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2022年10月

2022年10月28日 (金)

「鼠」再論(四)―神科条里と番匠と鼠―

「鼠」再論(四)

―神科条里と番匠と鼠―[コラム]

 吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので掲載いたします。これは「鼠」再論(三)「上田・神科条里と番匠」の続きですので、先に(三)をご覧ください。

 この(四)で701年の王朝交代(大宝建元)を画期として「評」から「郡」への史料改変がなされたように、「番匠」から「工匠」へと改変があったことを明らかにした正木裕氏の画期的な論稿「前期難波宮の造営準備について」(「古代に真実を求めて」第21集・明石書店・平成17年)が紹介されています。

 また、「大宝律令」の最古の「注釈書」と言われている「古記」は「大宝律令」以前の事例に数多く言及している「研究書」と言うべきことを実例を挙げて論じ、「古記」注釈中に「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述があると読解し、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当することを発見された阿部周一氏の 「古記」と「番匠」と「難波宮」(「古田史学会報No.143」掲載)も紹介されています。これ以上の解説はひかえて、読んでいただく方が面白いでしょう。

 なお、山田の独断で、第5章の最後にあった小河川沿いの「面」所在図 の位置を上に移動して「精密な図ではないのだがご理解を頂ければと思う。」の次に置きました(図を見てからでないと理解できないので)。

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「鼠」再論(四)

「神科条里と番匠と鼠」

上田市 吉村八洲男

1.「番匠」とは

 定説への見直しは必須であろう。改めて「番匠」語を最新資料から読み解かなくてはならないと思えた。それをヒントに、「50個」も残り説明のつかない「番匠」語と、築造時代が不明な神科条里との関連を推測しなくてはならないと思えた。

 直近に、「番匠」語・その資料とを詳細に(由来や発生時の社会状況などに)言及したものがある。

 正木裕氏の「前期難波宮の造営準備について」(「古代に真実を求めて」第21集・明石書店・平成17年)論考である。

 愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』に記された記事(「修験道資料集Ⅱ」中に記載・昭和59年)に着目され、そこから秀逸で重要な論考を展開された(以下、『縁起』と書く)。

 『縁起』には、こう書かれていた。「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二戊申。日本国御巡礼給う。・・・(以下略)・・・」。

 先ず正木氏は、ここに記載された諸事実の根拠を他資料から確認された。ことに記事から「番匠」(語・制)が「孝徳天皇」の時代から始まったと推定された。それは「番匠」語の初出を確定し、併せて「番匠」語発生時の「多元的社会」をも推定させる画期的な論考であった。

 正木氏は、この『縁起』文章から、『孝徳時代難波都城の造営に携わる工匠を確保するために「番匠」制度が始まった、常色二年には・・・天子が日本巡礼(巡行)をされた』内容が確定されるとも読み解いたのである。孝徳天皇ではない、より上位者である「天子」の存在を確認し、この「縁起」は「日本書紀」以外の資料だが記事には真実の歴史が描かれるとしたのだ。

 同時に、九州王朝の都「前期難波宮」造営について「日本書紀」には全く書かれないが、朝堂院様式による壮麗な「前期難波宮」の実存は、各種資料の再解釈(「書紀」記載歴史を34年遡上させる解釈)や新発見考古資料から断定されるとされた。「前期難波宮」は、「番匠」たちにより孝徳期に築造されたと主張されたのである。

 正木氏は、その「前期難波宮」造営の過程は、時代が過ぎた(34年後)「天武記」に詳細に描かれるとも推定された。だから孝徳白雉元年記事の「将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫」とは、造都の際の「工匠」などの実務者の長官であると考えられた。「日本書紀」には「番匠」表記はなく「工匠」語が表記されているが、業務の内容から両者は同一のものとみなしてよいとされたのである。

 正木氏は『縁起』記事から、九州王朝がこの「番匠」制度を造り「工匠」を各地(国)から徴集し、「前期難波宮・造都」という難事業を行ったと推定されたのである。「番匠」は九州王朝が始め行った制度だから、王朝交代後の8世紀資料からは「番匠」表記が消え、代わりに「工匠」表記(語)となったと私には理解された。

 王朝交代後の「大宝令」「養老令」「令集解」には、この「番匠」語句が使われなくなったとも理解した(だから、「番役」・「分番」などの表現はある)。

 正木氏の論考は画期的で数多くの教示に満ちた見解だった。「番匠」語が書かれた初めての資料『三嶋縁起』が確認され、その歴史的位置も確定されたのである。

 「番匠」語は、貴重な語句で「九州年号」と同じ立場だったのだろうか。九州王朝の存在を暗示する言葉だけに、王朝交代後の公式な記録からは消されてしまったと思えた。「番匠」語はこの制度を始めた九州王朝を意味していたからだろうか。

 「番」とは、「かわるがわる」の意味であろう(諸橋徹次「大漢和辞典」)、だから「番匠」語は当時の社会状況を適切に表現した言葉ともなる。支配下の各国から「匠(たくみ)」を「かわるがわる」徴集し、特定の国に過度の負担をかけず事業を遂行する制度といえるからだ。「番匠」制度を造り、諸国に「番匠」を命じたある王朝はすでに全国を支配していたと私には思えた。

 正木氏の説明は「番匠」語の発生について教示に満ちたものだった。『縁起』が言うように「番匠」とは、九州王朝が生んだ「匠」を徴集する制度と断定してよいと思えた。資料には出てこない「番匠」語の由来・経過が見事に解明されたと思えた。

 それにしても、その「番匠」語がなぜ上田にこんなにも残るのだろう?

 

2.阿部周一氏の推測

 正木氏の論考により「番匠」語の「発生」や「その意味」が解明されたと思える。「番匠」語とは、ある歴史を示す貴重で希少な言語だったのである。

 そして、「阿部周一」氏が「古田史学会報No.143」(「古記」と「番匠」と「難波宮」 )でさらに重要な推論を展開された。私にとってこれが「頂門の一針」となった。

 阿部氏の論考は資料・文献の綿密な読解に裏打ちされたものが多いのだが、同様な手法から、『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された事、それが「続日本紀」からも窺える』と断定されたのである。

 阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から、最古の注釈書と言われる「古記」に注目され論考を進められた。「古記」は「養老律令」以前に作られた「大宝律令」の唯一の「注釈書」と言われていたが、むしろ「研究書」と言うべきで「大宝律令」以前の事例に数多く言及していると推論、その実例をいくつか挙げられた。

 そして、『「古記」注釈中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。『三嶋神社縁起』中の「番匠」語についての未解明部分を、「令集解」への「古記」解釈から詳細を読み解き説明されたのである。驚天動地だが、反論のしようがない指摘であった。

 阿部氏は「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当すると発見された。さらに綿密な「令集解」解読から、この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代」からだと論定されたのである。それらの再確認から、正木氏の先見的な数々の推論を間違いない論考だと支持されたのである。

 綿密な論考は「番匠」制度の具体的運用にも及んだ。「前期難波宮」造営時、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」へと「匠」の徴発国が変化したと読解されたのである。交互に「匠」の徴発を行うこの制度は「交番制」を意味する。そこからも「番匠」制度がすでに造られ、諸国から「匠」集団を徴集していたと推定したのである(この「遠・近・西方の民」などの認定からも制度の設立者が「九州王朝」だと判断されたのだ)。

 私もその立論には納得させられた。正木氏の指摘した「三島神社縁起(孝徳期に番匠が始まったとする)」での「番匠」語の詳細(特に運用方法)が、阿部氏の論考から再確認されると思えたのである。「令集解」に「番匠」語の痕跡が残っていたのだ!

 正木氏、阿部氏の主張された論考には反論のしようがないと思えた。「続日本紀」「文武天皇・大宝二年九月条にある「行宮」築造に際しても同例(諸国からの徴集)が読み取れる、と私にも推論された。大和王朝も九州王朝の「番匠」制度を踏襲したと推論されるのである。

 そして私は、阿部氏の論考からある重要事を教示された。それが阿部氏の論証の正しさを証明すると思えた。「上田・神科条里」と「番匠」(語・制度)とを結び付けるある事実に気が付いたのである。

 

3.条里地名に残る「国名」

 上田神科には、阿部氏の論証の正しさを証明する具体例が残っていた。それが、条里地に残る「国名を示す地名」である。

 「神科条里遺構」地に隣接する村の「検知帳」地名には「番匠」地名と並んで、「はりま・いずみ・するが・えちご・さぬき・やまと・いせ」など「7か国」の「国名」が表記されていた!

 これは、阿部氏の論考内容を裏打ちする事実と思えた。

 なぜ「検地帳」にこの国名が残っているのだろう?それは、この国の人々が「番匠」制度のもと、徴集されて神科へ来たからではないだろうか。徴集された「諸国」の「匠・人足・雇人」が居住したから「条里」隣接地に国名が「地名」「町名」として残ったのではないだろうか。

 徴集された彼らは、「神科条里・地域条里水田」を造成する。つまり、彼らが「番匠」と呼ばれ地域内各地に50もの「番匠」地名が残したのではないだろうか!

 これら「国名」にはあるまとまりが見られた。「近畿・中部」地方の国名が多いのである。これも阿部氏論考を裏付けると思えた。「7か国」はランダムに集められたのではない、ある選択がなされたからだと思えたのだ。

 「番匠」制度のもと、これらの国々の「匠・人員」が徴集され、「上田・神科」へ派遣されたと思えた。「神科条里」に残る「7か国」名とは、「番匠」として集められた「匠・人員」たちの出身国名だったのである。

 神科一帯に「番匠」地名と共に「国名」が残っている理由が判明すると思えた。「神科条里」に残る「番匠」地名・「国」地名が、共に阿部氏論考の正しさを実証しているのである。

 やはり「神科条里」は九州王朝によって作られたのではないだろうか。

 

4.「条里水田」と「番匠」語

 さて、前述したように『「上田・神科条里」は「大和王朝」により8世紀に作られた』と永らく歴史界からは信じられてきた。考古学が示す事実(7世紀)と歴史学の推測とには最初から大きな齟齬があったのだが、何とか結論を出さねばならない。だから両者を納得させる為にこの「条里的(!)遺構」という奇妙な判定がなされたと思えた。こらは、一元史観の限界を示す判断だったのである。

 ところが、九州王朝をキーワードとすると「七世紀の神科条里遺構」・「地域水田遺構」・50ある「番匠」語とその分布、すべてが繋がってくる。「番匠」語の遺存こそ『九州王朝によって作られた「神科条里」』を証明すると思える。

 7世紀・九州王朝が、神科の土地を開墾・開発し、灌漑水路を造り、「水田」「条里」を造成した。「番匠」語はその際に生まれ、それが「検地帳」に残ったのだ。そうでなくてはこの地域に、「50」もの「番匠」語が特殊な分布を示しつつ残存する事態が説明できないと思えた。

 最大の疑問、「番匠語がなぜ広範囲に地域の村(集落)に分布するのか」について、私はこう考えている。

 今迄は、集落がそれぞれこの「番匠」地名を持っていたとして来た(「定説」はそこから生まれた)。

 このスタートがおかしいと思う。「条里(水田)と集落、どちらが古いのか?」という基本的で重要な疑問があるのだ。そこを問題とすべきだったと思える。

 その答えは、当然ながら「条里」だろう。だからこそ郷土史家は集落に遺存した地名を永年探し求めて来たのである。それが条里の存在を証明すると思ったからなのだ。やはり、「条里」の方が古いのである。「条里・その制度」が使われなくなってからそこに「村・集落」が形成されたのである。

 となると各集落に残る「番匠」地名への結論はこうなる、『この「番匠」地名は、集落形成以前からこの条里遺構の一帯にあった』。つまり、条里(水田)一帯には集落形成以前にすでに「番匠」名称があったのである。

 となると、この地名は、「条里(水田)の形成」と密接な関係があった事になる。水田が作られた際にこの地名が生まれ(付与された)と推定され、そして村(集落)の形成時にもそれがそのまま残ったと理解されるのだ。「条里水田」の形成された時に、この地名が付けられたのである。「村・集落」は、その後に作られたのだ。

 更に、8世紀以後の歴史判断から、村(集落)が形成された後、この「番匠」地名を新規に広範囲に残す勢力を想定することは不可能と思える。「番匠」語の由来・意味を知らずに地名として残す事などありえないからだ(神科地域に関しては、「荘園」であった時代も戦国の時代でも、この地域は「農村部」であった)。

 私は結論した。「条里」の形成時に「番匠」語は発生したのであろう。それは、彼ら「番匠」が「条里」を造ったからと思える。地域での広い分布も、「神科条里」築造以降、「番匠」たちが次々と地域に「条里(水田)」を作ったとすると説明されよう。

 「検地帳」には、「50」の「バンショウ」語が残っていた。その理由は、農民たちが「水田」造成者を忘れなかったからと思える。「番匠」語が今でも地域の多数の村に残るのは、「条里水田」を彼ら「番匠」が作ったからではないだろうか?

 

5.「番匠」地名と「条里水田」

 白井氏の著作中で、「地域の条里水田図」が掲載されている。下図である。

「地域の条里水田図」(A図「上田盆地の条里制遺構地」白井氏作成)
A_20221028141801

 白井氏は「神科(染谷台)条里遺構」論考を発表された後、1971年の「長野県地理学会」で、この図(「上田盆地の条里制遺構地」)を中心に『地域に条里水田があった』持論を展開された。地域内の『初期(古代)「条里水田」が開発された地域』を具体的な図として提示されたのである(その後行われた郷土史家を中心とした上田市の調査でも、これらの「古代水田跡」が確認された)。

 白井氏が提示されたこの「古代地域条里水田図」と、今回確認された「バンショウ・バン」地名の分布とには、ある関連があるかと思えた。それを最後の指摘とし、紹介してみよう。

 私はまず「番匠」語(地名)を白井氏作成の「古代条里(水田)」図上に重ねてみた。そして、奇妙な事に気が付いたのだ。

 盆地を流れる小河川(しょうかせん)〔注1〕沿いに「番匠」語が残っていると思えたのだ。そこへの集中が見られたのである。考えてみると、自然にまかせた生育では「稲作」が成立しない。「耕作地」とするには、「水利」・「灌漑」がどうしても必要だろう。

 だから「灌漑路」「区割り」などを行った時、「番匠」がそこに集中して住んでいた、だから地名が残った、としても頷ける事と思えたのだ。

 私は郷土史家に倣い、その「番匠」地名集中地を「○○面」と名付けてみた。

 それが「A~Ⅾ」である。それを「条里水田図」と重ねてみた、精密な図ではないのだがご理解を頂ければと思う。

小河川沿いの「面」所在図(白井氏作成の「上田盆地の条里制遺構地」図に加筆)
Photo_20221028141901

 「番匠」地名は、「資料1.」の時と同じ「1~50」の番号を使った。

     A  吉田堰面(神川上流から祢津への用水路面) 1~10 計10地名

     B  神科台地条里面 ① 遺構地  24・25・26   計3地名
                ② 遺構隣接地  11~19   計9地名
                ③ 神川上流(真田へ至る)20~23 計4地名

     C  依田川面(丸子・和田へ至る)  27~33  計7地名

     Ⅾ  産川・湯川面(塩田地区)   34~40   計7地名

     E  浦野川面(小泉・青木へ至る) 41~50  計10地名

 *吉村注・・・「塩田地区」を白井氏は指摘しなかったが、郷土史家はここにも「古代条里水田の痕跡」を認め追及した。その結果、「条里発祥の地」と刻まれる石碑が建立される迄の成果となった。周囲に「番匠」地名が確認される事と関連すると判断し、この「図」に取り上げた。
 *「E 浦野川面」は広範すぎるかも知れない、「F 中の条面」を別個に想定すべきかも知れないが、この分類では同一とした。

 

6.「鼠」と「番匠」

 「鼠」については前回まで論考してきた〔注2〕。賛否はそれぞれと思うが、「神科条里」が九州王朝によって作られたと確定すれば、「鼠」語の意味や使用に関しても新知見が生まれる。九州王朝が勢威を張った「科野の国」での「鼠」語となるからだ。

 前論では、九州王朝が「土地造成・土木」部門を持っていたかと想像した。「日本書紀」記事から「匠」の存在を推定し、彼らの容姿・仕事内容を大和王朝は「鼠」と揶揄していたとした。いわば初期の「鼠」語(軽い揶揄)が「日本書紀」では使用されていたと推定したのである。

 九州王朝の時代、「土地造成」を主業務とした組織(部署)の存在を資料からは断定しにくい。ただ、時代が過ぎた8世紀「令義解」になら、その一部が残っているかと私は考えてみた。業務内容に変化があっても、その痕跡があるではないか、と思ったのだ。

 気が付いたのは、「土工司(どこうのつかさ)」の存在である。この部門の存在が、「土地造成」を主業務としていた「匠」の存在を確定していると思えたのだ。

 「令集解」ではこう説明されている。「土工司」とは、「掌営土作瓦泥」つまり「土作・瓦泥」を担当する部署とある(「職員令」から)。だがその業務内容説明では、「瓦泥猶瓦也」(瓦泥からは瓦を造る)とあり、「瓦・泥」の焼成方法などが細かく説明されるが、もう一つの部分・「土作」関係にはなぜか言及されていない。

 だが「土工司」への「古記」「注釈」では、「泥戸五十一戸。一番役二十五丁。為品部免調庸役也。」とあり、そこからは、この役職が往時(「令」の時代以前か)相当重要な仕事であったと予想される。だが、やはりそれ以上の説明はない。

 ところが「令」ではこの「土工司」担当職員が、「古記」が注釈した時代よりその数が減らされ縮小されて書かれる。縮小された理由は不明のままだ。「令」の説明通りなら、主業務とした「瓦」への需要は拡大している筈だから、職員数も増員されるのが普通と思える。なにか釈然としない人員の縮小と思える。

 肝心な「土作」への説明がない事と併せて、「土作・造成」部門を切り離したかとさえ思う。いずれにせよ、「令」以前の「土作司」とは何かが違うと思える。

 また、「東宮」には「主工署」が置かれたが(これも「職員令」に書かれる)、この部署に関し「令集解」で「注」がなされている。

 『「古記」云。兼木工司。土工司。鍛冶司。』とある。「木工・土工・鍛冶を兼ねた司」が「土工署」だと説明されている、そして「注」ではさらに、この「司」たちは、器や道具などの制作には関係しないとも書かれている。そこからはこの部署の主業務は「造作・建築」関係だったと判断できよう。

 「3司」は、「建築時の基本の部署」(名)であったと理解されるのだが、その時の「土工司」とは素直に「土地造成」を担当した部門とも読める。「木工司」でも「鍛冶司」でもない職務で、「器・道具」を造る部署でもないと言うのだから言葉通り「土工・土地造成」が主職務、と読み解いていいと思える。

 これら怪訝に感じる事からも、名称こそ残らなかったが「土工担当部門」は確実に存在していたのではないかと私は改めて思うのだが。

 さて、「神科条里」が九州王朝により築造され、「水田作成担当の番匠」が派遣されたとすると、もう「鼠」への追及が不要と思える。土地造成を担った「土木担当の匠」なしには条里・条里水田はあり得ないのだから、結論はもう出ているのだろう。

 そして「鼠」推論に関しても、主張してきたもう一つの「鼠」語使用を確認してほしいとも改めて思う。

 文献(日本書紀)での「鼠」と、地名として地方に残る「鼠」とには大きな違いがあるとした事である。

 孝徳記の「鼠」語は「揶揄」からの語句であるが、体制変化後に地名として残された「鼠」語は違う、と思うのだ。

 抗争を繰り広げ、敵対した相手に対して、体制変化後の「鼠」語は「揶揄」からの軽い呼び名とは思えないのだ。闘争の勝利後・権力交代後の「鼠」語は、相手への「侮蔑・嘲笑」に満ちた強力な意味合いを持ったと思えるのだ。相手とした「九州王朝への全否定を意味したと思えるのだ(これが前論での主張だった)。

 それが上田市を中心としたこの地域に、「鼠」語が「6個」も残る最大の理由であると思える。上田を中心とした「科野の国」が九州王朝の拠点であったからだ。残された事績を「全否定」しなくては、次の時代、ここを治めて行けないのだ。「鼠」語が多用された理由と思える。

 「八面大王」地に遺る「鼠穴」例を始め、地方には「鼠」地名が多く残されるが、そこは「九州勢」が大きな足跡を残した地であったと思える。一部門(土木担当)の存在に対し、軽い揶揄から名付けられた名称とは思えないのだが。

 「鼠」地名とは、前王朝を「全否定」するために、使われた言葉ではないだろうか。

 王権交代後も、「軽い揶揄」を意味して「鼠」語が使用されたとは思えない。

 「科野」に残った別「侮蔑語」(「嬢(おんな)」・「英太(えた)」語)と共に改めて注目されるべきだろう。

 「神科条里」を「九州王朝」は造り、権勢をふるった、文化・産業も興した。だが抗争が起こり体制は変化する。その後、この「鼠」地名が全国に付けられ使われたと私は思っている。

 

7.終りに 「うとう」と「シャクチ」

 「上田小県・・・「番匠」地名」を調べていく過程で、重要な事実に気が付いた。ぜひ紹介しておきたい(「資料2.〔資料1.に続き載っています〕をご参照下さい)。

 これは、この地域における「15か所」で確認された「うとう」地名の一覧である。私は、これらの「うとう」地名に気づきある感想を持ったのである。

 「うとう」について、「竹田悠子」氏が、『縄文時代、シュメール人は渡来したか、発掘遺物にみるシュメール』と題し、「多元」154・156・159で3回にわたり詳細に主張をされていた。私は何回も読み直しその着眼点のすばらしさ・論理性・具体性に感動させられて来た。それが、身近な地域の地名(「うとう」)として残っていたと確認され、それが私の「番匠」論考と関連する論考ともなったのである。

 そして、私は竹田氏の主張の正しさが上田地域の「うとう」地名の存在で改めて証明されるとも気づいた。そこで僭越ではあるが竹田氏の主張と併せて上田地域「うとう」地名をぜひ紹介したいのである。

 竹田氏はまず、「仏」学者を中心とした「国際的調査団」がイランの砂漠(発見地)を調査する以前に、「和田家古文書」にはすでに「シュメール」が記載されている事実を指摘された。「和田家文書」の持つ真実性・信憑性を再確認されたのだ。そして、人類史上始原期に属すると言われる「シュメール」の「人」「信仰」「文化」が古代日本へも到来し、「縄文文化」に多大な影響を与えていると、断言されたのである。

 すでに周知されている縄文土器と、発見された「シュメール・ウバイド文化期」の土器には、「同じ文化」としか言えない酷似した特徴が各種見られると具体的例から指摘されたのである。言われる通り、地母神像・顔面把手付土器に始まりスタンプを思わせる各種の土器(ハンコ?)、ブッラ・トークンと呼ばれる中空粘土球に至るまで「シュメール」遺跡出土品と縄文土偶・土器・その他は酷似していたのである。

 そこから「山内丸山遺跡」が果たした「交易都市機能」などと考え併せ、「縄文時代」に「シュメール人」「シュメール文明」が到来し、多大な影響を与えた事に間違いはないと断言されたのである(是非とも詳細を「多元」誌でご確認ください)。

 立論の際、推定の根拠の一つに使われたのが、「うとう」語の存在である。この言葉には、日本語ではぴったりとした表記・説明がつけられない。それなのになぜか「善知鳥」と表記され、「東北」の神社名になり、古典資料にも頻出し、「水鳥」を指す言葉でアイヌ語にその起源がある、などとも言われてきた。

 だが氏の明晰な分析は、この言葉から「シュメール」を導き出したのである。なんと「シュメール語」では、「うとう」とは彼らの「神(名)」だったのである!「由来不明」だった「うとう」語が、「縄文時代」・「シュメールの神」を媒介にすると生まれ変わる。「うとう」を「シュメールの神(太陽?)名」と理解すると、神社に不明の神名として残る事も、縄文遺跡地に「うとう」地名が多く残る事も見事に解明されるのだ。

 続いて氏は次のように推察された。「長野県塩尻」に、「うとう(善知鳥)峠」がある。そこは地理条件からも「縄文文化」と結びついている。竹田氏はこの地名の残存例から、『山間(山頂間)から出現する神(太陽・日輪)を崇拝する為に、「うとう」地は傾斜地にあるのでないか』、と推測されたのである。他にある「うとう」地例からもこの驚くべき推定を提示されたのである。

 そして私は、驚いた。皆様も「検地帳類から・・・地名」冊子に残された「うとう」地名を改めてご確認ください。

 なんと「15例」ある「うとう」地名の「7例」が、「うとう坂」なのである!「うとう」語は、予言どおり、「傾斜地・坂」と結びついて残っていたのである。

 これは、「竹田」氏の予想した論考の具現例・実証例ではないだろうか。「うとう(神・太陽)」を崇拝した人々は間違いなく存在したと思えた。彼らが「信仰と神」名を「坂の名称」として残したと思えた。竹田氏の論理とそこからの推定が、上田地域にはハッキリ残っていると思えたのだ。「検地帳」に残る地名が証明した竹田氏の推論は正しいと思えた。

 「うとう」神は、縄文期の神という。「江戸期」までは悠久の長い時が流れている。だから正確に伝わったとは言い難いのに、「検地帳」には、「うとう坂」表記が地域の「うとう」地名表記の半数を占めているのである(15地名の7例)。改めて注意を払っていいだろう。

 上田地域の中でも、「千曲川」を望む南面した傾斜地は「縄文期のゴールデン・ベルト」であると言われている、遺跡も多い。竹田氏の推定通りに「縄文文化」との関連がある事も確認されると思えた。

 私はあらためて、「シュメール人・文化」が縄文期に日本へ来ていたと断言してよいと思えた。長野県人としてはいささか残念ではあるが、古代史上の画期と思えた。

 最近、「縄文土器」に関し新しい知見・論考が話題になっている。確かに検討に値する素晴らしい論考と思う。だが我々は、竹田論考のように優れた論考が既に発表されている事を忘れがちである。折につけそれを振り返り、それらの論考内容を再確認することも重要ではないかと思えた。

 蛇足だが「資料3」では、「シャクチ(社宮司)信仰」関連の地名を取り上げた。「諏訪信仰」に先行した縄文期の信仰(長野県が発祥地?)が「シャクチ信仰」だと思っているのだが、「うとう」地名の残存確認から、この地域には縄文期信仰からの地名が多く残っていると改めて気づき、驚かされている。

 この「シャクチ信仰」については、5年前「多元」誌142・143・144で論考したことがある。どうやら今回の発見と大きな齟齬もなく論考を進めているようで、再読しホッとしている。興味のある方、お読み下されば幸便に思います。

(終)

〔先送りした「鼠」再論(一)に続きます。〕

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注1 小河川(しょうかせん) 
…… 一級河川、二級河川、準用河川以外の河川のこと。「一級河川,二級河川,準用河川以外の小河川を普通河川と呼びます。実際の管理は、市町村などが行っています。」(国土交通省HP ホーム>>政策・仕事>>河川トップ>>パンフレット・事例集>>河川 より抜粋)

注2 「鼠」については前回まで論考してきた …… 「鼠」再論(三)を先に掲載したので未掲載の「鼠」再論(一)・(二)及び掲載済の(三)を指しています。(一)と(二)は(四)に続いて掲載する予定です。

 なお、鼠に関係する吉村さんの論考は、現時点において見解に多少の変更があるかもしれませんが、次のブログ記事として掲載されています(日付降順)。
「科野」の「ねずみ」―「多元」 令和2年3月号― 2022年5 6()
「坂城神社・由緒書」とその歴史―「多元(№159)」9月号掲載原稿― 2020年9 5()
「坂城神社」の「鼠」―「多元」7月号掲載論稿― 2020年731()
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(2)2020年126 ()
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(1) 2020年118 ()

2022年10月27日 (木)

「鼠」再論(三)の資料―『「番匠」・「番」地名』一覧表―

「鼠」再論(三)の資料
『「番匠」・「番」地名』一覧表
 [コラム]

 20221026()にアップした「鼠」再論(三)―上田・神科条里と番匠―において、第6章「6.「番匠」語の新発見」中に「(「資料1.」で皆さまもご確認ください)。」とありましたが、その「」資料1.」が抜けておりましたので、ここに掲載いたします。また、「鼠」再論(三)」の末尾に追加するとともに不手際をお詫び申し上げます。

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資料1.『「番匠」・「番」地名』一覧表

・参考冊子名 「検地帳類より収録した 上田・小県地方の地名」(上田小県誌刊行会歴史部作成 昭和38年発行・(追加分を含め)平成17年 再発行

・吉村注 上記「検地帳類より・・地名」記載の地名から該当地名を選び出した。
 それを「バンショウ・バン」語の入る地名と、不明だが疑いが濃厚な地名、の2つに分類した。そして冊子の記載順に番号を付け解りやすいものとした。
 地名・村名(部落名)表記は、「検地帳・・・地名」冊子に記載されたままである。最後に、出典名(文書名・記載された「検地帳」名など)とその年号を記した。(この冊子への詳細説明・見解は末尾にも記録した。ご参照下さい)

   「バンショウ・バン」地名(表記)・その所在地 一覧

   1. ばんば     桜井村     2. 番匠田     井子村
   3. ばんじょう田  祢津村     4. ばんじょう畠  祢津村姫小沢
   5. ばんじょう田  姫小沢村    6. ばんば田    東上田ノ内
   7. ばんば     上深井村    8. 番匠畑     加沢村
   9. はんしやう田  田中町    10. ばん志やう田  夏目村

  11. はん志やう免  神川村岩下  12. ばんじやう   国分寺村
  13. ばんば田    小井田村   14. 番場之畑    森村
  15. ばんば田    森村     16. ばんば田    林之郷
  17. はんじょう田  下郷村    18. ばんじょう田  矢沢村
  19. 番免      岩清水村   20. はんじょう村  洗馬組下原村

  21. 番川原     傍陽村横道  22. ばん志やう田  軽井沢村
  23. ばんば     軽井沢村   24. ばんじょう町  伊勢山村
  25. 番匠町     長島村    26. 万匠町     染谷村
  27. ばんの田    藤原田村   28. ばんば     依田村御岳堂
  29. ばんば     古開・新開  30. ばんば     飯沼村

  31. はんちやう田  長窪古町   32.  ばんじょう免  長窪古町
  33. ばん志やう田  長窪新町   34. 番匠はた    東松本
  35. 番匠免     小嶋村    36. 番免      前山之郷
  37. 番匠村畠    前山郷    38. ばんでう村   東前山村
  39. 番匠めん    野倉     40. ばんちやう田  別所村

  41. 番匠田     小泉村    42. ばんば     小泉村
  43. 坂上はた    上室賀村   44. はん上坂はた  上室賀村
  45. はんしやう免  奈良本村   46. 番匠田     諏訪形村
  47. 番匠田     中之条村   48. ばん丁田    吉田村
  49. 番匠田     仁古田村   50. ばんじょう田  村松郷

 判別不明
   1. 半入道     金剛寺村    2. はんハ田    野竹村
   3. 下まん上    ふ三入村    4. 中まんちょう  御所村
   5. 下まんちょう  御所村     6. 中まんぢやう  諏訪形村
   7. まんちう村   本原

 

 それぞれの出典 (冊子「検地帳類より・・・の地名」から)
   1. 櫻井村御縄打帳   寛文10年  2. 井子村御縄打帳   寛文10年
   3. 祢津村検地水帳   寛永7年   4. 姫小沢検地帳    寛永7年
   5. 姫小沢村六段水帳  元禄4年   6. 木村所左エ門御改之帳東上田ノ内 元和3年
   7. 田畑惣貫之御帳上深井村 承応3年 8.本貫文改帳加沢村   寛政10年
   9.田畑貫高帳田中町   承応3年  10.夏目村御検地水帳   寛永7年

  11.田畑貫高御帳神川村  承応3年  12.田畑貫高帳国分寺堀村 承応4年
  13.田畑貫高御改帳小井田村 享保2年 14.田畑貫高御改帳森村  明和2年
  15.田畑貫高御改帳森村  明和2年  16.田畑貫高御改帳林之郷 享保2年
  17.田畑貫高御改帳下郷村 享保2年  18.田畑貫高御改帳矢沢村 享保2年
  19.田畑貫高御改帳石清水村 享保2年 20.田畑貫高御改帳洗馬村下原村 寛文3年

  21.本貫文水入帳上洗馬村 天保6年  22.軽井沢村貫寄御帳   承応3年
  23.軽井沢村貫寄御帳   承応3年  24.田畑貫高帳伊勢山村  承応4年
  25.田畑貫高帳長島村   承応4年  26.貫高改帳染谷村    承応4年
  27.藤原田村縄打帳    寛文10年 28.御縄打帳依田村御嶽堂 寛文10年
  29.小開・新開御縄打帳  寛文10年 30.飯沼村検地帳     安永6年

  31.長窪古町水帳     寛永7年  32.長窪古町水帳     寛永7年
  33.長窪新町御検地水帳  寛永7年  34.東松本帳       文禄元年
  35.田畑貫高御帳小島村  承応3年  36.前山之郷御毛付帳   慶長7年
  37.前山之郷御毛付帳   慶長7年  38.田畑貫高御帳東前山村 承応3年
  39.野倉惣帳       天正9年  40.田畑貫高御帳別所村  承応3年

  41.小泉村    (推定・寛永末)  42.小泉村    (推定・寛永末)
  43.田畑貫高御帳上室賀村 承応3年  44.田畑貫高御帳上室賀村 承応3年
  45.貫高帳 奈良本村   承応3年  46.名寄帳 諏訪方村   寛永18年
  47.田畑ならし帳中の条村 寛永20年 48.田畑貫高御帳 吉田村 承応3年
  49.毛附御検見御引方勘定帳 仁古田村 弘化二年 50.田畑貫高御帳 村松郷 承応3年

 判別不明
   1.貫高帳 金剛寺村   元禄元年   2.田畑貫高帳 野竹村  承応4年
   3.名寄帳 ふ三入村   寛永14年  4.田畑貫高御帳 御所村 寛永20年
   5.田畑貫高御帳 御所村 寛永20年  6.名寄帳 諏訪形村   寛永18年
   7.真田氏給人知行地検地帳 (推定・天正6~7年)

冊子「検地帳類より収録した・・上田・小県地方の地名」について

(1) 巻頭「はじめに」として冊子の編集方針が書かれているが、そのすべてをここには記載できないので、重要と思える部分を記しておく。
 『(前略)・・・本稿は主として、現在上田小県地方の各町村に最も数多く残存している寛永・承応・寛文年間等江戸初期の検地帳類を中心に、また同期の帳が現存されない町村については時代の降っての検地帳類の小名を収録した。・・・』

(2)『「検地帳」類・・・』について
 原典・原文は、「○○家文書」、「○○地区保存文書」などとしてまとめられる多量の古文書からのものである(地域旧家から多くが発見される。奈良原家・小田中家・清水家等々である)。冊子(地名)は、そのうちの「検地」に関する古文書が対象となったと思われる。
 それらの古文書から、「石高」「所有者・耕作者」「関連事項」などを外し、「地名」だけに絞り込み、この冊子が作られたようだ。「条理」地名研究に端を発した「地名」研究の重要性認識から、改めて編集された結果と思える。「はじめに」でも『野帳として利用してほしい』と書かれている。

 郷土の先学者の御努力さらに内容の高さが窺え、改めて多大な感謝をしたい。

資料2.上記冊子(『「検地帳」類・・・上田・小県地方の地名』)に記載された、推定も含む「うとう」地名・村名( 吉村注・現在地名を最後に書き加えた )。

   1. うとふ坂  加沢村    東御市(とうみし)
   2. うとう坂  上洗馬村   真田町
   3. うと    軽井沢村   真田町
   4. うとふ坂  伊勢山村   上田市神科
   5. うとう坂  新屋村    上田市神科
   6. うと    長瀬村    丸子町
   7. とうの坂  長窪新町   長和町
   8. うとう坂  手塚村    上田市塩田
   9. みとうの沢 別所村    上田市別所
  10. うとう坂  室賀村    上田市室賀

  11. とう町   馬越村    上田市浦野
  12, ふとう   原之郷    真田町
  13. ふとう沢口 長窪古町   長和町
  14. とう畑   奈良本村   青木村
  15.みとう田  奈良本村   青木村

資料3.上記冊子に記載された「シャクチ神仰」をうかがわせる地名

 しゃくち(口)・シャグチ(志やくち)・ちぐうじ・左口・赤口・さの神・すぐぢ社宮司・勺子・しゃくし・・・等々  49例

2022年10月26日 (水)

「鼠」再論(三)―上田・神科条里と番匠―

「鼠」再論(三)
上田・神科条里と番匠[コラム]

【資料添付漏れの追加のお知らせ(2022/10/27)
 第6章「6.「番匠」語の新発見」中に「(「資料1.」で皆さまもご確認ください)。」とありましたが、その「資料1.」が抜けておりましたので、末尾に追加するとともに不手際をお詫び申し上げます。【お知らせ終わり】
 

 都合でブログを中断していましたが、吉村八洲男さまからのご寄稿をいただきましたので、再開いたします。吉村さんから「既掲載論考との関連で「鼠」再論(三)から掲載を」とのご依頼がございましたので、「鼠」再論(一)と「鼠」再論(二)もありますが「「鼠」再論(三)」から掲載しております。ご了承ください。

 なお、吉村さんが発表した原稿はPDF文書でしたが、ブログに掲載するため、原稿をWordファイルでご寄稿いただき、そのWord原稿に対して山田が独断で行った変更点は次の通りです。
(ⅰ) 第2章が、『「科野の国(上田)」の「条理的(!)遺構」』と『「神科条理」への不審 「ものさし」』とダブっていましたので、章番号を順次繰り下げました。
(ⅱ) ブログへの掲載上やむなく、挿図の位置及びその指示文を「上図」・「下図」に変更しました。
(ⅲ) 日本語FEP使用の際の変換ミスと思われる論稿中の「条理」は「条里」に変更しました。
(ⅳ) 同上理由の誤字「天平字元年」を「天平字元年」に訂正しました。
(ⅴ距離の単位メートル法の大文字「M,CM」表記を小文字「m,㎝」に変更しました。
(ⅵ) ブログ掲載上、一行の文字数を自動(Webが行う)としました。
(ⅶ) 体裁上の理由で、表題・章題などの文字ポイント数を変更しました。
(ⅷ) 難読地名のフリガナの文字ポイント数を8に下げました。

 また、いつも通りですが、脚注は山田が無断で追加しています。

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「鼠」再論()

「上田・神科条里と番匠」

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 4年ほど前「多元・月例会」で、長野県・上田の「神科条里」について紹介と論考〔注1〕を発表した(今回の論考と重なる部分については、ご容赦を)。

 その時この条里が、古田先生が最初の著作を発表された9年前(1962)に発見された事(60年前!発見者・白井恒文氏)、発掘による考古学は「7世紀造成」を示したが、「日本書紀」との整合性からそれが疑問視され造成者不明(「地方の豪族」説)のまま『条里的(!)遺構』と判断され放置されている、とも紹介した。

 私はこの神科条里こそが「九州王朝」によって作成された条里(遺跡も)なのだと資料とともに「月例会」で主張したのである。そうとしか思えなかったのだ。「国分寺・古代道」にも話題が及んだ記憶がある。

 ただ、「科野の国」の歴史は複雑で、推測困難でもある。一筋縄ではいかないのだ。それなのに私の論理展開は稚拙で、その上資料も不足していた。結局、発表内容に注意を向けられる事はなかった。

 だが、神科条里が作られた時代を推定・決定する事は重要事である。放置される事ではないと思える(だが一元史観からの40年前の推定・決定が今もまかり通っている)。神科条里を築造した時代と築造者が決定されれば、「多元史観」での貴重な足掛かり・歴史定点となる。「科野」への理解もすすむ。そしてそこからは新たな「多元」展開がもたらされると思うのだ。

 この条里が7世紀に作られたとすれば、九州王朝は想定以上に早くから「東日本」に進出していた事になる。不明とされてきた多くの上田地域の遺跡へも推定が可能となる。それもあり神科条里の造成者・その時代が確定出来たらと私は永らく思っていた。

 今回、『7世紀・九州王朝による神科条里作成』を窺わせる貴重な資料を見出した。皆様にご検討いただき、『九州王朝は、上田を起点に紀元前から東日本へ進出していた』『科野の国への理解が多元理解(古代氏族・九州王朝理解)に重要』という私の長年の見解にご理解を頂けたらと思い、紹介します。

 

2.「科野の国(上田)」の「条里的(!)遺構」

 驚くことに、広大な土地上に遺存した「条里制遺構」が日本で初めて確認されたのが「上田市・神科(染谷)台地」である(部分的な条里確認なら大正期からあった)。この重要な発見が今では忘れ去られつつあるかと危惧し、「鼠」問題との関連もあり、まずその研究のいきさつを述べておく。

 故・白井恒文氏が昭和38年・長野県地理学会でこの研究を発表されたのだが、これが以降の条里研究の嚆矢となる(古田武彦氏が「邪馬臺国はなかった」を発刊されたのが昭和47年(1971)、白井氏の発表はその9年前だった)。

 千曲川の支流「神川(かんがわ)」が沖積世に形成した広大な台地(地元で「神科台地(染谷台地)」と呼ぶ地域)上に「条里制による様々な遺構」を確認しそれを追及・究明されたのである。今から見ても驚嘆すべき研究・その内容であった。

 この台地上に遺された水田・水路・道などの復元を中心に、実測(氏は測量も大学時代に学ばれていた)・地籍図(戸籍図)研究を基本とされ、折よく実施された土地改善事業成果などを取り入れ「神科条里遺構」研究を進展させたのである。

 その結果「神科台地」に、「班田収受法(孝徳記)」による「条里遺構(初期の都市化さえなされている)」がほぼ手つかずの状態のまま残っている、と確認したのである。自然条件として強調されたのが、多くの条里に認められる「土の堆積(流入)」がここではほとんど見られないと言う事であった(だから時代の経過に伴う遺構の重なりがない)。自然水流がほとんどない台地上の「粘土質の土穣」が人工的な「水利(灌漑)」を必要(可能)とし、結果条里遺構が残ったと推測されたのである。それを証明するように条里期からと思える灌漑水路が多く残っていた(条里がそのまま残ったと推定される奇跡のような場所さえ、今に残る)。

 更に「条里遺構」内に、長野県歴史界永年の謎とされた「信濃国府」が遺存するとし、上田地域には同様な「条里水田」が各地に遺存するとも結論したのである。(以後「信濃国府」所在地確認・条里水田確認も大きな研究テーマとなった(詳細は「上田付近の条里遺構の研究(私家本・中古流通あり)」でご確認ください)。

 この「神科条里遺構」発見は、当時の「古代史学界」を揺るがした。発表をきっかけに文部省は「条里研究会」を立ち上げる(白井氏はその初代メンバー)。更に「歴史地理」「古代道・国府」「条里」などの研究にも多大な影響を与える。そして長野県下の著名な研究者・郷土史家はこぞってこの「神科台(染谷台)条里」研究、「上田条里水田跡」研究、「国府」推定地の確認研究に参加する。

 この発見は、現実に「神科(染谷)台地」に遺存する遺跡からの推定であった。だから否定などできるはずがなく、やがては行政をも動かし「神科条里遺構」「地域条里水田跡」へは数回の発掘が行われ、貴重な資料もいくつか得られていく。

 上田市・その周辺からは、神科地区と同様な「条里水田」が次々に発見された。更に、坂城町・上山田町・屋代町等の「科野の国・千曲川中流域」からも確認が相次ぎ、この地域は「条里水田の宝庫」とも言える一帯となった。

白井氏著書中の 「神科台(染谷台)条里図」
Photo_20221026154901
 (白井氏の同じ書中には『地名図』『上田市他地域・坂城町の「条里水田図』などがあり、これが私の立論ともつながる。後に掲示する)。

 白井氏の早すぎた研究・推定には反発・反論が多く出た。氏の研究は多くの毀誉褒貶を受けたのだが、上田「神科台条里遺構」問題への公式最終結論は以下となった。

 「条里遺構発掘調査」団長でもあった「文部省技官・山中史郎」氏が判定をする。

 『考古遺構・遺品からはここが7世紀の遺構であると確認される。が、広大な「条理」がこのような地方(科野)にあったとする事は「日本書紀」記述から容認できない。「藤原京」「平城京」より先に都市化されたような条里制度が「科野(上田)」に残る筈がないからだ。だからここは、地方豪族により作られた「条里」に類似した弥生期の「条里的(!)」遺構である』

 目前にある広大な7世紀「条里遺構」は否定できない、だがそれは「条里的」と呼ぶべきで「条里」とは言えない遺構だ、という結論だったのである。禅問答のような判定だが、「文部省技官」(奈良国立文化財研究所)であり中央の一流歴史家でもある山中氏のこの判定に、地方研究者は逆らえなかった。判定基準の正当性や結論への論理性を争う事にはならなかったのである(更に、当時の学界では「条里遺構」は「聖武天皇」による築造と信じられていた。隣接する「信濃国分寺」の発見・発掘はマイナスに働いた〔注2〕)。条里遺構の造成された時代はいつだったのか、質量ともに特徴的なこの条里遺構を地方の一豪族が作り得るものか、などは問題とされなかったのだ。「多元的思考」が定着していなかったことが最大の原因と思えるのだが・・・。

 発見に対し「山中」氏の判定が下され、研究者はこの問題から一斉に手を引いていく。中央の権威ある学者からの結論が出された、これ以上の追及は無駄な事だ、となる。権威に逆らう研究を続け、より深化させようとする信念はなかったと思える。

 上田「信濃国分寺」の発掘も進んでいた。郷土史家の研究対象も「条里(国府・水田)」問題から「信濃国分寺」問題へと向かっていく。成果もそれなりに出た・・・。

 こうして「神科台(染谷台)条里」問題・「国府」所在地問題・「条里水田」問題は忘れられていく。関連する新規研究も、ほとんど発表されなくなってしまう。

 こうやって「神科条里遺構」への研究史を振り返ってみると、早すぎた発見が奇妙な判定を呼んだと言えるかも知れない。一元論者による発見・研究・判定には限界があったと思える。今なら「重要遺跡発見」とされ考古学上の大問題となるだろうに。

 現在、「神科条里」・関連問題への結論は既に出されたとする。疑問を感じ追及しても、すべてが無視されスルーされてしまう。ところが『上田には条里的(!)遺構)がある』という判定結果だけは残り、「上田市の観光案内」にもそう紹介される。

 おかしくはないだろうか?「条里遺構・水田」跡は今も残っている。だからこれが「条里的(!)遺構かどうか」を争うべきで、『40年前に既に結論は出されている。だから今更追及するのは無駄な事だ』とする現状には強い違和感を覚える。残されている謎や推測へは「別歴史観」からの新たな追及がなされるべきと思う。

 更に「上田盆地」・「千曲川中流付近」には多くの「条里水田」跡が確認されている。日本でも希少な「条里水田遺構群」と言えるのだ。これらへも追求がなされるべきだろう。40年前、ある学者が出した一元的評価・判断が最終決定ではない。上田「神科条里遺構」の『真の歴史的・学問的価値』はまだ決められていないのだ。(それにしても、『条里的(!)遺構』とはいったいなんなのだ?何だろうそれは? )

 だが多元的歴史観からは、この広大な遺構群は「九州王朝」により作成された日本でも稀有な「条里遺構・条里水田跡」と断定されよう。絶対に看過される遺構ではないと判断されよう。だから「神科条里」へ新たな解明・解釈が試みられて当然なのだ。

 ただ、急がなくてはいけない。押し寄せる数多い開発計画と住宅化の波は、貴重な「条里遺構・水田跡(考古根拠)」を急速に減らしている。やがては多元からの追及は不可能となり根拠のない推論とされていくのだろう、報告書だけは残るが。

 

3.「神科条里」への不審 「ものさし」

 白井氏は研究書中で多くの発見・指摘をされたが、そこには当時の古代史常識から不審と思われる事があった。まず、「条里水田」に使われた「ものさし」が不審であった。

 氏は「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、『「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想され(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であったとも解明された。

 これは「日本書紀」にある『孝徳期に「班田収受法」が施行された』説を裏付けていた。「班田収受法」にはこう書かれていたからだ。

 「・・・その三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収受の法を造る」「凡そ田は長(たけ)三十、広さ十二歩を段(たん)と為よ。十段を町(ちょう)と為よ。

 解りやすいようこの文(「班田収受法」)に描かれた「条里水田」を図にする(下図を参照ください)。

坪地割
Photo_20221026155001

 この「日本書紀」の記述からも神科条里の作られた時代が決定された。

 これは「唐尺」が「ものさしの基準」として使用された時代で、だから「水田・坪の一辺」も「唐尺」から説明される、としたのである。

 白井氏の実測は、「坪(「条里水田」)」の一辺は「109m~110m」と示していたが、「日本書紀」の記述からは、それが「30歩」に相当していた。だから、「歩」・「尺」の実距離は簡単に出される筈だった。

 ところがそうではなかった。「唐尺」では神科水田の実距離(「水田一辺の長さ」)を説明できなかったのである。当時「唐小尺」は「24cm」前後とされ、「唐大尺」は「30cm」前後とされていた。その数字では適合しないのである!(皆様も試みてください)。計算すると変な端数が出て現実的ではない「尺数」となってしまうのである。古代歴史学界の「ものさし」常識が、「神科条里水田」では通用しなかったのだ。

 白井氏や郷土史家はこの事実を深く追求されなかったようだ。当時は「高麗尺」(今では完全に否定される)の存在が信じられていた。そこから説明されると思っていたようだし、「条里水田」の実距離は、基準尺の数字よりやや大きめに作られたとされていたからである(「サービス残業」ならぬ「サービス距離」?)。

 ところが、「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた事が判明する。説明できない「ものさし」の長さが、他の古代遺跡の実例(建造物の距離)にも使用されていたのである。

 こうして条里水田で使用された「ものさし」が地域内の別遺跡でも使用されていたと認定されるのだが、それでもその実態は不明のままであった。「唐大尺+α」を一単位として使われたかと推論されたが未解明なままとなった。

 さて、ここから話が少々飛躍する。

 四国・愛媛県に「久米遺跡」がある。驚く事にその遺跡に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。図にする。

久米官衙遺構・地割イメージ
Photo_20221026155101

 その間隔は、「109.44㎝」と推定され、7世紀初頭の「久米官衙Ⅰ期・Ⅱ期」でも使用されたと考古学から結論付けられた。

 ところが奇妙な事にこの遺跡では後の「Ⅲ期」(8世紀)になって初めて「唐尺」の使用が確認されるのだ。「ものさし」の使用された順序がおかしかった。

 考古学者はこう結論した。(「斉明天皇の石湯行宮か・久米官衙遺跡群」新泉社 に詳しい)。『1尺およそ0.304mで360尺となるが、いずれにせよ「唐尺」とは異なるようだ。が、詳細は不明である。なぜⅢ期建物群以前にこの「ものさし」が使われたのかも不明である。

 だがこのような例は、「伊勢国庁」遺跡にもあり、全国に似た例がある。「109m~110mの間」と言う数値を示すのだ。使われた「ものさし」は、上田神科条里のものとよく似ている。そこからは、「唐尺」以前の「ものさし」が、この時代、全国的に使用されたと推測されるのだが。

 

4.「神科条里」への不審  「地名」

 「条里遺構」研究の過程で特に問題視されたのが「地名」だった。前述した「地形・地層」が持つ「特殊条件(沖積期に形成された粘土質の多い渇水台地)」から条理遺構が今に残ると推定されたのだが、更にこの地区の歴史経過からも「条里」由来地名がそのまま遺存するかと強く疑われたのだ。郷土史家は課題の解明を試みる。

 郷土史家の研究成果でもある『神科条里予想地に遺る「地名図」』を紹介しよう。

『神科条里予想地に遺る「地名図」』中の右上方部の図
Photo_20221026155102
 (神科条里中、右上方部の図となる。破線は、「段差・崖・区割り」などを示す)。

 この「地名図」中、太字(ゴシック体)で表記されるのは明治・大正期の町村統合を経て遺った昭和初期の地名で、多くが今でも使われる。他は、『江戸期(寛永・承応(4年・1654)・寛文など)「検地帳」・「絵図」、明治初期「田畑番付帖」・「御検見毛付帳」』などから確定された地名である。

 図示した「地名図」でも、農村にあったと思えない「地名」が多く確認される。「大夫町」・「馬尻」・「天竺」・「乞食婆々」・「堂前」・「番匠町」・「大和町」・「皇天町」「笠縫町」「東(西)の手」等々である。自然や地理(形)条件からこの地名が発生したと思えず、あり得ない「地名」と思えそれがこの一帯に集中する事にも驚かされる。

 驚く事に「国名」も残されていた。「笹井村(神科台地に隣接する旧村名)検地帳」にその記録が残っていた。「はりま(播磨)町・いずみ(和泉)町・するが(駿河)田」とあり、「染谷村」には「えちご(越後)田」、「新谷村」には「さぬき(讃岐)田」、「伊勢山村」には「やまと(大和)町」、と国名が地名として記載されていたのである。「いせ(伊勢)」名も各地に残されていた(合計すると7か国名。さらに「我妻」「びぜん」「たじま」名も確認された)。

 これらは条里地名の遺存と関連する刮目すべき発見なのだが、特にある事実が注目された。

 ある特定地名が、数多く「神科」・「塩田」地区に遺存していたのである。それが、「番匠(ばんしょう)」地名であった。なんと「15か所」で確認されたのである(前図でも「2か所」が確認される)。一つの「番匠」語遺存でも珍しい事なのに、「神科(条里遺構)」からは「10か所」の「番匠・ばんしょう」地名が確認されたのだ。

 更に「塩田地区」からも「5か所」が発見される。神科・塩田地区には、「15か所」の「番匠」地名が残っていたのである。「番匠町(村)・番匠田・番匠畑・番匠めん(免)・番じょう田、番田、」等々であった。驚くべき事実だったのだ。

 ただ郷土史家の主たる追及は、条里に遺された他の特異地名の解釈・由来に向かった。これらが条里開始時に命名されたとすれば、そこから造成された時代の推定が可能となるかと思われたのだ。数多い「番匠」地名も重要な手掛かりの一つとされ、多くの究明がなされて行く。

 検地帳などからの条里関連地名研究を主とした郷土史家・滝沢泰雄氏はこう述べている。(注・「創置の信濃国府跡推定地確認調査概況Ⅳ」上田市教育委員会1986で)『この(「番匠」)地名の分布は、染谷台地上では、伊勢山村・染谷村・東条村(金剛寺村、長島村)の3カ村、神川流域では下郷村・矢沢村・下原村・荻村の4カ村、上田面では、堀村・岩下村・踏入村の3カ村、合計10カ村を数える」といい、「塩田地区の5カ村からも拾うことが出来る』と言う。

 神科台地上の旧村「10か所」に、この「番匠」名「10個」が残っていると言うのである。旧村名と「番匠」地名とが見事に一致する分布だと思えた(これは、とんでもないことなのだが)。さらに「塩田」地区の旧村「5か所」にもこの地名「5個」があると言うのである(同じように、一村一地名だ!)。

 残念な事に、滝沢氏・郷土史家は「番匠」地名の数の多さに驚いてしまい、肝心な地名分布の異常さにはほとんど注目されなかったようだ(あり得ない事なのに)。

 1か所だけでも貴重な「番匠地名」が、並外れた出現数(15)で、さらに異様な分布(1村1地名)で「条里地」に残っていたのである。「数」と「分布」、両者は共に注目されるべきと思うのだが・・・。

 だが、郷土史家こぞっての追及から「番匠」語はこう結論される。『この「番匠(ばんしょう)」と言う言葉は、「大工(だいく・木造建築者)」を意味したと思える、「律令制(平安初期)」のもと、「木工寮」に集められた「匠・大工」を意味した言葉だろう。だから「神科条里」もその頃(8世紀)に造成されたと再確認される』。

 『「番匠」とは「大工」を意味していた』と理解すれば、その数も分布も問題とはならない。「番匠」語の異常さは気にならない事だ、と判定したのである。

 こうして、前述した中央の権威ある学者の判断と郷土史家の推定とが一致する。「番匠」語への推定からも「8世紀の条里遺構」結論が再確認されたのだ。

 だが「番匠」語へのこれらの解釈・説明は正しいのだろうか?私には到底そうとは思われなかった。失礼ながらいくつかの思い込みが優先した「空論」だと思えた。

 後の時代(10世紀以降)に、「大工」を思わせる「番匠」語の使用例があるようで、それに関する資料も残ると言う(私は不勉強でその「資料名」を知らない。確かに地名としては、各地に残っている)。

 私は、ハッキリしない根拠からの「番匠」語推測ではないかと疑った。7~9世紀には「番匠」語を記録した資料はない、そういわれて来たからである。郷土史家は、資料がないのに神科条里への推定をしたことになる。すでに出されていた通説(一元観)をそのまま援用したのかとも疑えた。

 ところが直近になり、ある「資料」から「番匠」語が初めて確認された。それが「番匠・資料」の初確認であった(そしてそれが、根拠不明・由来不明と言われてきた「番匠」語推測への決定打となるのだが)。

 40年前、郷土史家がその資料に気付く筈がない。だから上田「番匠」語への推論をやや強引に進めてしまったかと思える。無理もない事であったのだろうか。

 歴史判断では、同時代資料からの推論が優先され、後世資料は二次的な役割しか果たせない。つまり後世資料で「番匠」語をいくら推測・解説しても、『条里の時代(7又は8世紀)の「番匠」語』は理解・説明されないのだ(この時期は、九州王朝全盛期と思われるが、更に大和王朝への「王朝交代」もなされ、混乱した不明な時代でもある)。

 後世からの類推を主とした今の定説では、上田・「番匠」語を十分に説明していないと改めて思われた。

 

5.「番匠」語への定説確認

 再度「定説」を振り返ってみよう。

 「番匠」語には「匠(たくみ)」という名称(部分)がある。そこから技術を持つ職業集団名が予想された。郷土史家は、「令集解」(8世紀)を資料根拠とし、「番匠」とは「平城京・木工寮」に住む『木匠(もく・木造建築集団)・「大工(だいく)』の人々である、としたのである(通説もこう説明していた。繰り返すが、「令集解」には「番匠」語はないのだが・・・)。

 続いてこう論定した、『上田・小県の検地帳には「〇〇 屋敷」などの語が多く残る、それらには「大工」が住んでいたと思われる。そこからこれらの「番匠」名称が生まれたのだろう。彼らが地域の「寺」・「文化財」を造ったのだ。

 大変理解しにくい推論で(皆様も理解できますか)、結論へと至る論拠が不十分と思われ、再三読み返しても全く納得されない定説と思える。

 前半は「大工」語の由来・説明であり、「異なる語句」である「番匠」語の説明ではない。肝心な「番匠」語の由来・解釈はそこにはない。

 「番匠」が「木工寮」に住むとなぜ決められたのだろう。「令集解」には、いや8世紀資料には、そうは書かれていない筈だ。「番匠」語さえ出てこないのだから。「定説」で示された「番匠」語説明の『根拠は不明』なのである。

 繰り返そう。『「番匠」とは「大工」を意味している』とする資料は、8世紀には存在しないのだ。

 確かに後世、「大工」という言葉は、「木造建築の匠」を差配する頭(かしら)、を意味してくる。その人々が「木工寮」にいた事も、8世紀「令義解」からは確認される(だが最初は、各種「工匠」の頭、つまり『大・「工匠」=大工』の意味だったと言われる。その痕跡が後世資料にも『小工(匠)』表記として残る)。

 「天平字元年(757)」に完成した「養老令」だが、その「令義解」(「職員令」)には、「多数の職制」が描かれている。問題とする「木工寮」も「宮内省」に属した「四寮」(「十三司」)の一部署である。そして「令義解」には、「・・掌営構木作及採材・・」と書かれている。そこから、仕事の内容(職種)が『「木作及採材」を「営構し掌する」』職種と解る。「採材」と「木作」を業務とした、つまり木造建築を担当した部署であったと言えそうだ。「大工」とは「木造建築の匠」だと結論する「定説」のこの部分には大きな間違いがないと思ってよい。

 が、今問題とするのは、『なぜ「番匠」語が生まれ、使われ、特殊と思える分布を示すのか』であり、その答えに「大工」語の由来・説明をされても「番匠」語への理解は進まない。それは論点のすり替えに過ぎないと思える。

 なぜ上田には集落ごとに数多く「番匠」語が残るのか?「番匠」語はいつ頃生まれ、本来の意味は何だったのか?「番匠」の職種を「大工」と決めて良いのか?「○○屋敷」と「番匠」語には相関関係があるのだろうか?「○○屋敷」には「大工」が住んでいたのだろうか?新発見の「番匠」語資料とはどのようなものか?・・・などなど、疑問は尽きない。

 

6.「番匠」語の新発見

 前述したように多くの郷土史家が、江戸期「検地帳」類に記載された「大夫」・「馬尻」・「皇天町」・「天竺」・「番匠町」・「舞台」・・・等々の地名を「条里」への手がかりとして来た(これへの説明は、カットいたします)。

 今回私はやや広範囲から、「上田市と小県(ちいさがた・郡名)の「番匠」地名」の再確認を試みた。この語が条里築造の時代を決定するカギとなるかと思えたからである。

 結果、なんと「50ヵ所」で『「番匠」語(同一と推定できる語)』を確認したのである!数からは、歴史定説を変えかねない驚くべき発見と思えた。

 知人からお借りした「検知帳類より収録した上田・小県(ちいさがた)地方の地名」(「上田小県誌刊行委員会歴史部(小池雅夫氏と中村氏が作成の中心となったと推察される)」作成の小冊子、昭和38年(追加分は平成13年)・発行)からだった。

 上田地域には、「50」の「番匠」語(地名)があったのである!とんでもない数で「番匠」語のバーゲンセール状態とも言え、まさに驚愕すべき事実であった。この「バンショウ・バン」語の多さには、まず着目されるべきと思われた。

 さらに驚いたのは、この「番匠」地名が前述した「一村落一地名」という分布ルール(?)を踏襲したまま、この地域に分布していた事だった。郷土史家が気づいた「神科」「塩田」での分布が、「上田・小県」という広域な地区でも再確認されたのである。

 もちろん江戸期にはこの地域に多くの村があったと思える。変化(統合・離散)も予想され、ここで根拠とした「検地帳」類に残された「村・集落」の名称(総数)・その範囲では、当時を再現する完全なものとならないかもしれない(この冊子で取り上げられた文書数は、「200」枚前後と思われる)。

 ちなみに、滝沢主税氏「村の発見(長野県字境図村境図集成)」では、上田・小県の「村・町数」が「165」であると記載されている。江戸期の『天保郷帳』からの数である。だから、「江戸中期から末期」にかけて、上田地域の村数はこの前後だとも予想されよう。そこからは地域の「村」・分布(地名)が、この冊子(「検地」結果)である程度カバーされているとも言えるのだが。

 肝心な事は、この地域に「50」の「番匠」語地名が存在していた「資料事実」には間違いがないと言えることだ。「検地帳」類(文書)にはっきり記載されているからである。

 そしてこれは、日本でもここだけの「番匠」地名集中地と思われた(他の地名であっても、同一語がこれだけの出現密度を持つ事は珍しいだろう)。

 この総数と分布から、この地名が「偶然につけられた」地名でない事は明白と思えた。意図・原因がなくてはこうはならない。だから、ある「社会的環境・状況」下で生まれた特別な地名であることに間違いないと思えた。「上田・小県地域」に、これだけの「番匠」語を残した人々・体制・権力を予想する事さえ出来ると思えた。

 「なぜこんなにも多数の「番匠」語が残るのか、なぜそれが「一村一語」と言える特異な分布を示すのか」。「番匠」語への説明には、最低でもこの二つの疑問に明確に答えなくてはならないのだ。

 さらに私は気が付いた。この「50」の「番匠」語は、ある特徴を持っていた。「番匠」語への具体的な表記例の確認からだった。こう表記されていたのである。

 上田地域の「バンショウ・バン」地名
 1.「番匠」又は「ばんしょう」を含む語・・・「番匠田」・「番匠畑(畠)」・「番匠町(村)」・「万匠町」・「ばんし(じ)ょう田(畠)」・「ばん志やう田」・「番上坂(畠)」・「番匠(ばんしょう)免」・「ばんしよう村」・・・等々 34例
 2.「番」又は「ばん」を含む語として・・・「番(ばん)田」・「番(ばん)免」「ばんば田」「ばんの田」「番川原」「番(ばん)場の畑(畠)」・・等々 16例
 3. 判別不明・・・「半入道」「はんハ田」「下まんしょう」 ・・等 7例

 私は結論した。『この言葉(語)のすべてが「土地・農地」に関係する。直接示すか又は関連語として使われている』。「50例」すべてにこの結論が適合すると思えた(「資料1.」で皆さまもご確認ください)。

 解りやすく言うと、50例ある「バンショウ・バン」を含む語句の末尾のすべてが、「田」・「畠」・「坂」・「村」・「町」・「免」(地租免除か)等々なのである。「バンショウ・バン」語のすべてが、これらの語と組み合わさっているのだ。土地(田・畑)に関連する言語だ、と私は断定した。

 「番匠」語のこの用例からは、この言葉から『「木工の匠」』を予測し断定する事は至難であろう。そのような用例は一つもないからだ。この言葉から「大工」を推定する定説は、「空論」だと私は結論した。

 『「番匠」とは「木匠」で、「木造建築(寺などの文化財)を担った匠」』と断言できないのだ。いや「番匠」地名は、「土地・農地」に関連した言葉であろう。「50の番匠語例」すべてがそういっていたのだ。

 定説は見直されなくてはいけないと思えた。そして私は上田の「番匠」語解釈には今までと異なる角度、別歴史観からの解釈も必要ではないかと思えたのだ。「神科条里」の作成者がだれだったのか、その答えになるかもしれないと私は思ったのだ。

…………………………………………………………………………………………………………………………
資料1.『「番匠」・「番」地名』一覧表

・参考冊子名 「検地帳類より収録した 上田・小県地方の地名」(上田小県誌刊行会歴史部作成 昭和38年発行・(追加分を含め)平成17年 再発行

・吉村注 上記「検地帳類より・・地名」記載の地名から該当地名を選び出した。
 それを「バンショウ・バン」語の入る地名と、不明だが疑いが濃厚な地名、の2つに分類した。そして冊子の記載順に番号を付け解りやすいものとした。
 地名・村名(部落名)表記は、「検地帳・・・地名」冊子に記載されたままである。最後に、出典名(文書名・記載された「検地帳」名など)とその年号を記した。(この冊子への詳細説明・見解は末尾にも記録した。ご参照下さい)

   「バンショウ・バン」地名(表記)・その所在地 一覧

   1. ばんば     桜井村     2. 番匠田     井子村
   3. ばんじょう田  祢津村     4. ばんじょう畠  祢津村姫小沢
   5. ばんじょう田  姫小沢村    6. ばんば田    東上田ノ内
   7. ばんば     上深井村    8. 番匠畑     加沢村
   9. はんしやう田  田中町    10. ばん志やう田  夏目村

  11. はん志やう免  神川村岩下  12. ばんじやう   国分寺村
  13. ばんば田    小井田村   14. 番場之畑    森村
  15. ばんば田    森村     16. ばんば田    林之郷
  17. はんじょう田  下郷村    18. ばんじょう田  矢沢村
  19. 番免      岩清水村   20. はんじょう村  洗馬組下原村

  21. 番川原     傍陽村横道  22. ばん志やう田  軽井沢村
  23. ばんば     軽井沢村   24. ばんじょう町  伊勢山村
  25. 番匠町     長島村    26. 万匠町     染谷村
  27. ばんの田    藤原田村   28. ばんば     依田村御岳堂
  29. ばんば     古開・新開  30. ばんば     飯沼村

  31. はんちやう田  長窪古町   32.  ばんじょう免  長窪古町
  33. ばん志やう田  長窪新町   34. 番匠はた    東松本
  35. 番匠免     小嶋村    36. 番免      前山之郷
  37. 番匠村畠    前山郷    38. ばんでう村   東前山村
  39. 番匠めん    野倉     40. ばんちやう田  別所村

  41. 番匠田     小泉村    42. ばんば     小泉村
  43. 坂上はた    上室賀村   44. はん上坂はた  上室賀村
  45. はんしやう免  奈良本村   46. 番匠田     諏訪形村
  47. 番匠田     中之条村   48. ばん丁田    吉田村
  49. 番匠田     仁古田村   50. ばんじょう田  村松郷

 判別不明
   1. 半入道     金剛寺村    2. はんハ田    野竹村
   3. 下まん上    ふ三入村    4. 中まんちょう  御所村
   5. 下まんちょう  御所村     6. 中まんぢやう  諏訪形村
   7. まんちう村   本原


 それぞれの出典 (冊子「検地帳類より・・・の地名」から)
   1. 櫻井村御縄打帳   寛文10年  2. 井子村御縄打帳   寛文10年
   3. 祢津村検地水帳   寛永7年   4. 姫小沢検地帳    寛永7年
   5. 姫小沢村六段水帳  元禄4年   6. 木村所左エ門御改之帳東上田ノ内 元和3年
   7. 田畑惣貫之御帳上深井村 承応3年 8.本貫文改帳加沢村   寛政10年
   9.田畑貫高帳田中町   承応3年  10.夏目村御検地水帳   寛永7年

  11.田畑貫高御帳神川村  承応3年  12.田畑貫高帳国分寺堀村 承応4年
  13.田畑貫高御改帳小井田村 享保2年 14.田畑貫高御改帳森村  明和2年
  15.田畑貫高御改帳森村  明和2年  16.田畑貫高御改帳林之郷 享保2年
  17.田畑貫高御改帳下郷村 享保2年  18.田畑貫高御改帳矢沢村 享保2年
  19.田畑貫高御改帳石清水村 享保2年 20.田畑貫高御改帳洗馬村下原村 寛文3年

  21.本貫文水入帳上洗馬村 天保6年  22.軽井沢村貫寄御帳   承応3年
  23.軽井沢村貫寄御帳   承応3年  24.田畑貫高帳伊勢山村  承応4年
  25.田畑貫高帳長島村   承応4年  26.貫高改帳染谷村    承応4年
  27.藤原田村縄打帳    寛文10年 28.御縄打帳依田村御嶽堂 寛文10年
  29.小開・新開御縄打帳  寛文10年 30.飯沼村検地帳     安永6年

  31.長窪古町水帳     寛永7年  32.長窪古町水帳     寛永7年
  33.長窪新町御検地水帳  寛永7年  34.東松本帳       文禄元年
  35.田畑貫高御帳小島村  承応3年  36.前山之郷御毛付帳   慶長7年
  37.前山之郷御毛付帳   慶長7年  38.田畑貫高御帳東前山村 承応3年
  39.野倉惣帳       天正9年  40.田畑貫高御帳別所村  承応3年

  41.小泉村    (推定・寛永末)  42.小泉村    (推定・寛永末)
  43.田畑貫高御帳上室賀村 承応3年  44.田畑貫高御帳上室賀村 承応3年
  45.貫高帳 奈良本村   承応3年  46.名寄帳 諏訪方村   寛永18年
  47.田畑ならし帳中の条村 寛永20年 48.田畑貫高御帳 吉田村 承応3年
  49.毛附御検見御引方勘定帳 仁古田村 弘化二年 50.田畑貫高御帳 村松郷 承応3年

 

 判別不明
   1.貫高帳 金剛寺村   元禄元年   2.田畑貫高帳 野竹村  承応4年
   3.名寄帳 ふ三入村   寛永14年  4.田畑貫高御帳 御所村 寛永20年
   5.田畑貫高御帳 御所村 寛永20年  6.名寄帳 諏訪形村   寛永18年
   7.真田氏給人知行地検地帳 (推定・天正6~7年)

冊子「検地帳類より収録した・・上田・小県地方の地名」について

(1) 巻頭「はじめに」として冊子の編集方針が書かれているが、そのすべてをここには記載できないので、重要と思える部分を記しておく。
 『(前略)・・・本稿は主として、現在上田小県地方の各町村に最も数多く残存している寛永・承応・寛文年間等江戸初期の検地帳類を中心に、また同期の帳が現存されない町村については時代の降っての検地帳類の小名を収録した。・・・』

(2)『「検地帳」類・・・』について
 原典・原文は、「○○家文書」、「○○地区保存文書」などとしてまとめられる多量の古文書からのものである(地域旧家から多くが発見される。奈良原家・小田中家・清水家等々である)。冊子(地名)は、そのうちの「検地」に関する古文書が対象となったと思われる。
 それらの古文書から、「石高」「所有者・耕作者」「関連事項」などを外し、「地名」だけに絞り込み、この冊子が作られたようだ。「条理」地名研究に端を発した「地名」研究の重要性認識から、改めて編集された結果と思える。「はじめに」でも『野帳として利用してほしい』と書かれている。

 郷土の先学者の御努力さらに内容の高さが窺え、改めて多大な感謝をしたい。

資料2.上記冊子(『「検地帳」類・・・上田・小県地方の地名』)に記載された、推定も含む「うとう」地名・村名( 吉村注・現在地名を最後に書き加えた )。

   1. うとふ坂  加沢村    東御市(とうみし)
   2. うとう坂  上洗馬村   真田町
   3. うと    軽井沢村   真田町
   4. うとふ坂  伊勢山村   上田市神科
   5. うとう坂  新屋村    上田市神科
   6. うと    長瀬村    丸子町
   7. とうの坂  長窪新町   長和町
   8. うとう坂  手塚村    上田市塩田
   9. みとうの沢 別所村    上田市別所
  10. うとう坂  室賀村    上田市室賀

  11. とう町   馬越村    上田市浦野
  12, ふとう   原之郷    真田町
  13. ふとう沢口 長窪古町   長和町
  14. とう畑   奈良本村   青木村
  15.みとう田  奈良本村   青木村

資料3.上記冊子に記載された「シャクチ神仰」をうかがわせる地名

 しゃくち(口)・シャグチ(志やくち)・ちぐうじ・左口・赤口・さの神・すぐぢ社宮司・勺子・しゃくし・・・等々  49例

 

(「鼠」再論(四)へ続きます(山田)
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注1 長野県・上田の「神科条里」について紹介と論考 …… ―白井恒文「上田付近の条里遺構の研究」と多元史観―と題されて講演された次の論考です(当ブログ掲載)
「科野からのたより」(「多元の会」4月14日発表講演)2019年718 ()
 なお、以下のブログ記事に詳しく論じられています。
Yassiの古代徒然草 №2「神科・染谷台の条里と国府」編(1) 2019年519 ()
Yassiの古代徒然草 №2(2/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(2) 2019年520 ()
Yassiの古代徒然草 №2(3/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(3) 2019年521 ()
Yassiの古代徒然草 №2(4/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(4) 2019年522 ()

注2 隣接する「信濃国分寺」の発見・発掘はマイナスに働いた …… 吉村さんは当時より「“信濃国分尼寺”とされている○○寺は信濃国分僧寺創建以前からあった寺院」と提起されてます(山田も次の賛意記事を書いています。信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた)。この○○寺は信濃国分僧寺以前に建てられて、染谷台条里と一体化していることが白井恒文氏の著作でも明らかにされています(吉村さんのご寄稿によるブログ記事白井恒文『上田付近の条里遺構の研究』と多元史観をご覧ください)。
 次の私の[著書や論考の紹介]記事もご参考になさってください。
『上田付近の条里遺構の研究』2018年1127 ()
『上田付近の条里遺構の研究』(その3)2018年1128 ()

 

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