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2018年5月19日 (土)

「国分二寺図」の伽藍配置

「国分二寺図」の伽藍配置

東大寺がモデルとなった多元的「国分寺」研究

 

先のブログ記事「ポピュラーな伽藍配置」(2018516 ())で東大寺の伽藍配置図を掲げました(次図)。
Photo
 もう一度説明しますと、金堂前庭を囲った回廊の縦横比が2:3、金堂を囲った回廊の縦横比が6:5、塔心々線(東塔心と西塔心を結んだ線分)と金堂心・塔心々線間距離の比が5:2(中軸線から塔心で測れば5:4)、中門・金堂心々距離と金堂・講堂心々距離の比が1:1(等距離)となっていて、しかも回廊が金堂を囲む「金堂院」形式と回廊が金堂両妻に取り付く「金堂前庭院」形式とを併せもった伽藍中枢となっています。

 この東大寺をモデルにして「国分二寺図」が天下諸国に頒下されたと考えられます。

 

【『続日本紀』】

《天平十三年(七四一)三月》乙巳24日〕、詔曰、(中略)宜令天下諸国各令敬造七重塔一区、并写金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部。(後略)

〔これがいわゆる“国分寺建立の詔”といわれているものですが、「国分寺」という言葉もなければ寺を造れとも言っていないものです。〕

《天平十九年(七四七)十一月》己卯〔7日〕、詔曰、(中略)而諸国司等怠緩不行。或処寺不便。或猶未開基。以為天地災異、一二顕来、蓋由茲乎。朕之股肱豈合如此。是以、差従四位下石川朝臣年足、従五位下阿倍朝臣小嶋・布勢朝臣宅主等、分道発遣、検定寺地、并察作状。

《天平宝字三年(七五九)十一月》辛未〔9日〕(中略)頒下国分二寺図於天下諸国。

 

次の点を押さえておく必要があります。

・“国分寺建立の詔”から十八年半以上経過した後で「国分二寺図」が頒下された。

・天下諸国は十八年半以上「国分二寺図」の頒下を待機していたとは考えられない。

・天平十九年に石川朝臣年足・阿倍朝臣小嶋・布勢朝臣宅主等を派遣して寺地の検定や金光明寺・法華寺の進捗状況を監察させているので、常に諸国における進捗状況は把握していたと考えられる。

・十八年半以上経過しているにも関わらず「天下諸国(六十六ヶ国)」に「国分二寺図」を頒下している。

・十八年半以上経過するなか督促もうけているので「天下諸国」は「国分二寺図」の頒下前に既に着工していたと考えられ、「国分二寺図」通りに造営できるのは未着工の国だけであり、多くの国は、「国分二寺図」に似せて改造するくらいしかできなかっただろう。つまり、「国分二寺図」は「改造基本計画図」だったと考えられる。

・未着工の国が全くなかったと断言はできない。「天下諸国(六十六ヶ国)」のうち一ヶ国くらいは未着工の国もあった可能性はある。未着工の国なら「国分二寺図」通りに造営できた。

 以上のことから、未着工の国があったなら総国分寺の東大寺がモデルの「国分二寺図」通りに金光明寺(金光明四天王護国之寺)を造営したと考えて、東大寺の整数比が出現する諸国国分寺を探したところ、「播磨国分寺」が最もよく東大寺の整数比が出現する国分寺であると認められた。よってこれが「国分二寺図」の僧寺伽藍配置であると考えた。とすれば、播磨国は十八年半以上未着工であったと考えられる。それが確かだと思えることは、遺跡発掘上で基壇等に改造の痕跡が見つけられないことや寺地区画が西偏している(在地勢力が寺地を選定したと考えられる)のに対して、伽藍はすべて(南大門・中門及び回廊・金堂・講堂並びに中軸線)寺地区画を無視して正方位に造営されている。未着工に業を煮やした中央権力の関与があったと考えられる。

 播磨国分寺(伽藍中枢は「金堂前庭院」)は伽藍配置(次図)に次のような整数が現れる。
Photo_2
・回廊縦横比2:3

・金堂・塔心々線間距離と中軸線・塔心間距離の比が4:5

・南大門心・中門心(回廊南辺)間距離と回廊南辺(中門)心・回廊北辺心間距離が1:1(等距離)

 

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多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

コメント

山田さんへ
播磨国分寺ですね。
私もチェックしてみます。

肥さん
コメントありがとうございます。

“国分寺式伽藍配置”とは、「国分二寺図」の伽藍配置のことであり、
多くの“国分寺式”は既存寺院を改造した伽藍配置であることを
具体的に播磨国分寺をあげて示すために自身のブログ記事にしたものです。

この論旨はすでに多元的「国分寺」研究ブログに掲載済のものです。
再度ご確認いただけばありがたいと存じます。

山田さんへ

〉 この論旨はすでに多元的「国分寺」研究ブログに掲載済のものです。
再度ご確認いただけばありがたいと存じます。


何という題名のものだったか,教えていただけますか?
その時は播磨国分寺という名がすでに出ていましたか?

〉 “国分寺式伽藍配置”とは、「国分二寺図」の伽藍配置のことであり、
多くの“国分寺式”は既存寺院を改造した伽藍配置であることを
具体的に播磨国分寺をあげて示すために自身のブログ記事にしたものです。

ということは,今回そのことがはっきりわかる例(播磨国分寺)として
山田さんが発見した(認定した)ということですよね。(o^-^o)

山田さんへ
もし「発見」(認定)と言うことでしたら,
多元的「国分寺」研究サークルのサイトに,
開設者として掲載させていただきたいと思った次第です。

肥さんへ
コメントありがとうございます。
これは「発見」ではありません。

2017年1月10日 (火)
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた ―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/01/post-c216.html
及び
上記記事へのコメント(2017年1月18日 (水) 09時34分)を要約したものです。
………………………………………………………………………………………………………………
スマートフォンから作業仮説とそう考えた根拠だけを送っておきましたが、検証できるように論理の道筋をまとめましたのでご覧ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―作業仮説第二弾:「国分二寺図」は「統一的改造計画図」だった―

先に、「国分二寺図」(マスタープラン)で作られた新造国分寺として播磨国分寺をあげ、作業仮説(「国分二寺図」の僧寺伽藍配置)を提示した(以下「第一作業仮説」という)。表題の作業仮説(以下「第二作業仮説」という)は第一作業仮説を修正するものではない。なぜなら、第一作業仮説は「国分二寺図」をマスタープランだとしてその内容を仮説として提示したものであり、この第二作業仮説は「国分二寺図」を頒下した中央政権の意図を提示している。つまり、第一作業仮説の足らぬところを補っているのが第二作業仮説である。

第一作業仮説を提示し終わってから、何か引っかかるものを感じていた。腰を落ち着けて考えてみたら、「国分二寺図」の頒下意図を「国分寺統一的に新造させようとした」と考えるとおかしいことがあると思い至った。中央政権は、七道諸国に使いを派遣して検察せしめている事実がある。天平十九年(七四七)十一月七日の聖武詔勅の原文(『続日本紀』朝日新聞本)は次の通り(「国別令造金光明寺。法華寺。」、「七重塔一区。并写金字金光明経一部。安置塔裏。」、子孫の永代任官を取引条件として郡司らへの協力要請もこの詔勅)。

天平十九年(七四七)十一月己卯【七】》○己卯。詔曰。朕、以去天平十三年二月十四日。至心発願。欲使国家永固。聖法恒修。遍詔天下諸国。国別令造金光明寺。法華寺。其金光明寺各造七重塔一区。并写金字金光明経一部。安置塔裏。而諸国司等怠緩不行。或処寺不便。或猶未開基。以為。天地災異、一二顕来、蓋由茲乎。朕之股肱豈合如此。是以差従四位下石川朝臣年足。従五位下阿倍朝臣小嶋。布勢朝臣宅主等。分道発遣。検定寺地。并察作状。国司宜与使及国師。簡定勝地、勤加営繕。又任郡司勇幹堪済諸事。専令主当。限来三年以前。造塔・金堂・僧坊、悉皆令了。若能契勅。如理修造之。子孫無絶、任郡領司。其僧寺・尼寺水田者、除前入数已外。更加田地。僧寺九十町。尼寺四十町。便仰所司墾開応施。普告国郡、知朕意焉。

「中央政権は、七道諸国に使いを派遣して検察せしめている事実がある。」と言った部分は「是以差従四位下石川朝臣年足。従五位下阿倍朝臣小嶋。布勢朝臣宅主等。分道発遣。検定寺地。并察作状。」。
これは、次の二点を導く。
(1)中央政権は、ほとんどの国が既存寺院(おそらく多くは「国府付属寺院(国府寺)」)に七重塔を建立していることを知っていた。
中央政権が、派遣した検察使の復命(報告)でその事実を知っていたことは疑うことができない。さらに言えば、七重塔を建立する寺院として既存の「国府寺」を候補として想定していた可能性が高いのだ(741年の詔勅)。
(2)同様に、七重塔建立に未着手の国も(数少ないが)把握していた。
中央政権が、七重塔建立の催促を行った検察使の復命(報告)によって、未着手の国を知っていたことを疑うことはできない。
繰り返すが、上記の二点は疑いようがない。

中央政権が、この二つの事実を承知している上で、行ったことが次である。
(3)「天下諸国」にむけて「国分二寺図」を頒下した。
原文は「頒下国分二寺図於天下諸国。」(『続日本紀』)である。

上記の(1)(2)(3)から出てくる疑問とは次の通りである。
「国分二寺図」が国分寺を新造するためのものであるなら、18年間七重塔の建立に着手しなかった国だけに「配付」すれば良く、天下諸国に頒下(いわば「配布」同様)する必要がない。にもかかわらず、「天下諸国」に配っている。なぜだろう?

この三点を矛盾せず説明できるものは、「頒下国分二寺図於天下諸国」の意図は「国分寺改造基本計画図」を配ることだった、とするしかないのではないか。「国分二寺図」は統一的に国分寺を改造させるために配られたマスタープランだった、と考えるしかない。もちろん、七重塔建立に未着手であった国は、この「国分二寺図」によって国分寺を新造したであろうことは言うまでもないだろう。第一仮説と第二仮設に矛盾はない。

以上、第二作業仮説に至る道筋の説明です。
投稿: 山田 | 2017年1月18日 (水) 09時34分
………………………………………………………………………………………………………………
ということですので再掲は不要と思います。

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