科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―
科野からの便り(19)
―真田・大倉の「鉄滓」発見記―[コラム]
吉村八洲男さまから「科野からの便り(十九)真田・大倉の「鉄滓」発見記」のご寄稿を戴きましたので、掲載いたします。いつものことですが、注記は私(山田)の一存で付けさせて頂いております。
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科野からの便り(十九)
真田・大倉の「鉄滓」発見記
上田市 吉村 八洲男
このところ理屈っぽい話が続いてすみません。そこで今回は、いままでの論調とはいささか趣を変えました。今回は「考古学」中心の話となります。文献に興味がおありの人には申し訳ないのですが、私に取っては現在進行形の問題でもありますので、少しのお付き合いを頂けたら幸便です。
11月8日の「多元」サークルの発表会で、「科野・真田」に「鉄」があっておかしくないと、私論を述べてしまいました。
すでに今年4月に、長野県中野市での2000年前の「鉄」の二次加工場の発見〔注1〕が伝えられています。そして「科野」の弥生後期(4世紀頃)、「佐久地域」には独特の文化があり、その最大の特徴が「鉄・銅を含む金属文化」で、その出土品は、東日本のなかで量的にも突出して多いと言われています。
ですからサークルでは、中野市での「鉄」と弥生期の「佐久」文化とが関連していると考えても良いか、と述べました。そして、「菅平」を通る「大笹道」を使ったとすれば、「真田」は両者の中間地点と言って良いと説明しました。ですから、数多くの「蕨手文様」が「真田」にあったように、「鉄」があってもおかしくはないでしょう!
私はすでに「蕨手文様」の残る石祀などの発見を通して、「真田」は何かが残る重要な地域なのだ、と予想していましたから、「多元」月例会ではつい力を入れて発表したのです。
「犬も歩けば、・・・」とはうまい表現です。驚くべき現実がその後、私を待ち受けていたのです。
11月12日、友人2名と、「真田町・大倉部落」〔注2〕にある、地元で「伝・製鉄場」跡と伝承されている場所を強力磁石持参で探索しました。ここは既に何回か訪れてはいましたが、より正確・精密な探索が必要と思われたからです。
そこで、なんと私たちは「鉄滓(てっさい)」(Iron slag)を発見したのです!!(岡嶋守一氏が第一発見者)
あちこち探し回ったのですが、敷地内に石を積み重ねた所があり、その石をどかしながらの捜索が実りました。径10cm、重さ300gの「鉄滓」でした。私も、同じ敷地内で、やや離れた所から鉱石・鉄滓の小破片など5点を見つけました。他にも陶器の破片が数点ありました。
陶器破片は地表面からの直接採取でした。石の下の「鉄滓」は、それより時代がやや遡れそうですが、ほぼ同時期と思われました。そして、これだけ地表に散乱している状況と、短時間での発見からは、発掘すれば相当な成果が予想されると思いました。
後日にも、複数回現場を探索しましたが、その都度(大勢の人が)「鉄滓」破片、「炉壁」破片、「鉱石」を見つけています。出土品は多量となりました。(やはり本格的な発掘が必要でしょうね。)
このように、「鉄滓」その関連遺物を多数に、しかも広範囲から採取できたことから、ここが「製鉄場」跡であることに、間違いないと思われました。「祭祀用」だったり、特殊な目的の為の「移入」とは思えません。ここが、石垣に囲まれた特別な場所と思える事も確認出来ました。
「真田・大倉」に、「製鉄場」があったのです!ここで、「製鉄」が行われていたのです!
誰でも「真田」で「製鉄」が行われていたとは思いません。しかし、多数の「鉄滓」・鉱石の存在は、間違いなく「製鉄」が行われていたと示しているのです。私たちは、貴重な発見をしたのです。
驚きの発見をしたのですが(そこは、考古学者の追求の及んでいない場所だった)、その後は、いささかガッカリする展開が待ち構えていました。
探索仲間の地質学者・山辺邦彦氏(「上田市史」「地質編」の編者)により「鉄滓」などが科学的に究明・分析されたのですが、その最終的な推論が、「江戸期」を指し示して来たからです。
数多い発見品を顕微鏡分析・化学処理などをしたのですが、そこからこの推論が導かれて来ました。これは、科学からの結論でもあります。反論は出来ません。(図はそれらの一例です)
近世の「製鉄」の痕跡として特徴的に現れる「石灰」を含む「鉄滓」も確認されました。
私自身が急遽読み返した歴史「資料」も、同じ結論を示しました。そこにも、「江戸期」に、「佐久地域」とは「石灰」の往来などの繋がりがあったと書かれ、確実と思われました。
どうやら「江戸期」の「製鉄」の「鉄滓」なのです。
古い時代を示すかと予想した私たちには、ガッカリの結論になってしまったのです。
私は前述したように、「弥生期」または「古墳期」の「製鉄」の存在を疑っていました。いろんな状況証拠がその結論を指し示していたからです。「弥生期」の「製鉄」を前提にして「真田」への探索が始まったと言っても過言ではありません。
ところが、「地質学」「歴史学」に根拠を置いた山辺氏のある仮説が、「どの時代でもあり得る」「真田」の製鉄の可能性を示したのです(数々の遺品の分析は、その正しさを裏付けている)。
一言で言うと、「真田」の「鉄生産」を予測する私に対し、「真田」の「鉄生産」の必然性を予測した山辺氏の仮説だったのです。
驚くべき内容の仮説だったのですが、先行する理論・根拠を踏まえたもので、科学的にもあり得ること、と私は納得しました。教示され刺激された私は、「弥生期」の「真田の鉄」存在の根拠を、「資料集」にして「探索会」で説明した位です。
「弥生期」の「鉄」の痕跡が、この地には確実に残るような気がしていたのです。
ですから、「鉄滓」を発見した時、相当な古代の遺品なのではないかと、私たちは疑ってしまったのです。
ですから、目的は50パーセント(?)しか叶わなかったと言えるかも知れません。
残念ではありましたが、「江戸期」の「製鉄所の跡」か、と判明してきました。「喜びも半分」、というのが正直な感想でしょう。しかし、「真田」で「製鉄」が行われていたという驚きの新事実が発見された、これに間違いはありません。
そして、そこをスタートにすれば他時代への推理が可能になると、気が付きました。ですから「より確実な現地追求・痕跡の発見」を行う事がこれからの課題となります。私の推測(歴史観)を信じる限りでは、「真田」にはより古い「製鉄場」跡が眠っていると思われるからです。
だが同時に、それは、より困難で、不可能と言っても良い事でもあるかと予想されます。しかし、再挑戦する価値はあると思えます。私は、これからも続けていく積もりです。
結論とされた「江戸期」の「製鉄」に関しては、いろんな不審が出て来ます。
まず、誰がこの「製鉄」を行ったのか、という問題です。
この事業が、上田藩の正式な認可・指導の下で行われたとする予測は、100%あり得ません。そんなことをしたら、それが解った時、「上田藩」はすぐに取り潰しになるからです。絶対に「製鉄」認可という危険は冒さない筈です。それに、当時の上田藩は、「生糸」事業に傾注していたと言われます(やがてこれが、「明治維新」に繋がる一大産業に育っていきます。上田藩はこの前後、重要な役割を果たしているのです)。
ですから、地域の有力者(複数か?)が、現金収入を得る為、藩の黙認の中で行った事業と思われます。その推測を裏付けるのが、江戸期に、東信・北信地域に「農具・刃物」などが広く流通した事実です(その面影はいまでも残り、お祭りに「鎌」「包丁」などの「刃物」が売られます)。
そこからの推論でもあります。「農民」・「庶民」の為の「製鉄」ではないか、と言えるのです。「生活・生産」用品の生産と繋がると思えます。戦いの武器製造の為ではありません。「江戸期」の「真田」の「鉄生産」の理由は、そこにあると思えます。貧しい農民による生活道具の生産、そして現金収入であったと思われます。
ですから附随して大きな不審事が残ります。これらの製鉄技術が自然に生まれるはずがないのです。この技術は簡単に習得できる技術ではありません。また、誰かに教えられたからと言って、すぐに実行できるものでもないでしょう。ですから家や土地に、代々伝わって来た技術だと考える方が自然です。だからこそ、知識や設備や資金がない農民が、すぐに手が出せる事業だったと思われます。
つまり、相当古い時代からこの「製鉄」の技術は地元(真田)に存在していたと疑えます。一旦は中止されたが、収入が必要な江戸期になって、それが再現されたのではないでしょうか。少なくとも、「江戸期」に突然生まれた技術ではない、と私には判断されます。
そして、それを説明出来るのが、山辺氏の仮説でもあるのです。時代を超えて、「真田」には「製鉄」事業があった、という仮説なのです。
「戦国期」にもこの「製鉄」技術が、存在してしたのではないでしょうか。古代にまで遡らなくても、「真田一族」の時代にはあったのではないでしょうか。戦国期の「真田一族」関連の謎が、「鉄」をキーワードにすると説明可能になる、と私は思っているからです。
皆様が解り易い歴史事実として、「真田幸村」〔注3〕が「真田丸」〔注4〕を築造した事情を考えてみます。
この理解に、「鉄」「武器」というキーワードを入れると、より解り易くなると思えます。
父・「昌幸」には徳川軍と戦ったという実績〔注5〕がありました。しかしそうかといって子供の「幸村」に、全軍の、全幅の信頼が寄せられるでしょうか。重要事である「真田丸」の築造が許可されるでしょうか。当たり前の様にみえますが、実はこれは、不審な決定だったといえます。
しかし、「幸村」(「真田一族」)が、「鉄」という当時の先端技術に精通していたとしましょう。
そうすると初めて、「豊臣家」そして「有力武将」の信頼を得られます。西軍の命運を握る「真田丸」が築造されたことが納得されるのです。
父「昌幸」が、上田で「徳川軍」を破った時(上田合戦〔注6〕)の理由にも、すぐれた戦術と共に、兵器(銃や刀剣)の優秀さをあげていいと思います。「真田」に優れた「鉄生産、鉄加工の技術」があったからこそ「徳川軍」を破れたのだ、単なる戦術の優秀さだけでないのだ、私はそう思います。これらの「武器」によって(士気も高かった)、「農民兵」が一気に優れた「兵士」になれたと思えます。
TVによく登場する、火縄銃研究家・鑑定士である沢田平氏が、「「馬上筒」(今の短銃に似ていた)の日本最初の使用者は「真田幸村」ではないか、と推定しているのも頷けます。「鉄」「武器」をキーワードにするとこの推測が、理にかなった当然な事になるからです。
彼の「鉄」「武器」への理解が優れていたからこそ、初めて「馬上筒」の使用を決意したのではないでしょうか。
「幸村・真田一族」は、優秀な戦略家であると同時に、「最新技術に精通した技術者」でもあったと思います。
「大倉」での「鉄」の発見により、「真田」に関した新しい研究課題は山積されることになるかと思います。
「鉄」技術を持ってきた人びととは?最初に「鉄」を利用し、権力を得た人は?「鉄」と「真田氏」との関係は?「真田氏」の力の形成手段は? 等々の解明が待たれます。
「真田・大倉」の「製鉄場跡」の発見は、今迄の「真田一族」像の見直しをも迫っていると思えます。
そして最後の不審が、発見地「大倉」の標高が800mはあることです。標高400mの「上田市」をスタート地点とすると、「大倉」は道の最奥の部落となります(ですから、ついつい見過ごされて来ました)。
それを考え直す必要があると思われます。平安時代初期(?)と推定される「製鉄関連遺跡」を持つ「真田町・境田遺跡」(「真田町史」を参照下さい)の標高は550m位かと想像されます。両者を比べると遥かに「大倉」の方が、高位置となります。
私は「蕨手文様」への考察で、「古代の文化」が山から平地へと下って来る事を再三指摘しました。九州からの伝来を、「山の道」を経由したもの、と想定してみたのです。「科野」では、諸事情により、それが顕著に出ていると思われます(「古田会ニュース」での論考〔注7〕、そしてこのブログでの私の主張〔注8〕を参照頂けたら幸いです)。
ですから、両者の「標高」の違いは、何かを物語っていると思います。
私には、「800m」での遺跡のほうが、「550m」での遺跡が示す内容よりは、はるかに時代が古いと思われます。具体的には、「大笹道」から、「真田・大倉」に到り、それから「真田町・境田」〔注9〕を通り、「上田・神科」へと文化が下っていったのだ、と思います。これは私が予想した「蕨手文様」の伝播ルートでもあります。
ですから「平安期(?)」以前に、すでに「真田・大倉」で「製鉄」が行われていた、とこの標高差が物語っていると思えます。「800m」の遺跡内容の方が、時代が古いのです。「弥生期」でもおかしくはないでしょう!
だがこれらは、推定だけです。実際には、古代の「製鉄」が姿を現すのを期待するしかありません。
見つからなくても、「鉄滓」を「江戸期」と推定した根拠や、山辺説・「真田の鉄」存在予想についての科学的知見は、このブログで次回、詳細に示していく積もりです。
「真田」は面白いところです。めぐりあわせですが、畑を耕すと直ぐに「縄文土器」「石器」が出土するという土地柄です。(「堆積物」が積み重なった「土」「土地」ではありません。)
古代から人々が住み着いた、自然に恵まれた好立地をもつ場所であったと思われます。しかし、山中の狭い傾斜地、谷間にある土地でもありますから、人びとに豊かな生活が保証されている訳ではありません。
このような土地で、「真田一族」は育っていったのです。全国区になったのです。
「武力」だけでなく、特殊な「知力・技術力」を、彼らは持っていたのではないでしょうか。それを使って「戦国期」を生き抜き、「全国区」になって行ったと思われます。
「地元バカ」の私には、そう感じられます。平凡な、山村の一武将が、あんなに輝ける筈はありません。「真田」の鉄という隠れた歴史の事実が、背後にあったのではないでしょうか。
私にはそう思われます。
やはりもう一度、歴史の全体像を見直すことが必要と思います。
それにつけても「鉄滓」を発見した自分の幸運・強運には、改めて感謝をしなくてはいけないでしょうね。「年寄りの冷や水」的行為であっても、この成果が出れば、もって冥すべきとも思われます。
(終)
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注1 長野県中野市での2000年前の「鉄」の二次加工場の発見 …… 次のブログ記事をご覧ください。
科野からの便り(11)【緊急版】―「中野市南大原遺跡」の発掘―
注2 「真田町・大倉部落」 …… Google Earth の航空写真に寄稿論考で言及された既出の場所を含めてプロットしてみました。
注3 「真田幸村」 …… 真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名[10]。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。
豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評される[11]などした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。今でも多くの人に愛され続けている。(Wikipedia「真田信繁」より抜粋)
注4 「真田丸」 …… 真田丸(さなだまる)は、1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城(地図)平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)である。(Wikipedia「真田丸」より抜粋)
「真田丸がどこにあったのかということは、未だ正確には解明されていませんが、大阪玉造近辺には「真田山」や真田の抜け穴がある「三光神社」などがあり、真田丸があったとされる土地。
最近の調査では、心眼寺から鎌八幡にかけての餌差町一帯(明星学園付近)が有力とされています。」(https://www.travel.co.jp/より抜粋)
注5 父・「昌幸」には徳川軍と戦ったという実績 …… 天正13年(1585年)の「第一次上田合戦」のこと(注6参照)。
注6 上田合戦 …… 天正13年(1585年)の「第一次上田合戦」(注5)と慶長5年(1600年)の徳川秀忠と真田信繁との「第二次上田合戦」がある。下記のWikiprdiaの解説は「第二次上田合戦」を過小評価しているが、「徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は(中略)、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かった。」とある通り、秀忠軍(東山道組)は「信濃国平定」という戦争目的を上田城(とその城下)を拠り所とする「真田一族(軍勢2,500〜3,000人)」によって阻まれ、「秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進する(美濃で合流予定=家康軍(東海道組)はギリギリまで秀忠軍(東山道組)を待った)。」ことになった、これが事実である。また、もともと「3万8000人の軍勢」を「天下分け目の戦い」に間に合わないスケジュールで動かしていた、という解釈がある(Wikipediaの解説がこれだ)が、それは理解に苦しむこと(兵力の分散と小出しは戦争では御法度)である。つまり、秀忠の軍勢は簡単に「信濃国平定」ができて「関ケ原の戦いに間に合う」と踏んでいたが、「第二次上田合戦」でその計画が破綻した(すなわち「第二次上田合戦」は戦争目的を達成できなかった徳川軍の敗戦)、と見るしか無い(何を言おうと「負け惜しみ」に過ぎない)。Wikipediaには「これらを裏付ける当時の史料は無く」とあり、「「実証主義」による歴史」とはこんな程度の物(「3万8000人の軍勢」)は「関ケ原の戦い」にはもともと無関係だった、という解釈)である。
上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。 (他氏も参加していた。) この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585年)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する事もある。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。
この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい場合もある。〔中略〕
第二次上田合戦
昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。〔中略〕
徳川家康が指揮を執る東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かった。
9月2日に秀忠は小諸に到着した[1]。9月3日、昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾する[2]、ところが4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入った[2]。
秀忠軍は9月5日、上田城に接近し[3]、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向け、信之軍は戦わずして戸石城を接収した。
戸石城を落とした後、秀忠軍は9月6日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきたが敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫ったが、ここで秀忠より撤退命令が下る。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進する。
通常、第二次上田合戦は『烈祖成績』に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記されるように、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗し、またこの敗戦により関ヶ原合戦に遅参したと考えられていた。しかしこれらを裏付ける当時の史料は無く、家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。また秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、9日に一旦全軍を小諸へと撤収した直後に家康の書状を携えた使者が到着し、その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とされるが[注釈 2]、森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田である[4]。
秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急いだが、そもそも8日に上洛命令が到着したことから15日の関ヶ原本戦には間に合うはずも無かった。
松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。
また、追撃した牧野康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった〔※〕。(Wikipedia「上田合戦」より抜粋)
※ 牧野康成は、上野国大胡藩の初代藩主で、「徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる[6]。牧野隊は真田方の策に気付かずに康成・忠成父子の指揮の下、上田城下に攻め入っており、家臣たちの助けで危うく難を逃れた。旗奉行の贄掃部は主君の失態の身代わりとして切腹を命じられていたとされる。」(Wikipedia「牧野康成 (大胡藩主)」より抜粋)
子の忠成は大胡藩二代藩主で、その後に、越後長岡藩の初代藩主となる。
注7 「古田会ニュース」での論考 …… 下記ブログ記事です。
「蕨手文様」の来た道―「東京古田会ニュース 令和2年6月号(№192) 」掲載―
注8 このブログでの私の主張 …… 下記ブログ記事です。
科野からの便り(7) 真田(「科野の国」)の「蕨手文様」 2019.12.30
「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編 2019.12.07
「科野からの便り」真田編(五) 2019.11.01
「科野からの便り」真田編(四)曹操墓から出土した蕨手文 2019.09.25
「科野からの便り」真田編(三) 2019.09.19
「科野からの便り」真田編(二) 2019.08.12
「科野からのたより」「シナノ」古代と多元史観 2019.07.27
「科野からの便り」 真田編(一) 2019.07.05
注9 「真田町・境田」 …… 出早雄神社(上田市真田町本原)の南西に「境田遺跡」がある。
「真田町教育委員会 1996 『真田町埋蔵文化財発掘調査報告書8:境田遺跡・西田遺跡』」が「奈文研」「全国遺跡総覧」からダウンロードできる。
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