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2022年2月18日 (金)

魏使はどんな船で来たか―倭人の国「狗邪韓国」―

魏使はどんな船で来たか
倭人の国「狗邪韓国」[論理の赴くところ][古田史学]

 2022214()、ブログ記事 実験古代船「野生号」の錯覚― 櫂(オール)で渡れるはずがない ―(2018年1月13日(土))に、読者(ハンドルネーム「としちゃん」)さまから、次のコメントを頂きました。
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倭人の舟は仰る通りだっただろうと思います。僕は当時の交易は倭人の舟ではなく中国の船を使っていたのではないかと思っています。つまり準構造船ではなく構造船です。魏志倭人伝は三国志の中の東夷伝倭人条ですが、三国志の中には有名な「赤壁の戦い」があります。ここで魏が使っていた船は3階建ての構造船です。倭との交易ではそこまで大きな船ではなかったかもしれませんが、いやしくも中国の使者は偉い人です。遭難の危険を犯してまで倭国に来る必要はありません。なので逆に言えば野生号とは比較にならない安全な船で来ていたのだと思います。
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 「目から鱗」とはこのことです。明帝(曹叡)[1]から賜った「親魏倭王之印」と刻された「金印紫綬」(紫色の綬(下げ紐)のついた金印)を、邪馬壹國の女王俾彌呼に確実に届けなければならないのです。渡海で遭難することなどできません(失えば首がいくつあっても足らないでしょう)。
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汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。
〖私訳〗
〔卑彌呼〕踰遠なる所在[2]から、使を遣して貢獻すは、汝の忠孝にして、我甚(はなはだ)しく汝を哀れむ[3]。今、汝を親魏倭王と為し,金印紫綬を假し[4],裝封し帶方太守に付して汝に假授[4]す。
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 すなわち、魏使達は帶方郡から魏の構造船で出発したと考えるべきなのです。そして、陸行する魏使達を降ろした魏の構造船は、済州島(投馬国:石田泉城氏の説)を回って、「狗邪韓國」で陸行した魏使達の到着を待ったことになります。そして、「狗邪韓國」から乗り込んだ倭人の水先案内人によって「末盧國」に至ったと考えられます。もちろん、魏使達は「對馬國」・「一大國」も半島同様に陸行し、魏の構造船は先に行き、出発する港で魏使達を待っていたことは言うまでもありません。

 さて、「「狗邪韓國」から乗り込んだ倭人の水先案内人」と書きましたが、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。それは「狗邪韓國」が倭人の国だからです。

 「「狗邪韓國」は「韓國」とあるのだから韓人の国だ」と主張する人が居るかも知れません。しかし、その意見は破綻しています。「吉備倭国」とか「伊予倭国」とか言いますか。言いませんよね。倭人の国とわかっているからそんな名は付けないのです。海外・半島にある倭人の国であることを明示する目的で「狗邪國」ではなく「狗邪韓國」と付けたのです。韓人が半島にある韓人の国を「狗邪韓國」と付けないのも同様です。韓人の行政府であれば韓人は単に「任那府」というでしょう。「任那日本府」も同様です。半島にある倭国の行政府であるから「任那日本府」というのです。「狗邪國」では、海外にある国であることを倭人に明らかにできません。よって、「狗邪韓國」は倭人の国なのです。 

[1] 明帝(曹叡):文帝曹丕の長男。生母は甄氏。延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。(Wikipedia「曹叡」より)
[2] 踰遠なる所在:とても遠い所。
[3] 哀れむ:かわいがる。かわいいと思う。
[4] 假し:「假」は皇帝との関係において第三者を介する場合に用います。「假拝」は皇帝への拝謁(直のお目通り)が叶わない場合に用います。直接拝謁できる場合は「壹拝(壱拝、一拝)」と言います。第三者(この場合は帶方太守)を通じて間接的に「授ける」場合は「假授」と言います。

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《『三國志』卷三十 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十 東夷 倭 [底本:宋紹興本]
倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。計其道里,當在會稽、東冶之東。其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與儋耳、朱崖同。倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟臥息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。其行來渡海詣中國,恆使一人,不梳頭,不去蟣蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。若行者吉善,共顧其生口財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。有獮猴、黑雉。其俗舉事行來,有所云為,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。其會同坐起,父子男女無別,人性嗜酒。見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。婦人不淫,不妒忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者沒其妻子,重者滅其門戶。及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣國,國有市,交易有無,使大倭監之。自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。下戶與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬。對應聲曰噫,比如然諾。

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑眾,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羌。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!

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コメント

いつも大変お世話になっております。
 今回のブログ内容に大きな啓発を受けました。
 「魏使達は帯方郡から魏の構造船で出発したのです」とおっしゃり、同時に「狗邪韓国」は倭人の国なのです、とも断定されています。大変刺激を受けますし、「国名」への敏感な違和感とそこへの新解釈、そこからの推論に全面的に賛成いたします(私の賛成では、物足りないでしょうが)懸案とする様々な諸問題への解決の糸口になるとも思えます。少なくとも私の進めようとする論考と一致する点が多く力づけられました。ありがとうございます。
 ご承知かと思いますが、司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの中に「韓(から)の国紀行」があります。同シリーズ2番目に取り上げられ、「週刊朝日」で1971にあります。
 その中で、司馬氏は以下のように述べています。(概略です、お確かめください)
 三国時代、「新羅」と「百済」に挟まれてちっぽけな国が一つあった。・・その国名はいろんなふうに、よばれていた。・・・
 金官国(キムグアン) 駕洛国(カラク) 加羅国(カラ) 伽耶国(カヤ)
任那国(イムナ)  などと呼ばれる。・・・
 民間伝承でも「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」と言うのがあるそうだ。・・・
 駕洛、朝鮮音では、「K alak」である。日本にくると子音の単独発音ができないから最後のkが落ち、カラになる。加羅も当てた漢字のちがいだけで、要するにおなじことばである。伽耶も同様で、1音はy音にかわりやすいためにカラがカヤになったとみていい。
 「クヤ」と、その音を聞いたのが、三世紀ごろの『魏志』の筆者で、狗邪という文字をあてている。この『魏志』の筆者は、朝鮮の帯方郡(テバングン)(半島の中央部)から日本(倭)へ行く道すじを書いた。・・・まず海岸沿いに船で行く。途中上陸し、韓国にいたり、やがて狗邪韓国にいたってはじめて海をわたり、・・・狗邪も加那も加羅もようするに用いてある漢字がちがうだけにすぎない。・・・
 日本の古記録では、この駕洛国のことを、「任那(ミマナ)」という。・・・
 (以下は略します。任那と呼ばれる理由がつづいて述べられています。)

 司馬氏は、大坂外語大学をご卒業されています。音の変化への推定は熟慮されてのものと思われます。更に従軍生活も永く「韓国」の度には幼い時から憧れていたようです。「旅」では現地の人と積極的に交流されています。主張される内容には、非常に説得力を感じていました。司馬氏の個人的意見だと決めつけられない説得力です。
 山田様は、「国名」の持つ不審から同意見に至っています。
 私も大賛成です。これは間違いない事だ、と思えます。山田様の論考の更なる進展に期待する事、大です。
ありがとうございました。

吉村八洲男さま
コメントとご賛意並びにご教示ありがとうございます。

 「狗邪韓国」が倭人の国というのは、ご存じと思いますが、私の意見ではありません。
 「歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里」とあり、「其〔邪馬壹國の〕北岸狗邪韓國」とあることから古田武彦先生が倭人の国であると指摘され、当時の倭国「邪馬一国」が海峡国家であったことを述べられています。
 今回、国名自体に特化して述べたのは、いまだに息をしている「狗邪韓國」は韓人の国だとの主張に「止め(とどめ)を刺す」ことが目的でした。
 私の述べたこと(といっても実際は読者「としちゃん」さまのご意見)の新規性は、「魏使は魏の構造船で倭国に来た」というところです。そう考えることで、石田泉城さまのご意見である「投馬国は済州島である」という主張の妥当性が裏付けられます。誤解のないように付言しますが、「投馬国は済州島」という石田泉城さんの仮説は、この裏付けには無関係に「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。」という記述から論証されています(投馬国は「官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶」とあります)。「裏付け」と言ったのは、帯方郡から「船で出発して、途中から陸行する」という行程と「(投馬国=済州島まで)の水行十日」が合理的に説明できることを指しています。

> ご承知かと思いますが、司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの中に「韓(から)の国紀行」があります。同シリーズ2番目に取り上げられ、「週刊朝日」で1971にあります。
 その中で、司馬氏は以下のように述べています。(概略です、お確かめください)

 ご教示ありがとうございます。浅学にして司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズ中の「韓(から)の国紀行」は存じあげません。ただ、言い訳をすれば、司馬遼太郎氏は「明治維新」を賛美する記述が多く、私見では「歴史を捻じ曲げている」と考えています。司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズは何冊か読んだ記憶がありますが、そんな考えから同感はできませんでした。これはあくまで個人的主観ですので、皆さまのご意見・ご感想を否定する意図はございません。
 なお、誤解を避けるために申し上げますが、ハングルも独学いたしましたし、半島の地名に関する研究書も読んだことはございます。吉村さんのご教示を否定する意図は全くございません。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。

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