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2021年2月11日 (木)

「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―

「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)
「新式」寺院を更に分類したら[多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ】
⑤因幡国分寺を「東大寺式」と見るのは「整数比がなく不適当」でしたので訂正しました(Bタイプの可能性あり
また、⑦出雲国分寺
が「信濃国分寺(僧寺)」と似ていることから「珍しい伽藍配置」としたのを訂正しました(創建時期がA→Cと変遷する過渡期の可能性あり)。【訂正のお知らせ終わり】

肥さんの夢ブログ塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 に次のようにコメントしたら、下記の返信をいただきました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
肥えさんへ
わかりやすい分類、ありがとうございます。
塔を回廊外に置く寺院について一点期待するとすれば、
「古式寺院に塔を後付けしたタイプ」と
「国分二寺図式のタイプ」とを分けると、
さらに情報が豊かになるのではないでしょうか。
ご存じでしょうが、古式寺院は南大門と中門・回廊の間が狭い(塔を置く余地がない)、か、どこかに3:2の比率がある、ので簡単に識別可能だと思います。

投稿: 山田春廣 | 2021年2月 5日 (金) 09:21
…………………………………………………………………………………………………………………………

山田さんへ
コメントありがとうございます。
〔上記コメント引用割愛〕
そうでしたね。

国名がわかりますか?
わかれば,すぐに追加させていただきます。

投稿: 肥さん | 2021年2月 5日 (金) 10:58
…………………………………………………………………………………………………………………………

 さて、課題を振られてしまったので、とりあえずわかる範囲で調べてみました。
 夢ブログには、次のようにあります。
…………………………………………………………………………………………………………………………

「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」 三十三国

西海道―なし

南海道―淡路国、阿波国、土佐国

山陽道―播磨国、美作国、備前国、安芸国、周防国、長門国

山陰道―丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国

畿内―山城国、大和国、河内国、和泉国

東海道―伊賀国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国

東山道―近江国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国

北陸道―若狭国、佐渡国

…………………………………………………………………………………………………………………………

 「とりあえず」と言ったのは「次のこと(聖武太上天皇周忌齋會に間に合った26ヶ国の国分寺)だけから」、と言う意味です。 

(1)756年、聖武太上天皇が崩御された。
《天平勝宝八歳(七五六)五月》〇五月乙卯〔2日〕、遣左大弁正四位下大伴宿禰古麻呂、并中臣・忌部等、奉幣帛於伊勢大神宮。」免天下諸国今年田租。是日、太上天皇崩於寝殿。遺詔、以中務卿従四位上道祖王為皇太子。

(2)756年、聖武太上天皇周忌斎会荘嚴用具が国分寺(金光明寺)に頒下(配付)された。
《天平勝宝八歳(七五六)十二月》己亥〔20日〕越後、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、阿波、讃岐、伊予、土左、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向等廿六国、国別頒下灌頂幡一具・道場幡卌九首・緋綱二条、以充周忌御斎荘飾。用了、収置金光明寺、永為寺物、随事出用之。

(3)757年、聖武太上天皇周忌齋會が執り行われた。
《天平宝字元年(七五七)五月》〇 五月己酉〔2日〕太上天皇周忌也。請僧千五百余人於東大寺、設斎焉。

4)759年、初めて「国分二寺図(僧寺と尼寺の基本設計図)」が諸国に頒下(配付)された。
《天平宝字三年(七五九)十一月》辛未〔9日〕、勅坂東八国。陸奥国若有急速、索援軍者。国別差発二千已下兵。択国司精幹者一人。押領速相救援。頒下国分二寺図於天下諸国。

  確認しておくべきことは、①越後、②丹波、③丹後④但馬⑤因幡⑥伯耆⑦出雲、⑧石見、⑨美作⑩備前、⑪備中、⑫備後、⑬安芸⑭周防⑮長門、⑯紀伊、⑰阿波、⑱讃岐、⑲伊予、⑳土左、㉑筑後、㉒肥前、㉓肥後、㉔豊前、㉕豊後、㉖日向26ヶ国(の国分寺)に周忌斎会荘飾用具が配られたということで、これ以外の国分寺は周忌斎会を執り行える状態になかった(つまり七重塔が未完成)ということです。

 この聖武太上天皇周忌齋會を執り行なえた26ヶ国のうちで、夢ブログで「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」三十三国として挙げられているのは、次の13ヶ国(の国分寺)です。
…………………………………………………………………………………………………………………………

《「古式寺院に七重塔を追加した国分寺」の疑いがある13ヶ国》

西海道―なし(夢ブログの表に)

南海道―⑰阿波、⑳土左

山陽道―⑨美作、⑩備前、⑬安芸、⑭周防、⑮長門

山陰道―③丹後、④但馬、⑤因幡、⑥伯耆、⑦出雲

畿内 ―なし

東海道―なし

東山道―なし

北陸道―①越後

…………………………………………………………………………………………………………………………

 すなわち、聖武太上天皇周忌斎会に間に合った諸国(26ヶ国)のうち、①越後・③丹後・④但馬・⑤因幡・⑥伯耆・⑦出雲・⑨美作・⑩備前・⑬安芸・⑭周防・⑮長門・⑰阿波・⑳土左13ヶ国の国分寺が古式寺院に「七重塔」の建立が完了したので周忌斎会を執り行えた可能性(つまり古式寺院を改造した寺院である可能性)があるわけです。もちろん、「金光明四天王護国之寺」(国分僧寺)として新建された寺院である可能性もあります。

  また、周忌斎会に間に合った26ヶ国のうちで上記(13ヶ国の国分寺)に含まれなかった②丹波・⑧石見・⑪備中⑫備後⑯紀伊⑱讃岐⑲伊予㉑筑後㉒肥前㉓肥後・㉔豊前・㉕豊後・㉖日向13ヶ国の国分寺のうち、西海道の㉑筑後・㉒肥前・㉓肥後・㉕豊後の4ヶ国、南海道の⑯紀伊・⑱讃岐・⑲伊予の3ヶ国、山陰道の②丹波、山陽道の⑪備中・⑫備後の2ヶ国、これら計10ヶ国の国分寺は「古式寺院」(塔が回廊内)です(周忌斎会までに七重塔を建て終えたかと)。 

残った⑧石見・㉔豊前・㉖日向3ヶ国の国分寺は「新式」(回廊外に塔)であるが、「古式」を改造した寺院でもなく、「国分寺式(『国分二寺図』式)」でもない寺院、ということになるのでしょうか(今回は調査対象外です)。

 今、「古式」寺院(Aタイプ)ではない「新式」寺院を次のように3タイプ(B,,D)に分けます。 

タイプ:「古式」寺院(古式寺院もタイプは多いですが、今回は「ひとまとめ」にして論じます)。
タイプ:「『古式』改造型新式」寺院
タイプ:「非『国分二寺図』型(『国分二寺図』型ではない)新式」(いわゆる“国分寺式”)寺院
タイプ:「国分寺式(『国分二寺図』型)新式寺院

  この4タイプに分ければ、伽藍配置様式の変遷は「A→B→C→D」の順である(仮説)と考えられ、⑧石見・㉔豊前・㉖日向の3ヶ国の国分寺はCタイプの「非『国分二寺図』型新式」に属するものと思われます((2)(3)(4)「頒下国分二寺図」以前の「新式」寺院だから)。

 では、「古式」寺院を改造した可能性がある13ヶ国の国分寺を調べてみましょう。 

⑰阿波国分寺徳島市教育委員会 1981 『徳島市埋蔵文化財調査報告書9:阿波国分寺跡第3次調査概報』徳島市教育委員会より)
阿波国分寺跡伽藍配置推定図
Photo_20210211152101
 私の判断:国分寺式(「国分二寺図」式)ではない「新式」(Cタイプ) 

⑳土左国分寺高知県南国市教育委員会 2009 『南国市埋蔵文化財発掘調査報告書24:土佐国分寺跡』高知県南国市教育委員会より)
調査報告書24より
24
 伽藍配置は不明 

⑨美作国分寺津山市教育委員会/津山弥生の里文化財センター 2002 『津山市埋蔵文化財発掘調査報告72:美作国分寺跡』津山市教育委員会/津山弥生の里文化財センターより)
 報告書には「伽藍配置」という項目がなかった。
美作国分寺想像図 ほか
Photo_20210211152401

 創建時の国分寺跡は、現在の国分寺の西方に隣接して立ち、寺域はほぼ2町四方とされる[2]。伽藍配置は、南から南門・中門・金堂・講堂が直線上に立ち、中門と金堂は回廊で接続しその東南に塔が位置するという、典型的な国分寺式の配置である[2]。また、講堂北方には別の礎石建物が確認されている。
 出土品から推測される年代は、国分寺建立の詔からまもなくの造営、平安時代末の衰退と見られる[2]。出土品の中でも特に、創建期の軒瓦の文様が平城宮朝堂院の瓦と似ていることが注目される[2]。Wikipedia「美作国分寺」より抜粋)
 私の判断:Wikipediaは「典型的な国分寺式の配置」と言っているが、「国分寺式(『国分二寺図』式)」ではない(変遷タイプCである)ことは、聖武太上天皇周忌齋會に参加した国分寺(かろうじて間に合ったか)であることから明らかです。

⑩備前国分寺岡山県赤磐市教育委員会 2009 『赤磐市文化財調査報告3:備前国分寺跡』岡山県赤磐市教育委員会より)
備前国分寺 伽藍配置復元図
Photo_20210211152901

 私の判断:「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」と同じ金堂院型(金堂を回廊が囲む)」古式寺院に七重塔を後付けした伽藍配置です。ただ、「四天王寺式」を改造した可能性も残っています。 

⑬安芸国分寺(発掘報告書が刊行物として発行され「奈文研」のデータベースに公開されていない)
案内板の写真
Photo_20210211153001
復元模型の写真
Photo_20210211153201
 私の判断:明らかに南大門と中門の距離が狭すぎて塔を配する余地がない「古式」寺院(おそらく「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」のような「金堂院型」)を改造し(金堂に回廊を付け替えて)、西塔を加えたもの 

⑭周防国分寺(発掘調査報告書を見つけられず)
旧境内
古代の旧境内の寺域は、南北約2町・東西約1町10間。古代の創建期から現在まで同じ規模で残るとして著名で、現在までの発掘調査でもほぼ確実視されている[3]。また伽藍については、1953-1955年(昭和28-30年)の発掘調査で金堂・塔・回廊・中門・南門・裏門の遺構が検出・推定されたが、その後の調査で中門・回廊の検出は疑問視されているなど、伽藍中枢の様相は依然明らかではない[3]。
Wikipedia「周防国分寺」より抜粋)
 伽藍配置は不明。 

⑮長門国分寺
 遺跡そのものがはっきりしていない(8町(960m)×6町(720m)程度の敷地。瓦や土器なども発掘されている)。
 伽藍配置は不明。

③丹後国分寺
中世再興後の丹後国分寺の寺地移動について
Photo_20210211153401
創建期丹後国分寺の遺構等は発掘調査が実施されていない。
 伽藍配置は不明。 

④但馬国分寺
僧寺跡は、現国分寺付近に位置する(位置)。寺域は1町半(約160メートル)四方と全国では中規模[3]。伽藍は南から南門・中門・金堂を南北一直線に配し、中門左右から出た回廊が金堂左右に取り付く[2]。また、金堂西方には塔を配する[2]。Wikipedia「但馬国分寺」より抜粋)
図 但馬国分寺跡朝日新聞デジタルより)
Photo_20210211154101
 私の判断:これも「古式」寺院(おそらく「科野〇〇寺(“信濃国分尼寺”)」のような「金堂院型」)を改造し(金堂に回廊を付け替えて)、西塔を加えたもの。 

⑤因幡国分寺
因幡国分寺伽藍推定図
Photo_20210211154301

 私の判断:これは「非国分寺式(新式)」(Cタイプ)と見えますが、回廊の形状が「大官大寺」のようでもあり、東大寺のようでもあるので迷うところですが、南門と中門(回廊)の距離が、塔を置く充分な広さがあるので、やはりCタイプで東大寺に倣ったものと考えれば、塔を二基配してはいないが「東大寺式」と呼べるかも知れません(「『国分二寺図』式」に近い大変貴重なタイプです)。ただ、回廊と塔の方位が異なっているので、改造寺院である可能性もあると思えます(塔と回廊のどちらが先に建てられたか)。 

⑥伯耆国分寺
史跡伯耆国分寺跡案内図
Photo_20210211155101
 私の判断:これも、南門と回廊の距離が、塔を置く充分な広さがあるので、やはりCタイプ(「国分二寺図」型ではない新式)です。

⑦出雲国分寺
出雲国分寺 第96図 区画溝位置図
96
出雲国分寺 第97図 3・4次調査区と測量成果図の合成図
97
出雲国分寺復元想像図
Photo_20210211155401
 これは「信濃国分寺(僧寺)」と同様の伽藍配置です。「古式」に属する(南門・回廊間が狭い)縦型の「金堂院型」寺院と異なって、南門と金堂を囲った回廊との距離が広く、塔をその間に置いた横型の「金堂院型」「新式」寺院(「横型の金堂院型新式寺院」とでも言うべきか)です。いわゆる“国分寺式”(Cタイプ)と「国分寺式(『国分二寺圖』式)」(Dタイプ)の過渡期のものなのか(金堂を取り除き、講堂の位置に置けば、Dタイプです)塔の方位と金堂院・回廊の方位が「信濃国分寺(僧寺)」のように異なっていれば「五重塔から七重塔へ改造した寺院」の可能性もあります。

①越後国分寺
 現在の五智国分寺は上杉謙信が再興したもので、古代の越後国分寺は所在そのものが不明なようです(諸説あり)。

結語
 今回は、聖武太上天皇周忌斎会に間に合った26ヶ国の国分寺の中から、肥さんの夢ブログ 塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは,白鳳瓦が出土 で「新式」とされた国分寺を抽出して、発掘調査報告書を精査することなく、「私がパッと見た印象」によって判断したものですから、確かな結論を得るには発掘調査報告書の精査が今後の課題として残ります。

 それに留意して頂けば、私は判断は次の通りです。
❶「古式」寺院を改造して「新式」寺院とした国分寺(Bタイプ)2ヶ国
⑩備前国分寺、⑬安芸国分寺

❷いわゆる“国分寺式” (「『国分二寺図』型ではない新式」)国分寺(Cタイプ)4ヶ国
⑰阿波国分寺、⑨美作国分寺、④但馬国分寺、⑥伯耆国分寺

❸上記❷(Cタイプ)に分類されるが、改造寺院(Bタイプ)の可能性もあるDタイプ(「国分寺(『国分二寺図』)式」)に近い国分寺 2ヶ国
⑤因幡国分寺「東大寺式」か、あるいは改造寺院(Bタイプ)の可能性も)⑦出雲国分寺(CとDの中間のよう)

❹遺跡の遺存状態や発掘調査の進捗状況などによって伽藍配置が不明な国分寺 5ヶ国
⑳土左国分寺、⑭周防国分寺、⑮長門国分寺、③丹後国分寺、①越後国分寺

❺調査せず「とりあえずCタイプか」とした、周忌斎会に間に合った26ヶ国に含まれてない国分寺 3ヶ国
⑧石見国分寺、㉔豊前国分寺、㉖日向国分寺

❻肥さんの表にあるが、周忌斎会26ヶ国に登場しない「新式」国分寺
淡路国分寺、播磨国分寺、山城国分寺、大和国分寺、河内国分寺、和泉国分寺、伊賀国分寺、尾張国分寺、三河国分寺、遠江国分寺、駿河国分寺、伊豆国分寺、武蔵国分寺、常陸国分寺、近江国分寺、信濃国分寺、上野国分寺、下野国分寺、陸奥国分寺、若狭国分寺、佐渡国分寺、これら21ヶ国の国分寺はBタイプあるいはCタイプのどちらかです。これらの国分寺については、今回私は未調査ですが、多元的「国分寺」研究サークルのサイトには、既にこれらの国分寺についての調査結果があるかも知れません(忘れてしまいました)。

 なお、播磨国分寺が「国分二寺図」に基づいて新造された国分寺であるという仮説は、次のブログをご覧ください。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017110 ()
「国分二寺図」の伽藍配置―東大寺がモデルとなった―2018519 ()
 また、信濃国分寺(僧寺・尼寺)の「金堂院型」伽藍配置図は、信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられたをご覧ください。

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多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

コメント

山田さんへ
たくさんのお仕事をしていただき,ありがとうございまました。
さっそく「夢ブログ」にリンクさせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。m●m

肥さんへ
コメントと「肥さんの夢ブログ」でのリンク、ありがとうございます。

中途半端な仕事で申し訳ありません。
未調査部分の調査と史跡の報告書の精査については、
時間をつくって少しづつ進めて行こうと思っています。
何時になるとか完了の時期をお約束できませんが、
データが整ったら肥さんにグラフ化をお願いしたいと思っています。
ありがとうございました。

この記事へのコメントは終了しました。

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