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2022年2月20日 (日)

科野からの便り(36)―「科野と九州―「蕨手文様」への一考察―」―

科野からの便り(36)
「科野と九州―「蕨手文様」への一考察―」―[コラム]

 2022/02/17()、吉村八洲男さまから「古田史学会報No168」に掲載された論考をご寄稿いただきましたので掲載いたします。なお、縦書きの会報を横書きのブログに掲載したため、図の位置の指示(例「右図」)を(例「下図」に)変更しています。
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科野と九州 「蕨手文様」への一考察(古田史学会報・原稿R・3・11)

上田市 吉村八洲男

1.始めに

 筆者は、長野県上田市に在住します。長野県第三位、人口15万の地方小都市ですが、古代「科野の国」の要衝地と思われ、何故か「信濃国分寺」も身近です。手前味噌になりかねないが、古代における「科野」の重要性、「上田」が果たした意味について皆様の御関心・ご認知を頂きたく、愚論考を進めます。

 私は初学者ですが、周囲に散見される古代「遺品」「遺跡」「事績」の多くが、「九州」由来説を受け入れるとスムースに解釈出来る事にかねて驚きを持っていた。だから、既存歴史界(「九州王朝」論者も含め)が、それらを正鵠に説明していないとも思っていた。「遺品」「遺跡」の多くが「一元歴史論・九州王朝論」では説明出来ず、「謎」・「結論不明」のままで放置されていると思われたからである。

 古田先生は、「古代」全国各地に王朝が存在していたとされ、それらを「関東王朝」「東北王朝」などと命名されました。「多元論」として説明されたのです。この「多元的古代」は疑えない事と思われます。

 そう考えた時、いち早く勢力を伸長させ「出雲王朝」を支配した「九州王朝」が、次なる進出先に「東日本」を考え、ある時期「科野の国」をその足掛かりにした事は十分にあり得る事と思われます。

 北アルプスを「果て」としながら、同時にその向こうに肥沃な地が広がる事を九州王朝の人々は認知していたと思えます。「和田家古文書」での「アソベ(阿蘇辺)族」末裔が住み、勢力を張った処が、熊本県・「阿蘇」だとも思えるからです(上田にも、群馬にも、「アソ地」がある)。

 「九州勢」は、「鉄」を主武器とし「科野」への進出を果たしたと思われます(B.C.1~A.D.1世紀頃)。

 ここの支配を確定した以後、「九州」と「科野」とは直結していたと私は思います。「科野」は「東国」進出の入口、ここから「東国」に向かったと考えられます。「科野」の、「文化や体制支配」の先進性を示す数々の考古事例がそれを証明すると私には思えている。(九州王朝の「科野進出」に関しては、「古田会ニュース」No.199.200.201 を御覧ください)

 「古代東国」理解の際、『「九州王朝」が「科野の国」から「東国」へと伸長した』、この観点から「古代史」を推定する事が必須であろうと私は感じている。「鉄」への理解だけでなく、「土器」を始めとした多くの「考古事例」からもそう言えると思っている。

 これから「古代九州と科野」の結びつきを示す一例として、両地での「蕨手文様」の濃厚分布を説明する(「6世紀中期・末期」か)。この事例からも「科野の国」への新たな理解がなされる事を私は心から切望したい。

 

2.「蕨手(わらびて)文様」

 「蕨手文様」から説明する。これは考古学上の用語で、「の」の字・その類似形を意匠(デザイン)した文様と考えて良いだろう。大別すると、「の」の字形状を持つ基本形とそれを組み合わせた「複合」蕨手文がある(「下図」を参照)。基本形と言える『「の」の字形』文様は、日本ではすでに「縄文期」から各地で見られ、中国でも頻出する。(この「文様の意味」については、諸説がある)
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 この文様が注目されるのは、「装飾古墳」との関連からである。『「の」の字形・「複合」形』の「蕨手文様」は、700はあると言われる「九州」装飾古墳中に僅か6例(9例説も)しかなく、しかも特定の時代(6世紀)に出現するからだ。 稀少・貴重な文様が、なぜかこの時期集中して出現すると言えよう。

 目立たなかったこの文様が一気に花開いたといえるのが「王塚古墳」である。この「文様」が「壁画」主要部、玄室入り口を数多く占拠しているのである。(「下図」を御覧ください)
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 ここでは、「複合蕨手文様」が数多く見られる(無数にあるから、「分類」されたのだ!)。「古墳・数」としては、「1」となるが、その中には「蕨手文様」が異常とも言える程、使用され、濃厚分布しているのである。

 そして、特定地域古墳に急増したと推定される出現例から、この「文様」の発生・意味について「学者」は様々に理解・憶測を試みて来たのである。

 発生時期からは、「ダンワラ古墳」出土「鉄鏡」にある「複合蕨手文様」と何らかの関連があるかと推定され、だから名称自体を「雲文」と呼ぶべきだという意見さえ出て来ているのである。


 この「王塚古墳」「蕨手文様」に画期的新見解をもたらしたのが、James Mac(阿部周一)氏である。その論考は『「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と停止』(氏のブログ「古田史学とMe 」中の題名)とそれに関連する一連の論考に詳しい(先行して「伊東義彰」氏論考にも類似の見解がある「古田史学会報No.69・77」)。端的に言うと「文様」「古墳」「考古」「文献」などから「九州王朝内部には権力争いがあった」と言う推定・解釈になるのだが、さらなる追及は「磐井の乱(王権の移動)」解釈とも繋がり、私の力では到底及ばない。諸氏の更なる究明・解明に期待する他はないだろう。

 

3.「科野」の「蕨手文様」

 3年前、「科野の国」の「高良社」に興味を持ち、関連して真田町「出速雄(いずはやお)神社」を訪れた。その時、「石祀」に残された奇妙な「文様・3個」に遭遇したのである。
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 既に「蕨手文様・瓦当」が、全国で「上田」に「6例」しか発見されていない事に興味を持っていた私は、これに驚いた。案内された神社氏子からは、「石祀」とは過去には社名・祭神名を持つ神社であった事、この文様が「神紋」と思える事を教えられた。確かにこの文様すべてが、これを持つ「石祀」の同一位置(神紋位置)にあった。

 そして追いかけている途中から気付いた。『これは、「外向き蕨手文様」ではないか?』

それを決定的にしたのが、「足島神社」(上田市)の次の文様である。
Photo_20220220122001
 「足島社」の「文様」は、「王塚古墳」「蕨手文様A・外向きタイプ」と酷似しているのです。

 更に上田市・東御市周辺などを調べました。その結果が、「資料1」です。驚く事に「複合蕨手文様・外向きタイプ」を「神紋」にしたかと疑える「石祀」」は、50カ所近くに及んだのです。(さらに石祀中、鮮明と思える「42」文様を写真にしてあります。ご参考に)

 微妙な違いはあるが、明らかに「外向き蕨手文様」と認定できる神紋「石祀」が、これだけの数あるのである。これは、並みの数ではない。「偶然の一致」ではないだろう。

 上田市周辺の千曲川流域には、「蕨手文様」が密集し濃厚に存在していたと言える。所在地の比較から現在の行政区分とは無関係に存在していたと思えた(それが、今迄気付かれなかった大きな要因か)。

 繰り返そう。鮮明に「神紋」と判断出来る「蕨手文・石祀」数が「42」(写真で提示)、「断定をためらうが、明らかにそうであろう」と推測されたのも7~8個はあったのだ。

 この地域での私の調査は、完全とは言えない。それでも「約50」は認められるのです。綿密に地域を網羅する調査をしたら、この数が更に増えるのは明らかと思えました。

 当然ながら私は、既存の歴史書(市史・町史・その他文献)にでる「一族」・「有名人」の「家紋」や「類似文様」を調べました。だがいくら調べても、どこにもこの「文様」はありません。「類似を疑える文様」さえないのです。既存の「歴史書」には、全く登場しないのです。

 私は、「科野の国」古代に関連する「文様だ」と確信しました。(【資料Ⅰ】をご参考下さい。)

 

4.「高良社」調査

 この「蕨手文様」は、何を意味しているのでしょう。私には、3年前の「科野の国・高良社」調査(千曲川中流地を調査・「多元」No.147・148参照)の結果が想起されました。

 その時までに「科野の国」では、「12」の「高良社」が報告されていました。「千曲川水系(中流域)」は僅かに「2社」とされていたのですが、この調査の結果、そこには「13の高良社」があったのです。

 つまり、「11社」が新たに確認されたのですが、それまでの神社数が「幟(はた)・泉・石祀」などに微かに認められる「高良玉垂命」・「高良社」名などの推定をカウントした数だったのに比べ、「千曲川水系・高良社」は、「社(建物)」として残るのが多く、「拝殿」が付いているケースさえありました(上田市・五加「八幡大神縣社」)。特徴をもつ「神」も認められました。

 それ迄とは明らかに違う判断が必要と私は思いました(上田市には、その内「5社」がありました)。

 そして、私は驚いたのです。3年前の調査の「高良社分布からの推論」と、今回の「蕨手文を神紋とする石祀分布地図」とは重なり合うように思えたのです。いや、重なり合っているとしか判断出来ませんでした。

 (【資料2】が、その際の調査結果です。)

 「高良社」は極めて「地域性」の高い「北九州」のある部族の持った信仰です。何故「科野」にこの様に濃厚分布するのでしょう。

 そして私には、それぞれが「九州」由来を暗示していると判断されました。

 別々の調査がなぜか同一傾向・同一結果を示しているのです。これは偶然でしょうか?

 

5.もう一つの「蕨手(複合)文様」

 前述したが、上田市にはもう一つ、別タイプの「蕨手文様」も出現している。

 全国で上田市近辺でしか出土しない「瓦当」の文様としてで、それが「蕨手文瓦当」である。(下図、「信濃国分寺」出土瓦当、「蕨手文様」が内円部に認められる)
Photo_20220220122201
 全国で「6例」しかないこの「瓦当」だが、その文様は間違いなく「蕨手文様」である。となると、「石祀」以外にも「蕨手文様」がこの地域一帯で使われていたと結論できるかも知れない。同じ部族が、異なる対象に同一の「文様」を使用したと言えるからだ。

 実は「7例目」の「蕨手文瓦当」を私自身が発見したのがこの論考を進める大きな動機なのだが、それをきっかけに地域の「蕨手文様」追求が新たな古代史へ新展開・新見解をもたらしたことになるかも知れない。さらに「蕨手文様の発生」「蕨手文様瓦当の発生」などへの追求も驚きの推論・結論となって来るのだが、これらにはより詳細な論考なくしては賛意を得られないだろう。再論をお約束したい。

 ここでは、こんなにも多くの「蕨手文様」使用例が「上田近辺」「科野」にある事だけを知って頂けたらと思う。

 

6.終わりに

 6世紀、「蕨手文様(特に複合文様)」の濃厚な分布は、日本の他地域には見られないものだ。「九州」「王宮古墳」にしか濃厚分布が認められないと思われる。地域性が強い「高良社」も同じである。北九州にしか濃厚分布していない。

 「蕨手文様」が、「科野」で自然に大量発生する訳がない。確かに上田市周辺の「蕨手文様(複合タイプ)石祀」・「瓦当」の製作・使用時期は未確定である。が、「蕨手文瓦当」は、「既成歴史観」からさえも7(6)世紀の不明な建物(寺)に使われたかと推定され始めているのである。

 6世紀・九州「王塚古墳」に使われた「蕨手文様」の「科野」への波及(到来)を想定すると、「石祀」・「瓦当」での使用が、ピッタリ説明できると私は思う。

 「この文様はある氏族により九州からもたらされた」、つまり『「王塚古墳」築造者達が「科野の国」へ来ていた』、そう断言出来るのではないだろうか?両地域での「複合蕨手文様」の濃厚分布がそう言っている。「高良社」の濃厚分布もそれを裏付け確定させていると私は思う。

 「蕨手文様」が示す古代「某」部族の「科野(恐らくは、全国へも)」到来は、各種の「推定」を生む事になる。Mac氏の論考はそこからも再評価されるべきと私は感じている。

(終)

参考文献

  描かれた黄泉の世界―王塚古墳―  柳沢一男  新泉社  2006
  信濃国分寺―本編―   上田市教育委員会・斎藤忠編  吉川弘文館 1974 
  信濃国分寺跡発掘五十年  信濃国分寺資料館 編・発行 2014
  瓦当文様の謎を追って  村上和夫  岩波ブックセンター  1990   その他

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 【資料1.
 「蕨手文様(外向きタイプ)」を「神紋」に持つ石祀

 東御市・・美都穂神社4.和神社4.祢津建事神社4.白鳥神社1.
 佐久市・・大塚諏訪神社1.
 上田市真田町・・出早雄神社3.山家神社2.皇大神社2.戸沢神社1.自性院1.十林寺諏訪神社1.表木神社1.実相院1.宮原神社1.横尾神社1.天満宮1.
 神科・塩田他・・足島神社1.鴻臚館跡1.染谷英神社1.弥吾平神社1.
 青木村・・日吉神社1.村松1.阿鳥川神社1.
 筑北村・・神名宮4.
 千曲市・・治田神社1.須々岐水神社1.

**具体的な「神紋映像」は、別図でご確認下さい。また、地図上で確かめられるような「図」もあります**

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 【資料2.
 3年前の「高良社」調査の一部を表示します(これへの詳細な見解は「多元」誌で)。

番号 所在地  神社名  主祭神名 「高良社」の状況 
一  飯山市瑞穂 小菅神社 伊弉諾尊・他6神 「玉垂社」・今は無い
二  長野市塩崎 軻良根古神社 誉田別命・他2神  石柱上の「高良社」石祠 
三  長野市松代 祝神社 生魂命・他2神(境内社に「応神天皇」)「高良社」現在は無い
四  須坂市小山 墨坂神社 品陀和気尊・他3神 境内社「高良社」同市「芝宮」地にも同名社
五  千曲市八幡 武水別神社 誉田別命・他3神 境内社「高良社」(鳥居あり)
六  千曲市上山田 佐良級神社 誉田別命・他2神 境内社「高良社」(鳥居あり) 
七  上田市本原 誉田足玉神社 誉田別命・他2神 境内社「高良社」(鳥居あり)
八  上田市国分 国分神社 応神天皇 境内社「高麗社」 
九  上田市下之条 葦原淵神社 大鷦鷯命(応神天皇と同一人物)「高良社」(樹の洞中)
十  上田市下本郷 誉田別神社 応神天皇 境内社「高良社」・「高良玉垂命」あり 
十一 上田市五加 八幡大神縣社 誉田別神・他2神 境内社「高良社」「高良玉垂命」拝殿あり
十二 佐久市蓬田 浅科八幡神社 誉田別命・他2神 境内社「高良玉垂社」
十三 佐久市岩村田 若宮八幡社 誉田別命・他4神 「高良社」額・説明板

  注・「高良社」は、「科野」の他地域では新たな追加が認められていない。(2021現在)

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