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2020年12月28日 (月)

科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―

科野からの便り(21)
「真田・大倉の鉄滓」発見②

【追加掲載のお知らせ(2020/12/30)】
 吉村さまから『「条里」を読者に解りやすく紹介した寄稿「科野からのたより・多元発表会」での論考を付け加えて』という主旨のメールをいただきましたので、注2のブログリストに「科野からのたより」(「多元の会」4月14日発表講演)―白井恒文「上田付近の条里遺構の研究」と多元史観―2019年7月18日 を追加掲載いたしました。これは私の注記の「もれ」でもありました。「条里」に関しては上記ブログ記事を先にご覧いただくことを推奨します。【追加掲載のお知らせ】終わり

 昨日(2020/12/27()11:08)、吉村八洲男さまからメールでご寄稿頂きましたので掲載いたします。

 条里遺構・蕨手文様・古代道・神社・寺院(国分寺)・たたら製鉄・縄文土器・九州王朝、これらをひとつづつ見ると、あまり関係がなさそうなテーマと思えませんか?

 ところが、これは「単眼」で見ている像だからです。これが合わさって見える「複眼」では、焦点で一つの像になって見えるのです。驚くなかれ!今回、読者は複眼をもつ昆虫になった気分を味わえること疑い無し、と断言できます。なお、文中の強調及び下線、並びに注記〔〕などは、いつも通り山田の一存によるものです。

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科野からの便り(二十一)

「真田・大倉の鉄滓」発見 ②

上田市 吉村八洲男

1.始めに

 前回は、山田様の御勧めもあり、恥ずかしながら私が出ている「信濃毎日」新聞の記事を取り上げてしまいました。ご覧頂けたでしょうか?

 記事内容は、「簡にして要」と言える内容で、流石といえるものでしたが、そこに感心ばかりしてはいられません。

 私の一番の主張は、『古代・弥生期中期A.D.2又はA.D.3世紀頃には、「真田」で「製鉄」が行われていた』、という事で、この主張はこの記事中にはあまり出ていないからです。最大の狙いは、「弥生期の製鉄」の存在を、科学的または論理的に理解してもらう事で、それが目標でもあったのですが。

 ですから、「真田一族・真田昌幸・幸村(信繁)」などを新聞記事に登場させたのは、まず知ってもらおう、そう思った事が最大の理由です。この名前を使うと、地域の人々の古代歴史への理解が一気に進むかと思えます。「真田一族」は地域の人にとっては、「ブランド」なのです。論考中でその名前を使えば、私の主張理解への入口になるかと思いました。

 「古代」から「真田で製鉄」が行われていた、と急に言っても「何のこと?」と言われれば終りです。「古代」から行われていれば、当然、戦国期、「真田一族」も「製鉄」を行っていた事になりますから、まず「真田一族の製鉄」を理解して頂く事が入り口でしょう。そう私は判断しました。

 こうして「真田一族」を記事に登場させたのですが、この私の作戦、果たして成功するでしょうか?

 さて、せっかく与えられたこのブログです。主張が長くなってしまうと、読者にご迷惑をお掛けするかも知れません。しかし、今は私にだけスポットが当っていますが、もとより「地質学」などには無学だった私です。指導して頂いた「山辺邦彦」氏を始めとし、大勢の人のご協力なしでは、成し遂げられなかった「成果」なのだ、と実感しています。

 けっこうインパクトのある発見かと思え、当然その論拠や科学的正否が問われます。ですから、「真田の製鉄」に達する迄の考察・探索の進行を記録しておく事も、重要な事と思われます。私の歴史観などを交えながら、「偶然」と「多くの人」に支えられた「発見へと到る全体像」を説明してみたいと思いました。

 その過程で、科学(地質学・歴史学)に基づいた「山辺邦彦」氏の仮説のいろいろを紹介しなくてはいけないでしょう。発見した出土品の分析結果からは、この仮説の正しさが証明されているからです。ですから、やはり順序だった紹介は重要な事と思われます。そして、この仮説全体が示すすばらしさにこそ目を向けるべきと思われます。

 これは確かに、今までの歴史観・歴史推測とは違うかも知れません。しかし、この「仮説」と「真田の鉄滓」発見とが提示した事実は、すべてが科学と「真田の風土(自然)」に支えられたものです。やはり、もう一度「真田」を、「上田・塩田」を、古代の「歴史」(特に地域の)を、見直すべきと思われます。

 

2.「真田」探索行までのいきさつ

 「信濃毎日」新聞の令和2年4月3日の記事〔注1〕がスタートになりました。これに関しては、「蕨手文様」の論考〔注2〕に際し、度々取り上げていますが、記事内容をもう一度簡単に説明いたします。

長野県・「中野市・南大原遺跡」で、2000から2100年前の「鉄の二次加工場」の痕跡が発見されたという報道内容でした。記事中のコメントには、「鉄加工には、高温の炉が必要で、それが、九州でしか見つかっていない」とありました。さらにこの技術者たちは、集団で生活していたのです。

 記事を読んで私は、大胆ですが、九州勢の進出を予測しました。「鉄」が、その「シンボル」と思えたからです。「鉄」に代表される「九州の文化」が「科野」へ来たのではないだろうか、と判断したのです。

 実は、私がずっと調べ追求して来たのが、「真田」(「科野」)に残された「蕨手文様」でした。古来の形態を留めたまま神社の「石祀」に残されている貴重な文様、と思えました。ある勢力のシンボルかと思いました。「真田」だけで「16個」の「石祀」を発見した〔注3〕のです。

 そこからは様々な推測が生まれたのですが、確実に言える事は、この「文様」が「九州由来」であると判断されることでした。「文献」からの証明もなく、「考古学」からも注目されない推測でしたが・・・

 その理由を考えた時、私にはこの両者、「蕨手文」と「鉄」には、共通する事があると思えました。それが、途中経過地が明瞭ではないことです。途中地を飛び越して、いきなり「九州」から「科野」へ来ているように見えます。特に、「鉄の二次加工場」に関しては、そう判断され、だから記事にもされている様に見えます。目的地が、「科野」だったのではないだろうか、と考えました。

 弥生期の「鉄」の到来とは、目的地として選ばれたからこそ「科野の国」へ来たのではないのか、と予想してみたのです。

 その理由はひとまず置いて、ここではその一連の予想を裏付けるかも知れない、「弥生期・古墳期の鉄の分布」に関してのある「資料」を掲示します。

 「纏向学研究センター長 寺沢薫氏」が作成した資料をもとに「川越哲志氏」が作成したものです。「県別に見た弥生時代~古墳時代初頭の鉄器量」です。私は迂闊にもこの資料を知らなかったのですが(後述する「山辺氏」は知っていた)、服部静尚様からご教示頂き、説明となるかと判断しました。使わせて頂きます。

 弥生時代・古墳時代初期の「鉄」の遺存状況を、時期別・県別・量別に図にしたものです。図からは、「九州王朝」の実在が、「鉄」の分布からも明瞭だと断言出来るのですが、私は別な観点からの内容部分に驚きました。それが、図の示すある地域です。「北アルプス」の周辺地と「科野」、関東地方を御覧ください。(一部を表示します)
「県別に見た弥生時代~古墳時代初頭の鉄器量」図
Photo_20201228193401
 弥生時代初期、「北アルプス(大山)」周辺には、「鉄」の痕跡がありません。それどころか、関東地方も、弥生期にはまだ「鉄」は浸透していないと言って良いかと思えます。それに比して、弥生時代・古墳時代初期の「科野」の独自さ(特別さ)が際立ちます。それには驚きます。

 新聞報道からは、「科野」には「弥生時代初期」に「鉄」が存在したと判断されます。図で「北アルプス」に「隣接する県」(例えば、新潟・富山・岐阜県など)で、「初期」の「鉄の痕跡」が「皆無」と判断されるのとは違います。「科野」にだけは、存在するのです。

 今回の「南大原遺跡での二次加工場」発見は、「資料」の示す「弥生初期の鉄の分布」を再確認し追加したことになります。ですからある別の意味を持たせられる、と私は判断したのです。それが、「鉄を持った九州勢の進出」です。「信濃川」を遡上して中野市へ来たかと思えるのです。

 更に気が付きます、古墳時代初期(図作者の時代区分が判然としないが)には「科野」での「鉄」製品の量が、他県と比べ突出した量になっています。これも「隣接する県」とは明らかに異なります。

 東日本では、他県を圧倒する量です。つまり、「弥生期中期」にはすでに「科野」では「製鉄の技術が発達し始めた」ともとれる不思議な現象(結果)が見て取れるのです!「古墳時代初期」には「それが明瞭になった、一般化した」と言えるかも知れません。

 定説では、『弥生期の「佐久地方」の文化』の存在がそれを説明している、と言う解釈になっています。弥生期中期後半から古墳時代にかけての「佐久文化」には、「金属器文化(その他の先進的技術も)」の痕跡を示す、各種の出土品が多く発掘されているからです。

 ところが、この「弥生期中期後半からの佐久文化」は、非常に独特な特徴を持つもので、「土器」「住居」「集落」「祭祀」「社会構造」「武器」「工具(生活具も)」「金属器」「生産」等々が、それまでの「科野の国」が持っていたもの(文化)とは大きく違っています。ですから、簡単に過去からの「継続(連続)・発達」、県下他地域からの影響を主張できません。そして容易に「独自に佐久で発達した文化」だとも説明・結論しにくいのが、「佐久文化の内容」なのです。

 説明として考えられた(?)のが、「文化」の「千曲川遡上論」でした。「川の道」を伝わって下流(長野)から上流(佐久)へと「文化」が波及・伝達されていった、としたのです。

 さらに、「科野」には、「赤い(土器の)国」があった、という説明も出されました。これは「箱清水式土器」の分布から「下流地からの伝播」を想定したもので、当然ながら疑問が出るのですが、これらが、現在の長野県歴史学の「佐久文化」への認識のようです。

 だがそれでも「佐久文化」の独自性を充分に説明し切れません。ですから、それ以上の詳しい事は、『多くが「謎」となっている』としていたのです。

 私には、納得しがたいこれらの論理・解釈でした。「一元的歴史観」に都合の悪い考古上の出土品を何とか解釈するため、さらには無視をする為に、これらの説明が考え出されたように見えたのです。

 これが、独特な特徴を持ち、「鉄や先進文化」遺跡・遺品に溢れた「弥生期中期後半からの佐久文化」の扱われ方です。要約すると、「どこから来たかはやや不明だが、特徴ある優れた文化である」、という事になっているのです。

 私の地域史再考でのあるポイントともなったのが、「古田史学会報」(No.136)に掲載された論考〔注4〕なのですが、その時のテーマは、「弥生中期には、上田地域には遺跡がほとんどない。空白地帯といって良い。そこを遡った事になる「佐久文化」への今迄の説明では、疑問が解決しない。「文化」は単純に千曲川を遡って来たのではないと思われる」という主張でした。むしろ「山の道」を利用して人々は移動して来たのではないだろうか。外部から、九州から、「佐久」へ独特な「文化」を伝えて来たのではないだろうか、と予測したのです。

 もうお解りでしょう、私は、「弥生期中期後半の佐久文化」とは、九州勢が進出した証明(結果)なのではないか、と思ったのです。その時、「山の道」が使われた、と思ったのです。「弥生期」「古墳初期」に「科野」に「鉄」の痕跡が多出するのも、その為ではないかと思ったのです。

 ですから、中野市「南大原遺跡」での「鉄の二次加工場」(当時、「高温の炉」は九州にしかないと言う説明)発見には心底驚きました。間違いなく「九州勢」がやって来ていた証拠だ、と思えたのです!考古学がそれを証明したか、と思ったのです。中野市から「山の道」を利用、内陸部に進出したのかと思えたのです。

 「中野市」と「佐久地域」を結ぶ「山の道」とは、「真田町」を通る「大笹道」〔注5〕しかありません。ですから、「鉄・金属器」を代表とした「佐久の先進文化」をもたらした人々は、この道を使い「中野市・南大原」から「真田」を経由、「佐久地域」へ至ったのだ、と予想したのです。これが当然の帰結になるのです。(それが、次の時代「関東」にまで及んだかと思えます)

 そうすると、「真田」には、「弥生の鉄」の痕跡が残されているのか、と思えました。なんとかしてそれを見つけられないだろうか?

 

3.「真田」の「鉄」が見えて来た

 私に、電話があったのは、4月末でした。真田町曲尾「宮原神社」〔注6〕の「氏子総代」・「岡嶋守一」氏から、神社の収納物(お宝など)の「日干し」を行うから、興味があったらご覧ください、という有難いお誘いでした。私の「蕨手文様」への執着を知っているような印象でした。宮司さんから聞いていたのかも知れません。

 「宮原神社」は、真田町の古刹ですが、昭和期、台風の為にその大部分が倒壊し、拝殿などは戦後に再建されたものです。だが、「蕨手文様」が神社背後の山腹の石祀表面にうっすらと残り、他にも注目する遺品の数々を持つ貴重な神社と判断していました。私は、喜んで拝観させて頂く約束をしたのです。

 「日干し」された貴重な収納物の拝観という滅多に無い体験が出来ましたし、新たな知見も増やせました。例えば、「蕨手文様」が残る木彫や、木造の「獅子(狛犬)?」像が印象に残りました(対になっている)。「九州には、似た(?)木像がある」と言う文献を読んだ記憶が蘇りました。

 そして、見終わった後の雑談の時でした。何年か前「大倉」の友人が、近くの山中の畑で「製鉄」の痕跡なのか「金糞」がたびたび掘り返され、耕作の邪魔となり持ち主が困っていると言う話を聞いた、と言うのです。

 一般道(普通道)を使った時、上田からは「真田町・傍陽地区」の最奥地・最上部の部落が「大倉」ですが、さらにその山中での事だと言うのです。「大倉」へは何回か訪れていた私です、ですから「そこは、「製鉄」とはまったく無縁の場所だろう」と私にも即断できる場所なのです。

 私は、「えっ」と思いました。どう考えても今迄の歴史からは、あり得ない場所での「かな糞(鉄・製鉄)」〔注7〕の存在です。そこは、「町史」にも出ていません。まったく知見にない場所だったのです。

 だが、「南大原の鉄」という新聞記事から再確認された歴史観からは、「ひょっとしたら」と思われました。

 私はすぐにお願いしました。「なんとかその現場へ行くことが出来るよう友人に依頼してみてくれないか」と。同時に、この話、何か月かの後になっても仕方ないな、と思いました。山中の「鉄」の存在など雲をつかむようなあり得ない話だと思えたからです。

 ところが有難いことに数週間後、「岡嶋氏」がすべての手はずを整えて、私に連絡をして来てくれたのです。「現場に行きませんか?」こうして私は今回の発見に繋がる「大倉の現場」を認知するようになったのです。

 「大倉」部落へは既に何回か足を運んでいました。「三島神社」〔注8〕を訪問し、「蕨手文」を求めての探索でした。ある時は友人、さらには真田在住の郷土史家「堀内薫」氏の案内も受けたりしました(神社と「現場」とでは、やや距離があります)。

 堀内氏は、「三島神社」の貴重さに誰よりも早く気が付かれ、忘れられ寂れ果てていた「三島神社」を再興し、社宝の「御正躰(みしょうたい)」(仏像が刻まれた銅製の鏡で、全国で3個のみ)を発見された優れた郷土史家です(地元の歴史界では私は主流でない、と謙遜されています)。

 後日談ですが、「大倉」での「製鉄」の可能性にも早くから気付かれていたようです。地元の伝承・記録の断片などから、古代の「製鉄場」の存在を予測し、「大倉」の砂鉄を使って実験をしてみたそうです。残念ながら所期の目的は達せられなかったようですが、一連の思索の進行からも、偉大な先達だったといえましょう。

 「大倉」の「半田一族」が、「真田一族」になったのだ、と説明していたのも記憶します。「半田一族」が「製鉄」を行っていたのだ、「半田一族」の方が「真田一族」より早いのだ、と断定していました。「大倉」・「半田一族」が、「特別な場所と人々」であることに、早くから気が付いていたと言えます。(多くは賛成ですが、私論もあり後述します。)

 こうして「現場」・その周辺(「大倉・三島平」)の探索が始まりました。気付かない遺跡が多くありました。「現場」と周辺の地理に詳しい「大倉」在住の「半田俊一」氏が遺跡案内を担当し、郷土史に興味を持たれる「坂口郁恵」氏が加わりました。(三氏には、改めて感謝を致します)

 こうして、5月・6月と探索を重ね、「大倉」山中の遺跡・遺物を再確認しました。次々に「大倉」の貴重さ、その歴史が認識されました。貴重で素晴らしいものと判断出来ました。だが、私は残念な事にも気が付きました。

 それは、歴史上の「大倉」の古さ・貴重さをハッキリと断定する文献的・科学的根拠がないことで、古代を想定し「大倉」の歴史再構築を試みた時、それが最大の障害になって来るかと思われたのです。

 「三島神社」「御正躰」「角治屋敷(半田屋敷)跡」「大倉鉱山跡」「秋葉社〔注9〕」「古道」「伝・製鉄所跡」など、古代を想定できる遺跡・遺物に溢れ、私の「歴史観」とも合致しているのですが・・・

 

4.「条里」と「山辺説」

この頃私は同時進行で、上田・「神科」地の「条里制の痕跡」を追跡・精査していました。これは年来の私の主張で、「多元」誌・「多元」の発表会でもその一部を主張させて頂き、上田「郷友会」でも意見を述べているものです。「蕨手文瓦」「国分寺(尼寺)」への考察から始まった〔注10〕ものでした。

 上田と坂城には、全国には見られない「蕨手文瓦」〔注11〕があるのですが、おかしな説明がされていました。また「国分寺」には、明らかに建築基準(様式)が違う「二寺」が現存していますが、説明が十分とは思えません。それらは、目前にあるのです・・・

 そして「神科」地には、「条里制の痕跡」としか説明できない特殊地名の遺存が多くあり、109Mという等間隔に分けられた田も遺存していました。そこへ張り巡らされた「水路」も現存しています。「条里跡」そして「国庁跡」と推定された遺跡(地域)も、何回かにわたり発掘されていました。

 郷土史家の研究もこれらに集中しました。そしてそれらは同じ推論を示して来ました。「上田には、「条里」・「国庁」があったのではないだろうか。」

 ただ、「一元歴史観」を持つ著名な学者により、この「存在」が否定され、一連の郷土史家の追求は無効となってしまいます。7世紀の「条里」・「国庁」などは「あり得ない事」と判断されたのですが、それでも地元には「遺跡」が残っています〔注12〕

 両者の間をとるように、『上田(神科)には、「条里的」なものがあった』、と言う面白い(変な?)結論となりました。「条里的」とはなんの事でしょう、どう考えてもおかしな結論です。

 しかし、「多元歴史観」の立場に立った私の推論からは、「国分寺(尼寺)」「蕨手文瓦」は「別な歴史の存在を証明したもの」、という結論となりました。「尼寺」の築造に際しては、「隋尺」の使用が疑われたのです。

 そして、「蕨手文様」を持つ「蕨手文瓦」への追求も、「条里制」実在へのある推察が示されて来ました。ですから私は「条里制実在説」に興味をお持ちの郷土史家「芦田哲明」氏と共に、「神科」地の「条理跡」「水路」などを調べていたのです。

 「芦田」氏も、「条里」の存在は確定的との意見をお持ちでしたが、「条里」以前にすでに小さな「田」が存在し、その為の「水路」があったのではないかとも想定され、その痕跡を探していました。「条里」以前に早くから「神科台地」が開けていた、と想定したのです。

 何回か調査に同行させて頂いた私は、ある情報を教えられました。それが、公民館での「山辺邦彦」氏による「講演会」の開催でした。上田市には「地球を愛する会」という「地学」の同好会があり、その会での小さな「講演会」でした。私は既に「山辺」氏から「上田泥流」に関して教えを乞うていました。聴いてみようと決めたのです。

 そこでの衝撃的な内容・主張を、私は今でも忘れられません。

 「山辺」氏は、穏やかな口調で、こう主張したのです。「古代上田(神科)で「製鉄」が行われていた、地質学からはそう推定できる」というのです!

 まさか・・・

 

5.「条里の製鉄」への科学①

 6月末に行われた氏の講演内容を再現して見ましょう。

 氏の主張は、「鉄・銅の精錬」に使用した原材料(鉱石・砂鉄など)を「地質」から推定したもので、永年の研究に裏打ちされた「地質学」の知識と上田の「地質」への広い理解が根幹にあったと思われます。(「山辺」氏は、「上田市史」「地質編」の執筆者であり、鉱物類・鉱石の観察でも独自の方法を編み出され、注目されていました)

 参考の為、その時の「資料」の一部分を本文途中に引用し、全体を最後に添えます。科学的・専門的な知識が無ければ成立しない推測・論理ですから、確認は必須のことと思います。
「⑤鉱山の分布と堀越堰・吉田堰との関係」図
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 講演で主張された内容の内、まず驚いたのが、「吉田堰」への解釈でした。

 定説では、これは「農業用水」(古名・「嬢(オウナ)堰」)とされていました。その目的で真田・「石舟」部落から、上田「矢沢」地籍を通り、東御市「祢津(ねつ)」に到るものとされてきました。なぜか水路(水)はそこでなくなるのですが、古代の事だから仕方がない、農業用水としての目的は果たされていた、と解釈されていました。

 氏は、この水路作成の目的が、定説の通りではない、というのです。キーポイントとなったのが「矢沢」地籍の地質でした。ここが、特別な場所だというのです。

 理由として次の見解を述べられました。

 上田地域の地質の中では、「鉄」を造れそうな「鉄鉱石・類」を持つ地質は、ほとんどありません。「鉄鉱脈」はなかなか見当たらないからです。

 それでは、上田では「製鉄」は不可能だったのでしょうか?

 そうではないと言うのです。日本は火山國です。何十万年、何百万年も続いた火山活動が、日本にはありました。ですから、火山活動起因の「山砂鉄」が予想され、それを多量に含んだ堆積土が上田に(各地にも)見られると言うのです。火山からの「灰」「軽石」「火砕流」の噴出の結果、形成された地層があったと言うのです。それらには十分に「鉄」成分つまり「原材料」が含まれていると言うのです。つまり、「製鉄」を行うための「原料とする山砂鉄」は、条件が合いさえすれば案外と身近にあったかも知れないと言うのです。

 上田の地層を推断した時、上田での「製鉄」関連の地層はこう判定されました。

 50~70万年前に「北アルプス」周辺で巨大な「水鉛谷大噴火」があり、内陸各地に多量の「火山灰」「軽石層」が降り注ぎ、それらが各地で堆積土となっている、と言われますが、この地層・地質が上田周辺でもいくつか認められると言うのです。そこには良質な「山砂鉄」が含まれていました。

 確認されたこの地層の一つが、真田・本原「瀧宮神社」周辺の地層でした。珍しい事に、そこは、地表に広範囲に露出していたのです。(縄文期の土器作成にも多量に使用された、と言われていました。)ここでは、他には滅多に無い貴重な「地質」が露出して存在していたのです。

 そして、もう一つの「火山活動」由来の「山砂鉄」を豊富に持つ地層、「烏帽子(えぼし)火山帯」からの「笠ツブレ黒色火砕流」地層(55万年前ごろに形成)が、そこのすぐ傍の地層で認められました。

 これは、ほとんど地表に顕われない特に貴重な地層だ、といいます。そしてそれが上田で顕現しているのが、問題とする「矢沢」地籍だったのです。(「真田一族」との関連がありそうですね、「真田幸隆」の弟が「矢沢家」を継ぎ、「矢沢城」城主になっています)「矢沢」地とは、貴重な地質が地表に顕われている特別な場所だったのです。

 そして、この両者を結ぶのが「吉田堰」だと言うのです!「鉄」原料という観点からみると、それが取得出来る貴重な場所が上田の東部に二カ所あり、それを結んだのが「吉田堰」だというのです。確かに今でも、「龍宮神社」周辺と「矢沢」地籍を結んで「吉田堰」の古い水路が残ります。(他の部分には何回かの改修がなされています)

 結論的には、「山砂鉄という製鉄原料」獲得の為に「吉田堰」が造られた、と言うのです。

 今も残る「堰水路」に沿ってハッキリ「古道」が残っている(「運搬」に使った?)のがそれを証明する、というのです。「夏季」の「農業用水」としての利用だけでなく、「冬季」には「カンナ流し」〔注13〕を行っていた、その為に利用されたのだろう、そうとしか考えられないと言うのです。
「上田市北東部の火山灰やひん岩の風化土に入る砂鉄の量」図表
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 「吉田堰」の最終地、「東御市・祢津(ねつ)地区」周辺にも良質な「砂鉄層」が認められる事も、それを証明していると言うのです。

 聴いていた私には、「何故、水(堰)が必要なのか」が、すぐ頷けました。土の中の「砂鉄」を分別するのには、どうしても「水」が必要だからです。やはり、「砂鉄」を含む土の「鉄穴(かんな)流し」の為でしょう。

 この用水が、傾斜地を通っている事も、理由になるとも思えました(残土を捨てる場所がある)。

(また、この「吉田堰」の古名「オウナ堰」が重要でした、これが、これからの「科野」歴史推測の決定打になるのです・・・)

 私は長年にわたって「条里制」・「その関連遺跡」を追求してきました。論考も数多く発表してきたつもりです。資料を調べ、現地を歩き、苦吟しつつ一歩一歩論考をまとめてきたのです。それなりの努力もしてきました。

 その時「条里」と「吉田堰」とが不可分なものだ、とは予想していました。「神川」の水を、東(左)に分水したのが「吉田堰」で、西(右)に分水した水が「条里」地域に注ぐからです(数カ所で取水していた。それが「堀越堰」を始めとした種々の用水として「条里」で使われ、現在も残っている)。

 しかし「吉田堰」の主目的に関しては、従来の説明、「農業用水」説を信じていました。それが、そうではない、と言うのです。

 こう主張された「吉田堰」への説明は驚くべきものだったのですが、よく考えると、これは私が永年追い求めて来た「条里」の存在を確定する論理だと気が付きました。

 「製鉄」を通して、両者は繋がっていると思われたからです。説明された「吉田堰」の存在理由と、「神科」地での「条里内水路の利用状況」とは、なんら矛盾はしません。

 「神川」の水を左右にうまく利用した、と説明しています。その主張は、「製鉄目的」の為に「吉田堰」が「条里」と共に造られたのだ、と言えるのです。

 そこからは、ある水路に沿って「条里」内に「金属生産地区」があったと予想をしてもいいのです。すでに「条里」予想地の発掘からは、「倉庫」群として利用された地区などが想定されていましたから納得される予想です。

 「条里」を作る時、「吉田堰」も造られた、これは頷ける主張になります(文献も「条里」に近い時代の築造を示していました)。

 「吉田堰」は現存し、今でも「農業用水」の機能を果たしています。

 そうすると、「条里」も確実に「神科」地に存在していた事になるのです!

 私が長年にわたり調査し、論考し、予測して来た「上田の条里制」の存在、それを科学から確定する画期的な論理と思いました。

 「吉田堰」が存在しているのですから、間違いなく「条里」が上田には存在していたのです。十分な認知こそありませんが、もう一つの別の歴史が上田にはあったのだ、と思えました。

 私と同じ主張が、他分野の学者から、「地質学」による科学的な論拠を持って説明されているのです。

 上田には「条里」があったのだ!そして「製鉄」があったのだ!

 聴いていた私がどれだけ驚いたかを想像してください。呆然としていたのです。私の場合、永年の孤独な思索の末ようやく推論らしいものが完成しつつあったに過ぎないのです。

 続いて、「条里」という言葉こそ使いませんが、更に首肯できる推論を主張されました。

 私が、「条里」内と想定していた「金井」地区への予想です(この地名は今も残ります)。

 この地区で「精錬・鋳造」が行われていた、と主張されたのです。「かない」とは、「金属関連(鋳物も)」の名残を示す地名だとしたのです。

 「金井」地を通る水路には、「水車」が近世まで多く残っていたと言われていました(絵地図からも確認された)。これを、「鉱石の細石」を行う為の「水力」利用の名残り(遺存)であると説明したのです。
「④金井は鉱山と精錬跡~金くそ…」図(一部分)
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 さらに多量に「鉱石」を掘り出した形跡が、「金井」内の不自然な地形から窺えると指摘し、傾斜地である「金井」は、「鋳造」場所としても好条件を持つ、とも推断したのです。

 地区「金井神社」(現「草創(くさわけ)神社」)〔注14〕の祭神が「ヤシャゴ(弥吾)神・金山神」であり、これは「金属・鋳物」関連の神であるとも指摘されました。

 説明を聞いて、「原料取得地であり製品化する場所」であった「金井」、そこは「吉田堰」と補完し合う「金井」でもあった、と推測出来ました。関連して、「かな糞(鉄滓)」が「ごろごろしていた」という土地の長老の話も紹介されました。

 氏の講演内容は、地元に残る伝承・地形(地質)・遺品・神社などの事実に密着したものであり、さらに科学的根拠も持った説得力のある説明でもあると確認されました。

 それが永年の私(条里の存在)の推論と一致しているのです!さらにそこで「製鉄」が行われていたと言うのです!これに驚かない筈がありません。

 

6.「条里の製鉄」②

 そして講演の最後の主張も印象的なものでした。

 「金井」地区上部に隣接する「玄蕃山」そこには古墳〔注15〕があり、それを中心に現在は公園となっている)についての見解でした。

 この周辺は、「玄蕃山火砕流」と命名されている特徴的な地層を持つ一帯で、「砂鉄」のある地層(「水鉛谷軽石層」)が多くあると認められていました。が、もっとも特徴的な事は「凝灰角礫岩」が多量にあることだ、と言うのです。この岩には「赤銅鉱質安山岩」とも言われる岩石があり、それを使って「精銅」が可能になると言うのです。

 その時、この岩は、最高に「高品質な原料」と言えるそうで、「黄銅鉱」(近くでも産出された)による一般的な「精銅法」に比し、「精錬」に際し公害が発生しにくいのが最大の特徴なのだ、と言うのです。

 ですから、同じ「条里」内「金井」で「精銅」を行っても、この原材料を使えば、「条里」内他地区へ目立つ被害を及ぼさない事になります。つまり、「条里」内「金井」地区での「銅精錬」が「製鉄」と並んで可能になってくる、と理解されました。

 もう一つ驚いたのが、「玄蕃山にある古墳(陣馬塚古墳〔注16〕)」・その「古墳」(墓)への「地質的」説明です。

 「墓」の周囲の土質分析からは、明らかに「水鉛谷」起因の「山砂鉄」が多量に認められ、恐らくは「墓」の周囲には一面に敷き詰められていたか、というのです!そして「墓石」には、「赤銅質安山岩」も一部に使われ、築造されている、と言うのです。

 「玄蕃山火砕流」という「地質」を背景に持つ古墳(「墓」)として考えた時、その築造に「土地の特徴的素材」が使われた事が想像できると言うのです。

 そしてこれは、ここにこの「古墳」が造られた(場所の選定理由)説明にもなる、というのです。

 この推断は「金井」地への予測とも、見事に一致し関連します。そこからは古墳(「墓」)に埋葬された人物と「条里」「精錬」との関連を疑うのが当然になるのです。

 「地球を愛する会」のメンバー、塚原吉政氏は「山辺」氏の指導のもと、「玄蕃山(陣馬塚)古墳」に埋葬されている「鉄製品」他が、地元の原材料使用により作成されたものではないか、という仮説を立て「精銅」「製鉄」の実験を数十回にわたり試みていると言います。

 振り返ると、「吉田堰」に隣接しても「赤坂古墳」〔注17〕が認められます。(これも後で、重要な推論と結びつきます)

 ですから、古墳(「墓」)所在地の地質と、「埋蔵品」との一致はあり得る話だ、と私も思いました。この地で「精錬」された「鉄製品」が、この地の支配者を弔った「墓」に埋葬された、という推定は納得できるものなのです。
「②玄武山~上川原工業団地千曲川の地層と同じ地層が分布~火砕流凝灰角礫岩として~」図
Photo_20201228194101
 私も「玄蕃山古墳」の埋葬者は「条里」と関連した人物だろう、それが「墓」と「条里」の配置や「墓」の「隋尺」使用などから推論できる、と思っていました。

 しかし、これほど明確に両者の関連を指摘(断定)出来ていません。私は、自分の推論方向には改めて自信を持ったのですが、同時にその未熟さを思い知らされる事にもなったのです。

 講演会は、驚きに満ちていましたが、科学に裏打ちされた説得力のあるものでした。

 講演を聴いた「芦田」氏からは、「幼い頃、我が家にも金井の「かなくそ」が多くあった」事や、十数年前「金井」の地質は「鋳型」を造るには好適な土質である、という論文を読んだ記憶がある事、それと「字・上田一番地」が「金井」周辺から始まる事が不審と思えた事、「金井」の地形がおかしい、と思っていた事、などの感想が聞けました。「かない=金属地」説を、間接的に支持する材料だ、と思えました。「山辺氏」の推定の正しさを支持しているかと思いました。

 聞き終わった時、講演者に質問する事より先に、聴衆の方々に「お近くに鉄滓(「かな糞」)がないか、もう一度調べて欲しい、そしてあったらどうか教えて頂きたい」と懇願してしまいました。

 「金井」での「鉄滓」の遺存が確認されれば、「山辺氏」説にはより一層の真実性・科学性が付与されます。発見された「かな糞」・その分析が、カギを握っているのです。それが解決すれば、私が永年にわたり追求し想定してきた地域の古代史への疑問も一気に解決し、別の歴史が承認されるだろうとも感じました。

 そして、「かな糞」が発見されなくても、「条里」時、この地で「製鉄・精銅」が行われていた事に間違いはない、と思われました。「金井」地と「神社」が残り、「吉田堰」が現存しているのですから、反論する事さえ出来ないでしょう。

 7世紀に、「製鉄」が「上田・条里」で行われていた事は、確実なのです!科学からも、それが確定できるのです!「条里」があり、「製鉄」が行われていたのです!

 そうすると時代が過ぎた戦国期、「真田一族」が「製鉄」に関連していたという推定は、自然な推測となります。「製鉄」の権利を獲得し、それを利用しながら力を蓄えていたと思えます。ですから、「真田一族」の歴史も、見直すのが当然でしょう!

 そして、はるか以前の「弥生の製鉄」の痕跡も、奥の「真田」には眠っていると思われました。私の推測も、そう言っていましたから。

 「大倉」の「伝・製鉄所跡」こそ、「弥生の製鉄所」跡がある場所かも知れません。そこは「大笹道」に近く、標高もあります。「大倉」ならあるかもしれないのです。

 「講演」内容に驚いた私ですが、同時にこれからの活動や研究の「指針」を示されたようにも感じました。

 「弥生の鉄」があるとしたら、予測の通り「真田」がキーポイントとなるのです!

 

7.終わりに

 「山辺氏」の講演を聞いた私は、初歩から「地質」を学ぶことにしました。「たたら製鉄」関連の知識も得ました。

 同時に、「吉田堰」・「金井」周辺を歩き回ったのです。「水鉛谷噴火による軽石層」起因の土からは、「山砂鉄」の採取を実験してみました。

 その時、容易に「山砂鉄」が採取出来る事には改めて驚かされました。簡単な水洗いで採取できたのです。「水鉛谷」地層の持つ優秀さ(豊富に砂鉄分を含む)の為だ、と氏は言います。私もやはり、この土には「砂鉄」が多いなあ、と実感しました。

 「山辺氏」はさらにこう推定していました。

 この「水鉛谷噴火由来の砂鉄含有土(軽石層)」を、縄文の人々は、「土器」に使っても「製鉄」には使っていないと思われる、それが「縄文土器」の表面観察から推論出来ると言うのです。

 「水鉛谷由来土」には「雲母」成分も含まれますが、「縄文期の土器」の表面を観察した時、それが多くのキラキラとした輝きとして見て取れる、と言うのです。

 恐らくは「土器」の強度を保持する目的が優先され、この土が使われたのだろう、それがこの「雲母」を含む土(水鉛谷由来土)で造られた土器の観察から推論・確認出来る、と言うのです。

 つまりこの時代には、この目的からこの土が「土器」へ使用されている、と言うのです。製作時、まず土器に適したその土地の「土」が使われますが、そこに目的(強度の保持)のため、類似の(または同種の)土が使われただろう、と言われました。

 土(胎土)の分析による「縄文土器」への理解・編年、という一分野を開くかと、私には思えました。改めて「地質学」を見直さなくてはいけないな、とも思いました。

 同時に「製鉄」技術として考えてみると、「砂鉄」「砂鉄を含む土」を、「製鉄」原料として利用する技術水準に到達していなかった、という事にもなるかと思います。

 私は、縄文期に「製鉄」が行なわれていた(多くの人がそれを主張する)としたら、火山起因の「山砂鉄」以外の原料(例えば「黄鉄鉱」)が「製鉄」に使われたかも知れないな、と思いました。

 さて、こうして私は、『真田は「製鉄」の好適地である。』という「山辺」仮説の入口に立つことになりました。「講演会」の内容は、それへのプロローグでもあったのです。

 7世紀の、「科野」(上田)での「条里」「製鉄」は決定的な事実と思えます。これは、仮説の前提ながら驚愕の事実でした。

 そして、その先に進んでいかなくてはなりません。「真田」が待ち受けています。

 次回は、「山辺」仮説の具体的内容をお知らせします。それに導かれ、私の推測とも相まって、今回の「発見」になっています。これからの報告が皆様の御勉学になんらかの形でお役に立ちましたら、望外の喜びです。どうか続けてこのブログをお読みくださるよう改めてお願いいたします。

(終)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注1 「信濃毎日」新聞の令和2年4月3日の記事 …… 科野からの便り(11)【緊急版】―「中野市南大原遺跡」の発掘―で掲載しましたが、《再掲》します。
《再掲》令和2年4月3日の「信濃毎日新聞」社会面
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注2 「蕨手文様」の論考 …… ブログ記事としては、次のもの。
吉村八洲男さまからの「蕨手文様」報告― James Macさんの論考への賛意―2018年6 8 ()
「科野」の「蕨手文様」瓦と多元史観―上田市在住 吉村八洲男さまからのご寄稿―2018年11 6 ()
科野からの便り(7)真田(「科野の国」)の「蕨手文様」2019.12.30
「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編2019.12.07
「科野からの便り」真田編(五)2019.11.01
「科野からの便り」真田編(四)曹操墓から出土した蕨手文2019.09.25
「科野からの便り」真田編(三)2019.09.19
「科野からの便り」真田編(二)2019.08.12
「科野からのたより」「シナノ」古代と多元史観2019.07.27
「科野からのたより」(「多元の会」4月14日発表講演)―白井恒文「上田付近の条里遺構の研究」と多元史観―2019年7月18日【追加掲載2020/12/30
「科野からの便り」 真田編2019.07.05

注3 「真田」だけで「16個」の「石祀」を発見した …… 注2にも掲げましたが、次のブログ記事にあります。
「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編 2019.12.07


注4 「古田史学会報」(No.136)に掲載された論考 …… 「シナノ」古代と多元史観です。

注5 「大笹道」 …… 図を次に掲げます。
大笹街道と真田Google Earth による)
Googleearth_20201228194401

注6 真田町曲尾「宮原神社」 …… 祭神は「建御名方神」と「八坂刀売神」。注5の図に位置を示した(神社名に引いた赤下線の中央あたりの黄点)。「由緒」には「鎌倉時代建久元年(1190)創祀、室町時代末期本殿建立。永禄二年(1559)真田安房守昌幸上田在城の砌曲尾郷高辻の内四貫八百文除地社附す。嘉永四年(1851)四月吉田家より宮原神社社号許諾あり、昭和五九年堀内猪之助翁が社殿を再建寄贈された。」とあります。
なお、Google Earthでは、長野県にある「宮原神社」は次の三ヶ所がヒットしました。
①〒386-2203 長野県上田市真田町傍陽4361(上記、真田町曲尾「宮原神社」)
②〒390-0222 長野県松本市入山辺3412
③〒399-6302 長野県塩尻市木曽平沢

注7 「かな糞(鉄・製鉄)」 …… 「かな糞」とは、たたら製鉄で排出される溶融した不純物(スラグ)のこと。「鉄滓(テッサイ)」とも言う。
たたらでは砂鉄と木炭を炉にいれて燃焼し、砂鉄を還元して鉄を製造します。その際、砂鉄中に含まれる不純物は高温で熔融し、スラッグ(鉱滓、ノロ)として排出されます。たたら製鉄では、このスラッグを鉄滓(てっさい)と呼び習わしています。製錬により砂鉄の約半分は還元されて鉄となりますが、他は高温(1200℃以上)で釜土(炉壁の粘土)と反応し、珪酸系の融体を作り鉄滓に溶け込みます。換言しますと、たたらでは砂鉄が釜土を食いながら製錬を進め、その結果炉壁が痩せて、耐えられなくなったとき操業が終わるようになっているのです。

鉄滓を化学分析しますと主にSiO2(珪酸)、Al2O3(アルミナ)、FeO、Fe2O3(鉄の酸化物)、TiO2(二酸化チタン)から構成されていることが分かります。代表的なたたら鉄滓の化学組成は次の通りです(「日立金属>たたらの話>鉄滓」より、図表も)。
表 代表的なたたら鉄滓(製錬滓)の化学組成(重量%)(日立金属のサイトより転載)
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注8 「三島神社」 …… 祭神は大山祇命。所在地は長野県上田市真田町傍陽(三島平)
航空図「上田条里遺構の周辺」Google Earth使用)
Photo_20201228194701

注9 秋葉社 …… 秋葉神社。祭神は秋葉大権現(※)。長野県の秋葉神社は、Google Earth では10社ヒットしましたが(次の通り)、もっと多くありそうです。
①秋葉神社 〒386-0001 長野県上田市上田2498
②秋葉社 〒386-1211 長野県上田市下之郷
③秋葉社 〒381-0103 長野県長野市若穂川田
④秋葉社 〒382-0099 長野県須坂市墨坂4丁目1221
⑤秋葉社 〒382-0000 長野県須坂市須坂1011
⑥末社 秋葉社 〒389-0813 長野県千曲市若宮
⑦秋葉社 〒382-0028 長野県須坂市臥竜2丁目513
⑧大洞秋葉社 〒399-7411 長野県松本市中川2689
⑨矢久秋葉社 〒399-7411 長野県松本市中川6289
⑩秋葉社 〒380-0871 長野県長野市西長野町

秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社である。神社本庁傘下だけで約400社ある。また、歴史地理学者・米家泰作による2017年(平成29年)の調査では1,129社を数える[1]。
神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現[2]別当常安寺の二大霊山を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。
祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。Wikipedia「秋葉神社」より抜粋)
秋葉大権現 … 秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。Wikipedia「秋葉権現」より抜粋)
長野県の秋葉神社(Google Earth でヒットしたものだけです)
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注10 「国分寺(尼寺)」への考察から始まった …… 吉村さんはその意見を『多元的「国分寺」研究サークル』へ寄せたのですが、その考察に対して全く非学問的な否定(「尼寺は僧寺より後で建てられた」という根拠なき断定)がされていたので、私は次のブログ記事で、吉村さんの主張を取り入れながら、吉村さんの考察が正しいことを論証しました。それが御縁で私のブログにご寄稿いただくことになった次第です。
論理の赴くところ(その10信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた

注11 全国には見られない「蕨手文瓦」 …… 次の「軒丸瓦」(「鐙瓦」とも)です。
Photo_20201228194901 Photo_20201228194902

注12 それでも地元には「遺跡」が残っています …… 「上田染谷台条里」。次のブログ記事をご覧ください。
条坊制と条里遺構―都市(消費地域)と農村(生産地域)― …(その1)に該当。
『上田付近の条里遺構の研究』―権威に盲従するのは愚者― …(その2)に該当。
『上田付近の条里遺構の研究』(その3)―航空写真により検証する―

注13 「カンナ流し」 …… 下記は、日立金属トップページ > たたらの話 > 鉄穴(かんな)流し より抜粋です。写真は割愛しました。写真が見たいからは上のリンクからどうぞ。
鉄穴(かんな)流し
近世たたら製鉄では鉄穴ながしと言う手法で砂鉄を採取します。つぎにこの方法を少し詳しく説明しましょう。

砂鉄としては主に山砂鉄を用います。まず、砂鉄の含有量が多く、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出していて、水洗いのための水利に恵まれた場所を選び、そこに鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設けます。そして、山の上に貯水池を設け、その水を山際に沿って走らせます。山をツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って0.5~4km下手の選鉱場へ運ばれます。この水路を走りと言います。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれています。出雲地方では大池、中池、乙池、樋(ひ)の順序で次々と洗い池を通りながら、次第に選鉱され最高80%程度まで砂鉄分を高められて採取されます。軽い土砂は下手に流され、重い砂鉄は底に残る。これを何度か繰り返すことにより純度の高い砂鉄に淘汰されるという仕組みです。
砂鉄採取風景〔写真割愛〕
水は同時に農民の大切な潅漑用の水でもあったので、砂鉄の採集は普通秋の彼岸から春の彼岸まで冬場の農閑期に限って行われました。また、作業は農閑期を利用し農民のアルバイトによって行われたので、農民にとって良い現金収入源であるとともに、鉄山自体もこれらの季節労働に大きく依存していました。ちなみに、この期間に1つの鉄穴場で砂鉄100トン採取すれば御の字と言われました。
しかし、鉄穴ながしはいろいろな弊害ももたらしました。大量の土砂を切り崩すため、膨大な土砂が下流に沈殿し、川床があがって天井川となるので洪水の原因となったり、河水の汚濁により潅漑ができなくなったりしたのです。そのため、鉄山師と農民との間で争いが起こり、藩命による鉄穴ながし禁止令がしばしば出されています。
一方では藩の事業として浚渫が行われたので農地は拡大し、畜産も盛んになりました。また樹木は30年単位で順送りに計画的伐採が行われたので、山の荒廃は起こりませんでした。このように、山陰の鉄山師は農、鉱、畜を複合経営し、安定した経営基盤を作り上げてきたのです。
たたらで使用された砂鉄は山砂鉄ばかりではありません。立地により川砂鉄や浜砂鉄も用いられました。方法は筵(むしろ)や笊(ざる)に砂を流し、底に溜まった砂鉄を採るという簡単なものですが、粉鉄舟のなかに竹簀(竹で編んだすのこ)を設け、その上に砂を盛り、柄杓で水をかけて舟底に溜まる砂鉄を集めるといった工夫もされたりしました。これらは農民の請負仕事で、採った砂鉄はたたら師が買い上げていました。
川砂鉄を採るために使われた道具類(和鋼博物館)〔写真割愛〕
鉄穴ながしによる砂鉄の採取が始まる前は、竪穴掘りによって採取していたようです。芸藩通史によりますと、砂鉄は「金銀鉱と違い深穴には生ぜず、多く岡阜(こうふ:高い台地)に産するので、深く穴を掘る必要はない。採った土鉄は水際にもって来て淘洗し、鉄を採った後は穴になったので鉄穴と名付けられた。」とあり、鉄穴の由来を述べています。
時代が下がり鉄の需要が増大してきますと、砂鉄の能率的採取法が工夫され、銑穴ながし法が成立します。それでは、一体いつ頃から鉄穴ながしが始まったのでしょうか。
広島大学の河瀬正利博士は「恐らく鉄穴ながしは戦国時代頃から始まったのであろう。鉄穴ながしに極めてよく似た金の採取法『ねこた流し』に起因すると思われる。ねこた流しは金銀山の採掘が盛んとなる文禄、慶長年間には各地の金銀山を中心に普及していたと推定されるからである」という趣旨のことを述べておられます。事実、慶長年間に出雲に入った堀尾吉晴は慶長15年(1610年)斐伊川上流での鉄穴ながしを禁止していますから、それ以前から鉄穴ながしが行われていたことは確実です。
18世紀中頃に鉄穴ながしは最盛期を迎え、同時に中国地方のたたら製鉄も飛躍的な発展を遂げることになります。

注14 「金井神社」(現「草創(くさわけ)神社」) …… 注8の図参照(中央あたりにあります)。

注15 「玄蕃山」(そこには古墳 …… 公園名は「玄蕃山公園」。「玄蕃山古墳」(略図には「玄蕃塚古墳」とある)は「陣馬塚古墳」と並んでいる。下略図参照。
上田染谷台条里 略図《再掲》
Photo_20201228195101
注16 陣馬塚古墳
 …… 注15の略図を参照。

注17 「赤坂古墳」 …… 「赤坂将軍塚古墳」。注8の「上田条里遺構の周辺」図を参照のこと。

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