科野からの便り(25)―真田・大倉編④―
科野からの便り(25)
―真田・大倉編④―[コラム]
【お知らせ(2021/03/16)】
吉村八洲男さまから、「科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④ の続き部分が届きましたので、末尾(第5章「弥生の鉄」が見えて来た③(「半田一族」の解明 から))に追加しましたのでご覧ください。【お知らせ終わり】
昨日(2021/02/19 (金) 12:56)、吉村八洲男さまから「「科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④」が届きましたので掲載いたします。
この論考は、❶地形と遺跡の位置関係、❷地形と偏在する古墳、❸特色ある地名、❹驚くほどの広域から寄進を受ける豪壮な神社(「三島神社」)の「奉加帳」の半数以上を占める同姓の氏子一族の「姓」からと、多方面から「弥生時代から真田で製鉄が行なわれていた」(「弥生の鉄」)を論証しています。私は充分だと思いました。皆さんはどう思われますでしょうか。
なお、いつもの通り、文中へのリンクの貼り付け・強調・下線引きなどは、山田の一存で行ないました。また、付注(〔注x〕)とその注釈は山田の独断で行っています(責任は山田にあります)。ご承知おきください。
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「科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④
上田市 吉村 八洲男
1.始めに
(二十三)では、「山辺邦彦」氏の出された「真田は製鉄の適地である」仮説を紹介・検証し、「古代製鉄」に重要な「4種の鉱石」を推量しました。
前回の論考では、それをさらに地質学からの「科学の眼」で分析し、「出土物」の画像などでお報せしました。
山辺氏の「仮説」と私の「歴史観」とが合致したと思える昨年11月に発見した「真田・大倉の鉄滓」ですが、そこから「真田・大倉」での「古代製鉄」が画像で再現されたかと思われます。
『「仮説」の正しさ』も、「鉄滓」などの「画像」を通して科学的に証明されました。「仮説」が示した「4種の鉱石」も確定できたのです。
もちろん「古代製鉄」を考えた時、「製鉄の原料」への推測が最大の問題です。僅かと思える「添加剤(造滓剤)」以上に、これこそが重要な「鉱石」でしょう。これなしには「製鉄」が出来ないわけですから。
そう考えた時、「科野」では、材料の入手しやすさからも「砂鉄」を原材料とした「製鉄」を主に考えて良いと思われます。古代「たたら製鉄」の「原材料」と推定される「砂鉄」と同じであったと思います(この理由は既に述べてあります)。
「真田・大倉」では、「実相院(金縄山・かなづなやま)」の『「玢岩(ヒン岩)」』が最大の原料か、と予想されます(画像でも証明しました)。
恐らく「金縄山」からは「玢岩」として切り出し、「実相院」からは「風化土」として掘り出したかと思われます。共に、「ヒン岩(花崗岩由来)」の風化により形成された「鉱石」「砂鉄」です。(この地域では珍しい「チタン」が含まれます)。これは、「風化」状態が異なっているかも知れませんが「たたら製鉄」で使われる「真砂土(まさど)」と同じ種類の「砂鉄」です。
これに関連した驚愕の事実が、既に発表されている「遺跡報告書」の内容と結びつくのですが、これについては最後に述べましょう。
さて、『「真田」が製鉄の適地である』事は、既に証明されました。ですから、「仮説」が示すもう一つの結論は、『どんな時代にでも「製鉄」が可能だった』です。
残念ながら私の発見した「鉄滓」は、江戸時代の「製鉄」を示しています(これだけでも驚くべき発見なのですが)。
しかし、「仮説」からは、古代の「製鉄」も当然あったと言う結論にもなります。
「真田」の自然や地層は古代から変わっていないからです。その時、『いつ頃から、誰により?』この「製鉄」が始まったのか、それを推測し証明しなくてはなりません。
もちろん、これを説明した「文献」などありません。ですから、私には残された微かな手掛かりを頼りに推定していくことしか出来ません。
しかし私たちは既に「山辺」説の正しさを知りました。証拠となる「鉄滓」も見つけました。間違いなく、「真田・大倉」では「製鉄」が行われていたのです。そして、ここから新たに「真田の歴史・科野の古代史」を組み立てる事が可能なのだ、と思い到ります。
今迄の歴史は、『「真田」の「製鉄」など、あり得ない』とし、「鉄」の存在抜きに組み立てられた「歴史・古代史」なのです。答えが出た以上、もう一度「製鉄がなされた」観点から「真田」の「古代」を考え直す必要があるのです!これは、当たり前でしょう!
きっと手掛かりがある筈です。そしてそこからは別の歴史が組み立てられるかも知れません。なにしろ、「真田」は「製鉄の適地」なのです。それを証明したのが、「傍陽・大倉」の「鉄滓(鉄)」の存在で、それを私たちの手で発見したのですから・・・
2.『真田町誌』から
「真田の古代」を再考しようとした時、既刊の「発掘報告書」の内容を確認し、そこから論考をスタートさせなくてはいけません。これは必須の事と思われます。そこには考古学者が全力を傾けた渾身の成果があるからです。(それを顧みない「唯我独尊」の想像や理論、そして誤った利用、共に厳に慎まなくてはいけないでしょう。)
それを纏めあげたのが『真田町誌 』と思われ、そこには多くの考古事実や学問成果が述べられています(類書のなかで、「真田町誌」は特に優れた内容を持ちます)。
そして私の推測には、遺跡のある特定な場所の「発掘報告書」内容より、地域全体を描写し時代の流れも窺える「真田町誌」表現の方が適しているかと思えます。「点」ではなく「面」としての「真田」古代への推測が可能になるからです。
ですから、これからの「製鉄」への追求には、どうしても『町誌』の助力(?)が必要になると思われます。
そこで、『真田町誌』(平成10年版)〔以下『町誌』という〕 を引用しながら、判明している「真田古代の考古事実」を参考にし、その内容から「鉄が造られ始めた時代」への推測を行ってみます。
その結果、驚きの事実(結論)が浮かび上がって来ます。ぜひ、一緒にご判断下さい。
平成の大合併では「長野県上田市」に編入された「真田町」です、面積も小さくつい見過ごされますが、実は日本の歴史を考えた時、重要な位置を占める地域と思われます。
「先史・縄文時代」「弥生時代」は言うに及ばず、「真田一族(戦国時代・江戸時代も)」への重要な叙述・言及などが『町誌』には必要で、結果日本歴史を縦断するような内容・事実に富んだものになるからです。
まず、「先史時代・縄文時代」です。数多くの遺跡が「真田町」に集中します。そこからは、全国でもめったにない貴重な地域と私には思われます。
特に「縄文時代」のそれらの遺跡が、「菅平」を中心として多数確認されます。しかもこれらが、「前期」「中期」「後期」と遺跡時代を分類(特定)出来る程に豊富にあります(詳細は『町誌』でご確認下さい)。全国でも珍しい地域なのです。
当時の日本人口の10%は、「長野県」を中心とした「中部山岳地帯」に住んでいたと言われます。寒さは厳しいのですが必要とする食料に恵まれた古代人に適した地域だったのでしょう。「中部高地を代表する遺跡集中地域である。」(『町誌』68頁)のが「真田町」なのです。
遺跡の残存からは、「真田町(菅平も)」地域が、社会生産・交易を含む経済活動などで当時の重要地域であったと思われ、そこにはこれら遺跡同士を結ぶ幾つかの「古代道」が存在したと推定されています。
『町誌』では、こう言っています。
「・・・縄文時代全期間について言える事であるが、菅平高原の後葉の遺跡が、その後今日までの交通路に沿って見られることから、移動や交易に関わって生活痕跡が遺されたものもあるのかも知れない。」(同115頁)
ここでの「道」とは、「大笹道」〔注1〕のことです。この道などへの説明や、「菅平高原」をふくむ「真田町」の重要性については、すでに「科野からの便り(七)」で言及しているので、ぜひご参照頂けたら幸いです。
皆様に改めてご確認いただきたい事は、少なくとも「縄文時代後葉(後期)」では、「大笹道」が人々の経済活動、社会活動を支える重要道であり、幹線道路であった、という事です。
人々の移動があったからこそ「道」が出来たのです。移動により交易が可能となり、文化や経済も分担しあう事が出来ます。「道」を使う事で、文化活動や社会・経済活動が進歩して行ったと思えます。「道」に沿って遺跡が残るのは、当然な事なのかも知れません。
「北信」〔注2〕を出発地とした時、この「大笹道」を辿れば、「関東」に通じます。「東北」にも通じたかも知れません。逆も当然あります。互いが往来し合える重要な「道」だったのです。
ですから私には、「鉄の文化を持った人々」「外部から到来した人々」などがこの道を利用した事には、疑いが無いように思えます。
「弥生期」となった時にも「大笹道」をつかった移動の痕跡が、やはり「菅平高原」の遺跡にみられます。こう書かれます。
「唐沢岩陰の栗林式土器は形・模様などが北信地域で出土しているものとよく似ており、長野・須坂方面から菅平に持ち込まれたものと考えられる」(同163頁)
「栗林式土器」〔注3〕が、これからの私の論考で、「キーポイント」となる「弥生期」の土器なのですが、『町誌』に書かれたように「菅平」「真田」ではこの土器が多く見つかっています。
そして『町誌』では、「箱清水式土器」〔注4〕が完形で見つかった例も挙げ、「北信」(北部信州の事です・長野県下の千曲川下流域つまり長野市、須坂市、中野市周辺などを言う)の文化が持ち込まれた、と推定しています。順当な推論と思えます。
「縄文期」から続く「大笹道」に沿った移動の結果であり、「道」を使って人と文化の移動があった事を証明しています。
ところがこれは、「上田市」(合併前、千曲川流域を中心とする)に、「弥生前期・中期」の遺跡が殆ど見られないのとは、好対照を示します。それと同時に「上田市」には、「栗林式土器」がほとんど発見されないのです。
つまり、「上田市」にはない「遺跡」や「栗林式土器」が、この時代の「菅平」「真田」には多くある事になります。
そして驚く事に、千曲川最上流の「佐久地域」に、この「栗林式土器」が多出するのです。つまり、「北信・中野」→「真田」→「佐久」です。
この事実からも、「上田」はパスされてしまった、としか思えません。この土器と遺跡が、千曲川中流域(上田周辺)にはないのですから(これらへの疑問が、「古田史学会報No.136」での推論です)。
これらの「考古事実」から、『ある人々が「中野」(北信)から「真田」へ至り、そのまま「佐久」へと向かった』と考えていい事になります。同時にこれが、「佐久」に残る遺跡や遺品などの「考古事実」を説明出来る推論だ、と私は思います。「真田」から、「佐久」へ行ったのです。
そして、「弥生前・中期」の「遺跡」が「上田」にはないのですから、この期の「栗林土器」の伝播は、「下流から上流」という千曲川沿いの道を利用(経由)した移動・進出ではない事になります。今迄の定説とは全く違いますが、これは確かな事と思われます。
千曲川沿いの道より「山の道」が重要と判断され、その道が選ばれたのです。「外部(県外)から進出」し、この地域へ至ったと思える事が「山の道」を選んだ理由なのかも知れません。
いずれにせよ、「北信・中野」から来た人々は、間違いなく「大笹道」を利用して「真田」へとやって来た、そこから彼らは「佐久」地域へ至るようになったと思われます。さらなる歴史の進展からは、そこも「群馬」「関東」方面を目指した途中(経過)地点なのかとも思えますが・・・。
弥生時代の「真田町」、そこは「北信」と「佐久地域」を結んだ重要地であったのです。
「北信・中野」で「2000年前」の「鉄の二次加工場」が発見されました。「佐久地域」では、「弥生期中期後半(3世紀後半)」から「鉄製品」が増加した、と判明しています。
ですから、地理的条件からも、社会的条件からも両者の中間地である「真田」に「弥生期の鉄の痕跡」があってもおかしくはないのです。私は、そう信じます。
3.「弥生の鉄」が見えて来た①(「真田町誌」から)
ここで、「弥生期」の「真田町」を再考します。
現在へも続く自然条件下の「真田町」の地形は、典型的な「谷地形」を示します。谷沿いの狭い土地を利用して「町」があります。ごくわずかに「平担部」はありますが、それ以外は、ほとんどが川によってつくられた傾斜地にある狭い耕作地です。全国どこにでもある「谷によって造られた小さな山間部」といって良いでしょう。
谷を流れる「神川(かんがわ)」に沿い下った「上田市」周辺は、歴史的には、長野県の中で「稲作」の開始が最も遅れた地域と言われています。それもあり、自然条件が厳しいこの頃の「真田町」では、「稲作」によるメリットを十分に受けたとは思えません。
前述した地形からも「稲作」が可能な土地は少なく、貴重な「耕作可能地」(「平坦部」)は僅かだったと思えます。
ところが驚く事に、「真田町」では「古墳」が「約三十基」(!)発見されています。
この地域の「弥生期」「古墳期」文化の充実、社会の構造などがもたらした結果かと思えますが、説明されている古代「社会・経済」情勢から考えると、この数は異常な「数」となります。「生産力」がない所に、多数の「古墳」が築造されているからです。
その上、この「約三十基の古墳」は、わずかな「平坦地」の一つ、「本原・下原」地区に集中しています。耕作が出来る、貴重な土地に造られているのです。
それらの環境や時代の様子を、『町誌』ではこう説明しています。
『谷地形の発達したこれらの地域では、米の収穫は多くを期待できず、青銅器を持つ事ができた有力者を輩出した、集落の経営基盤が何であったのかは定かではない。』(同148頁)
この時代の経済活動を主に支えたのが「稲作」ですが、「真田」の「地形や自然」を見ると、これが地域の経済を支えたとは到底思えません。
これは長野県古代への叙述部分ですが、これが「弥生期の真田町」にもぴったりとあてはまります。
この時代の経済活動を主に支えたのが「稲作」ですが、「真田」の「地形や自然」を見ると、これが地域の経済を支えたとは到底思えません。
「真田」は典型的な「谷地形」で、平坦な広い「耕作可能地」は少ないのです。
では「真田町」の「古墳・三十基」を支えた「経済基盤」は何だったのでしょう。「約三十基」の古墳造成を支えた「産業」は何だったのでしょう?
実は、「考古学」では、未だにその「答え」が出ていません。不明なのです。解らないのですが、現実には「古墳」が狭い場所から「約三十基」発掘されているのです。
ですから「真田町」には、何らかの「経済基盤」「産業」が有った筈です。なければこの「古墳」が造れません。ある「産業」の恩恵で、狭小でわずかな平坦部しかない「真田町」に「約三十基」の古墳が造られたとしか考えられないのです。
『町誌』の作者も、『水稲以外にも集落の人口を支える基盤を(なにか)有していたのか』(同148頁)と予想しています。何らかの「産業」・「経済基盤」があり、それにより集落が造れ、古墳が造れたのだ、と予想しているのです。
何だったのでしょうか?『町誌』に、「答え」は示されていないのです。
ところでこの「古墳群」には、珍しい特徴がいくつかあります。再び『町誌』の表現を借ります。
『しかし、問題はこの大きな集落に対応する古墳が見当たらない事である。真田町に存在する約三十基の古墳はすべて神川左岸に所在し、四日市遺跡がある右岸側には一基もないのである。』(同204頁)
説明が遅れましたが、「四日市遺跡」〔注5〕 とは、「真田町」最大の、「縄文期」から始まる大集落の遺跡です。つまり、縄文期からの大集落は「神川」右岸に存在するのですが、なぜかそれに対応する「古墳」はない、と『町誌』は言っているのです。
そうなのです。なんと「約三十基の古墳」は、すべてが「神川左岸」にしかないのです!驚きの分布を示しているのです!
今迄は、「本原地区」は、墳墓の集中する地域だからだ、と説明されてきました。だが、これにはいささか納得できません。
この地区は、「真田町」の入口を占める重要な「地域」であり、耕作を可能とする貴重な「平坦部」を有する地区でもあります。しかも、大集落が集中した「四日市遺跡」とは離れていません。隣り合わせです。
そこが、「墳墓」の置かれる地域なのでしょうか。
どうして「真田」の入口に当たる貴重な「本原地区」に「古墳」を造り、しかも「神川の左岸」だけが「古墳(墳墓)」の地域なのでしょう?不審です。奥地には、なにか重要な「産業」があったのでしょうか?そうとしか思えません。
さらに「古墳」の特色を挙げてみましょう。
『全ての「古墳」には、「横穴式石室」があったか』(同217頁)いくつかは破壊されたものもあり、完全断定はしていない、と推定されています。
そして、『全ての「古墳」形状が「円墳」と思われ』(同216頁)、『「石室」は「玄室」と「羨道」がはっきり別れた「両袖型」が多いか』(同217頁)と推測されているのです。
さらに「祭祀」に使われたと思える「石製模造品」も「古墳」がのこる「本原」地域の住居跡でしか発見されません(境田遺跡〔注6〕など)。「古墳」と同じ傾向を示します。
これは、「古墳」築造者たちが、ある同一集団に属していたと想像出来る「特色」です。同一な価値観による生活様式を持っていたとも言えます。これが「左岸」にしかない「古墳」の共通した特徴であり、「祭祀」の様式なのです。
最新の「古墳」研究では、いわゆる「横穴式古墳」は北九州で発生したもの、と結論付けられています。そこから「朝鮮」に及び、全国にも波及したと結論されています。
「祭祀」での「石製模造品」使用も、ある集団の、ある意味が与えられていたと考えられ始めています。
そうすると、「真田」の「古墳」の造成者とは、北九州からの集団となるのですが・・・
そして、この「古墳」の分布や特色から生まれた推測が、実は「製鉄」との関連を示していると考えられます(それが、この論考のメインです)。
繰り返しましょう、『あれだけの数の古墳は築造し得ない』(同204頁)と書かれた「約三十基の古墳」は、それを支えた「地域の経済的基盤」が不明なのです。そして、「古墳」の様式や場所には特徴的な「ある偏り(特色)」がありました。
私は思います。その「経済基盤」が、「製鉄」であっては、おかしいのでしょうか?
「製鉄」が、「古代真田」に「富・利益」をもたらし、多数の「古墳」が造られたのではないでしょうか?「製鉄」が、「古墳」に偏りを齎したのではないでしょうか?
4.「弥生の鉄」が見えて来た②(地名から)
ここで、「『町誌』の定説的解釈」を脇において、あらためて「地名」による「歴史解釈」を試みてみます。
この「地名解釈」が、ある貴重な推測をもたらします。しかも「数カ所の地名」への解釈ですから、「鉄」の存在を推定する根拠にも十分なりえる筈です。
「公図」にも残る「真田」の「地名」(地域名)からの推測です(明治時代の「地図」にも同じ「地名」表現があります)。
それが、「あか」地名です。
*前回の「真田・傍陽地区」略図に「あか地名」(赤石・赤田・赤田・「上田」赤坂)を重ねます。
「あか」地名の図
驚く事に、この「真田」「あか(赤)地」は、すべて「神川」の右岸にある地名です。つまり「古墳」の造られていない地域にある「地名」です。そこからは、両者に何らかの関係があったと疑う事が出来ます。
こう考えた時、「あか」とは、「あかがね」ではないか、「金属」からの「色」ではないか、と思い到ります。つまり上流で「金属(鉄・銅など)」関連の事業が行われ、その為に「あか色」が発生し、水が「あかく」色づき、それが長年続いた結果この地名が生まれたのではないでしょうか。
影響が、「石」や「田」に及び、特徴的な「赤石」「赤田」地名が付いたと思われます(しかも「赤田」という地名は二カ所にわたり存在します)。
具体的には、「ベンガラ・あか」〔注7〕の発生です。「朱色」を示すこの色は、古代にあっては、「金属精錬」「製鉄」と切っても切れません。そこから、生まれる事が多いのです。
「真田」でのこの「地名」は、「ベンガラ」がこの地でも発生したことを物語っているのではないでしょうか。「製鉄」関連事業の存在が、この「あか」地名(「赤石」「赤田」地名)を生んだのではないでしょうか。(下流の「神科」には、「赤坂古墳」もあります)。
この地名こそ、「傍陽地区」の川の上流で、「鉱石」を採掘し、「精錬」を行っていた証明であると私には思われます。「ベンガラ」が発生したと判断されるのです。
前々回〔便り(二十三)〕に紹介した「八賀」氏の論文(「古代鉄生産をめぐって」)にも、類似の内容表現があります。
それが、美濃国にある「赤坂古墳」についての論文です(偶然ですが上田「神科」の古墳も同名の『「あか」坂古墳』です)。論文末尾の「まとめにかえて」に、こう書かれます。
『・・・本鉄鉱脈の特筆は鉱脈が露頭にちかい状態である。地下に坑道を掘る必要のない点は、精錬の技術の習得後は、容易に作業が展開したと考えられるし、山腹から流下する酸化第二鉄、すなわちベンガラは、容易に古代の器等に塗布された事が想定できる。』
「真田」の「鉱山」の特徴については、前々回に既に紹介してあります。「露天掘り中心の採掘」などは、よく似ています。が、異なる点は、「主原料」です。
美濃・赤坂鉱山では、「純度の高い赤鉄鉱(鉄成分60%とも)」によるものと説明されます。「精錬」時、「ベンガラ」が多量に発生して当然といえます。
ところが「真田」では、「砂鉄」(風化ヒン岩)を主力原材料とする為、「鉄鉱脈」には及びません。どうしても「添加剤・造滓剤」の使用を想定することに成りました。
けれども重要な共通点があった筈です。それが両者とも、「原料(鉱石)」からの「精錬」を行なっていた点です。これを行わなくては、「鉱石」が「鉄」になりません。
ですから「真田・傍陽地区」でも、「八賀」氏が述べた「山腹から流下するベンガラ」が当然発生した、と思えます(真田のほうがはるかに少なかっただろう)。
この「赤石」「赤田」という「地名」は、それを証明しているのではないでしょうか。
「製鉄」「精錬」を行った「真田・傍陽」でも、やはり「ベンガラ」が発生したと思えます。そして、「あか」地名が付いたのです。
地元在住の関口守一氏は、「焼津(やきつ)」地名(「大倉」地の下に隣接する「山」名です)も同様ではないか、と指摘されました。
そこには、周囲の「黒土」とは不釣り合いな「赤色土」の部分があり、そこではなぜか樹木が育たなかったと言います。不毛な「赤色土」があったからこそ「焼津」と命名されたのですが、「ベンガラ」の存在とその集中により「赤色土」になっただけでなく、ここでは軽い「鉱毒」現象が発生したのかも知れないと言われました。鋭い見解かと思えます。
そしてここからは、「製鉄」と「古墳」との関わりが明解となります。「本原」の古墳が、「神川」左岸に集中する理由がわかるのです。
「神川右岸」へは、「傍陽地区」から「傍陽川」が注ぎ込みます。「製鉄」を行っていた地域を通る「傍陽川」(水)には、「ベンガラ」「それらを含む化学物質」が含まれていたと予想されます。
「古墳」造成者は、それを知っていました。ですから、それを避ける為に「約三十基の古墳」をすべて「左岸」に作ったのではないでしょうか。
古代人に十分な科学的知識があったと即断出来ませんが、「川」の水が示す状態から、「古墳」が「ベンガラ」色に染まるだろうと察知してしたのでしょう。「傍陽地区」からの川水には、好ましくない成分が含まれることも、認知していたと思われます。
こうして「神川」左岸、やや小高い所に「約三十基の古墳」が造られているのだ、と私は思います。「古墳」造成者は、「川」の状況を十分に認知し、その判断の上から「古墳」を「左岸」に築造したのです。
「好ましくない」「右岸」を避けたのです。そうでなくては、同じ様式と思える「約三十基の古墳」が一斉に「左岸」に築造されません。そこでの「祭祀」も行えません。
そして、この判断をした「古墳」を造成した人々は、「製鉄」を行っていた人々と同じ集団に属していただろうとも解ります。
こうして、結論が導かれます。
「真田」の「古墳」を造った人びとは、以前からの「製鉄」の存在と、それがもたらす現象(結果)を知っていたのです。だから、本原地区「左岸」に「古墳」を作ったのです。それは仕方がない現象だと思い、「必要悪」のように感じていたと思えます。
やはり「弥生期」にはすでに「製鉄」が行なわれていたのです。「古墳時代」の人々が、「影響が少ない」「左岸」に「約三十基の古墳」を作ったのですから。「古墳期」以前「弥生期」に「製鉄」が行われていたのです。
私が「傍陽・大倉」で発見した「鉄滓」は画像からも「江戸時代」の物かと推測されました。
しかし、すでに「弥生時代」の「大倉」の人は、「製鉄の適地」「真田」で「製鉄」を行っていたのです。
「約三十基の古墳」がそう言っているからです。この推論に間違いないと思われます。
5.「弥生の鉄」が見えて来た③(「半田一族」の解明 から)
さて最後にある「妄想」を試みます。それが、「半田」一族への追求で、その由来・意味する所などへの想定です。まったく無意味な事かもしれませんが、私には重要な事と思われます。どうか、お聞きください。
私が「鉄滓」を発見した「大倉」の下の部落が「三島平」で、そこが「三島神社」がある所です。現「真田町傍陽地区」の最奥地にこの神社があるのですが、立地とは不釣り合いと思える「豪華」な「神社」です(現存する建物からも往時が偲ばれます)。
「鎌倉時代」に行われた、この「三島神社」改築に際しての「奉加帳」が、「半田家」(半田俊一氏)に現存しています。貴重なそのコピーを見ると、「神科」「上田」を始め「青木」「坂城」からまで神社に「寄進」が寄せられています。驚く程に広域から、多くの人が「神社」に「寄進」をしています。
この時代、「三島神社」が、この地域を代表する重要な「名刹」であったことがここから良く解るのですが、この資料に記載されている「神社」周辺の有力者の「姓」は、半数以上が「半田」姓です。
ここからは、往時(少なくとも鎌倉時代)の「三島神社」を支えた有力者とは、「半田一族」の人々であったと、推断してよいと思われます。
さらに、部落を通る「川」が「半田入谷(はんだいりや)川」で、「姓名由来」の命名と思われ、さらに「三島平」部落を下った所に「石仏」6体が残る「地蔵堂」があるのですが、ここより上部がすべて「半田一族」の領地(広大!)だったという「伝承」も残ります。やはり地域の有力一族だった、と推断して良いと思われます(私の「鉄滓」発見場所も、その範囲内です)。
「製鉄」を始めたのは「半田一族」である、という持論を持つ郷土史家「堀内薫」氏の存在を前々回に紹介しましたが、一族は、前述した豪壮な「三島神社」さえその領地内に持っていた訳ですから、堀内氏の推測は十分あり得る事かと私にも思えます。
ところが、この「半田一族」が、問題なのです。
一族の由来に関する「伝承」が「半田」家、その親戚にも何も伝わっていないのです。
「それに関係した事は、見た事も聞いたこともない」と、「半田俊一」氏は言います。
お持ちの「先祖伝来」という黒光りのする「石仏」も拝見しましたが、私の力量もあり「一族の由来」推定への手掛かりにはなりませんでした。「先祖」不明なのです。
釈然としないままの私でしたが、ある時「鉄」との関連を考えるうちに閃いたことがありました。
漢字表記に捕われる必要はない、「半田」は、「音」では「はんだ」です。これは「ハンダ」のことではないだろうか。そして「はん・だ」という「二音」ではないだろうか?
「ハンダ」とは、金属溶着の際の材料やその作業を示す「ハンダ」です。今も日本語に残ります(現在では「錫と鉛の合金」を材料とした「溶接」を意味します)。
しかし実は、この「ハンダ」語には、ぴったりした漢字表記がなく、由来の説明も困難なのです。
ウイキペディア(Wikipedia「はんだ」)では、この「はんだ(ハンダ)」をこう説明しています。
『「はんだ」という名称は、仮名書きされる事が一般的で、カタカナ書きされる事もある・・・「半田」「盤陀」などの当て字がある』
『「はんだ」の語源は地名由来とも、人名由来ともされるがはっきりしない』
さらに、『英語の「ソルダー」を「反田」と漢字音写したものを「はんだ」と誤読し、それに「半田」という事を当てた』という珍説までが紹介されています。
ここからは、「真田」の「半田」は、「ハンダ」の「当て字」と言う解釈ができます。
しかし「妄想」ですからそれ以上は進展しません。「ウキペディア」の説明のままで、由来は不明で、謎の言葉なのです。
「江戸時代」の人々でも、この語への適切な解釈や統一した表記はないようで、難問だった事が「ウイキペディア」では説明されています。
『万宝鄙事記 』、『和漢三才図会 』、「歌舞伎狂言のセリフ」でもこの語の説明が、それぞれ異なる解釈からなされているようです(詳細は、「ウキペディア」でご覧ください)。
ところが、この「はんだ」語への「説明部分」を先入観なしによむと、ある解釈が可能になります。
それが中国語による「はんだ」語説明の部分で、そこからの解釈です。
「ウイキペディア」では、こう書かれます。
『中国語では*[火旱]、または「釬」、稈猂料、銲錫、*[火旱]接剤、鑞である。』とあります。発音は「hanヽ」とあります。(吉村・注「*[火旱]」;火偏に旁は旱の文字。」)
これが「はんだ」語を解釈する時、大切な内容を示していると私は判断しました。「妄想」が続くのです。この語の発音が、「はん」と言う日本語発音と酷似するからです。中国語「はん」から、日本語「はん・はんだ」語が生まれたのかも知れません。
そこで、「*[火旱]」と言う漢字(言葉)を、「諸橋轍次」『大漢和辞典』で調べて見ます。
「ウキペディア」の説明と似ています。そこでは、「*[火旱]」とは「釬」字と同じ意味で、「熯」とも同じである〔注8〕、と説明されています。
これら3字の中で、「熯」字はあまり見かけませんが、「火気。又かわかす。」意味です。そしてもう一つの、「*[火旱]」字も余り使用されなかったようです。
類似したこれらの3字の中では、「釬」字が多用されたようで、『大漢和辞典』 では多くの説明が「釬」字に費やされています。
その「釬」字について、同書の説明を詳細に調べます。
「釬」には、①こてあて ②ゆごて ③はんだ、などの意味があり、発音は「han₄」とあります。発音は、「ハン、カン」の中間音と言ったらよいのでしょうか。驚く事にこれは、他の2字の発音と、ほぼ同じです。特に「*[火旱]」とは、同一です(ブログ主である「山田春廣」氏のご教示によると、「han₄」と「hanヽ」は同一発音の表示〔注9〕のようです。勉強不足もあり、「ウキペディア」と『大漢和辞典』 と言う別資料の表現がそれぞれ違う事から、別内容と考えてしまいました)。
さらに注目すべきは、③はんだ にある説明です。
「釬、金銀令相着」(広韻)、つまり『金・銀を繋ぎ合わせるもの』と書かれます。これは「接着」です。次に、「釬、一日、固金鉄薬」(集韻)ともあります。『金・鉄を固める薬』という意味で、「接着」ではないのですから「金・銀」を作る・固める素材と思えます。
さらに、熟語には、「釬薬」という例があります。これも、『金属を固めるための薬』と説明されます。『釬薬、以硼砂合銅為之、用胡桐汁合銀、堅如石、凡玉石刀柄之類釬薬、加銀一分其中永不脱』(物理小識)とあります。『ホウ砂と銅を併せて釬薬を作る。「胡桐汁」を「銀」に加えると強固な「銀」になる。さらに「銀」一分を加えるとその効果が抜けない(大意です)』とも書かれます。
金属の「接着」・「溶接」という意味と共に、「添加剤(造滓剤)」使用により「金属」を固め、より強固なものにする、と言う意味があります。
ですから音が似通ったこれらの3字(語)は、ほぼ同じ意味を持っていると思えます。
それは、火力を使った「金属」(「真田」では「鉄」)の「精錬」作業を説明した、または同一の内容のように思います。火力により「鉱石」を溶かし、それらを繋ぎ合わせ、強固な「鉄」に仕上げているからです。原材料「砂鉄」に、「珪石、マンガン」を添加しているのです(前に紹介した「仮説」や「写真」をご参考に)。
つまり、「真田」での「製鉄」時の一連の作業は、中国語「はん」発音の三語が示す内容と同一なのだと思われます。
真田・「古代製鉄」では、原料である「鉱石」を「はん」していたのではないでしょうか。
そこでは、「はん」が行われていたのではないでしょうか?
(続)
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【追加掲載(2021/03/16)】
「科野からの便り(二十五)」 真田・大倉編 ④続き
「だ」についても妄想を進めます。
使われている「田」字は、「当て字」と言われます。現地の標高は高く耕作には向きません。「製鉄」の時代が「弥生時代」と推定されると、「はんだ(半田)」という3字熟語を平易に作り、使ったとは思えません。「さなだ(真田)」名でさえ「中世」以降付けられたかと言われるのです。ましてやこの時代の「だ」が「田畑」を意味したとは到底言えません。
私は、「だ」とは、「音」を含め漢字「大」由来ではないかと思います。
「大」の発音は「だ、だい」「た、たい」と言われますし、発生時、この両文字は同義だった、つまり人体側面から象形した「人」字と、人体正面から象形した「大」字とに分かれていたと言われます。
つまりこの2字は、字体(字形)は違いますが、発生時から「同義」なのです。
使い方には違いがあったようで、象形しにくい「天」・「地」などの関連表現に一方の「大」を用い、「立派・大きい・広い」などの意味が付加され、使われたと言われます(「大天・大地・大人」や「大夫・大宰・大臣」など)
「大漢和辞典」にも、「人を尊称する時に用いる語」とはっきりあります。「○○の人」と言う意味で、「○○だー」と呼んだ例が、「戦記(太平洋戦争)」にも残っています。
そして「古い字形」が「泰」字の古形に似た事から「た、たい」発音が出てきたようです。
これらからは、ある推測が生まれます。
「だ」とは「大」で、『だ(だい)・「人・人々」を示す尊称』なのではないでしょうか?
「はんだ」とは「はん・だ(だい)」であり、中国語由来の言葉で、はるか古代の「外来語」ではないでしょうか。当時の日本語にはこれに相当する言葉がなく、中国発音をそのまま使った、だから以後の表記(漢字)も正確なものにならなかったのではないでしょうか。
現地人には驚きである「はん・製鉄作業」を行う「人(人々)」、又はその人々が使っていた言葉を、敬意をこめて「音」のまま残したと思えます。
そして、「製鉄」(「はん」)を行った技術者たち(「だ・だい))は、そのまま「真田」に住み着いたと思われます。仲間は更に奥地(?)へと進んでいったのですが。
一族は、「音」をそのまま残し、「姓」を「はんだ・半田」にしたのでしょう。こうして、「祖先」伝承のない「半田」一族が「真田・大倉」に残ったと思えます。これは「妄想」なのですが、根拠がまったく無いわけではありません。
実は、「はんだ」地名は全国にあるのです。そしてそのほとんどが「金属」との関連を疑える由来を持ちます。
愛知県半田市も、「はんだ」由来でしょう。合併が繰り返され、現名称に至ったと言われます。元来は、山間の小さな地名だったと言います。
福島県にも、「半田銀山」があります。金属との関連は明白です。
地質学的に見た時、大分県九重町の「飯田(はんだ)高原」が「真田・傍陽(半田)」の例とよく似ています。その地は「真田」と似通った、複雑な地層を持つからです。
近くの火山活動由来の各種の地層を持ち、そこから産出された「鉱石」を利用して多くの「鉱山」を持ちます、その歴史は古いと言われます。「真田」と同じように、「鉱石」を利用して「はん」を行っていたのではないでしょうか。
全国には、まだまだ「はんだ」地名があるのです。
「はんだ」名称から、中国からの「金属技術(者)」の到来(移住)や、そこに製鉄や金属関連の何かが存在した、という推測は成り立つのではないでしょうか。
「真田」で「はん」を行っていた一族は、「半田」一族で、中国からの「渡来人」なのではないでしょうか。こう呼ばれ、最先端技術者であった彼らを、「渡来人」というくくりに入れてもいいかも知れません。
彼らと繋がった「九州王朝」の「進出」は、確定的と思われます。「二次加工炉」の遺存からもそう言えます。「長野県埋蔵文化財センター」の発掘がそれを確定しているのです。
「九州」でしか見つかっていない「鉄」の「二次加工炉(技術)」を持った彼らと「九州王朝」は、長野県・中野市(「南大原遺跡」で代表される)へ進出し、やがて「真田」で「製鉄」を始めて行くのです・・・
(「科野からの便り(二十七)」「半過」編 へ続く)
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注1 「大笹道」 …… この道の地図は、科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―の注5「大笹道」をご覧ください。
注2 「北信」 …… 行政地域区分としては「【北信地域】中野市、飯山市、山ノ内町、木島平村、野沢温泉村、栄村」(図、ともに長野県のHPより)ですが、吉村さんはこの論考では「北部信州の事です・長野県下の千曲川下流域つまり長野市、須坂市、中野市周辺など」の意味で使っています(ご留意ください)。
【北信地域】図
注3 「栗林式土器」 …… 栗林遺跡から出土した弥生中期の土器。栗林遺跡は弥生時代中期の「栗林式」土器の標式遺跡となっている。
「栗林式(壺形)土器」(長野県埋蔵文化財センター 「南大原遺跡」 報告書刊行しました より)
※私(山田)の「妄想」を一言。「矢印」と言っていながら「鳥を示した」などと言う理解の仕方は理解できません。「矢印」ならまず「矢」でしょう。
栗林式土器(馬場伸一郎「弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究」より)
千曲川周辺遺跡地図(柳沢遺跡org「柳沢遺跡の周辺遺跡」より)
注4 「箱清水式土器」 …… 信濃の国、現在の長野県。その北部地域には、弥生時代中期後半から後期にかけて、鮮やかな赤で飾られた独特の土器が発達しました。それは中期の「栗林式土器」と呼ばれる土器群と、後期の「箱清水式土器」と呼ばれる土器群です。特に後者の分布する地域は「赤い土器のクニ」とも称され、成熟した稲作農耕が発達するとともに、青銅器や鉄器を伴う独特の弥生文化が形成されていたことが近年の考古学的調査の結果、明らかとなってきました。(東京国立博文館のHPより)
「箱清水式土器」(上田市立信濃国分寺資料館編『―常設展示解説―上田地方の古代文化』)より
注5 「四日市遺跡」 …… 真田町教育委員会「長野県小県郡真田町埋蔵文化財調査報告書 四日市遺跡」(1990.3)には次のように、「四日市遺跡」の地理的環境が説明されています。
1 地理的環境
小県郡真田町は、上田盆地の北東 に位置する。四阿山山麓西側に拡がる菅平高原を始めとして、大部分を山地が占めているが、その菅平高原から南西に流れ出、いずれは千曲川と合流する神川沿岸、さらにその支流である洗馬川沿岸、神川左岸と段丘崖をもって接する本原扇状地面の地域に谷平野が発達している。これらの平坦面は、一括して神川渓谷平野とも呼ばれており、上田盆地から放射状に伸びる谷平野のひとつとして数えられる。また、特にここでは、神川が上田盆地に注ぐ際、標高672,9mの虚空蔵山を西にして狭除部となることから、上田盆地との境界を明瞭なものにしている。
四日市遺跡の位置する横尾地区は、神川による堆積平坦面、いわゆる神川扇状地面上にあるが、支流の洗馬川扇状地面とも接しており、殊に広く開けた地である。横尾山塊の南麓でもあり、用水的役割を果たす大柏木川が流下することもあって、居住するには好適な地と言えよう。
本遺跡は、横尾地区の中でも、現在の集落の中心からやや南に外れた神川右岸の河岸段丘端に位置している。
注6 境田遺跡 …… 真田町教育委員会 1996 『真田町埋蔵文化財発掘調査報告書8:境田遺跡・西田遺跡』 一本原地区県営農村活性化住環境整備事業に伴 う緊急発掘調査報告書一という副題がついていて次のようにあります。
真田郷には昔から松代や群馬に通ずる交通路があり、古墳時代の集落もこの要衝の地に発展してきました。境田遺跡・西田遺跡はこの真田郷の南玄関口にあたります。
境田遺跡では以前から土師器・須恵器の破片が田畑に散見され、関係機関では埋蔵文化財の包蔵地 として注目されてきた ところであります。(同書「序」より抜粋)
3 古墳時代 の遺構 と遺物
古墳時代の遺構は住居址が3軒と竪穴状遺構1基、土坑1基が検出され、良好な一括資料が得られた。特に石製模造品の出土は当町では過去に例がなく、注 目される また、住居址2軒から特徴のある煙道が検出された。(同書―20―より抜粋。強調下線は山田による。)
注7 「ベンガラ・あか」 …… 弁柄(べんがら、オランダ語: Bengala 、紅殻とも表記[1])あるいは酸化鉄赤(英語: Red Iron Oxide )は、赤色顔料・研磨剤のひとつ。酸化第二鉄[1](赤色酸化鉄、酸化鉄(III)、Fe2O3)を主要発色成分とする。(Wikipedia「弁柄」より抜粋)
注8 「*[火旱]」とは「釬」字と同じ意味で、「熯」とも同じである …… 私(山田)が常に携行している文庫版よりさらに小さい 北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000年2月25日 日本語版改訂版第1刷、ISBN 4-497-20001-9 C3587)にも、179頁に次のようにあります(簡体字は国字に直しています)。
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*[火旱](*釬、*銲)han4 用溶化的金属或某些非金属把工件連接起来,或溶化的金属修補金属器物:電~.銅~.
〔加工材料を溶かした金属・微量非金属で溶接するのに用いる(もの・こと)、あるいは、金属の器物を溶かした金属で捕修する(もの・こと)山田訳〕
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「(*釬、*銲)」とあるのは、この漢字を用いても意味は同じ(つまり、こうも書く)という意味です。「*[火旱]」という漢字の意味は、簡単に言えば「“はんだ付(づ)け”に用いる“はんだ”」あるいは「“はんだ付(づ)け”」です。
注9 「han₄」と「hanヽ」は同一発音の表示 …… 中国語の学習で最初に習うのが「四声」です。漢字の発声は一文字だけでも抑揚があって、これを間違うと意味が異なる(違う漢字を思い浮かべる)ので、話が通じないことがあるようです。高く平らかに発声するのが「第1声」(子供が落ちそうなのを見て「アーッ」と悲鳴を上げる時の感じ)、低くから高くに発声するのが「第2声」(信じられないと言う時の「ええっ⤴」)、低くから更に低くそして戻るのが「第3声」(失敗をやっちゃったなという場合の「あ~ぁ」)、高くから低くへ下がるのが「第4声」(鴉の鳴き声の「カァ」)です。この「第4声」を示す「ヽ」が上に付いた「a」の文字が MicrosiftIMEの標準漢字辞書にないため、「han₄」や「hanヽ」のようにして表しています。
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