« 日本の法律を守るつもりがないヒルトン | トップページ | 図書紹介 百田尚樹著『日本国紀』 »

2018年11月14日 (水)

「科野の国」から見る「磐井の乱」

「科野の国」から見る「磐井の乱」

「古代史セミナー」で発表された論考[古田史学]

 Yassiさんが八王子セミナーハウスで開かれた「古代史セミナー」で発表した論稿をご寄稿くださいました。Yassiさんの発表は「古代史セミナー」の二日目(最終日)の最後だったため、時間切れで「蕨手文瓦」の紹介だけで終ってしまったようです。Yassiさんの発表を聴き逃された方にも、発表原稿をご寄稿頂けたのは幸いです。Yassiさん、ご寄稿ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

 

 なお、論稿末に「ご批判下さい」とありますので、ご批判はコメントにお寄せくだされば、❶記事として転載する、❷コメントとして公開する、❸公開せず吉村さんにメールで転送する、❹不適切なもの(誹謗中傷「神学的見解(絶対的に正しい(“正統”)とする前提を置いて他を間違っている(“異端”)と批判する見解=“魔女狩り”の理屈)」など)は公開せず削除する、このいずれかの処理を私(山田)の独断でいたします。❶及び❷の場合もメール等で吉村さんにお知らせいたします。当ブログは学問を進展させる対話的討論を大歓迎いたします。よろしくお願いします。

(山田注記)

題名及び章の題名ともなりうる語句字体変更、並びにセミナー用パワーポイントの状態をできるかぎり再現するように努めた図版に不充分な点があれば、私の責任です。また、James Macさんのブログ記事『「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉』にはリンクを貼らせていただきました。なお、章番号「4.」が抜けていたため、「5.」以下を繰り上げて付け直しました。ご了承ください。

 

…………………………………………………………………………………………………………

「科野の国」から見る「磐井の乱」

上田市  吉村八洲男

 長野県上田市の吉村です。浅学非才、新参者の私に発表の機会を与えて頂き感謝します。

今迄は「科野の国」は九州王朝説・多元観からは僻地ともいえる地で、ごく一部の人から注目を集めたに過ぎない地でした。けれども長野県下に残る事象・風習や多くの考古遺跡は九州王朝説・多元観でなくては説明できない例が多いと思われ、私も在住者としてそれらを多元の立場から考えて来ました(熊本、長野の間に遺伝子の近縁関係が認められるとの指摘がありました)。オールドルーキーの私には身の回りの「蕨手文様瓦」「信濃国分寺」「高良社」「銀象嵌太刀」「横穴式古墳」「九州由来の地名」など、一部の考古への関心が主でした。いずれも上田市、その周辺地に何故か集中してあったからです。ところが調べていくと上田に残るそれぞれは、歴史観を変えさえすると極めてユニークなものだと判明してきました。まずそれらから説明します。

 

 

. 「蕨手文様」を持つ瓦です。この文様の瓦は全国でも上田の国分寺遺跡とその周辺地だけしか発見されていません。

蕨手文様瓦
Photo

王塚古墳の蕨手文様
Photo_2

高良社 千曲川流域図犀川除く
Photo_3

上田市、坂城町(「込山廃寺」跡・上田の隣接地)、須坂市(「左岸寺廃寺」跡・千曲川下流地)です。上田・坂城での瓦の焼成は土井の入古窯(坂城町)と推定され、蕨手瓦がこの窯の第1期の地層から出土しています(その頃のこの窯は瓦専用かと推定)。ですからこの「蕨手文様」の瓦が、ある目的の下、意識的に造られ、使われた事は明白と思われます。当時の寺(仏教)は社会的権力・文化集積などを象徴していたと考えられるからです。ですからこの瓦には相応の評価がなされていい筈です。ある人々(勢力)に使われたと考えていいでしょう。

ところがこの「蕨手文様」を持つ瓦への今迄の評価です。「レベルが低く、ローカルなもの、稚拙なもの」これにつきます。デザイン的には未完成、手慰みに造った補修用の瓦、など散々です。国分寺を造成した工人・職人達の住居用建物に使われたもの、在地の有力者・権力者が焼かせたもの、など様々な推論がなされて来ました。前述した千曲川流域の数カ所以外、全国からは出土せず、比較のしようが無いからです。一元歴史観では「国分寺」関連遺跡の年代判定基準は「聖武天皇の詔」がすべてのスタート基準です。瓦の編年も「日本書紀」の叙述で裏付けられた近畿の寺院から始まり、地方へ波及するものと断定されています。ですから信濃国分寺から出土し、さらに既成の瓦編年に合わない数少ない「蕨手文様」を持つ瓦は初めから無視される運命だったのです。焼成時期は8C半ばだろう、と推定されていました。

しかし、私が強調したいのは「なぜ蕨手文様だったのか、なぜこの文様が使われたのか」と言う根本への説明は一切なされて来なかったという事です。が、この説明なしではこの瓦の文様に込めた製作者の具体像やその意図が見えてきません。単に「蕨手文様」であると言う理由だけで低評価がなされるというのは信じられません。出土距離が離れていますし、「蓮華文」全盛時に「蕨手文」を使って補修(こう説明してきた)をするでしょうか。

「蕨手文瓦」の重要性はどうやって推定すればいいのでしょう。面白い見解があります。この瓦が出土する坂城町「込山廃寺」を紹介しました。実はこの寺からは「蕨手文様」瓦当しか出土しないのです。郷土史家の村上氏はこう不思議がっています。「(込山廃寺が)寺ならば何故に蓮華文瓦当にしなかったのでしょうか。(近くの)土井の入窯では単弁八葉蓮華文の鐙(あぶみ)瓦を造っているのにも拘わらず其れを避けている理由がどうしても解せないのです」(「瓦当文様の謎を追って」から)

私はこう考えます。日本の寺院の瓦(軒丸瓦)の文様は9割以上が「蓮華文文様」を持ちます。既成の瓦編年からは寺院の瓦文様とは即「蓮華文様」を意味します。6C末頃と想定する編年開始期以降からはこれを疑いようがありません。不即不離です。それらを「素弁・単弁」「単葉・複葉」と分類し編年していったのです。(基準はまだまだあります)

しかし瓦を創生した中国では、歴史上、瓦の文様には様々な意味が込められ、様々な文様が製作されて来たようです。「蓮華文様」が仏教と結びついて使われる様になったのは中国では「隋」時代以降、「唐」時代には確定したと思われます。日本への「瓦」伝来の時期は確定しませんが相当な古さが予想されます。仏教の伝来は「卑弥呼」以降(?)でしょう。ですから「蓮華文」以外の文様が古代日本に存在し、古代寺院に使われたとしても、実は何の不思議もないのです。この「蕨手文様」瓦は、「蓮華文」瓦中心の仏教寺院に先行した寺院に使われたものではないでしょうか。寺院には様々な文様の瓦が同時に存在し使用されていた時代があり、その方が古いのだと推定した方がいいのではないでしょうか。「土井の入古窯」からは「人面瓦」というユニ-クな瓦さえ出土しています。

「土井の入古窯」から出土した「人面瓦」
Photo_17

「蕨手文様」瓦などへのこの推測が正しいとすると、従来の瓦編年には相当な見直しが必要です。すでに従来説が持つ矛盾へは様々な指摘がなされ始めています。それに私も大賛成です。上田「蕨手文様」瓦は最古ともいえるある寺に使われたのではないでしょうか。

驚きの推定となりました。しかし8C中頃と推定されてきた今までとは余りにも時代が違い過ぎます。このままでは思い込みが強すぎるといわれそうです。

 

2. 「信濃国分寺」についてです。この寺は「聖武天皇の詔」により8C後半に創建、「尼寺」はその後、というのが一元歴史観からの見解で、実在する様々な矛盾を無視して定説となっています。

奈良時代の信濃国分寺 僧寺・尼寺伽藍配置図
Photo_4

しかし「尼寺」と言われた「○○寺」が「造営方式」に依拠して九州王朝によって創建されたとすると諸矛盾がなくなります。

ですから築造に際し違う物差しが使われた「○○(尼寺)」は「僧寺」以前に創建されていたと私は結論してみました。(この推論は「多元」No139140をご覧ください)

ところがさらに精査すると、「僧寺」より創建が早いこの「○○寺(尼寺)」以前に、すでに寺院・建物があったのではないかと推論できるのです。現存する考古資料(発掘調査書・他資料から)や近郷の伝承・遺品がその根拠です。これは「多元的国分寺」研究にも一石を投じる推測かとも思われ、同時に仏教が思っているより早くから「倭国」に根付き、地方へ広がった証明かも知れません。(九州年号にも「教到」「僧聴」他がある)

上田「○○寺(尼寺)」前の瓦窯跡の分析、二つある伽藍の、それぞれの中心線とまったく異なる方位を持つ正方形の建物痕(僧寺の塔に隣接)、「○○寺」の推定「回廊」の下に目立たぬよう位置取りされ使われた「瓦捨て場」、「○○寺」「僧」寺伽藍内にある幾つかの築造期不明な遺構などからの推測です。「○○寺」想定中門遺構以前にあったかと思われる建物の礎石も残ります。(一元論者もこの建物の存在だけは認めています)。

塔(?)跡
Photo_5

○○寺推定回廊
Photo_6

〇〇寺 南回廊跡 中門跡
Photo_7

○○寺」は7世紀中頃の創建と私は推定しているのですが、これらはそれより更に古い建物という事です。わたしはこれらを先行建物群とし、6世紀頃築造を想定してもいいかと推論しました。

信濃国分寺瓦窯出土の「創建瓦」と「初期瓦」
Photo_8

「僧寺」より先に創建された「○○寺(尼寺)」だが、さらにそれより先行した寺院があった、そう考えると「蕨手文様」瓦はこの先行寺院に使用された瓦群の一つと言えないでしょうか。実は「蕨手文様」瓦だけが珍しいのではないのです。この瓦と同じ製法で造られたと言われる、数多い瓦が国分寺遺跡からは見つかっています。

四葉単弁蓮華文
Photo_9

弁芯のある八葉単弁蓮華文
Photo_10

(これらは同時期の製造か、とも言われる)「四葉単弁蓮華文」「八葉単弁蓮華文」(2種類があるのか?1種には弁面に小さな芯を持ち四葉と八葉とがある。共に「素弁」といったほうがいい)。軒平瓦には唐草文、山形文、素文、均整蓮華文などがあります。素文鬼瓦もあります。国分寺(僧寺)瓦を焼いた窯の構築材に使われたものが含まれます。デザイン的にはシンプルな、線だけで構成されたものが多数です。私的には弁芯を持つ蓮華文に注目しています。

弁芯の拡大図
Photo_11

第109図 第110図 第111図
Photo_12

このデザインも蕨手文様と同じく他地にはありません。蓮華が「蕨手」由来とも思えます(いずれにせよ日本唯一の文様になる)。瓦のデザインは蓮華文から派生した、だからデザインからは瓦の新・古は推定できないと言う既成の説明では片付けられません。「僧寺」に使われた瓦と、これらは製作法が異なっていると一元の考古学からも指摘されているのです。

こう考えると「蕨手文様」瓦とそれをふくむ瓦群への今迄の低評価はいっそう釈然としないと思われます。これらの瓦を使った人々は意識的に、ある目的をもって瓦を製作し、使用したと言う判断こそが肝要と私は思います。文様の珍奇さ(),使われた期間の短さ,狭い範囲での使用などは評価とは直結しないのではないのか。そう判断出来ます。

確かにこの文様は全国へと広がりません。何故か「科野の国」だけです。「蓮華文」に先駆けて「「蕨手文様」を多用したこの人々・勢力が何らかの理由で一気に没落したからではないだろうか、先行建物と考え併せるとこれらの瓦は6Cに使われていたのではないか、それが私の推論・結論でした。

A国分寺の定説
A

尼寺とは「〇〇寺」
B

C 予想する創建順序
Photo_13

 

.  「高良社」についてです。主神は「高良玉垂命」です。

すでに古賀達也氏の精緻な数々の論考で我々は多くを学んできました。この社、祭神は「倭の五王」を輩出した九州王朝の主流というべき系統を示し、「高良玉垂命」とは九州王朝の天子だったのです。ですから、決して全国に数多い神社ではないが、「高良」信仰がある地域に濃密に残っている時、ある時期の九州王朝との密接な関連を疑って良いことになりそうです。論考中、氏はこうも述べています。『この「高良」信仰は九州でも筑後地方に濃密分布しており、隣の筑前や肥後では激減しますから、極めて在地性の強い神様です』

高良社 分布
Photo_14

「科野の国」では、犀川沿い、松本市を中心に10カ所の存在が指摘されていました(3年前・その時、千曲川沿いは2か所でした)。しかし新規発見が相次ぎ、千曲川沿いに13か所が確認されたのです。合計23カ所です。数年前は発見が喜びでした。けれども改めて千曲川沿いの「高良社」を点検してみると、奇妙な事実にいくつか気が付きます。

一つはこの「高良」信仰の中心が上田市かと思えることで、今迄の松本市近辺からだけの追求では済まない事です。合計数からは「科野の国」での濃密な分布を再確認してもいいでしょう。そしてもう一つが、「玉垂命」を信じてはいるが、同時に他の求心力(ある別神)を持っていたのではないかと言う疑問が出てきた事です。(千曲川沿いの「高良社」の現状・推測されるある別神などの詳細は「多元」9月号をごらんください。)

 これら分布への分析だけでは容易に結論は出ません。しかし、千曲川流域の「高良社」には奇妙なある類似性が認められます(「小菅社」は「役小角」による創建社伝があり除外する)。後世の習合、変化が加わり、表記も様々ではありますが、12カ所の「高良社」すべてに「誉田神」(応神天皇)があるのです。驚きます。この「誉田神」(応神天皇とも説明されている)をどう判断したらよいのか、という疑問です。神功皇后が正木氏の秀逸な論考で創作された人物と断定された今、その子である「誉田神」(応神天皇)へも各種の疑いが出てきて良いのではないでしょうか。そして、なぜ千曲川流域の「高良社」だけが濃密な分布のままで現在にまで信仰の対象たり得たのでしょうか。考え出すと疑問はつきません。が、「科野」では「高良社」信仰が、「誉田神」と共に、ある勢力により比較的短期間に広がったのではないかという推定は許されるかも知れません。

 

.  長々と上田市周辺の遺跡や神社などを紹介しました。一体それが何なのだ、と言われそうです。しかしこれらがある重要な事件と結びつくかもしれないと思ったのが、ハンドルネームJames Mac氏のブログ『古田史学とMe』に掲載された阿蘇溶結凝灰岩の使用停止と「蕨手文様」を持つ装飾古墳の発生と終焉〔リンクを貼ってあります。山田〕(2015・最終稿2018)の読了後です。

その要旨です(ぜひブログでご確認下さい)。氏は「日本書紀」の精緻な分析と考古学上の知見から、正統を伝えた「磐井君」が倒され物部氏が「倭国」の実権を握った、筑紫王権がある一時期雌伏していた、この事件が「磐井の乱」だった、としました。その根拠が「阿蘇溶結凝灰岩(灰色)」の使用が停止された約60年間、「蕨手文様」をもった「装飾古墳」が筑後地方に集中して築造されたという考古学の知見でした。この筑後地域は「物部氏」の本拠地であり「蕨手文様」も戦闘を得意とした「物部氏」にふさわしい文様です。ですから「蕨手文様」を持った「装飾古墳」の築造こそが権力の交代を実証するとしたのです。「蕨手文」初出の「日ノ岡古墳」築造は「岩戸山古墳」とほぼ同時期と考えられ、最後の「蕨手文」がある「重定古墳」は6C最終で「物部」の滅亡時期と重なります。そして「物部」氏を倒し再度「倭国王権」は権力を取り戻していったと推定したのです。

この論考の読後、私は「蕨手文様」は「物部」のシンボルとして使用された時期があったのだと再確認しました。私も上田の「蕨手文様」を持つ瓦は「装飾古墳がルーツか」と思っていたからです(「多元」139号)確かに「装飾古墳」は各地に数多くあります。「蕨手文様」も壁画以外に多出し、そのルーツにも様々推定はあります。しかし「蕨手文」のある「装飾古墳」は8か所だけ、筑後にはその内7カ所あるのです。これらの古墳が造られた時代、「蕨手文様」は間違いなく特別な意味を持って、ある人々(勢力)に使われたと断定できるのです。そして驚く事に「科野」での「蕨手文様」瓦出現の時代が、「磐井」事件直後かと思える6Cを示してきたのです。「蕨手文様」をとうして「科野」と筑後が繋がったといえるかもしれません。

 古田先生は最終的には「なかった」とされました。石人・石馬の破壊も唐軍の行為とされました。これに対しMac氏の論考は、新見解をもたらしたのではないでしょうか。この見解は文献解釈と考古学が一致しているように思えます。

 

5. さて「科野の国」の遺品・遺跡たちです。長年私が悩んだ「蕨手文様」瓦がMac氏の論考ですっきり説明できるのです。「蕨手文様」を使い「装飾古墳」をつくった「物部」をキーワードにすると、文様の意味も、使用理由も、製作の時代も、製作した人々も、です。一族のシンボルともいえる文様を、「科野」では瓦に使用した事になります。「ローカル」と判断されていた瓦の、出現期間の短さ、狭い地域に終わった理由も説明できそうです。

「高良社」・「高良玉垂命」は本来「物部」一族の祭神です。ですから「磐井の乱」事件は同族内の争いという事になります(Mac氏の説明から)。「科野の国」の「高良社」も、「玉垂命」だけを中心にした、それ迄の信仰(九州での)とは同一形態のものとは思えません。やや異なる「高良社」信仰になっていると言えます。「誉田神」がすべての「高良社」に登場するからです。これもMac氏の論考と同じ方向を示すか、と言えそうです。

さらに「銀象嵌太刀」も「横穴式古墳」も九州との密接な繋がりを示して来たのです。

長野・青木村 塚穴古墳
Photo_15

九州・広川町鬼塚古墳(2号墳)
Photo_16

 過去、「磐井の乱」へは種々追求がなされてきました。しかし、それらは九州での事件・九州の考古と言う前提からのものでした。この事件が国内他地域へ影響を与えたと指摘する声はほとんどありません。九州勢が4C位からすでに「科野」へ来ていたと信じる私には、6C に、同じ九州勢だが別勢力が進出したと想定すると、不明だった遺物・遺跡がすべて説明できるのです。理解しやすくなるのです。「科野の国」の考古遺物は「磐井の乱」へのMac氏の推論の正しさを支持していると私には思えます。

 彼らが科野へ来た理由は?「物部氏」は廃仏派だったのか?神社と寺との習合は?「瓦」編年はどうするのか?各種の疑問が更に出ては来ますが・・。葦の髄から天井をみるかのような私の推論です。ご批判下さい。        (終)

« 日本の法律を守るつもりがないヒルトン | トップページ | 図書紹介 百田尚樹著『日本国紀』 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

はじめまして、
戸隠の者です
磐井の乱のお話し
詳しくお聞きしたいです。

宮澤さま

ブログの閲覧とコメントを頂き、ありがとうございます。
「磐井の乱のお話し 詳しくお聞きしたい」との件は、
「磐井の乱」について論考をお寄せくださっている吉村八洲男さまに、
宮澤さまからコメントをいただいていることを連絡させていただきました。

なお、すでにご覧いただいていればご寛恕いただきたいですが、
吉村さんの「磐井の乱」に関する発表用スライドが、次のブログ記事に掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです。

【再掲】「科野の国」から見る「磐井の乱」―セミナー用スライドも併せて― 2021年10月16日 (土)
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2021/10/post-633bff.html

吉村さんの「磐井の乱」についての研究にその後の進展があれば、
ご寄稿いただけると思いますので、しばらくお待ちいただきたく存じます。

なお、「磐井の乱」について吉村さんが触発された次の論考は是非ご参考になさってください。
阿部周一さまのブログ 古田史学とMe(https://blog.goo.ne.jp/james_mac)の
「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉 2018年05月31日
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e0435df5922b6a66faa435d258804706

今後とも、閲覧・コメントを頂ければ有難く存じます。コメントありがとうございました。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「科野の国」から見る「磐井の乱」:

« 日本の法律を守るつもりがないヒルトン | トップページ | 図書紹介 百田尚樹著『日本国紀』 »

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ