「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた
―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―[多元的「国分寺」研究]
これは、2017年1月10日(火)に多元的「国分寺」研究サークルに掲載された論考「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―の当ブログへの再掲です。
なお、再掲にあたり、改行、字下げ、文字の強調や大きさを変えるなどの体裁についてはブログ用に整えています(割注を加えた以外、文章はそのままです)。また、文献や参照を勧めた論考にはでき得る限りリンクを貼りました。
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「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた
―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―
はじめに
森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記しているように、「国分寺式」とされる国分寺遺跡は、その伽藍配置が一致していない。学術用語の伽藍様式はその伽藍配置を一意に描くことができる。しかし、「国分寺式(伽藍配置)」は一意に描くことができない。よって、現在使われている「国分寺式(伽藍配置)」という言葉は「学術用語」ではない。
本稿は、諸国国分寺遺跡の伽藍配置状況から共通しているところを抽出して「国分寺式(伽藍様式)」を定める従来の方法論は誤っていることを指摘し、『国分二寺図』の僧寺伽藍配置を指して「国分寺式(伽藍配置)」と言うべきことを明らかにした上で、作業仮説として、真の「国分寺式(伽藍配置)」である『国分二寺図』の僧寺伽藍配置を具体的に提示する。
なお、本稿は現実の国分寺遺跡がどのような状態であるか調べ上げずに、聖武詔勅(七重塔を建てよ)、「周忌御斎」を行ったのが東大寺と26ヶ国の国分寺という事実、「総国分寺」東大寺の竣工、「頒下国分二寺図」によって、推測と推論によって「国分寺式伽藍配置」を立論しようとする試みなので、実証的なことはほとんどないことをあらかじめお断りしておく。具体的な国分寺遺跡との関わりは、東大寺とそこから抽出した「国分二寺図」の僧寺伽藍配置という作業仮説に基づいた諸国国分寺の伽藍配置の検索作業、その検索結果として発見した播磨国分寺遺跡くらいである。だからと言って、「ああも言えれば、こうも言える」というものでもないと自負してはいるが、読者の判断は私の自負とは異なるかもしれない。
一意に描ける伽藍様式
学術的定義がされていれば「〇〇寺式(伽藍様式)」の伽藍配置は一意に描ける。
「回廊」は、中枢伽藍(基本的には塔・金堂)を囲って「内郭区画」を定める。回廊ではなく塀で内郭区画を囲うこともある。内郭区画内に入るための入口が「中門(inner gate)」と呼ばれ、回廊は必ず中門の左右から出る。「回廊が〇〇(金堂や講堂などの伽藍)に取り付く」と書かれない場合は、内郭区画を定める回廊に入口(中門)をつけただけで、回廊は中門から出て内郭区画を一周してそのまま中門に戻る。
内郭区画の外側に伽藍地(中枢伽藍以外の伽藍も含む敷地)を囲う「外郭区画」があり、外郭区画の入口は南につけるので「南大門または南門(outer gate)」と呼ぶ。南大門に加えて他の方位にも外郭区画の入口を設けることもある。伽藍地の外側に「寺地(寺の土地)」をもっていることもある。
以上を前提として、伽藍配置を一意に描ける伽藍様式は次のように記述される。下記以外にもあるが、どのように伽藍様式が記述されるのか、その例として掲げている。
飛鳥寺式:回廊内に塔を中心に塔に向いた三金堂(東金堂、中金堂、西金堂)を置く。
山田寺式:縦型の回廊内に北に金堂、南に塔を置く。
法隆寺式:横型の回廊内に東に南面する金堂、西に塔を置く。
四天王寺式:縦型の回廊内に北に金堂、南に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
法起寺式:横型の回廊内に西に南面する金堂、東に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
観世音寺式:横型の回廊内に西に東面する金堂、東に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
大官大寺式:回廊内に北から講堂、金堂、双塔を置き、中央廻廊が金堂の両妻に取り付く。
薬師寺式:回廊の中央に金堂、南両隅に双塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
東大寺式:回廊は金堂に取り付き、講堂は回廊外に置き、双塔を中門と南大門の間に置く。
大安寺式:回廊は金堂に取り付き、講堂は回廊外に置き、双塔を南大門の外に置く。
“川原寺式”:観世音寺式の講堂の位置に中金堂を置き、その北の講堂を(僧坊院のような)広い回廊状のもので囲う。〔脚注1〕
「一意に描ける伽藍配置」の判断基準
一意に描ける伽藍配置は、次のような客観的基準に依拠して判別される。
(1)回廊内の置かれた伽藍は何か。回廊が中門以外に繋がっている場合は「回廊は〇〇の△△に取り付く」と表現される。伽藍は基本的には南から、南大門、中門、金堂、講堂、僧坊(尼坊)の順に並ぶので、回廊がどの伽藍に取り付いているかで、回廊内に置かれている伽藍が定まる。
(2)伽藍配置の型(縦・横)。
内郭区画内に金堂・塔が存在する古式寺院はこの伽藍配置の型が回廊に反映される。
(3)塔や金堂の個数。
(4)伽藍正面の向き(東西南北)。
(5)塔の位置(東西と南北)。
金堂(中軸線)、中門(内郭区画)、南大門(外郭区画)との塔の位置関係が明示される。塔が金堂(中軸線)の東西のどちらにあるか。塔は金堂以南に置かれるので、南北に関しては、中門の北に塔があれば回廊(内郭区画)の内で、中門の南に塔があれば回廊(内郭区画)の外で、南大門の南に塔があれば外郭区画の外となる。
塔の位置(南北)を具体的に場合分けすれば、例外で異常な⑤を除いて、次の①~④の四通りが原則である。
①中門の北で金堂と並ぶ(内郭区画内)。
②中門の北で金堂との間(内郭区画内)。
③中門の南で南大門との間(内郭区画外で外郭区間内)。
④南大門の南(外郭区画外)。
⑤塔が中門の北でありながら回廊外(内郭区画外で外郭区間内)。
塔が中門の北で回廊(内郭区画)内にある①と②は「古式」寺院である。
塔が中門の南で回廊(内郭区画)外にある③と④は「新式」寺院である。
塔が中門の北で回廊(内郭区画)外にある⑤は、「古式」を「新式」に改造したものである。
塔を中門の南で回廊(内郭区画)外に置こうとしても、古式寺院なので中門と南大門の間が狭く塔を置く余地がないことから、塔を中門の北に置かざるを得なかったのだ。
このように、伽藍配置が描ける学術的伽藍様式の判断基準は客観的なものである。
森郁夫氏が「国分寺の伽藍配置は一定していない」というのは、「国分寺式」と称する伽藍配置は、一つに定まっていないということだ。
横行する自称「国分寺式」
ほんの一例として信濃国分寺をWikipediaから引用する。信濃国分寺をやり玉にあげているのではない。単なる一例として示しているだけで、他意はない。
「信濃国分寺跡
国分寺(僧寺)跡は現国分寺の南方に位置する。寺域は東西176.56メートル、南北178.05メートル(約100間四方)。金堂、講堂、中門、塔、回廊、僧房の跡が確認され、南大門の位置も推定されている。伽藍配置は中門、金堂、講堂を南北一直線に配置し、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。塔は回廊外の南東にあった[6]。」〔この注[6]は「現地説明板」と記されている。ゴチック(字体)は山田によるもの。〕
こちらは、信濃国分寺資料館ホームページ(museum.umic.ueda.nagano.jp)の「信濃国分寺史跡公園ガイド」で同じ信濃国分寺跡だ。
「伽藍配置は、中門・金堂・講堂が南北一直線にならび、中門と講堂を回廊でつなぎ、さらに、塔を金堂の南東に置く、東大寺(国分寺)式といわれる様式です。」
現地説明板の説明の方は、信濃国分寺が東大寺式かどうか以前に、「東大寺式」の認識に誤りがある。東大寺の回廊は金堂(大仏殿)に取り付いており、講堂ではない。回廊内には伽藍はなく〔脚注2〕、信濃国分寺の回廊内には金堂が存在する。それとも東大寺の金堂に取り付いている回廊を藤原京大官大寺の中央回廊に見立てているのか。藤原京大官大寺の金堂に取り付く回廊が「中央回廊」と言われるのは、中央回廊の北側の回廊内に講堂が南側の回廊内には塔が存在するからだ。東大寺の金堂の北側回廊内はとても狭くて(金堂裏に沿って巡っているもので)「庭」と呼べるほどの余地はない。また、東大寺の講堂は、その北側回廊の外にあり、先に述べたように中門から出た回廊は講堂には取り付いていない。信濃国分寺を「東大寺式」とすれば東大寺は東大寺式ではないことになる。
もう一方の資料館の説明文には「東大寺(国分寺)式」とある。異なる様式を「法隆寺(四天王寺)式」などとは書けないので、「東大寺式=国分寺式」という認識なのだ。現地説明板の「東大寺式」という説明の誤りは既に指摘したので、ここでは資料館の説明の方の「東大寺(国分寺)式」が「自称」である点を指摘する。「東大寺(国分寺)式といわれる様式」とあり、「東大寺式=国分寺式」が“通説・定説”であるとの認識で、「東大寺式=国分寺式」としているようだ。
森郁夫氏が「国分寺の伽藍配置は一定していない」と言うように、資料館の認識している「東大寺(国分寺)式」とは異なる、中門から出た回廊が金堂に取り付き、塔は東西どこでも良いとする“典型的”「国分寺式伽藍配置」(斎藤忠『日本古代遺跡の研究 総説』)〔塔は中門より北の回廊外に配する、回廊は正方形に近い〕といわれる「国分寺式」がある。
どちらが「東大寺(国分寺)式」なのか。「『国分寺式』という伽藍配置は諸説ある」という話なら、それぞれが称する「国分寺式」は「(私の説、または、私が支持する説では)国分寺式」ということであり、これは「自称」にほかならない。
従来説については、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-7)と題して、九州王朝と国府寺の関係、国府と国府付属寺院の位置関係、伽藍形式と国府の位置関係なども含めて、川瀬さんが詳しく説明している。是非ご覧いただきたい。
このように、信濃国分寺を一例としてあげたが、いわゆる「国分寺式」が“厳密な定義のない伽藍様式”なので、多くの国分寺遺跡の説明が「国分寺式」や「東大寺(国分寺)式」を都合よく自称しているのがいわゆる「国分寺式(伽藍配置)」と称される“伽藍様式”なのだ。
互いに全く異なる「伽藍様式」を「国分寺式」と主張していながら論争もせず結論もださずに、「(自称)国分寺式」を数多横行させている、これが現在の学界の状況である。
伽藍様式としての「国分寺式(伽藍配置)」に定説がないのは、国分寺遺跡の伽藍配置が一定していないことを反映している。
諸国国分寺の伽藍配置が定まっていない原因は、
① 通説で「国分寺建立の詔」とされている聖武天皇の詔は、実は「七重塔一区を建てよ」であり、「寺院を建てよ」ではなかった。
② その詔の18年後に、寺院を新造する場合の基本計画図(『国分二寺図』)が配られた。
③ 詔(①)と『国分二寺図』(②)に対して、諸国の取り組み状況が異なった。
以上の三点に求められる。
この三点を考察する前に、七重塔建立詔から国分二寺図頒下の前後にわたる年表を確認しておこう。
国分寺関連年表
710年(和銅三年) 平城京遷都(奈良時代の始点)。
724年(神亀元年) 聖武天皇が即位。
741年(天平十三年)3/24 聖武天皇の詔〔「七重塔」を建てよ、「寺」を建てよではない〕。
745年(天平十七年) 東大寺大仏制作開始。
746年(天平十八年) 恭仁京政庁建物を山城国分寺の堂塔に転用。
749年(天平勝宝元年)孝謙天皇即位。
752年(天平勝宝四年) 東大寺大仏開眼供養。
756年(天平勝宝八年)5/2 聖武太上天皇崩御。
同年 12月20日 太上天皇の一周忌斎会用幡・綱が26ヶ国の国分寺に配られた。
757年(天平宝字元年)5/2 太上天皇(聖武天皇)一周忌斎会東大寺以下26ヶ国で開催。
758年(天平宝字二年) 東大寺竣工。
759年(天平宝字三年)11/9 国分二寺図、諸国に配られる。〔はじめて寺の図面が配られた〕
760年(天平宝字四年)光明皇太后崩御
770年(宝亀元年) 孝謙天皇崩御。道鏡、下野薬師寺に左遷。
上記年表から次の事実が確認できる。
(a)741年の七重塔建立の詔から、759年に「国分二寺図」が頒下されるまで18年間ある。
(b)757年の太上天皇(聖武)「周忌御斎」を行ったのは東大寺と26ヶ国の国分寺。
(c)759年(「総国分寺」東大寺が竣工した翌年)に「国分二寺図」が配られた。
「国分寺建立の詔」ではなかった
『続日本紀』(朝日新聞本)の聖武詔勅の原文を次に掲げる。
《天平十三年(七四一)三月乙巳【廿四】》○乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主、皆能先業。国泰人楽。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者、年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯労罪己。是以、広為蒼生、遍求景福。故前年、馳駅増飾天下神宮。去歳、普令天下造釈迦牟尼仏尊像、高一丈六尺者、各一鋪。并写大般若経各一部。自今春已来。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃、徴誠啓願。霊〓[貝+兄]如答。載惶載懼、無以自寧。案経云。若有国土講宣読誦。恭敬供養。流通此経王者。我等四王。常来擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歓喜者。宜令天下諸国各令敬造七重塔一区。并写金光明最勝王経。妙法蓮華経各一部。朕、又別擬、写金字金光明最勝王経。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒満。其造塔之寺。兼為国華。必択好処。実可長久。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲労衆帰集。国司等、各宜務存厳飾。兼尽潔清。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎国僧寺。施封五十戸。水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名為法華滅罪之寺。両寺相共、宜受教戒。若有闕者。即須補満。其僧尼。毎月八日。必応転読最勝王経。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六斎日。公私不得漁猟殺生。国司等宜恒加検校。
このとおり、国分寺(寺院)を建てよという文言はどこにも無く、七重塔を建てて(「敬造七重塔一区」)、金光明最勝王経と妙法蓮華経各一部(「金光明最勝王経。妙法蓮華経各一部」)を配ってその塔に置かせる(「毎塔各令置一部」)ための詔である。「国分寺」の名称は、「諸国に金光明最勝王経と妙法蓮華経を分け与えた寺」に由来している。
この詔については、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-6)と題して、七重塔を建てる寺院として既に国府ごとに「国府付属寺院」(国府寺)が建てられており、七重塔を建てる場所として指定された僧寺とはこの「国府付属寺院」であった可能性が高いことなど、川瀬さんが詳しく説明している。是非ご覧いただきたい。
詔への諸国の異なる対応
諸国の聖武天皇詔に対する対応は異なり、次のように分かれる。
A群:ただちに七重塔の建立に着手した国。
B群:何らかの事情で七重塔の建立の着手が遅れた国。
C群:何らかの事情で七重塔の建立に着手していなかった国。
757年(天平宝字元年)の「太上天皇周忌御斎」(聖武天皇の一周忌斎会)を行えるまでに整った国分寺は26ヶ国となっており、諸国の数を66ヶ国と仮定すると残りの40ヶ国(6割以上)は塔が完成していなかった事実がある。この26ヶ国がただちに七重塔の建立に着手した国(A群)である。残りの40か国がB群とC群で、着手していない国もあったと考えられ、これがC群である。今はB群とC群を分けることはできない。
「周忌御斎」に使う飾り物を配られた26ヶ国に関する『続日本紀』(朝日新聞本)の原文を次に掲げる。
《天平勝宝八歳(七五六)十二月己亥【二十】》○己亥。越後。丹波。丹後。但馬。因幡。伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安芸。周防。長門。紀伊。阿波。讃岐。伊予。土左。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六国。国別頒下灌頂幡一具。道場幡〓九首。緋綱二条。以充周忌御斎荘飾。用了、収置金光明寺。永為寺物。随事出用之。
さらに、この26ヶ国は、山陰道・山陽道・南海道・西海道の諸国で、例外は北陸道の越後国分寺だけという地域的偏りがあることも注目される。地域的に偏った26ヶ国の国分寺については、川瀬論文、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-9①~②)を参照してもらいたい。この26ヶ国の国分寺遺跡が改造・転用されたものかどうか、川瀬さんが詳しく検討されているので、是非ご覧いただきたい。
国分寺式伽藍配置図は諸国に配られた
『続日本紀』(朝日新聞本)の原文を次に掲げる。
《天平宝字三年(七五九)十一月辛未【九】》○辛未。勅坂東八国。陸奥国若有急速、索援軍者。国別差発二千已下兵。択国司精幹者一人。押領速相救援。」頒下国分二寺図於天下諸国。
このように「頒下国分二寺図於天下諸国」とあり、天平宝字三年(759年)11月9日に七重塔の描かれた国分寺(僧寺・尼寺)の「国分二寺図」が諸国に配られている。「二寺図」とあるので、少なくとも七重塔を含む僧寺・尼寺の伽藍配置図が描かれた基本図(マスタープラン)であるとせねばならない。詔から18年経てから伽藍配置が描かれた国分寺の図面が初めて配られたのである。〔脚注3〕〔脚注4〕
「国分二寺図」への諸国の対応
配られた「国分二寺図」を諸国側から見てみよう。先に国分寺をA、B、Cの三群にわけたが、「太上天皇(聖武)周忌御斎」に間に合った26ヶ国の国分寺がA群である。A群の26ヶ国は、「国分二寺図」にする対応で区分するとさらに次の3群に分けられる。
A1.「周忌御斎」を行った寺院と別に、「国分二寺図」通りの「国分寺」を新たに建立する。
A2.「周忌御斎」を行った寺院を「国分二寺図」に合わせて改造を試みる(改造後の完成度は別問題)。
A3. 七重塔を建てた寺院で「周忌斎会」も済ませているので何もしない。
A1.について考える。律令国家の諸国は、現代で例えれば「地方自治体」で地方自治体は地方自治体としての予算がある。予算を考慮すればA1.という対応は考えにくいし、また、「周忌御斎」を済ませた「国分寺」であるから、新造したら国分寺を付け替える手続き(申請と承認)をせねばならない。予算を無駄遣いしてまでそうしなければならない理由は全くないのだから、A1.という対応はなかったと考える。そうまでしなければならなかったと考えるなら、諸国国分寺は皆そうしなければならなかったはずで、そうならば「国分寺の伽藍配置は一定していない」(森郁夫氏)という状況にはならなかったはずである。諸国国分寺がそうしなかったことによって起きている遺跡状況があるのに、A1.という対応をした国があったかもしれないと反論するなら、26ヶ国うちのある国が「周忌御斎」を行った国分寺とは別に新たに国分寺を新造して「国分寺」を付け替える手続きをしたことを立証していただけば良い。挙証責任は反論する側にある。
A2.について考える。国分寺を付け替える手続きは不要であるが、すでに「周忌御斎」を済ませた「国分寺」であるから、A1.と同様に予算を考慮すれば、そこまでしなければならない理由はない。A2.を行った国は皆無だと断言できないだけで、A2.という対応もなかったと考える。とすれば、26ヶ国の諸国は皆A3.という対応をしたに違いない。A2.という対応があったかもしれないという反論は、A1.同様で、挙証責任は反論する側にある。
以上から、26ヶ国の国分寺は既存寺院(おそらく「国府付属寺院」)を改造して七重塔を建てたことが容易に見て取れるものと予想される。26ヶ国の国分寺の遺跡状況についてこの予想が当を得ているかいないかは26ヶ国の国分寺を検討した前掲川瀬論文★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-9①~②)を参照して確認されたい。古式伽藍をどのように改造できるかについては、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-8)で川瀬さんが詳しく考察しているので、是非ご覧いただきたい。
次に、26ヶ国以外の(6割以上の40か国、B群とC群からなる)国分寺を考察してみよう。図面が届いた時の対応状況で場合分ける試みであるが、その前にB群とC群では対応が異なることを確認しておこう。B群は、「周忌御斎」に間に合わなかったが七重塔の建立に着手している。C群は七重塔の建立に未着手である。
B群は「国分二寺図」が頒下された時点で七重塔の建立に着手済である。塔基壇などが完成して心礎も既に据えてあったかもしれないし、もっと進捗していて七重塔の何層までかでき上っていたかもしれない。これはご愁傷さまではあるが、「二寺図」への対応はごく限られる。建立過程中の七重塔を放棄して図面通りの国分寺を新造するという選択肢は予算の無駄遣いとなるのでまずない。そう考えると、次の二通りである。
B1.七重塔を完成させて、伽藍を「国分二寺図」に似せて改造(偽装)する。
B2.七重塔を完成させて、それ以上の改造は行わない(「周忌御斎」を行わなかったことを除外すれば、A3.と遺跡状況は同じになる)。
C群は、次の三通りの対応に分けられる。
C1.「国分二寺図」の伽藍配置の通りの国分寺を新造する(「国分二寺図」通りにできる)。
C2.既存寺院を改造して「国分二寺図」の寺院に偽装する(「国分二寺図」通りにはならない)。
C3.何らかの事情で国分寺(「国分二寺図」も無視)は造営しない(「国分寺」が存在しない)。
26ヶ国以外の国分寺に「国分二寺図」通りの国分寺が存在する可能性がある。
C1.に注目してもらいたい。26ヶ国以外の40ヶ国(66ヶ国と仮定しているが数は問題ではない)の国分寺のなかに「国分二寺図」通りの国分寺が存在する可能性がある、このことである。
諸国の国分寺を総括すると、国分寺は次のα群、β群、γ群の三通りがあることになる。
α群:既存寺院に七重塔を建てたことが明白な国分寺。
A3.七重塔を建てた寺院で「周忌斎会」も済ませているので何もしなかった国分寺。
B2.七重塔を完成させて、それ以上の改造は行わなかった国分寺。
α群は、「改造国分寺式」を堂々と名乗れる国分寺である。
β群:既存寺院に七重塔を建てた上に、さらに「国分二寺図」に似せて改造した国分寺(似てはいるが一定はしない国分寺が多数出現する)。
A2.「周忌御斎」を行った寺院を「国分二寺図」に似せて改造した国分寺。
B1.七重塔を完成させて、伽藍を「国分二寺図」に似せて改造した国分寺。
C2.既存寺院を改造して「国分二寺図」の寺院に似せて改造した国分寺。
β群は、「偽装国分寺式」と呼ばれたくない国分寺である。
γ群:「国分二寺図」通りに造営された国分寺。完全な新造国分寺。
C1.「国分二寺図」の伽藍配置の通りの国分寺を新造する(「国分二寺図」通りにできる)。
A1.「周忌御斎」を行った寺院とは別な「国分二寺図」通りの「国分寺」を新たに建立する(この可能性は頭の中だけに存在し、現実にはありえない)。
γ群は、唯一「国分寺式」を名乗れる、いや、名乗るべき国分寺である。
δ群:国分寺が存在しない(可能性は薄いので、今はとりあえず0ヶ国としておく)。
C3.何らかの事情で国分寺(「国分二寺図」も無視)は造営しない(「国分寺」が存在しない)。
よって、国分寺の数は、諸国の数を66と仮定すると、
α群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数+γ群(「新造国分寺」)の数=66
となる。
従来の方法論の誤り
天平十三年(741)聖武天皇の詔(「七重塔一区を建てよ」)から、二寺(金光明最勝王経護国之寺、法華滅罪之寺)の「国分二寺図」(国分二寺のマスタープラン)が配られた天平宝字三年(759)11月9日「頒下国分二寺図於天下諸国」(『続日本紀』)まで18年間あり、諸国では天平宝字元年(756)12月20日までに七重塔を建て伽藍を整備した国(26ヶ国)もあれば、「七重塔」が完成できていなかった国(40ヶ国)もあった。
七重塔を完成し伽藍を整備できた国(26ヶ国)でも、まだ「国分二寺図」(国分二寺のマスタープラン)は配られていないから、既存寺院を転用・改造した国の伽藍配置がそろうはずはなく、新たに伽藍を新造したと仮定しても「国分二寺図」は配られていないので、伽藍配置がそろうはずがない。
「国分二寺図」が頒下された時点で、そのマスタープランに従って寺院を新造できた国は、その時点でまだ「七重塔の造営に未着手であった国」しかない。「七重塔の造営に未着手であった国」が40ヶ国の多数であるならその40ヶ国の多数の国の国分寺はマスタープラン通りに出来上がり、「国分寺式伽藍配置」の学界の混迷ぶりも生じないので、「国分二寺図」通りに新造された国分寺はごく少数だった(が存在する可能性は否定できない)とするしかない。
α群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数+γ群(「新造国分寺」)の数=66 から、γ群がごく少数ならα群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数が大多数となる。この大多数(「改造国分寺」と「偽装国分寺」の合計)の伽藍配置から様式(「共通して認められる一定の在り方」)を抽出しようという方法論は全く誤っているといえる。
「国分二寺図」の伽藍配置だけが「国分寺式(伽藍配置)」
この状況の中で何をもって伽藍様式「国分寺式(伽藍配置)」とするか。「国分二寺図」の僧寺伽藍配置こそ(だけ)が「国分寺式(伽藍配置)」である。これが本稿の主張の眼目である。
私の作業仮説の前提は、次の通り。
(1)基本計画図(マスタープラン)は配られた(「頒下国分二寺図」『続日本紀』)。
「そんなものは配られなかった」と主張する方は、それを証明されたい。
(2)マスタープランに「七重塔」は描かれてあった(塔だけではないが)。
「七重塔を建てよ」との詔だったから「七重塔」がない基本計画図などあり得ない。
(3)マスタープランが配られる前に七重塔を完成し「周忌御斎」を執り行った国分寺がマスタープランと一致していることなどあり得ない。
(4)配られたのは「周忌御斎」のあと、東大寺竣工の翌年であり、「総国分寺」東大寺の伽藍配置(図面)が参照された可能性が高い。
(5)「国分二寺図」の伽藍配置は「総国分寺」の東大寺と似ているものである。
似ていないものと考えるのは、観世音寺式伽藍配置をとる諸国観世音寺の総本山「筑紫観世音寺」が観世音寺式ではないと考えるのと同じ非合理的な考えである。
(6)「国分二寺図」が配られたとき「七重塔」の建立に未着手の国があったと考えるのは無理なことではなく、「国分二寺図」によって新造した国分寺が存在する可能性がある(新造国分寺が多いか少ないかは問題ではない)。
(7)その未着手のゆえに「国分二寺図」にしたがって国分寺を新造した諸国が存在するなら、東大寺の伽藍配置に似た国分寺が探せば見つかるかもしれない。
(8)七重塔の大きさが諸国で異なっていることを考えれば、「国分二寺図」は実寸を示したものではなく、相対寸法(厳密な比率)が書いてあったと考えられる。
(9)(8)より東大寺に似た新造国分寺は、相対寸法においてかなり厳密な比率が現れるはずで、単に似ているというような程度のものではないと考えられる。
「国分寺式(伽藍配置)」は「東大寺式」がモデル
私は、「国分二寺図」を頒下したのが東大寺竣工の翌年であることに注目した(川瀬さんのご教示による)。
「東大寺式」とは東大寺の形式であり、次の特徴がある。
① 中門から出た廻廊(内郭区画)は金堂の両妻の南側に寄る部分に取り付いていて、回廊内には伽藍はない。
② 回廊(内郭区画)は、縦横比(東西長:南北長)が2:3の横長である。
③ 中門金堂、金堂講堂の心々距離は相等しい。
④ 塔(双塔)は南大門(outer gate)と中門(inner gate)の間に配置される。
これが「東大寺式」伽藍配置であり、金堂の北に配される講堂は横型の回廊(内郭区画)と繋がっていない。
東大寺伽藍配置(http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104401-89318/up.jpg)
以上をもって諸国国分寺(26ヶ国の「周忌御斎」を行った国分寺を除いて)を探したところ「播磨国分寺」が見つかった。
この播磨国分寺こそ「国分寺式」(七重塔の描かれた「頒下国分二寺図」の僧寺伽藍配置)の国分寺に違いないと考え、この播磨国分寺の伽藍配置から抽出したのが、先に掲げた作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置〔再掲にあたっての割注:研究サークル内の論考のアドレスが見つかりませんでしたので、論旨は同じである次のブログ記事をご覧ください。「国分二寺図」の伽藍配置―東大寺がモデルとなった―(2018年5月19日(土))〕なのだ。
播磨国分寺伽藍配置(http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103276-82381/up.jpg)
おわりに
いわゆる「国分寺式(伽藍配置)」というのは定説がなく、伽藍配置が異なる国分寺遺跡を好き勝手に「国分寺式」と称しているので「国分寺式」といわれてもその伽藍配置を一意には描けない事実を指摘し、「国分寺式」といえるのは「頒下国分二寺図」と『続日本紀』がかいている「国分二寺図」の伽藍配置であり、その僧寺伽藍配置を作業仮説として提示した。
本稿の論理は極めて単純である。太上天皇周忌御斎を執り行った寺院は東大寺と26ヶ国の国分寺だけで、この26ヶ国は「七重塔を建てよ」と命じられ七重塔を建てただけであり、この26ヶ国の国分寺(既存寺院を改造して七重塔を建てた「改造国分寺」)が統一された伽藍配置であるわけがないこと、その「周忌御斎」の時点で他の40ヶ国の国分寺は「七重塔」が未完成または未着手の状態であったこと、七重塔を建立中のところに「国分二寺図」を配られた「周忌御斎」に間に合わなかった40ヶ国は建立途上の七重塔を完成させてさらに寺院を「二寺図」の伽藍配置に似せて改造するのが精いっぱい(「偽装国分寺」)であったこと、「改造国分寺」や「偽装国分寺」が統一された伽藍配置になるわけがないこと、以上のことから「改造国分寺」や「偽装国分寺」のなかから「共通して認められる一定の在り方」(様式)を抽出する方法論は誤っており、「国分寺式(伽藍配置)」といえるのは、「国分二寺図」に描かれた僧寺伽藍配置だけであることを主張しているのである。
さらに、「二寺図」の伽藍配置を実現できるのは「二寺図」を配られた時点で「七重塔」の建立に18年間も未着手であった国しかない。しかし、「二寺図」を配られた時点で「七重塔」の建立に18年間も未着手であった国は(少ないだろうとは予想できるが)皆無とは断言できない(存在する可能性がある)ことから、国分寺遺跡を探すと「二寺図」通りに新造された国分寺を発見できる可能性があるとし、東大寺と26ヶ国の国分寺が太上天皇周忌御斎を執り行った後で「国分二寺図」が配られたこと、東大寺は26ヶ国の国分寺とともに太上天皇周忌御斎を執り行った「総国分寺」(諸国国分寺の総本山)であることから、配られた「国分二寺図」の僧寺伽藍配置は東大寺に準じた伽藍様式であろうと推測し、その東大寺式伽藍配置の特徴を抽出して」26ヶ国以外の国分寺遺跡を探したところ、ぴったりである播磨国分寺が見つかった。
播磨国分寺の方位は何度か西偏している(地方権力の造営と推測できる)が、その伽藍配置は方位を磁北で決めていることにそぐわない精密な伽藍配置であった。これは「中央政権の図面に基づいて地方権力が造営した」と解釈するとうまく説明できることから、播磨国分寺の伽藍配置こそが「国分二寺図」に描かれていた僧寺伽藍配置(「国分寺式」)だとした。そして、その播磨国分寺の特徴を析出したものが《作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置》である。
なお、この「国分二寺図」の僧寺伽藍配置を「東大寺式」と名づけ、別に「国分寺式」を求めようとするのは間違い(もしかすると故意による「フレームアップ」)であることを付言する。
この作業仮説のメリットは、次の推定が成立する可能性があることである。
① 西塔の国分寺は、図面配布以前(18年の間に)に七重塔(改造含む)を建立した。
② 東塔の国分寺であっても、塔が中門と南大門の間(内郭区画外で外郭区画内)に無ければ新造ではない(改造または偽装)。
③ 中門をでた回廊が金堂に取り付いていない国分寺は新造国分寺ではない(改造または偽装)。
④ 回廊が縦横比2:3の横型でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑤ 中門・金堂、金堂・講堂の距離が等しくない寺院は新造ではない(改造または偽装)。
⑥ 回廊南北幅と中門(内郭区画南辺)・南大門(外郭区画南辺)の距離が等しくない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑦ 金堂心から塔心々線までの距離が⑥回廊南北幅の1.5倍でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑧ 塔・中軸線間の距離が⑦金堂心から塔心々線までの距離の1.25倍でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
この推定ができたとしても、各国分寺の発掘調査報告書などによって、その改造・偽装の痕跡を探し出さねばならないことは言うまでもないことである。本稿の主張は、作業仮説を当てはめて簡便に国分寺を判定するということではなく、一意に伽藍配置が描けない従来の「(改造・偽装)国分寺式」を非とし、真の「国分寺式(伽藍配置)」は「国分二寺図」の僧寺伽藍配置でなければならない、というところである。それを主張しただけにせず、「国分二寺図」の僧寺伽藍配置は「総国分寺」東大寺をモデルにしたものではないかと推測して、それを探したところ播磨国分寺が見つかったので、この播磨国分寺は「国分二寺図」によって新造された国分寺と考え、この伽藍配置の特徴を一意に描けるような客観的判断基準を作業仮説として提示したのである。
作業仮説を再掲しておく。
《作業仮説、国分寺式伽藍配置》
(1)回廊(内郭区画)は、縦横比が2:3の横長のもの。
(2)中門からでた回廊は金堂両妻南寄りにとりつく(回廊内に伽藍なし)。
(3)中門・金堂間と金堂・講堂間は等距離〔これは伽藍間距離の関係〕。
(4)回廊(内郭区画)の南北幅(南辺・北辺間)と中門・南大門(内郭・外郭間)は等距離〔これは区画間距離の関係〕。
(5)塔は単塔で東塔(中軸線の東)〔塔は東が伝統。法隆寺は例外的と思えます〕。
(6)(単塔なのであるが、双塔と仮定したときの)塔心々線と金堂心の距離は、(4)の回廊南北幅(南辺・北辺間距離)の1.5倍。比で表すと3:2〔これは、「塔は中門と南大門との中間に置く」を「中心伽藍の金堂を基点として定義したもの」と思われます〕。
(7)金堂中軸線と東塔の距離は、(6)の塔心々線・金堂心間距離の1.25倍。比で表すと5:4〔薬師寺も近い数値なので、塔と金堂(中軸線)の配置はこの程度がバランスが良いとの考えかもしれません〕。
「論理の赴くところに行こうではないか、それがどこに行き着くとも。」
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〔脚注1〕
この“川原寺式”も学術的には少し怪しい“伽藍様式”です。川原寺に似ている寺院に西金堂を南面させた「南滋賀町廃寺」があります(金堂の向きが違うので「観世音寺式」とある部分を「法起寺式」に置き換えると「南滋賀町廃寺」になります)。この二寺以外にこれに似た伽藍配置の寺院はありません。つまり、厳密にはいえば “川原寺式”といわれる伽藍配置は川原寺だけなのです。川原寺特有の伽藍配置を「川原寺式(伽藍様式)」と呼称するのは無理があります。単に「川原寺の伽藍配置」と言えば済むことです。従来説がこぞって「川原寺式」と言っているので、「これは伽藍様式ではありません」と注意を喚起する意味で敢えて記載しました。
〔脚注2〕
回廊が取り付いている金堂・講堂を「回廊内」とする見解が一部にみられますが、金堂に回廊が取り付いているが金堂心が回廊外にある寺院(東大寺など)もあり、「回廊内」という表現には違和感があります。私は、回廊が取り付いている伽藍は、回廊の内でも外でもなく、「回廊を構成する要素」であるとしました。回廊が取り付いている伽藍を回廊の内か外かと判別するのは道理がありません。回廊が取り付いた金堂や講堂は、勿論、機能は金堂であり講堂です。金堂や講堂を回廊の単なる一部だと言っているのではなく、伽藍本来の機能の他に「回廊を構成する要素」を併せ持っていると私は理解しています。
〔脚注3〕
「国分寺(僧寺・尼寺)の伽藍配置図が諸国に配られた」ことの証拠を挙げる責任(挙証責任)は私にはありません。『続日本紀』に「頒下国分二寺図於天下諸国」と書いてあります〔実証しました〕から図面が配られたとしているのです。「そんな図面など無かった」とか「配られなかった」と主張される方がいれば、その方がそのことを立証する責任があります。これは『続日本紀』を鵜呑みにするとかしないとかの話ではありません。『続日本紀』がここで嘘を書くと得になることは無いということと、そう書いてあるから、そうだったとして考えているだけのことです。仮に嘘を書くと得になることを誰かがいくつか思いついたとしても、だから『続日本紀』がここで嘘を書いたのだと証明しなければならない責任(挙証責任)は「嘘がかかれている、配られなかった」と反論する誰か側にあるのです。
〔脚注4〕
天平十三年(741)3月24日の聖武天皇の詔に「七重塔一区」とあり〔実証しました〕、この詔は「(紫紙金字の)金光明最勝王経」を諸国に分かち与えて〔「国分」の由来〕納める目的であったから「七重塔」としています。「七重塔は描かれていなかった」と反論する方が「国分二寺図」に七重塔が描かれてなかったことを立証してください。
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