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2018年5月 8日 (火)

肥さんが武蔵国分寺跡を遂に命名!

肥さんが武蔵国分寺跡を遂に命名!

―「无射志国荏原評銘文字瓦」から―

 

 詳しくは、肥さんの夢ブログの記事をどうぞ。

すでに「无射志国府寺」が建てられていたのではないか?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-160a.html?cid=141596473

 

以下は、私による「勝手な解説」です。

 

 「武蔵国分寺」は多元的「国分寺」研究サークルが最初に取り組んだ国分寺でした。

 

 この多元的「国分寺」研究というのは、“肥さん”こと肥沼孝治さん(「古田史学の会」・「多元の会」会員)がご自身のブログ「肥さんの夢ブログ」に、「天平十三年(741)の聖武天皇による“国分寺創建の詔”に『国分寺』という文言は全く無く、『七重塔一区を建ててお経をおさめよ』というだけのものだった」(「国分寺」は無かった!)と発表したことからスタートした活動です。

 

 多元的「武蔵国分寺」の研究からは、武蔵国分寺は聖武詔勅で創建されたものではないと判明しましたが、その創建年代を特定するまでには至っておらず、また、現在「府中刑務所」がある辺りが「武蔵国府」だと推定(現在比定されている大国魂神社付近のものは郡家と推定)され、国府推定地が発掘されていないため武蔵国分寺を国府寺(国府付属寺院)と断定するに至っていませんでした。

 

 この度、服部静尚さん(「古田史学の会」全国世話人・編集長)の発表された「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」によって軒丸瓦の「素弁・単弁・複弁」の違いによるおよその年代を推定できることがわかり、しかも、武蔵国分寺で出土した軒丸瓦(鐙瓦(あぶみがわら)ともいいます)には複弁がないことから、創建年代は700年以前であると判明しました。〔服部さんの編集長を編集員と誤っていました。謹んで訂正致します。〕

 

 肥さんは、次のブログ記事の題名でもわかりますが、かねてから「武蔵」の九州王朝時代の国名に関心をもっていました。記事にしないまでも、かなり詳しく知っていたはずです。

武蔵国の「武蔵」の語源って何でしょうか?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-0635.html

 

 ここにきて遂に「武蔵国分寺」の九州王朝時代の名前を肥さんが「命名」されました。

 

 肥さんが10年ほど前に川崎方面に「多元の会」の小旅行へ行った時のメインの展示物が「无射志国荏原評銘文字瓦」と名付けられた文字瓦によったようです。

 私が「遂に」といったのは、「武蔵国分寺の九州王朝時代の名称」の命名権は肥さんにあると考えていて、いつ肥さんが命名するのか楽しみにしていたからです。根拠なしに行う方ではありませんので、「无射志国荏原評銘文字瓦」と「武蔵国分寺には〈複弁〉がなかった!」によって、ようやく(遂に)命名に踏み切ったのだと、私は推測しています。

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多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

コメント

山田さんへ
これまでの多元的「国分寺」研究の流れを
分かりやすくまとめていただき,ありがとうございます。
さっそくリンクさせていただきます。

「武蔵国分寺の塔は南北なのに,金堂などの主要伽藍は7度西偏している」に始まり,
「国分寺建立の詔」に国分寺の名のないことで「「国分寺」はなかった!」に至り,
そして,そういえば「无射志国荏原評銘文字瓦」というのを見に行ったと思い出し,
山田さんの「郡ではなく評ではないか」に後押しされ,「无射志国府寺」と「命名」いたしました。
いいヒントをいただいている山田さんや厳しい指摘をいただいている川瀬さんのお陰で,
少しは多元的「国分寺」研究に足跡を残せそうです。ただし,これも仮説です。
後世の歴史研究者の笑いものにされないように,これからも精進していきたいと思います。

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