平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像―
平城京の大官大寺(1)
―南中門の塑像―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
大安寺は平城京の大官大寺です。大安寺は平城京の次図の位置にあります。
平城京の条坊(大安寺のHP[1]より。色彩加工は山田、以下同様。)
史跡大安寺旧境内南大門地区の発掘調査で、南大門の北側階段を覆う堆積土から焼けていた塑像(仏像)の破片が出土し、奈良時代に作られたものと判断された、という内容の記述が『大安寺・南大門から出土した天平の仏像』(「速報展示史料№10」)[2]にあります。
焼けていた塑像の破片が出土した位置(森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」[3]の挿図9を加工)
また、大安寺の『資財帳』[4]には、天平14年(742)に製作された塑像の四天王像二具(2組)が「南中門」に安置されていたという内容が天平19年に収録されている、ともあります。「速報展示史料№10」から上記の該当部分を転載します(以下、引用文の下線・強調・朱字化はすべて山田によるもので、改行は行頭スペースに変換しています。以下、同様です)。
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史跡大安寺旧境内南大門地区の保存整備事業に関わる発掘調査で、塑像(仏像)が破片で30点あまり出土しました。すべて南大門の北側階段を覆う堆積土から出土しました。
塑像はすべてが火災等で焼けていましたが、製造技法や形態的な特徴を観察できるものが3点ありました。現存する奈良時代の塑像と比較したところ、共通する点が多いことなどから、奈良時代に作られたものと判断しました。
記録に残っていた大安寺の塑像
大安寺には、大安寺の縁起と財産目録をまとめた『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『資財帳』)が残っています。これは天平19年(747)に収録したもので、以下のような記載があります。
「[土聶] 四天王像二具在南中門
右天平十四年歳次壬午寺奉造」
「[土聶](しょう)」とは塑像を指し、天平14年(742)に製作された塑像の四天王像二具(2組)が、「南中門」に安置されていたという内容です。大安寺に現存する塑像は在りませんので、当時の大安寺に所在した塑像について知ることのできる貴重な記録です。
それでは、「南中門」とはどの門を指すのでしょうか。『資財帳』には「南中門」の他、「南大門」、「中門」と3つの門の名称が記されていますが、それぞれ門の位置に関する記載はありません。現在までに発掘調査で確認している門は、金堂の南にある門2つのみで、位置関係から南大門、中門にあてられています。このうちのいずれかが、『資財帳』に記されている「南中門」にあたるという説があります。
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ここに「塑像(仏像)が破片で30点あまり出土しました。すべて南大門の北側階段を覆う堆積土から出土しました。」とあります。また、「『資財帳』には「南中門」の他、「南大門」、「中門」と3つの門の名称が記されています」ともあります。もう一度前掲挿図9をご覧ください。
「中門」とあるのは回廊が発しているので中門に間違いないでしょう。「火災等で焼けて」いた「塑像」が「北側階段を覆う堆積土から出土」した“南大門”は「中門」の直ぐ南にあります。
天平19年に収録された『資財帳』には「[土聶] 四天王像二具在南中門」とあり、「火災等で焼けて」いた「塑像」がこの「四天王像二具」とすれば、「塑像」は「南中門」に置かれていたのです。「南中門」が「火災等で焼けて」しまったので、そこに置かれていた「塑像」も「火災等で焼けて」、発掘調査で「破片で30点あまり出土」したとするしかありません。そして、火災で焼けた「(塑像が在った)南中門」は元の位置に再建されたはずです。「中門」と“南大門”との間に他の門を建てる余地がありません。火災で焼けた「南中門」を再建するには“南大門”の位置しかあり得ません。“南大門”を「南中門」とすれば文献と出土物(考古学的証拠)が完全に整合するのです。「南中門」を“南大門”としたのは「ボタンの掛け違い」だったと考えられます。
また、寺院の「伽藍配置の大原則」という観点から考えてみましょう。
寺院は、俗世界とは異なる「聖なる区域」として、寺院の範囲(「寺域」[5])を大溝・生垣・土塁・塀などで囲います(この囲いを「外郭」と言います)。すなわち、この「外郭」の内側が「寺院」です。寺院への入り口として外郭に門を(通常南側に)設けます。これが「南大門(outer gate)」と(「山門」とも、「不許葷酒入山門」)呼ばれる建築物です。
「寺域」のなかでも「最も聖なる区域」を、回廊・築地塀など(以下、「回廊等」といいます)で囲います(この囲いを「内郭」と言います)。すなわち、この「内郭」の内側が「寺院中枢」です。寺院中枢への入り口として内郭に門を(通常南側に)設けます。これが「中門(inner gate)」と呼ばれる建築物です。
大安寺には、左京六条大路の北側(左京六条四坊)にある伽藍(金堂・講堂など)のほかに、左京六条大路の南側(左京七条四坊)にも、東塔・西塔の「塔院」があります。「伽藍配置の大原則」の観点から見れば、「寺域」は俗界と隔絶させなければなりませんから、東塔・西塔がある区域も「寺域」として外郭で囲ってあるはずで、その外郭への入り口として(通常南側に)「南大門(outer gate)」が設けられているはずです(仮に、その外郭の南辺が道路に面していない場合には、「左京三坊大路」に面した西辺に「南大門」があるはずです)。以上から、「発掘調査で確認している門は、金堂の南にある門2つのみ」(確認された事実)だったとしても、文献資料(『資財帳』)と出土資料(塑像(仏像))の一致、さらに寺院の「伽藍配置の大原則」を無視するのは間違いであると言わねばなりません。
また、「南中門」とする説が奇を衒った説なのかと言えば、Wikipediaにも「このうちのいずれかが、『資財帳』に記されている「南中門」にあたるという説があります。」と書かれていますから、「南中門」とする説は新規性がなく、先人の誰かが既に唱えていた説なのです。なぜ、整合性がある「南中門」説が採用されなかったのでしょうか(理解に苦しむところです)。
「六条大路」と「南中門」の位置
●が塑像が出土した「北側階段を覆う堆積土」の位置
紫色(■)で塗りつぶされた区域が「左京六条四坊」、塔が建っている区域は「左京七条四坊」にあたります。
[1] 大安寺のHP 大安寺について/伽藍を知る/大安寺式伽藍 の「平城京と大安寺」図を加工。
[2] 『大安寺・南大門から出土した天平の仏像』 奈良市埋蔵文化財調査センター速報展示史料№10。リンクした奈文研「全国遺跡報告総覧」からダウンロードできます。
[3] 森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」リンクからダウンロードできます。
[4] 大安寺の『資財帳』 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』 リンクから原本を閲覧できます。こちらは、底本が竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)のものが掲載されているサイトです。
[5] 「寺域」 寺域内が寺院ですが、それ以外の寺の所有地は「寺地」といいます。昔なら「荘園」であったり、現在なら外郭外が駐車場になっていたりします。これが「寺地」です。
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この論考は、“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺南大門、塑像の証言―(2017年7月10日(月))を再構成したものです。
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