社稷、権威の都―副都「倭京(太宰府)」―
社稷、権威の都
―副都「倭京(太宰府)」―[古田史学][論理の赴く所]
ブログ記事「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―(2022年1月25日(火))で、古賀達也さまに次のような疑問(要旨)を提出させていただきました。
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「牛頸窯跡群の操業」が、「六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し」「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」ということが、「太宰府条坊都市造営の開始時期」と「前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)」の考古学的痕跡であるならば、これは九州王朝が難波に「遷都」したといえるのではないでしょうか。
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この批判に対して、古賀さんはご自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」で「難波宮の複都制と副都」と題するシリーズでお答えいただきました。なかでも2676話 2022/02/05難波宮の複都制と副都(5)において、村元健一さんの指摘「「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年)を引用され、「権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」」という都の性格付けには、先に提示した疑問が見事に解消されました。ありがとうございました。
そこで、私も納得したことを確かめようと『日本書紀』にあたってみました。すると古賀さんの見解を見事に裏付ける記事が、天武天皇元年(六七二)六月丙戌〔26日〕条にありました。「壬申の乱」の記事です。
筑紫大宰の栗隈王に対して、「近江朝側に立って大宰帥麾下の軍を発動しろ」との命令を受けた時、栗隈王が拒絶する返答です(返答部分のみ。この条の全文はブログ末に掲載してあります)。
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《天武天皇元年(六七二)六月》
丙戌〔26日〕、〔中略〕男[※]至筑紫、時栗隈王、承苻對曰、筑紫國者、元戍邊賊之難也。其峻城深隍、臨海守者、豈爲内賊耶。今畏命而發軍、則國空矣。若不意之外、有倉卒之事、頓社稷傾之。然後、雖百殺臣、何益焉。豈敢背德耶。輙不動兵者、其是縁也。時栗隈王之二子三野王・武家王、佩劒立于側而無退。於是、男按劒欲進、還恐見亡。故不能成事、而空還之。〔後略〕
〖訓み下し文〗
男(をとこ) [※]、筑紫に至(いた)る、時に栗隈王(くるくまのおほきみ)、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國(つくしのくに)は、元(もと)より邊賊(ほか)の難(わざわひ)を戍(まも)る。其(そ)れ城(き)を峻(たか)くし隍(みぞ)を深(ふか)くして、海(うみ)に臨(のぞ)みて守(まぼ)らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今(いま)命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國(くに)空(むなし)けむ。若(も)し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有(ことあ)らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾(かたぶ)きなむ。然(しかう)して後(のち)に、百(もも)たび臣(やつかれ)を殺(ころ)すと雖(いふと)も、何(なに)の益(しるし)かあらむ。豈(あに)敢(あ)へて德(いきほひ)を背(そむ)かむや。輙(たやす)く兵(いくさ)を動(うごか)さざることは、其(そ)れ是(こ)の縁(よし)なり。」とまうす。
※この「男(をとこ)」というのは、大友皇子より「筑紫大宰栗隅王と吉備國守當摩公廣嶋の二人は元々大皇弟に隷属していたから、命令に反(そむ)く疑いがある。もし命令に従わない様子が見えたら、即殺してしまえ」と指示された上で、命令書を持って筑紫大宰府にやって来た「佐伯連男(さへきのむらじをとこ)」です。
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筑紫大宰の栗隈王は「社稷」という言葉を用いています。
「社」「稷」は、北京商務印書館 編『新華字典 【改訂版】』(東方書店、2000年2月25日、日本版改訂版第1刷、ISBN 4-497-20001-9 C3587)に次のようにあります(簡体字は直した)。
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社 she4 〔P.441〕
❶古代指祭祀土地神的地方。[社火]民間在節日扮演的各種雑劇。
❷指某些団体或機構:合作~.通訊~.集会結~.[社会]1.指由一定的経済基礎和上層建築構成的整体:封建~~.社会主義~~.2.指由于共同的物質条件和生活方式而連系起来的人群.上層~~.[社交]指社会上人与人的交際往来。
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稷 ji4 〔P.217~218〕
❶古代一種粮食作物,有的書説是黍属,有的書説是粟(穀子)。❷古代以稷為百穀之長,因此帝王奉祀為穀神。[社稷](轉) 古代指国家:執干戈以衛~~.
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「社」も「稷」も祭祀に関わる字であることがわかります。「社稷」を古代では「国家」を指すともありますが、この「国家」は近代でいう「国家」(主権・領域・領民をもつ)ではありません。近代でいう「国家」は領域や領民を拡大していくこともできる「権力機構」のことですが、「社稷」は限られた人達だけが衛守する祭祀の領域(祖先を祀る宗廟のある地とも言える)です。つまり「社稷」は支配を正当化する祭祀権(古代の権威)です(それが存在する地域のことでもあります)。
筑紫大宰の栗隈王は、「筑紫国」は九州王朝の「社稷」があり、それを守るのが大宰帥(大宰府に常駐する軍隊)であるから、近江朝のために大宰府の兵を動かすことはできないという理由で命令を拒否したのです。
〖脱線妄想〗
この「稷」は、黄鍾管に入れて度量衡を定めたり、醸して神事に用いる酒を造ったりする時に用いた「秬黍」(久呂岐比、くろきび)だと思います。
『日本書紀』において、「社稷」という語は19箇所あります(白抜き数字は登場順)。どれも広大な「権力」に関わらないもので、皇位継承や祭祀(宗廟と結合する)などで、「権威」に関わっています。
A.社稷(くに)……………………………………9ヶ所(①②④⑥⑬⑭⑯⑰⑲)
B.社稷(くにいへ)………………………………3ヶ所(⑧⑩⑱)
C.宗廟社稷(くにいへ)…………………………4ヶ所(③⑤⑦⑨
C2.宗廟(いへ)と社稷(くに)……………………1ヶ所(⑪)
宗廟(いへ)を獲(たも)ち奉(う)けて、社稷(くに)を危(あやふ)めず。
D.社稷宗廟(くにいへ) …………………………1ヶ所(⑮)
E.天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)………1ヶ所(⑫)
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《垂仁天皇四年九月戊申〔23日〕条》
①皇后母兄狭穗彦王謀反、欲危社稷。
〖訓み下し文〗
皇后の母兄(いろせ)狭穗彦王、謀反(みかどかたむけんとはか)りて、社稷(くに)を危(あやぶ)めむとす。
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《垂仁天皇五年十月己卯朔条》
②亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王。不言則傾社稷。
〖訓み下し文〗
亦天皇の恩(みうつくしび)を背くこと得ず。告言(まう)さば兄(このかみ)の王(みこ)を亡(ほろぼ)してむ。言(まう)さずは社稷(くに)を傾(かたぶ)けてむ。
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《神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年四月甲辰〔3日〕条》
③群臣皆曰、皇后爲天下、計所以安宗廟社稷。
〖訓み下し文〗
群臣、皆曰(まう)さく、皇后、天下が爲に、宗廟社稷(くにいへ)を安みせむ所以(ゆゑ)を計(はか)ります。
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《神功皇后摂政六二年二月》
④〈…〔略〕…。天皇大怒、即遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。…〔略〕…〉
〖訓み下し文〗
天皇、大きに怒りたまひて、即ち木羅斤資(もくらこんし)を遣して、兵衆(いくさびと)を領(ひき)ゐて加羅に來集(まうつど)ひて、其の社稷(くに)を復(かへ)したまふといふ。
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《應神天皇四一年二月戊申〔15日〕条》
⑤其先帝立我爲太子、豈有能才乎。唯愛之者也。亦奉宗廟社稷重事也。僕之不侫、不足以稱。
〖訓み下し文〗
其れ先帝の、我を立てて太子としたまへることは、豈能才(よきかど)有らむとしてなれや。唯愛(めぐみ)したまひてなり。亦宗廟社稷(くにいえ)に奉(つか)へまつることは重事(おもきことなり)。僕(やつかれ)は不侫(みつなく)して、稱(かな)ふに足らず。
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《仁德天皇四十年二月》
⑥天皇聞是歌、而勃然大怒之曰、朕以私恨、不欲失親、忍之也。何[覺*]矣、私事將及于社稷、則欲殺隼別皇子。
〖訓み下し文〗
天皇、是の歌を聞(きこ)しめして、勃然(はなはだ)大きに怒りて曰はく、「朕、私(わたくし)の恨を以て、親(はらから)を失(うしな)はまほ(欲)しみせず、忍びてなり。何なにぞ[覺*](きず)ますとして私の事をもて社稷(くに)に及(およぼ)さむ」とのたまひて、則ち隼別皇子を殺さむと欲(おもほ)す。
〔[覺*](きず)は、冠の中央が「爻」に替えて「同」で、下が「見」に替えて「且」。〕
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《允恭天皇即位前紀五年春正月条》
⑦雄朝津間稚子宿禰皇子曰、奉宗廟社稷重事也。寡人篤疾、不足以稱。
〖訓み下し文〗
雄朝津間稚子宿禰の皇子の曰はく、宗廟社稷(くにいへ)を奉(う)くるは重事(おもきこと)なり。寡人(おのれ)篤(お)き疾(やまひ)して、以て稱(かな)ふに足らず」とのたまふ。
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《顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年十二月条》
⑧吾聞、天皇不可以久曠。天命不可以謙拒。大王以社稷爲計、百姓爲心。
〖訓み下し文〗
吾聞く、天皇は以て久(ひさ)に曠(むな)しかるべからず。天命は以て謙(さ)り拒(ふせ)くべからず。大王(きみ)、社稷(くにいへ)を以て計(はからひ)とし、百姓(おほみたから)をもて心(こころ)としたまへ」とのたまふ。
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《繼體天皇元年二月甲午〔4日〕条》
⑨大伴大連等皆曰、臣伏計之、大王子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。
〖訓み下し文〗
大伴大連等皆曰さく、「臣伏して計(はかりみ)れば、大王、民を子とし國を治めたまふ、最(もと)も稱(かな)ふべし。臣等(やつこら)、宗廟社稷(くにいへ)の爲に、計(はかりみ)ること敢(あ)へて忽(いるかせ)にせず。幸(さいはひ)に衆(もろもろ)の願(ねがひ)に藉(よ)りて、乞(ねが)はくは垂聽納(ゆるしいれたま)へ」とまうす。
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《繼體天皇廿年辛卯朔条》
⑩重詔曰、大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。
重(また)詔して曰(のたま)はく、大將(おほきいくさのきみ)は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡(ほろびほろほろびざること)、是に在り。勗(つと)めよ。恭(つつし)みて天罰(あまつつみ)を行(おこな)へ」とのたまふ。
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《繼體天皇廿四年二月丁未朔条》
⑪有大略者、不問其所短。有高才者、不非其所失。故獲奉宗廟、不危社稷。
〖訓み下し文〗
大略(たばかり)有る者は、其の所短(たらぬ)を問はず。高才(かど)有る者は、其の所失(あやまち)を非(そし)らず。故、宗廟(いへ)を獲(たも)ち奉(う)けて、社稷(くに)を危(あやふ)めず。
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《欽明天皇十三年十月》
⑫物部大連尾輿・中臣連鎌子、同奏曰、我國家之、王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。
〖訓み下し文〗
物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏(まう)して曰(まう)さく、「我が國家(みかど)の、天下(あめのした)に王(きみ)とましますは、恆(つね)に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拜(まつ)りたまふことを事(わざ)とす。方(まさ)に今改めて蕃神(あたしくにのかみ)を拜(をが)みたまはば、恐(おそ)るらくは國神(くにつかみ)の怒(いかり)を致(いた)したまはむ」とまうす。
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《欽明天皇十六年二月条》
⑬蘇我卿曰、昔在天皇大泊瀬之世、汝國爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰、屈請建邦之神、徃救將亡之主、必當國家謐靖、人物乂安。由是、請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者、天地割判之代、草木言語之時、自天降來、造立國家之神也。頃聞、汝國輟而不祀。方今悛悔前過、脩理神宮、奉祭神靈、國可昌盛。汝當莫忘。
〖訓み下し文〗
蘇我卿(そがのまえつきみ)の曰はく、昔在(むかし)天皇大泊瀬の世(みよ)に、汝(いまし)の國、高麗(こま)の爲に逼(せ)められて、危(あやふ)きこと累卵(かさなれるかひご)より甚(はなはだ)し。是に、天皇、神祇伯(かむつかさのかみ)に命(みことのり)して、敬(うやま)ひて策(はかりごと)を神祇(あまつやしろくにつやしろ)に受(う)けしめたまふ。祝者(はふり)、廼(すなは)ち神の語(みこと)に託(つ)けて報(まう)して曰(まう)さく、『邦(くに)を建(た)てし神を屈請(つつしみいま)せて、徃(ゆ)きて亡(ほろ)びなむとする主(にりむ)を救(すく)はば、必ず當(まさ)に國家(くに)謐靖(しずま)りて、人物(おほみたから)乂安(やす)からむ』とまうす。是に由よりて、神を請(ま)せて徃きて救はしめたまふ。所以(かれ)社稷(くに)安寧 (やすらか)なりき。原(たずねみ)れば夫(そ)れ邦を建てし神とは、天地(あまつち)割(ひら)け判(わか)れし代(よ)、草木言語(ものがたり)せし時に、天降來(あまくだ)りまして、國家(くに)を造り立てし神なり。頃(このごろ)聞く、汝が國、輟(す)てて祀(まつ)らずと。方(まさ)に今、前(さき)の過(あやまり)を悛(あらた)めて悔(く)ひて、神の宮(みや)を脩(つくろ)ひ理(をさ)めて、神の靈(みたま)を祭(まつ)り奉(たてまつ)らば、國昌盛(さか)えぬべし。汝當(まさ)に忘(わす)るること莫(なか)れ」といふ。
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《推古天皇十二年四月戊辰〔3日〕条》
⑭七曰、人各有任。掌宜不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社稷勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。
〖訓み下し文〗
七(ななつ)に曰はく、人各(おのおの)任(よさし)有り。掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲(さかしひと)官(つかさ)に任(よさ)すときは、頌(ほ)むる音(こゑ)則(すなは)ち起(おこ)る。姧(かだま)しき者(ひと)官(つかさ)を有(たも)つときは、禍亂(わざわひみだれ)則ち繁(しげ)し。世に生れながら知るひと少(すくな)し。剋(よ)く念(おも)ひて聖(ひじり)と作(な)る。事に大きなり少(いささけ)き無く、人を得て必ず治(おさま)らむ。時に急(と)き緩(おそ)きこと無し。賢(さかしひと)に遇ひて自(おの)づから寛(ゆるやか)なり。此れに因りて國家永久(あめのしたとこめづら)にして、社稷(くに)危(あやふ)からず。故、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)、官(つかさ)の爲に人を求めて、人の爲に官を求めず。
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《舒明天皇即位前紀推古天皇三十六年九月己巳朔条》
⑮仍以爲、社稷宗廟重事也。我眇少以不賢。何敢當焉。
〖訓み下し文〗
仍(よ)りて以爲(おも)へらく、社稷宗廟(くにいへ)は重事(おもきこと)なり。我(おのれ)眇少(わか)くして不賢(をさな)し。何(いかに)ぞ敢(あ)へて當(あた)らむ。
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《皇極天皇三年正月条》
⑯中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、侠[門/視*][門/兪*]社稷之權、歴試接於王宗之中、而求可立功名哲主。
〖訓み下し文〗
中臣鎌子連、人(ひと)と爲(な)り忠正(ただ)しくして、匡(だだ)し濟(すく)ふ心有り。乃(すなは)ち蘇我臣入鹿が、君臣(きみやつこらま)長幼(このかみおとと)の序(ついで)を失(うしな)ひ、社稷(くに)を[門/視*][門/兪*](うかが)ふ權(はかりこと)を侠(わきばさ)むことを憤(いく)み、歴試(つた)ひて王宗(きみたち)の中(みなか)に接(まじは)りて、功名(いたはり)を立つべき哲主(さかしきみ)をば求む。
〔 [門/視*][門/兪*]それぞれ「門」構えの内に「視」「兪」。〕
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《齊明天皇六年十月条》
⑰又乞師請救。并乞王子余豐璋曰、〈或本云、佐平貴智・達率正珍也。〉唐人率我蝥賊、來蕩揺我疆場、覆我社稷、俘我君臣。〈百濟王義慈、其妻恩古、其子隆等、其臣佐平千福・國辨成・孫登等、凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉、而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徴乎。〉而百濟國、遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主、云々。
〖訓み下し文〗
又、師(いくさ)を乞(まう)して救(すくひ)を請(こ)ふ。并(あはせ)て王子(せしむ)余豐璋を乞(まう)して曰(まう)さく、〈或本(あるふみ)に云(い)はく、佐平貴智・達率(だちそち)正珍なりといふ。〉唐人(もろこしひと)、我(おの)が蝥賊(あしきあた)を率(ゐ)て、來(きた)りて我(わ)が疆場(さかひ)を蕩揺(ただよ)はし、我が社稷(くに)を覆(くつがへ)し、我が君臣(きみやつこ)を俘(とりこ)にす。〈百濟の王(こきし)義慈、其の妻(め)恩古、其の子隆等、其の臣佐平千福・國辨成・孫登等、凡(すべ)て五十餘、秋七月十三日に、蘇將軍の爲に捉(かす)ゐられて〔※〕、唐國に送去(おく)らる。蓋(けだ)し是(これ)、無故(ゆゑな)くして兵(つはもの)を持ちし徴(しるし)か。〉而(しか)も百濟國、遙(はるか)に天皇の護念(みめぐみ)に頼(かう)ぶりて、更に鳩(もと)め集(あつ)めて邦(くに)を成す。方(まさ)に今、謹(つつし)みて願(ねが)はくは、百濟國の天朝(みかど)に遣(まだ)し侍(はべ)る王子(せしむ)豐璋を迎(むか)へて、國の主(にりむ)にせむとす」と、云々(しかしかまうす)。
〔※蘇將軍とは左衛大将軍の蘇定方のこと。「捉(かす)ゐる」とは「掠めて連れ去る」の意。〕
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《天武天皇即位前紀天智天皇十年十月庚辰〔17日〕条》
⑱四年冬十月庚辰〔17日〕、天皇臥病、以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮、引入大殿。時安摩侶、素東宮所好。密顧東宮曰、有意而言矣。東宮於茲疑有隠謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業。乃辭譲之曰、臣之不幸、元有多病。何能保社稷。願陛下擧天下附皇后、仍立大友皇子、宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功德。天皇聽之。即日、出家法服。因以、収私兵器、悉納於司。
〖訓み下し文〗
四年の冬十月の庚辰〔17日〕 に、天皇、臥病(みやまひ)したまひて、痛(いた)みたまふこと甚(はなはだ)し。是(ここ)に、蘇賀臣安麻侶を遣(つかは)して、東宮〔※〕を召して大殿(おほとの)に引入(ひきい)る。時に安摩侶は、素(もと)より東宮の好(よみ)したまふ所(ところ)なり。密(ひそか)に東宮を顧(かへり)みたてまつりて曰(い)はく。「有意(こころしら)ひて言(のたま)へ」とまうす。東宮、茲(ここ)に、隠(かく)せる謀(はかりごと)有らむことを疑(うたが)ひて愼(つつし)みたまふ。天皇、東宮に勅(みことのり)して、鴻業(あまつひづぎのこと)を授(さづ)く。乃(すなは)ち辭譲(いな)びて曰(まうしたま)はく「臣(やつかれ)が不幸(さいわひな)き、元(もと)より多(さは)の病(やまひ)有り。何(いかに)ぞ能(よ)く社稷(くにいへ)を保(たも)たむ。願(ねが)はくは、陛下(きみ)、天下を擧(あ)げて皇后(きさき)〔※〕に附(よ)せたまへ。仍(なほ)、大友皇子を立てて、儲君(まうけのきみ)としたまへ。臣(やつかれ)は、今日(けふ)出家(いへで)して、陛下(きみ)の爲(みため)に、功德(のりのこと)を修(おこな)はむ」とまうしたまふ。天皇、聽(ゆる)したまふ。即日(そのひ)に、出家して法服(のりのころも)をきたまふ。因(よ)りて以(も)て私(わたくし)の兵器(つはもの)を収(と)りて、悉(ことごとく)に司(おほやけ)に納(をさ)めたまふ。
〔※ 東宮=大海人皇子、皇后=倭姫王〕
《天智天皇一〇年(六七一)十月》庚辰〔17日〕、天皇疾病彌留。勅喚東宮、引入臥内、詔曰、朕疾甚。以後事屬汝、云々。於是、再拜稱疾固辭、不受曰、請奉洪業、付屬大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉爲天皇、出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南、踞坐胡床、剃除鬢髪、爲沙門。於是、天皇遣次田生磐送袈裟。
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《天武天皇元年六月丙戌〔26日〕条》
⑲丙戌〔26日〕、旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰、所置關者、非山部王・石川王。是大津皇子也。便随益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部胝枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之。天皇大喜。將及郡家、男依乗騨來奏曰、發美濃師三千人、得塞不破道。於是、天皇美雄依之務、既到郡家、先遣高市皇子於不破、令監軍事。遣山背部小田・安斗連阿加布、發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手、發東山軍。是日、天皇宿于桑名郡家。即停以不進。是時、近江朝聞大皇弟入東國、其群臣悉愕、京内震動。或遁欲入東國。或退將匿山澤。爰大友皇子謂群臣曰、將何計。一臣進曰、遅謀將後。不如、急聚驍騎、乗跡而逐之。皇子不從。則以韋那公磐鍬・書直藥・忍坂直大摩侶、遣于東國。以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向、遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國、並悉令興兵。仍謂男與磐手曰、其筑紫大宰栗隅王、與吉備國守當摩公廣嶋、二人、元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色、即殺之。於是、磐手到吉備國、授苻之日、紿廣嶋令解刀。磐手乃抜刀以殺也。男至筑紫、時栗隈王、承苻對曰、筑紫國者、元戍邊賊之難也。其峻城深隍、臨海守者、豈爲内賊耶。今畏命而發軍、則國空矣。若不意之外、有倉卒之事、頓社稷傾之。然後、雖百殺臣、何益焉。豈敢背德耶。輙不動兵者、其是縁也。時栗隈王之二子三野王・武家王、佩劒立于側而無退。於是、男按劒欲進、還恐見亡。故不能成事、而空還之。東方驛使磐鍬等、將及不破、磐鍬獨疑山中有兵、以後之緩行。時伏兵自山出、遮藥等之後。磐鍬見之、知藥等見捕、則返逃走、僅得脱。當是時、大伴連馬來田・弟吹負、並見時否、以稱病退於倭家。然知其登嗣位者、必所居吉野大皇弟矣。是以、馬來田先從天皇。唯吹負留謂、立名于一時、欲寧艱難。即招一二族及諸豪傑、僅得數十人。
〖訓み下し文〗
丙戌〔26日〕 に、旦(あした)に、朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかは)の邊(へ)にして、天照大神を望拜(たよせにをが)みたまふ。是の時に、益人(ますひと)到(いた)りて奏(まう)して曰(まう)さく、「所關(せき)に置(はべ)らしめし者(ひと)は、山部王・石川王に非(あら)ず。是(これ)大津皇子なり」とまうす。便(すなは)ち益人に随(したが)ひて參來(まうきた)る。大分君惠尺(おほきだのきみゑさか)・難波吉士三綱(なにはのきしみつな)・駒田勝忍人(こまだのすぐりおしひと)・山邊君安麻呂(やまのへのきみやすまろ)・小墾田猪手(をはりだのゐて)・泥部胝枳(はづかしべのしき)・大分君稚臣(おほきたのきみわかみ)・根連金身(ねのむらじかねみ)・漆部友背(ぬりべのともせ)が輩(ともがら)、從(おほみともつかへまつ)る。天皇大きに喜(よろこ)びたまふ。郡家(こほりのみやけ)に及(いた)らむとするに、男依(をより)〔※〕、騨(はいま)に乗りて來(まうき)て奏(まう)して曰(まう)さく、「美濃の師(いくさ)三千人を發(おこ)して、不破道(ふはのみち)を塞(さ)ふることを得(え)つ」とまうす。是に、天皇、雄依(をより)〔※〕の務(いさを)しきことを美(ほ)めて、既に郡家に到(いた)りて、先(ま)づ高市皇子を不破(ふは)に遣(つかは)して、軍事(いくさのこと)を監(み)しむ。山背部小田(やましろべのをだ)・安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)を遣して、東海(うみつぢ)の軍(いくさ)を發(おこ)す。又(また)稚櫻部臣五百瀬(わかさくらべのおみいほせ)・土師連馬手(はじのむらじうまて)を遣して、東山(やまのみち)の軍(いくさ)を發(おこ)す。是の日に、天皇、桑名郡家(くはなのこほりのみやけ)に宿(やど)りたまふ。即ち停(とどま)りて進(いでま)さず。
是の時に、近江朝(あふみのみかど)、大皇弟(まうけのきみ)東國(あづまのくに)に入(い)りたまふことを聞(き)きて、其の群臣(まへつきみたち)悉(ことごとく)に愕(お)ぢて、京(みやこ)の内(うち)震動(さわ)く。或(ある)いは遁(のが)れて東國に入らむとす。或いは退(しりぞ)きて山澤(やまさわ)に匿(かく)れむとす。爰(ここ)に大友皇子、群臣に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「何(いか)にか計(はか)らむ」とのたまふ。一(ひとり)の臣(まえつきみ)進(すす)みて曰(まう)さく、「遅(おそ)く謀(はか)らば後(おく)れなむ。如(し)かじ、急(すみやか)に驍騎(ときうまいくさ)を聚(つど)へて、跡(あと)に乗(の)りて逐(お)はむには」とまうす。皇子(みこ)從(したが)ひたまはず。韋那公磐鍬(ゐなのきみいはすき)・書直藥(ふみのあたひくすり)・忍坂直大摩侶(おしさかのあたひおほまろ)を以(も)て、東國に遣す。穗積臣百足(ほづみのおみももたり)・弟五百枝(おとといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭(やまと)の京(みやこ)に遣す。且(また)、佐伯連男(さへきのむらじをとこ)を筑紫(つくし)に遣す。樟使主盤磐手(くすのおみいはて)を吉備國(きびのくに)に遣して、並(ならび)に悉(ふつく)に兵(いくさ)を興(おこ)さしむ。仍(よ)りて男(をとこ)と磐手(いはて)とに謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(そ)れ筑紫大宰(つくしのおほみこともち)栗隅王(くるくまのおほきみ)と、吉備國守(きびのくにのかみ)當摩公廣嶋(たぎまのきみひろしま)と、二人(ふたり)、元(もと)より大皇弟に隷(つ)きまつること有り。疑(うたが)はくは反(そむ)くこと有らむか。若(も)し不服(まつろ)はぬ色(おもへり)有らば、即ち殺(ころ)せ」とのたまふ。是に、磐手、吉備國に到りて、苻(おしてのふみ)を授(たま)ふ日に、廣嶋を紿(あざむ)きて刀(かたな)を解(と)かしむ。磐手、乃(すなは)ち刀を抜(ぬ)きて殺しつ。男(をとこ)、筑紫に至(いた)る、時に栗隈王(くるくまのおほきみ)、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國(つくしのくに)は、元(もと)より邊賊(ほか)の難(わざわひ)を戍(まも)る。其(そ)れ城(き)を峻(たか)くし隍(みぞ)を深(ふか)くして、海(うみ)に臨(のぞ)みて守(まぼ)らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今(いま)命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國(くに)空(むなし)けむ。若(も)し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有(ことあ)らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾(かたぶ)きなむ。然(しかう)して後(のち)に、百(もも)たび臣(やつかれ)を殺(ころ)すと雖(いふと)も、何(なに)の益(しるし)かあらむ。豈(あに)敢(あ)へて德(いきほひ)を背(そむ)かむや。輙(たやす)く兵(いくさ)を動(うごか)さざることは、其(そ)れ是(こ)の縁(よし)なり。」とまうす。時に栗隈王の二(ふたり)の子(みこ)、三野王(みののおほきみ)・武家王(たけいへのおほきみ)、劒(つるぎ)を佩(は)きて側(かたはら)に立(た)ちて退(しりぞ)くこと無(な)し。是(ここ)に、男(をとこ)、劒を按(とりしば)りて進(すす)まむとするに、還(かへ)りて亡(ころ)されむことを恐(おそ)る。故、事を成(な)すこと能(あた)はずして、空しく還りぬ。東(ひむがし)の方(かた)の驛使(はいまづかひ)磐鍬(いはすき)等、不破(ふは)に及(いた)らむとするに、磐鍬獨(ひとり)山中(やまなか)に兵(いくさ)有らむことを疑(うたが)ひて、後(おく)れて緩(やうや)くに行く。時に伏兵(かくれたるいくさ)山(やま)より出(い)でて、藥(くすり)等が後(うしろ)を遮(た)ふ。磐鍬見て、藥等が捕(とら)はるることを知(し)りて、返(かへ)りて逃走(に)げて、僅(わづか)に脱(まぬか)るること得たり。
是の時に當(あた)りて、大伴連馬來田(おほとものむらじまぐた)・弟吹負(いろどふけひ)、並(ならび)に時の否(よくもあらぬ)を見て、病(やまひ)を稱(まう)して、倭(やまと)の家(いへ)に退(まか)りぬ。然(しかう)して其の登嗣位(あまつひつぎしら)さむは、必(かなら)ず吉野(よしの)に居(ま)します大皇弟ならむといふことを知れり。是(ここ)を以(も)て、馬來田(まぐた)、先(ま)づ天皇に從(したが)ふ。唯(ただ)し吹負(ふけひ)のみ留(とどま)りて謂(おも)はく、名(な)を一時(ひととき)に立(た)てて、艱難(わざはひ)を寧(やす)めむと欲(おも)ふ。即ち一二(ひとりふたり)の族(やから)及(およ)び諸(もろもろ)の豪傑(いさをし)を招(を)きて、僅に數十人を得つ。
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黄鐘管(読み)こうしょうかん
…古来,中国では律(音の周波数の基準,また,おそらくは音楽の演奏様式の基準)が典礼上の意味もあって重視され,六つの律が万事の根本だとされてきたが,所定の周波数の音を発する笛の長さは一定であるはずなので,そこに〈度〉の基準を求めるという考えが生まれた。それをめぐる伝承や史談の当否は論断しがたいけれども,1972年に中国湖南省の長沙古墳の発掘の際,陽律,陰律あわせて12本の基準笛が見いだされ,黄鐘管の長さは17.65cmと実測されたので,この史談に新たな関心が寄せられるようになった。ただし,この笛の長さを,1尺ではなく9寸としていたこと,また,元来はクロキビ90粒の長さに合わせて笛を作ったとも解されることなど話の筋道は一本調子ではない。…(コトバンク 世界大百科事典内の黄鐘管の言及【度量衡】より、下線は山田による)
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漢字「秬」
〔説文〕五下に「黍なり。一稃(ぷ)二米、以て醸(かも)すものなり」とし、[矩/鬯*]を正字、秬を或る体の字とする。黒黍に鬱金草(うつこんそう)を加えて醸した酒を[矩/鬯*]といい、神事に用いた。金文に「[矩/鬯*]鬯(きょちゃう)」を賜う例が多く、〔書、洛誥〕にも「予ふるに秬鬯二卣(いう)を以てす」とみえる。(コトバンク 秬(漢字)普及版 字通「秬(漢字)」の解説より抜粋)
〔[矩/鬯*] は「矩 」の下に「鬯 」〕
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『説文解字』(せつもんかいじ、拼音: Shuōwén Jiězì)は、最古の部首別漢字字典。略して説文(せつもん、拼音: Shuōwén)ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(100年)に成立し、建光元年(121年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。本文14篇・叙(序)1篇の15篇からなり、叙によれば小篆の見出し字9353字、重文(古文・籀文および他の異体字)1163字を収録する(現行本ではこれより少し字数が多い)。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記す。
現在から見ると俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。(Wikipedia「説文解字」より抜粋)
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