「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」―物部の科野上田への進出―
「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」
―物部の科野上田への進出―[コラム]
昨日(2022/11/19)、吉村八洲男さまより、「「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」」のご寄稿をいただきましたので、掲載いたします。なお、ブログ副題「―物部の科野上田への進出―」は私が独断で加えたものですので、責任は山田にあります。
私から吉村さんの論考に一つ疑義(注①) を呈したいと思います。
吉村さんは「表記は異なるが「誉」とは「金」と思えるからだ。ともに「きん」発音と疑えないだろうか。」としていますが、私は「きん」ではなく「こん」ではないかと思っています。「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の「金(こん)」、「金堂(こんどう)」の「金(こん)」です。金(きん)は漢音で金(こん)が呉音だと思います。「誉」は「ほむ(ほん)」だと思います。「こん(kon)」と「ほん(hon)」は置き換わりやすいのです。また、「誉(ほむhom)」と「誉(ほんhon)」も「m」と「n」が置き換わりやすいことによると思われます。“蒼き狼”成吉思汗は、ジンギスカン、チンギス・カハン、チンギス・ハーンなどと読んだりしています。「kon(m)」と「hom(n)」が置き換わりやすいことを示しています。「誉田(ほむたhomta)」「誉田(ほむだhomda)」「誉田(ほんだhonda)」どのように読むことも可能ではないでしょうか。「h」が「k」に置き換わった「誉田(こんだkonda)」をご一考いただければ幸いです。
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「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」
上田市 吉村八洲男
1. 始めに
古田史学会報No.168で私論考が掲載された。多岐にわたる主張だったが根幹は千曲川沿いの「科野の国」で「複合蕨手文」が「瓦文様」・「石祀文様」として多用されていた事への確認である。濃密に存在・分布し「高良社」も同じ地域内に多数が存在するとも確認された。
そこから重要な推論が生まれる。この「文様」を九州の特定の部族が遺したものと推定、つまり彼らが「科野の国・上田」に進出した事を証明するとしたのである。
根拠として「複合蕨手文様」を持つ「瓦(軒丸瓦)」7例、「石祀」神紋位置にある「複合蕨手文」を約50例、紹介した。「高良社」は12社であった。これらが上田を含めた東信州・千曲川沿いに濃厚分布したと断言した(作成した地図・写真を参照されたい)。
他地域にはこれほどの濃厚残存状況が見られないと思え、九州「複合蕨手文様」壁画を持つ古墳(考古学ではこれら古墳は、6世紀築造と考えられている)との関連を考えざるを得ないとしたのである。「文様」の遺存からは、上田と九州が無関係とは言えないだろう。古墳築造者が「科野の国」へ進出したと結論付けて良いと思われる。そう考える以外、両者を結び付けられないからだ。「複合蕨手文」はこうして上田へ来たのである。(反論を試みる時は、まず同時期の「複合蕨手文」の濃厚遺存地を示さなくては・・・)
キーポイントとなるのが、「複合蕨手文」への理解と思われる。「科野の国」にこの文様が濃厚遺存している事こそ、ある部族の「科野」進出説への決め手になるからだ。
ある部族しかこの文様を使用しなかったと言えるからである。
2.蕨手文
蕨手文様には、「の」の字形がそのまま残る「単独蕨手文様」(上図)と、これを組み合わせた「複合蕨手文様」がある。この両者の違いを軽く考えてきた事が上田に残る同種文様への誤解を生んだと言えるかも知れない。だから両者の違いを先ず確認しておく必要があろう。
「単独蕨手文様」の始原は古い。その痕跡はスキタイに始まる中央アジア・東アジア一帯に古代から残る。日本に限定すれば、縄文期・弥生期の「土器」にすでにこの「文様」がある(科野・東北・九州などの遺跡に見られる)。
(写真は、根塚古墳(長野県)・臥牛遺跡(岩手県)での出土品である。上図では「鉄剣」の「柄」の先端の文様(「渦巻文」とも言う)に残り、下図の土器に残る文様は「護符」として刻まれたかと考古学者は推定している。)
中國では、「瓦当文様」に多くの「蕨手文様」例が残っている(下図、共に秦時代の瓦当文様)。
この「単独蕨手文様」の意味は確定されていないが出土例からの推定では「魔力・武力」に関係すると思われ、同時にそれへの賛美から自己の「護身文様・護符」としたかと思われる。この文様が武器に使われた例が多いのもここから説明出来よう。
著名な「蕨手文様鉄剣」(東日本に多い)もこの流れからの使用と思われる。「鉄剣・柄」の部分を波の形状にした、つまり「単独蕨手文」を使用したと考えられるからだ。「鉄剣の柄」をこの形状にすることにより「剣(武器)」への更なる「威力」の付与(増加)を願ったと思われる。この「単独文様」は連続して使われている例も多い。「科野の国・陣馬塚古墳」出土「鉄剣」例を下図に挙げる。また、「王塚古墳・壁画」にも『「の」の字形』文様が連続して描かれている。
これらも単独文と同じ意味・由来を持つと思われる。元の形を連続して使用し、「強く」願う・「強い力」の付加を願ったと思われるからだ。連続していることから別の意味(例・「波や海を示す」)を示すと誤解されやすいが、頻出する単独蕨手文(「の」の字形文様)の意味をまず考え、連続した文様はそこからの発展形と考えるべきと私は愚考する。
「蕨手文様」の意義・原義を考える時、私が重要と思う「(瓦当)文様」をあげる。
それが上図である。中国陝西省出土、「秦」時代の「瓦当文様」でBC.8世紀位かと予想される古い(初期の)瓦当文様である。
「闘獣文瓦当文様」と命名され、人間と敵対する獣との闘いを具象的に描いた瓦当とされている。だがよく見ると、敵対する相手(獣)の一部(尾?)から伸びているのは「蕨手文様(渦文様)」で、ここの部分だけが文様化・抽象化されていると感じる。つまり、この部分は文様として意識的に使用されていると思えるのだ。
この例からは相当に古い時代からこの文様は使用されていたと思われ、同時にこの文様発生時が覗える、文様意味への推測・解釈の参考になると私は思っている。
そしてこう結論してみた。
この文様・「直線の先端が湾曲、又は渦のように中に巻き込む文様」・に対し、日本ではその形状から植物的な意味の「蕨手文様」と命名したが、これが様々な誤解を生む一因となっているのではないだろうか、と。この「語」が広い視野から命名されたものとは思えないからだ。
類似の文様を、外国(特に中国)ではこう呼ばない。「葵文」「渦巻文」「闘獣文(にある文様)」「雲文」などという別な名称を与えている。残された遺品使用例からはこの文様に動物的なイメージ(「動き」「戦い」「武力」など)が強く認められ、そこからもとうてい「蕨(わらび)文」とは呼べないからだ。
これらの文様は、同一の起源を持ちそこから変化した文様ではないかと私は思う。
原始期から人類を殺め傷つけて来た『大型動物の「鉤爪(かぎつめ)」を抽象化』したのが始原ではないだろうか?その記憶が「力(魔力・武力・権力)」を示す象形として記憶に残り、これらの文様となったのではないだろうか。
それにしてもどうして植物的な「蕨手文」と命名してしまったのだろう?
3.複合蕨手文
この単独「の」の字形文様を『左右に持たせた(組み合わせた)文様』が「雲文」だと思って良い。日本でも弥生土器から現在に迄、「雲文」と類似する文様(形)が残る。が例も少なく、有意を意識した使用とは思えない。偶発的使用なのかと思う位だ。だから中国からの影響を受けてのものと考えていいのかも知れない。
一方の中国では神仙思想や英君待望論と相まって紀元前3世紀頃からこの文様が特に発達・進化し複雑化して行く(「瓦当文様」としても)。神威や権威がより全社会へ波及するよう切望した(時代が要請した)事が、この文様の発達・複雑化に繋がったのだろう。
留意すべきは、古代中国の「瓦文様」は「大型建造物」の所有者・築造者を示す「印章」としても使用された事である。古代での「大型建造物」の貴重さからだろう。
「瓦」はその建造物を雨風などから防ぐのが最初の目的だが次に「魔力」などから建物を守りさらに建物の築造者を示すようになったと思える。後代のように特定の教義・思潮と直結し、それを指し示すものではなかったのだ。
上図は「奔鹿文瓦当」で、狩猟民族であった「秦」が好んで用いた「動物」を使った瓦当文様の一つである。「初期大型建造物・瓦」にはこれらの文様が多用された。文様に「動物」を使う事で、「瓦」が使われた「建物」が「秦(王朝)一族」により造られた事を示していると思われる。「瓦当文様」が「紋章」・「印章」の働きを果たした例である。
大型建造物が普及した「秦」以後、建物の性格・思潮などを説明するものとして特定の「瓦文様」が意味を持つようになるが、それは中国「瓦文様」の歴史では後半の事なのである。
日本での「蓮華文様」瓦当の使用例もこれと同じと思える。この文様は即「仏教」を意味するとされ重要視されるのだが、「瓦文様」の歴史からは後半期の使用例となる。「隋・唐時代」になってから「仏教」と強く結びつくわけで、結果この「蓮華文瓦当」が仏教を意味するようになった事になる。
その例を挙げよう。
上図は「始皇帝・安房宮」での瓦当文様だが、驚く事にここには「蓮華文様」が使われている(内円部)。しかし始皇帝が仏教を強力に推し進めたという事実はないようだ。
ここからは、「蓮華文様」が即「仏教」を意味する文様とは言えない。ここでの「蓮華文」使用は、一族(「秦」)の権力者を賛美する目的で文様化された例となろう。「葵文(きもん・ひまわりを文様化し権力者を賛美した)」の使用例と同じなのである。
だから数多い「文様」の始原の使用法には「印章」としての使用を疑うのが普通で、日本のように「蓮華文様」を最初から「仏教」と結びつけ、しかも「近畿」から全国へ波及した文様として「蓮華文瓦当文様」を編年するのは明らかにおかしい。これへの再考・再編は必須であろうと私は思う。
中国からの諸文化の流入を考えると、九州の古墳壁画に描かれた「蕨手文様」も、「所有者・築造者を示す文様」として描かれ、使われたと私は思う。つまり「王塚古墳」築造者はこの文様に自部族との共通した思想を読み取り、そこから部族の「印章」として使用したと思われる。この文様は、九州では「印章」として使用され、仏教という特定の思潮・教義とは無関係だったのだろう。
九州「古墳」にこの文様を用いた部族は、「科野の国・上田周辺」にも同一文様(「複合蕨手文」)を描いている。だからその時も彼らは「印章」として使用したと思われる。
上田周辺に突如として顕われ、永く「意味不明な文様」とされて来たこの「蕨手文様」だが、文様の由来・歴史から考えるとその意味が理解されてくる。この文様は中国・九州を経て到来し、上田でも「印章・紋章」として使われたのである。だからこそ日本では特定の部族の使用が考えられるのである。
上田の遺跡に見られる「蕨手文様」は、「寺の瓦」に使われ同時に「神社(石祀)」にも付けられている。特定の思潮・教義とは結びついていない。やはり築造者・製作者を示す「印章」として使われたと思われる。
だから「科野の国・上田周辺」に「蕨手文が描かれた時代」は、九州の同種古墳の築造(6世紀初頭)からあまり経過していない頃、具体的には6世紀中期・後期が想定されると私は思う。
「蕨手文様」が「印章」となった「石祀」も「瓦」もその時代に生まれ、その時代を証明する遺品なのである。
さて話が飛んでしまった。「雲文」に戻る。
中国では「雲文」が浸透・発達し、より複雑化するのだが、その例を挙げる。
図 雲文例①外円からの「雲文」
図 雲文例②内円からの「雲文」
図 雲文例③分割線を跨ぐ「雲文」
各種の「雲文」例である。「秦」「前漢」時代の「雲文」だが、それぞれが異なる文様である。①外円からの「雲文」 ②内円からの「雲文」 ③分割線を跨ぐ「雲文」である。
基本形から変化・発達してこれらの文様が生まれてくるとお解り頂けると思う。
次にこれらを組み合わせ、さらに複雑化した「雲文」が出現する。
それを示す重要な瓦当文様がある。図を見て頂きたい。
この「雲文」は内円(縁)から見ると「外向き雲文」であり、外円(縁)から見ると「内向き雲文」である。それを四分割線内で合体させ新しい「雲文」にしていると思える。つまり、①と②の「雲文」が合体しているのである。しかもこれは「秦・始皇帝陵」に付属する建物に使用された瓦当文様である。
さらに上図では、「線」というより「面」を利用してより複雑な「雲文」になっている。一見違う文様に見えるが、「内向き」文様と「外向き」文様という異なった雲文が同一平面(分割線内)に認められる点では、前例と同じである。やはり「合体」とも言えよう。
これは「秦」時代(紀元前3世紀頃)の「陶范(瓦当製作の為の型)」 である。
4.「ダンワラ古墳」の「複合蕨手文」
(ネット画像から・上図から下図へと拡大図になる・矢印は吉村による。)
九州「ダンワラ古墳」出土と伝わる「龍文鉄鏡」と「その付属品」に刻まれた「複合蕨手文」だが、これが日本での「複合蕨手文」の初出・初確認と言われ、遺品の「辺縁部」にこの文様が確認されている。両遺品は「金」や「貴石」が使用された貴重品で(「重要文化財」)、文様の形成にもそれらが使われ、利用されていると解ろう。
遺品(文様)製作者の強大な権力・財力が浮かぶと共に、例とした「秦」の「陶范文様」とあまりにも酷似することに驚かれると思う・・・
拡大図に描かれたこの文様は、下部からは「外向き文様」、上部からは「内向き文様」となっていて、両者が合体したものと見て間違いない。「金」や「貴石」で「面」を造り、それを成し遂げているのである。
これが「複合蕨手文」の日本初出だと考古学者は言う(疑問がいろいろ湧くが)。
だがこれだけは断言して良いだろう。文様の製作者は不明としても、明らかにこの遺品2点は「中国製」である。当時の日本にはこの技術はないからだ。だから、これは中国からの輸入品に描かれている文様なのである。
となるとこの文様は「雲文」だ。その認識を持った中国で造られた「文様」だからである(しかも私が例に挙げた「秦・瓦当范」文様とそっくり!)。
ところが日本で発見されるとこれに「複合蕨手文」と命名される事になる。別名称となってしまう。「おかしいなあ」と私は思うし、中国研究者が説明した『「曹操」の愛用した文様と酷似する』という推定を安易に否定できないとも思うのだが・・・
我々は再確認すべきだろう。「ダンワラ古墳」に残る「複合蕨手文」とは「雲文」と呼ぶべきで、組み合わされ複雑化した「複合雲文」文様なのである。
(でも何故かこれが、日本「複合蕨手文様」初出例となっている・・・)
5.「王塚古墳」での「複合蕨手文」
数多い「装飾古墳」には多様な「文様」が描かれるが、驚く事に「複合蕨手文様」が確認される例は極度に少ない。この文様は6世紀前半にようやく現れ(「日ノ岡古墳」からと言われる)、そして6世紀中期築造の「王塚古墳」になると多数の「蕨手文」が描かれる。
この文様が使用された期間は短く、文様が残された古墳の確認される地域も狭いと判明している(7つは、筑後川流域と水縄山地)。そこからは「文様の使用者」として、まずその地域を支配した部族が考えられて当然と思えるのだが・・・
とにかく「蕨手文」が描かれる「装飾古墳」の絶対数は少ない。「600例」はあろうかと言われる「装飾古墳」中、僅かに「9例」にしか存在しないのだ(伊東義彰氏は8例説・古田史学会報No.77。数には諸説ある)。だからこそ、「装飾古墳」の「蕨手文様」には意味・用例からの「特異さ」が認められていいと私には思われる。
「出現古墳数」「出現地域の狭さ」はとかく軽視されるが、逆ではないかと思うのだ。その少なさ・地域性にこそ改めて注目されるべきである。特定の部族がこの文様を使用したと強く疑われるからだ。「複合蕨手文」の発生・意味・伸展、そして日本への伝来などを追求すると、そう考えるのが自然になる。
改めて「ダンワラ古墳」に残った「雲文(複合蕨手文)」と「王塚古墳」との関連を説明して見る(両古墳の距離も近い)。「王塚古墳」に至るまでの経緯が推定されるのだ。
まず「ダンワラ古墳」の「雲文(複合蕨手文)」を、ある部族(物部氏)が特別な文様と判断し、それを自部族の文様として使用したのが日本での「蕨手文」の始まりと思う。(その痕跡が「日ノ岡・王塚古墳」に残ったのだ)こうしてこの文様が中国から日本へ、つまり「ダンワラ古墳」から「日ノ岡古墳」へと継承されたと思われる。
古墳以外にはこの文様の出現例がない事から、大切に使用した文様と思える。「ダンワラ古墳での雲文文様」をそのまま模倣していない事からも窺える。中国「文様使用者」への「敬意・憧憬からの遠慮」があった為かと考えられるのだ。
彼らは「複合蕨手文様(雲文)」を本来の二つの文様に戻し、それぞれを別文様として別目的に使用したと思われる。合体した文様を、元の形に戻した事になる。
つまり、「複合蕨手文様」を、「内向き蕨手文様タイプ」と「外向き蕨手文様タイプ」とに戻し、使用した事になる。(「科野の国」の使用例では、「内向き蕨手文タイプ」を寺(瓦)に、「外向きタイプ」を神社(神紋・懸魚)に使用したと見られる)
図にする。
「複合蕨手文(組み合わされた雲文)」から「下向き蕨手文・A」「上向き蕨手文・B」が生まれたと解る。本来の文様形(前述した①・②)へと戻したのである。
九州でこの「(複合)蕨手文」を使用し始めた部族への推量はJames Mac(阿部周一)氏の論考に詳しい。氏は、「(複合)蕨手文様」を使った部族を様々な理由から「物部一族」と断定、「王塚古墳」は彼らの最盛期に築造の墓とも推定したのである。
更に考古学では、『「阿蘇溶結凝灰岩」を使用した「舟形石棺」が6世紀中頃なぜか関西では使用されなかった』とされている事や、「日本書紀・推古紀」文章から、『「九州王朝王権」が一時期雌伏させられていた』事を読み解き、これらすべては、ある歴史的事件に起因するとしたのである。それが、6世紀「磐井の乱」である。「磐井の乱」への新見解が成立するとしたのである。
「「王者・磐井の君」は「物部の一族」に殺され、王権が彼らに奪われてしまった、つまり「磐井の乱」とは王朝内の権力争いにより引き起こされた事件としたのだ。
「驚天動地」の新見解であった。弱小だった当時の「大和朝廷」には「乱」を起こす力はない、だからこの事件を「物語」として「日本書紀」に取り込むしかない。
こうして「大和朝」によりこの事件・「磐井の乱」が起きたと言う「物語・日本書紀」を作ったとしたのである。
私もJames Mac氏の意見に賛成する。上田からの判断では不十分と言われるだろうが、その解釈に全面的に同意する。「科野の国・上田周辺」の考古遺品、遺存する「蕨手文様」関連のすべてがそれを証明すると思っているからである。この時期の上田周辺の膨大な考古資料は、この解釈により初めてその位置が与えられたとさえ思う。
「物部一族」が「蕨手文様」を使い始め、権力を握った彼らが「科野の国・上田周辺」へやってきたとするとすべてに説明が付く。上田の「蕨手文様」考古のすべてが「磐井の乱」を説明していると思えるのだ。
6.「科野の国・上田周辺地域」の考古と「磐井の乱」
上田の「複合蕨手文様」について、「物部一族」がこの文様を持って到来した結果と推測した。その理由は単純でもある。
九州から遠く離れた上田周辺での濃厚遺存(文様を持つ「石祀」が約50、「瓦」7(3カ所)、高良社12)は、この「文様」の持ち主が九州で強大な権力を持ったからこそ可能になった事だと判断出来るからだ。この時代、ある部族が偶然上田へ進出したとしてもこれだけの「文様」を残せない。
この「濃厚遺存」こそ、彼らが「磐井の君」殺害により九州王朝の盟主・最高権力者になった事を証明すると思われる。「物部一族」は九州で権力を得た、そして上田に進出するのである。「磐井の乱」は彼らが起こした事件、権力獲得の為の事件なのだと主張しているのだ。
こうして「科野の国・上田周辺」に「蕨手文様」を持つ「石祀・瓦」・「高良社」が広がった、つまり「濃厚遺存」する事になったと私には思われる。
そして続いての遺跡からの推測が皮肉にも「磐井の乱」の帰趨・結果と重なる。
実は上田周辺の「蕨手文様」・「石祀・瓦」遺存状況には、ある特徴がある。
それはこの濃厚遺存が「上田を中心とした千曲川流域」だけに残、「科野の国」全体には確認されていない事である。「蕨手文様瓦」も「科野の国」全域では認められていない(広がっていない)。そして「高良社」も同じ遺存状況を示している。
そこからはこう判断される。「物部一族」は、「科野・上田周辺の千曲川流域」には強大な影響を及ぼした。が、「科野の国・全域」には影響を与えていない、と。
これは「短期間の影響」を意味しているのであろう、と。
これは当然の推定と思われる。だから、彼ら(物部の一族)は「科野の国」の「一部」に「短期間」しか影響を及ぼせなかった、つまり短期間でその王権を失ったと判断されるのだ。(理由は、九州で次に興った新勢力との権力争いに敗れた為と思われる。)
「蕨手文様」に代表される影響力を発揮した『期間は、短い』のである。
歴史研究での「磐井の乱・研究」では、「乱」首謀者に諸説がある。が、彼等が「短期間」しか権力を握れなかったという点では一致しているようだ。
これらの研究者推測が上田周辺の遺跡資料からの推定と一致するのは不思議だが、反面私の推論を支える材料ともなる。さらに「物部一族」を破った次の勢力は「多利思北孤」勢で、彼こそが雌伏させられた九州王朝・主流を再興したとも推定するのだが・・・
やはり「物部一族」が「磐井の乱」の首謀者、この「乱」は王朝内の権力争いだったのではないか?
彼等「物部勢」は、なぜ「科野」へ来たのだろう?私はこう思っている。
紀元前2世紀頃には既に、九州王朝は「科野の国」にその勢力を拡大していたと思われる。(「古田会ニュース」の私論をご参照下さい。「鉄」・「栗林土器」などを武器にしたか)だから、「磐井の乱」により権力を得た勢力にもその知識・記憶があったのではないだろうか。
そこから「科野の国」上田へと進出したと思われるのだ。その時の彼らは東日本の統治さえ念頭に置いていたと想像している・・・
最後に、「科野の国・上田周辺」の遺品・遺跡から窺える「磐井の乱」細部と関連すると思える推測を幾つか述べる。
① 彼らは「武闘派」と思われるが、同時に「少数派」であったかと思う。なぜなら、この権力奪取は、「クーデター」によると思えるからだ。主流派との正面きった戦いではない。「磐井の君」の最後がそれを物語ると思う。そして「少数派」であることが彼らの政権掌握期間の短さにも繋がったと思えるのだ。
② 彼らは、渡来人と手を結んだと思われる。上田近辺に残る「金」印を持つ「石祀(神社)・瓦」は、「金官伽耶」からの一族を想定するとピッタリとなるからだ。こう主張する遺跡が多いのだ。
さらに、調査した「高良社」には「玉垂命」と並んで「誉田神」が多く残っていた(「応神天皇」と表記されたりする)。これも私の推測を補強する。表記は異なるが「誉」とは「金」と思えるからだ。ともに「きん」発音と疑えないだろうか。「誉田神」とは「金氏」一族の「神」だったのではないだろうか。
「金」氏が勢力内にいたとすると、「蕨手文」石祀に同居した特徴的な「武器文様図」にも説明が付く。「金王族」の所持品と思えるからだ。6世紀にはあり得ないこの「武器図」に説明が付く。(真田町本原「天満宮」石祀に残る)
ある部族(物部氏)は、亡命してきた彼ら「金(伽耶)一族」と手を結んだのではないだろうか?そして「クーデター」を起こしたのではないだろうか?
古代における「渡来人」解明の重要性が再三言われている。その点からも「金」「伽耶」への再考は必要と思われる。彼等が政治を動かした例が「磐井の乱」かも知れないのだ・・・
7.終わりに
上田だけからの視点、狭い視野からの推論である事は自覚している。「葦の髄から天井を見ている」のかも知れないと思う。しかし「6世紀九州王朝王権史」への推測材料として上田の考古が意味を持つとすれば、「地元バカ」としては嬉しい事である。
「五王に見られる九州王統者」は「物部一族から」であったとの歴史観・解釈には疑いを持たない。が、その時代を過ぎた「磐井の君」は「九州王朝王者」ではあったが「物部一族」の正統な継承者ではなかったと解釈できないだろうか。少数派となった「物部」がそれを認めず不満を抱く、それが「磐井の乱」を生んだという事になる。
そんな推測も出るがその詳細解明は私の力量では及ばない事である。諸氏の更なる究明を期待するしかないだろう。
田周辺に進出した彼らの特徴的な文化は、次の体制(九州王朝主流)からは否定されたと思われる。勿論、「大和王朝」からも否定されただろう。彼等の文化は二重に否定され、評価される事無く歴史の闇に消えて行ったと私には思われる。
それが「蕨手文様瓦」を始めとする説明しがたい歴史遺品だと私は思っている。そして上田周辺にはそれがまだ残されているとも思っている。
だからそれらを解明し、世に出す事も次の私の仕事なのかも知れない。同時にそれは「多元歴史」の存在をより証明するものだと私は思っている。
(終)
追記・上田出身の故「村上和夫」氏作成資料に多くの教示を得た。改めて感謝したい。
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(注①)疑義 …… この主張は、次の吉村八洲男さまから頂いた報告に依拠しています。
応神天皇陵付近の地名は「こんだ」― Yassiさまからのお便り ―2018年1月24日(水)
「金官伽耶(きんかんかや)」の読みに引きずられたのでしょうか?それとも「金(きん)」氏(朝鮮では「kim」氏)に引きずられたのでしょうか?「金官伽耶(こんくわんかや)」とも読んだかもしれませんし、氏「金(きん)」は、南朝系百濟に取って代わった新羅(唐と連合、北朝系)の時代から呉音から漢音に読みが変わったのかも知れません(事実はどうなのかは存じません。ただの推測です)。
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