科野からの便り(24)―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―
科野からの便り(24)
―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―[コラム]
昨日(2021/01/25(月)16:28)、吉村八洲男さまから、前回で予告されていた科野からの便り(二十四)(科野からの便り(二十三)「真田・大倉の鉄滓」③の続き)をご寄稿いただきましたので、掲載いたします。続きなので第6章から始まっています。
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「科野からの便り(二十四)」
「真田・大倉の「鉄滓」③(続)
上田市 吉村八洲男
(前回からの続きです。)
6.「鉄滓」「炉壁」「土」などからの画像とその解説
ここからは、「大倉」で発見された「鉄滓」「炉」「土」などへの観察結果(「顕微鏡写真」が主)と、それへの「山辺邦彦」氏の地質学からの解説・説明が中心となります。採取した遺物の数も多く(?)、「写真」の数も多くなりましたが、その「写真」には、発見日毎の「ナンバー」などを付けてありません。ですからこの「便り」では、私論に沿う形で、観察された「顕微鏡写真」を配置してあります。
前回で紹介した「山辺」仮説を思い浮かべながら、画像をご覧いただくと、「仮説」内容の「正しさ」が実感出来ると思われます。「真田は製鉄の適地」仮説に導かれ、我々は「鉄滓」を発見したのですが、「鉄滓・その他」の出土品分析は、その「仮説」の「正しさ」を示していると思われます!どうか、ご確認下さい!(仮説部分は「山辺」氏の事前の了承を得てあります。但し、文責は吉村です。)
この前後に作成された「山辺」氏作成の「資料」も最後に添えておきます。
1.「鉄滓」① (長径10㎝の検体)
明らかに、「炭」が確認できます。点々と認められます。「製鉄」時、「原材料」に「炭」を配合した、つまり燃料として、「炭」を使ったと解ります。「層」を形成しているように見えます。「鉄原料」、「炭」と、それぞれを重ねて使用したか、と確認できそうです。
ハッキリと確認出来ることから、使用量も多かっただろう、とも推測されます。
2. 1.の拡大図
拡大すると、溶融物のなかにある「炭」がハッキリ確認できます。「炭」の表面には、白い「炭酸カルシウム」の被膜が見られます。「炭」の材料となった「木材」の種類や「堅炭」かどうかなどは、不明です。(科学的分析からの特定が可能でしょう)
3.「鉄滓」①の「鉱物分析」 (直径10㎝)
「鉄滓」表面のざらざらした部分を、「岩石粉砕法」で、「鉱物分析」したものです。「右」の写真には、「炭」「珪石」「鉄」が確認出来ます。炭化した「炭」「珪石」も認められます。「左」の写真には、「珪石」「鉄」が確認出来ます。
4.「鉄滓」② (直径2㎝)
小さな「鉄滓」破片の検体ですが、貴重ないくつかの情報をもたらしました。
5.「鉄滓」②(直径2㎝) 4.の拡大図
溶融しかけた「珪石」がハッキリ確認できます。さらに、微小だが「ろう石」二個の存在も認められ、両者の使用が再確認できます。これは「鉄滓」ですから、認められた「ろう石」は、「炉壁」などで使用されたものが紛れ込んだものかも知れません。主材料として使用されたとは、思えません。
6.「ファイアライト」部分
検体は、上下の、計二個です。それを、表と裏の関係として「右」「左」に示してあります。
この二検体は貴重な事実を示します。「ファイアライト」がハッキリ認められ、しかも場所が特定できる事です。「ファイアライト」(Fe₂Sio₄)とは、「珪石(石英)」と「酸化第一鉄」の化合物で「黒色・緻密なガラス質」状となったものです。そこからは、「製鉄」の存在が証明されます。そして、他の部分が赤みを帯びて「耐火粘土」を示すと思われる事から、この検体が「たたらの炉」の部分であったかと推測できます。
7.ファイアライトの確認
5.の拡大図です。「ファイアライト」の存在を示します。しかも、右側の写真には、溶融しない「珪石」が認められます。「製鉄」に際し、「珪石」の存在(添加)が確認できます。そして、「ファイアライト」」形成の理由がここからも解り、間違いなくこの検体が「炉壁」であろうと推断できます。そして前写真から、「ファイアライト」部分が「湾曲」していたか、と思えます。
8.「炉壁」 「粘土」部分
5.の「炉壁」「粘土」部分の拡大図です。そこに、「イネの藁(わら)」の存在が確認できます。驚きの映像です。「製鉄」の「炉」に「藁」が使われているのです。「粘土」の粘性を高める為、「藁」を細かく裁断して使用したと思われます。ただ、「近世製鉄」に熟知した人によってこれが使われたとは到底思えません。「炉壁」が、「土壁」作成と同じ手法という事ですから、この「藁を使用した製鉄」が、熟練の技術者によるものとは思えません。
いずれにせよ、「炉」には強い「粘土」、が重要だったと言えるでしょう。
9.「炉」内壁(「粘土」部分)
同じく5.の拡大図です。赤褐色部分は高温で焼かれた「粘土」で、その中に入った「珪石」「ろう石」が多量に確認できます。
当然ですが、この部分(「炉壁」)は、磁石に付きません。つまり、「鉄滓」部分とは異なるのですが、そこにも「珪石」「ろう石」の使用が認められます。地元「鉱山」産出という事で、多量に使われたと判断出来るかも知れません。
10.「炉」内壁の 鉱物分析
5.の部分を、「岩石粉砕法」により、鉱物を分析し確認してみました。
それにより、5.「耐火粘土」中の「鉱物」を特定することが出来ました。
予想通り、「大倉鉱山」の「珪石」・「「信陽鉱山」の「ろう石」が多量に使われていたと解ります。
この「珪石」(石英)も、炉内の「酸化第一鉄」と反応して、「炉壁」表面の「ファイアライト」形成の一助となったと推断できます。
11.「炉」内壁 ②
別検体の「炉壁」です。
ここでも、内壁部分表面に極細かい「マンガン鉱」と「珪石」「ろう石」が認められました。黒色部分の「マンガン鉱」は、粉末とされ塗布されているかと思えます。大きさ2.5mm未満と推定されます。肌色部分は「珪石」「ろう石」です。「マンガン鉱」を利用する際の、一方法と思え、貴重なものです。(オキシド―ル添加での酸素発泡を確認済みです)
12.炉壁 (「マンガン」)
10.の拡大図 です。「マンガン」(黒色部分)と「珪石」「ろう石」(肌色部分)が認められます。やはり、「マンガン」・他は、粉末とされ、塗布されているように見えます。
大きさは2.5㎜未満と想定されます。一般的な『「製鉄原料」への添加』とは、異なった使用法と思えます。
13.「鉄滓」発見現場の「土」
前述したように、「鉄滓」だけが重要ではありません。発見場所(地)の「土」も採取しました。「磁石」に強い反応を示す「土」がありひょっとしたら、と思ったからです。
「左」の検体には、「砂鉄」「珪石」「鉄滓」「鉄球」などが認められました。「砂鉄」には、「チタン」が大量に含まれ、「実相院(金縄山)」の「砂鉄」と断定されました。
「右」の検体からは、「磁鉄鉱石」「鉄滓」「鉄球」「鉄の削りカス」が認められます。
分析の結果からは、「製鉄時代の特定」「製作方法」などへの推論がでてきます。
14. 13.の「左」検体 (「チタン」の確認)
「チタン鉄」の自然界での普通の形状は、六角形で板状になっている、と言われます。「実相院」の例も同じ特徴を示しています。上田地域では「チタン」を含む「砂鉄」がはっきり認められるのは、「実相院」の「砂鉄」だけと言って良いと思われます(唯一ではないが)。
そう考えて、「左・右」の検体を見比べると、「実相院」の「チタン」と「大倉・現場の土」にあった「チタン」は同じ形状を示す、と判断されます。
他の検体を分析した結果からも、「大倉・現場の土」には「チタン」が多量に含まれていると判明しました。これらからも、予想通り「実相院」の「砂鉄」が「大倉」の「製鉄材料」として使用されていたと解ります。
15-1. 現場内の異なる「土」検体
別検体の「砂鉄」です。別の場所なのですが、やはり輝きがある「砂鉄」が多く認められます。「チタン」が含まれる「実相院」由来と考えて良いでしょう。
15-2. 13.「左」検体の拡大図
上図に示した検体では、「鉄」が輝いています。これも「チタン」成分の為かと思われ、存在が確認できます。
経年を考え、そして土中に埋没していたのですから、「鉄(分)」は、錆びているのが通常です。ところがこの検体には「錆び」が見られません。やはり、質の良い「鉄」、と思われます。
16. 13.の「右」側検体 拡大図
現場の「土」(13.「右」検体拡大図)に含まれていた「鉄」破片です。
明らかに「切りくず」で、輝きも見られます。この「検体」は、加工する工程で発生したものと判定されます。質の良い「鉄」が造られたと推測して良いでしょう。そして、「製鉄場」(大鍛冶)だけでなく、その先の行程(「製品」化)もこの場で行われていた、と判断出来ます。
別検体からは、「鉄球」も確認され、「鍛造」によって発生した「鋼(はがね)」かとも思われました。
「大倉」の「製鉄場」内では、「製品」までが造られていたとようです。「鋼」も確認されましたが、同時にこれは時代推定への手掛かりともなりました。
17.「鉱石」と「鉄滓」破片 (時代の推測)
「右」の検体は、「珪石」の中に生じた「マンガン」鉱石です。「黒色」の部分が「マンガン」です。これは、離れた「佐久・大日方鉱山」産出鉱石と類似の形状、成分と思われます。「真田・美山鉱山」のマンガン鉱(「ろう石」の中に形成された「マンガン鉱」)とはハッキリ異なります。
「大日方鉱山」産出と判断して良いでしょう。「大日方鉱山」は、「江戸期」に隆盛を極めたと言われています。「資料」にも明白に残ります。その材料を「一部」ですが使ったと思われます。
「左」の検体は、「黄鉄鉱」混じりの「磁鉄鉱」石で、これも「大日方鉱山」産出鉱石の特徴を示します。(別「鉄滓」に含まれていました。)
やはり「大倉」での「製鉄」に、「他地域」の材料をも使っていた、と判断されます。
文献には、「江戸期」に「石灰岩」を「佐久」から購入した、という記録が残ります。「マンガン鉱」や「磁鉄鉱」の記録はありません。恐らく製鉄時に、「石灰岩」を「主」とし、それ以外の材料も同時に運び入れたと思われます(少量でしょう)。
混入させ使用していたかと思われます。(近世製鉄に、「石灰」は必需品である事からも、こう推定して良いと思えます)
18.「鉄滓」中の「石灰」
「上図」の「鉄滓」検体でも、「石灰」の残存が認められます。やはり「近世製鉄」の特色である「石灰」の使用が確認出来ますから、この製鉄が行われたのは「江戸期」という推定を裏付けます。
7.終わりに
画像をみて、「真田は製鉄の最適地」という仮説が、「単なる推測」ではないと言う事が良くお解り頂けた、と思います。
『「4種の鉄鉱石」の使用』が、「仮説」の通りで、発見された「鉄滓」でも使用されていたと確認されたのです。画像からも、「真田が製鉄の適地」であったという驚きの事実が証明されました。
これは古代史解明に、画期的な見解をもたらすものと思われます。
発見された「鉄滓」からの各種画像は、「山辺」氏の「仮説」の正しさを科学的に証明していますから、これへの「反論・異論」は簡単には主張出来ないと思われます。ですから、「真田は製鉄の適地」であるという結論からの新たな古代史への見解が生じた時、私にはその見解の正しさが、すでに「担保」されているとも思われます。
そして、今回発見された「鉄滓」からは、「江戸期」の製鉄が浮かんできました(その
点は些か残念です)。しかし、『「真田の自然・地層」に裏付けられた「製鉄」』が明瞭にな
って来た、とも言えます。
『「真田」は、「製鉄」に適した凄い自然・地層を持っている』が、正しい理解でしょう(だからこそ、「江戸期」にまで「古代の製鉄方法」が残っているのです)。
この「真田」の「自然・地層」は、太古からのものです。
つまり、「製鉄」を熟知する人たちによって、この「製鉄に適した稀有な真田の自然」に気付かれた時、その時に「真田」の「製鉄」が始まったと言っていいと思えます。
その時期を特定出来ないでしょうか。「真田」の「製鉄の開始時期」を推定出来ないでしょうか?
推測により、「仮説」に従って「鉄滓」を発見した私には、それへの更なる説明責任がありそうです。有難いことに、かすかな手掛かりがあるのです。
次回にはそこからの推量などを試みて見ましょう。それこそがこの発見がもたらした最大の成果になるかと思われるからです。
それにしても、幸運な発見とその展開でした。
私たちが発見したのですから、極論すれば「発見された資料・出土物」はすべて、我々のものです。地主さんの了解は、得ています(勿論、所有するつもりはまったくありませんが)。
ですから、今回は自由に「資料・出土物」を調べる事が出来ました。「岩石粉砕法」(「豆」程の石を使います)による究明などは、「公共の財産」になった「資料」には不可能かも知れません。市井の「一研究者」には調べにくい、面倒な研究方法になってしまうからです。
ですから、まだ結論が判然としない時、「山辺邦彦」氏(「上田市誌」・「地質編」の執筆者)と共同でこの一連の研究・調査が出来たことには、最大の感謝をしなくてはいけません。
「推測」と「仮説」からこの「発見」がなされた事が、すでに大きな成果なのです。
私の発見はごく一部です。他の人が次々に重要な発見をしてくれました。「山辺」氏の適切なアドバイスから、発見をしたこともあります(「土」の重要性への指摘など)。
『「真田」で「製鉄」が行われていた』発見からは、「近世の真田史」に新たな見解が生まれるかと思われます。そして周知された「真田一族」への追求もより深まるかと思われます。
でも私には、この事実がもう一つの「古代歴史観」を確定的にする事、とくに『九州王朝による「科野」進出の歴史』が確定するかと思い、それに最大の興味を持ちます。
「真田」を足掛かりに、「科野」へ「九州王朝」の力が大きく及んで来た事を証明すると思われます。「鉄」を持った勢力が、支配を広げて来た、と思えます。「信濃毎日新聞」(R2・4)の記事〔注〕が示した「考古事実」と「真田」の発見による事実とは連続している、としか考えられないからです。
そして、これをきっかけに永年続けて来た郷土「上田」・「科野」への私の論考がもう一度見直されるならば、それこそが一番の幸せなのかも知れません。
(終)
【資料】
鉄滓石灰岩産地と砂礫の分析
ダウンロード - e98984e6bb93e79fb3e781b0e5b2a9e794a3e59cb0e381a8e7a082e7a4abe381aee58886e69e90.pdf
②大蔵でのファイアライト
ダウンロード - e291a1e5a4a7e894b5e381a7e381aee38395e382a1e382a4e382a2e383a9e382a4e38388.pdf
実相院の風化ヒン岩
ダウンロード - e5ae9fe79bb8e999a2e381aee9a2a8e58c96e38392e383b3e5b2a9.pdf
傍陽地区たたら製鉄の痕跡
ダウンロード - e5828de999bde59cb0e58cbae3819fe3819fe38289e8a3bde98984e381aee79795e8b7a1.pdf
大倉の鉄滓について①修正版
ダウンロード - e5a4a7e58089e381aee98984e6bb93e381abe381a4e38184e381a6e291a0e4bfaee6ada3e78988.pdf
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