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2022年2月 9日 (水)

平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―

平城京の大官大寺(4)
道慈による「修造」―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 前回(平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺―)では、伽藍配置について推測が過ぎたかも知れません。しかしながら、移築元の元興寺は「古式寺院」であったことは疑う余地がありません。

 今回は、古式寺院元興寺を平城京の「左京六条四坊」に移築した大安寺と、帰国僧 道慈との関係を考察します。大安寺のHP[1]に次の様にあります(部分抜粋、下線強調朱字化などは山田による)。
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大安寺造営に大きな役割を果たした道慈律師は養老二年(718年)に帰朝していますが、天平十七年(745年)に世を去るまでほとんどを大安寺造営につくしました。大安寺から出土した多くの唐将来品は道慈律師との関わりを色濃く残すものであり、大安寺造営には彼の中国における経験や見聞が大いに活かされたと考えられ、塔院の金堂院からの分化、新来の技法の移入など、のちのちわが国の建築様式にも大きな影響を与えたと見られています。
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 また、道慈は長安の西明寺を模して伽藍を建てたともいわれています。
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大安寺との関係
西明寺は、インドの祇園精舎をモデルとして建立されたものであるが、今度は西明寺自身が、日本の大安寺のモデルとなった、という説が、古来、『扶桑略記』『元亨釈書』などの文献に記されている。
Wikipedia「西明寺_(西安市)」より抜粋)
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 道慈は唐では西明寺に住んでいたようですが、西明寺の伽藍配置はネット検索しても見つけられませんでしたので、大安寺のどの部分が西明寺を模したものかわかりませんでした。 

 通説では、帰還する遣唐使船で帰国した僧 道慈が、「大安寺を平城京へ移設することに尽力」した、とされています。
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道慈(どうじ、生年不詳 - 天平16年10月2日(744年11月14日))は、奈良時代の三論宗の僧。俗姓は額田氏。大和国添下郡の出身。
702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り[1]、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国した[1]。日本三論宗の第3伝とされる。翌719年(養老3年)その有徳を賞されて食封50戸を賜った。729年(天平元年)律師に任じられ、大安寺を平城京へ移設することに尽力している。Wikipedia「道慈」より)
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 しかしながら、通説の「大安寺を平城京へ移設することに尽力している。」という部分には、同意できません。

 『続日本紀』には次のことが書かれています。

. 霊亀二年(七一六)五月に元興寺」を「左京六条四坊」に移築したとあります。
  始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ(原文「始徙建元興寺左京六条四坊」)。

. 道慈は、大宝二年(七〇二)六月に出帆した遣唐使船で唐に渡り、養老元年(七一七)三月以降に出帆して養老二年(七一八)十月に帰還した遣唐使船で帰国した、と次の記事から考えられます。
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《大宝二年(七〇二)六月》乙丑〔29日〕、遣唐使等、去年従筑紫而入海。風浪暴険、不得渡海。至是乃発。
《養老元年(七一七)三月》己酉〔9日〕、遣唐押使従四位下多治比真人県守賜節刀。
《養老二年(七一八)十月》庚辰〔20日〕、大宰府言、遣唐使従四位下多治比真人県守来帰。
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.大安寺は道慈が「修造」した。

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《天平九年(七三七)四月》壬午〔8日〕、律師道慈言、道慈奉天勅、住此大安寺、修造以来、於此伽藍、恐有災事、私請浄行僧等。毎年、令転大般若経一部六百巻。因此。雖有雷声。無所災害。請、自今以後。撮取諸国進調庸各三段物、以充布施。請僧百五十人、令転此経。伏願。護寺鎮国、平安聖朝。以此功徳、永為恒例。勅許之。
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 出来事の順序を『続日本紀』によって年表的に書けば次のようになります。

大宝二年(七〇二)六月、道慈、遣唐使船で唐に渡る(B)。
霊亀二年(七一六)五月、「左京六条四坊」に「元興寺」を移築する(大安寺となる)()。
養老元年(七一七)三月以降、第九次遣唐使船、唐に向かって出帆する(B)。
養老二年(七一八)十月、道慈、帰還する第九次遣唐使船で帰国する()。
天平九年(七三七)四月の記事に、道慈が大安寺を「修造」したとある()。
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 以上のこと全てが整合的に成り立つのは次の場合しかありません。

 道慈は、元興寺を移築した大安寺(左京六条四坊所在)の伽藍を造り直した。「改造」の主なものは、「左京六条四坊」(元興寺の移築先)を跨いだ「左京七条四坊」に双塔(七重塔)を建立すること(伽藍配置の改造)であった。 

「元興寺」を「左京六条四坊」移築した時点(霊亀二年(七一六五月)では、道慈はまだ唐に居ましたので移築には関与できません。霊亀二年(七一六)五月から道慈が帰国した養老二年(七一八十月までは足掛け二年半ありますので、運搬するには重くて壊れやすい瓦を除けば部材がすべて揃っているので、移築を完了させる充分な時間がありました。ですから、道慈が帰国した時には「左京六条四坊」への元興寺の移築は既に完了していた、と考えられます。

 帰国して大安寺に入った道慈ができたことは、移築済の伽藍配置を改造することくらいであった、と考えられます。しかも、ゼロベースで伽藍配置を改造(移築のやり直し)することは、時間とお金の無駄遣いなので、許されなかったでしょう。「修造」とあるのはそのような事情があったと思われます。次図をご覧ください。
改造を試みた痕跡
Photo_20220209153901
「左京六条四坊」の敷地内に改造を企てた痕跡があります。「南大門」から発した外郭が見かけることのない「凸型に折れ曲がっています。「古式」であれ「新式」であれ、外郭が曲がっている、障害物(例えば古墳など)を避ける場合以外見かけることはありませんし、しかも左右対称に曲がっているのは解せません。

 「完了していない部分」というのは「古式寺院」を「新式寺院」に改造する部分だったのです(次図が「新式」の双塔に改造する計画)。おそらく、道慈が帰国する以前に、双塔をこのように曲げた外郭の内に建てようと計画したと考えられます。
道慈が中止させた改造計画
Photo_20220209154001
 道慈が行ったことは、六条大路に面している「南大門」を「南中門」に改名して、六条大路の南側(七条四坊)に双塔を建立することだったのです。この伽藍配置が道慈に手よる“大安寺式伽藍配置”と呼ばれるものです。 

 と、ここまで書いた時、ある可能性を見落としていたことに気づきました。もう一度、改造を試みた痕跡図をご覧ください。「後から曲げた」とするなら「南大門」を移動させたことになります。だとすれば、もとより外郭を曲げずに塔を建てられたはずです。また、南大門に向けて曲がっている外郭は、左京六条大路との境界をなしており、外郭を南に下げたという理屈は成り立ちません。

 すなわち、移築元の元興寺の伽藍がこうなっていたという可能性が高いのです。そうであるなら、元興寺の塔は「双塔」で内郭の外に建っていた(「新式」)と考えられるのです。

 この可能性が当たっているならば、「双塔」は薬師寺からではなく元興寺から始まったことになり、また、「古式」から「新式」へも元興寺が最初だったことになります。ちょっと大胆な仮説になりました。 

[1] 大安寺HP 大安寺HP/大安寺について/伽藍を知る/大安寺式伽藍(リンクから閲覧できます。)

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