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2022年1月25日 (火)

「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―

「両京制」への疑問
いつから「太宰府」になったか[古田史学][論理の赴くところ]
【訂正のお知らせ(2022/01/25)
 記事末の「【「大宰府」の記事】」は、挙げた3件目(持統五年(六九一)正月条)の「大宰府」が「筑紫大宰府典」(役職名)であるため、「【文字列「大宰府」を含む記事】」に訂正いたしました。厳密には 『日本書紀』に「行政府」そのものとして登場する「大宰府 」は、天智天皇一〇年(六七一)十一月条天武天皇六年(六七七)十一月条の記事中の2件だけです。【訂正のお知らせ 終わり】

 古賀達也さまが、古賀達也の洛中洛外日記 第2666話 2022/01/21 太宰府(倭京)「官人登用の母体」説 で、「前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。」と述べられ、その推定の「考古学的痕跡」の一例として次の「牛頸窯跡群の操業」を挙げられています(一部引用します。詳しくはリンクを貼った上記ブログ記事をご覧ください)。

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〔前略〕
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。

 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。〔後略〕

②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟
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 一方、古賀さんは「前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝」とも述べられています。この理屈(「複都制(両京制)」)は腑に落ちません(矛盾を内包しています)。理由は次の通りです。 

(1)「倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施」とされ、「事実上の〝遷都〟」の意味は、「太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させた」ということだと理解すれば、「中央官僚群の大半を難波京に移動させた」後の「太宰府」は「太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群」を維持できたとは考えられません。
 その「考古学的痕跡」は「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」からです。もともと必要とされるだけ「整備拡充された律令制中央官僚群」が「牛頸での土器生産は減少する」程に「大半を難波京に移動」してしまっては、「太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群」を維持できたとは考えられません。

(2)この「複都制(両京制)」説では、「倭京」の名称が「太宰府」であることを説明できていません。
 「太宰」とは「中国の官職。太師の別称」(Wikipedia「太宰」より)であり、「太師(たいし)は、中国古代より使われた官職名。天子の師。『漢書』百官公卿表上によれば周においては太師、太傅、太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。」(Wikipedia「太師」)ようです。

 大雑把に言えば太宰」とは「天子を補佐する宰相のことであり、「太宰」の行政府が「太宰府」なわけです。一元史観では「大宰府(だざいふ)[1] は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。なお多くの史書では太宰府とも記される[2]。」(Wikipedia「大宰府」より)とされていますが、「太宰府」は7世紀後半以前から存在していました(『日本書紀』には「始置大宰府」のような記事は見当たりません)。「倭京」がいつから「太宰府」になったかの説明を「複都制(両京制)」では説明できず、「一元史観」の「7世紀後半」説に太刀打ちできません。

 私は「太宰府」は、次の理由で「倭京」から「律令制中央官僚群」が「前期難波宮(難波京)へ移動した(652)七世紀中頃に「倭国(九州王朝)」が「太宰府」を設置した、と考えます(仮説です)。

 私の主張は、前期難波宮首都・太宰府副都(つまり「遷都」)説です。その内容は、天子は前期難波宮で全国を、筑紫太宰が「太宰府」で「九州」を、統治する制度だった。

①「九州王朝」の社稷(本貫)である「九州(天子の直轄領)」を他の「諸国」と同様に扱うわけにはいかないこと。

②「倭京」では「全国統治」できる「律令制中央官僚群」が維持できなくなったこと。

③「天子」(最高権力者)が不在では朝廷として迅速な意思決定ができないこと(官僚だけでは決定できません)

 ちなみに、唐の都長安から東都洛陽までは、直線距離にすると約350キロメートル(唐皇宮跡から洛陽白馬寺までなら337km)で、東京から名古屋までと同じくらいの距離です(皇居から京都御所までが370km)。馬を乗り継げば1日160~180km(無理させれば約200km)ほど移動できそうですから、急げば2日後(翌々日)に情報が届けられます(決定を伝達するのは往復するので少なくとも4日は要します)。
 福岡県太宰府から大阪府難波宮跡公園までを、Googel Earthで測ると約480km(47,925,099.98cm)ですので、この「直線距離」を早馬(驛馬)で駆けても3日~2・2/3日(2日と16時間)後(無理させれば2.4日後)になりますし、実際の道は「直線」ではありませんから、重要な事案であればあるほど意思決定に日時を要することになります。天子の居ない首都では機能が果たせないと言っても過言ではないでしょう。

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【文字列「大宰府」を含む記事】(『日本書紀』、3件)
天智天皇一〇年(六七一)十一月》〔初出記事〕
十一月甲午朔癸卯〔10日〕、對馬國司、遣使於筑紫大宰府言、月生二日、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐。四人、從唐來曰、唐國使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等壹千四百人、總合二千人、乗船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆。忽然到彼、恐彼防人、驚駭射戰。乃遣道文等、豫稍披陳來朝之意。

《天武天皇六年(六七七)十一月》
十一月己未朔、雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人、賜禄各有差。且専捕赤鳥者、賜爵五級。乃當郡々司等、加増爵位。因給復郡内百姓、以一年之。是日、大赦天下。

《持統五年(六九一)正月》
丙戌〔14日〕、詔曰、直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府以來 、於今廿九年矣。以清白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・[絲旁]十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。

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コメント

大宰府の設置時期と難波遷都について、山田さんの主張にまったく同意します。
『日本書紀』だけで判断すると、609 年までには大宰の官職が置かれ、
遅くとも662 年までには大宰府つまり大宰府政庁が設けられたことになります。
考古学的に見るとどうかですが、
メールで、昨年12月10日に大阪歴史学会考古部会で発表しました拙論をお送りします。
そこに、大宰府の成立時期を述べております。服部

服部静尚さま
閲覧とコメントありがとうございます。
また、私の主張へのご同意、ありがとうございます。
さらに、発表なされた「瓦と須恵器について、3つの提起」のレジュメ(PDF)と資料(Word)のご送付、たいへんありがとうございます。考古学的裏付けとして、これからじっくり拝読し、しっかり理解に努めてまいります。
服部さんの当該論考の中で「Ⅱ、大宰府成立時期の考察 1、文献上での大宰・大宰府」の項目で、次のように述べられていることは、「いつから太宰府になったのか」の先行説として、読者の皆様に紹介しておきたいと思います。
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『日本書紀』では、推古17 年(609)「筑紫大宰奏上」、皇極2 年(643)「筑紫大宰馳驛」、そして孝徳大化5 年(649)「即拜日向臣於築紫大宰帥」と官名としての大宰が登場し、次に天智10 年(671)「對馬国司遣使於筑紫大宰府」と始めて大宰府が現われる。持統5 年(691)には「直廣肆筑紫史益(まさる)、拜筑紫大宰府典(ふびと)以來於今廿九年」とあり、ここから筑紫史益は662 年に大宰府の典に任じられたということになる。
つまり文献上では、609 年までには大宰の官職が置かれ、遅くとも662 年までには大宰府つまり大宰府政庁が設けられたと考えられる。
……………………………………………………………………………………………………………………………
 これからもご鞭撻よろしくお願いいたします。

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