« 周王朝の“春秋暦”(3)―「冬至月=11月」は夏王朝の暦― | トップページ | 「鬯草」とは何か?にその6とその7を追加 »

2021年1月22日 (金)

科野からの便り(23)―「真田・大倉の鉄滓」③―

科野からの便り(23)
「真田・大倉の鉄滓」③[コラム]

 昨日(2021/01/21,17:39)、吉村八洲男さまから 科野からの便り(二十三)が届きましたので掲載いたします。今回の便りは、吉村さんは次のように言っていますが、まさにそういう事実が披露されています。読了後に読者さまもきっと同じ感想を抱くと確信しています。なお、注記は(下線も)いつも通り、山田の独断で付しています。ご了承ください。

 喩えは悪いのですが、「砂金」が豊富に採れる地・地層であるのに、人々は「砂金」を少しも採掘して来なかったという事になります。貴重な「砂金」抜きで現在の「歴史」を組み立て説明して来たように感じてしまいます。なんだか、おかしいですね。

…………………………………………………………………………………………………………………………

科野からの便り(二十三)
「真田・大倉の鉄滓」③

上田市 吉村八洲男

1.始めに

 前回までの数回〔注1〕にわたり、私が「真田・大倉」で「鉄滓・その他」を発見した事と、そこへ到るまでの展開を記述してきました。特に私が永年追求してきた「上田・条里」についての推測が、「山辺邦彦」氏の「地質学による見解」と見事に一致し、しかもその見解が、私の上を行くより多くの教唆に富むものであった事への驚きを述べました。

 考えて見ると、「真田での製鉄」については、今迄の地域研究史では一言も言及されていません。それには驚きます。既存の「歴史学」からの推測・言及は皆無なのです。せいぜい「境田遺跡」にある「鉄加工の痕跡」と「鞴(ふいご)の残存」が注目された位です。(これさえも、平安期のものか、と「報告書・町史」は推定しています)

 しかし間違いなく「大倉」では「製鉄」が、行われていたのです。山中の奥深くで「鉄」が造られていたのです。今回の「大倉の鉄滓」発見が、それを雄弁に物語っています。

 今迄の歴史学は、これをどう説明するのでしょうか。興味が湧くところです。

 聞こえてくるのは、「鉄滓」の移入(転入)説です。「他地から搬入した」と言うわけです。しかしこの説明は、「鉄滓」だけでなく「鉱石類」などが数多く残されている現場の状況を説明できません。さらに、明らかに「大鍛冶」(精錬所)の存在が推定される石垣で囲まれた場所での「鉄滓発見」を説明できません。

 既存歴史からの説明、「鉄滓の移入説」が成り立たない事は明白です。そして更に思います。何故、役に立たない「鉄滓」(残りかす)をわざわざ移入しなくてはいけないのでしょうか。

 後は、お得意の方法、「都合の悪い考古物の出土」には目をつむる事になるのでしょうか(失礼!)。

 ところが、私の歴史観からは、「真田・大倉」の「製鉄所・鉄滓」の発見は、むしろ必然といって良いのです。「真田の鉄製造」の存在は予測されたものであり、「真田」には、必ず「製鉄・その痕跡」があると推測していましたから。

 しかし、おぼろげに感じていた推測を、より明確な形にしてくれたのが「山辺氏」の講演会の内容(条理地への「地質学からの判定」)と、『「真田は製鉄の好適地」であった』仮説です。ですから、それらの「一連の山辺説」を証明したのが今回の私の発見である、と捉える事が出来るかも知れません。

 つまり、「歴史観からの推測」と「自然科学からの論理・説明」とが見事に一致した事例が、「真田・大倉」の地で発見した「鉄滓」である、とさえ言えるのです。

 この(二十三)では、「真田の鉄」存在を指示し推定した「山辺」氏の仮説を微力ながら私なりに説明していきたいと思います。そして次回(二十四)で、発見した「鉄滓(他)・分析図」や「資料」などを提示致します。

 そして最後に(二十五)、「真田・大倉」での「製鉄」に関する「私の歴史観からの見解」を述べて見るつもりです。もうしばらくのお付き合いのほどを・・・

 

2.「珪石(二酸化珪素)」について

 最初に、「八賀 晋」氏の書かれたある論文中に使われた種々の「分析表」を提示します(もちろん「山辺」氏に教示されたものです)。使われた「分析表」中の数値は、公的と言える社会性を持つ機関が作成した信頼できる数値と思われます(「新日本名古屋製鉄所品質管理部分析室」とあります)。
第1表 赤坂赤鉄鉱分析値(新日本名古屋製鉄所品質管理部試験分析室による)
Photo_20210122153601
第2表 金生山周辺古墳出土鉄製品分析表
Photo_20210122153602
第8表 滋賀県草津市市木瓜原遺跡鉄滓・鉄塊分析表
Photo_20210122153701
 「八賀 晋」氏は三重大学の教授を勤められた超一流の学者で、「古代史」学界を永年にわたりリードしてきた権威者です。その研究は『「古墳」研究』から『「古代社会」への考察』迄、多方面に及んでいます。

 勤務された大学の関連からか、「東海地方(伊勢・伊賀・美濃・飛騨など)」の「考古学」にも注力され、地域から「古代」を追求する優れた考察が多い研究者とも思われます。

 彼の書かれた論文、「古代の鉄生産についてー美濃・金生山の鉄をめぐってー」(『学叢・「京都国立博物館 二十一号」・1999』に掲載された論文)を紹介します。

 論文は、科学的分析数値を多用しての推論を展開し、多くの示唆に富むものです。

 『古墳時代、とくに五世紀頃の古墳副葬品に見られるように、莫大な量の鉄製武器の存在は、地域さらにそれを越えた国々の形成の過程に鉄の有効な在り方を具体的に示す』と主張され、その論点からの論考と思われました。

 「原料鉄」とそこからの「鉄製品」との関連に着目したことは、注目されていいと思われる(他に「原料鉄」、「鉄滓・鉄塊」、「鉄鋋」、「鉄製品」などの関連への追求が必要だ、との提言も)。

 そして「山辺邦彦」氏はこの論文(特にその分析数値)から、次のような見解を導き出しました。第1表第2表の示す「分析数値の意味する事」への推測が、出発点となりました(第8表でその見解が再確認できる、と言います)。

・岐阜県大垣市には「赤坂鉱山」があり、その「採掘原料」(第1表)を使用して大垣市「金生山古墳」(現在11基が残る)で確認された「鉄製品」(第2表)が造られたと言われています。

・「金生山」山頂付近の「赤坂鉱山」から採掘した鉱石材料を使い、「金生山古墳」出土の各種「鉄製品」が造られた、と言います。両者は、「原材料」とそれを使用した「製品」の関係にあります。

・ですから両者を分析しその科学組成を比較した時、相当な一致・傾向(割合)がある筈です。もし数字が大きく変化していたら、それには何らかの理由があると思われます。

 その観点から、第1表と第2表を比べると、ある事に気付くと言うのです。

・第1表などの数値(「%表示」)に関してですが、そこでの「二酸化ケイ素・SiO₂」は「2.85%」の割合を示します。ところが、第2表の「Si」の量はハッキリ違います。全体の3割に迫ろうかという数値を示します。「40%~70%」は増加している、と言うのです。

 確かにその通りです。

 ここから、「山辺」氏は、こう予想しました。

「二酸化珪素(珪石)」が、「製鉄」時に意図的に使われたのではないだろうか。しかも多量に。」

 これは優れた着想でした。この観点からの「製鉄」への論及は少なかったのです。「原材料」から「製品」が生まれる訳ですから、両者の関係からの立論には、説得力があり間違いないだろうと思われました。

 全国には数えきれないほどの「古代鉱山」跡や「金属製品・鉄滓」などの遺品があります。そのほとんどの出土品は科学分析されています。そして既に、その数値の集積から、「二酸化珪素(珪石)」が製鉄時、「造滓剤」として利用されたか、と推定されていますが、これらとは異なる観点からの推定と思いました。(出雲・「たたら製鉄・鉄滓」での分析も同じ結論が示されていました。)

 しかし、この「金生山古墳」群の「鉄製品」分析表からのは推論は、「原材料」とそこからの「製品」という視点からのもので、「山辺」氏の推測の正しさを裏づけていると思いました。(「八賀」氏のこの論文中でも、「珪石」が「造滓剤」として使われたのか、と言う疑問を、論文最後に提示しています。)

 「山辺」氏は、さらに次の事例からも、「珪石」の「造滓剤」利用を確認できる、としました。

 「古代たたら製鉄」を現代に復元する研究を行っているグループの論文(「古代たたら製鉄の実験」川崎市柿生中学校・平成22年・冶金学者、東京工業大教授永田和宏氏が指導された)を読むと、『磁石で集めた浜砂鉄には、「5%の珪砂」を入れると良い』と書かれていたと言われたのです。

 その理由として、「磁石で集めた浜砂鉄は珪酸分が少なく、7~10%の酸化チタンが含まれているためこのままでは砂鉄が溶けにくいため」と書かれていたと言います(インターネットにもこの論文があります〔注2〕)。

 自然界に存在する原材料(鉱石)を考えた時、科学分析による「珪酸(二酸化珪素)」とは、「珪石」を意味すると考えられます。ですから、古代に製鉄・精錬を行う時、鉄鉱石・砂鉄などの原料に「珪石」を混ぜていた事が、この実験例からも再確認できると言われたのです。

 確かに古代製鉄の原材料は、さまざまな「形態」(鉱石)で自然界に存在していた筈で、古代人はまずそれらを利用しようとしていたと思われます。

 「砂鉄」と一くくりにしますが、「赤目」・「真砂」という『(花崗岩風化由来の)砂鉄成分(主に、チタンの含有量)』を基準にした分類もあったでしょうし、「浜砂鉄」「山砂鉄」と言うような採集地からの分類もあったでしょう。更に「砂鉄」以外の「岩鉄鉱石」(赤鉄鉱など)もあった筈です。

 古代人は、それらのすべてから「鉄」をつくっていたと思われます。

 その中で、「浜砂鉄(または純粋な砂鉄?)」には「珪酸」分が少ない、と判断されたと言う事は、「製鉄」を行う際には「珪酸」分の存在判断が重要な事であった、と思われます。つまり、原材料のいかんを問わず、「製鉄」にはある量の「珪酸」(珪石)が必要だった、と判断していたと思って良さそうです。

 「永田」氏は、著作も数多く持つ「古代たたら製鉄」研究・そして「冶金研究」の第一人者です。ですから、永年の研究の過程でこの結論を探し当てたのか、と私は思いました。

 これらの事例に接し、私にも「珪酸(珪石)は、製鉄時の必需品」と思われました。山辺氏の主張に納得したのです。

 原材料の変化に応じて「珪石」の量を変化させたとさえ想像したものです。「科学分析」だけからの推論とは異なる立論の方法もあるのだ、と実感しました。

 同時に、「山辺」氏は、「鉄」を造るのには必ずしも「高温」を必要としない、とも力説されていました。

 『FN高校物理・「製鉄の歴史」・2019」〔注3〕にも記載がある、と教示され、他にも同じ内容の説明は多い、と言われました。

 「高温」下でなくては、「製鉄」が出来ない、と思いこんでいた私には、これも驚きでした・・・

 

3.「マンガン」について

 「八賀」論文の示した「分析表」について、「山辺」氏は続けて指摘しました。

 「もう一つ、明らかに数値が変化している物質がある」、それは「マンガン」である、と言うのです。

・よく見ると、第1表と第2表では「マンガン量」が明らかに違います。

・第1表の「赤鉄鉱」にはいる「マンガン」は、0.01%ですが、そこからの「鉄製品」には1~2%の「マンガン」が含まれます。見過ごしてしまいますが、比較すると100~200倍に増えている事になる、と言うのです。

 これは、「珪石」と並んで製錬時に意図的に「マンガン」を使用した可能性が高い事を示している、と「山辺」氏は言います。

 同時に示して頂いたのが、「広島県下の古代の製鉄原料と精錬技術に関する試論―カナクロ谷遺跡出土製鉄関連遺物の調査からー」(広島大学大学院「広島大学考古学研究室 紀要 第十号 2018年」)〔注4〕でした。「鈴木瑞穂」氏の論文です。

 一読どころか、再三読み返し、理解しました。たたら製鉄を代表する「カナクロ谷」からの遺品(鉱石・鉄滓)について科学分析・組成分析を再度にわたり細密に行い、さらに製鉄時のそれぞれの生成過程の化学変化を、「反射電子像」として再現しているすぐれた論文でした。

 その論文での「考察」は、「カナクロ谷遺跡のマンガン鉱石」が中心となっています。

 「カナクロ谷遺跡」出土の「鉄鉱石・砂鉄」を主に研究され、その遺品分析事例を多数取り上げた結果と思われます。

 その中で特に注目されたのが、31%もの酸化マンガン(MnO)を含む「鉄滓」の事例で、「国立歴史民俗館」が行った「カナクロ谷調査」の「鉄滓」にも18.1%もの酸化マンガンを持つ鉄滓があったと報告されている、と紹介していました。

 そしてさらに論文では、こう紹介しています。

 『(「カナクロ」谷遺跡では)製鉄原料がマンガンを高い割合で含む鉄鉱石(塊鉄)と砂鉄であった事が明らかになった。

 もう間違いない、と思えました。「金生山」遺跡からの二つの分析表と、この論文の示した数値からの「マンガンの存在予測」は、古代製鉄時に「マンガン鉱石」が必要とされた、と判断して良いと思われました。

 「マンガンを高い割合で含む鉄鉱石」とは、自然界ではめったに存在しない鉱石と思われます。ですから、「材料」に「マンガンを含む鉱石」を付け加え(添加し)て「製鉄」を行った、と考えた方が良いと思われます。そう考えた方が自然です。

 古代「たたら製鉄」では、「マンガン鉱石」の添加が必要だったと思われるのです(この結論も今迄出されてきた推論(ネットでも見られます)と同じです)。

 「金生山」関連分析表との比較・関連からは、「マンガン」の使用量の多少は「製鉄原材料」の違いによるものなのか、という疑問も生じます。岐阜での例は、「赤鉄鉱」が原材料と推定されているからです。「カナクロ谷」のように「砂鉄」ではありません。

 ですから、特に「砂鉄」を主原料とした「たたら製鉄」(「カナクロ谷」を代表とする例も)では、「マンガン鉱」の存在が重要なカギを握っていたと思われます。論文が示した「使用マンガン量の多さ」からは、そう推定しても良いのかも知れません。

 (しかし、原料の違いによる製鉄時の「マンガン鉱」使用量「多少」への推定は、「冶金工学」にさらに深入りします。当然ながら私には手に余る推論です。「スルー」させて頂いた方が良いかと思われます。)

 「マンガン」は、自然界では他の鉱石成分と合体(貫入)して鉱石となり、採取される例が多いようです。前述の論文では「かんらん石・(FeMn)₂Sio₄」「ざくろ石(MnFeCa)₃Al₂(SiO₄)₃などを挙げています。ですからこれ以外にも「マンガンを含む」鉱石が存在したと思われます。「マンガン」鉱石を、「造滓剤」としてどのように使用したかにも、興味がでてきますね。

 さて、「山辺」氏の予想は、こうした各種文献からもその正しさが裏付けられました。「二酸化珪素(珪石)」と「マンガン」が「製鉄・精錬」の際、必要な添加物、添加鉱石だったと言って良いでしょう。

 中世・近世資料(発見された「鉄・鉄滓」)からは、「製鉄原材料」以外の「造滓剤」・「媒溶剤」としての「効率化」鉱石、またその使用方法への推測が進んでいます。ここに挙げた二種類以外の「造滓剤」「媒溶剤」も予想されるようです(「鉄の融点」を下げる目的の「鉱石」の添加などです)。

 しかし私にはこう思われました。人々は歴史の進展に従い、より効率的な「製鉄方法」を求めた筈です。ですから時代が進むにつれ、それらが増えていったとしても当然だろう、と。「古代製鉄法」と「近世製鉄法」が同じはずがないからです。

 問題なのは、残された「古代の鉄・製鉄法」資料からの推測です。それが重要と思います。そして、「金生山」や「カナクロ谷」からの推定は、それが、「珪石」と「マンガン鉱石」であったかと指し示しているのです。いってみればこの二つが、古代の製鉄時、『必要にして十分な、又は最低限必要な「鉱石」であった』のかと思えます。

 この推論は、いかがでしょうか?

 

4.「ろう(蝋)石」について

 最後に山辺氏は、指摘しました。

 「製鉄」を目的とした時、「炉」の作成が必須のものになると言うのです。「炉」の内

部で「製鉄(還元反応)」を行うのですから、しっかりした形状を持った「炉」がなく

ては「製鉄・金属の精錬」が行えない、と言うのです。確かにそうです。原始的な製鉄では、地面を掘って製鉄をしたかと想像されていますが、途中からは「炉」に相当する部分が造られた筈です。

 ですから思った以上に、「炉」(その歴史)は「製鉄時」の重要事であったか、と思えます。

 現在、「古代たたら製鉄」の再現を目指して、全国各地で様々なグループによる様々な試みが行われています。インターネットで探して見るとそれは驚く程の数となります。

 その時、「炉」を「耐火軽石ブロック」で代用しているのが目立ちます(前述の永田氏もこの方法を勧めています)。

 鉄の融点は、1500℃です。再現実験を行う時、いきなりこの温度を必要としないでしょうが、1000℃~1300℃位の高温は必要とするかと思います。しかも実験は長時間行われます。ですからそれに耐える材料が求められます。その点、「ブロック」は最適でしょう。手軽に入手できますし、「原材料」の収納も楽に行え、「炉内」の反応の観察も確認出来ます。なによりも高温に強く、保型力もあります。「炉」に悩まなくていいのです。

 そして、このような優秀な「炉」は「古代の製鉄」でも絶対に必要とされたと思われます。極論すれば、「炉」が無くては「製鉄」が出来ないのです。

 「炉」には、「保型」だけでなく「炉内」の「還元反応」を邪魔しない(または手助けする)役割も求められた筈です。

 そして「炉」は、「鉄滓」とは違い「磁石」などでは、遺跡から発見されません。ですから、いままでは、見逃されて来た「考古資料」かも知れません。再考されるべきと思います。

 恐らく「粘土」「石」から「炉」を造ったのでしょうが、それだけでは「高温」に長時間耐えられません。

 古代では、「ろう(蝋)石」が「炉」の材料(添加材として)として最適であった、と「山辺」氏は言います。新鮮な指摘でした。何よりも「ろう石」自体が、耐火温度が高く、しかも予想される反応の邪魔をしないというのです。

 「ろう石」の耐火度は、「SK29~SK32」と言われます。これは、「1650℃~1710℃」に耐えるという事です。「ろう石」は、融解(1500℃)を想定して「製鉄」を行う時、それに耐え、それを可能とする十分な「耐火温度」を持っているのです!

 「山辺氏」は、ここでも文献・根拠を示されました。「長野県の地下資源」(信濃毎日新聞社 昭和20年)〔注5〕です。

 そこでは、「ろう石」産出鉱山として「信陽(しんよう)鉱山」(真田町)を紹介していました。(この資料からは、忘れ去られた戦前の(古代も?)長野県下「鉱山」が浮かび上がります。)

 そこにはこう記述されています。

ろう(蝋)石」を主とし、・・・露店掘りで採掘し・・・モルタルの原料・・・耐火材料を製し・・・日本鋼管に売り・・・

 そして、「耐火温度」の説明には、前述の数字が記載されていました。間違いなく上田の至近距離では、「ろう石」が採掘されていたのです。

 真田町・傍陽(そえひ)地区・「信陽鉱山」では、「ろう石」を露天掘りし(豊富にあった!)、耐火材として利用していたのです。

 そこからは、古代に「製鉄」を試みた時、この地方では「炉」の材料としての「ろう石」の入手には困らなかったろう、と理解されます。

 (ただ残念なことにこの鉱山は、「休鉱」が長く続き、忘れさられようとしています。平成の初期頃までは採掘され、多くの資料にも記載され地元の記憶にも残っているのですが。)

 

5.「真田は製鉄の好適地」

 さて、「山辺邦彦」氏の主張を、示された「資料」から一つ一つ確認してきました。

 その中から古代の「製鉄」に必要な、各種の「鉱石」が浮かび上がって来ました。

 「製鉄原材料」に加え、「珪石」と「マンガン鉱」が必要であり、「ろう石」も必要であった、と解りました。古代の製鉄にはこの4種類の鉱石が最低限必要であった、と理解していいでしょう。

 そこで、古代「科野の国」でのこれらの「鉱石」の採掘地を確認してみましょう。「真田」の「鉄滓」発見からは、古代には、自然界の「鉱石」を採取し「製鉄」を行っていた、と思われるからです。

 「ろう(蝋)石」については、すでに真田町「信陽鉱山」を挙げました。そこは昭和期にも「露天掘り」が行なわれた程、豊富に資源がありました。「日本鋼管」に売却するほど「高品位」でもあったと理解されます。

 この「信陽鉱山」は、真田町・傍陽(そえひ)・横道部落にあります。そしてそこはなんと、私が「鉄滓」を発見した「大倉」とは、沢隣りの部落なのです!
信陽鉱山 ろう石
Photo_20210122154101
 「半田入谷(はんだいりや)川」が「大倉部落」を、通ります。そして、沢隣りの「洗馬(せば)川」が「信陽鉱山」のある「横道部落」を通るのです。二つが合流し、「傍陽(そえひ)川」に注ぎます。両者は、沢を隔てた至近距離にあるのです!

 そして驚きます。

 実は、永年「珪石」を採掘した歴史を持つのが「大倉部落」の「大倉鉱山」なのです。

 ここは今では「廃鉱」になっています。が、戦後の一時期まで「珪石」の採掘がおこなわれていたのです。それが村の重要産業でもあったのです。資料(町史など)にもハッキリ残ります。

 私たちの真田・傍陽地区での「探索」は昨年8月からなのですが、最初に確認したのが、「実相院(金縄山・かなづなやま)」の「山砂鉄」の存在で、その次が「大倉鉱山」の「珪石」の存在でした。それというのも私が「鉄滓」を発見した「伝・製鉄所跡」には、この「珪石」の小破片が散乱していたからなのです。当然、古代製鉄との関係を強く疑っていました。

 現地の人は「珪石」を「六方石(ろっぽういし)」と呼び、あちこちに見られる、ありふれたものとして特別な興味を示しません。

 しかし、「山辺」氏は、「大倉」の「珪石」は、上田を中心としたこの地域では最高の品質を持つ、「優れた珪石」である、と言うのです。他とは、全く違うと言います。

 だからこそ「大倉鉱山」が造られたのだ、と言い、その淵源は古代なのだろう、古代でも同じように「高品質な珪石」と認められていただろう、と言うのです。

 比較的ありふれた材料だ、とも言われる「珪石」ですが、実は、古代「ガラス製品」の原料でもあります。「ガラスの融点」(1300℃)の高さからは、製造する際には「高度な技術」が必要だった、と思われますが、同時に「高品位」の「珪石」は、古代では特別に尊重されただろうとも思われます。良質な「ガラス製品」には、「良質な珪石」が必要になるからです。ですから「山辺」氏の説明には説得力がありました。

 私たちの「探索」でも、不自然に「珪石」の破片が集合する(堆積する)場所を特定することが出来ました。そこは採掘した「珪石」の集積場の跡か、と判断されました。

 そして、そこからの斜面の上部には、いつ採掘されていたかも不明な鉱山(坑道の入口)が残っていました。これは、廃鉱の痕と思われました。残念ながら時代は、特定できません。

 地元の「半田」さんは、これほどハッキリしないが、同じような「穴」の跡は、山の上部にまだまだ多数ある、と言われます。驚きます。
大倉鉱山 珪石
Photo_20210122154201
 「大倉」は、「珪石」の特産地なのです!「ろう石」を産出した「横道部落」の隣には、高品質な「珪石」を豊富に産出した「大倉」があるのです!
実相院の山砂鉄 山砂鉄
Photo_20210122154301
 すでに、「実相院・金縄山(かなづなやま)」には、「砂鉄」(「花崗岩」風化由来)が豊富に認められました。上田地域ではあまり認められない「チタン」をハッキリ含む高品位の「砂鉄」でした。(前回の論考「資料」でも、地域の優秀な「砂鉄」産地として紹介してあります。)

 さらに「傍陽地区」には、「水鉛谷軽石層」由来の「山砂鉄」も、「中組」・「峯山」部落に認められるのです。

 (隣接する「菅平地区・向組(むこうぐみ)部落」にも「花崗岩」由来の「風化玢(ひん)岩砂鉄層(チタンは含まれない))」があります。)

 古代「製鉄」に必要な「3種」の「鉱石」が、豊富にしかも高品質で「傍陽地区」には存在する、と判明しました。「山辺」氏の「仮説」が具体性を持ってきます。

 そして話の進展から、ひょっとしたら、と思った人は正解です。さらに信じられない事実があるのです。

 「マンガン鉱」を産出する「美山(みやま)鉱山」が、谷を隔てた「傍陽(そえひ)川」の北斜面にあるのです!同じ「傍陽地区」にあるのです!

 そうすると、「古代製鉄」に必要と思われる「4種の鉱石」が「真田・傍陽地区」に、すべて揃っている事になるのです!

 この内、「3種の鉱石」は、後世(近世・現代まで)に「鉱山」と呼称され、露天掘りされていた場所からの産出です。そして「砂鉄」も、今でも「実相院(金縄山)」には多量に存在します。容易に確認できるのです。

 全く信じられないのですが、ここからも、品質の良い、生産量も豊富な「傍陽の四種の鉱石」があり、「産出の歴史」を持った、と再確認されるのです。

 そして、これらすべての産出地(場所)は、「実相院(金縄山)」を中心に考えると1.5キロ以内と言える距離です。つまり、高品位で豊富な古代「製鉄関連材」のすべてが「真田町・傍陽地区」中の至近距離内にあるのです!すべてが、あるのです!

 こんなところは、日本中を探しても滅多に無いでしょう。「真田・傍陽地区」とは、お宝鉱石に溢れた「自然」「地層」を「地域内」に持った「凄い所」だったのです!
真田・傍陽地区・図(川は山田が彩色)
Photo_20210122154401
 「山辺」氏は、この「美山鉱山」も案内してくれました。ここも他と同じように掘る必要はなく、採取だけで済みました。(この「美山鉱山」も「休鉱中」です。)貴重な「マンガン」が「ろう石」に貫入していました。それぞれを別に利用できますから、そこから市場価値(鉱山価値) を永く持てたのかと思いました。
美山鉱山 軟マンガン鉱
Photo_20210122154501
 ここの「マンガン」はすぐれた特徴を持ちます。「山辺」氏によると、「軟マンガン」に属し、扱いやすい鉱石なのだと言います。最大の特徴でしょう。

 古代ではこの「扱いやすさ」も大きな武器になっている、と私は思いました。

 その点でも「真田」の鉱石類は、「豊富」「高品位」だけでなく、「利用しやすさ」も持った優れた鉱石類だ、と思ったものです。

 鉱山斜面にそって「探索」をした私たちにも、白い「ろう石」部分に貫入する黒色を呈した「軟マンガン鉱石」が容易に確認・採取されました(やはり豊富!)。特徴的な「忍石(しのぶいし・マンガンで特別な模様が作られた石)」もありました。「オキシドール」を使った簡易的な確認実験でも、「マンガン」鉱石の多量の存在が確認されました。鉱山ですからそれが、ごろごろありました。

 「山辺氏」の仮説、「真田は製鉄の最適場所である」の内容が今迄の説明からお分かりかと思います。

 古代に必要と思われる「製鉄素材」の「4種の鉱石」が、「高品位」で「豊富」、そして「至近距離」内に存在しているのです。そして「製鉄」を試みた時、山中ですから燃料(炭)には困らないでしょうし、「水」もあります。

 なんと、「真田・傍陽地区」の地質を含めた自然は、「製鉄」条件の全てを満たしているのです!

 こんなに恵まれた自然条件を持つ地は、滅多にありません!日本では数少ない場所だったでしょう。「真田は、稀有な地なのだ」と「山辺」氏が言われた意味が解ります。

 私にも、ここで「製鉄」が行われていて何の不思議もない、と思われました。そして、あらためて今迄の歴史観に疑問が出て来たものです。

 喩えは悪いのですが、「砂金」が豊富に採れる地・地層であるのに、人々は「砂金」を少しも採掘して来なかったという事になります。貴重な「砂金」抜きで現在の「歴史」を組み立て説明して来たように感じてしまいます。なんだか、おかしいですね。

 改めて「真田・大倉」の地層のすばらしさに気付いた時、最後に問題が残ります。誰もが疑問に思う事です。

 『人々は、何時ごろ、この自然条件に気が付いたのだろうか、つまり何時頃から「製鉄」を始めたのだろうか?最初に「製鉄」を行った人々とは、どんな人々なのだろうか?

 それへの推測は、次々回に試みましょう。痕跡がはっきりあるのです。私は、『「弥生期」から「製鉄」が始まった、そしてそれは、ある人びとによってもたらされたのだ』と予測するのですが・・・

 

6.発見した「鉄滓」からの確認

 さて、「山辺」氏の「真田は製鉄の好適地」仮説について、私の理解を中心に説明して来ました。お解り頂けたでしょうか。でも、私の少ない知識からの解説です。心もとなく思う人も多いかと思います。(この原稿は、「山辺」氏に目を通して頂きましたが)

 そこで、次回では、発見された「大倉の鉄滓」という実例から、具体的に「山辺」説を確認します。発見された「鉄滓」と、そのさ分析を行った「山辺」氏作成の「画像」「資料」などの実例から推量します(「便り(19)①」と重なる所もありますがお許しください)。

 「仮説」の正しさは、発見された「鉄滓」が示している筈です。さらに、「古代製鉄」への手掛かりがあるかも知れません。

 その際のことですが、「山辺氏」はこうも言っていました。「科学的分析」は最重要な事で、それに疑いはない。しかし「地質的」な分析・観察もやはり重要だろう。観察のほうがリアルに内容を実感でき、無機的な数字の羅列を判断するよりも解りやすい所がある』と言うのです。

 どうか、皆様もご判断下さい。

 分析方法は、肉眼観察、「双眼実体顕微鏡」(20~40倍)による観察、薬品添加による反応観察、「ファイヤライト」などへの特別観察、岩石を粉にし、そこから鉱物を取り出して観察する「岩石分析法」(「山辺」氏が独自に開発した)などで、それらを組み合わせてもいます。

 その結果、発見された「鉄滓」・「炉」・「鉱石」から生じた様々な情報を、「製鉄」工程時のポイントとして実感する事が出来ます。さらに、「写真撮影」されたことにより数字では理解しきれない新事実も確認出来ます。それらにより、我々の「古代製鉄」への理解が、具体的なイメージとして進むかと思えます。

 主要な分析写真を提示し、それに説明を加えていきます。残りは、「山辺」氏が纏めた「資料」として、論考の最後に掲載いたします。ご確認下さい。

(次回・便り(二十四)へ続く)

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

注1 前回までの数回 …… 次のブログ記事です。掲載順にしてあります。
「科野からの便り」(17) ―NHK「アイアンロード」観賞雑感と「科野」の鉄―2020年1114()
科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―2020年12 7()
科野からの便り(20)―【速報】真田の「鉄滓」発見―2020年1211()
科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―2020年1228()
科野からの便り(22)―「真田・大倉の鉄滓」【資料編】―2021年1 2()

注2 インターネットにもこの論文があります …… 「柿生文化」のpdfファイルのアドレスを一例として紹介しておく。これ以外にもあるかも知れないので関心があれば検索されたい。
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka21.pdf
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka22.pdf
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka29.pdf
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka30.pdf
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka81.pdf
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka82.pdf

注3 『FN高校物理・「製鉄の歴史」・2019」 …… 次のアドレスにあります。
http://fnorio.com/0056history_of_iron_manufacture1/history_of_iron_manufacture1.htm

注4 「広島県下の古代の製鉄原料と精錬技術に関する試論―カナクロ谷遺跡出土製鉄関連遺物の調査からー」(広島大学大学院「広島大学考古学研究室 紀要 第十号 2018年」) ……次のアドレスにあります。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/47466/20190418144814680322/Koukogakukenkiyo_10_87.pdf

注5 「長野県の地下資源」(信濃毎日新聞社 昭和20年) …… 八木貞助著『概説 信濃の地下資源』(信濃毎日印刷出版局、昭和21年、B6164頁)
Photo_20210122154601

« 周王朝の“春秋暦”(3)―「冬至月=11月」は夏王朝の暦― | トップページ | 「鬯草」とは何か?にその6とその7を追加 »

コラム」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ