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2022年11月

2022年11月20日 (日)

「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」―物部の科野上田への進出―

「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」
物部の科野上田への進出[コラム]

 昨日(2022/11/19)、吉村八洲男さまより、「「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」」のご寄稿をいただきましたので、掲載いたします。なお、ブログ副題「―物部の科野上田への進出―」は私が独断で加えたものですので、責任は山田にあります。
 私から吉村さんの論考に一つ疑義(注①) を呈したいと思います。

 吉村さんは「表記は異なるが「誉」とは「金」と思えるからだ。ともに「きん」発音と疑えないだろうか。」としていますが、私はきん」ではなく「こん」ではないかと思っています。「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の「金(こん)」、「金堂(こんどう)」の「金(こん)」です。金(きん)は漢音で金(こん)が呉音だと思います。「誉」は「ほむ(ほん)」だと思います。「こん(kon)」と「ほん(hon)」は置き換わりやすいのです。また、「誉(ほむhom)」と「誉(ほんhon)」も「m」と「n」が置き換わりやすいことによると思われます。“蒼き狼”成吉思は、ジンギスカン、チンギス・カハン、チンギス・ハーンなどと読んだりしています。「kon(m)」と「hom(n)」が置き換わりやすいことを示しています。「誉田(ほむたhomta)」「誉田(ほむだhomda)」「誉田(ほんだhonda)」どのように読むことも可能ではないでしょうか。「h」が「k」に置き換わった「誉田(こんだkonda)」をご一考いただければ幸いです。
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「蕨手文様・蕨手文瓦」と「磐井の乱」

上田市  吉村八洲男

1. 始めに

 古田史学会報No.168で私論考が掲載された。多岐にわたる主張だったが根幹は千曲川沿いの「科野の国」で「複合蕨手文」が「瓦文様」・「石祀文様」として多用されていた事への確認である。濃密に存在・分布し「高良社」も同じ地域内に多数が存在するとも確認された。

 そこから重要な推論が生まれる。この「文様」を九州の特定の部族が遺したものと推定、つまり彼らが「科野の国・上田」に進出した事を証明するとしたのである。

 根拠として「複合蕨手文様」を持つ「瓦(軒丸瓦)」7例、「石祀」神紋位置にある「複合蕨手文」を約50例、紹介した。「高良社」は12社であった。これらが上田を含めた東信州・千曲川沿いに濃厚分布したと断言した(作成した地図・写真を参照されたい)。

 他地域にはこれほどの濃厚残存状況が見られないと思え、九州「複合蕨手文様」壁画を持つ古墳(考古学ではこれら古墳は、6世紀築造と考えられている)との関連を考えざるを得ないとしたのである。「文様」の遺存からは、上田と九州が無関係とは言えないだろう。古墳築造者が「科野の国」へ進出したと結論付けて良いと思われる。そう考える以外、両者を結び付けられないからだ。「複合蕨手文」はこうして上田へ来たのである。(反論を試みる時は、まず同時期の「複合蕨手文」の濃厚遺存地を示さなくては・・・)

 キーポイントとなるのが、「複合蕨手文」への理解と思われる。「科野の国」にこの文様が濃厚遺存している事こそ、ある部族の「科野」進出説への決め手になるからだ。

 ある部族しかこの文様を使用しなかったと言えるからである。

 

2.蕨手文
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 蕨手文様には、「の」の字形がそのまま残る「単独蕨手文様」(上図)と、これを組み合わせた「複合蕨手文様」がある。この両者の違いを軽く考えてきた事が上田に残る同種文様への誤解を生んだと言えるかも知れない。だから両者の違いを先ず確認しておく必要があろう。

 「単独蕨手文様」の始原は古い。その痕跡はスキタイに始まる中央アジア・東アジア一帯に古代から残る。日本に限定すれば、縄文期・弥生期の「土器」にすでにこの「文様」がある(科野・東北・九州などの遺跡に見られる)。
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 (写真は、根塚古墳(長野県)・臥牛遺跡(岩手県)での出土品である。上図では「鉄剣」の「柄」の先端の文様(「渦巻文」とも言う)に残り、下図の土器に残る文様は「護符」として刻まれたかと考古学者は推定している。)

 中國では、「瓦当文様」に多くの「蕨手文様」例が残っている(下図、共に秦時代の瓦当文様)。Photo_20221120144601
 この「単独蕨手文様」の意味は確定されていないが出土例からの推定では「魔力・武力」に関係すると思われ、同時にそれへの賛美から自己の「護身文様・護符」としたかと思われる。この文様が武器に使われた例が多いのもここから説明出来よう。

 著名な「蕨手文様鉄剣」(東日本に多い)もこの流れからの使用と思われる。「鉄剣・柄」の部分を波の形状にした、つまり「単独蕨手文」を使用したと考えられるからだ。「鉄剣の柄」をこの形状にすることにより「剣(武器)」への更なる「威力」の付与(増加)を願ったと思われる。この「単独文様」は連続して使われている例も多い。「科野の国・陣馬塚古墳」出土「鉄剣」例を下図に挙げる。また、「王塚古墳・壁画」にも『「の」の字形』文様が連続して描かれている。
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 これらも単独文と同じ意味・由来を持つと思われる。元の形を連続して使用し、「強く」願う・「強い力」の付加を願ったと思われるからだ。連続していることから別の意味(例・「波や海を示す」)を示すと誤解されやすいが、頻出する単独蕨手文(「の」の字形文様)の意味をまず考え、連続した文様はそこからの発展形と考えるべきと私は愚考する。
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 「蕨手文様」の意義・原義を考える時、私が重要と思う「(瓦当)文様」をあげる。

 それが上図である。中国陝西省出土、「秦」時代の「瓦当文様」でBC.8世紀位かと予想される古い(初期の)瓦当文様である。

 「闘獣文瓦当文様」と命名され、人間と敵対する獣との闘いを具象的に描いた瓦当とされている。だがよく見ると、敵対する相手(獣)の一部(尾?)から伸びているのは「蕨手文様(渦文様)」で、ここの部分だけが文様化・抽象化されていると感じる。つまり、この部分は文様として意識的に使用されていると思えるのだ。

 この例からは相当に古い時代からこの文様は使用されていたと思われ、同時にこの文様発生時が覗える、文様意味への推測・解釈の参考になると私は思っている。

 そしてこう結論してみた。

 この文様・「直線の先端が湾曲、又は渦のように中に巻き込む文様」・に対し、日本ではその形状から植物的な意味の「蕨手文様」と命名したが、これが様々な誤解を生む一因となっているのではないだろうか、と。この「語」が広い視野から命名されたものとは思えないからだ。

 類似の文様を、外国(特に中国)ではこう呼ばない。「葵文」「渦巻文」「闘獣文(にある文様)」「雲文」などという別な名称を与えている。残された遺品使用例からはこの文様に動物的なイメージ(「動き」「戦い」「武力」など)が強く認められ、そこからもとうてい「蕨(わらび)文」とは呼べないからだ。

 これらの文様は、同一の起源を持ちそこから変化した文様ではないかと私は思う。

 原始期から人類を殺め傷つけて来た『大型動物の「鉤爪(かぎつめ)」を抽象化』したのが始原ではないだろうか?その記憶が「力(魔力・武力・権力)」を示す象形として記憶に残り、これらの文様となったのではないだろうか。

 それにしてもどうして植物的な「蕨手文」と命名してしまったのだろう?

 

3.複合蕨手文

 この単独「の」の字形文様を『左右に持たせた(組み合わせた)文様』が「雲文」だと思って良い。日本でも弥生土器から現在に迄、「雲文」と類似する文様(形)が残る。が例も少なく、有意を意識した使用とは思えない。偶発的使用なのかと思う位だ。だから中国からの影響を受けてのものと考えていいのかも知れない。

 一方の中国では神仙思想や英君待望論と相まって紀元前3世紀頃からこの文様が特に発達・進化し複雑化して行く(「瓦当文様」としても)。神威や権威がより全社会へ波及するよう切望した(時代が要請した)事が、この文様の発達・複雑化に繋がったのだろう。

 留意すべきは、古代中国の「瓦文様」は「大型建造物」の所有者・築造者を示す「印章」としても使用された事である。古代での「大型建造物」の貴重さからだろう。

 「瓦」はその建造物を雨風などから防ぐのが最初の目的だが次に「魔力」などから建物を守りさらに建物の築造者を示すようになったと思える。後代のように特定の教義・思潮と直結し、それを指し示すものではなかったのだ。
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 上図は「奔鹿文瓦当」で、狩猟民族であった「秦」が好んで用いた「動物」を使った瓦当文様の一つである。「初期大型建造物・瓦」にはこれらの文様が多用された。文様に「動物」を使う事で、「瓦」が使われた「建物」が「秦(王朝)一族」により造られた事を示していると思われる。「瓦当文様」が「紋章」・「印章」の働きを果たした例である。

 大型建造物が普及した「秦」以後、建物の性格・思潮などを説明するものとして特定の「瓦文様」が意味を持つようになるが、それは中国「瓦文様」の歴史では後半の事なのである。

 日本での「蓮華文様」瓦当の使用例もこれと同じと思える。この文様は即「仏教」を意味するとされ重要視されるのだが、「瓦文様」の歴史からは後半期の使用例となる。「隋・唐時代」になってから「仏教」と強く結びつくわけで、結果この「蓮華文瓦当」が仏教を意味するようになった事になる。

 その例を挙げよう。
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 上図は「始皇帝・安房宮」での瓦当文様だが、驚く事にここには「蓮華文様」が使われている(内円部)。しかし始皇帝が仏教を強力に推し進めたという事実はないようだ。

 ここからは、「蓮華文様」が即「仏教」を意味する文様とは言えない。ここでの「蓮華文」使用は、一族(「秦」)の権力者を賛美する目的で文様化された例となろう。「葵文(きもん・ひまわりを文様化し権力者を賛美した)」の使用例と同じなのである。

 だから数多い「文様」の始原の使用法には「印章」としての使用を疑うのが普通で、日本のように「蓮華文様」を最初から「仏教」と結びつけ、しかも「近畿」から全国へ波及した文様として「蓮華文瓦当文様」を編年するのは明らかにおかしい。これへの再考・再編は必須であろうと私は思う。

 中国からの諸文化の流入を考えると、九州の古墳壁画に描かれた「蕨手文様」も、「所有者・築造者を示す文様」として描かれ、使われたと私は思う。つまり「王塚古墳」築造者はこの文様に自部族との共通した思想を読み取り、そこから部族の「印章」として使用したと思われる。この文様は、九州では「印章」として使用され、仏教という特定の思潮・教義とは無関係だったのだろう。

 九州「古墳」にこの文様を用いた部族は、「科野の国・上田周辺」にも同一文様(「複合蕨手文」)を描いている。だからその時も彼らは「印章」として使用したと思われる。

 上田周辺に突如として顕われ、永く「意味不明な文様」とされて来たこの「蕨手文様」だが、文様の由来・歴史から考えるとその意味が理解されてくる。この文様は中国・九州を経て到来し、上田でも「印章・紋章」として使われたのである。だからこそ日本では特定の部族の使用が考えられるのである。

 上田の遺跡に見られる「蕨手文様」は、「寺の瓦」に使われ同時に「神社(石祀)」にも付けられている。特定の思潮・教義とは結びついていない。やはり築造者・製作者を示す「印章」として使われたと思われる。

 だから「科野の国・上田周辺」に「蕨手文が描かれた時代」は、九州の同種古墳の築造(6世紀初頭)からあまり経過していない頃、具体的には6世紀中期・後期が想定されると私は思う。

 「蕨手文様」が「印章」となった「石祀」も「瓦」もその時代に生まれ、その時代を証明する遺品なのである。

 さて話が飛んでしまった。「雲文」に戻る。

 中国では「雲文」が浸透・発達し、より複雑化するのだが、その例を挙げる。

図 雲文例①外円からの「雲文」
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図 雲文例②内円からの「雲文」
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図 雲文例③分割線を跨ぐ「雲文」
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 各種の「雲文」例である。「秦」「前漢」時代の「雲文」だが、それぞれが異なる文様である。①外円からの「雲文」 ②内円からの「雲文」 ③分割線を跨ぐ「雲文」である。

 基本形から変化・発達してこれらの文様が生まれてくるとお解り頂けると思う。

 次にこれらを組み合わせ、さらに複雑化した「雲文」が出現する。

 それを示す重要な瓦当文様がある。図を見て頂きたい。

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 この「雲文」は内円(縁)から見ると「外向き雲文」であり、外円(縁)から見ると「内向き雲文」である。それを四分割線内で合体させ新しい「雲文」にしていると思える。つまり、①と②の「雲文」が合体しているのである。しかもこれは「秦・始皇帝陵」に付属する建物に使用された瓦当文様である。
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 さらに上図では、「線」というより「面」を利用してより複雑な「雲文」になっている。一見違う文様に見えるが、「内向き」文様と「外向き」文様という異なった雲文が同一平面(分割線内)に認められる点では、前例と同じである。やはり「合体」とも言えよう。

 これは「秦」時代(紀元前3世紀頃)の「陶范(瓦当製作の為の型)」 である。

 

4.「ダンワラ古墳」の「複合蕨手文」
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(ネット画像から・上図から下図へと拡大図になる・矢印は吉村による。)

 九州「ダンワラ古墳」出土と伝わる「龍文鉄鏡」と「その付属品」に刻まれた「複合蕨手文」だが、これが日本での「複合蕨手文」の初出・初確認と言われ、遺品の「辺縁部」にこの文様が確認されている。両遺品は「金」や「貴石」が使用された貴重品で(「重要文化財」)、文様の形成にもそれらが使われ、利用されていると解ろう。

 遺品(文様)製作者の強大な権力・財力が浮かぶと共に、例とした「秦」の「陶范文様」とあまりにも酷似することに驚かれると思う・・・

  拡大図に描かれたこの文様は、下部からは「外向き文様」、上部からは「内向き文様」となっていて、両者が合体したものと見て間違いない。「金」や「貴石」で「面」を造り、それを成し遂げているのである。

 これが「複合蕨手文」の日本初出だと考古学者は言う(疑問がいろいろ湧くが)。

 だがこれだけは断言して良いだろう。文様の製作者は不明としても、明らかにこの遺品2点は「中国製」である。当時の日本にはこの技術はないからだ。だから、これは中国からの輸入品に描かれている文様なのである。

 となるとこの文様は「雲文」だ。その認識を持った中国で造られた「文様」だからである(しかも私が例に挙げた「秦・瓦当范」文様とそっくり!)。

 ところが日本で発見されるとこれに「複合蕨手文」と命名される事になる。別名称となってしまう。「おかしいなあ」と私は思うし、中国研究者が説明した『「曹操」の愛用した文様と酷似する』という推定を安易に否定できないとも思うのだが・・・

 我々は再確認すべきだろう。「ダンワラ古墳」に残る「複合蕨手文」とは「雲文」と呼ぶべきで、組み合わされ複雑化した「複合雲文」文様なのである。

(でも何故かこれが、日本「複合蕨手文様」初出例となっている・・・)

 

5.「王塚古墳」での「複合蕨手文」

 数多い「装飾古墳」には多様な「文様」が描かれるが、驚く事に「複合蕨手文様」が確認される例は極度に少ない。この文様は6世紀前半にようやく現れ(「日ノ岡古墳」からと言われる)、そして6世紀中期築造の「王塚古墳」になると多数の「蕨手文」が描かれる。

 この文様が使用された期間は短く、文様が残された古墳の確認される地域も狭いと判明している(7つは、筑後川流域と水縄山地)。そこからは「文様の使用者」として、まずその地域を支配した部族が考えられて当然と思えるのだが・・・

 とにかく「蕨手文」が描かれる「装飾古墳」の絶対数は少ない。「600例」はあろうかと言われる「装飾古墳」中、僅かに「9例」にしか存在しないのだ(伊東義彰氏は8例説・古田史学会報No.77。数には諸説ある)。だからこそ、「装飾古墳」の「蕨手文様」には意味・用例からの「特異さ」が認められていいと私には思われる。

 「出現古墳数」「出現地域の狭さ」はとかく軽視されるが、逆ではないかと思うのだ。その少なさ・地域性にこそ改めて注目されるべきである。特定の部族がこの文様を使用したと強く疑われるからだ。「複合蕨手文」の発生・意味・伸展、そして日本への伝来などを追求すると、そう考えるのが自然になる。

 改めて「ダンワラ古墳」に残った「雲文(複合蕨手文)」と「王塚古墳」との関連を説明して見る(両古墳の距離も近い)。「王塚古墳」に至るまでの経緯が推定されるのだ。

 まず「ダンワラ古墳」の「雲文(複合蕨手文)」を、ある部族(物部氏)が特別な文様と判断し、それを自部族の文様として使用したのが日本での「蕨手文」の始まりと思う。(その痕跡が「日ノ岡・王塚古墳」に残ったのだ)こうしてこの文様が中国から日本へ、つまり「ダンワラ古墳」から「日ノ岡古墳」へと継承されたと思われる。

 古墳以外にはこの文様の出現例がない事から、大切に使用した文様と思える。「ダンワラ古墳での雲文文様」をそのまま模倣していない事からも窺える。中国「文様使用者」への「敬意・憧憬からの遠慮」があった為かと考えられるのだ。

 彼らは「複合蕨手文様(雲文)」を本来の二つの文様に戻し、それぞれを別文様として別目的に使用したと思われる。合体した文様を、元の形に戻した事になる。

 つまり、「複合蕨手文様」を、「内向き蕨手文様タイプ」と「外向き蕨手文様タイプ」とに戻し、使用した事になる。(「科野の国」の使用例では、「内向き蕨手文タイプ」を寺(瓦)に、「外向きタイプ」を神社(神紋・懸魚)に使用したと見られる)

 図にする。
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 「複合蕨手文(組み合わされた雲文)」から「下向き蕨手文・A」「上向き蕨手文・B」が生まれたと解る。本来の文様形(前述した①・②)へと戻したのである。

 九州でこの「(複合)蕨手文」を使用し始めた部族への推量はJames Mac(阿部周一)氏の論考に詳しい。氏は、「(複合)蕨手文様」を使った部族を様々な理由から「物部一族」と断定、「王塚古墳」は彼らの最盛期に築造の墓とも推定したのである。

 更に考古学では、『「阿蘇溶結凝灰岩」を使用した「舟形石棺」が6世紀中頃なぜか関西では使用されなかった』とされている事や、「日本書紀・推古紀」文章から、『「九州王朝王権」が一時期雌伏させられていた』事を読み解き、これらすべては、ある歴史的事件に起因するとしたのである。それが、6世紀「磐井の乱」である。「磐井の乱」への新見解が成立するとしたのである。

 「「王者・磐井の君」は「物部の一族」に殺され、王権が彼らに奪われてしまった、つまり「磐井の乱」とは王朝内の権力争いにより引き起こされた事件としたのだ。

 「驚天動地」の新見解であった。弱小だった当時の「大和朝廷」には「乱」を起こす力はない、だからこの事件を「物語」として「日本書紀」に取り込むしかない。

 こうして「大和朝」によりこの事件・「磐井の乱」が起きたと言う「物語・日本書紀」を作ったとしたのである。

 私もJames Mac氏の意見に賛成する。上田からの判断では不十分と言われるだろうが、その解釈に全面的に同意する。「科野の国・上田周辺」の考古遺品、遺存する「蕨手文様」関連のすべてがそれを証明すると思っているからである。この時期の上田周辺の膨大な考古資料は、この解釈により初めてその位置が与えられたとさえ思う。

 「物部一族」が「蕨手文様」を使い始め、権力を握った彼らが「科野の国・上田周辺」へやってきたとするとすべてに説明が付く。上田の「蕨手文様」考古のすべてが「磐井の乱」を説明していると思えるのだ。

 

6.「科野の国・上田周辺地域」の考古と「磐井の乱」

 上田の「複合蕨手文様」について、「物部一族」がこの文様を持って到来した結果と推測した。その理由は単純でもある。

 九州から遠く離れた上田周辺での濃厚遺存(文様を持つ「石祀」が約50、「瓦」7(3カ所)、高良社12)は、この「文様」の持ち主が九州で強大な権力を持ったからこそ可能になった事だと判断出来るからだ。この時代、ある部族が偶然上田へ進出したとしてもこれだけの「文様」を残せない。

 この「濃厚遺存」こそ、彼らが「磐井の君」殺害により九州王朝の盟主・最高権力者になった事を証明すると思われる。「物部一族」は九州で権力を得た、そして上田に進出するのである。「磐井の乱」は彼らが起こした事件、権力獲得の為の事件なのだと主張しているのだ。

 こうして「科野の国・上田周辺」に「蕨手文様」を持つ「石祀・瓦」・「高良社」が広がった、つまり「濃厚遺存」する事になったと私には思われる。

 そして続いての遺跡からの推測が皮肉にも「磐井の乱」の帰趨・結果と重なる。

 実は上田周辺の「蕨手文様」・「石祀・瓦」遺存状況には、ある特徴がある。

 それはこの濃厚遺存が「上田を中心とした千曲川流域」だけに残、「科野の国」全体には確認されていない事である。「蕨手文様瓦」も「科野の国」全域では認められていない(広がっていない)。そして「高良社」も同じ遺存状況を示している。

 そこからはこう判断される。「物部一族」は、「科野・上田周辺の千曲川流域」には強大な影響を及ぼした。が、「科野の国・全域」には影響を与えていない、と。

 これは「短期間の影響」を意味しているのであろう、と。

 これは当然の推定と思われる。だから、彼ら(物部の一族)は「科野の国」の「一部」に「短期間」しか影響を及ぼせなかった、つまり短期間でその王権を失ったと判断されるのだ。(理由は、九州で次に興った新勢力との権力争いに敗れた為と思われる。)

 「蕨手文様」に代表される影響力を発揮した『期間は、短い』のである。

 歴史研究での「磐井の乱・研究」では、「乱」首謀者に諸説がある。が、彼等が「短期間」しか権力を握れなかったという点では一致しているようだ。

 これらの研究者推測が上田周辺の遺跡資料からの推定と一致するのは不思議だが、反面私の推論を支える材料ともなる。さらに「物部一族」を破った次の勢力は「多利思北孤」勢で、彼こそが雌伏させられた九州王朝・主流を再興したとも推定するのだが・・・

 やはり「物部一族」が「磐井の乱」の首謀者、この「乱」は王朝内の権力争いだったのではないか?

 彼等「物部勢」は、なぜ「科野」へ来たのだろう?私はこう思っている。

 紀元前2世紀頃には既に、九州王朝は「科野の国」にその勢力を拡大していたと思われる。(「古田会ニュース」の私論をご参照下さい。「鉄」・「栗林土器」などを武器にしたか)だから、「磐井の乱」により権力を得た勢力にもその知識・記憶があったのではないだろうか。

 そこから「科野の国」上田へと進出したと思われるのだ。その時の彼らは東日本の統治さえ念頭に置いていたと想像している・・・

 最後に、「科野の国・上田周辺」の遺品・遺跡から窺える「磐井の乱」細部と関連すると思える推測を幾つか述べる。

 ① 彼らは「武闘派」と思われるが、同時に「少数派」であったかと思う。なぜなら、この権力奪取は、「クーデター」によると思えるからだ。主流派との正面きった戦いではない。「磐井の君」の最後がそれを物語ると思う。そして「少数派」であることが彼らの政権掌握期間の短さにも繋がったと思えるのだ。

 ② 彼らは、渡来人と手を結んだと思われる。上田近辺に残る「金」印を持つ「石祀(神社)・瓦」は、「金官伽耶」からの一族を想定するとピッタリとなるからだ。こう主張する遺跡が多いのだ。

 さらに、調査した「高良社」には「玉垂命」と並んで「誉田神」が多く残っていた(「応神天皇」と表記されたりする)。これも私の推測を補強する。表記は異なるが「誉」とは「金」と思えるからだ。ともに「きん」発音と疑えないだろうか。「誉田神」とは「金氏」一族の「神」だったのではないだろうか。

 「金」氏が勢力内にいたとすると、「蕨手文」石祀に同居した特徴的な「武器文様図」にも説明が付く。「金王族」の所持品と思えるからだ。6世紀にはあり得ないこの「武器図」に説明が付く。(真田町本原「天満宮」石祀に残る)Photo_20221120145901 
 ある部族(物部氏)は、亡命してきた彼ら「金(伽耶)一族」と手を結んだのではないだろうか?そして「クーデター」を起こしたのではないだろうか?

 古代における「渡来人」解明の重要性が再三言われている。その点からも「金」「伽耶」への再考は必要と思われる。彼等が政治を動かした例が「磐井の乱」かも知れないのだ・・・

 

7.終わりに

 上田だけからの視点、狭い視野からの推論である事は自覚している。「葦の髄から天井を見ている」のかも知れないと思う。しかし「6世紀九州王朝王権史」への推測材料として上田の考古が意味を持つとすれば、「地元バカ」としては嬉しい事である。

 「五王に見られる九州王統者」は「物部一族から」であったとの歴史観・解釈には疑いを持たない。が、その時代を過ぎた「磐井の君」は「九州王朝王者」ではあったが「物部一族」の正統な継承者ではなかったと解釈できないだろうか。少数派となった「物部」がそれを認めず不満を抱く、それが「磐井の乱」を生んだという事になる。

 そんな推測も出るがその詳細解明は私の力量では及ばない事である。諸氏の更なる究明を期待するしかないだろう。

 田周辺に進出した彼らの特徴的な文化は、次の体制(九州王朝主流)からは否定されたと思われる。勿論、「大和王朝」からも否定されただろう。彼等の文化は二重に否定され、評価される事無く歴史の闇に消えて行ったと私には思われる。

 それが「蕨手文様瓦」を始めとする説明しがたい歴史遺品だと私は思っている。そして上田周辺にはそれがまだ残されているとも思っている。

 だからそれらを解明し、世に出す事も次の私の仕事なのかも知れない。同時にそれは「多元歴史」の存在をより証明するものだと私は思っている。

(終)

追記・上田出身の故「村上和夫」氏作成資料に多くの教示を得た。改めて感謝したい。

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(注①)疑義 …… この主張は、次の吉村八洲男さまから頂いた報告に依拠しています。
応神天皇陵付近の地名は「こんだ」― Yassiさまからのお便り ―2018年1月24日(水)
「金官伽耶(きんかんかや)」の読みに引きずられたのでしょうか?それとも「金(きん)」氏(朝鮮では「kim」氏)に引きずられたのでしょうか?「金官伽耶(こんくわんかや)」とも読んだかもしれませんし、氏「金(きん)」は、南朝系百濟に取って代わった新羅(唐と連合、北朝系)の時代から呉音から漢音に読みが変わったのかも知れません(事実はどうなのかは存じません。ただの推測です)。

2022年11月10日 (木)

「松江商業高校」グルーピー8―第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽―

「松江商業高校」グルーピー8
―第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽[「松江商業高校」グルーピー]

 個人的願望からの感想としては、京都橘のsing,sing,singのような十八番(おはこ)を見つけてもう少しエンターテインメント側に振り切って欲しい感じがします。 

2022.11.05 島根県立松江商業高等学校吹奏楽部/第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年11月5日
第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽
島根県立松江商業高等学校吹奏楽部

「松江商業高校」グルーピー7―2021.12.26 「未来予想図Ⅱ」「銀河鉄道999」他―

「松江商業高校」グルーピー7
2021.12.26 松江商業高等学校吹奏楽部「未来予想図Ⅱ」「銀河鉄道999」他―[「松江商業高校」グルーピー]

 昨年(2021年)の投稿動画の紹介漏れがありました。

 サムネイルは「第23回定期演奏会」、概要欄は「第16回定期演奏会」となっています。「第23回定期演奏会」の方が正しいのではないかと思いますが、そのまま掲載しておきます。 

2021.12.26 島根県立松江商業高等学校吹奏楽部「未来予想図Ⅱ」「銀河鉄道999」他/第23回定期演奏会
投稿者コメント
2021年12月26日
島根県立松江商業高等学校吹奏楽部
第16回定期演奏会
♪ 2nd Stage ♪
0:00 (オープニング)
0:05 未来予想図Ⅱ
3:32 銀河鉄道999
5:38 We Are Confidence Man
8:01 September

「出雲商業高校」グルーピー46―未紹介動画コレクション―

「出雲商業高校」グルーピー46
未紹介動画コレクション―[「出雲商業高校」グルーピー]

 ブログ休止中にアップされた動画を集めました。 

2022.10.16 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/阿宮コミュニティセンター主催 「出商ブラスを見たい!聞きたい!楽しみたい!」
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年10月16日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
阿宮コミュニティセンター主催 「出商ブラスを見たい!聞きたい!楽しみたい!」

2022.10.23 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/第16回久多美フェスタ
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年10月23日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第16回久多美フェスタ
♪演奏曲♪

0:00 (オープニング)
0:53 Get It On

4:21 Carmen
11:07 I WANT YOU BACK
12:44 ディズニーメドレー
17:02 Bang Bang

18:42 Runaway Baby
22:04 It Don't Mean A Thing
26:06 Shut Up and Dance(アンコール)

2022.10.29 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/大津ふれあい文化祭
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年10月29日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
大津コミュニティセンター主催「大津ふれあい文化祭」
♪演奏曲♪

0:00 (オープニング)
1:29 Get It On

4:43 Carmen
11:37 I WANT YOU BACK
13:15 ディズニーメドレー
18:13 Bang Bang

19:56 Runaway Baby
23:19 It Don't Mean A Thing
26:34 Shut Up and Dance(アンコール)

2022.10.30 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/ゆめタウン出雲「出雲ドーム 2000人の吹奏楽」プレ・イベント(パレード・ステージ演奏)
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年10月30日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
ゆめタウン出雲「出雲ドーム 2000人の吹奏楽」プレ・イベント(パレード・ステージ演奏)

2022.10.30 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/いずも産業未来博2022
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
2022年10月30日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
いずも産業未来博2022

♪演奏曲♪
0:00 (オープニング)
2:08 Get It On 5:37 Carmen

12:19 I WANT YOU BACK
13:58 ディズニーメドレー
18:19 Bang Bang

19:58 Runaway Baby
23:42 It Don't Mean A Thing

2022.11.05 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
022年11月5日
第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部

2022 11 05 出雲商業高等学校吹奏楽部 第30回記念出雲ドーム2000人の吹奏楽
投稿者(Tsubame Planningさん)コメント
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
Shimane Prefectural Matsue Commercial High School Marching Band
第30回記念 出雲ドーム 2000人の吹奏楽
00:00 オープニング 入場
01:08 CARMEN

07:17 MC
08:05 GET IT ON ~黒い炎~
10:32 IT DON'T MEAN A THING

※”2000人の吹奏楽”は、これを聞かないと‼

「京都橘高校」グルーピー88―未紹介動画コレクション2―

「京都橘高校」グルーピー88
―未紹介動画コレクション[「京都橘高校」グルーピー]

 ブログ休止中にアップされていた動画の収集第2弾です。公演の日付昇順で掲げています。 

動画投稿者st.taketoさんのコメントにある「◎お願い◎」と「追記」の省略について
 以下の「◎お願い◎」事項と「追記」が、コメント欄の最後に共通して掲げられています。ここに掲載し「以下同文」として省略させていただきます。ご了承ください。
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。他、動画の無断転載はお断り致します。
1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント
以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。 

京都橘高校吹奏楽部/とうきょう総文/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade「4k」
投稿者(st.taketoさん)コメント
京都橘/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade
2022年7月31日/とうきょう総文2022での京都橘高校吹奏楽部の皆さんのパレードからの動画です。

※音源のライセンス関係で広告が表示されることがありますが、当方の意図ではなく、収益化等はおこなっておりません。
〔◎お願い◎と追記は同文にて省略〕 

 次の動画はドラムメジャーさんへのインタビューと出発待機中のメンバーの様子が採録されています。
京都橘高校吹奏楽部 とうきょう総文2022パレード 再編集 / Kyoto Tachibana SHS Band
投稿者(nakosoekiさん)コメント
とうきょう総文2022パレードでのオープニングインタビューFullverの動画です。
00:00 インタビュー
02:08 パレード待機
03:47 パレードスタート

京都橘高校吹奏楽部/メリディアン・マーチングフェスタ/Kyoto Tachibana SHS Band stage Marching 「4k」
投稿者(st.taketoさん)コメント
2022年10月23日/メリディアン・マーチングフェスタでの京都橘高校吹奏楽部の皆さんのstage Marchingからの動画です。
0:00 MC
1:00 ♫Fanfare of Tachibana
1:34 ♫剣士の入場 Entrance of the Gladiators
3:52 ♫愛の賛歌  Hymn A L'Amour
5:32 ♫The Sing
8:04 ♫Winter Games
10:30 ♫The Second Star to the Right
12:15 ♫ラムのラブソング
15:07 ♫ソーラン・ファンク Soran Funk
18:13 ♫ Round Midnight
20:27 ♫September
22:23 ♫ Memories of You
24:28  ♫sing sing sing
※音源のライセンス関係で広告が表示されることがありますが、当方の意図ではありません。
※動画の無断転記はお断り致します。
〔◎お願い◎と追記は同文にて省略〕

京都橘高校吹奏楽部 / メリディアン・マーチングフェスタ パレード SCENE1(Oct 23, 2022)
投稿者(慶次郎前田さん)コメント
2022年10月23日 きしろスタジアム(兵庫県立証公園・陸上競技場)
※途中ピンボケしてる個所がございます。。。

京都橘高校吹奏楽部/parade & kitchen in fuso70th/Kyoto Tachibana SHS Band /stage marching/right camera version
投稿者(st.taketoさん)コメント
京都橘/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band /right camera version
2022年10月29日「扶桑町70周年を祝う音楽と食の祭典」

PARADE& KITCHEN inFUSO70thでの京都橘高等学校吹奏楽部の皆様のステージ・マーチングからの動画でこちらは右からの撮影分です。
※音源のライセンス関係で広告が表示されることがありますが、当方の意図ではありません。
〔◎お願い◎と追記は同文にて省略〕

京都橘高校吹奏楽部 / PARADE&KITCHEN inふそう 70th オープニングパレード(Oct 29, 2022)
投稿者(慶次郎前田さん)コメント
Kyoto Tachibana SHS Band
2022年10年29日 扶桑町制施行70周年記念事業イベント

愛知県扶桑町イオンモール駐車場にて

京都橘高校吹奏楽部 / PARADE&KITCHEN inふそう 70th (Oct 29, 2022)
投稿者(慶次郎前田さん)コメント
Kyoto Tachibana SHS Band
2022年10年29日 扶桑町制施行70周年記念事業イベント
愛知県扶桑町イオンモール駐車場にて

右から二番目の星~ラムのラブソング / 京都橘高校吹奏楽部(Oct 29, 2022)
投稿者(慶次郎前田さん)コメント
Kyoto Tachibana SHS Band
2022年10年29日 扶桑町制施行70周年記念事業イベント
PARADE&KITCHEN inふそう 70th
愛知県扶桑町イオンモール駐車場にて

 

2022年11月 9日 (水)

「京都橘高校」グルーピー87―台湾「双十節」公演―

「京都橘高校」グルーピー87
台湾「双十節」公演[「京都橘高校」グルーピー][現代]

 10月10日、ダンスを取り入れたマーチングで世界中の人々を驚嘆させて魅了し続けているわが国の誇り京都橘高校吹奏楽部が、CCPから武力侵攻の恫喝を受け続けている台湾からの招待を快諾して訪台し、「双十節」〔注1〕の祝賀式典での公演で蔡英文総統をはじめとする台湾の人々から万雷の喝采を頂戴しました。sing singの前奏ドリルで「十 十」(双十、【完全版】10:56~10:59、ゆきのん日和9:00~9:04)が描きだされています。

 この公演はすべてが素晴らしいものでしたが、特に目を見張ったのは、ドラムメジャーさんの「愛の賛歌」での情感溢れる演舞でした(【完全版】9:30~、ゆきのん日和7:38~)。指揮と融合させた見事な表現力に感心させられました。

 そうそう、アップした後で書き忘れに気づきましたが、行進する街路に中華民国の国旗(青天白日満地紅旗)とパラオの国旗が掲揚されていましたね。パラオは中共の脅し・嫌がらせに屈せずに台湾との国交を続けています。国連でも台湾支持の演説を大統領が行っています。日本の委任統治領だったパラオは大の親日国です。台湾の街路にパラオの国旗だけでなく日章旗も掲げられている光景を見られる日が早く来るといいですね。

 数多ある動画の中から、私の独断でいくつか拾い上げて紹介いたします。なお、録音の風切り音対策がされてない動画や投稿者コメントが特にない動画もあります。 

【完全版】2022台湾国慶節祝賀大会 京都橘高校吹奏部招待演奏
投稿者コメント
みなさんこんにちは!京都橘高校吹奏楽部です! 私たちは2022年10月10日(月)、台湾の国慶節祝賀大会に出演させていただきました!その時の様子をぜひご覧ください! また、台湾での活動の様子はインスタグラム、ホームページに掲載されておりますので、そちらもあわせてご覧ください!
インスタグラム:
https://www.instagram.com/kyototachib...

ホームページ:https://kyoto-tachibana-shsband.jp/
動画提供:文化総会 サムネイル画像提供:総統府

台湾で社会現象に!京都橘高校吹奏楽部が台湾の建国記念日で圧巻のパフォーマンス《【海外の反応】by ゆきのん日和 🐍》《 with 妹のなつみ🍊

 KYOTO TACHIBANA 京都橘高校の台湾行 中正紀念堂正式演出
 この動画は録音に風切り音対策がされていません。すべて会場主賓席に向かって右手側からの撮影になっています。 

(多視角4K完整版)20221009橘高校吹奏樂部(Kyoto Tachibana SHS Band)兩廳院廣場三校交流演出

《リハーサルの状況を含む動画》
【海外の反応】「素晴らし過ぎて鳥肌が立ったよ。」台湾の建国記念の祝賀式典に招かれた京都橘高校吹奏楽部のリハーサルの演奏が台湾で話題に
 この動画は音量が大きいのでご注意ください。 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
注1 「双十節」 ……辛亥革命(19111010日)で清朝を倒して成立した中華民国(191211日建国宣言)の建国記念日です。
台湾の人々は、国共内戦で敗れて大陸から武力侵攻してきた外来政権(国民党の中華民国政権)の独裁支配を受け続けてきました(現在の「国民党」は浸透された親中共政党です)。国民の選挙によって元首が選ばれて政権が運営されるようになったのは李登輝総統からです。

 現政権の民進党(民主進歩党)(諸般の事情でやむを得ず)形式上「中華民国」の国家体制をとっていますが、徐々に「中華(ChinaChinese)」の表現を取り除いていく政策をとっています。 

※ 李登輝元総統 …… 故李登輝氏は「台湾民主化の父」と言われている方です。李登輝氏は「台湾は有史以来さまざまな外国勢によって統治されてきた」と発言されています(台湾・李登輝元総統の会見(2015/07/23)()日本外国特派員協会主催)。
※ 外国勢力 清朝・日本・オランダ・スペインなど
 中華民国だけが正当性を主張できるわけもなく、しかもそこには合法性・違法性など存在しません。「台湾は台湾」です(中華Chinaではない。「大中華思想」はまやかし)

 CCPの走狗たちは「台湾は尖閣列島(釣魚臺列嶼)の領有権を主張している」と喧伝し、日台離間工作を行っていますが、李登輝元総統は「(日台間に)漁業権問題はあるが、主権問題はない。」と断言されています(必見!尖閣は日本の領土!【李登輝 元総統インタビュー】Yatabi Yo - 旧 亜細亜新聞CHより)。

1895年の下関条約(馬關條約)について
下関条約(しものせきじょうやく)または日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)は、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に日本と中国〔正しくは「」〕の間に締結された日清戦争(1894年-1895年)の講和条約[1]。Wikipedia「下関条約」から)
 この下関条約によって台湾は大清帝国から大日本帝国に割譲されました。台湾は正式な条約で割譲されたもので、欧米列強からも(遼東半島は除いて)異論はありませんでした。

ポツダム宣言について
 ポツダム宣言を受諾することで戦争が終結したのですが、そのポツダム宣言の第8項に、「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。」とあり、その“カイロ宣言”には「満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての土地を中華民国に変換することにある」とあります。
 下関条約は違法であり、“カイロ宣言”・ポツダム宣言は合法である、との主張だ。

いわゆる“カイロ宣言”について
 これは、日付・署名・公文書も存在しません。プレスリリース・声明書レベルの類のものです。“カイロ宣言”の当事者である蒋介石の署名もありません。このようなものを条約のような効力のあるものとして扱ってよいのか。

 “カイロ宣言”は捏造ではないのかという者もある。その根拠は次のようなものです。
1.世界中探してもカイロ宣言と称する公文書が存在していない。
2.中国共産党や国民党が提示するものには「カイロ宣言」とは書かれておらず、「声明書(press communique)」と書かれているものである。
 2(1).台湾・澎湖島を手に入れたい当事者である蒋介石の署名すらない。
 2(2).これだけ重要な事項についての内容にもかかわらず、事後の追認・授権もない。
3.会談(1943年11月23日~27日)の結果が12月1日に公表されたが、会談の結果、合意に至っていないため署名も発布もなかったと考えられる。
4.12年後(1955年2月1日)、英国のチャーチル首相は国会質問で「カイロ宣言に基づいて中国が台湾の主権を有するということには同意できない」と述べている。
 4(1).外相だったイーデン氏と次官のトルトン氏も証言している。

下関条約

(第一条)
 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し(淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス)、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

(第二条)
 清国は左記の土地の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する(淸國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス)

一 奉天省南部と遼東半島
(左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
     鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
     遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼)
二 台湾と付属諸島嶼(臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼)
三 澎湖諸島など付属諸島嶼(澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼) 

(第三条) 境界画定手続きに関する定め(前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日淸兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日淸兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界線ヲ維持スヘシ)

(第四条)
 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。

(第五条)
 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。

(第六条)
 清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。日本国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。

(第七条)
 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。

(第八条)
 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。

(第九条)
 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。

(第十条)
 条約批准の日から戦闘を停止する。

(第十一条)
 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治2858日、すなわち光緒21414日に交換される。 

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

下関条約(馬關條約)原文〔行間を開ける改行は山田が随意省いています。〕

大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勳一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勳一等子爵陸奧宗光ヲ大淸國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ 

第一條
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ 

第二條
淸國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
  一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
     鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
     遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼
  二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
  三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 

第三條
前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日淸兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日淸兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界線ヲ維持スヘシ 

第四條
淸國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀貳億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八囘ニ分チ初囘及次囘ニハ毎囘五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初囘ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次囘ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初囘拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス
但シ淸國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ 

第五條
日本國ヘ割與セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スル者ハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニヨリ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ
日淸兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ 

第六條
日淸兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ淸國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ淸國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日淸兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ淸國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ
淸國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス

 第一 淸國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ淸國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス
     一 湖北省荊州府沙市
     二 四川省重慶府
     三 江蘇省蘇州府
     四 浙江省杭州府
    日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス
 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽舩ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ
     一 楊子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル
     二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル
    日淸兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶淸國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ
 第三 日本國臣民カ淸國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ淸國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ
 第四 日本國臣民ハ淸國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ淸國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
    淸國ニ於ケル日本臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地税賦課金取立金ニ關シ又淸國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ淸國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス
此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

第七條
現ニ淸國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤囘ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス 

第八條
淸國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衞ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初囘次囘ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ淸國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ淸國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場所ヨリ撤囘スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終囘ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤囘セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤囘ヲ行ハサルモノト承知スヘシ 

第九條
本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ淸國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス
日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ淸國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ淸國ハ又交戰中日本國軍隊ト種種ノ關係ヲ有シタル淸國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス 

第十條
本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ 

第十一條
本約ハ大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ 

右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ
 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル
          大日本帝國全權辦理大臣 内閣總理大臣從二位勳一等伯爵 伊藤博文 印
          大日本帝國全權辦理大臣 外務大臣  從二位勳一等子爵 陸奧宗光 印
          大淸帝國欽差頭等全權大臣太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯 李鴻章 印
          大淸帝國欽差全權大臣  二品頂戴前出使大臣 李經方 印

「京都橘高校」グルーピー86―未紹介動画コレクション1―

「京都橘高校」グルーピー86
未紹介動画コレクション1[「京都橘高校」グルーピー]

 ブログ休止中にアップされていたst.taketoさん慶次郎前田さんの動画を紹介します。 

《st.taketoさんの投稿動画》
京都橘高校吹奏楽部/ブラスエキスポパレード/Full movie version/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade4k」
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京都橘/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade
2022年5月8日/ブラスエキスポ2022での京都橘高校吹奏楽部の皆さんのパレードでFull movie version.
先にUPした動画はFull で繋げると音声の繋ぎが不自然で編集で部分的にカットしてましたが、こちらは音声も編集してFull に繋げました。

「前が詰まって演奏されてない部分のみ編集でカットしてあります」

京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival 2022/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade「4k」
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京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade
2022年8月14日、ハウステンボス ブラスバンドフェスティバルでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。
 

京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival 2022/ステージ演奏/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade「4k」
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京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival/Kyoto Tachibana SHS Band  
stage performance
2022年8月14日、ハウステンボス ブラスバンドフェスティバルでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のステージ演奏からの動画です。 

京都橘高校吹奏楽部/sing sing sing/ブラスエキスポ/Stage performance/right camera/Kyoto Tachibana SHS Band 「4k」
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京都橘高校吹奏楽部 sing sing sing Kyoto Tachibana SHS Band 2022年5月8日/日本万国博覧会記念公園で開催されましたブラスエキスポ2022での京都橘高校吹奏楽部の皆さんのステージでの演奏動画で、右からの撮影データーを編集致しました。 正面からの動画はこちら ➡https://youtu.be/HMbekkmURXM
♬ Winter Games
♬ Sing Sing Sing

 

《慶次郎前田さんの投稿動画》
京都橘高校吹奏楽部 / とうきょう総文2022 丸の内パレード(July 31, 2022
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2022年7月31日 丸の内仲通りにて
※途中ピントが合わなかったり、手ブレが酷い個所が多々ございます。

京都橘高校吹奏楽部 / ハウステンボス ブラスバンドフェスティバル2022(Aug 14, 2022
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Kyoto Tachibana SHS Band
2022年8月14日 ハウステンボス ブラスバンドフェスティバル2022
噴水広場での演奏模様です。

2022年11月 4日 (金)

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?―隠された等距離73mの謎―

[妄想]信濃〇〇寺も正始弩尺か?
隠された等距離73mの謎[妄想][度量衡]

 これは文字通りの「妄想」です。

信濃国分“尼寺”にも隠された等距離があった― 新たなデータで出現した等距離―2017105()に次のように書きました。

……………………………………………………………………………………………………………………
〔前略〕
隠されていた等距離 

伽藍地 東西幅が148.0m、築地幅2.0mですから築地塀の厚さを除けば、
東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mです(148m-2m)。
南北中心軸は東西築地の内側から測ると73m(146.00m÷2)の位置にあります。つまり、次の三つが等距離にあります。

①中門から講堂までの心々距離73m
②金堂から尼坊までの心々距離73m
③中門心(南北中心軸)から東西築地(内側)までの距離73m 
〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 なんと!この①②③の「73m」という距離は、「魏尺(正始弩尺)」(24.3㎝)の300尺なのです。

7,300㎝÷24.3/尺=300.411522633…尺≒300尺(誤差は約0.137%)

 ならば、東築地の内から西築地の内までの距離は146.00mはどうでしょうか?

14,600㎝÷24.3/尺=600.8230…尺≒600

146.00m÷2=73m ですから当然なのですが…(笑)

2022年11月 2日 (水)

妄想:「正始弩尺の小程」説―地割109.4mの謎は解けた―

妄想:「正始弩尺の小程」説

地割109.4mの謎は解けた[妄想][条坊制と条里制][度量衡]

 

 ご寄稿いただきました吉村八洲男さまの「鼠」再論()「上田・神科条里と番匠」に、次のことが紹介されていました。

(1)白井弘文氏は、「遺構への測量・現存する地籍図」などの研究結果から、次のことを解明された。
「坪」の一辺は109mから110mの間』)と予想し(今も現地にはその類似例が残る)、それが「半折形」であった。
(2)「信濃国分寺・尼寺」の伽藍配置にもこの数字(109m)が使われていた。
(3)四国・愛媛県にある「久米遺跡」に使われた「条里のものさし」が「上田の条里遺構」での数値と非常に類似する。
南辺・北辺が222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺が221.8m(=109.4m+3m109.4m

 

未解明なままの尺度

 「109.4m」(「109mから110mの間」をこの数値とみなしています)という長さを既知の尺度で除算してみても完数(整数値)が得られないこと(次表)から、地割に使用された尺度は「未解明」だとされているようです。

尺度名,        一尺長(), 109.4÷(一尺長()×100 (m/)
①前漢尺,         23.300,   4.695
②後漢尺(晋前尺),     23.090,   4.738
③「魏杜虁(とき)尺」,  24.175,   4.525
④魏尺(正始弩尺),     24.300,   4.502
⑤晋後尺,         24.500,   4.465
⑥「宋氏尺」,       24.568,   4.453
⑦唐小尺,         24.692,   4.431
⑧(白鶴)梁尺,      24.900,   4.394

⑨「南朝大尺(注)(④×1.2,  29.160,   3.752

⑩梁尺,          29.500,   3.708
⑪唐尺,          29.630,   3.692
⑫大宝小尺(天平尺),   29.700,   3.684
⑬“高麗尺”(⑫×1.2),     35.556,   3.077
(注)南朝大尺」という名称は、古賀達也氏の仮称によっています。

 たしかに、キリの良い数値は出ていません。

 

手掛かりとなる「大程」と「小程」

 少し寄り道をします。

 古賀達也の洛中洛外日記 第2808話 2022/08/12 『旧唐書』『新唐書』地理志の比較 に唐の大程と小程が載っています。ブログの一部分を引用します。
…………………………………………………………………………………………………………
『旧唐書』『新唐書』地理志の比較」

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。
」(44頁)
舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………

 管見では、「条里」や「条坊」には距離の単位として「里」が用いられたと考えていますので、「109.4m」は「里単位」であると考えます。

 足立氏の『長安史蹟の研究』によれば、唐代里単位の大程は1里約530m、小程は1里約440mとあります。大程1里と小程1里を「109.4m」で除算すると次になります。

大程1里約530m÷109.4m4.84460
小程1里約440m÷109.4m4.02193764277…

 この数値から「109.4m」は小程ではないかと推定されます。すなわち、「109.4m」は小程1/4里(四分の一里)と考えました。しかし、これでは小程1里=437.6mということになり、唐の小程約440mとは一致しません。

 足立氏の『長安史蹟の研究』には、もう一つ、小程1里は300(ぶ)、1歩は小尺6尺とあります。この小尺は何㎝になるでしょうか。大程も小程も一里=1,800尺です。つまり、1尺は次の計算になります。

1尺=小程1里437.6m÷1,800尺=0.2431111m24.311

 

一尺が24cm台の尺度

 小程1里の長さ437.6m自体が「109.4m」を確かな数値と仮定したものですので、とりあえず小程の一尺が24㎝台であると大まかにとらえておくことにします。24㎝台の尺度は次のものがあります。

「魏 杜虁(とき)尺」  24.175
魏尺・正始弩尺     24.300
晋後尺(“南朝尺”)   24.500
「宋氏尺」       24.568
唐小尺         24.692
(白鶴)梁尺      24.900

 この中で24.311㎝に最も近いのが、24.300㎝の魏尺・正始弩尺です。

 

謎解きの鍵「久米官衙遺跡」

 仮に小程の一尺が正始弩尺24.300㎝とすると、一里はその1,800倍なので、437.4mとなります。

 ここで、「正始弩尺の小程」説の109.4mの考古学的証拠として有力な「久米官衙遺跡」に登場願いましょう。(3)のデータを再掲します。

「久米官衙遺跡」
南辺・北辺 222.8m(=109.4m+4m109.4m
東辺・西辺 221.8m(=109.4m+3m109.4m

 このように、明確に「109.4m」という数値が記されています。

 109.4mが1/4里と仮定しましたから、一里=437.6m(=109.4m×4)となります。

 小程1里=正始弩尺24.300/尺×1,800尺=43,740㎝=437.4m

この差は一里437.4m当たり、わずか0.2m(=20㎝、誤差0.045724737…%)です。

この誤差であれば、(古制)唐小程小尺は正始弩尺であると言っても過言ではないでしょう。

 

正始弩尺が(古制)唐小程小尺である理由(推定)

 まず、唐の小程の一里三百歩一歩六尺周の制度(古制)です。唐代には一歩五尺になっています。すなわち、(古制)小程一里三百歩(一歩六尺、小尺一尺=正始弩尺)は「唐以前(よりも前)」の制度ということになります。

 また、(古制)一里三百歩一歩六尺、小尺一尺)が「唐の小程」ともなっているということは、唐が古制を継承していることにもなります。ただし、古制を継承しつつも唐の小程(1里約440m)は、晋後尺(“南朝尺”・唐玄宗開元小尺)24.5 ㎝/尺 ×1,800尺=441mとなっています(正始弩尺から後尺への変遷 )。

 この条件を満たすのは支那大陸を統一した「隋(581 - 618年)」ということになります。109.4m(1/4里)は6世紀末葉から7世紀初頭にかけて行われた制度と推定できます(隋以前からの制度(南朝の制度)であった可能性も高い)。その証拠を挙げよと言われれば次を示せば足りるでしょう。

下記「唐玄宗開元小尺」の上にある「唐小尺」(24.3㎝) は、いわゆる唐小尺24.692㎝ではなく、「正始弩尺」です。

文化遺産オンライン
唐小尺 金工 長さ24.3 1.5 厚さ0.25 1
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 1.9 厚さ0.5 1
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 1.9 厚さ0.5 1


最後に

 「(古制)唐小程」と述べてきましたが魏尺(正始弩尺)による小程(1里437.4m )は「隋小程」 と言ってもよいでしょう。

 以上、事実(紹介されたものを含む)に基づいて述べているにも関わらず「妄想」と題しているのは、次の理由によります。
A.先行研究を一切調査していないこと。
B.自説に都合の悪い事項を一切考慮・検討していないこと。
C.自説の論拠の検証を行っていないこと。

 よって、この「妄想」が他の研究者にヒントを与えることができたなら望外の喜びです。

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