原寺式(伽藍配置)」と呼ぶのは間違いです。一つしかないものは「様式」ではありません。
川原寺の伽藍配置
薬師寺の伽藍配置は、回廊(内郭区画)の中央(ど真ん中)に金堂を置き、中門と金堂の中間に双塔を配する「薬師寺式」と呼ばれる伽藍配置です。回廊は講堂両妻に取り付いています。回廊が講堂に取り付く形はそのまま中門に戻る回廊より時代が降っている様式です。本薬師寺(もとやくしじ、藤原京)、薬師寺(平城京)、河内百済寺がこの様式です。
薬師寺の伽藍配置
大安寺の伽藍配置は、塔院(塔を回廊で囲う)を内郭区画外の東西に配するもの。通説では「南大門の外に双塔を配する伽藍配置」とされているが「南大門」は「南中門」(『流記資財帳』)の誤認で、「大安寺式伽藍配置」という様式は存在しない。俗界から寺院への入口が「南大門(南門・山門とも)」であり、すなわち「南大門」のない寺院はない。なお、森郁夫氏が「『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙し建つ」とあるが、その地は大安寺の寺地であり、元興寺については養老二年九月条に「法興寺を新京に遷す」とある。したがって、霊亀二年のこの記事が大安寺の移建をさすことが確実視されている。」というのは、全く論理的ではない。
・霊亀二年(七一六)五月、「元興寺」(この元興寺は對馬の近くにあったと考えられ、法興寺(飛鳥寺)とは全くの別寺である)を左京六条四坊に移建した。平城京の左京六条四坊には大安寺がある。すなわち、大安寺の伽藍は元興寺の伽藍を移築したものである(『続日本紀』はこういっているのだ)。
・養老二年(七一八)九月、「法興寺(飛鳥寺)」を新京(平城京)に遷した。東大寺の近く、興福寺の南に法興寺を遷した「元興寺」がある。つまり「法興寺(飛鳥寺)」を平城京に遷して「元興寺」と改名した(「元興寺」は七一六年に既に無くなっているので問題なく改名できる)。平城京に遷した「法興寺」を「元興寺」と改名したので、飛鳥に一部残った「法興寺」を「もと『元興寺』」と呼ぶことになった。
この事実から「したがって、霊亀二年のこの記事が大安寺の移建をさすことが確実視されている。」とするのは論理のひとかけらもない原文改訂解釈である。頭の良い方々が平然と「したがって」と言っていることが信じられない。「元興寺を新京に遷した」のではなく「法興寺(飛鳥寺)を新京に遷した」と書いてあるのです。どうやったらこんな解釈ができるのか、首をひねってしまいました。
大安寺の伽藍配置
東大寺の伽藍配置は、「国分二寺図」(国分寺(僧寺・尼寺)の基本図)のもとになった伽藍配置です。いわゆる“国分寺式伽藍配置”が中門から出た回廊が金堂両妻南寄りにとりついて、金堂前庭を囲っている中枢伽藍(私は「金堂前庭院」と呼んでいます)なのですが、東大寺もその形を含んでいます。「金堂前庭院」の縦横比が2:3、金堂を囲った回廊「金堂院」の縦横比が6:5、金堂心・塔心々線と塔心々間の距離が2:5、さらに中門・金堂心々間と金堂・講堂心々間が等距離になっていて、非常に整った伽藍配置となっています。金堂を囲む「金堂院」と金堂前庭を囲む「金堂前庭院」を併せもった伽藍中枢となっています。
東大寺の伽藍配置
森郁夫氏の論文にはなぜか「観世音寺式伽藍配置」と「法起寺式伽藍配置」が抜けていますので、次の論文から画像を紹介します。
貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(ここから観世音寺式伽藍配置図)
http://seinanmi.seinan-gu.ac.jp/insei/kojin/sadakiyo/sada2010-10.pdf
貞清世里「西海道の法起寺式伽藍配置をとる古代寺院の検討」(ここから法起寺式伽藍配置図)
http://seinanmi.seinan-gu.ac.jp/insei/ronshu/6/sadakiyo.pdf
筑紫観世音寺の伽藍配置は、塔を東に、東面する金堂を西に配し、回廊が講堂両妻に取り付く「観世音寺式」といわれる伽藍配置様式です。筑紫観世音寺、多賀城廃寺、郡山廃寺、夏井廃寺、穴太廃寺、等々寺院数はけっこう多くあります。
観世音寺の伽藍配置
「法起寺式伽藍配置」は、「法隆寺式」の塔と金堂の東西を入れ替えた形です。東に塔、西に南面金堂を配して、回廊は講堂両妻に取り付く横型伽藍配置です。
法起寺式伽藍配置
特殊な伽藍配置として「大官大寺(藤原京)」の伽藍配置があります。縦型寺院なのですが、回廊内に塔・金堂・講堂を置き、しかも「金堂前庭院」(中門から出た回廊が金堂両妻に取り付く)の中に東に塔(九重塔)を置くという特異な伽藍配置です。双塔の計画だったと推定されています。完成をみずに711年に焼亡してしまいました。
奈文研の「14653_1_飛鳥・藤原宮発掘調査概報」(pdfファイル)にある伽藍復原図を加工した画像を掲載します。
大官大寺の伽藍配置
以上が知っているとよい伽藍配置です。
« 「法隆寺」の「尺度」について | トップページ | 注文した図書の入荷連絡があった »
「著書や論考等の紹介」カテゴリの記事
- 無文銀銭論考の紹介―ブログ「古田史学とMe」から―(2023.01.17)
- 『二中歴』「蔵和」細注―「老人死」が判明―(2022.04.16)
- 平城京の大官大寺(22)―飛鳥・河内地域の土器編年(服部私案)―(2022.03.27)
- 七世紀の須恵器「服部編年」の紹介―坏(つき)は何と呼ばれていたか―(2022.03.04)
- 挙証責任の在処―学問の進展のために―(2021.12.28)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
貞清世里「西海道の法起寺式伽藍配置をとる古代寺院の検討」
以上の2つの論文は,特に懐かしいです。
これに刺激を受けて,秋田城までの東北旅行を一昨年行ったほどです。
(郡山廃寺,多賀寺廃寺,秋田城跡など)
投稿: 肥さん | 2018年5月17日 (木) 04時39分
肥さんへ
コメントありがとうございます。
>以上の2つの論文は,特に懐かしいです。
肥さんは貞清世里さんのファンでしたね。
論文は読み直すとまた違った発見があります。
自分が成長したせいでしょうか。
確かに懐かしいです。
多分研にそなえて少しづつ勘を戻していってます。
瓦はやはり勉強量がものを言いそうな分野ですね。
本も入荷しましたので、勉強中です。
退職した今年もあせらず頑張りましょう。
よろしくお願いいたします。m(..)m
投稿: sanmao | 2018年5月17日 (木) 07時14分