科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―
科野からの便り(32)
―「蕨手文様瓦の発見」編―
【資料追加のお知らせ(2021/09/28)】
吉村八洲男さまから、「蕨手文様瓦の発見」報道記事と「布目瓦」の写真をお送り頂きましたので追加掲載いたします。「布目瓦」の写真は注3に追加しました。
新聞記事(「東信ジャーナル」2021年(令和3年)9月28日(火曜日)版)
【資料追加のお知らせ終わり】
先日(2021/09/15 12:03)、吉村八洲男さまから9月17日(金)に開催される「多元的古代研究会(多元の会)」の「スカイプ会議」で発表予定の内容を纏められた論考をご寄稿頂きましたので掲載いたします(公開は「スカイプ会議」での発表後としました)。
今回報告された「(国分寺関連施設以外からの)新たな蕨手文様瓦の発見」は、「(「国分寺」関連瓦とする)従来説の見直し」を改めて強く要求する衝撃的事実です。ご寄稿頂いた吉村さんの論考が提示する仮説はその要求に応える試みです。吉村さんの仮説に対して、多元の会の「スカイプ会議」ではどのような批判がでるのか、とても興味深く思っています。
なお、いつも通りのお断りですが、本文中への注記や強調・下線・朱字化やリンクの貼り付けは、私(山田)の独断によるものです(責任は山田にあります)。また、本文にはない〔子檀嶺神社・里宮の位置図(Google Earthより)〕は、発見した場所の意外性を知って頂くため、本文中に山田が勝手に挿入させて頂きました(吉村さん、ご了承願います)。はじめて読まれる方に向けて、ご存知と思われることにも注記を付しています。
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科野からの便り 第32回
「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編
上田市 吉村八洲男
1.初めに
いつもこの「ブログ」をお読み頂き感謝致します。
今回は筆者が、珍しい「蕨手(わらびて)文様瓦」を発見したご報告を中心に述べさせて頂きます。その内、話題になるやも知れませんが、まずはこの「ブログ」読者にご報告せねば、と愚考したものですから、急遽この論考作成となりました。既述した論考の繰り返しでもあり、いささか読みにくい文章になっているかとは思いますが、見つけた興奮の余韻が残る当方です。乱文は、ご寛恕下さい。
思い返すと、「蕨手文様」とは、浅からぬ因縁があります。
古代史に関する私の論考は、私が「オールド・ルーキー」、在住地が「科野の国・上田」(田舎の片隅です!)という地理もあり、どうしても身近な「考古資料」に立脚したものが多くなっていました。
そして、出会ったのが、「蕨手文様」(「瓦」ではありません)です。上田市・「真田町」で、次々と見つけたのです。
そこからの推論を幾つかに纏め、このブログや発表会で論述してきました。が、残念ながら、全く関心は持たれませんでした。無理もない事です。
このブログ「科野からの便り」にしても、初回の話題は「蕨手文様の発見」です。続いて「第七回」までが、「蕨手文様・その関連」の話題・テーマでした。私の今迄のエネルギーの多くは、このテーマに費やされて来たと言えそうです。
ですから今回、この発見を通して改めて読者の皆様からの関心を頂くことは、大変うれしい事と思えます。
私としては、「蕨手文様」「蕨手文様瓦」への様々な認定は、「古代史」への幾つかの疑問を解いてくれる事と思っています。ですからこの「瓦」は、その推測を裏付ける証拠品だとも思っています。
大切なだけに、推論などが独りよがりにならない様に、改めての注意が肝要でしょう。それには気を付けなくてはいけません。皆様もどうかご一緒にこれからの推測をご確認下さい。そして、頭の片隅にでもこれらを御記憶頂ければ幸いです。
2.「蕨手文様鐙瓦(あぶみがわら)〔注1〕」の新発見と「一元定説」
一昨日(令和3年(2021)9月7日)、長野県小県郡青木村田沢にある「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮」内にある、宮司「宮原満」氏の御自宅玄関で、「蕨手文様瓦」を見つけました。「田沢」地籍は、上田市中心部とは12~13km、国分寺とは14km程離れています。
〔子檀嶺神社・里宮の位置図(Google Earthより)〕
発見には、とにかく驚かされました。『なんでこれがここにあるのだ!!』
よく見ると、この「瓦(鐙瓦)」とセットかと思える「宇瓦(うがわら)」〔注2〕・「平瓦」もすぐ傍にありました。(これらが同時期と即断出来ませんが、私の貧しい知識でも「布目瓦」〔注3〕で「変則叩き桶巻き造り」〔注4〕かと思え、「糸切り」〔注5〕もなされていたように判断されました。これらの特徴は古式の瓦〔注6〕を示します)
それらは、「子檀嶺神社」境内で発見されたのでは無く、近くにあった「神宮寺」〔注7〕からのものと伝わっていると宮司より教えられました。よく見ると微かに「奈良前期」と書かれた文字があり、発掘などがなされた際に「記入された文字」と思え、この説明は頷けるものでした。
「神社」出品物とは断定できない、ここにある理由・事情も解らない、記憶がないという宮司に私はかえって好感を持ちました。
「蕨手文様瓦」は、とにかく貴重です。
全国でも、「上田市」と、隣接した「坂城(さかき)町」にしかありません。いわば「上田盆地内」なのです。数は5個のみ、ただその出土地(場所)ははっきりしています。
① 「国分寺・僧寺」跡
② 「国分寺・尼寺」跡
③ 「同僧寺・瓦窯」跡
④ 「込山廃寺」跡
⑤ 「土井の入り古窯」跡
* ④、⑤は、「坂城町」です*
写真を展示します。
①②は「国分寺資料館」に展示されています。
今回発見された「蕨手文様瓦」です。(中心部文様を拡大したのが「右図」です。)
全面か、文様主要部だけかは不明ですが、微かに彩色がなされた跡が窺えます(ひょっとしたら「金箔」?)。これは、今迄の「瓦」からは確認されていません。そしてこの事実は、保存が良好になされていた事を物語ると思え、なによりも往時、この「瓦」が貴重だった事を示します。(勿論、「彩色」の確定には、科学分析が必要です!)
そして、この「瓦(鐙瓦・あぶみかわら)」の直径は「19.2 cm」でした。今迄の出土品の直径は、「18 ㎝」でしたから、「青木村」が「千曲川・右岸」である事と併せ、新たなタイプ(別の窯で造られた?)と言えそうです。(今迄の5枚は、すべてが左岸からの出土)
更に、重要な事も解って来ます。それは、「国分寺」とは直接の関係がないと思える「青木村の寺」からの出土と言う事実です。今迄は、「土井の入り古窯」は「国分寺」関連瓦を焼いていたと判断された事もあり、「蕨手文様瓦」とは、「国分寺」に関係する「瓦」だと推定されていました。今回の発見からは、「そうではないのだ」と推定されるのです。
(この3項目〔注8〕の特色・見解は、今までの「蕨手瓦」からは、なされていない見解です。つまり発見により、新たに判断・推定された事となります。)
改めて写真画像で、今迄の出土「瓦」と今回の発見「瓦」とを比較して下さい。若干の差異はあっても文様の類似性から、同一の「瓦」文様・様式を持つ事が確認出来ると思います。
そしてこれらは、どう考えても「蓮華文様」の「瓦」ではありません。似ても似つかない文様です。日本の「瓦」の歴史中、類例がない文様と言えるかも知れません。
過去には、この「蕨手文様の鐙瓦(あぶみかわら)」の存在自体を疑う識者がいました。「日本の瓦編年」は、全ての「瓦」が「蓮華文様」であると言う前提の上に成り立っています(例外として「パルメット文様」〔注9〕が認められるのみ、これも「法隆寺」にあったから?)。
ですから、「蕨手文様瓦」は、「瓦」なのに「瓦」の仲間に入れてもらえないのです。
『この「瓦」は、「科野の国」上田と坂城にあったと言うが、偶然造られたもので確定したものとは言えない、これは存在さえ疑わしい「瓦」である』こう考えられてきました。
今回の発見で、それが否定されたとも思われます。地域としては3番目、上田・坂城に続いて「青木村」での発見となり、総数も6例となります。今迄のように「特殊地点(国分寺関連地)」だけからの存在ではありません。「彩色」さえされた「瓦」が、「面としての地域(上田盆地内)」中に「6点あった」と判断されるからです。
さらに、この「蕨手文様」は、「拓本」としてなら「須坂」にも残っていますから、なおさらカテゴリーとしての存在を強く主張して良いでしょう。
今回の発見から、「蕨手文様鐙瓦」が間違いなく存在していたのだと胸を張って言える事になります。この「瓦文様の分野」が確立されたものになったと思えます。
「瓦関係本」「瓦編年」には、すでに幾つかの矛盾点・疑問点が指摘されています。それも根拠ある正当な指摘ばかりです。この発見からもその基準・編年へは、大きな疑問が生じます。再考されるべきと強く思います。
3.「蕨手文様瓦」への「研究史」
郷土史家・研究者は、この独特と言える「蕨手文様瓦」に様々に挑んで来ました。
そして出された推論が、「手慰み、思い付きによるもの」「補修用に準備されたもの」「次の建築物建造前の試作品」等々です。その上、中央の学者も言いました。「これは、わずかに見られる「孤独な瓦」だ。大したものではないだろう。」
この「科野」の「蕨手文様瓦」に正面から取り組み、多大な足跡を残した研究者が郷土史家「村上和夫」氏〔注10〕と思われます。
氏の著作が、『瓦当文様の謎を追って』(1990・岩波ブックセンター)です。「国分寺・蕨手文様瓦」への追求に始まり、「瓦当」文様全般へもその考察を広げた、渾身の論考集です。
残念ながら、作者は「一元・定説歴史観」から脱却できず、「平安期」の「補修瓦」説に到るのですが、当時の「蕨手瓦」究明に際しての学問的根拠がこの書中のあちこちに残り、大変参考になります。「謎」を「謎」のまま提示してくれているのが、有難いのです。
例えば、「込山廃寺」の礎石配置が示されています(驚く事に、「国分寺尼寺」の礎石間隔と同じ!)。さらにその寺では、「蕨手文様瓦」以外の文様「瓦」が使われなかったとも書かれています。発掘に立ち会われていたのでしょう。
『(込山廃寺は)寺ならば何故に蓮華文瓦当にしなかったのでしょうか。「土井の入り」窯では単弁八葉蓮華文の鐙瓦を造っているにも拘わらず其れを避けている理由がどうしても解せないのです』
驚くなかれ「込山廃寺」では、「鐙瓦」に蓮華文は使われていないのです!(この他にも、「瓦当文様」について様々なご教示を受けました。)
定説派の「瓦」への推論は様々ですが、ここで簡単にそれらを批判して見ます。
先ず、「補修説」です。これには、すぐに反論できます。
とうてい「蓮華文」とは言えない文様(しかも彩色された)、つまり目立つ「蕨手文様瓦」が、当時の最大建造物「寺」の「瓦」補修に使われたというのです。
この説明は、あきらかにおかしいでしょう。あり得ないからです。壊れている事(場所)をわざわざ人々に教えている事にもなるからです。
「手慰み・思い付き」説も、あり得ません。
当時の「瓦」は貴重品、高価なものです。「寺」も、「文化・思想」「権力・財力」を象徴する一大建造物であったはずです。この「蕨手文瓦」は、国家を代表する「国分寺」関連からの出土が多い「瓦」です。「手慰み」で造られる筈はないと思われます。
「孤独な瓦」説はどうでしょう。
確かに、「瓦」としては「蕨手文様を持つ瓦」は僅かです。全国で、6例しかありません。全国ごまんとある「瓦」からは確かに少数派です。
しかし、「蕨手文様」は、本当に孤独だったのでしょうか。私は、そうとは言えないと思います。「瓦」としては少数派ですが、「真田」での「蕨手文様」の存在が、そうではないと言っているのです。
4.「真田」の「蕨手文様」
ここで、私の調査をご報告して見ます。(‘18・‘19の結果)
「真田町」の神社の「石祀」に残る「蕨手文様」
私の見つけ出した「真田町」集落の神社「石祀」に残る「蕨手文様」です。
「懸魚(げぎょ)」の位置図
考察;全てが「石祀」の「上図」の位置に残っていました。
神社建築「懸魚(げぎょ)」の位置です。「武器文様」、「鋸歯文様」、「不明な文様」が描かれた「石祀」もありました。「真田町」以外にも、「上田市」「東御市」「坂城町」「千曲市」にもありましたが(10社以上)、みな同じ位置でした(他にも「ある特色」が、随所に見られるかと判断された)。
「真田町」での濃厚な分布からは、共通な信仰を持ったある人々(部族か?)が古代のある時期ここへ到来し、その勢力をここから上田・「千曲川」一帯に広げた、と推定して良いだろう(以前にも進出の「歴史」があった、今回の進出は「短期」なのか)。
この人びと(部族)は、「蕨手文様(複合タイプ)」の下に信仰や生活様式が統一された人々と推定され、当然ながら「蕨手文様瓦」と無関係ではあり得ないと思われます。
この人々は、「孤独な人びと」だったのでしょうか?違うでしょうね。この文様のもと権力を持ち、「蕨手文様の瓦を持つ寺」さえ造ったのかと疑われるのです。同じ「文様」が「鐙瓦」に使われているのですから、疑問の余地はありません。
そして思います。この一族が、「上田」にも、「坂城」にも、「青木」にも「寺」を造ったのではないだろうか。そこに「蕨手文様瓦」を残したのではないだろうか。
5.「蕨手文様」のルーツ
私には、この進出者は、「九州」からの人々と断言して良いと思われます。この時期、類似の文様の集中は、九州以外には全国どこにもないからです。ハッキリ、九州から真田へやって来た人々と思われます。ですから「蕨手文様瓦」への追求とは、「蕨手文様」の追求につながります。(これからの推測をお許し下さい。)
この時期の九州で、「蕨手文」を一族のシンボルとしたある部族が浮かんできます。お解りになると思います。
この文様が、「王塚古墳」(権力者の墓)に多出しているのです、そこからの推定です。特徴ある「鋸歯文・双脚輪状文」などと一緒に、それ以上に多出しているのです。
確定された「王塚古墳」への考古判断では、頻出したこの「蕨手文様」を「4種」に分類しています(「下図」)(「描かれた黄泉の世界―王塚古墳―・柳沢一男・新泉社」に詳しい)。
4種の蕨手文様
大別すると、「『の』の字形蕨手文」と「複合蕨手文」ということです。「単独文様」だけのタイプと、組み合わさったタイプと言えるかも知れません。(真田・上田の「蕨手文様」は、「複合タイプ」です)
「蕨手文様」の由来はさまざまに考えられるのですが、「王塚古墳」に埋葬された「王者」が、「蕨手文様」をシンボルとしていた事には疑いがないと思われます。「古墳」での多出です。
そうするとある奇妙な事に、気が付きます。
この「蕨手文」を残していた、これをシンボルとしていたかと思える「古墳」の系列(集団)です。それらの古墳には、この「複合蕨手文」が描かれています。
『「蕨手文様」のある「古墳」』一覧図です(私には精密な調査が行き届きません、この図は、ネット記事を参考としています)。
この「蕨手文のある古墳」は、九州だけで200以上はあると言われる「装飾古墳」中、わずかに9例しかありません(この文様が、ある意味を持っていた?)。
そして思います、綿々とつづいたこの「蕨手文様」勢力が、「王塚古墳」の時代、一気に花開いたかと思えます。「多用」とは、一気に力を得た為かも知れないからです。そしてその力が、「科野の国」へも及んできたと思えます。
しかしこれ以上の「蕨手文様」論及・究明は、私の力量では到底及びません。この「文様」のルーツには、諸説があると思えますから、余計に追求・断言出来ないのです。
朝鮮「伽耶国王族墓」にも「蕨手文様」があると断言する人がいます。この文様が、「王族」のシンボルだというのです。
「曹操」との関連を指摘し、「ダンワラ古墳」にあったと言う「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」に残る「雲文」とは「蕨手文様」なのだと主張する人もいます。
インターネットに強い皆様には、『「蕨手文様」の(残る)古墳』と入力され、「蕨手文様」の実像を御覧ください。様々な「画像」が出ます。ご参考になるかと思います。
私も、このブログ「科野からの便り」で、いやになるほど関連事項を論考しましたね(第1回から第7回まで〔注11〕が該当します)。
どうか今迄の私の主張詳細を、「科野からの便り」(1~7回)でお確かめ下さい。そして改めてその正否をお考えいただければ、最高です。
6.「蕨手文様鐙瓦」への推測・断定
「文様」への追求には、力が及びませんが、上田人だけに、「上田盆地」の「蕨手文瓦」には言及できます。今回の発見からは、今迄の私の主張がけっこう「的を射ているか」と言えそうですから、余計に力が入ります。
「信濃国分寺資料館」展示の、「蕨手文瓦」には、次のような説明がなされています。
『これらの「瓦」類は、「国分寺」に先行する建物に使用された「初期瓦」と言われています』
この「定説」派の主張を図示すると、次のようになります。建造年の順序ということです。
① 先行建物(寺)→ ② 国分寺僧寺 → ③ 国分寺尼寺 これが新しい「〔一元史観の〕定説」です。
ただこれは、到底納得できる順序ではありません。私は、③と②を入れ替えるべきと考えています(これからの「科野からの便り」は、この論考が主となります)。
しかし、この考えにはある合理性があります。それは、②と③での「建物・寺」とは、国家権力により造られた「官寺」と言う点で、共通性があるからです。
つまり、「国府寺」であっても、「国分寺」でも、「官寺」であることに違いがないのです。「中央集権化」により生じた「中央行政体」により造られたと言えるのです。
先行した「建物」は、違います。「官寺」ではありません。それは、言わば「私寺」と言えると思えます。「部族」の寺という事です。「資料館」での説明は、そこにこの「瓦」が使われたと言う判断です。ですから「官寺」以前に使用と言う点では、私と一致するのです。
結論として、「蕨手文様瓦」とは、「官寺」である「国分寺」創建以前の、「私寺」に使われた「瓦」だったのではないでしょうか。「蕨手文様」をシンボル(神紋)とした部族の造った寺に使われた「文様瓦」だったのではないでしょうか。私は、そう思います。
だから、彼らが支配地とした「上田盆地」内の「寺」に使われたのではないでしょうか。「蓮華文様」使用以前の文様で、「九州から続く一族の」文様という事になります。
「瓦と文様の歴史」「仏教布教史」などとも関係しますし、なによりも、上田では、3世代にわたって「寺」が建造されてきた「歴史」がある事を証明しなくてはいけません。
立証は難しい事でしょうが、私はそう信じています。「蕨手文様瓦」は、「官寺」以前の「私寺」に使われた「鐙瓦」だったのです!
「私寺」での使用を窺わせる、ある事実があります。
今迄は、だれにも見向きもされませんが、驚くべき「瓦」が、「込山廃寺」にはあるのです。
写真(「込山廃寺」出土の「人面瓦当(鐙瓦)」(信濃国分寺資料館の説明))
御覧ください、非常に珍しい「瓦」と思います。(ひょっとしたら国内唯一?)「円形」で「圏文」からも、「鐙瓦」と解ります。「人の顔」をデザインしたものとも解ります。「獣面文様鐙瓦」の存在が、朝鮮出土として報告されていますが、それと比較しても珍しい物と解ります(同じ流れとは思えます)。
「資料館」では、「人面瓦当(鐙瓦)」と説明され、それ以上には論及されていません。出来ないのかも知れません(「蕨手文様瓦」が辿った運命と、同じ道?)。「込山廃寺」には、この二つの「鐙瓦」だけがあったと解ります。
私は、「寺」を作成した権力者をかたどったもの、「鬼瓦」のルーツとさえ思えるのですが、それへの論考は別として、この「瓦」の存在が私を支持すると判断しました。
こう考えられるからです。
上田の「私寺」には、その「寺」を作成した部族の「神紋・象徴」として、「蕨手文様瓦」がありました。
同様に、「寺」を造成した部族の主(最高権力者)に似せて(かたどって)作られたのが、この「人面瓦当」ではないでしょうか。
貴重な建造物であり「文化・思想」の中心である「寺」には、建造した「一族」の紋章(神文)と、「一族」の権力者の「顔」とを、「鐙瓦」に残したのではないでしょうか?
こうして「蕨手文様瓦」と「人面瓦」との二種類が「込山廃寺」に使われたと思います。そして発掘時、この理由からこの2種類の「鐙瓦」しか「込山廃寺」に残らなかったのだと思います。
7.終わりに
「蕨手文様」と「蕨手文様瓦」との関連を再確認しておきましょう。(向きなどが変えてある「図」もあります)
私には、「九州」からの伝来(到達)には疑いがないように見えます。
となると、「石祀」や「瓦」として、言わば完成形としてここで使用されたのには、ある特別の意味があるからとも考えられるのです。
それは、この「文様」が、「九州」でどう生まれ、どう使われていたかの研究なくては言えない事ですが、この「文様」が、「科野」で一気に花開いたように見えるのです。
「王塚古墳」からそれが始まった様にも見えるのです。
これ以上は、「妄想」どっぷりの世界、となります。言わぬが華、でしょう。
でもこれだけの「考古」材料が残っているのです。改めての「蕨手文様・瓦」への確認がどうしても必要なのだと私には思われるのです。
さて、いつもの事ながら長くなってしまいました。お付き合い頂き、ありがとうございました。
(終)
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注1 鐙瓦(あぶみがわら) …… 「鐙瓦」とは、「軒丸瓦(のきまるがわら)」のことで、「本瓦葺(ほんがわらぶき)※」において、軒先に置かれる丸瓦に文様などで装飾が施してある「瓦当(円板)」をつけた瓦です。(上下を反転させた形が)馬具の鐙に似ているのでこのようにも呼ばれています。
※「本瓦葺」とは、「平瓦(ひらがわら)」(「女瓦・牝瓦(めがわら)」ともいいます)と「丸瓦(まるがわら)」(「男瓦・牡瓦(おがわら)」とも)を交互に並べた屋根の葺き方(「本葺(ほんぶき)」とも)。また、その屋根をいいます。
平瓦・丸瓦・軒平瓦・軒丸瓦(Wikipedia「日本の古瓦」より)
軒丸瓦の瓦当部分の名称(Wikipedia「日本の古瓦」より)
丸瓦には継ぎ目部分に段差(この部位を玉縁(たまぶち)という)がある玉縁式(たまぶちしき、有段式ともいう)と、段差がない行基式(ぎょうきしき、無段式ともいう)がある。(Wikipedia「日本の古瓦」より抜粋)玉縁式が古式で、行基式が新式です。
元興寺の屋根にみる玉縁式と行基式(Wikipedia「日本の古瓦」より)
注2 「宇瓦(うがわら)」 …… 「宇瓦」とは、「軒平瓦(のきひらがわら)」のことで、「本瓦葺」において、軒先に置かれる平瓦に文様などで装飾が施してある「瓦当」をつけた瓦です。文様に唐草(からくさ)が多く用いられるので「唐草瓦」ともいいます。
注3 「布目瓦」 …… 「布目瓦(ぬのめがわら)」は、円筒あるいは凸面の台の上に布をかぶせ、その上に粘土を張りつけて外側から叩いて造ったために布目がついた瓦です。軒平瓦・平瓦には上面に、軒丸瓦・丸瓦では下面(湾曲した内面)に布目がつきます。
微かに「奈良前期」と書かれた文字がある「布目瓦」(「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮」の宮司「宮原満」氏所蔵 )
注4 「変則叩き桶巻き造り」 ……
「桶巻き造り」による平瓦の製法は次の手順で行います。
①足でこねた粘土のブロックを積みながら足で踏みしめて大きなブロックにします(瓦造りに使う粘土の下ごしらえ)。
②桶に粘土をくっつけるための麻布をかぶせて(瓦衣輪鉄などで)布を固定します。
③粘土の大きなブロックから切り出した板状の粘土を巻きます(大きなブロックから粘土を糸や縄を使って板状に切り出す(「糸切り」)とその跡が残ります)。
④縄などを巻いた棒で、粘土を叩きしめて成形します。
⑤桶を折りたたんで抜きます。
⑥粘土が自立できるまで少し乾燥させてから4等分します。
⑦これを窯で焼くと平瓦の完成です。
「粘土巻造り」による丸瓦の製法は次の手順で行います。
①足でこねた上質の粘土を紐状にします。
②杵(きね)に似た型に麻布をかぶせて、固定します。
③紐状にした粘土を、麻布をかぶせた型に巻きつけます。
④紐を巻きつけた板で叩きしめて粘土を整形します。
⑤杵型を抜きます。
⑥成形した粘土が自立できるまで少し乾燥させてから2等分します。
⑦これを窯で焼くと丸瓦の完成です。
詳しくは山本工業「古代瓦づくり」をご覧ください。
「変則叩き」とは、吉村さんに問い合わせたところ、上記の手順④で用いた縄や格子状の紐の痕跡がない瓦の叩き方とのことです。縄や格子状の紐の痕跡が残る瓦よりも古い技法で造られた瓦とされています。
注5 「糸切り」 …… 少し乾燥した粘土を厚みがある包丁や刀などで切ると形が崩れます。「桶巻き造り」では、少し乾燥した粘土を形を崩さず分割するために、糸を鋸のように使って粘土を切っているのです(現在の陶芸でも轆轤から剥がすのに糸を用いています)。時代が降ると、平瓦の製法は、凸型に湾曲した台の上全体に布を敷き、そこに載せた粘土を縄などを巻いた板で叩いて整形する「一枚作り」と言われる方法になります(糸で分割する必要がありません)。
注6 これらの特徴は古式の瓦 …… 「これら」とは、平瓦の製法として「桶巻き造り」と「変則叩き」の技法を用いていることです(上記注4をご参照ください)。
注7 「神宮寺」 …… 神宮寺とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院ともいう。(Wikipedia「神宮寺」より抜粋)
Wikipediaは「神社に附属して建てられた」としていますが、明治政府の扇動した「廃仏毀釈」によって多くの神宮寺は破壊あるいは神社の付属的施設にされたが、もとは神社と寺院が複合した領域でした(八幡大菩薩:宇佐八幡宮(弥勒寺)・石清水八幡宮寺・鶴岡八幡宮寺、金刀比羅宮(金毘羅大権現)など)。
注8 この3項目 …… (1)彩色された(金箔?)と見られる痕跡があること、(2)出土した従来品(18 ㎝)より直径が大きい(19.2 cm)こと、(3)伝出土地が従来(千曲川左岸の「国分寺」関連地)とは異なる所(千曲川右岸にある「青木村の寺」)であること。
一部の専門家が「蕨手文様」に対して「稚拙」だとする見解について、私(山田)は次のブログで批判を行いましたが、この(2)で大きさが異なっていても同じ文様(pattern)になっている事実によって、私の批判が正しかったことが裏付けられました。
科野の「蕨手文様」考 ―聖武国分寺以前の鐙瓦の瓦当文様-(2017年7月 2日(日))
なお、今回の紹介を機に、上記ブログ記事の写真を鮮明なものに差し替えるとともに、出典(資料)へのリンクを貼りました(文章はもとのままです)。
注9 「パルメット文様」 …… パルメット文様とは、扇状に広がった棗椰子(なつめやし)の葉を図案化したものです。従来は、間違って「忍冬文(にんどうもん)」と呼ばれていました。また、「唐草文(からくさもん)(唐草文様(からくさもんよう)とも)」とは、葉や茎、または蔓植物が伸びたり絡んだりした形を図案化した植物文様の、日本での呼称です(唐草という植物はない)。泥棒が背負っている木綿大風呂敷の文様(下図)が「唐草文」です(笑)。
なお、「若草伽藍」(焼亡「法隆寺」(『日本書紀』)、私見では「鵤大寺」(法隆寺「観音像造像記(銅板)」の銘文))から出土した「パルメット唐草文」がついた軒平瓦からは、この時期には中国大陸でも朝鮮半島でもまだ瓦当に文様が無かったということが事実ならば、文様のついた軒平瓦は倭国が起源ということになります。
若草伽藍出土の「パルメット唐草文」がついた軒平瓦
パルメットやパルメット唐草文のことを、忍冬文や忍冬唐草文と呼びならわしている。パルメットはもともと扇状に広がった棗椰子の葉が図案化されたものであるが、これに植物の茎や蔓による唐草文が結びついてパルメット唐草文となった。飛鳥時代の資料に見られるこうした文様を忍冬唐草文と呼ぶのは、その形が忍冬(すいかずら)に似ているところから名付けられたものである。厳密には忍冬、忍冬唐草文の名称は誤りであるが、すでに定着している用語なので本書でも使用している。(森郁夫 著『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社、平成二十六年)の注(P.33)より抜粋)
注10 郷土史家「村上和夫」氏 …… 本文で紹介されている著書の他、次の著書がある(外にもあるかもしれない)。
『中國古代瓦當文様の研究』(岩波ブックサービスセンター、平成2年刊)
『私の郷土史研究』(岩波ブックサービスセンター、平成2年刊)
注11 第1回から第7回まで …… 次のブログ記事に掲載された論考です。
科野からの便り(7) 真田(「科野の国」)の「蕨手文様」 2019.12.30
「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編 2019.12.07
「科野からの便り」真田編(五) 2019.11.01
「科野からの便り」真田編(四)曹操墓から出土した蕨手文 2019.09.25
「科野からの便り」真田編(三) 2019.09.19
「科野からの便り」真田編(二) 2019.08.12
「科野からの便り」真田編(一) 2019.07.05
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