平城京の大官大寺(5)―大安寺式伽藍配置は無かった―
平城京の大官大寺(5)
―大安寺式伽藍配置は無かった―[古代史][論理の赴くところ][多元的「国分寺」研究][古田史学]
「大安寺式伽藍配置」とは、端的に言えば、「南大門の南に双塔を配する様式」のことです(下線・強調・朱字化は山田。以下、同様)。
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平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。(Wikipedia「大安寺」より抜粋)
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「大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていた」とあります。一方、「寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。」ともあります。
この通説は、寺院の次の「伽藍配置の大原則」(再掲)と矛盾しています。
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伽藍配置の大原則
寺院は、俗世界とは異なる「聖なる区域」として、寺院の範囲(「寺域」)を大溝・生垣・土塁・塀などで囲います(この囲いを「外郭」と言います)。すなわち、この「外郭」の内側が「寺院」です。寺院への入り口として外郭に門を(通常南側に)設けます。これが「南大門(outer gate)」と(「山門」とも、「不許葷酒入山門」)呼ばれる建築物です。
「寺域」のなかでも「最も聖なる区域」を、回廊・築地塀など(以下、「回廊等」といいます)で囲います(この囲いを「内郭」と言います)。すなわち、この「内郭」の内側が「寺院中枢」です。寺院中枢への入り口として内郭に門を(通常南側に)設けます。これが「中門(inner gate)」と呼ばれる建築物です。
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この「伽藍配置の大原則」に従っているならば、「六条大路の南側にも伸び」ている「(左京七条四坊にある)寺域」も外郭で囲われていて、その「寺域」に入る門が設けられていたはずです。
次図をご覧ください。いつの時代のものかは不明ですが「左京七条四坊」の双塔が建っている区域も大原則通り「寺域」として囲われており、「寺域(=寺院)」への入り口として門が設けられています。この「左京七条四坊」の「寺域(=寺院)」を囲った外郭の南辺に「南大門」が設けられていたはずなのです(未発掘)。
塔を囲った外郭とその入り口
したがって、道慈が「修造」した大安寺の伽藍配置は「双塔を南大門の南に配する」とされる“大安寺式伽藍配置”ではなかったのです。そもそも、「南大門(outer gate)」は「寺域(=寺院)」の最も南に設けられるから「南大門」と呼称されるのであり、「南大門(outer gate)」の南は「寺域(=寺院)」の外であり、「寺院」の外に「仏塔」を建てる僧などいるはずないのです。「左京七条四坊」に双塔を建てる改造を行ったがゆえに、「左京六条大路」が「寺域(=寺院)」の中を横切る形になったので、「左京六条四坊」の南辺にある門(もと「南大門」)を「南中門」と改称した、と考えられます。
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