古田史学会報 No.169(2022年4月12日)を読んで―自説に都合よい反論はダメ―
古田史学会報 No.169(2022年4月12日)を読んで
―自説に都合よい反論はダメ―[古田史学]
No.169は、「「倭姫」を含む「倭」の含まれる名前は倭国(九州王朝)における一種の官職的な称号」とする日野智貴氏の論文「「倭日子」と「倭日売」という称号」があり、また「韓国(カラクニ)は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指す」としてその地は伽耶であるとする大原重雄氏の論文「天孫降臨の天児屋命」などもあり、興味深い論稿に満ちているのですが、巻頭を飾った「[耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」とする谷本茂氏の論文「「[耳冉*]牟羅國=済州島」説への疑問と「[耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」仮説」に違和感がありました。
私の違和感の第一は、『隋書』「東夷 百濟」伝中に「其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。」と記されているのだから「𨈭牟羅國」は「東夷」に属するはずで、「南蛮」の「ルソン島」の記事が東夷伝に記されているという結論には納得できません。大きな枠組みから外れている、ということです。
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昌〔第27代 威徳王扶餘昌〕死,子餘宣〔第29代 法王扶餘宣〕立(1),死,子餘璋〔第30代 武王扶餘璋〕立。
大業三年,璋遣使者燕文進朝貢。其年,又遣使者王孝鄰入獻,請討高麗。煬帝許之,令覘高麗動靜。然璋內與高麗通和,挾詐以窺中國。七年,帝親征高麗,璋使其臣國智牟來請軍期。帝大悅,厚加賞錫,遣尚書起部郎席律詣百濟,與相知。明年,六軍渡遼,璋亦嚴兵於境,聲言助軍,實持兩端。尋與新羅有隙,每相戰爭。十年,復遣使朝貢。後天下亂,使命遂絕。
其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。
(1)『隋書』列傳第四十六 東夷「百濟伝」は、第29代法王 を第27代威徳王 の子としていて、第28代恵王(第26代聖王 扶餘明の次男、諱は季)を認識していないが、第29代法王 扶餘宣は第28代恵王の子。
『三国史記』は、即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡(おくりな)された、と記すのみ。
『三国遺事』は、恵王(扶餘季)を威徳王の子 別名「献王」と記す。
『日本書紀』は、欽明天皇16年(555年)2月に、威徳王が送った聖王(扶餘明)戦死の知らせの使者として「百濟王子餘昌、遣王子惠〈王子惠者、威德王之弟也。〉」と記す。
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《欽明天皇十六年(五五五)二月》十六年春二月、百濟王子餘昌、遣王子惠〈王子惠者、威德王之弟也。〉奏曰、聖明王爲賊見殺。〈十五年、爲新羅所殺、故今奏之。〉天皇聞而傷恨。廼遣使者、迎津慰問、於是、許勢臣問王子惠曰、爲當欲留此間。爲當欲向本郷。惠答曰、依憑天皇之德、冀報考王之讎。若垂哀憐、多賜兵革、雪垢復讎、臣之願也。臣之去留、敢不唯命是從。俄而蘇我臣問訊曰。聖王妙達天道地理、名流四表八方。意謂、永保安寧、統領海西蕃國、千年萬歳、奉事天皇。豈圖、一旦眇然昇遐、與水無歸、即安玄室。何痛之酷。何悲之哀。凡在含情、誰不傷悼。當復何咎致茲禍也。今復何術用鎮國家。惠報答之曰、臣禀性愚蒙、不知大計。何況禍福所倚、國家存亡者乎。蘇我卿曰、昔在天皇大泊瀬之世、汝國爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰、屈請建邦之神、徃救將亡之主、必當國家謐靖、人物乂安。由是、請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者、天地株判之代、草木言語之時、自天降來、造立國家之神也。頃聞、汝國輟而不祀。方今悛悔前過、脩理神宮、奉祭神靈、國可昌盛。汝當莫忘。
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第二は、以前石田泉城さんが『隋書』の「東西・南北」を悉皆調査された結論から「南北千餘里,東西數百里」を「南(辺)・北(辺)千餘里,東(辺)・西(辺)數百里」とされた結論に納得していたため、泉城さんの悉皆調査の結果に対して反論せず、自説に都合よく反論している姿勢に違和感を持ちました(私が納得したときの泉城さんのブログ記事は「『方』法」の表現法―条里制を調べていたら―(2019年4月17日(水))にリンクを貼りましが、Yahoo!JAPANのサービスが終了していたので、Amebaブログの泉城の古代日記 コダイアリー の記事 大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い>(2022-04-18 00:53:04)をご覧ください)。以下、谷本氏が如何に自説に都合よく反論しているかを簡単に示します。
谷本氏は、第一章で、①「海行三月」は百濟~済州島の行程としては過大であり、適合しない。「海行三日」とでも考えない限り実勢地理に合わない。②「南北X里 東西Y里」の理解が通常(南北距離がX里で東西距離がY里)とは逆であり、この文面から「東西距離がX里、南北距離がY里」と理解し更に里数値を「短里」として実地形を想定しているが、そう解釈する根拠が薄弱である、と反論されています。
石田泉城さんの上記ブログ記事 大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い>から引用します。
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『隋書』百済伝の記述に、「其南海行三月有耽牟羅國」とあります。百済から耽牟羅國(済州島)までが「海行三月」であるという意味です。
この『隋書』百済伝の記述にある百済の首都は538年に熊津(ユウシン)から泗沘(サビ)(現・忠清南道扶余郡)へ南遷しましたので、泗沘(サビ)です。ここから済州島までが「海行三月」になります。
泗沘(サビ)から済州島までの長さが「海行三月」と認識されていたのです。この点は重要です。「海行三月」は現代の私たちがその数字から想像するような長い距離ではないからです。
図4のとおり、「海行三月」はおおむね320kmの比較的短い距離なのです。
図4(泉城氏のブログより転載)
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つまり、谷本氏は「現代の私たちがその数字から想像するような」理解(距離感)に基づいて反論しているのです。「泗沘(サビ)から済州島まで」と[亻妥]國伝の「其([亻妥])國境東西五月行,南(辺)北(辺)三月行,各至於海。」が整合しているのです。[亻妥]國の所在は、、縦方向と横方向の比率が「5対3」の縦長の(南北方向に長い)四面海に囲まれている九州島以外にあり得ません。その九州島の「南(辺)北(辺)三月行」が「泗沘(サビ)から済州島まで」「海行三月」と一致しているのです。
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『隋書』東夷伝百済條(以下『隋書』百済伝とする)の耽牟羅(たむら)國の記事があります。「東西」「南北」をずばり距離で表現されています。また島国で地形が明確ですから記事の内容がしっかり確認できます。そこには、次のように記述されています。
其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里
<通常の読み>
百済国の南、海行三月にタムラ国が有ります。南北が千余里で、東西が数百里の(縦長の)国です。
<私の読み>
百済国の南、海行三月にタムラ国が有ります。南辺・北辺が千余里で、東辺・西辺が数百里の(横長の)国です。
この記事を読んで、「南北千余里」は「南から北までの長さが千余里」で、「東西数百里」は「東から西までの長さが数百里」とするのが現代の常識です。つまり、一般的には縦長の形を表すと解釈されます。しかし、その常識はまったく見当違いです。ここで示されている耽牟羅國は済州島です。済州島を衛星写真や地図で眺めれば、それは次の図のとおり横長の島です。済州島は横長ですから、先述の「方」で表すと「南北千余里」は「南辺・北辺が千余里」で、「東西数百里」は「東辺・西辺が数百里」の横長の区域であると理解しなければつじつまが合いません。
済州島の図(泉城氏のブログより転載)
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ご覧のように「南北千餘里東西數百里」が約80㎞・約40㎞なのですから、長里ではありえず「短里」と理解するしかありません。
以上、谷本氏が如何に自説に都合よく反論しているかを示しましたが、谷本氏は「本会報上での詳細な議論が見られなかった」ことを理由に、自説に都合よく反論するような方にお見受けしています(私の誤解や偏見かもしれませんが)から、石田泉城さまには、是非とも谷本茂氏への再批判を古田史学会報にご投稿なされるように希望いたします。
なお、このブログ記事は、私の谷本仮説([耳冉*]牟羅國=フィリピン(ルソン島)」仮説)への批判ではなく、谷本氏の論稿に対する単なる読後感想なので、私に対する批判は受付ません。
繰り返しになりますが、石田泉城氏の「[耳冉*]牟羅國=済州島」説は、下記ブログ記事をご覧ください。
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