『よみがえる古代山城』批判
『よみがえる古代山城』批判
―最大の疑問は何か―[古田史学]
向井一雄著『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館、二〇一七年(平成二十九)一月一日、ISBN978-4642-05840-7)を読み終わってから、しばらく時間を置いて考えがまとまるのを待っていました。なお、「時間を置いて考えがまとまるのを待って」という意味は、あれこれ意識的に考えるのではなく、「寝ている間に脳が自動的に整理してくれるのを待って」という意味で、意識的な行為は何もしていません。
この著書の「東アジアの争乱と古代山城」(P.145)以降は、編年が『日本書紀』などに完全に依存しており、前半の発掘調査に基づく知見とは格段の違いがありました。「羊頭狗肉」あるいは「竜頭蛇尾」という感想を抱きました。この本の価値は、古代山城に関して考古学的知見が得られる部分(前半)だと思います。
私の既存知識とこの著書から得た知見を合わせた認識(粗雑です)を記してみます。
・学術用語「古代山城」は齊藤忠の命名による。
・分布は北部九州から瀬戸内に集中している。
・各国の国府などの中心地近くにあるが四~六キロメートルほど離れている事例が多い。
・複数の地域の中心地の中間地点に位置している(無駄がない立地の)古代山城が多い。
・近くを官道・駅路など古代の交通路が通過する古代山城が多い。
・記録に残る山城を「朝鮮式山城」、記録に無い謎の遺跡(北部九州を中心)を「神籠石(こうごいし)系山城」と呼んでいる。
・「朝鮮式山城」(記録に残る山城)は、『日本書紀』には、対馬に「金田(かなた)城」、筑紫国の博多湾奥に「水城(みずき)」・「大野城(おおのき)」(『続日本紀』にも「大野・基肄・鞠智三城」)、有明海側に「基肄城(きいのき)」(『日本書紀』には「椽城」(注1)、『続日本紀』にも「大野・基肄・鞠智三城」)、瀬戸内海には、長門に「長門城」(「築城於長門國」とあるが未発見)、讃岐に「屋嶋城」(香川県高松市屋島南嶺山、当時の屋島は文字通りの島(注2))、河内・大和の国境に「高安(たかやす)城」(『続日本紀』にも「修理」とある〔割注〈天智天皇五年築城也〉〕)、近江に「三尾城(みおのき)」(滋賀県高島郡、遺跡未確認)が記されている。
『続日本紀』には、大宰府繕治として肥後(山鹿市と菊池市にまたがる丘陵上)の「鞠智(きくち・くくち)城」(「大野・基肄・鞠智三城」)、大宰府に命じた修繕(文武三年(六九九)十二月)として未発見の「三野(みの)城」(推定地、日向国児湯郡三納)・「稲積(いなづみ)城」(大隅国桑原郡)が記されている。瀬戸内海には、備後に所在不明・未発見の「茨城(うばらき)」(安那郡)・「常城(つねき)」(蘆田郡)の二城が記されている。
・「神籠石系山城」(記録に無い謎の遺跡)は、太宰府東方に「阿志岐(あしき)山城」、基肄城の西方背振山系北側に「雷山(らいざん)城」がある。太宰府からの駅路(官道)が基肄城の南方で三方(東方・南方・西方)に伸びており、豊後方面(東方)に「杷木(はき)城」、筑後方面(南方)に「高良(こうら)山城」・「女山(ぞやま)城」、肥前方面(西方)に「帯隈(おぶくま)山城」(佐賀市久保泉町大字川久保)・「おつぼ山(やま)城」(武雄市橘町大字大日)の五城がある。太宰府東方の阿志岐山城から飯塚方面へ抜ける官道には「鹿毛馬(かけのうま)城」、瀬戸内海に面した豊前側に「御所ヶ谷城」・「唐原(とうばる)山城」がある。瀬戸内海には、山陽側では周防に「石城山(いわきさん)城」(山口県光市大字塩田字石城)、備中に「鬼ノ城(きのじょう)」(岡山県総社市鬼城山(きのじょうさん))、備前に「大廻小廻(おおめぐりこめぐり)山城」(岡山県岡山市東区草ヶ部・瀬戸町観音寺・瀬戸町笹岡)、播磨に「城山城(きのやまじょう)」(兵庫県たつの市亀山(きのやま)の三角点ピーク周辺)、四国側では伊予に「永納山(えいのうざん)城」(桑村郡永納山・医王山)、讃岐に「城山城(きやまじょう)」(史跡名称「城山(きやま))」、阿野郡城山)がある。
倭国(九州王朝)の帝都太宰府防衛という視点でまとめてみます。
太宰府(帝都)そのものの防衛拠点としては、北に「大野城」、博多湾方面(北西)の防衛に「水城」、南方の三方に分かれる官道の要衝(筑前国・筑後国・肥前国の三国の境界付近)に「基肄城(椽城)」を置いている。
侵攻ルート沿いの前線防衛拠点(向井氏のいう「前縁防御体系」)を見てみます。
朝鮮半島から対馬・壱岐(「北海道」方面)から松浦・呼子・唐津・糸島方面に侵攻して来る敵に対する防衛拠点として筑紫国の糸島半島近く背振山系北側に「雷山(らいざん)城(神籠石)」を置いている。
太宰府の北東関門海峡より直方・飯塚(「東山道」方面)から侵攻して来る敵に対する防衛拠点として直方・飯塚間(筑紫國・豊前國境付近)に「鹿毛馬(かけのうま)城(神籠石)」を置いている。さらに、関門海峡と国東半島の間にある周防灘から侵攻してくる敵に対する防衛拠点として「御所ヶ谷城(神籠石)」を置いている。
佐賀関・別府湾・日田・朝倉(「東海道」方面)から侵攻してくる敵に対する防衛拠点として「杷木(はき)城(神籠石)」を置いている。
佐世保・大村湾・多久・鳥栖(「西海道」方面)から侵攻してくる敵に対する防衛拠点として「帯隈山(おぶくまさん)城(神籠石)」を置いている。
有明海・大牟田・筑後(「南海道」方面)から侵攻してくる敵に対する防衛拠点として筑後の南に「女山(ぞやま)城(神籠石)」を置いている。また。島原湾・熊本・山鹿・八女のルートから侵攻してくる敵に対する防衛拠点として菊池・山鹿間に「鞠智城(朝鮮式山城)」を、さらに久留米の近くに「高良山(こうらさん)城(神籠石)」を置いている。
著者向井氏は「おつぼ山(やま)城」や「阿志岐(あしき)山城」などに城壁の欠石がある「見せ城」であると仰々しく述べ立てているが、侵攻して来る敵に対しての防御は籠城を前提にしないのだから、当面は攻撃のための前面防御ができれば足りる。それが籠城を前提にした「大野城」(太宰府とセットの朝鮮式山城)や「基肄城(きいのき)・椽城」)との違いである。
(注1)『日本書紀』の「椽城」は「基肄城(きいのき)」のこと。「椽」とは「たるき(垂木)」のこと。「椽子(垂木)」は末尾の画像を参照のこと。
(注2)有名な源平合戦「屋島の戦い」で、源義経は四国側の対岸から浅瀬伝いに騎馬で屋島に渡りました。
さて、この著者向井氏は軍事用語には詳しいようで、次の問題が提出されています。
問題1:「縦深防御体系」(侵攻ルートに沿う防衛シフト)だとすると「衛星防御体系」(王都を守る環状の防衛網)を欠いている。
問題2:「前縁防御体系」(国境を守る最前線の防衛ライン)だとすると玄海灘(玄界灘)沿岸は雷山城と大野城の二城、対馬を含めても三城で弱く、反対に有明海方面には八城も築かれている。
これは、軍事用語を用いているだけで問題にもならない問題です。
解答1:瀬戸内海に置かれた山城群を「縦深防御体系」(侵攻ルートに沿う防衛シフト)と考えることが間違っています。「衛星防御体系」(王都を守る環状の防衛網)を欠いている、という認識は、「王都=近畿(ヤマト)」を守る環状の防衛網を欠いている、という認識です。「王都=北九州(太宰府)」と考えれば何の疑問も生じません。また、『二中暦』「年代歴」細注「鏡當」(581~584年)に「新羅人來從筑紫至播磨焼之」とあることが事実だとすれば、筑紫から播磨までの諸国はそれぞれ自身を守る必要があったわけで、しかも諸国の共通する敵であったのであれば共同して防衛することを考えるでしょう。だから、瀬戸内海に置かれた山城群は「縦深防御体系」(侵攻ルートに沿う防衛シフト=目的地がヤマトという前提)ではなく、「侵攻される諸国が共通敵に備えた山城防御体系」と考えるのが妥当です。瀬戸内海に置かれた山城群を「縦深防御体系」と見ることは、「侵攻される諸国は自らを守る必要は感じなかった(蹂躙されるがままを選んだ)」という見方(諸国を単なる王都防衛の道具とみる見方)と論理的に同値であることに気付かないことの方が疑問(軍事用語に詳しいのに不思議)です。一元史観の目に鱗が付いているからでしょうか。
解答2:「前縁防御体系」だとすると玄海灘沿岸(太宰府の北側)が弱く、有明海方面が強いというのを問題とするのは、倭国(九州王朝)の防衛基本政策(『日本書紀』に何度も出てきます)に無理解であることによるものです。倭国(九州王朝)は、北方の防御は朝鮮半島(南部)に同盟国(例、南朝系「百済」)を藩屏として置いて支援し、自らは西方・南方からの侵攻に備えるという防衛基本政策を一貫して取ってきました。北方からの侵攻は藩屏の同盟国が朝鮮式山城で防御するのですから、王都・太宰府を守る山城と有明海方面の山城を強化すれば良いのです。
私の見た「古代山城」の最大の疑問点(問題)は次のものです。これが最大の疑問点です。
「古代山城」の最大の疑問点(問題)
・「古代山城」が山陰側にないのは何故か?
(新羅にとって、海路で近くて侵攻が容易な山陰側に「古代山城」が無いのは不思議です。)
私は次のような理由を考えてみました。
1.山陰側諸国は海路で侵攻してくる敵(藩屏百済を通らずに直接海を渡って来る新羅?)の友好国(ないし親交国・同盟国)であったため。
2.史料に記録がなく遺跡が未発見なため。
3.山陰側諸国は侵攻するだけの価値が無かった。
理由2は、遺跡が未発見なだけというのは少し考えづらい理由です(「遺跡が未発見なだけ」という理由が通れば、どんな作り話も通るから)。
理由3は、「たたら製鉄」などの技術をもつ諸国があり、価値が無かったとはやはり考えにくい理由です。
よって、理由1.山陰側諸国は侵攻してくる敵の友好国だった、という理由をとるしかないのですが、いまいち現実感が湧きません(なぜ新羅と友好があったのか)。誰もが納得できる理由をどなたかお持ちでしたらお教えください。
…………………………………………………………………………………………………………
【岩波書店『日本古典文学大系68 日本書紀 下』】
《天智天皇三年(六六四)是歳》是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。又於筑紫、又於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。
是歳(ことし)、於對馬嶋(つしま)・壹岐嶋(いきのしま)・筑紫國(注3)等、防(さきもり)と烽(すすき)とを置く。大堤(おほつつみ)を築(つ)きて水を貯(たくは)へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と曰(い)ふ。
(注3)岩波大系本はここにある「筑紫國」を「つくしのくに」と訓んでいるが、私は底本の訓注がどうあろうと、現地の通りに「ちくし(竹斯)」と読む。筑波(つくば)というのは東国方言である。よって、以後、本が「つくし」と訓じている場合の訓みは写さない。
《天智天皇四年(六六五)八月》秋八月、遣達率答[火本]春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫於筑紫國、築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。
《天智天皇六年(六六七)十一月》是月、築倭國高安城・讃吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。
是の月に、倭國(やまとのくに)の高安城(たかやすのき)・讃吉國(さぬきのくに)の山田郡(やまだのこおり)の屋嶋城(やしまのき)・對馬國(つしまのくに)の金田城(かなたのき)を築(つ)く。
《天武天皇元年(六七二)七月》辛亥〔22日〕、男依等到瀬田。時大友皇子及群臣等、共営於橋西、而大成陣。不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦鼓之聲、聞數十里。列弩亂發、矢下如雨。其將智尊率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中、須容三丈。置一長板。設有蹋板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士。曰大分君稚臣。則棄長矛、以重擐甲、抜刀急蹈板度之。便斷著板綱、以被矢入陣、衆悉亂而散走之。不可禁。時將軍智尊、抜刀斬退者。而不能止。因以斬智尊於橋邊。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等即軍于粟津岡下。是日、羽田公矢國・出雲臣狛、合共攻三尾城降之。
『続日本紀』
《文武二年(六九八)五月》甲申〔25日〕、令大宰府繕治大野・基肄・鞠智三城。
《文武三年(六九九)十二月》甲申〔4日〕、令大宰府修三野・稲積二城。
《養老三年(七一九)十二月》戊戌〔15日〕、停備後国安那郡茨城・蘆田郡常城。
戊戌〔15日〕、備後国安那郡茨城(うばらき)・蘆田郡常城(つねき)を停(とど)む。
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コメント
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補足説明
向井一雄氏がいう
「「前縁防御体系」(国境を守る最前線の防衛ライン)だとすると玄海灘(玄界灘)沿岸は雷山城と大野城の二城、対馬を含めても三城で弱く、反対に有明海方面には八城も築かれている。」
という指摘は、660年に百済が滅亡した時点以降は全く妥当な指摘となります。
南朝鮮半島に存在した藩屏国家百済が滅亡した瞬間以降、倭国は北海道方面(朝鮮半島・対馬・壱岐方面)から侵攻する敵に兵力を集中せねばならなくなったのは事実でしょう。防衛基本政策が破綻したのですから、そうなりますし、百済を再興しようとするのも当然の動きです。
百済の滅亡は倭国存亡の危機という事態だったのです。
投稿: sanmao | 2018年5月30日 (水) 12時36分
山田様
向井一雄著『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』への見事な書評を拝読し、わたしなどよりもはるかにしっかりと同書を読みこまれていることに感服いたしました。
また、「古代山城」が山陰側にないのは何故か?という問題意識はさすがです。言われてみればそのとおりで、この問題の解明はとても重要な予感がします。わたしとしては今のところ前期難波宮の存在と関係しているのではないかと推定していますが、結論を急がずもう少し考えてみようと思います。
今後とも御教導下さい。
古賀達也
投稿: 古賀達也 | 2018年6月 1日 (金) 17時41分
古賀さま
過分な評価のコメント、恐縮いたします。
>前期難波宮の存在と関係しているのではないかと推定しています
瀬戸内海側の古代山城の考古学的知見を持ち合わせていませんでしたので、
その問題には踏み込めませんでした。
瀬戸内海側の古代山城の知見を得る努力もしていきたいと考えています。
これからもご教示くださるようお願いいたします。
投稿: sanmao | 2018年6月 2日 (土) 11時28分
補足説明(ひとつの「思いつき」)
>「古代山城」が山陰側にないのは何故か?
この問題について一つの考え方として、瀬戸内海側にある「古代山城」を「古代官道」と強く関連付けて考えてみることができるかもしれません。つまり、九州王朝の「東山道」(令制山陽道)と「東海道」(令制南海道)を守るための古代山城という思いつきです。
もし瀬戸内海側の「古代山城」が九州王朝の古代官道(東山道と東海道)に沿ってあるとすれば、瀬戸内海側の古代山城群は太宰府と前期難波宮を結ぶ重要な軍用道路を守るための山城ではないかという思いつきです。さきの古賀さまから頂いたコメントはこのことを示唆されていたのではないでしょうか(私の推測です)。
こう考えると古代山城が山陰側にないことの説明がつくのではないでしょうか。
これは「思いつき」なので、時間をかけてじっくり検討してみたいと思います。
投稿: sanmao | 2018年6月 2日 (土) 20時58分
古田武彦先生は、『ここに古代王朝ありき』などの著書で、北部九州だけに残っている神籠石という山城群を九州王朝の動かぬ証拠だと指摘されています。
築造時期については、4世紀~7世紀中頃の間ということでした。
一方、『隋書俀国伝』には、「城郭はない」と書いてあります。隋書の使者が来たのは7世紀初めなので、神籠石山城は既に築城されてい存在していた時期と思われます。
古田先生や皆さまは、この隋書の「城郭はない」という記述についてどうお考えでしょうか?
ご教示よろしくお願いいたします。
投稿: 和邦夫 | 2019年10月29日 (火) 11時58分
和邦夫さま
コメント及びご質問、ありがとうございます。
>古田武彦先生は、『ここに古代王朝ありき』などの著書で、北部九州だけに残っている神籠石という山城群を九州王朝の動かぬ証拠だと指摘されています。
古田先生のお考えがどうであったかは私のようなものが言及できようもありませんが、私の考えを述べますと、神籠石(文献に登場しない古代山城)という山城群は都「太宰府」のためにあった、と考えております。
>隋書の「城郭はない」という記述
これは次の部分のことと存じます。
》開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比〔北〕孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌,後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。『無城郭。』
たしかにご指摘の通りです。また、その前段に次の部分があり、あるのは城柵だけ(城郭はない)と受け止められます。
》都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。(中略)其王有宮室樓觀,『城柵』皆持兵守衞,為法甚嚴。
このことから和邦夫さまが「この隋書の「城郭はない」という記述についてどうお考えでしょうか?」というご質問をなされたのはもっともでして、私も疑問に思っております。
この疑問に対する明快な回答はできませんが、つぎのようなことを考えてみました。
①隋使は都「邪靡堆」(魏志所謂邪馬臺)に実際に行ったとするなら、都「邪靡堆」は「太宰府」ではなかった。
②隋使が阿蘇山の噴火を実見したとしても、ルートが不明(陸行にせよ水行にせよ)だから、山城群を見なかったこともあり得る。また、敵となるか味方となるか不明な使者に対して山城群(防衛拠点)を見せないようにしたとも考えられる。
③『隋書』の記述は実見に基づくとは言えない部分がある。例として、北九州の弥生遺跡から硯が出土しているにもかかわらず、次のような記述がある。
》無文字,唯刻木結繩。
以上、拙い妄想程度のことしか述べられませんでしたが、未熟者ですのでお許しください。
今後ともご鞭撻・ご教導くださいますようお願い申し上げます。
投稿: 山田春廣 | 2019年10月29日 (火) 16時50分
たいへん詳細なご回答をいただき、感謝いたします。
古田武彦先生が生前、この「城郭無し」について、何かお話になっていらっしゃるのではないか?
古田先生の学説にお詳しい皆さまならば、何かご存じではないかと、お尋ねした次第です。
①②③と興味深いご考察お教えいただき、ありがとうございます。
「城郭無し」の前文の「城柵」に関する一文は『倭人伝』の卑弥呼の宮殿の文章によく似ています。
『旧唐書』を読んでみますと、「城郭無し」の後に「木を以て柵を作り、草を以て屋とする」という書いてありました。
また『隋書』や『旧唐書』の百済伝や新羅伝には「城郭があった」となっていますので、「城郭無し」が全く嘘(誤った記事)とも思えません。
投稿: 和邦夫 | 2019年10月30日 (水) 18時35分
和邦夫さま
回答へのご返信とご教示ありがとうございます。
>古田武彦先生が生前、この「城郭無し」について、何かお話になっていらっしゃるのではないか?
古田先生の著作のファンだった私は、先生のご生前には古田史学の学術とも運動とも関りがありませんでした。したがって残念ながら古田先生のお話を直接うかがったことがありません。ご期待に応えられず、申し訳ありませんでした。
>『隋書』や『旧唐書』の百済伝や新羅伝には「城郭があった」となっていますので、「城郭無し」が全く嘘(誤った記事)とも思えません。
このような記述があるなら「全く嘘(誤った記事)とも思えません。」とのご意見はもっともなことと私も考えます。
したがって私の妄想の③は消えて①か②が残ることになりますね。ご教示ありがとうございます。
なお、同じコメントが2回入っていましたので、後(2019-10-30 18:35:42)のコメントは削除させていただきました。ご了承ください。
これからもよろしくお願い申し上げます。
投稿: 山田春廣 | 2019年10月31日 (木) 18時30分