科野」の「蕨手文様」瓦と多元史観
「科野」の「蕨手文様」瓦と多元史観
―上田市在住 吉村八洲男さまからのご寄稿―[著書や論考等の紹介]
Yassiさんから多元的古代研究会の機関誌『多元
№148 Nov.2018』に投稿・掲載された論考をご寄稿いただきました。この論稿は9月に当ブログに掲載させていただきました「「科野」の「高良社」と多元史観」(記事末に再掲)の続編です。
この連続論稿は、多元史観による「高良社」と「蕨手文様」の分析から、九州と科野との密接な関係(「物部」が介在する)を浮かび上がらせて、いままで未解明だった「科野」の歴史に新しい輝きを放つ一頁を加えることに成功している、と私は考えます。「物部」が介在したという見解を私は強く支持します。
Yassさん、いつもご寄稿ありがとうございます。なお、文中のJames Macさまの論考「阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉」に字体変更とリンクを貼らさせていただきました。ご了承願います。
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「科野」の「蕨手文様」瓦と多元史観
上田市 吉村八洲男
1. 「科野」にある「高良社」
前号で千曲川沿いの13カ所ある「高良社」分析を私なりに行ってみた。注目点として、上田市が中心地かと疑われる事、この信仰が一気に広がったと思えること、そして全ての「高良社」に、ある神が共通して存在したかと疑える、と述べた。九州での「磐井の君」へと続く「高良社」信仰とは若干の違いがあったか、とも推測した。
ここで再度強調したいのは、全国的に見ても「高良社」が、ここほど集中して存在した地域があまりない事だ。「科野・千曲川沿い」だけでなく「犀川沿い」も加えると、23か所の「高良社」が集中した地域だったのである。この分布からは全国に点在する「高良社」と同一と見る事は到底できない。「科野」へは「高良社」勢力の進出がはっきりとあった、と考えられていい。そしてそれは、「物部氏」の一勢力ではないかと私は推論する。
両者の関係性については、「高良玉垂命」に始まる九州王朝の始原・血統への古田先生の論考に始まり、古賀氏の「大善寺玉垂命」から「倭の五王」へと続く王統への考察(古田史学会報No24・No26、「九州王朝の筑後遷都」)など、多くの人が論考を重ねている。出てくる答えは、両者にははっきり「関係がある」である。前号でも紹介した諸論考も参考になる。
そしてこれら先賢の諸論考からは「筑後一の宮」としての「高良社」が、はっきり「物部」一族の信仰の対象であった歴史が窺える。そして「物部」の本拠地が「筑後」であった、という推定も古賀氏・Mac氏から既になされている。『「玉垂命」が「物部」であったことは「秘すべき」事でもあった』と言うのも事実であろう(『高良記』『稲員家系図』への諸論考・古賀氏「洛中洛外日記」200話・208話・281話など)。
だから「高良社」を戴く勢力とは、筑後を本拠地にした「物部」一族を意味していたと推定でき、玉垂命からの系統は九州王朝の王を輩出した、主流というべき血統なのだったとも推測してよいだろう(第207話)。そして、それは「磐井の君」まで連続したと思われる。
この「高良」信仰は「在地性」(筑後地域に集中している)が強い信仰とも指摘されている(「洛中洛外日記」第1065話)。「肥後」や「筑前」では、その数が激減すると言う。だから離れた「科野」での集中は、それだけでも刮目されるべきであり、九州と「科野」との接点は、この千曲川沿いの分布からも指摘されてもいいものと思える。
だから、千曲川沿いの「高良社」の濃厚分布は、「物部」一族が「高良社(玉垂命)」信仰を「科野」へ持ち込んだからと推定出来よう。そして、この「高良社」の集中分布は短期間になされたが、隣接する国(現在の「県」で考えても)へは及ばない事から、継続しての進出ではなかったかとも推測していい。ただ、この「科野」での「高良社」勢力の伸展、衰退は、ある時期、九州での「物部」氏のそれを思わせる事には注目してよさそうだ。
2. 「蕨手文様」瓦
さて、長野県の考古学界で、永く論争の対象になったものに、「蕨手文様」を持つ軒丸瓦がある(「多元」No.131を併読して頂きたい)。
「蕨手文」という独特な意匠を持つこの瓦は、「科野」にしかなく、その結果、従来の瓦編年では位置が不明であり、扱いようがないものであった。謎の瓦であったといってよい(図1)。「蓮華文」が瓦編年に際しての最大基準だったし、中央より地方に重要な瓦があるなどとは夢想さえしないからである。「蕨手文様」という、ジャンルは存在しないのである。
だから著名な大家、歴史家の「瓦」本や「瓦」編年本ではまったく言及されず、その位置が与えられないまま、何時頃製造されたのか、その目的は何だったのかが争われ、県下の歴史学界では論争の的となってきたのである。
その論争の結果、定説として考えられたのが『「補修用」の瓦、平安期・地域の領袖などが製造』説であった。その解釈しかなかったとも言える。「瓦」本では取り上げられず、「科野」にしか存在しないのだから…。
この瓦は上田市では「国分寺」遺構(僧寺・尼寺)、坂城町では「込山廃寺」跡、この瓦・他を焼いた「土井の入」窯跡、須坂市の「左岸(願)廃寺」跡、と複数個所から出土している。その状況からは定説である「補修用瓦」説が頷けそうだが、よく検討するとおかしなことも多かった。列挙してみよう。
「蓮華文」を持つ瓦が全盛の時代に(平安期)、何故「蕨手文」を敢えて補修用に使うのか、しかも各地でなぜか同一文様が使われているのが不審だし、さらに驚くのは、坂城の「込山廃寺」では、軒丸瓦のほぼすべてが「蕨手文様」瓦なのである。これでは「補修用」の瓦で貴重な一寺の屋根を飾った事になる。これはおかしいだろう。さらに「土井の入」古窯(その第一期)で「蕨手」瓦と同時期に焼かれた他文様の瓦の分布状況も、この「補修用説」と相いれないものだった。だから後世に「補修用」として用いられた事は否定できないが、「補修」の目的で焼かれたという説はありえないのだ。ある特定の勢力が、この文様を使った、目的があって製作した、という判断をしても良いのではないだろうか。
さらに、上田「国分寺」遺構からは、この「蕨手文様」瓦と同じ製造法かと言われる種々の瓦が発見されていて、研究の結果、これらが同一グループ(「初期瓦」とした)かと推定されてきた。その種類は、軒丸瓦、軒平瓦、その他と多岐にわたり、文様も、素文に始まり蓮華文、唐草文、三重圏文、蕨手文、その他であった。
しかし、「蕨手文」瓦と同様に、これらへもやはり歴史的な位置は与えられず、永く不明のままであった。
3. 先行建物の想定
これら瓦への様々な疑念・指摘に対し、一元歴史界では上田の「国分寺」創建ともからめ、歴史を再構築する必要に迫られてきた。そしてその解決法が、先行した建物を想定し、それが「僧寺」より先に、つまり「聖武天皇の詔」の直後に建てられたとするものであった。その先行建物に使われた「瓦」にすれば、文様・製造時期共に不明であったこれら「初期瓦」への疑惑は一気に解決すると思われたのだ。「詔」(741)→『先行建物』→「僧寺」(760頃?)→「尼寺」(780頃?)としたのである。
「詔」の直後に先行建物を想定することが、キーポイントであった。これにより、二つの未解決だった難問・疑惑を同時に解明したのである。一つが、明らかに「僧寺」の瓦と製造法が異なる、「蕨手文」瓦を含めた瓦たち(「初期瓦」)を、先行建物に使用されたと設定すれば、「僧寺」瓦とはっきり区別できる事であった。
もう一つが、「尼寺」に先行すると思えた建物の遺構が説明できることだった。「尼寺」推定中門の下には、先行した別建物に由来するかと思える礎石・遺構が存在していると既に指摘されていたからだ。明らかに「尼寺」より古いのである。だから、「先行建物があった」と想定するのは、素晴らしい解決法に思えたろう。これへの反論はない。だから一元歴史では、これが定説化していくのではないかと思われる。(長野県考古学会誌No.149に発表)
4. 創建順序と先行建物
しかし、実はこの創建順序(「詔」後に先行建物を想定)では、「国分寺」遺構への不明・矛盾・疑惑は、何一つ解決しないのである(図2)。私は既に「多元」No139,140でこれに言及してみた。「僧寺」を先、「尼寺」を後とする歴史認識では、現状をどうしても説明できないのである。①両伽藍の持つ中心線の角度が違う事、②「僧寺」の伽藍の配置がおかしい事、しかも「尼寺」伽藍に接近しすぎる事、③工法に違いがみられる事、そして何よりも、④ものさし(単位)が両寺では異なっている事、であった。柱7本が示す距離は明らかに「尼寺」のほうが短く、それはこの「寺」が「造営方式」にのっとり、九州王朝により創建された事を示していたのである。
九州王朝の存在を考えると、説明不能だった遺構の持つ諸矛盾が一気に解決したのである。「尼寺」では、建築物に南朝尺(晋後尺)、建物間距離に隋尺(大尺)が、並列して使われていた。ここから私は、この寺が7Cの中頃に創建されたか、とも推測した。(白村江の戦以前・使用した単位には別論も出ている)「尼寺」は「○○寺」だったのである。
だから先行建物をいくら想定しても現実にある諸矛盾、疑惑は少しも説明・解明出来ないのである。「○○寺(後で尼寺となった)」が「僧寺」より先に創建されたのだと認めなくては、すべてが説明出来ないのである。
一見すると先行建物を想定する事で「初期瓦」の位置づけは確定し、古瓦の学者も納得する。しかし「国分寺」遺構の現状はこの想定ではまったく説明出来ないのである。これでは「初期瓦」の説明のためにだけ、先行建物が考え出されたのかと私には思われる。「○○寺」は九州王朝により創建されたのだ。その後、大和王朝により「尼寺」として再利用されたのだ。この認識が、先なのである。それこそが現実を説明できるのだと思われる。
5. 「○○寺」の先行建物
ただ、一元歴史の想定した「○○寺(尼寺)」伽藍に先行する建物があった、瓦がそこに使われたと言う考えは、私には強力な援軍でもあった。実は、私もそうではないかと思っていたからである。「信濃国分寺 発掘50年史」(国分寺資料館)を御覧ください。注意してみると、少なくも4カ所に不審な建物痕が認められよう。
その内、「塔」跡と思える遺構に言及しよう(図3)。上田市では、「国分寺」遺構の発掘に際し、それらの土地を所有する地権者数が多いため、小面積単位での発掘となった。その為、一気に遺構の全体像が認定できなかったようだ。それもあってか、発掘の開始後、斜線の一部分をまず発掘、それを塔跡として想定した、と思われる。
初期の発掘をまとめた「信濃国分寺―本編―」(昭和49年吉川弘文館)では、断定を避けながらも、斜線部分を塔跡と想定し、そこにあったかと言う心柱石を紹介している。地元では、長さ1.8mの心礎石らしいこの石を、想定された塔跡地から近くの「高麗社」社前まで運んだ、という伝承が残っていたのである。しかもこの伝承通りに、巨大な石が近くの「高麗社」前に現存しているのである。だから、「信濃国分寺―本編―」紹介(掲載)時点では、この塔の存在を相当確実視していたのだと思われる。しかも、最近出版の「国分寺」紹介本でもこの「二つの塔跡図」が掲載される位だから、地元の研究者は最初の想定を信じ、そこから塔を追求したのだと思われる。
しかし、数年かけての発掘が進むにつれ、隣接した地点で別の塔跡かと思われる小礎石(群)が発見された。そして当時の学問的興味はそこに移り、最終的にはそこが「僧寺」の塔跡として認定されていく。そこの中心線の角度が「僧寺」伽藍と同じである、というのがその決め手だったかと推測される。最初の塔跡想定地(正方形だった)の持つ中心角度は「僧寺」伽藍の持つ中心線角度とは異なっているからだ(しかも「○○寺」の中心線角度とも異なっていた)。巨大な心礎石への考古学上の判定も、石表面からはっきりした柱痕が認定出来ない為、「塔跡」とは断定できなかったようだ。
けれども、上田の国分寺遺構には、間違いなく「二つの塔跡」と思える痕跡があるのは事実なのである(今では最初の想定地を、建物跡と説明)。図でも解るように「僧寺」伽藍の塔跡に隣接し、巨大な石をも残した建物は、じつは先行した塔の痕跡ではないだろうか。
武蔵国分寺には「塔」が二つ、現存する。そこでも二つの塔は異なる角度を持つ。上田市とは、実に興味深い関連を持つと言えそうである。
地元に残された伝承通りに、『(「高良社」勢が最初に塔を造り、それが壊された時、)使われた石を地元の人が「高良社」へ返した』と考えるとうまく整合するのだが・・(私の論旨とも奇妙にも一致する)
これ以外にも先行建物の痕跡は、前述した「○○寺(尼寺)」の推定中門に隣接する建物の礎石、「僧寺」伽藍内にある意味不明な建物痕(幡をたてた跡と説明)、両伽藍の外部(中間位に位置)にある版築痕、と数多い。先行建物はあったと断言してよいだろう。
6. 先行建物と「初期瓦(蕨手文様瓦)」
一元歴史論者はすでに「○○寺(尼寺)」より古い「先行建物」の存在を認めている。私もはっきりと主張してみよう。「○○寺(尼寺)」は、7Cの中頃、創建されていた。そして、それに先行する建物があったのだ。それは恐らく6Cには建てられていたのであろう。この先行建物が6Cに創建された時、それらの建物に「蕨手瓦」を含む「初期瓦」が使われたのではないだろうか。
「蕨手文様」瓦が焼かれ、使われた時代が判明してきた。現在の想定より、はるかに古い6Cなのである。驚くべき事だが、論理はそう言っているのだ。
さて「蕨手文様」瓦が、焼成期・目的共に不明な「謎の瓦」とされて来たのは、この「蕨手文様」が、何を意味するのかが全く不明だったとも思われる。確かにそれへの解明を試みた論考は今迄には皆無だったといってよい。しかし、「蕨手文」の持つ意味を解明する事こそが実は最大の肝要事ではないだろうか。「蕨手文」とは何なのか、だれが使ったのか、その追求がなされなくては「蕨手文様瓦」は永久に解明できないのである。
ところで長野県下の考古遺品では、この文様は、以前にも、以後にも出現してしない。だから県内には解明への手掛かりはない、と思える。さらに前述のように、瓦編年からはこの文様への判断はなされていなかった。そして瓦の出土が複数個所にわたる為、出土層からの特定もできなかったのである。このような文様へはどう推論を進めたらいいのだろうか?
7. 「蕨手文様」瓦の意味する事
私は、一元論者もその一部を認めた「○○寺(尼寺)」に先行する建物に、この「蕨手文様」瓦が使われたと推測する事が最大の手掛かりと思う。建物への根拠はすでに述べてきた。6Cに造られた「塔も含めた先行建物」に、「初期瓦」群(「蕨手文瓦」も)が使われたと推定してきた。今迄のように「国分寺(僧寺)」にこだわる必要はない。繰り返すが、この瓦群は、6Cには焼成、先行建物に使われたからである。
そう考えた時、James Mac氏の論考『阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉』が、私の脳裏に浮かぶ。氏はそこで、「磐井の乱」は実在し、それは「物部」の一勢力により引き起こされた、「日本書紀」の表現と「蕨手文様」を持つ装飾古墳・阿蘇溶結凝灰岩の存在がそれを証明する、と力説されていた。これらは6C、九州での事件であった。彼らは「蕨手文様」を「装飾古墳」にはっきり表示したのである。
「蕨手文様」は、この時、この「物部」の一勢力のシンボルなのだといえよう。九州での「蕨手」を持つ装飾古墳の使用(埋葬法の一致から同一勢力の存在を示す)からは、明らかにそう理解してよいと思われる。
場所は違うが、このシンボル、「蕨手文様」が九州と科野で同じ頃に使われたと推量出来ないだろうか。6Cに遡れる「科野」の先行建物に使われた「蕨手文様」とは、彼ら「物部」の一勢力がシンボルとして九州で使った文様と同一だったのではないだろうか。
こう理解すると、空前絶後だった「科野」の「蕨手文様」に初めて説明がつく。同じ認識を持つ、同じ勢力により持ち込まれたのである。文様の使われた期間の短さも説明がつく。この勢力の覇権は短かったからだ。しかも使われた場所(墓と寺)からは、このシンボルが九州・科野共に、「死者を弔う」という共通の意識から使われたと認められよう。
過去に遡った「蕨手文様」の由来や分布が問題なのではない。6Cの九州でこの文様がどの様に使われていたのかが、問題なのだと私は思う。九州では「装飾古墳」に用いたのである。科野では「寺」に使用されていた。そこには共通する意識があったと思え、彼等が「科野」へもやってきた事を暗示している。だから、この勢力により「蕨手文様」が瓦の文様に使われたと私は判断する。その瓦が考古遺品として今も複数残るのである。
8. 結論として
千曲川沿いに濃厚分布する「高良社」への追求からは、「物部」の一勢力が浮かんできた。そして「蕨手文様」瓦からも「物部」の一勢力が浮かんできそうである。「物部」の一勢力が九州から進出したという想定こそ、「科野」の未解明の考古事象を解きほぐし、「高良社」の濃厚分布を説明するのではないだろうか。
「科野」での考古事象からは、Mac氏の推論が正しく、そこからは「磐井の乱」はあった、と言えるのではないかと私には思える。
最後に、「蕨手文様」から見える、定説化した「物部・廃仏派」への疑問を述べ、未解明のある瓦文様への妄想を述べて、論考を終わりにしたい。
「蘇我氏」との確執・対立から、「物部氏」は「廃仏派」を代表する部族、「日本書紀」の記述がそれを裏付ける、とされて来た。しかし、本当だろうか?私の推論は違う。「蕨手文様」を一族の象徴とした「物部」の一勢力は、これを使って寺の瓦をも意匠し、造っているからである。「蕨手文様瓦」がそれだ。これが廃仏派の行為だろうか?
「科野」への進出状況からは、部族のアイデンティティーとしての「高良社」への依拠と同時に、新興する仏教へも理解を持ち、その公布を進めようとした部族像が浮かび上がる。「廃仏派」認定は再考されるべきと私は思う。仏教を高く評価し、それ故に融合を図った結果の「蕨手文様瓦」だったのではないだろうか。自分たちのシンボル「蕨手」を瓦に使ったのである。
9. 最後の妄想
ここで、日本では唯一の文様を持つ、ある「瓦」への妄想を述べよう。前述した「蕨手文様」瓦への推測と重なるからである(図4)。ただ、この妄想には根拠はなく、受け流して頂ければうれしい。
この瓦は今迄、「弁芯のある八葉単弁蓮華文」瓦と説明されてきた。だが「蕨手文様」瓦と似て、日本中探してもこれと同じ文様の瓦は無い、ユニークな文様だ。が、よく見ると、瓦の中心円と弁とは、はっきりと離れている。だからこれは「蓮華文」とは言い切れない。これは弁(蓮華の花弁)ではないのだろう。円の中心部から見ると確かに「蓮華文」の変化形だが、円(瓦)の周辺側からみるとこれは「蕨手文」なのである。向き合った「蕨手文」なのである。つまりこの瓦は、両者を同時にデザインしている、融合をさせている、と思えないだろうか。「蕨手文様」を「瓦」の文様に使ったのと同じ試みではないか。
同じような例は「鋸歯縁複葉蓮華文」(面違タイプ)での「鋸歯縁」で、これは周囲を「三角文」で囲まれた瓦かと私は思う。装飾古墳での「連続三角文」がこの瓦の周囲にデザインされたかと思えないだろうか。一つの「瓦」に「蓮華文」と「三角文」が同居しているように見えなくはない。
妄想は終えよう。ただ、前述の「土井の入古窯」では、「鬼面紋鬼瓦」と思える瓦も出ている。思ったより早くから「神仏習合」は行われていたかも知れない。「高良社」から「蕨手文様」が見出されでもしたら、妄想への、真実味が出て来るかも知れない。
(終)
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〔以下の図版は吉村さまから送付された画像の中から山田が選択して追加しました〕
上記論文冒頭で「前号」とあるのは次の論文(「科野」の「高良社」と多元史観)です。
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「科野」の「高良社」と多元史観
上田市 吉村八洲男
平成二八年十一月に「東京古田会」「多元的古代研究会」の合同研究旅行が催行された。「科野に多様な九州王朝の痕跡を探る」というテーマの下、その案内人を務めさせて頂いた。その際、長野県下に多い「高良社」(古田先生の初任地は「松本深志高校」、松本市近辺に「高良社」が多い事を最初に言及されたのが先生だった)を、水系に分けて説明してみた。3年前までは千曲川水系に2か所と言われた「高良社」だが、新発見がその頃相次ぎ、十二カ所にまでなっていたからである。(私も多少の貢献はしたかも知れない。)旅行用にまとめ上げたパンフには、発見された「高良社」のリストを入れておいた。
しかし今振り返ってみると、次々に見つかる「高良社」への驚きや、「科野」地での九州王朝の痕跡に心が奪われ、肝心な「高良社」発見結果への分析や推論などが不十分だったと言わざるを得ない。私の興味も「高良社」から他に移り、結果、ほったらかし、となってしまったのである。
さて、この事に思い至ったのはJames Mac氏(阿部周一氏)による『古田史学とMe』に掲載されたブログ記事『「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉』(2015・最終稿)を読んだからである。パソコン世代ではない私は、山田春廣氏のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」」でこの論考の存在を知り、読了し終えて驚嘆したのであった。該博で、しかも集積された知識によるその推論・結論には説得力があり、新参者の私にはただただ衝撃的なものだったからである。この内容が3年前に既に発表されていたとは……。
同時に私はある感慨も覚えた。「科野」での、「高良社」・「蕨手文瓦」・「銀象嵌された剣」「横穴式古墳(剣が収納されていたた)」・「地名」などなど、私が九州地とは別地にある遺跡で、別個の問題と考えていたものが、実はMac氏の提起した推論によると密接に一体化・関連しているのではないか、という衝撃だった。つまりMac氏は、私や「科野」にとって看過出来ない重要な問題を提起されていたのではないかという事になる。
「科野」での諸現象や考古からの結論が、Mac氏の推論を裏付けるものであれば、その推論は正しいものだったと言わざるを得なくなるからだ。それは長年の懸案だった「磐井の乱」問題の解決すら意味しよう。私は既に「多元」No.140で「蕨手文様は九州の装飾古墳での壁画がルーツか」趣旨の論考を述べている。それがMac氏の主張をすんなりと受け入れる素地だったのかも知れないが…。
先ずは簡単にMac氏の主張を要約しよう。(是非ブログでご確認下さい)「磐井の乱」への新考察である。氏は、この出来事を「九州王朝内の権力争い」と捉え、「倭国王権」がこれにより雌伏させられたと判断したのである。私的に、わかり易く説明するとクーデターがあった、という事だろうか。有名な「阿蘇溶結凝灰岩」(灰色)が古墳に使われない約60年間に、「蕨手文」使用の装飾古墳が物部氏の本拠地周辺に造られたことから、この結論を得たのである。これらの古墳の存在こそが権力の交代を示すとしたのである。
これらの遺跡の差異・特徴については考古学からははっきり説明出来るようだし、Mac氏と同様の推論もすでに出されてもいた。(伊東義彰「装飾古墳に描かれた文様」古田史学会報77号・合田洋一「九州王朝にあった二つの「正倉院の謎」・他)
古賀達也氏も同様の推論を述べながら、文献による明確な結論が出来ない状況では宿題としても良いとされている。(「倭王の「系図」と都域」古田史学会報46号・他)
Mac氏は「日本書紀」への精緻な分析から倭国王権の雌伏期を推定し、文献と考古遺跡とを結びつけ、磐井の殺害で倭国王権・王統が一時断絶したとの結論を導きだしたのである。「乱」の首謀者は物部一族だったとし、再度これを倒して、倭国王権は九州王朝を支配していった、という事になる。これらの推論は古田武彦氏の“「磐井の乱」はなかった”とする見解とはまさに正反対な推論であり、当然否定論の方が多かったようである。その為か余り話題にはならなかった様に思われる。
これから「科野」での幾つかの事象や考古を述べていく。九州と科野、離れた両地での出来事だ。しかし、「科野」での「高良社」(「玉垂命」が「物部」であることは「秘すべき」事だった)への推論と、全国で唯一、上田・国分寺跡から出土した「蕨手文の瓦」への分析その他は、すべてMac氏の推論を裏付けているのではないかと私には思われるからだ。
先ず、研究旅行で果たせなかった「高良社」ヘの分析から始めたい。表をご覧ください。
【表】 十三社の概要
(所在地 神社名 主祭神名 「高良社」の状況 特記事項 八幡と若宮)
一、飯山市瑞穂 小菅神社 伊弉諾尊・他6神 「玉垂社」今は無いが『明治神社誌』にあり 白鳳8年 役小角創建社伝 柿本人麻呂歌碑あり
二、長野市塩崎 軻良根古神社 誉田別命・他2神 石柱上の「高良社」石祠 八幡・若宮(共に石祠あり)
三、長野市松代 祝神社 生魂命・他2神(境内社に「応神天皇」あり) 「高良社」現在は無い、が『明治神社誌料』には掲載 合祀されて現在地へ 八幡社
四、須坂市小山 墨坂神社 品陀和気尊・他3神(a.) 境内社「高良社」 白鳳2年創建 社伝 八幡宮・若宮(境内社・額) 同市「芝宮」地にも同名社あり
五、千曲市八幡 武水別神社 誉田別命・他3神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 「さざれ石」あり 裏に「天神7代」「地神5代」神名・社 八幡命(地名も)若宮(額)
六、千曲市上山田 佐良級神社 誉田別命・他2神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 若宮(額・地名)
七、上田市本原 誉田足玉神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 八幡さま(口伝)
八、上田市国分 国分神社 応神天皇 境内社「高麗社」 国分寺の鬼門 八幡宮(額)
九、上田市下之条 葦原淵神社 大鷦鷯命(仁徳天皇だが応神天皇と同一人物とのこと) 「高良社」(樹の洞中) 本殿「若宮八幡宮」表示 八幡・若宮(社名・地名)
十、上田市下本郷 誉田別神社 応神天皇 境内社「高良社」・「高良玉垂命」あり 八幡宮(額)
十一、上田市五加 八幡大神縣社 誉田別神・他2神(a.b.) 境内社「高良社」「高良玉垂命」 拝殿あり(武内宿祢神) 八幡(社名)若宮(額)
十二、佐久市蓬田 浅科八幡神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良玉垂社」(武内宿祢 配祀) 八幡(社名)
十三、佐久市岩村田 若宮八幡社 誉田別命・他4神 「高良社」額・説明板にも明示 合祀あり(他に多くの神名) 八幡・若宮(社名)
(注記)
・神名は「誉田別神」を先頭に表記し直した。神名で多い「a.息(気)長足比売命(神功皇后) b.玉依姫(比売)命」は「他」に含めた。数字はこれを含めたものとなっている。
・犬塚幹夫、鈴岡潤一両氏のご協力による
・『明治神社誌料』は郷社を中心に、明治45年に出版された
・千曲川下流から上流へ向かう順序としてある
・「小菅神社」は修験道の道場として有名。 他の「高良社」とはやや異なるか。
・2018/7/30時点のもの 特記事項は吉村が判断した
さて「多元」誌№136に古賀達也氏の『多元的「信州』研究の新展開』が掲載されている。そこでは千曲川水系で2か所が紹介されている。だから11カ所増えた「高良社」を皆様にご報告させて頂く事になる。狭い「科野」の、更に小さな千曲川流域に13か所の「高良社」が認められるのである。この社が、異常ともいえる密度で分布している事、しかも地域内の主要地と認められる地に分布している事は否定できないだろう。ここからも九州王朝が「科野」へ来ていた事、これはもう疑いようがないと思う。だから歴史の定説、『「高良社」とは「高麗社」の事、帰化人や渡来人を祀る神社』という噴飯ものの説明(今でも長野県はこう説明する)は是非考え直して頂きたいものである。
【考察】
(1)上田市への集中は、数字上からも容易に読み取れよう。5/13か所である。更に「御井(みい)神」の存在をそこへ追加してもいいと思う。「御井神」への信仰は「高良信仰」のルーツといわれ、すでに論及もされている。九州・久留米では郡名も「御井(三井)郡」となっている位だ。この「御井神」が、上田市では、子檀嶺(こまゆみね)神社と生島足島神社に認められる。これは他の流域地にはないようなのだ。上田は重要地と見られていたようだ。
(2)12カ所の「高良社」からは特徴的な事が認められそうである。主祭神が同一か、そうでなくても極めて類似している事である。そこからは「高良社」への信仰が,短期間に、ある特定な勢力により広がったのではないかと想像できるかも知れない。長野県に九州勢が来たのは(最初は佐久地方から)、私見では3C、4Cの頃からと思われるが、その時代の祭神は「宗像三女神」系統が多いように思われる。だから、県下にはこれらの神々を祭神名に残した神社が多い。
だが「高良社」を標榜したこの勢力は、この時期、この神々に代わり、千曲川流域に一気に広がったようだ。しかも「玉垂命」だけでなく、「誉田神」とも密接に繋がっているように思える。「日本書紀」などによる神名の変更や表記替えなどがあったにしても、両者の関連性には注目してよいだろう。「科野」へ来たのは新しい時代の「高良社」勢力であったのだろうか。更に「誉田神」への追求が必要になるかも知れない。
(3)「小菅神社」を除くすべてに「八幡」がある。「高良社」とは「八幡社」のようである。これは「高良社」の根源的なところに既に「八幡」が有った、と言えるのだろうか。「神功皇后」とは、「卑弥呼・壱(台)与・玉垂命」を合体させて創り上げたもの、との正木裕氏の秀逸な論考がある。そして「魏志倭人伝」によると、朝貢した「卑弥呼」は魏王から二回にわたり「黄幢」を授与されている。これは「はたぼこ」と解されている。実際、竿(旌旗)の先の飾りの有無が「幢」と「幡」の違いであるようだ。(「諸橋漢和辞典」には、「幢幡」と言う語もある)戦いに際し「卑弥呼」・「高良社」勢の本営から臣下に与えられたのが「幡」(はた)なのではないだろうか。自分たちが中国王朝から「幢」を授与されたことに倣った事になる。
(4)「玉依姫(比売)」神も「高良社」を持つ神社の祭神の中にしばしば登場する。そして「若宮伝承」を持つ神社と多くが一致する。そこからはこの神名を「巫女」と解釈する従来説よりも西村氏が述べていたように『「玉」のような男の子に「依」り添う「姫」』(古田史学会報113号)と考える方が自然であろう。
さて、なぜ「高良社」が「科野」に多く残るのか、という疑問も出るが、もう稿もつきる。またの機会に、という事になろう。しかし「蕨手文様の残る九州の装飾古墳と上田にある全国唯一の「蕨手文」瓦とが「高良社」を介して繋がるかも知れないのである。その構図が「科野」の「高良社」の分析から見えてくる気がする。互いの関連性には、より新たな追求がなされてしかるべきと私は思う。そして、私は改めてJames Mac氏の推論に心を惹かれている。
次号では上田での「蕨手文様」瓦やその他の考古遺物について再考をしていきたい。(次号につづく)
…………………………………………………………………………………………………………
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コメント
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山田様
吉村様の論考拝見させて頂きました。
キーとなる部分で拙論が参照されているようであり、興味深いと同時にやや緊張もします。
氏の論によれば、信濃(科野)という地に展開している考古学的事実について、一元史観で理解しようとすると矛盾となるという現象があるようですが、これと同種の現象は現在各所、各方面で起きていることであり、結局「九州倭国王朝」の存在を考慮に入れない理解は成立しないことを意味するものです。
また「科野」の地で「高良社」の集中分布があるとされ、また「蕨手文」と思しき「瓦」が確認できるようですが、実に興味深く、総じて「科野」の地に「物部」の影を感じるという氏の論に(山田氏同様)賛意を表明します。
ただ、この「物部」の「科野」における短期間の「存在感」が例の「六十年間」のことなのかいう点はどうなのでしょう。
『書紀』によれば「守屋」の関係者一族は「守屋」死去後「各地に逃亡」したようですから、「都落ち」した一部の人達が「科野」で「物部氏」としてのプレゼンスを継続しようとしたとも考えられるでしょう。それは「古墳」と「寺」という時代の位相の異なる中に「蕨手文」が現れることにもいえます。もしこれを同時代と見るなら九州では「古墳」、科野では「寺」というような別の形態をとった理由を求める必要がでてきます。
その意味で「古墳」に「蕨手文」が表されることと、「寺」の荘厳として「蕨手文」が出現するのは本来は直接は結び付かない事象と思われます。
氏の論旨から言うと本来は「科野」の地に「装飾古墳」が有り、そこに「蕨手文」が確認されるならばより強固な論証となったと思われますが、現実としては「蕨手文」の瓦が確認されるわけであり、そのことから時期としては「六世紀」も終末時点ではなかったかと思えます。つまり「守屋」一族追放後のことと見るのが相当とも思えるわけです。
一般的に言うと「古墳」(前方後円墳)の終焉と共に「寺」の建設が本格化するわけですが、そもそも「寺」は「宗教的施設」ではあっても「墓」ではありません。前方後円墳の後にもいわゆる「終末期古案」というものが造営され続けるわけであり、この時点では「墓」としての「古墳」と「墓」ではない「宗教施設」としての「寺」とが共存していることとなります。
そしてこの時点以降「科野」においては「墓」である「古墳」には「蕨手文」が描かれなくなり、「寺」の瓦にだけそれが見られるというのは「死生観」の変化もあるのかもしれません(「前方後円墳」の築造停止は必然的に「古典的祭祀」の停止も伴うものともいえます)
このことは「物部」が「前方後円墳」の築造を停止という倭国王権の指示を受け入れている姿勢が感じられ、「倭国王権」の軍門に「物部」一族が下った現実を反映しているようにも感じられます。
とりとめのないことを書きましたが、吉村様の研究が今後より一層進むことを強く願っていますし、拙論がその一助となるようであれば大変光栄です。
投稿: James Mac | 2018年11月13日 (火) 01時47分
James Mac さま
吉村八洲男さまの論考にご意見を賜りありがとうございます。
重要なご指摘も含まれていますので、記事として転載させていただきます。
ご了承ください。吉村さまにもメールを差し上げてお知らせいたします。
丁寧なご講評をいただき、ありがとうございます。
今後ともご教示くださいますようお願いいたします。
投稿: sanmao | 2018年11月13日 (火) 02時10分
JamesMacさま
吉村八洲男さまから、ご指摘にたいするご意見を、メールでいただきました。長文をコメント欄に書き込むことに苦労するのは私も同じで、ワープロで作成した文章をそのまま私宛にメールで送付されたものです。そんな事情で私の代筆でコメント欄に記載させていただきます。下記が吉村さんのご意見です。
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尊敬するMac氏から、早速の御指摘がありました。ご返答ありがとうございます。赤ペンを入れられた生徒の気分です。「寺」を墓としている、と思われかねない表現は、確かにおかしく、ご指摘のとおりで、次回には別の表現としなくてはいけません(セミナー論考では違いますが)。そのうえで、2、3の反論をさせて下さい。
私も、物部守屋が誅殺され、残党が地方へ逃れた、その勢力が「高良社」・その他を造ったという可能性も検討しました。しかし「高良社」の濃厚分布(解っているだけで23、しかも「科野」の国一帯に分布)状況は、残党の仕業とするには不自然と思いました。彼らは同時に塔も造っているのです。
「○○寺」創建が7C中頃と予想(実際はもっと早くから?)しましたが、九州王朝の伸長期、隆盛期の創建であることは、間違いありません。ところが塔を含めた先行建物群は、それ以前です。これを7C始めとすると、これらの貴重な建造物を残党勢力が造ったことになります。造れるのでしょうか。しかも「蕨手文様」瓦も使っています。もっと権力を持っていた時の築造と考えた方が自然と思います。
これらの建造物に、「蕨手文様」だけでなく、各種の文様をもつ様々な瓦が使われています(「初期瓦」群)。ここから私は、仏教に、国家権力的な強い力が及ぶ以前の、草創期の仏教(寺)を考えてみました。全国一律的な力が及んだ寺が「○○寺」と思うからです。瓦デザインの自由さも見て取れ、倭国権力の支配(統制?)以前の瓦かとも思えます。
Mac様は、物部残党勢が倭国主流派に取り込まれて行く事を予想されています。これはそのとうりかと私も思います。(上田での古墳と寺の関係については面白い資料があります)。いずれにせよ更に検討を重ねなくてはと思っている所です。
色々とご指摘頂きありがとうございました。これからもよろしくご教示下さい。
吉村八洲男
投稿: sanmao | 2018年11月14日 (水) 22時47分
一昨日、2021.11.20.、大阪i‐siteにてお話をお聞きした、大阪古田史学の会の田原と申します。
蕨手模様のこと装飾古墳見学のおりから印象に残っており、信濃にも、古瓦や多くの現存神社神紋の一部として
認められるとのお話興味深く伺いしました。
さて本日たまたまネット眺めていましたらホツマツタエの解説動画に出会いまして、その中のヲシテ特殊文字という
渦巻きがたの二文字が、「の」の字、及び、逆「の」の字形模様に近いのではないかと思えたので報告致します、
ご周知の折はひらに失礼ご勘弁のほどを。
サイト名は ” NAVI彦 ” とあります 。
投稿: 田原 | 2021年11月22日 (月) 03時04分
田原さま
閲覧とコメント、ありがとうございます。
筆者の吉村さまも頂いたコメントをお読みになると存じますが、
念のため、ご教示いただいたことを吉村さま宛にメールでお知らせいたします。
今後とも宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。
投稿: 山田春廣 | 2021年11月22日 (月) 06時45分
初めまして、江戸期の庄内地方(更には、奥羽山脈を北から南は、山形内陸にかけて)「被衣」という冠婚葬祭時の礼服的なものがあります。着物の形をしていますが、女子が頭からかぶって全身を覆うアイテムです。井伊直弼が桜田門外の変に際し「被衣」をかぶって女子に扮装した侍に襲われた件で「被衣」は、有名です。
この「被衣」に描かれた文様の一種に 頭上あたりに「大紋菊」そして 裾文様に雲の中の「蕨」文様があります。
以前からこのあたりで使用された「被衣」と「庄内暖簾」に蕨文様が一部使用され、意味を持つ表現と思いましたが、わかりませんでした。
単純に山野の春菜とだけの解釈だけではなく、江戸期冠婚葬祭という極めて大衆の耳目を集める重要な場面での 「蕨紋の被衣」の表現文様だけに、何か穏やかではありますが出自(ルーツ)を示す主張が あったと思います。
古代史からは、かけ離れますが、近現代ま続く 何かが表現されていると思います。
ご意見をお聞かせください。
投稿: saiyuu2 | 2021年12月13日 (月) 14時22分
saiyuu2さま
閲覧とコメントありがとうございます。
吉村八洲男さまもご覧いただいているはずですが、
念のため頂いたコメントを吉村さま宛てにメールで転送しておきます。
今後もご意見などございましたら、是非ともお寄せください。
よろしくお願い申し上げます。
投稿: 山田春廣 | 2021年12月13日 (月) 19時03分
mailをお寄せ頂き感謝に堪えません。数年前から「蕨手文様」に関し「多元」誌などでも何回も主張して来たのですが相手にされず(?)放置されて来ました。ブログでも反応はありませんでしたから、ご意見はとても心強く感じます。長くなるかも知れませんが、ご寛恕下さい。先ず、凄く貴重な発見とおもいます。「複合タイプ」なのか、そうでないのか、興味が湧きます。画像で知れたらな、とも思いますが、改めて教えられます。当方、視野が狭く「科野の国」が論考・思考の中心です。「庄内地方」に「蕨手文様」があり、「被衣・庄内暖簾」などに使われていた、「冠婚葬祭などの(晴れの日)」にも使われていたとは、全然気が付いていませんでした。「アイヌ」の人々に、似た「蕨手文」がある事は承知していたのですが、それとはチョット違う様です。ご指摘されたように、「蕨手文」が今でも有意義に使われていると結論しても良いかと考えます。私的には「外向き蕨手文」なのか「内向き蕨手文」なのかにも興味が湧きますが・・(その理由は、「科野からの便り」で述べてあります)「庄内地方」での具体的な使用法からは、それと違う新しい発見・解釈が出るとも予測されますね。
切れ切れな私の論考ですが、手短に要約・説明しますと「蕨手文様」の「科野の国」での顕著な残存から、九州勢が、具体的には「物部一族」が一時期「九州王朝の盟主だったのか、と予測しました。
投稿: 吉村八洲男 | 2021年12月17日 (金) 18時40分
引用させて頂いたJames様論考では、「磐井の乱」とは「物部一族」が起こした体制内権力争いかと推量しています。
そして、彼らの一部が重要地「科野の国」へ「蕨手文様」と共に進出したと私は思っています。そして「物部一族」は、この事件をきっかけに「科野の国」だけでなく全国主要地に進出したとも思っています。「蕨手文様」が形を変えて「懸魚」として神社神紋に残っているのもそれを裏付けていると思います。
ですから現在にも「蕨手文様」が残っている理由は、「庄内地方」も重要地であった事を予想して良いでしょう。だから「蕨手文様」を持った「物部一族」が進出したと思えます。ですからその頃から「蕨手文様」が「庄内地域」に定着したとも思います。伝来は、6世紀を予想します。(磐井の乱以後)
権力者、支配者の使用が広がり、やがては定着したと考えます。どうでしょうか?古代(6世紀頃)「庄内地域」に「物部一族」の痕跡があればすんなりと説明出来そうですが・・
「蕨手文様」とは、一般の人々が仰ぎ見る人びと(支配者層)が使い始めたのが始まりではないでしょうか。以後の使用も、その支配者となんらかの繋がりのある人々だけに許された特権だったかと思います。使用は、誇るべき事だったかと思います。
投稿: 吉村八洲男 | 2021年12月17日 (金) 19時35分
驚く事に、上田では「石祀」で、「庄内地域」では、晴れの日の「被衣・暖簾」です。上田より、日常化しているとも言えます。
あくまでも推測ですから正誤は不明です、推測です。しかし「蕨手文様(特に複合としたら)」が今でも「晴れの日」に使われている事は驚嘆すべき事で、逆にそこに意味を見出すべきと愚考しますが・・
答えになっているかどうか、不明ですが、以上の様に考えて見ました。
「蕨手文様」は貴重です。それが現在の生活にも使われているとしたら、更に驚嘆すべき事と思います。「庄内暖簾」には案外と貴重な歴史が隠されていたのかも知れませんね。
ご教示、誠に有難うございました。私見の正誤にこだわることなく、ご自身のご思考を深められ、「野」にある「山菜」をデザインした、などと言うおかしな定説、偏見を正す新しい見解・発見をなされる様希求いたします。期待します。
また色々とありましたら、ご教示下されば幸いです。 吉村八洲男
投稿: 吉村八洲男 | 2021年12月17日 (金) 21時10分