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2022年1月26日 (水)

科野からの便り(35)―塩田歴史会―[コラム]

科野からの便り(35)―塩田歴史会[コラム]
【訂正のお知らせ(2022/01/26)
 昨日(01/25 11:00頃)、吉村八洲男さまから論考の一部が抜けているとのご指摘をいただき、送付いただいたファイルを見直してみたところ、ファイル名が同じなので無視した部分が論考より抜けておりました。その抜けていた部分を「真田の鉄」の後半に追加いたしまた(……… ……… で区切った部分です)。【訂正のお知らせ 終わり】

 昨日(2022/01/24 15:20頃)、吉村八洲男さまから「科野からの便り35)」及び「塩田歴史会スライド 蕨手文様」をご寄稿いただきましたので、掲載いたします。

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科野からの便り35)」

上田・塩田編

上田市 吉村八洲男

 しばらくこの「科野からの便り」を途切れさせていました。申し訳ありません。遅くなりましたが、今年も宜しくお願いいたします。

 さて当方、たまには会合に呼ばれ意見の開陳などを請われる事があります。1月21日も私の住む長野県上田市塩田地区で活動されている「塩田地区の文化と歴史を学ぶ会」からお呼びがかかっていました(しかも2時間程の時間が頂けたのです)。

 張り切って「レジメ」を纏めたのですが、「オミクロン」騒動が長野県でも勃発、患者が相次ぎ小学校も休校、行政は来週にも「蔓延防止法」を請願することになりました。

 18日に、会合の急遽の中止が決定しました。余りにも寸前です、気の毒に思ったのか主催者が手配され、役員・関係者だけのごく少人数での「会合」となりました。 せっかく頑張ったのに・・・とは思いましたが仕方のない事です。

 作成した「レジメ」が宙に浮きました。そこで「科野からの便り」に思い到りました。失礼とは思いますがいきさつをご理解の上ご覧頂けたらと思いました。

 既に発表してある上田市内「真田の鉄」、そして青木村の「蕨手文瓦」を併せて論考したものです。両方とも上田盆地内の考古資料になりますから。

 それぞれの時代は異なるのですが、「科野の国」・上田の特殊性が窺える考古資料たちかと思い、レジメのテーマにしたのですが・・どうぞよろしくお読み下さい。

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「塩田の歴史と文化を考える」会 レジメ  R4・1・22    上田市 吉村八洲男

「真田の鉄」「青木の蕨手文瓦」 上田に残る、貴重で説明が付かない「考古遺品」達

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 お呼び頂き、感謝します。

 前回は、「阿蘇神社」「高良社」「生島足島神社」などを「多元歴史観」から見るととんでもない「お宝神社」となる、つまりこの「塩田平」は日本歴史の上で重要な意味を持った地域になるのだと紹介しました。

 皆様にはこう思われたかもしれません。「多元史観」という変な「歴史観」を主張するおかしな奴だ、「教科書」にない歴史が「塩田」にあるなどとんでもない事をいっている、地元の有名な歴史研究家と全く違う説明ではないか、なにやら怪しい事を言う奴だ・・・等々。

 この会で自説を皆様にお伝えしてから早いものでもう3年経ちます。

 私も上田に住んでいます、地元を再考してみようとする人々とあちこち歩き回ります。

 そして色々な発見をしました。「文献」が少ない上田地域では、「考古資料」が重大な意味を持ちます。8世紀の文献では、1~3世紀「弥生時代」や6~7世紀の出来事を説明出来ません。定説の通りなのだ、分かり切った事なのだとする今迄の歴史学とは違いが出て来ます。

 その時、発見物からの歴史が改めて見直されなくてはいけないのではないでしょうか。

 私が発見した「考古資料」からは別の歴史が見えて来るのです。今日は「真田の鉄」と「青木の蕨手文様・瓦」についてお話します。両方とも、地元の古代を解明する大きな手掛かりになる発見品と私は思います。「塩田平の古代」もそこから考えるべきでしょう。

 

1.「真田」の鉄

 二年前、「真田町・傍陽地区・大倉」で「鉄滓・炉壁・鉱石」を発見しました。関連する事は今「東信ジャーナル」のコラムで執筆していますので、詳細はそちらでご覧いただきたいのですが、「真田」で「製鉄」が行われていた事などは今迄全く予想されていません。ですから発見された事への驚きは大きかったと思います。でもそれが真実なのです。歴史界の永年の謎であった「古代製鉄(方法)」解明の手掛かりになるかも知れないのです。

 この「真田・製鉄説」を最初に考えられたのは「山辺邦彦」氏で、「上田市誌・地質編」執筆者です。科学的なデータや真田町傍陽の地質(鉱石)からの主張でした。

 賛同した真田町の数人や上田の地質愛好家、そして私とで「傍陽・大倉」を探し回りました。2,000年前の「鉄」かも知れないのです。簡単には見つかりませんでしたが・・・

 こうして製鉄関連の考古資料が発見されたのです。そしてその時まず思いました。古代「傍陽」で何故製鉄がなされていたのだろう、と。

 一番のポイントは、「真田・傍陽」の「自然・地質」が、製鉄にピッタリの地質を持っていた事です。古代製鉄に不可欠な地質(鉱石)を持っていたのです。日本でも稀有な条件・地質を持っていたのです(今となっては地元の人でさえ理解しにくいのですが)。

 山辺氏は、山陰地方での古代「たたら製鉄」などへの研究から、4つの鉱石が古代製鉄には不可欠と考えました。① 製鉄原料 ② マンガン ③ 珪石 ④ 蝋石 です。

 そして驚く事にその全てが「真田町・傍陽地区」にある事に気付いたのです。

 最大の問題である製鉄原材料は「風化ヒン岩(砂鉄)」と考えました。「実相院(金縄山)」周辺にはそれが豊富にありました(「たたら製鉄」の原料と同じです)。驚く事に発見現場からは、ある筈がない「実相院周辺」の「砂鉄」と同じ砂鉄が複数発見されたのです。

 「マンガン」の存在も確認されました。「炉壁」の顕微鏡写真から「美山鉱山」のマンガン鉱石が製鉄に使われたと判明したのです。残された「珪石」「蝋石」も「真田・傍陽」の鉱山では昔から採掘されてきた「鉱石」です。つまり「真田」の鉱石で古代に製鉄がされたと判明したのです。  簡単にスライドにして見ました。
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………〖追加部分(01/26)〗…………………………………………………………………………………………………………………
 製鉄に不可欠な材料が全て真田・傍陽にはあったのです。鉄を使いこなした人々にとって最高の条件(至近に材料が豊富)を備えていたのです、だから製鉄が行われたのです。

 地名・伝承・発掘報告書・真田町史からも古代に傍陽で製鉄がなされた事に間違いありません。製鉄は精錬(鍛冶)ではありません。だからこそ古代製鉄確認は特に貴重なのです。

炉壁顕微鏡写真と岩石分析
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 長野県最古と言われる製鉄場遺構も上田市にありました(「上田市文化財発掘報告書」)。それより古い真田の製鉄が発見・証明されたのです。そして丸子町にも製鉄伝承があります。多くの製鉄場の痕跡がここには残ります。一帯は古代製鉄の本場だったのかも知れません。

 さて「塩田」です。私は古代製鉄がここにもあったと想像しています。弥生時代を示すかも知れません。皆様にはいい加減な事を言うな、と叱られそうですが・・・「真田」と「塩田」には、幾つかの一致点・類似点があるからです。

 そう判断する3つの根拠です。

 一つが、「独鈷山」の存在です。塩田の民話では空海(8世紀)と結びつけられています。

 しかし「とっこ」と言う名称は仏教用語ですからこの山名は「仏教」の伝来した6世紀頃以後に使われだしたという事になります。それ以前の山名は何だったのでしょう。何と「鉄城(条)山」だったのです。記録にハッキリ残ります。この山名には何かを感じますね。

 もう一つが製鉄の神様である「金山彦神」と書かれた「石碑」の存在です。現在県内ではこの神名を持つ「石碑」は「大町市借馬」に残るだけと言われ珍しいものです。それが五加「八幡大社」にあります。これにも何か感じますね。(「金山」「金井」などの地名も多い)

 昭和52年8月に「塩田・弘法山」「塩田城」遺跡近くで「鍛冶炉」が発見されました。お亡くなりになられた上田女子短期大学塩入先生が発見されました。しかし、「塩田城」築城が建治2年(1276年)ですからそれ以降のものと判断され、結果すぐに忘れ去られました。

 しかし私は思います。「塩田城」は鎌倉期の山城遺構ですが、すぐ下には「三島神社」が存在します。この「三島社」は古代の神社だが詳細は不明だとされて来ました。

 発見された「鍛冶炉」とは、この「三島神社」に由来したものではないでしょうか。「塩田城」と結び付けるより「三島神社」と結びつけるべきだったのではないでしょうか。

塩田館址の鍛冶炉
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 私が「真田の鉄」に気付いたのは傍陽・大倉「三島神社」に伝わる「製鉄伝承」からです。「三島神社」がキッカケで「鉄」が近くにあるのではないかと思ったのです。それと同じではないでしょうか。「三島神社」が塩田にもあり、傍に「鍛冶場」跡があるのですから。そう考えると塩田には古代の「鍛冶(製鉄?)」痕跡が確実に残っていると言えるのです。

 そして現在はありませんが「真田」には「金山尊」があり人々に崇拝されていたと記録に残ります(「信濃の鉄」今井泰男)。これも石碑が残る「塩田」とよく似た状況を示します。

 最後に「山」の名称です。塩田で使われた「(鉄)条」とは、「(紐などで)繋がる、続く」事も意味します。これは、真田の「金縄山(実相院)」と同じ意味を示していたかも知れません。「金」とは「鉄」の事ですし、「縄」は「じょう」と読め「ひも」の事でもあります。

 「製鉄」関連遺跡がこれから塩田で発見されるかも知れないと私は思っています。塩田には、歴史を動かす事実や民話が他にも多くあるからです。
………〖追加部分 終わり〗…………………………………………………………………………………………………………………

2.「蕨手文様の瓦」

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 さて「蕨手(わらびて)文様」の瓦です。私が青木村「子檀嶺神社」でこの瓦を発見した事は新聞などでご存知と思います。「蕨」を思わせる「文様」を持つ瓦です。

 ただ、重要な事が伝わっていません。この瓦は全国で6個しか見つかっていない貴重な瓦なのです。そしてすべてが上田市近辺にあるのです。ご存知でしたか?青木村に7例目がありそれに私が気付いた事になります。上田にしかない瓦なのです。

 そしてこの文様の瓦への考察からは重大な意味が判明します。

 古代の寺に使われ全国に無数に残る「瓦の文様」は、99%が「蓮華文様」です。それを更に文様(模様)・製作法などで分類し細かく研究して来たのです。ですから6例しかない「蕨手文様」は研究の相手にすらされて来ませんでした。

 ところで、仏教関係の多く(仏・法・僧・文化)が中国・朝鮮から日本へ伝来したのだと現在では解明されています。そう考えた時、上田にしかない「蕨手文様瓦(又は類似の初期瓦)」はその地(中国・朝鮮)にあったかが問題になります。あったとすると「仏教・附随した文化」と同じようにそこからやって来たと考えるのが普通です。

 驚く事に中国の「瓦」の歴史では「蕨手文様・瓦」が古くから存在します。「蓮華文様」より遥かに古い歴史を持っているのです。そしてそれらは時代により呼び名(名称)に違いがありますが、間違いなく日本での「蕨手文様」と同じと思えます。
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 「瓦」の始原期は「西周」に始まると言われます。(図は「周・秦」時代の中国「瓦文様」です)長い「瓦」の歴史の中で、「蓮華文様瓦」が「仏教」と結びつき、多数を占めるようになったのは後半期と言える「隋」の時代からなのです。そして日本に伝わったのです。

 ですから上田にしかない「蕨手文様の瓦」とは「蓮華文様瓦」より古い歴史を示す瓦文様と言えます。「蓮華文様瓦」より古い時代を示します。そう考えなくてはおかしいでしょう。

 「蓮花文様瓦」の「信濃国分寺」より古い時代の「寺」で使われた「瓦文様」と私は思います。「寺」は不明(廃寺)となったが「瓦」だけは残っている、だから「蕨手文様瓦」が現在に残っているのではないでしょうか。上田周辺に残る「蕨手文様の瓦」は、日本の瓦の歴史・寺の歴史を変えかねない特別な存在なのだと私は思います。

 そして一気に上田へ伝来したとは思えません。6・7世紀に直接中国と交渉する強大な力を持った地元豪族は存在しなかったと言われます。

 私は、九州を経由して上田へ来たと思います。「蕨手文様」をふんだんに持った「古墳」の存在が指摘されるからです(6~9個は存在する)。代表とされる「王塚古墳」を示します。
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 そこで多用されたこの「蕨手文様」を学者は分類します。図にある「複合蕨手文」とは、単独にある蕨手文を組み合わせた文様という事です。「内向き」と「外向き」タイプに分けました。

 面白い事に、上田では「複合蕨手文・A内向き」が瓦(寺)に使われ、「複合蕨手文・B外向き」が石祀(神社)に使われています。判明している「石祀」だけで、50はあります。

 これには注目して良いでしょう。そして塩田には「蕨手文」が残る「石祀」はなぜかありません。その代わりもっと重要な「高良社」が塩田には「3社」あります。この「高良社」とは「蕨手文」のある「古墳」を築造した部族が信仰した神社と言われているのですが・・・

 塩田には歴史に埋もれ記録に残らない数々の「寺」があります。中には今迄の歴史解釈では説明出来ない「瓦」があります。私にはこれこそが「蕨手文様瓦」と同じ位置を占める瓦だと思えます。「蓮華文」だけではない「瓦」の時代を証明すると思えます。

 それが、「吉田(福田)字東村」遺跡からの「瓦」です。「蓮華文様」ではありません。「四重弧文」「三重忍冬文」「スペード状文様」などが軒平瓦に使われています(押し付け成型?)。これらは、法隆寺・中宮寺にある古代瓦の文様と共通すると言われます(下図・「信濃国分寺資料館」に展示されている)。
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 こんなにも重要な瓦が塩田の廃寺には残っているのです。

 法隆寺は7世紀初頭創建が科学的に証明されています(「心柱」は594年の伐採)。つまりそこで使われた瓦と同じ「瓦」が塩田の「寺」にはあったのです。そこからは早い時期から塩田には仏教があったと断言して良いでしょう。それが真実と思います。「信濃国分寺」創建(760年頃と言われる)より古い時代、はるか以前の時代です。

 そして思います。これは青木村に「蕨手文様瓦」があった状況とそっくりだと。瓦があった「子檀嶺神社」には「神宮寺」があったと伝承されています。そして塩田にも寺がありました。瓦が残されていましたね。ここからも古代上田・塩田・青木には「寺(仏教)」があったと考えて良いでしょう。

 

 皆様、もう一度地域の(塩田も含め)の歴史を見つめ直してみませんか。

 この地域にあった「鉄」も「蕨手文様瓦」も考え直すと定説とは異なる新しい歴史を示します。「文献」には書かれなくてもそれこそが本当の地域の歴史ではないでしょうか。

 「歴史学」の新しい考え方として「九州王朝説」「王朝交代説」を中心とした「多元歴史観」が巻き起こっています(「考古学界」からも支持の声が上がりマスコミも注目し始めました)「一元的歴史観」「戦後型皇国史観」ではない「歴史」が考えられ始めているのです。

 そう考えた時「科野の国」・上田・塩田は、日本歴史の重要な一部を占めていた大切な地域となります。「塩田」は重要な地域だったのです。単なる推測ではありません。「鉄」も「瓦」もここにあったと既に判明しているからです。

(終)

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【塩田歴史会・スライド 蕨手文様】
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