« 平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像― | トップページ | 平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺― »

2022年2月 7日 (月)

平城京の大官大寺(2)―「元興寺」が移築された―

平城京の大官大寺
「元興寺」が移築された[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]

 『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建 (た)つ。」とあります。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
《霊亀二年(七一六)五月》〇辛卯〔16日〕〔中略〕。始徙建元興寺于左京六条四坊。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
平城京左京六条四坊の位置
Photo_20220207150301
 『続日本紀』に従えば、大安寺は元興寺を移築した寺院ということになります。
 通説は、『続日本紀』の次の記事によって、霊亀二年(七一六)五月辛卯条の「始めて『元興寺』を左京六条四坊に徒し建つ」にある「元興寺 」を誤りであるとしています。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
《養老二年(七一八)九月》〇甲寅〔23日〕法興寺於新京。
〖読み下し文〗養老二年(七一八)九月二十三日、法興寺を新京に遷す。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 しかし『続日本紀』の内容に矛盾はなく通説の挙げる記事は『続日本紀』の原文を改訂する根拠になり得ません
 「左京六条四坊」には「大安寺」が建っています。すなわち、どこかに在った「元興寺」を「左京六条四坊」に(大安寺として)移築したと『続日本紀』には記されているのです。

 この記事の要点は、「『元興寺』という寺名の寺院が霊亀二年(七一六)に消失した。」という事実です。

 一方の「元興寺」を誤りとする根拠にされている、養老二年(七一八)九月に遷された「法興寺」については、Wikipediaの記事を俎上に上げて説明します。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺(新元興寺)」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。Wikipedia「元興寺」より抜粋)
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 法興寺は、養老二年(七一八)に平城京に遷って「元興寺」新元興寺と称したことになります。法興寺が平城京に遷って「元興寺」と改称したことから、「飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った」飛鳥の法興寺は、もともとからの寺名の「法興寺」或いは「(平城京の)元興寺(新元興寺)」に対して「本元興寺」と呼ばれたのでしょう。そんなことが可能だったのは、先に「要点」として挙げましたが、本家本元の「元興寺」が既に霊亀二年七一六五月十六日に消失していたからです。どこかに「元興寺」という寺院が存在していれば、法興寺を「元興寺」に改称できません。

 歴史と伝統がある寺名の「法興寺」を敢えて「元興寺」に改称するのは、「法興寺」より「元興寺」という寺名の方が寺格が高いからであるつまり、元興寺を移す動機がこれであった)と考えざるを得ません。

 Wikipediaには「「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。」と記されていますが、私にはこの件(くだり)が全く理解できません。
 「法興」とは「仏法を興す(した))という意味であり、最初に」という意味は含まれません。「最初に」という意味がないことは「中興(の祖)」という言葉があることからも理解できるでしょう。

 一方「元興」とは「最初に興す(した)」という意味があり、しかも「最初」という「意味が重い」のです。「催し物の最初の日」は「初日」とは言いますが「元日」とは言いません。「元日」と言えるのは「一年の最初の日」だけです。これが「元興寺」の「元」の字の「意味の重さ」です。つまり、倭国で「(寺院だから当然「仏法を」)最初に興す(した)」という意味を持っているのが「元興寺」という寺名なのです。「法興寺」とは寺名の格が違う(すなわち寺格が違う)と言わねばなりません。まず「元興寺」という寺名を消滅させておいて、大和では最も歴史と伝統のある「法興寺」に、それ以上の寺格がある「元興寺」の寺名を名乗らせたのです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
この考察は ブログ記事 妄想「元興寺」考 ―なくせない寺・「元興寺」―(2018年2月2日(金))の一部分を抜き出して再構成したものです。

« 平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像― | トップページ | 平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺― »

古代史」カテゴリの記事

古田史学」カテゴリの記事

多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

論理の赴くところ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ