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2019年7月28日 (日)

妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―

妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考
聖武・七重塔はどっち?―[妄想]

お知らせ】(2019/07/30)
「第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図」の出典を(注1)にして、注番号を付け替えました(順次繰り下げ)。

 

 まず、次の図をご覧ください。

第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図(注1)
36

 この図を説明します。ピンクの正方形が、「(僧寺の)中軸線東方65mに推定19m×19mの建物跡と判断される版築土層が発見された(ピンクの部分)。建物は塔が推定されたが、伽藍と軸を異にしていた。」と書かれている建物基壇跡です。そして、ブルーの正方形(右上がピンクの版築土層で覆われて描かれている)が、「第3次保存整備発掘調査(昭和45年)において、新たにやや南西に塔心礎の根石想定遺構が発見され、現在塔跡として表面表示されている(ピンク左下の方形)。」と書かれているものです。

 

 私は、次の点が疑問に思いました。

一、何故、ブルーではなくピンクが先に発見されたのだろうか?

二、何故、ブルーよりピンクの版築土層の遺構の方が大規模なのだろうか?

三、何故、ブルーが西偏でピンクが正方位(私にはそう見えます)なのだろうか?

四、何故、僧寺は「国分寺式伽藍配置」(注2)ではないのだろうか?

 

 以下は、発掘調査報告書を確認していませんので「妄想」です。

1 ピンクが先に発見されたのはピンクがブルーよりも上層だった。

2 基壇規模から見て、ブルーは「五重塔」(推定)であり、ピンクは「七重塔」(推定)だった。

3 プルーが西偏なのは磁北で、ピンクが正方位なのは正方位を採る王権が関与した。

4 ブルーが僧寺の「金堂院型(注3)」伽藍の中軸線と一致するのは、ブルーの塔は金堂院とセットだった(この点は考古学者の見解と一致しています)。

  1・2・3について「妄想」の補足をすれば、「推定19m×19mの建物跡と判断される版築土層」(そこまで判断できる遺構)に対して、「塔心礎の根石想定遺構」(根石と想定しただけのあやふやな遺構)というのは、ブルーの方が先の時代でピンクが後の時代と考えれば自然と考えられます。逆だとすると説明ができないのではないでしょうか。 

 以上を、無理なく解決できるのは次の「妄想」だけです。

信濃国分寺(僧寺)は、741年に出された聖武天皇の「七重塔建立の詔」(「国分寺建立」ではありません)以前に建っていた寺院で、その五重塔跡(推定、ブルー、在れば取り壊して)に新たに七重塔推定19m×19mの版築土層基壇)を建てて信濃国の金光明四天王護国之寺=“金寺”)としたものである。 

 よって、次のような変遷が考えられます(妄想)。 

・上田染谷台条里に組み込まれた○○寺(「信濃国分尼寺」とされている)が建てられた。

・その後、□□寺(「信濃国分僧寺」とされている)が建てられた(時期は上と下の間)。

・聖武詔勅(741年)に従って□□寺の五重塔跡(当時塔が在ったか不明)に「七重塔」を建ててお経を納めた。

七重塔の完成757年 の聖武太上天皇周忌齋會以降となります。信濃国は周忌齋會に間に合った26ヶ国に含まれていません。因みに、東大寺の竣工は758年で、「国分二寺図」が諸國に頒下されたのは759年 です。) 

私の妄想によれば、「信濃国分僧寺」も□□寺だった、ということです。 

もちろんこれは「妄想」ですが、「推定19m×19mの建物跡と判断される版築土層」をもつ「塔が推定され」た建物はいったい何であったか(いつ誰がなんのために造ったのか)を「もっともよく説明できる妄想」で、つまり、「考古学」と「歴史学」の狭間に生まれた妄想ということです。

 

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注1 「第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図」……出典上田市立信濃国分寺資料館編『2014年企画展 信濃国分寺跡 発掘五十年』
2014

注2 「国分寺式伽藍配置」とは、中門から出た回廊が金堂に取り付き、塔は回廊(内郭区画)の外(東側)、外郭区画(寺院地)内に位置する伽藍配置です(「国分二寺図」の伽藍配置はこうだったと推定しています)。「国分二寺図」の伽藍配置―東大寺がモデルとなった―をご覧ください。さらに詳しくお知りになりたい方は、「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017110 ()、多元的「国分寺」研究サークルのブログに掲載)をご覧ください。

注3 私は中枢伽藍の配置様式として、中門から出た回廊が金堂を囲って講堂両妻に取り付く中枢伽藍を「金堂院型」と呼び、中門から出た回廊が金堂前庭を囲って金堂両妻に取り付く中枢伽藍を「金堂前庭院型」と呼んで区別しています。つまり「金堂院」や「金堂前庭院」という言い方は、「金堂院型中枢伽藍」や「金堂前庭院型中枢伽藍」を略して表現しています。伽藍配置についてお知りになりたい方は、ポピュラーな伽藍配置―森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」並びに貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」―「寺院の伽藍配置様式」考 ―似ている別様式の存在理由-などをご覧ください。

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