「鼠」再論(四)―神科条里と番匠と鼠―
「鼠」再論(四)
―神科条里と番匠と鼠―[コラム]
吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので掲載いたします。これは「鼠」再論(三)「上田・神科条里と番匠」の続きですので、先に(三)をご覧ください。
この(四)で701年の王朝交代(大宝建元)を画期として「評」から「郡」への史料改変がなされたように、「番匠」から「工匠」へと改変があったことを明らかにした正木裕氏の画期的な論稿「前期難波宮の造営準備について」(「古代に真実を求めて」第21集・明石書店・平成17年)が紹介されています。
また、「大宝律令」の最古の「注釈書」と言われている「古記」は「大宝律令」以前の事例に数多く言及している「研究書」と言うべきことを実例を挙げて論じ、「古記」注釈中に「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述があると読解し、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当することを発見された阿部周一氏の 「古記」と「番匠」と「難波宮」(「古田史学会報No.143」掲載)も紹介されています。これ以上の解説はひかえて、読んでいただく方が面白いでしょう。
なお、山田の独断で、第5章の最後にあった小河川沿いの「面」所在図 の位置を上に移動して「精密な図ではないのだがご理解を頂ければと思う。」の次に置きました(図を見てからでないと理解できないので)。
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「鼠」再論(四)
「神科条里と番匠と鼠」
上田市 吉村八洲男
1.「番匠」とは
定説への見直しは必須であろう。改めて「番匠」語を最新資料から読み解かなくてはならないと思えた。それをヒントに、「50個」も残り説明のつかない「番匠」語と、築造時代が不明な神科条里との関連を推測しなくてはならないと思えた。
直近に、「番匠」語・その資料とを詳細に(由来や発生時の社会状況などに)言及したものがある。
正木裕氏の「前期難波宮の造営準備について」(「古代に真実を求めて」第21集・明石書店・平成17年)論考である。
愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』に記された記事(「修験道資料集Ⅱ」中に記載・昭和59年)に着目され、そこから秀逸で重要な論考を展開された(以下、『縁起』と書く)。
『縁起』には、こう書かれていた。「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二戊申。日本国御巡礼給う。・・・(以下略)・・・」。
先ず正木氏は、ここに記載された諸事実の根拠を他資料から確認された。ことに記事から「番匠」(語・制)が「孝徳天皇」の時代から始まったと推定された。それは「番匠」語の初出を確定し、併せて「番匠」語発生時の「多元的社会」をも推定させる画期的な論考であった。
正木氏は、この『縁起』文章から、『孝徳時代難波都城の造営に携わる工匠を確保するために「番匠」制度が始まった、常色二年には・・・天子が日本巡礼(巡行)をされた』内容が確定されるとも読み解いたのである。孝徳天皇ではない、より上位者である「天子」の存在を確認し、この「縁起」は「日本書紀」以外の資料だが記事には真実の歴史が描かれるとしたのだ。
同時に、九州王朝の都「前期難波宮」造営について「日本書紀」には全く書かれないが、朝堂院様式による壮麗な「前期難波宮」の実存は、各種資料の再解釈(「書紀」記載歴史を34年遡上させる解釈)や新発見考古資料から断定されるとされた。「前期難波宮」は、「番匠」たちにより孝徳期に築造されたと主張されたのである。
正木氏は、その「前期難波宮」造営の過程は、時代が過ぎた(34年後)「天武記」に詳細に描かれるとも推定された。だから孝徳白雉元年記事の「将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫」とは、造都の際の「工匠」などの実務者の長官であると考えられた。「日本書紀」には「番匠」表記はなく「工匠」語が表記されているが、業務の内容から両者は同一のものとみなしてよいとされたのである。
正木氏は『縁起』記事から、九州王朝がこの「番匠」制度を造り「工匠」を各地(国)から徴集し、「前期難波宮・造都」という難事業を行ったと推定されたのである。「番匠」は九州王朝が始め行った制度だから、王朝交代後の8世紀資料からは「番匠」表記が消え、代わりに「工匠」表記(語)となったと私には理解された。
王朝交代後の「大宝令」「養老令」「令集解」には、この「番匠」語句が使われなくなったとも理解した(だから、「番役」・「分番」などの表現はある)。
正木氏の論考は画期的で数多くの教示に満ちた見解だった。「番匠」語が書かれた初めての資料『三嶋縁起』が確認され、その歴史的位置も確定されたのである。
「番匠」語は、貴重な語句で「九州年号」と同じ立場だったのだろうか。九州王朝の存在を暗示する言葉だけに、王朝交代後の公式な記録からは消されてしまったと思えた。「番匠」語はこの制度を始めた九州王朝を意味していたからだろうか。
「番」とは、「かわるがわる」の意味であろう(諸橋徹次「大漢和辞典」)、だから「番匠」語は当時の社会状況を適切に表現した言葉ともなる。支配下の各国から「匠(たくみ)」を「かわるがわる」徴集し、特定の国に過度の負担をかけず事業を遂行する制度といえるからだ。「番匠」制度を造り、諸国に「番匠」を命じたある王朝はすでに全国を支配していたと私には思えた。
正木氏の説明は「番匠」語の発生について教示に満ちたものだった。『縁起』が言うように「番匠」とは、九州王朝が生んだ「匠」を徴集する制度と断定してよいと思えた。資料には出てこない「番匠」語の由来・経過が見事に解明されたと思えた。
それにしても、その「番匠」語がなぜ上田にこんなにも残るのだろう?
2.阿部周一氏の推測
正木氏の論考により「番匠」語の「発生」や「その意味」が解明されたと思える。「番匠」語とは、ある歴史を示す貴重で希少な言語だったのである。
そして、「阿部周一」氏が「古田史学会報No.143」(「古記」と「番匠」と「難波宮」 )でさらに重要な推論を展開された。私にとってこれが「頂門の一針」となった。
阿部氏の論考は資料・文献の綿密な読解に裏打ちされたものが多いのだが、同様な手法から、『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された事、それが「続日本紀」からも窺える』と断定されたのである。
阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から、最古の注釈書と言われる「古記」に注目され論考を進められた。「古記」は「養老律令」以前に作られた「大宝律令」の唯一の「注釈書」と言われていたが、むしろ「研究書」と言うべきで「大宝律令」以前の事例に数多く言及していると推論、その実例をいくつか挙げられた。
そして、『「古記」注釈中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。『三嶋神社縁起』中の「番匠」語についての未解明部分を、「令集解」への「古記」解釈から詳細を読み解き説明されたのである。驚天動地だが、反論のしようがない指摘であった。
阿部氏は「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当すると発見された。さらに綿密な「令集解」解読から、この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代」からだと論定されたのである。それらの再確認から、正木氏の先見的な数々の推論を間違いない論考だと支持されたのである。
綿密な論考は「番匠」制度の具体的運用にも及んだ。「前期難波宮」造営時、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」へと「匠」の徴発国が変化したと読解されたのである。交互に「匠」の徴発を行うこの制度は「交番制」を意味する。そこからも「番匠」制度がすでに造られ、諸国から「匠」集団を徴集していたと推定したのである(この「遠・近・西方の民」などの認定からも制度の設立者が「九州王朝」だと判断されたのだ)。
私もその立論には納得させられた。正木氏の指摘した「三島神社縁起(孝徳期に番匠が始まったとする)」での「番匠」語の詳細(特に運用方法)が、阿部氏の論考から再確認されると思えたのである。「令集解」に「番匠」語の痕跡が残っていたのだ!
正木氏、阿部氏の主張された論考には反論のしようがないと思えた。「続日本紀」「文武天皇・大宝二年九月条にある「行宮」築造に際しても同例(諸国からの徴集)が読み取れる、と私にも推論された。大和王朝も九州王朝の「番匠」制度を踏襲したと推論されるのである。
そして私は、阿部氏の論考からある重要事を教示された。それが阿部氏の論証の正しさを証明すると思えた。「上田・神科条里」と「番匠」(語・制度)とを結び付けるある事実に気が付いたのである。
3.条里地名に残る「国名」
上田神科には、阿部氏の論証の正しさを証明する具体例が残っていた。それが、条里地に残る「国名を示す地名」である。
「神科条里遺構」地に隣接する村の「検知帳」地名には「番匠」地名と並んで、「はりま・いずみ・するが・えちご・さぬき・やまと・いせ」など「7か国」の「国名」が表記されていた!
これは、阿部氏の論考内容を裏打ちする事実と思えた。
なぜ「検地帳」にこの国名が残っているのだろう?それは、この国の人々が「番匠」制度のもと、徴集されて神科へ来たからではないだろうか。徴集された「諸国」の「匠・人足・雇人」が居住したから「条里」隣接地に国名が「地名」「町名」として残ったのではないだろうか。
徴集された彼らは、「神科条里・地域条里水田」を造成する。つまり、彼らが「番匠」と呼ばれ地域内各地に50もの「番匠」地名が残したのではないだろうか!
これら「国名」にはあるまとまりが見られた。「近畿・中部」地方の国名が多いのである。これも阿部氏論考を裏付けると思えた。「7か国」はランダムに集められたのではない、ある選択がなされたからだと思えたのだ。
「番匠」制度のもと、これらの国々の「匠・人員」が徴集され、「上田・神科」へ派遣されたと思えた。「神科条里」に残る「7か国」名とは、「番匠」として集められた「匠・人員」たちの出身国名だったのである。
神科一帯に「番匠」地名と共に「国名」が残っている理由が判明すると思えた。「神科条里」に残る「番匠」地名・「国」地名が、共に阿部氏論考の正しさを実証しているのである。
やはり「神科条里」は九州王朝によって作られたのではないだろうか。
4.「条里水田」と「番匠」語
さて、前述したように『「上田・神科条里」は「大和王朝」により8世紀に作られた』と永らく歴史界からは信じられてきた。考古学が示す事実(7世紀)と歴史学の推測とには最初から大きな齟齬があったのだが、何とか結論を出さねばならない。だから両者を納得させる為にこの「条里的(!)遺構」という奇妙な判定がなされたと思えた。こらは、一元史観の限界を示す判断だったのである。
ところが、九州王朝をキーワードとすると「七世紀の神科条里遺構」・「地域水田遺構」・50ある「番匠」語とその分布、すべてが繋がってくる。「番匠」語の遺存こそ『九州王朝によって作られた「神科条里」』を証明すると思える。
7世紀・九州王朝が、神科の土地を開墾・開発し、灌漑水路を造り、「水田」「条里」を造成した。「番匠」語はその際に生まれ、それが「検地帳」に残ったのだ。そうでなくてはこの地域に、「50」もの「番匠」語が特殊な分布を示しつつ残存する事態が説明できないと思えた。
最大の疑問、「番匠語がなぜ広範囲に地域の村(集落)に分布するのか」について、私はこう考えている。
今迄は、集落がそれぞれこの「番匠」地名を持っていたとして来た(「定説」はそこから生まれた)。
このスタートがおかしいと思う。「条里(水田)と集落、どちらが古いのか?」という基本的で重要な疑問があるのだ。そこを問題とすべきだったと思える。
その答えは、当然ながら「条里」だろう。だからこそ郷土史家は集落に遺存した地名を永年探し求めて来たのである。それが条里の存在を証明すると思ったからなのだ。やはり、「条里」の方が古いのである。「条里・その制度」が使われなくなってからそこに「村・集落」が形成されたのである。
となると各集落に残る「番匠」地名への結論はこうなる、『この「番匠」地名は、集落形成以前からこの条里遺構の一帯にあった』。つまり、条里(水田)一帯には集落形成以前にすでに「番匠」名称があったのである。
となると、この地名は、「条里(水田)の形成」と密接な関係があった事になる。水田が作られた際にこの地名が生まれ(付与された)と推定され、そして村(集落)の形成時にもそれがそのまま残ったと理解されるのだ。「条里水田」の形成された時に、この地名が付けられたのである。「村・集落」は、その後に作られたのだ。
更に、8世紀以後の歴史判断から、村(集落)が形成された後、この「番匠」地名を新規に広範囲に残す勢力を想定することは不可能と思える。「番匠」語の由来・意味を知らずに地名として残す事などありえないからだ(神科地域に関しては、「荘園」であった時代も戦国の時代でも、この地域は「農村部」であった)。
私は結論した。「条里」の形成時に「番匠」語は発生したのであろう。それは、彼ら「番匠」が「条里」を造ったからと思える。地域での広い分布も、「神科条里」築造以降、「番匠」たちが次々と地域に「条里(水田)」を作ったとすると説明されよう。
「検地帳」には、「50」の「バンショウ」語が残っていた。その理由は、農民たちが「水田」造成者を忘れなかったからと思える。「番匠」語が今でも地域の多数の村に残るのは、「条里水田」を彼ら「番匠」が作ったからではないだろうか?
5.「番匠」地名と「条里水田」
白井氏の著作中で、「地域の条里水田図」が掲載されている。下図である。
「地域の条里水田図」(A図「上田盆地の条里制遺構地」白井氏作成)
白井氏は「神科(染谷台)条里遺構」論考を発表された後、1971年の「長野県地理学会」で、この図(「上田盆地の条里制遺構地」)を中心に『地域に条里水田があった』持論を展開された。地域内の『初期(古代)「条里水田」が開発された地域』を具体的な図として提示されたのである(その後行われた郷土史家を中心とした上田市の調査でも、これらの「古代水田跡」が確認された)。
白井氏が提示されたこの「古代地域条里水田図」と、今回確認された「バンショウ・バン」地名の分布とには、ある関連があるかと思えた。それを最後の指摘とし、紹介してみよう。
私はまず「番匠」語(地名)を白井氏作成の「古代条里(水田)」図上に重ねてみた。そして、奇妙な事に気が付いたのだ。
盆地を流れる小河川(しょうかせん)〔注1〕沿いに「番匠」語が残っていると思えたのだ。そこへの集中が見られたのである。考えてみると、自然にまかせた生育では「稲作」が成立しない。「耕作地」とするには、「水利」・「灌漑」がどうしても必要だろう。
だから「灌漑路」「区割り」などを行った時、「番匠」がそこに集中して住んでいた、だから地名が残った、としても頷ける事と思えたのだ。
私は郷土史家に倣い、その「番匠」地名集中地を「○○面」と名付けてみた。
それが「A~Ⅾ」である。それを「条里水田図」と重ねてみた、精密な図ではないのだがご理解を頂ければと思う。
小河川沿いの「面」所在図(白井氏作成の「上田盆地の条里制遺構地」図に加筆)
「番匠」地名は、「資料1.」の時と同じ「1~50」の番号を使った。
A 吉田堰面(神川上流から祢津への用水路面) 1~10 計10地名
B 神科台地条里面 ① 遺構地 24・25・26 計3地名
② 遺構隣接地 11~19 計9地名
③ 神川上流(真田へ至る)20~23 計4地名
C 依田川面(丸子・和田へ至る) 27~33 計7地名
Ⅾ 産川・湯川面(塩田地区) 34~40 計7地名
E 浦野川面(小泉・青木へ至る) 41~50 計10地名
*吉村注・・・「塩田地区」を白井氏は指摘しなかったが、郷土史家はここにも「古代条里水田の痕跡」を認め追及した。その結果、「条里発祥の地」と刻まれる石碑が建立される迄の成果となった。周囲に「番匠」地名が確認される事と関連すると判断し、この「図」に取り上げた。
*「E 浦野川面」は広範すぎるかも知れない、「F 中の条面」を別個に想定すべきかも知れないが、この分類では同一とした。
6.「鼠」と「番匠」
「鼠」については前回まで論考してきた〔注2〕。賛否はそれぞれと思うが、「神科条里」が九州王朝によって作られたと確定すれば、「鼠」語の意味や使用に関しても新知見が生まれる。九州王朝が勢威を張った「科野の国」での「鼠」語となるからだ。
前論では、九州王朝が「土地造成・土木」部門を持っていたかと想像した。「日本書紀」記事から「匠」の存在を推定し、彼らの容姿・仕事内容を大和王朝は「鼠」と揶揄していたとした。いわば初期の「鼠」語(軽い揶揄)が「日本書紀」では使用されていたと推定したのである。
九州王朝の時代、「土地造成」を主業務とした組織(部署)の存在を資料からは断定しにくい。ただ、時代が過ぎた8世紀「令義解」になら、その一部が残っているかと私は考えてみた。業務内容に変化があっても、その痕跡があるではないか、と思ったのだ。
気が付いたのは、「土工司(どこうのつかさ)」の存在である。この部門の存在が、「土地造成」を主業務としていた「匠」の存在を確定していると思えたのだ。
「令集解」ではこう説明されている。「土工司」とは、「掌営土作瓦泥」つまり「土作・瓦泥」を担当する部署とある(「職員令」から)。だがその業務内容説明では、「瓦泥猶瓦也」(瓦泥からは瓦を造る)とあり、「瓦・泥」の焼成方法などが細かく説明されるが、もう一つの部分・「土作」関係にはなぜか言及されていない。
だが「土工司」への「古記」「注釈」では、「泥戸五十一戸。一番役二十五丁。為品部免調庸役也。」とあり、そこからは、この役職が往時(「令」の時代以前か)相当重要な仕事であったと予想される。だが、やはりそれ以上の説明はない。
ところが「令」ではこの「土工司」担当職員が、「古記」が注釈した時代よりその数が減らされ縮小されて書かれる。縮小された理由は不明のままだ。「令」の説明通りなら、主業務とした「瓦」への需要は拡大している筈だから、職員数も増員されるのが普通と思える。なにか釈然としない人員の縮小と思える。
肝心な「土作」への説明がない事と併せて、「土作・造成」部門を切り離したかとさえ思う。いずれにせよ、「令」以前の「土作司」とは何かが違うと思える。
また、「東宮」には「主工署」が置かれたが(これも「職員令」に書かれる)、この部署に関し「令集解」で「注」がなされている。
『「古記」云。兼木工司。土工司。鍛冶司。』とある。「木工・土工・鍛冶を兼ねた司」が「土工署」だと説明されている、そして「注」ではさらに、この「司」たちは、器や道具などの制作には関係しないとも書かれている。そこからはこの部署の主業務は「造作・建築」関係だったと判断できよう。
「3司」は、「建築時の基本の部署」(名)であったと理解されるのだが、その時の「土工司」とは素直に「土地造成」を担当した部門とも読める。「木工司」でも「鍛冶司」でもない職務で、「器・道具」を造る部署でもないと言うのだから言葉通り「土工・土地造成」が主職務、と読み解いていいと思える。
これら怪訝に感じる事からも、名称こそ残らなかったが「土工担当部門」は確実に存在していたのではないかと私は改めて思うのだが。
さて、「神科条里」が九州王朝により築造され、「水田作成担当の番匠」が派遣されたとすると、もう「鼠」への追及が不要と思える。土地造成を担った「土木担当の匠」なしには条里・条里水田はあり得ないのだから、結論はもう出ているのだろう。
そして「鼠」推論に関しても、主張してきたもう一つの「鼠」語使用を確認してほしいとも改めて思う。
文献(日本書紀)での「鼠」と、地名として地方に残る「鼠」とには大きな違いがあるとした事である。
孝徳記の「鼠」語は「揶揄」からの語句であるが、体制変化後に地名として残された「鼠」語は違う、と思うのだ。
抗争を繰り広げ、敵対した相手に対して、体制変化後の「鼠」語は「揶揄」からの軽い呼び名とは思えないのだ。闘争の勝利後・権力交代後の「鼠」語は、相手への「侮蔑・嘲笑」に満ちた強力な意味合いを持ったと思えるのだ。相手とした「九州王朝への全否定を意味したと思えるのだ(これが前論での主張だった)。
それが上田市を中心としたこの地域に、「鼠」語が「6個」も残る最大の理由であると思える。上田を中心とした「科野の国」が九州王朝の拠点であったからだ。残された事績を「全否定」しなくては、次の時代、ここを治めて行けないのだ。「鼠」語が多用された理由と思える。
「八面大王」地に遺る「鼠穴」例を始め、地方には「鼠」地名が多く残されるが、そこは「九州勢」が大きな足跡を残した地であったと思える。一部門(土木担当)の存在に対し、軽い揶揄から名付けられた名称とは思えないのだが。
「鼠」地名とは、前王朝を「全否定」するために、使われた言葉ではないだろうか。
王権交代後も、「軽い揶揄」を意味して「鼠」語が使用されたとは思えない。
「科野」に残った別「侮蔑語」(「嬢(おんな)」・「英太(えた)」語)と共に改めて注目されるべきだろう。
「神科条里」を「九州王朝」は造り、権勢をふるった、文化・産業も興した。だが抗争が起こり体制は変化する。その後、この「鼠」地名が全国に付けられ使われたと私は思っている。
7.終りに 「うとう」と「シャクチ」
「上田小県・・・「番匠」地名」を調べていく過程で、重要な事実に気が付いた。ぜひ紹介しておきたい(「資料2.」〔資料1.に続き載っています〕をご参照下さい)。
これは、この地域における「15か所」で確認された「うとう」地名の一覧である。私は、これらの「うとう」地名に気づきある感想を持ったのである。
「うとう」について、「竹田悠子」氏が、『縄文時代、シュメール人は渡来したか、発掘遺物にみるシュメール』と題し、「多元」154・156・159で3回にわたり詳細に主張をされていた。私は何回も読み直しその着眼点のすばらしさ・論理性・具体性に感動させられて来た。それが、身近な地域の地名(「うとう」)として残っていたと確認され、それが私の「番匠」論考と関連する論考ともなったのである。
そして、私は竹田氏の主張の正しさが上田地域の「うとう」地名の存在で改めて証明されるとも気づいた。そこで僭越ではあるが竹田氏の主張と併せて上田地域「うとう」地名をぜひ紹介したいのである。
竹田氏はまず、「仏」学者を中心とした「国際的調査団」がイランの砂漠(発見地)を調査する以前に、「和田家古文書」にはすでに「シュメール」が記載されている事実を指摘された。「和田家文書」の持つ真実性・信憑性を再確認されたのだ。そして、人類史上始原期に属すると言われる「シュメール」の「人」「信仰」「文化」が古代日本へも到来し、「縄文文化」に多大な影響を与えていると、断言されたのである。
すでに周知されている縄文土器と、発見された「シュメール・ウバイド文化期」の土器には、「同じ文化」としか言えない酷似した特徴が各種見られると具体的例から指摘されたのである。言われる通り、地母神像・顔面把手付土器に始まりスタンプを思わせる各種の土器(ハンコ?)、ブッラ・トークンと呼ばれる中空粘土球に至るまで「シュメール」遺跡出土品と縄文土偶・土器・その他は酷似していたのである。
そこから「山内丸山遺跡」が果たした「交易都市機能」などと考え併せ、「縄文時代」に「シュメール人」「シュメール文明」が到来し、多大な影響を与えた事に間違いはないと断言されたのである(是非とも詳細を「多元」誌でご確認ください)。
立論の際、推定の根拠の一つに使われたのが、「うとう」語の存在である。この言葉には、日本語ではぴったりとした表記・説明がつけられない。それなのになぜか「善知鳥」と表記され、「東北」の神社名になり、古典資料にも頻出し、「水鳥」を指す言葉でアイヌ語にその起源がある、などとも言われてきた。
だが氏の明晰な分析は、この言葉から「シュメール」を導き出したのである。なんと「シュメール語」では、「うとう」とは彼らの「神(名)」だったのである!「由来不明」だった「うとう」語が、「縄文時代」・「シュメールの神」を媒介にすると生まれ変わる。「うとう」を「シュメールの神(太陽?)名」と理解すると、神社に不明の神名として残る事も、縄文遺跡地に「うとう」地名が多く残る事も見事に解明されるのだ。
続いて氏は次のように推察された。「長野県塩尻」に、「うとう(善知鳥)峠」がある。そこは地理条件からも「縄文文化」と結びついている。竹田氏はこの地名の残存例から、『山間(山頂間)から出現する神(太陽・日輪)を崇拝する為に、「うとう」地は傾斜地にあるのでないか』、と推測されたのである。他にある「うとう」地例からもこの驚くべき推定を提示されたのである。
そして私は、驚いた。皆様も「検地帳類から・・・地名」冊子に残された「うとう」地名を改めてご確認ください。
なんと「15例」ある「うとう」地名の「7例」が、「うとう坂」なのである!「うとう」語は、予言どおり、「傾斜地・坂」と結びついて残っていたのである。
これは、「竹田」氏の予想した論考の具現例・実証例ではないだろうか。「うとう(神・太陽)」を崇拝した人々は間違いなく存在したと思えた。彼らが「信仰と神」名を「坂の名称」として残したと思えた。竹田氏の論理とそこからの推定が、上田地域にはハッキリ残っていると思えたのだ。「検地帳」に残る地名が証明した竹田氏の推論は正しいと思えた。
「うとう」神は、縄文期の神という。「江戸期」までは悠久の長い時が流れている。だから正確に伝わったとは言い難いのに、「検地帳」には、「うとう坂」表記が地域の「うとう」地名表記の半数を占めているのである(15地名の7例)。改めて注意を払っていいだろう。
上田地域の中でも、「千曲川」を望む南面した傾斜地は「縄文期のゴールデン・ベルト」であると言われている、遺跡も多い。竹田氏の推定通りに「縄文文化」との関連がある事も確認されると思えた。
私はあらためて、「シュメール人・文化」が縄文期に日本へ来ていたと断言してよいと思えた。長野県人としてはいささか残念ではあるが、古代史上の画期と思えた。
最近、「縄文土器」に関し新しい知見・論考が話題になっている。確かに検討に値する素晴らしい論考と思う。だが我々は、竹田論考のように優れた論考が既に発表されている事を忘れがちである。折につけそれを振り返り、それらの論考内容を再確認することも重要ではないかと思えた。
蛇足だが「資料3」では、「シャクチ(社宮司)信仰」関連の地名を取り上げた。「諏訪信仰」に先行した縄文期の信仰(長野県が発祥地?)が「シャクチ信仰」だと思っているのだが、「うとう」地名の残存確認から、この地域には縄文期信仰からの地名が多く残っていると改めて気づき、驚かされている。
この「シャクチ信仰」については、5年前「多元」誌142・143・144で論考したことがある。どうやら今回の発見と大きな齟齬もなく論考を進めているようで、再読しホッとしている。興味のある方、お読み下されば幸便に思います。
(終)
〔先送りした「鼠」再論(一)に続きます。〕
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注1 小河川(しょうかせん) …… 一級河川、二級河川、準用河川以外の河川のこと。「一級河川,二級河川,準用河川以外の小河川を普通河川と呼びます。実際の管理は、市町村などが行っています。」(国土交通省HP ホーム>>政策・仕事>>河川トップ>>パンフレット・事例集>>河川 より抜粋)
注2 「鼠」については前回まで論考してきた …… 「鼠」再論(三)を先に掲載したので未掲載の「鼠」再論(一)・(二)及び掲載済の(三)を指しています。(一)と(二)は(四)に続いて掲載する予定です。
なお、鼠に関係する吉村さんの論考は、現時点において見解に多少の変更があるかもしれませんが、次のブログ記事として掲載されています(日付降順)。「科野」の「ねずみ」―「多元」 令和2年3月号― 2022年5月 6日(金)
「坂城神社・由緒書」とその歴史―「多元(№159)」9月号掲載原稿― 2020年9月 5日(土)
「坂城神社」の「鼠」―「多元」7月号掲載論稿― 2020年7月31日(金)
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(2)2020年1月26日 (日)
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(1) 2020年1月18日 (土)
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