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2021年8月31日 (火)

科野からの便り(31)―半過編②―

 科野からの便り(31)
半過編②

 昨日(2021/08/30)、吉村八洲男さまから、これまで論じてこられた「科野の製鉄」について、上田市文化財調査報告書第105集「中の沢遺跡・半過古墳群」や地質学者山辺邦彦氏の分析結果などに基づいて立てられた科学的仮説によって、どのような論理によって従来説が覆がえってしまうのか、その衝撃的な結論へと赴く論理の筋道を、わかりやすくしかも理路整然と纏められた論考をご寄稿いただきましたので掲載いたします。
 なお、いつものことですが、本文中へのリンクの貼り付けや注記・強調などは山田の独断で行っております。

……………………………………………………………………………………………………………………

「科野からの便り(31)」 「半過」編 ②

上田市  吉村 八洲男

1.始めに

 前編(「科野からの便り(二十七)」半過編)では、「中の沢遺跡・半過古墳」への上田市「文化財調査報告書」を紹介し、そこから驚きの結論、『「古墳時代末期」には、「上田」で、「製鉄」がなされていた』、を導きました。ビックリされたでしょうが、疑いのない公式見解(調査報告書)からの立論です。出された結論には相当な真実・事実があろうかと愚考します。

 ただ論考内容が、いささか複雑で多岐にわたり過ぎたかとも感じています。上田「半過」周辺の地理や歴史、発掘された古墳埋葬物にまで論がおよびましたから。

 読者に、「論考過程が不明、そこから何を結論しているのか解らない」と言われかねません。出された結論が、「定説歴史」ではない「新しい歴史解釈」になっているのかも判然としないと言われそうです。

 そこで、現在の「半過岩鼻の崖」などの写真を再掲し、そこに写されている風景から、前回の解りにくい私の結論を再度説明して見ようと思い付きました。

 これらの写真(実景)をもとにした論考ならば、私の論理・推論が理解されやすいかと思ったのです。それは前論考の懲りない繰り返しでいささか乱暴な展開とも言えるのですが、解りにくい前回「半過」編①での結論過程が、写真(実景)により具体的な、身近な風景と感じて頂けます。その論理進行を再確認しやすくなるかとも思えます。

 そうして頂けたら幸いな事です。確かに、繰り返しになるやも知れません。その始終を御理解頂き、以下の論考をお読み頂けたら幸いに思います。

半過岩鼻の崖
Photo_20210831152101

 

2.「半過岩鼻の崖」

 上図は、青木方面から続く山裾の先端部で、「半過岩鼻(はんがいわばな)〔注1〕と呼ばれている「崖」の実景です。この「崖」が「千曲川」に面し屹立します(同時に、「上田盆地」に面しています。(前回での地図〔注2〕をご参照下さい。立地が解ります。)

 御覧のようにほぼ垂直にそそり立った壁面と、岩肌に残る、えぐられたような痕跡が遠くからでもハッキリ確認出来ます。国道〔18号線〕、しなの鉄道、千曲川が「崖」のすぐ脇(下)を通ります。上田盆地で生活する人には、これは見慣れた風景でしょう。

 ところが、この「崖にあるえぐられた痕跡、窪み」が造られた理由を、今迄は明確に説明出来ませんでした。御覧のように遠目からもハッキリ見えるこの「窪み」の造られた理由は、不明だったのです。

 巷間いわれて来たのが、「太古の湖由来」説で、その「湖」の決壊により「湖水」が流れた跡だと説明しました。又ある人は、「千曲川」の氾濫により、つまり「千曲川の水流」によりこの「えぐられた痕跡・窪み」が形成された、とも説明しました。共に、「水流」が崖に当たり、この「えぐり取られた痕跡の残る崖」になったとしていたのです。

 しかしこれらは、釈然としない解釈でした。写真を見て頂けば一目瞭然に解ります。「窪み」と「窪み」が離れ、別々に存在しています。どう考えても「水流」により形成された(えぐりとられた)「窪み」ではないのです。このように都合よく「水流」が流れるはずがないからです。

 ですからこのような既存の説明には、人々は納得していなかったと思われます。釈然としないながら認めていたと思われます。

 しかし最新地質学による古地形への判断では、現在の「上田盆地」の地表面は、9000年前の「上田泥流」によって形成された地形・地勢と判断しています(山辺邦彦氏〔注3〕によってその年代が確定されました)。

 ですから、それ以後に、「岩鼻の崖」を覆うほどの「水位」を持ち「岩鼻の崖」を「都合よく削り取る激しい」「流れ」を持つ「大氾濫」があったかどうかは推定出来ません。「岩鼻の窪み」は、地表からは相当な高さですから、あったとすればとんでもない「大氾濫」「大水害」です。それは形を変えてでも記録、記憶に残っている筈と思えます。しかし、それはありません。

 更にこの「大氾濫」の痕跡が、「盆地」内の他の地表・地形などには全く残っていないのですから、やはり不明と言うしかありません(小「氾濫」はあったでしょうが)。

 このように、「岩鼻の窪み・えぐられた部分」の造られた真の理由は、「不明」としか言いようがありません。科学的には「説明」のしようがないからです。

 人々は前述した「水による窪みの形成」説を、「おかしい」「釈然としない」と思いながら受け入れていたと思われます。

 

3.「真田の鉄」との関連

 上田人が感じている「崖」への不審を説明してきました。「水流」では、「窪地」の不審は説明出来ないと思えます。ではこれは、説明不能、解釈不能な現象(「崖」)なのでしょうか?

 私はそうは思いません。もう一つの理由〔注4〕(恐らくは真実)が明瞭になりつつあるからです。

 それが、「崖」のある「半過」地区での、「鉄」製造由来説です。この論理を受け入れる事で、不明だった「崖のくぼ地」の形成理由の全てが説明されると思えます。その推論からは、「鉄」と「崖」とが必然的に関連し、つまり「崖」形成の理由が判明するからです。

 その説明は、古代の「半過」地区に「製鉄所」があった事から始まります。

 再確認して欲しいのですが、発掘により、「半過」地区で「鉄」・「古墳」などの遺跡が発見されました。2008年に発掘した「中の沢・半過」遺跡からの結論で、これが考古学上の定説にもなっています。これについては、前編でも説明しましたね。

 「上田市」の調査では、驚く程多量の「鉄」「鉄滓」がここから発見されました。「鉄塊系遺物」129点、「鉄滓(流出・炉内)」639点、「炉壁」が、2.1㎏あったのです。とんでもない数量でした。県内でも滅多に無い量を持っていたのです。その遺品からは、「製鉄」された時代の古さが指摘され、ここが「長野県最古の製鉄所」かと推量され、大々的にマスコミに報じられた事も、前回紹介しました。

 でも残念なことに、この発見はすぐに忘れ去られてしまいます。理由は簡単です。定説的な歴史解釈からは、この「中の沢・半過」地区の多量の「鉄」の痕跡(その発見)は、特別視できない事だと判断されたからです。

 定説からは、この遺跡が「平安期」の「製鉄遺構」と判断されました。ですから、県内他地にある平安期・「製鉄」遺跡と同列なものと考えられたのです。ここだけが特別視される事(場所)ではなかったのです。

 そして定説では説明出来ない多くの不審点へは、「おかしなものが有る」程度の理解がされたのです。そしてそれ以降、その判断はそのままにされて来ました。

 「歴史界」の判断がそうなのですから、上田の多くの人、地元の人の理解も同じでした。こうして「半過の鉄」・遺跡はありふれた遺跡の一つとなります。そのような遺跡は見向きもされません。こうして、どんどん忘れられて行くのです。

 でもそれは本当なのでしょうか?考え直す余地は無いのでしょうか?

 私はそうは思いません、特に、定説には無いもう一つの歴史があるのではないか、と考えるとそういかないのです。定説による「半過」遺跡への時代判断・解釈にはハッキリしない点が多く、不明のままにされている内容例が多いからです。そう考えると簡単には「半過の鉄」を見過ごす事が出来ないと思いました。

 すでに私は、もう一つの「別の歴史」があった証拠を発見しました。それが、「真田・傍陽の製鉄」です。地質学者の「仮説」からも、実際の発見からも、そして発見物への「科学」からも、「真田の古代製鉄」が証明されたのです。

 定説では有る筈がないとされた「古代製鉄」が、「真田・傍陽」に間違いなくあったのです。

 ここからも、隠れた別の「歴史」があったのだと考えて良いかと思えます。

 発見された「真田・傍陽の鉄」が、次の時代、「中の沢・半過の鉄」になったのではないだろうか。両者は関連していた、つまりおなじ勢力により「半過の製鉄」がなされたのではないだろうか。こう考えて、定説を考え直していいのではないでしょうか。

 そしてこう考えた時、「解釈不能」な「崖の窪み」が、「鉄」との関連から説明が付くのです。

 

4.鉄の原料

 さて、「鉄」を作ろうとした時、必ず「原料」が必要になります。子供にも解る常識でしょう。それがなくては、「鉄」は造れないからです。では、「半過」の多量の「鉄」はなにから造られていたのでしょう?「原料」はなんでしょう?

 「真田の製鉄」の場合、それが「風化ヒン岩由来の砂鉄(土)」であったと、今迄の「科野からの便り」注5で、再三にわたり結論して来ました。顕微鏡写真を使い、科学的に証明したつもりです。

 この「砂鉄(鉱石)」は「真田・大倉現場」に残り、同時に「真田・実相院」の周辺にも豊富にありました。そこからこの「土(砂鉄)」が「製鉄の原料」であった、と断定しましたね。この「真田の製鉄原料(鉱石・砂鉄)」は、有名な山陰地方「タタラ製鉄」の原料と同じものだ、とも紹介しました。

 これらの「原料」への追求が、「真田」と「半過」とを結びつける重要な推論を生むのです。

 「半過」での遺跡発掘調査後、上田市は、その「発掘調査報告書」を造ります。ところが、それを詳細に読むと、「おやっ」と思われる事があるのです。

 「真田」では、前述したように「鉄」の原料となっていた「風化ヒン岩」ですが、「半過」遺跡の中には、これが砕かれ、積まれた「平地」が、「3カ所」あったのです。その「平地」には、「風化ヒン岩」だけが砕かれて状態で積まれていました。「半過・遺跡報告書」では、そこを「理由不明の平地」としてしまいます(写真でその様子が解ります)。

 なぜか「ヒン岩」だけが積まれた正体不明の「平地」がある、としか判断出来ませんでした。考えられる理由をいろいろ追求したのですが、結局その説明は出来ませんでした。

 「真田の製鉄」を知っていた私は、推定しました。これは「集石場」で、「原料置き場」であったのではないだろうか?ここに集められた「風化ヒン岩」を使って「製鉄」をしたのではないだろうか?(その論考過程を、「半過」編①で紹介しました)。

 つまり「真田」と同じように、「製鉄原料」と思える「風化ヒン岩」を、この「集石場」に集めていた、と予想したのです。「半過」遺跡では、多量の「鉄」が造られていたのですから、その「原料」が遺跡内のどこかに集められていた筈だと考えたのです。

 遺跡発掘当時の理解では、「風化ヒン岩」を利用して古代製鉄を行ったとは考え付きません。だから、「報告書」では、「不明な平地」としてしまったかと思ったのです。

 しかし、「真田の鉄」を発見した今は違います。使われた「原料」がハッキリしているのです。ですから「真田」と同じように、「半過」でも「風化ヒン岩」を原料として「製鉄」を行ったと推測されるのです。「真田」と同じで同時に有名な「たたら製鉄」とも同じ「原料」を使ったと考えました。

 真田現場で発見した「鉄滓」からの科学結論は、その推測を認めていました。やはり、「半過」地区でも、「風化ヒン岩」を使って「製鉄」をしていたのではないでしょうか。
Photo_20210831152301 

 「真田」では、「実相院」周辺に豊富な「風化ヒン岩」がありました(前回の写真でも示しました)。「上田・半過」地区ではどうだったのでしょう?

 驚く事に上田地域中で、「風化ヒン岩」が豊富に存在し、採取できる場所は、実は「半過」地区だけなのです。それは、上田市の「地質調査書」からも明瞭です。(前回の「上田地質図」〔注5〕をご参照に!)

 つまり「半過」は、上田地域(「シナノの国」?)の中では原料が豊かで「製鉄」にはうってつけの地区なのです。

 ですから思います。ここで「製鉄」をしてなんの不思議があるだろうか?

 

5.「ヒン岩」からの古代製鉄

 さらに「原料・ヒン岩」へも更なる理解が進みます。豊富にある「半過」の「ヒン岩」ですが、調べていくと、次ように理解されて来たのです。

 なんと「半過」には、含まれた「鉄成分」の含有量により、いくつかのタイプの「風化ヒン岩」があった事が認められたのです。すべてが同じ硬さを持つ「ヒン岩」ではないのです。驚きますが、私たちの調査でこれが確認されたのです。

 つまり同じ「風化ヒン岩」でも、もろく「土」に近い「風化ヒン岩(砂鉄)」から、固くて「石」といって良い「風化ヒン岩」まで、様々な、多様な「ヒン岩」が認められたのです。『「半過」の「ヒン岩」』と一口に言いますが、その「硬度」には微妙な差・段階があったのです。
「中の沢」の土(砂鉄)の実景とその分析写真
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 同じ地区内でありながら、違いがあったのです。私たちの調査は、このような各種のタイプの「ヒン岩」を確認する事でもありました。

 その結果を繰り返しましょう。

 一つが、もろくて「土」のような「風化ヒン岩(砂鉄)」で、これが「中の沢」地籍の随所に、今でも多量に残っていました。過去に採掘があったかと推定される地形の変化も認められました。そしてこの「土」に近い「砂鉄」は、「真田・実相院」での「土」と同じものでした。(上図は、その「中の沢」の土(砂鉄)の実景とその分析写真です)

 山辺氏も断言されました。「これは実相院とまったく同じだ」と。

 この「土」も、やはり良質な「鉄分」を多く含みます。砕かずに、すぐに「製鉄」に利用できたでしょう。「真田」と同じ使い方がなされたでしょう。

 そしてもう一つが、「石」としか言えない、硬度のある「風化ヒン岩」です。これも、随所から認められました。写真で示した「岩鼻の崖」にある「風化ヒン岩」もそうでした。切り出した後、製鉄用ならば砕かなくては使えなかったでしょう。

 このように様々なタイプ(段階)の「ヒン岩」が、「半過」地区にあると判明したのです。

 石に見られる堅さの違いを、科学的に説明しておきましょう。

 これらの硬度の違いは、石に含まれた(石を作る)鉱物の組成の違い、つまりそれぞれの持った粒子(例えば、長石や雲母のそれぞれが)の大きさの違いで説明付けられるようです。細かい粒子(緻密な粒子)で構成されている時、その石は硬度を持つ事になります。大きな粒子で構成された時(粗く造られた時)その石は脆くなるのです。

 「鉄成分」を多量に含む「鉱石」は、大きな粒子を持っています。つまり、もろくなります。粒子(鉄成分)が大きいからです。このもろくて「土」の様な「風化ヒン岩(砂鉄)」が「製鉄」には最適で、これが「真田」にも「半過」にもあった事になります。

 逆に、「岩鼻の崖」にあるような「ヒン岩」は硬い石と思えます。つまり、「鉄成分」が少なく、同じ「ヒン岩」であっても製鉄には「最適」とは言えない事になります。

 豊富な量を誇る「半過」には、各種の硬度を持つ「ヒン岩」があったのです。調査でも、それが確認されました。その自然・地質・岩質には、改めて驚きます(古代人は、「硬度」で「鉄成分」の多少を理解していたのか・・・)。

 鉄生産には、原料の「鉄成分の多少」を見分ける事が肝要で、「半過」の「風化ヒン岩」はその観点から選別されていたかと思いました。

 

 こうして遺跡「集石場」には、脆かったり砕かれた「風化ヒン岩」が集められ残っていたと思われます。当然ながらそれは「製鉄」用の「材料置き場」です。理由が解ったのです。正体不明の「平地」ではないのです!

 不明と言われた「集石場」の本当の意味は、「材料置き場」だったのです(もう一度写真でご確認下さい)。それを使って、多量の「鉄」を作り出していたのです。

 

 そしてこの事実が、さらに次の驚きの推定へと繋がります。

 選別され残った「鉄成分」の少ない(「硬度」のある)「風化ヒン岩」は、不必要なものと思えます。「製鉄」には、役に立たない材料だからです。

 ところが驚く事に、そうではなかったのです。古代人は、これをさらに有効利用していたのです。

 「報告書」によると、「中の沢・半過」遺跡での「四古墳」は、すべてが「風化ヒン岩」で造られていると判明しています!これが、次の驚きの推定(事実)を確定するのです。

 「製鉄」には不必要な固い「風化ヒン岩」だが、なんと、それを使って「半過」「古墳」を造っていたのです!

 「古墳」には、固くて砕きにくい「風化ヒン岩」が使われていたという事です。「鉄成分」が豊富な「ヒン岩」は、もろく砕けやすいため建物(古墳)の材料には使えなかったのです。

 残った(?)「ヒン岩」が、「古墳」築造に使われたのでしょう。

 「半過」の「古墳」建築材料の全てに、固い(石)「風化ヒン岩」がそのまま使われているのですから、疑いようがありません。

 これは、驚きでした。「製鉄原料」と同じ「鉱石」だが、「古墳」材料には選別後(残された)と思える硬い「ヒン岩」が使われていたのです!

 「風化ヒン岩」だが「鉄成分」が少ない石材ならば、その硬度を利用し「古墳」を造っていたのです。これは「風化ヒン岩」を、「鉄」と「古墳」に、見事に使い分けていた事になります。

 そうすることで、貴重な「風化ヒン岩」を採掘し「製鉄」した人物とは、「古墳」に埋葬された人物だったと証明していたのです。だから同じ材料を、使用していたのです。

 「製鉄」を支配した権力者を、より明確に人々に認知させたのかも知れません。両者の関係性を誇示したのです。

 古代人は「ヒン岩」を最大限利用したと言えるでしょう。「古墳」に眠る人物は、「製鉄」の支配者でもあったのです! 

保存・再現された「半過」遺跡古墳の一つ
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 現在、「道の駅」(国道18号バイパス「半過トンネル」入口にある)の敷地内に、発掘された「半過」遺跡古墳の一つが、保存され、再現されています。(上図写真)

 よくぞ保存しておいてくれたと思う貴重な古墳です。皆様も是非ご覧ください。

 そして、ここに使用されている「石材」はすべて「風化ヒン岩」なのです(山辺氏も断言されました)。

 この事実が今までの推論の正しさを物語るかと思います。この古墳は「半過」での「製鉄」を裏付ける物的証拠でもあったのです。

 古代人は、「古墳」にも「製鉄」にも「風化ヒン岩」を利用していたのです。驚きますが、それが結論なのです。

 時代も解ります。「古墳」の造られた時代に「半過」の「製鉄」が始まった、つまり「古墳期」末期には「製鉄」が始まったことになるのです。定説が言う「平安期」ではないのです。

 古代人は豊富にある「半過」の「ヒン岩(砂鉄)」に目を付けました!「真田」と同じ「鉱石」だからです。「上田・半過」でもそれを使って貴重な「鉄」を造り始めたと思われます。

 こうして「上田・半過」で「風化ヒン岩利用の製鉄」が始まり、同時に数多い「半過古墳群」が形成されて行ったと思われます。偶然、「半過」地区で「製鉄」が始まった訳ではないのです。「半過」地区でしか、「風化ヒン岩」利用の「製鉄」・「古墳築造」は出来なかったのです。

 「半過」の「製鉄場」の発見を、いままでの歴史定説のように決して軽く考えるべきではありません。もう一つの歴史がある、それを証明することが出来る、そう言っていると思われるのです。

 

6.「崖」への推論

 論考もいよいよ最終局面となります。お解りになっているかと思いますが、「崖の窪み」への私の推論はこうなります。

 「半過岩鼻」の巨大な「崖」は、すべて「風化ヒン岩」で成り立っています。それは調査により作成された上田「地質図」でも確認されています。

 「風化ヒン岩」の重要性については今迄に再三述べて来ました。古代人はこれを最大限に活用したのだと推論しました。

 そう考えた時、「崖」にある「えぐられた窪み」とは、貴重な資源、「風化ヒン岩」の「採石場」の名残ではないでしょうか?大切な「風化ヒン岩」を、この「崖」で得ていた(切り出していた)のではないでしょうか?

 この「崖」で「ヒン岩」を「採石」し、選別し、「製鉄」や「古墳構成材」に利用ていした、その為に造られた「窪み」ではないでしょうか?

 

 紹介した上田市の「半過遺跡発掘報告書」には、こうも述べられています。

 「小泉・上田原地区では古代からの生活痕・遺跡が多い。・・・59カ所(!)が確認されている・・・

 「半過」地区周辺は、「古墳期」だけでなく、原初期(恐らく「縄文期」)からの重要地だったと思われます(前編でもそう主張しました)。それだけの遺跡があるのです。「報告書」で書かれたように、周辺地域には半端ない数の「古墳」が残っているのです。

 それを知った時、これは結論への更なる支持材料になると気付きます。

 「半過」だけでなく、それらの「古墳」にも「岩鼻の崖」の「風化ヒン岩」が使われていたのではないでしょうか。「「古墳」と言う埋葬者の権威を裏付ける建造物素材には、「崖」の「風化ヒン岩」は最適な素材だからです。

 「崖の中腹」に「窪み」がある理由も解ります。そこが「採石場」であったとすると「中腹」という「高さ」の利用が考えられるからです。
 つまり、この「高さ」を利用して「採石」後の運搬を補助していたと思えるのです。「高所での採石」は、運搬の労苦を軽減する(運びやすくなる)と思えるからです。

 こうして「半過」地区や、「小泉」「上田原」地区全体に「崖」の「風化ヒン岩」を運んだのではないでしょうか。鉄にも、多くの古墳にも、「岩鼻の石」が利用されたと思えます。

 

7.「砂鉄」について

 最後に、ある誤解について言及します。「鉄原料」としての「砂鉄」についての誤解です。

 「半過」地区は、「千曲川」に隣接します。ですから、定説では、その「鉄材料」は「千曲川(その川岸も)」から得ていたと考えられて来ました。「川砂鉄」を使った製鉄、という事になります。ところが、これは正しいとは思えず、誤解によるものなのだと判断されるのです。

 前述した山辺氏はこう主張されています。

 『千曲川には、製鉄に向く「砂鉄」が発見される場所は、ほとんどない。どちらかと言うと「製鉄」には不向きな「砂鉄」が多い』『上田市周辺の千曲川には、「製鉄に適した砂鉄・岩石の集積」は見られない

 つまり、製鉄の原材料としては、「鉄成分」の少ない「千曲川の砂鉄」は不向きで、特に上田近辺の「千曲川」には、「良質な砂鉄」が大量に集まったと思える場所が見当たらないと言うのです。「経年」や「川(水流)」の移動を考えたとしても、この指摘は重要です。

 定説の主張とは異なるからです。定説は、「半過」地区「製鉄」は、「千曲川に原料が豊富にあったから」この地区で行なわれたと言って来ました。

 そうとは思えません。「半過」では、「原材料・風化ヒン岩」が様々な性質を持ち、しかも豊富にあったからこそ「製鉄」が行われていたのです。そう考えた方が「半過」の自然・地質・岩質に適合していると思えます。(たまたま「半過」が「千曲川沿い」であったという事です)。

 「上田盆地」の地表面が、「上田泥流」で一気に形成されたものと結論された今、流れの変化にも過度に囚わられる事もないでしょう。

 「砂鉄」と言うのだから「千曲川(の砂)」から原料を得たのだろう、と言うのは短絡的で、正しくありません。実際の調査(含有鉄成分や砂鉄の集積など)からの推定が必要でしょう。更に、「砂鉄」と言っても、いろいろな種類がありますし、その上「山砂鉄」にさえいろんな種類(生成起因によるか)があるからです。

 「鉄鉱石」と「砂鉄」とを単純に対比出来ないとも思います。両者の違いは、含まれる「鉄成分」の多少で考えられるべきと感じます。「鉄鉱石」採掘の少ない古代「製鉄の技術」は、これら原料の違い(「砂鉄」の違い)からさまざまに分化し、地域素材(原料)に適合した技術になっていったと考えます。

 

8.終わりに

 「岩鼻・崖」への驚く推論となりました。上田人が永年悩んで来た「岩鼻の崖」ですが、実は、製鉄原料であり古墳の構成材でもある「風化ヒン岩」の「採石場」跡だったのです!

 上田人には見慣れた光景なのですが、この「崖の窪み」は、いままでの「歴史定説」の不審を証明する実在光景でもあったのです。「崖」がもう一つの歴史の存在を証明していると思えます。

 この結論には、地元の人でも驚かれた人が多いでしょう。飛躍した、とっぴもない意見だと・・・しかし、たとえ皆様に驚かれても呆れられても、これが私の論理の行きつく先でもあります。考えを進めていったらこうなってしまったのです。ご理解を頂けたらとひたすら願うしかありません。

 この「コラム」読者の皆様には私の主張の是非を、どうか実地検分でお確かめください。電車で来られても、車で来られても、「半過地区の土」、「半過岩鼻の崖」は確認出来ますし、「道の駅」にある「古墳」も見る事が出来ますから・・・

 さて、原料の判断からは、「真田」の製鉄と上田「半過」の製鉄とは繋がる事になりました。論考の通りです。とすると、同一方法で製鉄を行った同一勢力の存在が強く疑えます。

 そして更なる次の時代、「半過」にみられた「古墳・造成材」と「古墳・埋葬物(製品)」との関係が、再度上田で繰り返されたと思えます。

 上田「条里」の起点にもなったかと疑われる「神科」地区にある「古墳」では、「半過」古墳で起こった事と同じ関係が起きたかと疑えるからです(私は、そう思っていますが・・・)。

 それについては、前述した「科野からの便り(二十一)〔注6〕をご参照頂ければ幸いに思います。

(終)

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注1 「半過岩鼻(はんがいわばな) …… 上田市のHP(信州上田観光情報「岩鼻」)に、別の角度から撮影した写真と興味深い「ねずみ」伝説を紹介するキャプション(改行削除と下線は山田による)を転載しておきます。「崖にあるえぐられた痕跡、窪み」が水流でできたものではないことが明らかでしょう。なお、「ねずみ」に関する吉村さんの考察は、「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(1) 2020.01.18 及び「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(2)2020.01.26 をご覧ください。
別の角度から撮影した「半過岩鼻」
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上田盆地の西側に位置し、昔は一続きであったとされる岩が千曲川の浸食によって削られ奇観をなしています。伝説では、遠い昔は対岸(千曲川を挟んで北側)の塩尻岩鼻と一続きの岩で、上田盆地は一面の湖でした。その湖の西にねずみがはびこり田畑を荒らしたので、唐猫を集めて追わせたそうです。逃げ場を失ったねずみは岩山を食い破り、湖(上田盆地)の水は千曲川となって流れ出し、一帯は陸地となったといわれています。ねずみが岩山を食い破ったことから、付近には「ねずみ」の地名が残っています〔以下略〕

注2 前回での地図 …… 前回(「科野からの便り(二十七)」半過編)をご覧いただいている方のために、上田市のHP(信州上田観光情報「岩鼻」)に掲載されている地図とGoogle Eathによる航空写真を転載しておきます。
信州上田観光情報「岩鼻」の地図
30_20210831154101
半過岩鼻と上田盆地(Google Earthより)
40googleearth

注3 山辺邦彦氏 …… 氏については、科野からの便り(十九)真田・大倉の「鉄滓」発見記 に「探索仲間の地質学者・山辺邦彦氏(「上田市史」「地質編」の編者)」と紹介されています。

注4 もう一つの理由 …… 「自然現象によるもの」でなければ「人工的なもの」と考えるのが当然です。「人工的なもの」だとすれば「何故・何のために」ということが解明できればよいわけです。論理的にはそういうことです。

注5 今迄の「科野からの便り」 …… 次の一連の論考です。
科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―2020127()
科野からの便り(20)―【速報】真田の「鉄滓」発見―20201211()
科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―20201228()
科野からの便り(22)―「真田・大倉の鉄滓」②【資料編】―202112()
科野からの便り(23)―「真田・大倉の鉄滓」③―2021122()
科野からの便り(24)―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―2021126()
科野からの便り(25)―真田・大倉編④―2021223()
科野からの便り(26)緊急版中野市南大原遺跡編②2021319()
科野からの便り(27) 「半過(はんが)」編―「科野の鉄」の論証―2021322()
科野からの便り(28)―「多元」例会での発表・編―2021425()
科野からの便り(29)―「真田の鉄」追加編―2021524()

注5 前回の「上田地質図」 …… ここに再掲しておきます。
3.「半過」地区とその周辺の地質図
Photo_20210831154401

注6 「科野からの便り(二十一)」 …… 参照すべき論考として次のものが指定されています。
「科野からのたより」(「多元の会」4月14日発表講演)―白井恒文「上田付近の条里遺構の研究」と多元史観―2019718()

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