年末のご挨拶
2022年末のご挨拶
―閲覧感謝―[挨拶]
本年中は弊ブログを閲覧頂き、またご意見も賜り、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
皆様も健康に留意されて良いお年をお迎えください。
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「鼠」再論(二)
―「鼠」とは(Skype勉強会資料)―[コラム]
これで、鼠再論(一)~(四)の掲載が完了しました。(一)・(三)・(四)はリンクからご覧ください。
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「鼠」再論(二)
「鼠」とは(Skype勉強会資料)
上田市 吉村八洲男
1.始めに
私論の前に、一枚の写真をご覧頂こう。私の住む長野県上田市の実景である。
上写真、手前に映るのが地域中心を流れる「千曲川」、正面に屹立する崖を「半過(はんが)・岩鼻(いわばな)」と呼ぶ。「〇」は、再構築された山城跡である。
実は、この写真とこの近辺には「鼠」が溢れている。紹介してみよう。
崖には不自然な洞穴が数カ所あると確認されるが、上田(塩田)の民話ではこの洞窟は「鼠」が掘ったものだと伝わる。その「鼠」は、「から猫」に退治されるのだ・・・
〇印の「山城」は、「鼠」の造った「物見台」が始原なのだという(塩田民話とは別伝承の中にある)。「いわばな」の語源は、「岩花・岩端」(山の突端)に由来し「物見台」から中世には「山城」となったと言われ、現在はそれが復元されている。
「岩鼻」崖の右の平地(「千曲川」の岸)には関所があり、その近辺の賑わいから「鼠」宿場(坂城町を通る北国街道の宿場名・江戸期に隆盛した)が始まった(現在も「ねずみ」名が「字」名として残る)。
そして、3㎞ 程離れた「坂城神社」には、ここが「鼠族」により創建された神社だと書かれた「由緒書き」が残る。これらは「上田盆地・西側」のことだが、「東側」地域とて無縁ではない。
上田市の東に隣接する「東御(とおみ)市」に、「祢津(ねつ)」地区・「祢津神社」があるがその地名由来は「鼠」からと言う説が強い。「音」が変化したものという。そして、軽井沢から上田市に到るほぼ直線状の今に残る道路を「祢津街道」というが、これも「鼠(祢津)」地名と関連すると推定されている。
私の住む上田市の周辺は「鼠」だらけなのである。ざっと数えても6ヶ所がある。その全てが今に残っている。そして、「日本書紀」にだけ「鼠」語が残るのではないと声を大に主張する。
私は「鼠」に囲まれ、育ち、生活してきた(日本にはこんな所はないだろう)。だから「鼠」問題に感慨を持たざるを得ないのだ。論考対象は「日本書紀」「鼠」だが、「鼠・ねずみ」は私の身近にあるとも言えるからである(全国でも「ネズミ」地名を今に残している所が多い)。
こんな私の思い入れであるが、それが「日本書紀」「鼠」論考の根拠になり得ないとも承知している。私論に納得して頂けるかどうかはこれからの展開次第なのだ。
さて、前回の私論(一)では、永年の見解でもあった【「鼠」=「烽燧制」の人々(「烽」・「候」に従事した人々)】という解釈を主張し、彼らの呼ばれ方は「職務内容」を示す「不寝見(ねずみ)」音との類似によるもので、そこから「日本書紀」中の「鼠」語・表現が始まったと述べた。
ただ、それだけでは「日本書紀・鼠」問題がすべて解決するとは思えず、改めて多元歴史観による新たな「鼠」論・解釈が必要となるとも最後に主張した。
それを受け、部分的な変更があるやもしれぬ自説を新たに主張したい。ご迷惑とは思うが、再度のお付き合い頂ければと思う。
2.「日本書紀」の「鼠(ネズミ)」
さて「日本書紀」には、「鼠」語が9ヶ所出現する。その解釈が古来難問とされて来たのだが、ここではこれからの説明を解り易いものにする為、各「天皇紀」別に「鼠」が含まれる語句・含まれる文章を取り出してみた。①から⑨までとなる。
鼠例①景行天皇十二年鼠石窟
「(中略)茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰青、二曰白」
鼠例②皇極天皇弐年(643)鼠伏穴
「(中略)古人大兄皇子、喘息而来問、向何処。入鹿具説所由。古人皇子曰、
鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。」
鼠例③孝徳大化元年(645)鼠向難波
「冬一二月(中略)、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、
遷都之兆也。」
鼠例④孝徳大化弐年(646)越国鼠
「是歳越国之鼠昼夜相連向東移去」
鼠例⑤孝徳大化三年(647)鼠向東行
「造淳足柵、置柵戸。老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆乎。」
鼠例⑥孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
「五年春正月(中略)、鼠向倭都而遷。」
鼠例⑦孝徳白雉五年(654)鼠向倭都
「一二月(中略)皇太子奉皇祖母尊遷居倭河辺行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。」
鼠例⑧天智称制元年(661)鼠産於馬尾
「夏四月、釈道顕占曰、北国之人、将附南国。蓋高麗破、而属日本乎。」
鼠例⑨天智称制五年(666)京都之鼠
「是冬、京都之鼠、向近江移。」
「景行紀」・「皇極紀」に各1ヶ所、「孝徳紀」に5ヶ所、「天智紀」に2ヶ所、計9回が「日本書紀」に出現する。出現数からは「孝徳紀」5カ所の「鼠」は特別視されていいだろう(年号も「大化」「白雉」両方に跨る)。
「鼠」語への研究史を振り返ると、「鼠」語が出現している古文献への解釈では大きく2つに大別されていたようだ。「一志茂樹」氏が指摘したように、『「鼠」を「齧歯目」の動物』として扱うか、それとも何かを「鼠」に例えたか、の二用例であると思われる(それについての「一志」氏の見解は、すでに言及した)。
確かに「日本書紀」での「鼠」語は意味不明と言える。どちらか一方だと決めにくいのだ。だからこそ諸先賢がその解明に挑戦したのだが、そこにはある盲点ともいえる固定観念があったと思える。
それは、「書紀」での9例が、ある「解釈」によりそのすべてが解明されると信じた事である。その様な「鼠」語解釈がある筈だと信じたのである。
古文献には様々に解釈された「鼠」語が登場していたが、「日本書紀」では意味(解釈)の統一された「鼠」語が登場・使用されたと信じたのである。だから諸先賢それぞれの「鼠」語解釈が生まれてくる。その結果「鼠」語解釈議論はまさに「百家鳴争」状態となり、だから「鼠」語の理解は一段と困難となっていると思える。
そこで私は提言したい。
『9例全てに当てはまる「鼠」語解釈はあり得ない』、と。
登場した全ての「天皇紀」で「鼠」語が同意(義)を示しているとは思えないのだ。一つの解釈で9例の語句・文のすべてが理解されるとは思われないのである。
「鼠」語が、古文献では様々な意味で使用されたように、「日本書紀」での「鼠」語も、それぞれの「天皇紀」で異なる意味から使われたのではないだろうか。「天皇紀」毎に「鼠」語を理解して良いのではないか、私はそう思う。そしてこう考えると「鼠」語への理解が一挙に進むのが不思議である。
3.「孝徳紀」以前の「鼠」
これを証明するように「孝徳紀」前の「鼠」語(文例①景行紀、②皇極紀)には、先賢によるほぼ定説化された解釈が成り立っているように思える。
こう解釈されている(もちろん異論はあるが)。
鼠例 ① 「景行紀」―鼠石窟―
景行天皇に服従せず敵対する「土蜘蛛」たちの住む場所を「鼠石窟」と蔑称したのだが、「日本書紀」の「景行天皇・熊襲征伐譚」自体が、九州王朝による九州統一譚を盗作したものと既に「古田武彦」氏により論証されている。
だから、ここの「鼠」とは、九州王朝による支配に抵抗し、敵対した「先住異部族(土蜘蛛・熊襲)」に対しての言葉で、彼らを『「鼠」が棲むような住居にいる人々』と嘲ったことからと思われる。
「鼠」語は、小動物として持つ「負」のイメージがそのまま利用され使われている。九州王朝支配に逆らう彼らは討伐されて当然な人々、「鼠石窟」に住む「鼠のような薄汚れ・力のない動物」と書かれている。
抵抗する反体制派を弱くみすぼらしい小動物「鼠」として描くのだが、同時に民意の支えのない征服されて当然な少数派としても描かれている。文中に「二人」の「土蜘蛛」と書かれるからである。敗者は、初めから少数とされたと思える。
鼠例 ② 「皇極紀」―鼠伏穴―
「山背大兄王」が挙兵した時「蘇我入鹿」はその討伐に向かおうとするが、「古人大兄皇子」に『「鼠穴」から出た「鼠」には「死」が待っているだろう』と言われ、出兵を思い留まった際の描写で、その時使われた。だからここでの「鼠」とは「山背大兄王」を示していると思える(この予想通りに「山背大兄王」は討たれる)。
ここでも「鼠」語は、鼠例①と同じように「負」のイメージを持つ小動物として使用されていると思える。だから、「鼠」と呼ばれてしまった「山背大兄王」は、体制に反した勢力、討たれるべき人々と「「古人大兄皇子」に判定された事になる。又、鼠例①と同じように、この勢力への賛同者の少なさが暗示されているかも知れない。
いずれにせよ鼠例②も鼠例①と同じ用例を示すと私には思われる。『「体制」に反する人々』を「鼠」と呼称したのである、それが「鼠」語なのだ。「鼠」を、「無能な為政者」と捉える中国古典由来の「鼠」解釈がそれと重なったと思える。例①・例②へのこの解釈は、先賢の共通した理解になっていると思ってよい。
だから、よく唱えられる『「鼠」とは「九州王朝を示す」』という判断は即断過ぎると言える。この鼠例①、②からは、「「鼠」語は即、九州王朝を示す」とは断定出来ず、そう解釈してはこの文脈では「鼠」理解が成り立たないからである。
例①では「九州王朝」が征伐した相手は「鼠=熊襲」で、「鼠=九州王朝」ではない。だからその解釈は絶対にありえないと思われる。さらに例②のフレーズだけからは、「山背大兄王」が「九州王朝勢」であったとは即断出来ないだろう(現体制を批判する勢力ではあっても)。
鼠例①・例②は、「九州王朝」を指し示してはいないのだ。だからすべての「鼠」語が「九州王朝を示す」とは断言出来なくなる。
では「孝徳紀」鼠例③からの解釈はどうなのだろう。私はここからの「鼠」解釈をそれまでと異なったものにしてよいと判断する。間接的にせよ「九州王朝(その一部門)」を示すとして良いと思う。理由は、原文(日本書紀)への理解からである。そう言っていると思えるのだ。
4.「孝徳紀」の「鼠」語例③
前述したように、「日本書紀」「9例」中の「5例」、つまり半数以上が「孝徳紀」に出現する(鼠例での③~⑦)。それにまず注目すべきだろう。そして驚くことに「孝徳紀」の「鼠5例」には共通した解釈が可能となる。「孝徳紀」に描かれた「鼠」は、それまでと異なるのだ。
根拠とするのが「孝徳紀」での最初の使用例、鼠例③への解釈である。この「鼠」解釈を丁寧に行うと見えてくる事があるのだ。読み解いてみよう。
鼠例 ③ 孝徳大化元年(645)―鼠向難波―
「冬一二月・・・、天皇遷都難波長柄豊崎。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。・・・」
(冬一二月・・・孝徳天皇は「難波長柄豊崎」へ遷都した。老人たちは、「鼠」が春から夏にかけて「難波」へと向かって動いたのは遷都の兆しだった、と言い合った。)
見逃してしまうがここには重要な事実が述べられている。それが今迄と異なる解釈を可能とする根拠となる。
孝徳天皇は「難波長柄豊崎宮」へ遷都する。一二月の事である。が、その年の春・夏には既に「鼠」が動いていた。ところが、老人たちにはその理由が不明だったと書かれる。「難波方面」に「鼠」が動いていく、程度の判断だったのだろう。
遷都が実行されようやくその理由が判明する。「鼠」の動きは「遷都の兆し」だったと思い至るのだ。つまり春・夏時では「鼠」の動きが何を意味するのか不明だったと言うのだ。ここから「鼠」語解釈に際しある推論が生まれる。
当然ではあるが「遷都」がいきなり実行される訳ではない。思い立ったらすぐに移動出来る現在の引っ越しとは全く違うからだ。一定の準備期間が必要になるのだ。場所の選(設)定・担当役職・人員の手配などが決定され、重要な各種工事が順序(工程)に従い進められて行くことになる。
だから「鼠」の動いた期間とは、これら遷都準備期間のどこかに位置される事になる。「孝徳紀」ではそれが「春から夏」の期間と書かれている。12月に「都」が完成するのだから、「鼠」は「秋・冬」と続いた工事すべてには関与していない。「全工事日程」の前半に「鼠」が動いていた事になろう。
「遷都」事業は「鼠」から開始されたとも言えるが、それは気づかれない動きだったと書かれている。振り返った時それが「兆し」だったのだ、と老人たちが驚くと書かれている。
つまり「春・夏」の「鼠」の動きは、「遷都」を予告する動きとは考えられていなかったのである。あちこちで動き回る「鼠」を見聞していたのだろう、「難波・長柄」へ向かう「鼠」の動きだけでは「長柄遷都」を予測できなかったというのだ。
そして重要なことがここから推測される。数年後には抗争を繰り広げる相手、つまり九州王朝勢ではない「孝徳天皇」(大和王朝勢)の「遷都」準備に「鼠」が動いていた事である。理由は不明だが、そう書かれているのだ。
そこからは、少なくとも「孝徳天皇」の造営を「鼠」は承知し、理解していたとも読み解ける(指示があったのか)。「遷都」に際しその造営主体者に「鼠」が敵対していないとも解る。助力しているとさえ読み取れる。「日本書紀」にはそう書かれているのだ。
だから後に鮮明となる両王朝対立の構図はこの例文からは読み取れない。この時の「鼠」は、大和王朝の行った事業に参加・協力していると読めるからだ。ここがポイントと思う。『両王朝の事業に「鼠」は参加・行動している』のである。
そしてここから、前私論【「鼠」=「烽燧制」に従事した(「烽」・「候」)人々】説が成立しない。なぜなら「烽燧制」は、体制(九州王朝)支配を維持する為の軍事制度だからである。前論で私は、『「鼠」とは「烽」・「候」の人々』と主張した。その時彼らは体制内の人々となる。ところがその「鼠」は、「孝徳天皇」の事業・「遷都」の下準備に協力さえしているのだ。これでは矛盾した行動を採ったといえるだろう。「指示された」と考えられるが、前「私論」の主張のままではこの「鼠」行動を整合的にすんなりとは説明できないのだ。
更に「烽燧制」は「情報が伝達する道」を意味している。だから、重要な情報(軍事機密も)が届くのは「倭王」の住む「倭京(倭都)」であろう。理由は簡単で、王者がそこにいるからである。だから「烽燧」からの情報は「孝徳天皇」が住む「長柄豊崎(宮)」には届かない。「造都」の手助けはしても、「孝徳天皇」の為に「鼠」が別「烽」(烽燧制)を築いたとは想像も出来ないのだ。
やはり「鼠」が「烽燧制」を支えた「「烽人」・「候人」とは思えない。「鼠」が、孝徳天皇の「遷(造)都」準備をしていた事が重要な意味を持つのだ。後の時代には敵対したであろうがこの時点では両者は争っていないと思われるからだ。鼠例③からは、『「烽燧制(軍事制度)」だけでは「鼠」像を正しく解釈できない』と判断されるのだ。
5.鼠例③が示すもう一つの事実
鼠例③で使用された「鼠」語から、「鼠」実像に重大な疑問が生まれる。『彼ら「鼠」は、兵士・戦闘員か』という疑問だ。
答えは明白と思うのだが、いままでの定説はそうではなかった。だからここを明確にする事が「鼠」語・像の理解に際し重要な事となる。
「孝徳紀」鼠例③では、彼らが遷都の準備をしたと説明されていた。が、そこで戦いを起こしたとは一言も書かれていない。彼らの行動は、遷都(都を造る)の予兆だったと書かれているだけだ(その「都」は、一二月に完成する)。
ここからは、「鼠」が『戦いという破壊行動ではなく、造都という建設行動』をとっていた、と断定される。「春・夏」の「鼠」の行動は「造都」の準備と言えるのだから、兵士(戦闘員)の行動ではない。「鼠」は兵士(戦闘員)ではないと「孝徳紀」は言っているのである。
ところが次の鼠例④⑤からは、なぜか定説となっている「鼠=兵士・戦闘員」解釈が生まれている。これでは鼠③での「鼠」像の推定とは合致しない。私には、鼠例④⑤を根拠とした定説への再考が必須と思われる。
定説は、鼠例④⑤での「越国鼠」の動きを「造柵之兆」と判断する、そこから「鼠は兵士(戦闘員)であろう、柵を造るのだから」と推定されている。
これが鼠例③からの類推と決定的に矛盾する。戦わず「建設」する「鼠」(例③)と、戦い「破壊」する「鼠」(例④⑤)とは、同じ「鼠」がとった行動とは思えないからだ。
「孝徳紀」で、しかも「孝徳大化元年」と「二年」に用いられた「鼠」語にこんなにも明瞭な意味・用法の差異が出るのはおかしい。どちらかの解釈が誤っているのではないだろうか。
そこで鼠例④⑤での「柵」解釈がもう一つのポイントとなる。果たして「鼠」は兵士(戦闘員)と言えるのか、そこから確認出来るからだ。
鼠例⑤で、「鼠」は「東行」し「造柵」を行っている。それに疑問はない。だが肝要な事はそこでの「柵」語への解釈である。この鼠例⑤での「柵」語への解釈を正確に行う必要があろうかと愚考する。
今迄はこの「柵」を、敵勢力中の「橋頭保」、つまり敵との戦闘の足掛かりとして築かれた「小さな拠点・砦」と考えてきた。だから「造柵」を行う「鼠」を即「兵士・戦闘員」としたのである。
しかし「柵」語をそのようにだけ理解していいのだろうか。そんな「柵」もあれば、前線情報を集約し戦闘員・兵站などを補給する「前線基地」としての「柵」もあった筈だ。それは戦闘地域に作られた「広く大きな拠点」でその中には集落・他があり、周囲は「柵」で囲まれていたと思える。
私論(一)では、中国・漢時代の軍制を例示した。この王朝がそれに影響された軍事組織を持っていたとすれば、この「柵」は最前線にある「砦」ではなく、「燧長」や「候官」が属する砦で、「田制(でんせい・屯田兵制度)」をも持った「砦」と考えられる。「漢の軍制」は「柵」をそのように位置付けているからだ。
また、諸橋徹次「大漢和辞典」からの『柵』語説明でも、2種類の「柵」解釈が示されている。
『柵』には、A.「まがき」・「とりで(砦)」などの用法(意味)と、B.「村のやらい(矢来・境界線)」という用法がある。明らかに異なる用法である。
A.の解釈なら、「柵」は「戦闘に際しての拠点・砦」つまり「小さく、狭い」地点を示すが、B.の解釈なら「柵」は広い地域を取り囲む様にして作られたと思える。
どちらの意味から使用されたのか「孝徳紀」鼠例⑤の紀述を追ってみる。
原文には、『「造淳足柵、置柵戸。」』と書かれている。すぐわかろう。『「柵戸」を「置く」』とハッキリ書かれているのだ。だから「柵」を、A.とは即断できないと思われる。「淳足柵」には「柵戸」が置かれていたのである。
「大漢和辞典」は、この「柵戸(キノエ)」を更にこう説明する。「古、陸奥・出羽・越後に設けた城柵の内に土着させられた民戸。屯田兵。きべ。」
となると例⑤での「柵」語はB.の意味からとなる。「柵」の内側には「農民の戸(家)」が置かれ水田もあったと予想されるからだ。「矢来」でそれらを囲っていた事となる。「柵」語が示した地域は広いと思われ、やはりB.の解釈である。
「鼠」は、戦場の一拠点としての「柵」(「砦」)を造ったのではなく、広大な地域を占める「柵・柵戸」の一部を築いたと思われる。つまり「造柵」とは、B.の用法(意味)からなのだ。
鼠例④⑤から、『「鼠」は戦闘員(兵士)だ』と断定してきた今迄の定説を見直す必要があると愚考する。
「日本書紀」では、すぐ後に「磐舟柵(大化4年)」が紀述される。そこにも同じ表現(「柵戸」)がある(その時は、「越と信濃」の農民がそこに派遣されたと書かれる)。この時も「柵」とは「柵戸」で、B.の用法から使用されている。
「柵戸」は、「戦いの拠点・砦」には作られない。そこで「生産する」のだから広い「柵」領域内に造成され設置されたと思われる(「城柵内」に、田や建造物があった)。
このように「柵」語の意味・解釈が違うのだから、当然「造柵」した「鼠」の役割も違ってくる。「鼠」は「柵」で敵と「戦う」のではなく、「柵」でその一部を「建設」すると解釈されなくてはいけないだろう。「鼠」は「兵士・戦闘者」だと断定できないのだ。「鼠」の行った「造柵」とは、「柵」で囲まれた新たな支配地に土地などを「造成」し、支配を確定させる諸事業を行なった事を言うのだろう。
鼠例⑤から「鼠」を戦闘者(兵士)としてきた定説は見直されるべきと思う。
鼠例⑤での「柵」が、後者の用法・意味と想像されるもう一つの根拠がある。鼠例⑤の「柵」とは「淳足柵」(新潟県新潟市付近か)の事である。この地域(新潟県)が戦闘地域であったとしたら、体制側は「難波」に「都」を作るだろうか。作らなかったと思える。危険地帯に近寄って「都」を造る必要はないからだ。しかし「都」は「難波」に造成されている。そこからも「淳足柵」は既支配地域に作られた「広い柵」であったと判断してよいと思われる。
最後に、鼠例③、⑤、⑦に見られる原文上の不思議な類似点を指摘する(「孝徳紀」の「鼠五例」中「三例」という事になる)。そこからは、「日本書紀」はすでに「鼠」像へある結論を示していたと推量されるのだ。
まず、鼠例③の原文を示す。
「(中略)遷都難波長柄豊崎、老人等相謂之曰、自春至夏鼠向鼠向難波、遷都之兆也」
そして、鼠例⑤の原文はこうだ。
「(中略)造淳足柵、老人等相謂之曰、数年鼠向東行、此造柵之兆也」
最後に、鼠例⑦である。
「(中略)老人語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。」]
この「三例文」を比べてほしい。あまりにも似てはいないだろうか。同じ表現(法)を用いていると思える。
まず、「鼠」の行動を「兆し」と読む点で、「三例」は共通している。さらに、読み解く人が「老人」(「世間の人」という事だろう)である点も同じだ。「老人たち」には「鼠」の行動が「すぐには理解されない」と書かれる点が似通うのだ。
「造都」・「造柵」・「遷都」の三例とも、「老人」は鼠の動きを「兆し」として捉え、理解しているのだ。これは、「鼠」の行動が目立たないからと言えるだろう。彼らは目立たない仕事(職種)をしていたのだ。「日本書紀」の同一紀事(表現)からは、そう理解されるのである。
そして、鼠例③から⑦に共通するこの事実から、不明とされてきた「鼠」像が解明される。
6.「孝徳紀」・「鼠」とは
「孝徳紀」に書かれた「鼠」の特色を再確認してみる。
A.「鼠」は孝徳天皇勢力の「遷都」の際には、工期前半に行動していた。
B.「鼠」は戦闘員・兵士ではないが「柵」建設工事になんらかの関与をした。
C.「鼠」の仕事は目立たず、後に「兆し」だったと理解される事が多い。
となる。
『両王朝で活動する、兵士ではなく、目立たない仕事の従事者』となる。私は具体像として考えてみた。結論は、『彼らは「技術者(匠)」ではないか。
特に、土地造成関連の技術者(匠)」ではないだろうか』となった。
この想定なら、「孝徳紀」すべての「鼠」例が説明でき、「なぜ鼠と呼ばれたか」問題も説明出来ると思えた。
まず、「長柄宮造都」時、春・夏の「鼠」の先行行動を説明しよう。これは建物建設前の整地・土地造成を意味したと思う。完成した建造物にばかり目が行くが、それを可能とする「開拓」・「整地」・「灌漑」・「道路造成」などの一連の土木作業は前工程として不可欠な事業であろう。
そしてこれら一連の基礎事業は、その目的が気づかれにくい。だからこそ彼らの動きは「兆し」と理解され表現されたのではないだろうか。私には、「造都・遷都」「造柵」時の「鼠」の動きはこうして説明できると思えた。
「造都・遷都」時、「鼠」の作業(行動)後に事業目的が具体的な姿となり見えてくる。建造物の築造などが行われるからだ。「鼠」の仕事は全工程の前半部分が多いと思われ、だから「鼠」の行動は目立たず「兆し」と言われたと思える。
そして「造柵」時なら、「柵」予定地の土地造成を行った事となろう。土地を開拓し整地を行い、生産・居住が可能な支配地へと造成していく事業に携わったと思える。「鼠」たちは、支配地での「水田・道」造成も行ったであろう。
最後の疑問、『なぜ「鼠」と呼ばれたのか』も、彼らの動きつまり仕事(職種)から理解される。
土地の開発・造成という一連の行動(作業)は「土・水」を扱う。だからその仕事に従事した労働者・集団はどうしても「汚れた」容姿となると思われる。
この容姿が「鼠」を想起させたのではないだろうか、仕事からの容姿が「鼠」そっくりで、そこからの連想でこの言葉が使われたと思える。「孝徳紀」での「鼠」語の発生(使用)理由と思う。だからその時は「比喩・揶揄」が中心であったと思うのだ。
「孝徳紀」での「鼠」とは、「九州王朝」に属した「土地造成」の「匠」を「揶揄」した「表現(言葉)」なのである。
だから、この時の「鼠」語からは「九州王朝」全体への強い「侮蔑」が響いて来ない。この言葉は、汚れた容姿となる特定部門の「匠」を「揶揄」する為に使われた表現だったからと思える。
「孝徳紀」の「鼠」語は、「揶揄」(軽い「蔑称」)からの言葉で、「九州王朝」を強く侮蔑した表現ではなかったのだ。そしてそれがそのまま「天智紀」にも引き継がれたと思っている。
7.消えた「鼠」・残った「鼠」
さて意外にも指摘されていないが、「孝徳紀」「天智紀」以後には「鼠」(語)が全く登場しなくなる。「天武紀」からは「鼠」(語)の姿は消え、以後の「日本書紀」には全く出現しない。
「鼠=九州王朝」とする論者が多いのだが、その論考では、この消えた「鼠」語・その理由については全く言及されていない。「天武期」になり「九州王朝」が突如消えた訳ではないのに、なぜ「鼠」語は「天武紀」以後「日本書紀」から消えたのだろう、その理由が説明されていないと思われる。
矛盾するようだが私は、「孝徳紀」以後も「鼠」語は使われ続けたと信じている。『「鼠」語は存在したが、「天武紀」からの「日本書紀」には登場しない』
つまり「鼠」語は日常生活では引き続き使用されたが、「日本書紀」には登場しなかったと考えている。
「鼠」語「内容」の変化、「日本書紀」の編集方針がその要因と考えている。
「孝徳期」は王朝間の軋轢(あつれき)が目立ち始める時代である、だからその時の「鼠」語は特定部門への「揶揄」で用が足りていたと思える。後に「大和王朝」勢となる人々は、「九州王朝」と表立って対立し相手を「侮蔑」出来る立場ではなかったのだ(「造都」時には助力さえ受けている)。
が、抗争の時代を迎え、両者間の力関係に変化が生じた。その時「鼠」語の「内容」にも変化が生じたと私は思う。抗争の時代の「鼠」語は、「九州王朝」への強い「嘲笑・侮蔑」を意味する言葉へと変化したのだ。
「あんな奴ら」「どうしようもない奴ら」を意味した言葉として「鼠」語が多用されるのである(類似した言葉もあったろう)。相手体制への「否定」である。
このように変化した「鼠」語だったが、「日本書紀」にはその「鼠」語が使われなかったと思っている。その理由はこう説明できよう。
「鼠」語を使いたいのだが、そうすると敵(相手)王朝を認識した事になってしまう。「九州王朝」を一切認めず取り上げないのが「日本書紀」の方針であろう。それに反してしまうのである。だから「日本書紀」には、変化した「鼠」語を使わなかったと思われる。
軽い「揶揄」を示した「孝徳紀」「鼠」語が最後となり、それ以後(「天武紀」)には出現しなくなるのだ。
ただ実際には、この抗争の時代を通して「鼠」語は使い続けられたと私は思っている。対立が顕著になればなるほど、「九州王朝」を「侮蔑・嘲笑」」する強い言葉が必要になる。「鼠」語(類似した言葉)は必須語となり、実生活では使われ続けたと思う。
やがて、両王朝「抗争」の勝者は「大和王朝」となる。戦いに勝利し「王権交代」がなされた以後は、相手を「鼠と呼ぶ事に遠慮はなくなる。こうして「鼠」語が表面だって各地で使われ始めたと思える。「交代」後の各種文献にも残されて来る。
「鼠」語とは、「九州王朝」の人々・行為のすべてを「否定」する「侮蔑・嘲笑」語で、新たな支配者により各地で使われた言葉、と私は思っている。だからこそ今も各地に残っているのだろう。
「鼠」語の残る場所とは過去に「九州王朝」勢が支配し権力を振るった地となろう。
「交代」後に「それらは、「鼠」の仕業(しわざ)だ・役に立たない事なのだ」と「否定」されるようになったと思う。
上田周辺・「科野の国」・さらに全国に残る「鼠」語・地名について、こう説明されてよいのではないだろうか。
8.終わりに
解りにくい結論となってしまった。論理展開への反省は多い。だが私なりに「上田近辺(科野の国)」に残る数多い「鼠」語(地名・遺跡)への結論が出せたと思っている。勿論ご意見・御非判はあるだろうが、出せた事にまずは安心している。
私論考の最初に提示した上田近辺・「鼠」名称への結論はこうなる。
「鼠」が掘った「洞穴」とは、「鼠」の「採石場」の名残りであろう。その採掘物を使い様々な事業が始まったと思われる。「鼠」が作った「古代道(古東山道)」が「科野の国」中央部を通っていたと思われる。千曲川沿いにはその支道として「祢津街道」が造られ、軽井沢から屋代・長野へと至ったと思われる、「祢津」地は街道の要所と思われる。
その「道」の脇には「見張り台」が作られ、さらに「関所」も作られていたのであろう。そして彼らの信仰のよりどころとなる「神社」も、「坂城」に造られる・・・「鼠」地名が多く残る「上田」「科野の国」は、実は「九州王朝」の一大拠点であったと思える。彼らが強く勢力を張っていた地であったからこそ次の時代、勝者により「鼠」地名が多く付けられ、今に残っていると思われるのだ。
「鼠穴」も、「鼠山城」も、「鼠関所」も、「鼠(坂城)神社」も、「祢津(村・神社)」も、「祢津街道」も、こうして現代に残っていると私には思われる。
すべてが「九州王朝」支配の名残りなのである。次の支配者によりこれらの「鼠」地名がつけられ、私はそれに取り囲まれ育ったことになろう。
次回〔鼠再論(三)〕は、(二)で述べた『鼠=土地造成の匠』推論と繋がる、ある興味深い事実に言及したい。「上田」が舞台であり「番匠」語も登場する。「鼠」主張の根拠となるかと思われる「資料」へも御検討いただける。
いくらかの「妄想」が混ざる次回「鼠」論最終回〔(三)と(四)〕に再度のお付き合いを懇願したい。
(終)
「鼠」再論 (一)―「Skype勉強会」資料―[コラム]
「鼠」再論(三)―上田・神科条里と番匠―2022年10月26日(水)と「鼠」再論(四)―神科条里と番匠と鼠―2022年10月28日(金)は掲載済ですが、読者さまは「(一)と(二)はどうしたのだろう?」といぶかしく思われていたかもしれません。これは「できれば後日に掲載して」との吉村さまのご要望に応えて私が後回しにしておりました(掲載日は私に一存されていました)。このままでは年を越してしまうので、掲載いたします(忘れていたわけではありません(汗))。まずは(一)です。
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「鼠」再論(一)
「Skype 勉強会」資料
上田市 吉村 八洲男
1.始めに
新庄宗昭氏により『実在した倭京』が出版された。新庄氏はその書中で「倭京=藤原京」説を述べ、「倭京」造成者として「日本書紀」中で「鼠」と表現された勢力(上位勢力を持つ X)を予想された。「日本書紀」の「鼠」とは、「上位権力者 X(九州王朝)」を示す語だとされ、彼らが「倭京」を造成したとされたのである。
「鼠」語を紹介する。ご承知の様に「日本書紀」には 9ヶ所、「鼠(ネズミ)」語(表記)が出現する。他にはこのような同一語句(動物)の頻出例が少なく、長らくこの「鼠」をどう解釈するかが争われて来た。「景行記」に
1ヶ所、「皇極記」に1ヶ所、「孝徳記」に 5ヶ所、「天智記」に 2ヶ所という出現場所からも特殊な何かが想起されたからである(「孝徳記」5ヶ所の突出は異常と思う。「鼠」語解明にはこれも手掛かりになる)。前論〔注①〕で定説の紹介は済ませたと愚考し改めての論は重ねないが、当時の学界の解釈は「鼠」を齧歯目(げっしもく)科の小動物、つまり英語での Rat を指すとする考えが大勢を占めていたと承知して欲しい。ほとんどの文献「鼠」例がその解釈で良かったからだ。これに異を唱えたのが一志茂樹氏で、一元史観の立場からではあったが、「鼠」には「不寝見」と解釈される場合があり、特に「日本書紀」の「鼠」は、「柵」や「造都」を行う為の「施設」・「先行設備」(寝ずに監視する・不寝見)を意味する、とされたのである。これは「軍制」と関連させた論考展開で刮目すべき推論と私は判断し、前論の多くを一志氏の紹介にあてた。それが
2年前の論考で、だからそこでの私論の論拠・展開は不十分だったとも思えた。
それもあり、「多元・Skype 会議」などでは多くの御批判の意見を頂いた。反省もある。が、改めて私なりの「鼠」論を詳細に紹介させて頂きたく再度の挑戦をお許し頂きたい。
2.古代の「情報伝達」
これからの「鼠」論議開始に当たり、皆様と確認しておきたい事がある。それは「狼煙(のろし)」に代表される「煙火」による「情報伝達システム」を古代から人間集団が持っていたかどうかである。あったとしてもそれを断言出来るのかという疑問でもある。
難問ではあるが、実は既にそれへの結論は出ていると私は思っている。
中世遺跡(戦国期は特に)に関しては、その痕跡は既に各地で多数が確認されている。卑近な例では「上杉」と「武田」の対立だ。奥信濃での越後勢の動きはいち早く武田勢にキャッチされ、その逐一が「狼煙(砦)」を使って甲斐・信玄へ詳細に報告されていたと言われる。戦場と 150㎞ は離れた領国にいた武田軍・信玄だが、奥信濃の状況を「狼煙」による「情報連絡(伝達)」で常に把握していたと言われる。このシステムの存在が、不利になりがちな戦況を補ったとも言われるのだ。それを証明する砦(山城)の痕跡が「信濃(東信州)」各地にあり、情報を得て「兵・物資」を素早く移動・運搬させた「武田の直道(すぐみち)」の遺存も確認されている。
幕末期の例に見ると、外国船の出没による「鎖国令」体制の変革が要求された時代でもあり、「情報連絡(伝達)」の必要性が増大したと思える。その際生まれた「狼煙」や「早馬」を使った数々のエピソードは枚挙にいとまないようだ。
これらは、体制の優劣をきめる「戦い」や時代が変化する際での「情報」の重要性を物語っている。それが全てではないが、流れを決める重要な要素だと思われる。
さて、古代・弥生時代である。戦いは人間が所属した集団の常だから、「争い」「戦い」はその頃からあったと思われる。緊張関係にあったそれらの集団が各種の情報を伝えていた事に間違いはないだろう。
だが古代での関連痕跡は判定しにくく、残りにくい。だからこの「連絡(伝達)・その手段」の存在を考古学的に立証する事が困難で、永年不明のままであったようだ。これが「古代では、情報を伝達する必要性がなく、はっきりした手段も持たない」と判断されて来た最大の理由と思われる。
弥生期Ⅲ・Ⅳ期、軍事的緊張を持つと推定された近畿地方の高地性集落の「焼土坑(焼き穴)」跡を、「狼煙台」・情報連絡の痕跡とする研究もあった。さらに、日本各地(特に高所・山頂)で類似の「焼土坑」が発見され、「狼煙」による伝達・「物見台」としての機能が推定されていたのだが断定には至らなかったようだ。
だが突破口が出た。佐賀県唐津市湊中野遺跡での発掘である。疑われた遺跡は、生活火力とは異なる「焼土坑(焼き穴)」跡を持ち、生産とは無関係な「高地」にあり傍には長い世代母村と離れた住居があった。そこからは少量の生活品と武器の残存が確認され、目視が可能な距離にある「高地」にも同例(焼土坑他)が発見された.
これらから「情報伝達」が疑われ、やがてここが「狼煙台」であったと確定・認定されたのである。
重要な発見であった。しかもそこは「魏志倭人伝」記述から、弥生時代の国々の存在が推定されていた場所だったのである。発見者はこう推定した。「湊中野遺跡は末盧国の情報ネットワークの最先端基地として、大陸・伊都国の双方をにらむ位置に、・・・(中略)・・・おそらく、大陸・伊都国の情報をいち早く末盧国の中枢部へと瞬時に通信していた」
それ以後、全国各地でこの『煙火を使った情報システム(「狼煙台・物見台」)』の発見・確認が相次いだ(大分県玖珠町白岩遺跡など、枚挙にいとまない)。古代にもこのシステムは確実に存在していたという定説は、だから確定しつつある事と思われる。
それどころか文献に登場する古地名が実はこの「煙火システム」からの命名がその始原(由来)ではないかと疑われる例さえ確認され、各地の「山城」の始原をここに求める推測も登場しているのが現状と思われる。
古代から「集団社会」を形成した人間社会は「狼煙」などによる「情報連絡(伝達)」を行なって来た、それは「当然な事だったのだ」と思えて来る。
「小集団」時には「情報の伝達」範囲は狭く告知が主眼とも思えるが、やがてそれは「広域集団」への伝達に及び、「王朝」時には体制(軍制)に組み込まれた緻密なシステムとして存在していたと想像される。
3.文献に見る「情報伝達システム」
7世末・日本での「情報連絡(伝達)システム」の存在は文献からも確認される。
日本書紀「孝徳記」にある。「二年・・・(改新の詔)其二曰、初脩京師、置畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬、及造鈴契約、・・・」である。
また「天智記」の叙述からもそれが解る。
「天智三年是歳条」に「是歳、於対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等置防與烽(この年、対馬・壱岐・筑紫国に「防」と「烽」を置いた)」とあるからだ。
664年の事である。「白村江の敗戦」直後であるから、この記事からは、「対外緊張」により「情報」の必要性が増大し「情報伝達路」の再構築を喫緊の重要事とした、と理解される。だからこそ「防・烽」の設置が行われたと「日本書紀」に書かれたのである。
ただ『「是歳」・・・』という少ない記事内容から、古代日本では「情報伝達」がさほど重要事ではなく、「烽」制度も 664年頃になって創設されたと誤解されたと思える。
「日本書紀」は一部の事実は伝えたが、「情報伝達システム」の全容を正しく伝えていなかったのだが。
詳細に当時の「烽」制度を説明した文献がある。 一つが、「大宝律令」(701年)で、その中の「衛禁律(えごんりつ)33 烽候不警条」である。
『凡烽候不警、令冠賊犯辺、及応挙烽候、而不挙、応放多烽而放少烽者、各徒 2 年、
烽候謂、従縁辺置烽、連於京邑、烽候相応、以備非常、放烽多少、具在別式、・・・』とある。(まだ続くが以下は略します・違反時の罰則が詳細に規定される)
「国境」を侵略する「賊」の情報を、設置された「烽」を介し「都」まで連絡するよう規定されている。「賊」に該当するのは「中国の王朝」だけでない。「国境・辺境」を侵す「賊・敵」は幾つか考えられよう。だから、広大な支配地での「烽」システムが確立・存在していなくては、この内容と表現はあり得ない。わずかな「烽」の存在では、「システム」とは言われなく、国防にならないからだ。記述からは既に「烽」システム(伝達システム)は完成・運用されていたと理解される。
また、『令義解』では、「巻1 職員令 24 兵部省条 」から始まり「巻3・巻5」に関連事項が集中する。「烽」(「烽火」「烽燧」「烽長・烽子」)・「候」(「烽候」)と表現・表記され、それが「職員令・戸令・賦役令・軍防令」などの中で出現しているのだ。
圧巻なのは『巻5「軍防令」』で、「66」から「76」までのすべての項目が「烽燧制」関連の説明に充てられている。
「軍防令 67 烽昼夜条」が、短文ながら要点を得た説明となっている。
『凡烽、昼夜分時候望、若須放烽者、昼放烟、夜放火其烟盡一刻、火盡一炬、(・・・注釈部分なので略す・・・)前烽不応者、即差脚力往告前烽、問知失候所由、速申所在宮司(謂前烽所隷之国司也)』
意訳すると、『「烽」は、昼夜を問わず監視(観察)しなくてはならない、昼は煙、夜は火を定刻に点けろ。「前烽」が答えない時は(烽子を走らせ)確認し、その理由を国司に知らせよ』であろう。「煙・火」に用いる材料・方法なども細かく規定されている。
これらから「烽」制度の運用概略が解るが、同時に重要な事実が理解される。
『「烽」制度での変事は、すなわち「国・国司(国守)」の変事である』と言う事だ。大げさに思えるが、「令義解 巻1 職員令 70」にも、「国司」の任務の一つにこの「烽候」業務が挙げられている。だから重要事であった事に間違いはないだろう。
「情報連絡(伝達)システム」は確実に存在しただけでなく、それは体制を支える重要事でもあったのだ。(この『軍防令』に限れば、典拠したのが「唐・兵部式」であったと解明されている。体制構築には、「唐」の大きな影響があったとも推測されるのだが・・・)
この事実から、文献にこそ表記されないが古代から「情報連絡・その方法」は存在し、国家の存続さえ決める重要制度でもあったと思われる。
4.漢の「烽燧制」
中國西域を探検した著名な学者たちにより、多くの「木簡」(「敦煌木簡」は「二万三千枚」という)が発見され報告されていたが、「エチナ河(居延)流域」の遺跡・城跡からも「木簡」が多量に発見された。それら「居延での発見木簡」が「労榦(ろうかん)」により、著作で纏められ同時に詳細に考察された。
(下図は、「漢時代」西域部分図と「エチナ河下流域での烽・燧・候」概略図)
それが『居延漢簡考釈 釈文之部』である。この書により、「木簡」から推定された「漢」の「対匈奴」政策、そして「辺境地」での「軍制」・「兵士の生活」への理解が一挙に進んだ。(籾山明「漢帝国と辺境社会」史学社に詳しい・上図は同書から)
驚いた事にすでにこの時代、「「烽燧制」・その関連政策」が「軍制の一部」として「辺境地」で確実に施行されていたのである。「木簡(漢簡)」究明による「漢の軍制(辺境・西域地での)」への結論だから、そう断言せざるを得ない。
しかも、この「烽燧」制度の確立による「情報の素早い伝達」が「対匈奴」政策の根幹だったとも言えるから驚く(「烽」も「燧」も「狼煙(のろし)台」を意味したが、「燧」には連続するという意味が強かったとも説明される、これが「飛ぶ火」であろう)。
「烽燧」で得た情報が「望楼(堠)」・「塞」・「城」・「関」などのネットワークに乗せられ、「都尉府」・「太守」・「天子」へと届けられ「対匈奴」政策が決定されていた事になる。
上図はこの本に説明された「漢(辺境で)の軍事組織」である。
「燧」―「部」―「候」の関係を基本とし、「燧」を底辺とした「三角形(ピラミット状)」の軍事組織と理解されよう。現場業務を行う「燧」の兵士たちを「候(官)」が統率し、そこで得られた情報が「都尉」(文官だろうか)へと繋がって行ったと思われる。
(これは、前述した日本での文献に登場する「烽・候」と名称・責務が同一で、組織内での階級やさらに組織全体図が類似する(時代や体制からの差異はある)。それには驚く。そこからは中国からの影響が明遼だったと理解されるのだが・・・)
「燧」の戌卒(じゅうそつ)たちの業務は、『第一に挙げられる・・・「巡回」・「パトロール」』から、『「候望」すなわち「見張り」・「信号」の送付』『文書の逓送』『雑務』と多岐にわたっている。(それら兵制・兵の生活などの詳細は、同書をお読み下さい)
「候(官)」の主業務は、戌卒の指揮・統率で、巡回によって得られた周辺情報を集約し伝達する事で、両者は「指揮者」と「配下」として現場業務にあたったのだろう。
漢の支配領域の拡大と「「烽燧制」(「田(屯田)制」もあった)の拡大は表裏一体であったと思われるが、更なる詳細解明からはある別事実も判明する。
「烽・候」から得た「情報」(「手旗」での「伝達」もあった)は、「道」伝いに「都」へと伝わるのだが、その際の「道」の意義・役割である。
前著ではこう述べられている。『「道」とはつまり、燧から燧へと文書が送られる道路の事であり、・・・情報伝達の生命線で・・・街道の要所の燧には、「厩」(うまや)が置かれ、乗り継ぎのための駅馬が用意されていた』と言うのだ。伝達に際しては厳しいチェックがなされ「駅鈴」の有無確認もその一つだと言う。(日本とそっくりだ!)
軍事組織の「最先端・最前線」までは「道」が通じていないようだ。多くの情報が集約化されるが、「文書化」されて初めて「正式情報・連絡事項」になったと説明される。
つまり「文書」を運ぶために「道」が必要とされたというのである。「正式文書」の為に、「道」・「駅家」・「駅鈴」などが存在したという事になる。それには驚くが、同時にこれらが古代日本の諸制度に酷似している事にも驚く。とすると、日本の「古代道」の意義解明に際し「新解釈・新見解」にもなるかと思える。
私はこうも思った。「烽燧制」の欠点は一カ所でも敵に「烽」(拠点)が奪われると制度そのものが機能しなくなる事だが、体制はそれを正確に認識していたようだ。だからそんな非常時も考えて「文書」による伝達に重きが置かれたのだろう、「道」・その他が造られたと思われた。
「道」作成の最大目的は、「信頼すべき情報伝達路の確保」だったのである。それが優先される事で、だから「情報と連絡路」両者は「不即不離」の関係だったと思えた。「軍用の兵と物資の運搬路」と言う簡単な推測では、説明し切れない事実とも思えた。
日本の文献に見られる「軍制(軍事組織)」との数々の一致は、われわれの常識化した「烽燧制・古代道」知識への再考が求められるとも思われた。
いずれにせよ古代中国の文化・制度は東アジア・近隣諸国に大きな影響を及ぼしていたと思われる。そう考えた時、「漢」の軍事制度の影響は「古代日本王朝」だけではないとも思えた。
「日本書紀」「継体紀」にある表記へも、別見解が生まれよう。
『(八年)・・・三月、伴跛築城於子呑・帯沙、而連満奚、置烽候定邸閣、以備日本。』
(三月に、伴跛(はえ)が城を子呑・帯沙(しとん・さた)に築き、満奚(まんけい)に連ね、烽候(とぶひ)・邸閣(や)を置きて、日本(やまと)に備えた。)である。
「日本書紀」のこの部分は、『魏志・張既伝』の記述と酷似するようだが(岩波文庫・注釈による)朝鮮にあってもこの「「烽燧制」は重要なシステムとして古代から機能していたと思える記述だ。(日本での「烽燧制」の正式な廃止は、894年・嵯峨天皇によるとされる。朝鮮での廃止は 1894年(高宗 31 年)と言われるから、近世に迄この制度は遺存していたようだ。)
「燧制制」は再確認されるべきであろう。
そしてこの軍事組織(「烽・候」制)へのある理解が、「ネズミ」解釈への決め手になると私は思っていた。
5.「烽燧制」への誤解
古代日本では「情報連絡(伝達)」は当たり前の事だった、だから「文献」に言及される事が少なかったかと推測したが、同時にそこからある誤解も生まれたとも愚考する。
それが、『「白村江」の敗戦による「対中国・朝鮮」政策の一環としてこの「烽燧制」が造られた』という認識である。つまり、『敗戦により初めて北九州を中心に「烽」が築造された』とするのである。その「情報」がルートを経由して「都」に届けられたとするのである。「烽燧制」の起源を「白村江の敗戦」に求めるのである。
確かに前述した「日本書紀」の表現だけからはそう推断されよう。一元歴史観からの判断も同様であったと思われる。だが果たしてそう言えるのだろうか?
「豊後風土記・速見郡条」に、次の叙述がある(「風土記」は、「烽燧制」遺存を伝える貴重な文献と思える)
「 速見郡 郷五所 駅弐所 烽壱所
昔者 纏向日代宮御宇天皇 欲誅球磨贈於 幸於筑紫 従周防国佐婆津 発船而渡泊於海部郡宮浦時 於此村有女人 名曰速津媛 為其処之長 即聞天皇行幸 親自奉迎 奏言 此山有大磐窟 名曰鼠磐窟 土蜘蛛二人住之・・・不従皇名・・・於茲
天皇遣兵遮其要害 悉誅滅 因斯名曰速津媛国 後人改曰速見郡 」
「日本書紀」記述を書き直したと理解されている有名な箇所である。
「日本書紀」・「景行天皇」(「纏向日代宮御宇天皇」)による「九州親征譚・熊襲征伐譚」が、そのままこの「豊後風土記」に記載されているからである(古田武彦氏が「日本書紀・景行記」記述部分に大きな矛盾・齟齬を見出し、それが実は「九州王朝による九州平定譚を改定・盗作したもの」だったと解明された事が記憶に蘇る)。
「風土記」のこの文章にも、「鼠磐窟」に「土蜘蛛」が住むと書かれている。「日本書紀・景行記」との一致(再現)が改めて確認されるのだ。
そして注目すべき事は、ここには既に『駅弐所 烽壱所』と記載されている事である。「豊後国」本文にも、他の全ての「郡」紹介部分にも同じ「駅・烽」の記録が残る。
「豊後国」・・・「駅玖所 烽伍所」・・・
「大野郡」・・・「駅弐所 烽壱所」・・・
「海部郡」・・・「駅壱所 烽弐所」・・・
「大分郡」・・・「駅壱所 烽壱所」・・・
「豊後国」のあちこちの「郡」に「駅」と「烽」が存在している。この時代に既に「駅・烽」制度があったと理解するしかないだろう。
ところが「豊後国」の位置を考えた時、私にはここに「対中国の為の烽」が設置されたとはどうしても思えない。「豊後国(大分県)」は、「中国」・「朝鮮」には面していないからである!更に「豊後国」はそれらの情報が「京」へと至る道でもないのだ。
ここからは、「烽」「烽燧制」は、「対中国・対朝鮮」のために造られたとは言えないのだ。
(「豊後」でも「情報」は時代により必要とされていた事になる。7世紀末なら 「隼人の乱」を考えてもいい。)
そして「出雲風土記」にも「烽」表現が残るが、これにも種々の疑問が向けられる。
確かに本文中、「意宇郡条」と「嶋根郡条」の地名末尾には「烽有」と書かれ、さらに「巻末記」文中には多くの「烽(名)」が具体的に登場している。「馬見烽」・「土椋烽」・「多夫志烽」・「布自枳美(ふじきみ)烽」・「暑垣烽」である。
が、研究者によると、設置された場所の追求や「烽(名)」の文字表現からも、単純に「都への連絡網上にある」と考えるべきではないと言う。考察からは、「クニ」・地域社会を背景にした「烽」として位置付けられるべきとされるからで「出雲国造」時代との関連さえ考えられると言う(「古代出雲国の烽」石和彦、「烽の道」青木書店
に収録される)「出雲国」の「「烽」も、「対外政策の為に設置された烽」とは断言出来ないと思われる。
『烽』とあれば、即「日本書紀・天智記」や「律令」との関連を考え、「都」との関連(連絡)を想定してしまう事には疑問を持たざるを得ない。『対外(対中国)政策の為に「烽燧制」が造られた』のではないと私は思う。古代から、それぞれの国(地域に「情報連絡網」はあったと思える。「王朝」はそれを軍事体制の「連絡網」に組み込んだのである。
ただ、「日本書紀・天智記」に表記された「高安」での「烽」設置には納得させられる所がある。「敗戦」という非常事態に遭遇し、「連絡網」の再構築を急いだと思えるからである。
そして、この「高安」の位置からある「妄想」が生まれる。
都は「難波京」(或いは「近江京」)にあったと考えてよいだろう、その時「高安」を経由して都に「情報」が届くようにした、と「日本書紀」に記されたと思われる。つまり「高安」は「ネットワーク」の一部、「情報」の「経由地」だったと理解される。
その時「高安」の位置を考えるとある事に気付く。「高安」は、「和歌山県」との国境に近い位置である。ここが重要な情報経由地であるならば、北九州からの「情報」は「瀬戸内海沿い」に伝わったと考えざるを得ないのだ!そしてさらに「山陽道」沿いに「正式情報」が伝わって来たとも思えられるのだ。「漢」の例からはそれが順当となろう。
その時、「瀬戸内海沿い」には起源が不明とされる多くの「山城跡」があると気付く。
「備後・備中・備前」だけでも、「常城」「茨城」「飛地山城」「鬼ノ城」「大廻・小廻山城」がある。当然、四国」側にもあり、さらに「烽」があったかと推定される場所もそこに加わる。(小田富士雄編「西日本古代山城の研究」から)
「山城」の多くは、「道・情報連絡(伝達)」の中継地で、「道」を守る「砦」でもあったのではないだろうか。それが起源だったのではないだろうか。
「古代道」はそれらにより守られ、支えられていたと思える。
「日本書紀・天智記」にある「情報連絡」記事とは、これらの使用を記事にしたのかも知れない。
6.「烽」・「候」と「ねずみ」
遠回りをしてしまった。論点がぼやけ、主張が不明になっている。本論に戻らなくてはいけないだろう。
長く主張をしたが、「狼煙などによる情報伝達システム」が古代からあった事、それが「烽燧制」として九州王朝の軍事組織にも存在した事を再確認して欲しい。(「漢」からの影響と思えるが、それ以前の「王朝」からの影響も当然考えられる)
「烽燧制」における「烽(烽人)」・「候(候官)」は間違いなく存在していたのである。
そう理解した時、こう思う。「人々は彼らを、何と呼んでいたのだろう?」
「漢」字表記、「中国」発音のまま呼ばれた、と私には思えない。「倭人」は「倭語」で呼んでいたに違いないからだ。再現は不可能であろうが、手掛かりがあると思える。それが「日本書紀」である。「漢字」表記された本文(「語」)での「倭訓」である。
『烽』字が含まれた「日本書紀・天智記」での記載を紹介した。そこには、『・・・筑紫国等置防與烽・・・』とあった。この時『烽』には「すすみ」とフリガナが付けられている。そう読まれたと思われた。
「日本書紀」では難解な文字への「訓読」は別記される事が多いが、この『煤』字にはそれがない。だから、ここにもありふれた読み(呼び方)がなされていたと思えた。
そしてこの読み方は『烽』の職務内容とも一致する。「煙火」を作り、監視していたからである。
「すす」という読みは「煙・煤(すす)」由来であったと思われるのだ。
「烽(烽人)」は、「すすみ」と言われていたのではないだろうか。
『候』は、どう読まれ、呼ばれていたのだろう。
「天武記・上」には、こうある。
『或有人奏曰、自近江京、至干倭京、処々置候、』(ある人が、近江京より倭京に至るまで「候」を置くよう進言した)
この時「候」(軍職名である)は、「うかみ」と読まれる。つまりこの読み方が「倭語」による読み方と思えた。
「うかがい見る」という意味と思われ、語幹となった「うか」は他語にも多く使われている。「穀物神」と言われる「宇迦之御霊神」(「倉稲魂命」)名も同じ語幹(「うか」)を持つし「ウケイ(請約・転じて「神意を聞く」意)の古形であったとも言われる。「語源」はインドからと言う説もありその仔細は不明と言うしかないのだが・・・
「うかみ」が多用された「倭語」である事は、「日本書紀・推古記」での別表記への読みからも解る。
「(推古九年)・・・秋九月辛巳朔戌子、新羅之間諜者迦摩多到対馬。・・・」である。
「・・・新羅の「うかみ」者(ひと)、迦摩多(かまた)が対馬に来た。・・・」と読ませるようだ。
ここでは、「諜報」字に対し「候」字と同訓である「うかみ」と読ませている(この時、「間諜」語は「人」を指している)。
意味は同じと思われ、「窺い見る人、スパイ」という事であろう。異なる漢字(「間諜」)に「うかみ」読みが与えられている。この読み方が、多く使われたと解ろう。
この「うかみ」読みが、軍職である「候(官)」が果たすべき役職内容「敵情の探索」「周囲へのパトロール」とも一致する。
「烽燧制」を支えた「烽(人)」は「すすみ」と呼ばれ、「候(官)」は「うかみ」と呼ばれていたと言えよう。少なくも「日本書紀」ではそう読まれていると思えた。
そして私はこう考えた。「すすみ」「うかみ」音との類似から、「日本書紀・孝徳記」に出る「ねずみ」とは、九州王朝の「烽燧制」を支えた彼らを指し示しているのではないか?彼等が「ねずみ」なのではないか?
「日本書紀」では、「ネズミ」が予兆と言える行動をすると書かれる。(「都」の移転や、「柵」の築造を先取りする動きをする)
これは「「烽燧制・その人びと」を想定すると理解が容易だ。
都を作る時に、最高司令官である「天子」への「軍事情報の連絡路」の新設は必須な事であろう。予兆するかの「鼠」の動きは「烽・燧」の再編を意味したと思える。
「柵」についても同様だ。敵地への侵攻基地として「柵」が築造されるのだが、「戦場」は常に変わる。だから戦いの過程では「柵」の位置も「烽」の位置も変化する。
それが当然であろう。
これらの再編には、「烽(人)・候(官)」、つまり「鼠」が先だって移動する。彼らは世間が結果を認知する前に動き、各種の手配をしていた訳だ。それが「兆し」として世の中には捉えられたと言う事になる。こうして、「鼠」の動きが「兆し」として「日本書紀」に書かれたのではないだろうか。
同時に「孝徳天皇(大和朝)」側には、九州王朝を支えた「「烽燧制」・その人びとを冷ややかにみる眼が生まれていたとも思える。彼らを「鼠」と呼ぶ何らかの思考が生まれていたと思えるからだ。「ネズミ」語は良いイメージを持つ語ではないのだ。
だから「鼠」語の使用理由は、「音」「行動」の類似だけではないだろう。「鼠」語が持つ負のイメージ(薄汚れ、群れ動く)を利用した表現でもあると思える、そう呼ぶことで九州王朝への間接的な批判の気持ちを仮託したと思えるのだ。
「鼠」語とは「九州王朝」を喩えた語であると永らく言われてきた。これが穏当な理解ではあるが同時に不十分とも思えている。
「鼠」語とは、九州王朝の軍制・「「烽燧制」・を支えた人々を指し示した語で、そこに体制への批判が込められた言葉だったと思える。
6,終わりに
昨年来「鼠」論議が続くが、ここでは先ず『九州王朝の「軍制」が「鼠」語を生んだ』という私論を主張させて頂いた。
同時にいままで述べて来たこの「鼠」解釈私論が、直近になり大きく変化した事も報告したい。今はこう思っていないのだ。別見解があると考え、㈡ではそれを主張したいのだ。
理由は簡単かも知れない。今迄述べて来た「鼠」解釈私論では「多元歴史観」が十分に反映されていないと思われるからだ。
私は、『「日本書紀」・「鼠」語は「多元の視点(九州王朝の存在)」無くしては解釈不可能』と考えてきた。それなくては「鼠」語への真の理解には迫れないと思っていたのである。そう考えた時、今迄の私論では不十分ではないかと気が付いた。
「九州王朝」があった、「大和王朝」も生まれ、ある時から「九州王朝」を敵と認識し始める、やがて王朝は交代し「大和王朝」の時代を迎える、そんな「多元」からの視点が今迄の私論と結びついているだろうか。不足していると思えた。「九州王朝」語を取り入れれば、「鼠」問題がすべて解決する訳ではなかったのだ。
今では、古田学派が到達した「日本書紀」への新解釈、「複都説」・「34 年遡上説」などの論定が「鼠」語解釈に直結するかと思っている。
ただ、「7・9 Skype 勉強会」迄にその私論を報告できるかには自信がない。「多元歴史観」が到達した「複都論」が、私の主張する「鼠」解釈論を助けるとは思っているのだが。そして私論の最後に「科野の国・上田」でのある事実が付加出来たらとも思っている。
未完成ですが、㈠・㈡を通し皆様のご批判を期待します。「ネズミ」解釈論の更なる進展が期待されるからである。
(終)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
注① 前論 ‥‥‥次の論考をご覧ください。
「科野」の「ねずみ」―「多元」 令和2年3月号―2022年5月6日(金)
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(2)2020年1月26日(日)
「科野からの便り(8)」「科野」の「ねずみ」編(1)2020年1月18日(土)
私の読解法(補足)
―読者の立場でも考える―[論理の赴くところ]
先のブログ記事 私の読解法―筆者の立場で考える― の「終わりに」で次のように述べました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
肥沼孝治さんから、実に興味深い疑問が次のブログ記事で提示されています。
肥さんの夢ブログ:彦狭嶋王に東山道十五國都督を命じた人物は誰か?2019年10月15日(火)
私は、『日本書紀』がこの話を九州王朝から盗用したという仮説を持っています。どこにその痕跡があるかと言えば、次の事柄です。
「是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」(原文「是豐城命之孫也。」)
これ、この話に必要ですか?私は「不要」と見ます。なぜなら、この一文を削除しても話は立派に完結しているからです。
「是(ここ)を以て、東(ひむがしのかた)、久(ひさ)しく事(こと)無(な)し。是(これ)に由(よ)りて、其(そ)の子孫(うみのこ)、今(いま)に東國(あずまのくに)に有(あ)り。」(原文「是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。」)
この「是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」を省くと何が変わるかと言えば、「その子孫」(「其子孫」)が「豐城命の子孫」から「彦狹嶋王の子孫」に変わるだけです。御諸別王は彦狹嶋王の子なので実質は何も変わりません。では、何故筆者は不必要な「是豐城命之孫也。」を加えたのでしょうか?
私の読解に従えば、答えは簡単です。「豐城命(とよきのみこと)」を「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」(『古事記』では「豊木入日子命」)と同一人物に仕立てる(「背乗り」する)ためです。
「是豐城命之孫也。」が無ければ、第10代崇神天皇(御眞木入日子印恵命(記))の皇子「豊城入彦命(紀)・豊木入日子命(記)」の出番はないのです。
「是豐城命之孫也。」が無ければ、崇神天皇とは何の関係もない(すなわち大和国とは何の関係もない)話なのです。〔後略〕
…………………………………………………………………………………………………………………………
筆者はこの不要な一文を加えたのは「豐城命を豊城入彦命と同一人物に仕立てる」ためであると述べましたが、これを加筆する理由がもう一つ考えられます。
それは、この一文を加えないと、「『彦狹嶋王』とか『御諸別王』とかあるけど、この人等は誰?」と読者が思うからではないでしょうか。すなわち、『日本書紀』の読者には「『彦狹嶋王』 や『御諸別王』 が(九州王朝関係者なので)なじみのない名前」であった」からではないでしょうか。そこで「『豐城命』の子孫だよ」と書いておけば、「『豐城命』?あぁ『豊城入彦命』の子孫か」と読者が勝手に誤解してくれる、という仕掛けであると思われます。
「出雲商業高校」グルーピー50
―第17回定期演奏会 第2部―[「出雲商業高校」グルーピー]
この第2部の動画は、先に紹介した動画と重複する部分もありますが、こちらはフルバージョンと思われます(私の判断では)。
2022.12.22 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/第17回定期演奏会 第2部
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2022年12月22日 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第17回定期演奏会 第2部
♪演奏曲♪
0:00 (オープニング)
0:05 (MC)
4:48 カルメン
11:53 (MC)
14:23 ジャンボリミッキー
17:13 (MC)
20:33 (MC)
22:21 デューク・エリントン・メドレー
28:19 部長・副部長あいさつ
38:29 Stand Alone
42:49 (MC)
44:16 It Don't Mean a Thing
「京都橘高校」グルーピー89
―ハウステンボスBrass Band Festival 2022/パレード―[「京都橘高校」グルーピー]
京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival 2022/パレード「wide angle version」Kyoto Tachibana SHS Band 「4k」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部/ハウステンボスBrass Band Festival/Kyoto Tachibana SHS Band Marching parade
2022年8月14日、ハウステンボス ブラスバンドフェスティバルでの京都橘高校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。「wide angle version」
※音源のライセンス関係で広告が表示されることがあります。
※動画の無断転記はお断り致します。
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。
1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント
以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
追記 最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。
「出雲商業高校」グルーピー49
―第17回定期演奏会 第1部―[「出雲商業高校」グルーピー]
お待ちどうさまでした。「第1部」です(「第2部」が先にUPされていました)。
2022.12.22 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部「魔女の宅急便コレクション」/第17回定期演奏会 第1部
投稿者コメント
2022年12月22日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第17回定期演奏会
♪魔女の宅急便コレクション
「出雲商業高校」クルーピー48
―第17回定期演奏会 第2部―[「出雲商業高校」クルーピー]
2022.12.22 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部「ジャンボリミッキー!」/第17回定期演奏会 第2部
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2022年12月22日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第17回定期演奏会 第2部
男子バンド with 愉快な仲間たち「ジャンボリミッキー!」
九州王朝の薬師寺
―伽藍配置の変遷試論―[妄想][神社・寺院]
伽藍配置において「講堂」の位置は特別な変遷をたどります。
「特別な変遷」と言ったのは、例えば「仏塔」なら時代とともに回廊内から回廊外へと一方向に変遷しています。ところが、講堂は次のように変遷しています。
(1)古式寺院の講堂は回廊外にあります(金堂と仏塔は回廊内)。
(2)仏塔は回廊内で回廊が講堂に繋がる(「四天王寺式」)。
(3)回廊は講堂に繋がっているが、仏塔は回廊外に置かれる(「信濃国分寺」)。
(4)回廊は金堂に繋がる(いわゆる“国分寺式”、回廊内に伽藍はなく講堂は回廊外に置かれる)。
回廊内が寺院中枢ですから、講堂は必要なのだが中枢伽藍にはなり得ないものでした。
私見を述べれば、仏教そのものが、次のような変遷をたどったとみています。
① 仏舎利(仏塔)が大事な時代(倭国にこの時代は無かったかも)
② 仏舎利(仏塔)と仏像(金堂)の両方が大事な時代(「山田寺」や「法隆寺」の伽藍配置)
③ 僧侶を養成するために経典の講義(講堂)が必要な時代(「四天王寺式」、回廊が講堂に繋がる)
④ 仏像(金堂)は大事だが仏塔は回廊外に置かれる時代(「信濃国分寺」などの伽藍配置)
⑤ 大勢の僧侶が仏像(金堂)の前(金堂前庭)で読経する時代
薬師寺の双塔について
藤原京の時代は④の仏塔が回廊外に置かれる時代なのに、薬師寺が回廊内に双塔を置いているのは、次のことが不審です。
❶ 仏舎利を二つに分ける意味があるのだろうか?
❷ なぜ時代の流れに逆らって双塔を回廊内に戻しているのだろうか?
この問題は、次のように解釈すると疑問が氷解するのではないでしょうか。
❶ 仏舎利ではなく、二人の「菩薩天子の舎利」を納めた仏塔ではないか。
❷ 尊崇すべき「二人の菩薩天子の舎利」であるから伽藍中枢に置いたのではないか。
この仮定が正しいとすれば、「二人の菩薩天子」とは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多弗利」ということになり、(藤原京の)本薬師寺は九州王朝の菩薩天子二人の菩提を弔う寺院ということになります。
これは、私の独創ではありません。肥沼孝治さんのブログ肥さんの夢ブログに次の記事があります。
本薬師寺は九州王朝の寺(服部さん)2021年7月 2日 (金)
脱線しますが、古式寺院(仏塔と金堂が大事な時代)の伽藍配置は、もともとは講堂がなくて、後世(「経典の講義」が大事になった時代)に講堂が増設された、と考えています。大勢の僧侶が金堂前庭で読経する時代(⑤)に、必然的に回廊外になったと考えています。
「出雲商業高校」グルーピー47
―第17回定期演奏会 第2部―[「出雲商業高校」グルーピー]
第17回定期演奏会の第1部はまだアップされていません。アップされ次第、ご紹介いたします。ポニーテールに付けたおそろいのシュシュが可愛いですね(個人の感想ですみません(笑))。
また、グルーピー46「未紹介動画コレクション」に拾い漏れ動画がありましたので。47で追補しています。
2022.12.22 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部「カルメン」「デューク・エリントン・メドレー」/第17回定期演奏会 第2部
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2022年12月22日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第17回定期演奏会 第2部
♪カルメン
♪デューク・エリントン・メドレー
【拾い漏れ動画】
出雲商業高校吹奏楽部 / 2000人の吹奏楽(Nov 5, 2022)
投稿者コメント
2022年11月5日 第30回記念 出雲ドーム 2000人の吹奏楽
♩CARMEN
♩GET IT ON ~黒い炎~
♩IT DON'T MEAN A THING
私の読解法
―筆者の立場で考える―[論理の赴くところ]
教諭が小学生に教えるように上から目線で「読解法」を説くつもりはありません。私はこのように心がけているという程度のことを述べます。
筆者の立場で考える
私の読解法は「筆者の立場で文章を考えてみる」方法です。「筆者の立場」とは次のようなものと考えます。
(1)読者に伝えたいことを文章にする。
(2)読者が〔(1)の伝えたいことを〕理解できる文章にする。
(3)書いた後で文章を推敲する((1)の伝えたいことがより伝わりやすい適切な言葉に練り直す)。
文章を推敲には次を検討する。
(3-a)言葉の不足はないか(伝えたいことが伝わりにくいようなら加筆する)。
(3-b)不要な言葉はないか(無くても伝えたいことが伝わるようなら、その言葉を取り除く)。
(3-c)不適切な言葉はないか(あればより適切な言葉に置き換える)。
(3-d)隠蔽や盗用等をする場合、それが露呈してしまう記述はないか(あれば文章を書き換える)。
すなわち、今読んでいる文章は、(1)(2)(3)を行った結果(完成品)であるとします(当たり前と思っていただければ幸いです)。ここで「完成品」と言ったのは、「伝えたいことが伝わる文章になっていると筆者が認定した文章」という意味です。
この立場は、ブログ記事 稲荷山古墳出土「金象嵌武器」について―二種類の金合金が使われている理由―2019年2月13日 (水) で挙げた「②製作者は、その持てる技術(レベルはどうであれ)を最大限に注いで製作した。」とする観点の立場と同一です。
具体的事例の提示
既に「東山道十五國都督」記事がなぜ景行紀にあるのか(その1)― 盗まれた「九州王朝の事績」―2017年4月18日(火)で論じましたが、史書『日本書紀』(景行天皇五十五年春二月戊子朔壬辰条〔注①〕)に不可解とされている記事があります。
…………………………………………………………………………………………………………………………
【訓読文】
五十五年の春二月の戊子(つちのえのね)の朔壬辰(みずのえのたつ)に、彦狹嶋王(ひこさしまのみこ)を以(も)て、東山道(やまのみち)の十五國(とをあまりいつつのくに)の都督(かみ)に拜(ま)けたまふ。是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。然(しかう)して春日(かすが)の穴咋邑(あなくひのむら)に到(いた)りて、病(やまひ)に臥(ふ)して薨(みまか)りぬ。是(こ)の時に、東國の百姓(おほみたから)、其(か)の王(みこ)の至(いた)らざることを悲(かなし)びて、竊(ひそか)に王の尸(かばね)を盗(ぬす)みて、上野國(かみつけのくに)に葬(はふ)りまつる。
…………………………………………………………………………………………………………………………
〖私の口語訳〗
(景行天皇の)五十五年の春二月の戊子朔の壬辰(五日)に彦狹嶋王を東山道十五國の都督に任命しました。これ(彦狹嶋王は)豐城命の孫です。ところが、(彦狹嶋王は赴任する途中の)春日の穴咋邑に到ったところで病床に伏して亡くなられました。この時に、東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないことを悲しんで、密かに王(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬りました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
東国の人々が彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った(「東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野國。」)という文章が「不可解」とされています。次のような点が「不可解(変なことをするなぁ)」なのでしょう。
❶何故屍を盗んだのか?
❷何故上野國に葬ったのか?
筆者は「読者に伝えたいことは伝わる」とした、と理解する私の読解法では「不可解」なことは何もありません。
筆者はこれで伝わるとした
記事内容を事実と仮定すると、書かれている事実は次の五つです。
①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
②これ(彦狹嶋王)は豐城命の孫である。
③(彦狹嶋王は)赴任途中に春日の穴咋邑で病没した。
④東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないのを悲しんだ。
⑤(東國の人々は)王(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬った。
筆者は以上のことを書いて、これで「伝えたいことは読者に伝わる」としたのです。
不可解とされている箇所
❶何故屍を盗んだのか?
❷何故上野國に葬ったのか?
これを「不可解(わけわからん)」と言うのは、筆者は①~⑤で「伝えたいことは(読者に)伝わる」としたと考えないからです。「字面だけ読むのは『読解』ではない」のは言うまでもありません。「読解」とは文字通り「(一読では理解できない文章を)読み解くこと」です。例えてみれば、本格派推理小説で、「これまでに(犯人を特定するのに)必要な情報はすべて提示してある。読者諸君は推理して(根拠を示し)犯人を特定してみたまえ。」と作家が挑戦状を出しているのと同じです。
屍を盗んだのは何故か?
まず、「❶何故屍を盗んだのか?」を読み解きましょう。盗むということは密かに(こっそりと)盗む(「竊盗」)わけです。密かに盗まないと(盗むところを見られれば)、屍は入手できませんし、盗人も捕まるでしょう。
東国への赴任途中で病没した彦狹嶋王は「東國」の人ではありません。(首尾よく盗めなかったら、彦狹嶋王の)屍は、王(彦狹嶋王)の故郷や生活拠点の地方に埋葬されるでしょう。だから、東國の人々は(屍を盗むことまでして)彦狹嶋王の墓所を上野國に造りたかった(⑤)と理解できます。また、(彦狹嶋王の)屍がない墓所では意味がなかったということも理解できます。すなわち、彦狹嶋王の墓所に東國の人々が墓参しても意味がなかったのです。つまり、東國の人々は、彦狹嶋王の跡取り(継承者)に上野國の墓所に墓参させたかった(だから屍が必要だった)、のです。
このように読解すれば、東國の人々は、彦狹嶋王の墓所を上野國に造り、跡取りに墓参させる目的で屍を盗んだと解明できます(不可解とされている箇所❶❷の謎は解けました)。
まだ謎は残っている
❶❷の謎は解けましたが、次のことを読み解かねばなりません。
❸(「東山道十五國の都督」)彦狹嶋王の赴任先は何処か?
❹(屍を盗んだ)東國の人々の居所は何処か?
くどいようですが「筆者はこれ(①~⑤)で伝わるとした」のです。「彦狹嶋王の赴任先は書かれていてないから不明」とするのは「読解」(読み解くこと)を放棄しています。
「(屍を盗んだ)東國の人々の居所も書かれていてないから不明」とするのも「読解」(読み解くこと)を放棄しています。
この二つの謎(❸❹)を「(読み解くために)必要な(示されている)情報」を再掲します。
①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
②これ(彦狹嶋王)は豐城命の孫である。
③(彦狹嶋王は)赴任途中に春日の穴咋邑で病没した。
④東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないのを悲しんだ。
⑤(東國の人々は)王(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬った。。
地域名・国名を含めると記述されている「場所(place)」は、次の4ヶ所(上記の下線部分)だけです。
(a) 東山道の十五國
(b) 春日の穴咋邑〔注②〕
(c) 東國
(d) 上野國
すなわち、筆者は「(a)(b)(c)(d)で赴任先は伝わる(この中にある)」とした、と私はみなします。また、筆者は「(a)(b)(c)(d)で東国の人々の居所は伝わる(この中にある)」とした、と私はみなします。
「東山道十五國」について
『日本書紀』には「(a)東山道の十五國」の国名は挙げられていません〔注③〕。私は「九州王朝の東山道十五国」〔注④〕を「豊前国、長門国、周防国、安芸国、吉備国、播磨国、摂津国〔改訂版では凡河内國(おおしかわちのくに)に訂正〕、山城国、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、武蔵国、下野国」と比定しました。また、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を東山道としています。
『延喜式』に挙げられている東山道(諸国)と私が比定した「九州王朝の東山道十五国」を重ね合わせると、景行天皇五十五年にある「東國」は「美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国」(以東は蝦夷の国)と考えられます。しかし、この「東國」の五ヶ国(美濃・飛騨・信濃・上野・下野)をまとめて「都督の赴任先」とすることはできません(管轄する地域が複数・広域であろうが赴任先というのは一ヶ所です)。
「(b)春日の穴咋邑」は赴任途中で没した地点なので、これも「赴任先」にはできません。
また、「(c)東國」は、「四至(東西南北)」で分けただけのもので、これも「赴任先」とはできません。
以上より(消去法によれば)、「彦狹嶋王の赴任先」は「(d)上野國」であると読み解けます。
また、同様にして「彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った東國の人々の居所」も「(d)上野國」であると読み解けます。
筆者は、これら(①③④⑤)の文章から「東山道都督彦狹嶋王の赴任先は上野國」であり「屍を盗んだ東國の人々の居所は上野國」であると読者は理解する(読者に伝わる)としたのです。
このように、読み解けば、「不可解」なことは何もありません。
「いや、都督の赴任先は(「上野國」だと)書いてない」「いや、東國の人々の居所が「上野國」だとは書いてない」「だから都督の赴任先も東國の人々の居所も不明だ」というのは「理解できないように読んでいる」と言われても仕方ないでしょう(理解したくないかに思えます)。
なお、「以上より(消去法によれば)」と書きましたが、別記事からも「彦狹嶋王の赴任先」と「東國の人々の居所」は「(d)上野國」であったと追って明らかになります。
墓所を上野國に造ったのは何故?
既に、東国(上野國)の人々が屍を盗んだ理由(わけ)は、❷上野國に彦狹嶋王の墓所を造る目的のためだったと読み解けました。では、この記事(①②③④⑤)から「彦狹嶋王の墓所を上野國に造ったのは何故?」が読み解けるでしょうか。
わかることが一つあります。「④東國の人々は彦狹嶋王が着任しないのを悲しんだ。」とあります。これは、「上野国に『東山道都督』が着任しない」ことが悲しかったと読み解けます。すなわち「上野國」の人々は、「上野國」に『東山道方面軍の最高指揮官』が着任しないことが悲しかったのです。つまり、彦狹嶋王は東山道十五國の都督となって(①)赴任することになっていたのですから、「彦狹嶋王に来て欲しかった」というよりも「『東山道都督』に来て欲しかった」のだと読み取れます。しかし残念なことに、この記事(①②③④⑤)を何回読んでも「上野國の人々が「東山道(方面)軍の最高指揮官」である『東山道都督』に来て欲しかった理由」が分かりません(軍事に関係することだとは推測できますが・・・)。
不足している情報
これまでの情報(①から⑤により読み解いたこと)だけでは「何故上野国の人々は『東山道都督』に来て欲しかったのか?」ということが伝わってきません。私の読解法「(3-a)言葉の不足はないか(伝えたいことが伝わりにくいようなら加筆する)。」に従えば、筆者は(それが読者に)伝わるように必ず加筆するはずです。その通りでした。五十五年春二月戊子朔壬辰条に続く五十六年の秋八月条の記事となっています。
つまり、五十五年春二月戊子朔壬辰条と五十六年の秋八月条は(年を跨いでいますが)、話としては一連のものです。
景行天皇五十六年秋八月条〔注⑤〕に次のようにあります。
…………………………………………………………………………………………………………………………
【訓読文】
五十六年の秋八月に、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「汝(いまし)が父(かぞ)彦狹嶋王、任(ことよ)さす所(ところ)に向(まか)ることを得(え)ずして早(はや)く薨(みまか)りぬ。故(かれ)、汝(いまし)専(たうめ)東國を領(おさ)めよ」とのたまふ。是(ここ)以て、御諸別王、天皇の命(おほみこと)を承(うけたまは)りて、且(まさ)に父(かぞ)の業(ついで)を成(な)さむとす。則(すなは)ち行(ゆ)きて治(をさ)めて、早(すみやか)に善(よ)き政(まつりごと)を得(え)つ。時に蝦夷(えみし)騒(さわ)き動(とよ)む。即(すなは)ち兵(いくさ)を挙(あ)げて撃(う)つ。時に蝦夷の首帥(ひとごのかみ)、足振邊(あしふりべ)・大羽振邊(おほはふりべ)・遠津闇男邊等(とほつくらをべら)、叩の頭みて來(まうけ)り。頓首(をが)みて罪(つみ)を受(うべな)ひて、盡(ふつく)に其(そ)の地(ところ)を獻(たてまつ)る。因りて、降(したが)ふ者(ひと)を免(ゆる)して、不服(まつろはざる)を誅(つみな)ふ。是(ここ)を以て、東(ひむがしのかた)、久(ひさ)しく事(こと)無(な)し。是(これ)に由(よ)りて、其(そ)の子孫(うみのこ)、今(いま)に東國(あずまのくに)に有(あ)り。
…………………………………………………………………………………………………………………………
〖私の口語訳〗
五十六年秋八月に、御諸別王に「汝の父彦狹嶋王は赴任地に向かうことができずに早世してしまった。だから、汝が東国を専領しなさい(専念して治めなさい)。」との詔がでました。このようなわけで、御諸別王は、天皇の命を承るとともに、父業(であった都督の任務)を成し遂げようとしました。それで、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷きました。まさにそんな時、蝦夷の騒乱(武力侵攻)がありました。(御諸別王は)すぐさま軍を差し向けて(蝦夷軍を)撃破してしまいました。その時、蝦夷(軍)の首帥の足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等は頭を叩いて(降伏に)やって来ました。頓首して罪を受けて其の地(蝦夷の領有する土地)を盡(ことごと)く獻じました。それで(「盡獻其地」)で降伏する者は(騒乱の罪を)免じ、降伏しない者は誅(殺)しました。これで、東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなりました。こういうわけで、その子孫(豐城命の子孫)〔注④〕が今東國を領有しているのです。
…………………………………………………………………………………………………………………………
上記の「五十六年八月条」に書かれているのは、次のことです。
⑥御諸別王に「(早世した父に代わって)汝が東國を専領しなさい」との詔がでた。
⑦御諸別王は、天皇の命を承け、父業(東山道都督)を成そうとした。
⑧御諸別王は、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷いた。
⑨まさにそんな時、蝦夷騒動(蝦夷の武力侵攻)があった。
⑩(御諸別王は)すぐさま軍を差し向けて(蝦夷軍を)撃破した。
⑪蝦夷(軍)の首帥たちが(降伏しに)やって来て、蝦夷の領有する土地を尽く献じた。
⑫それ(⑪)で、降伏する者は(罪を)免じ、降伏しない者は誅(殺)した。
⑬これ(⑩⑪⑫)で、東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなった。
⑭こういう(⑥~⑬)わけで、その子孫が今東國を領有している。
東山道都督に来て欲しかった理由
五十六年八月条から東國の人々が彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った理由が理解できます。
まず⑥⑦から、彦狹嶋王の子の御諸別王も「東山道都督」として東國(上野国)に赴任したことがわかります(「是以御諸別王承天皇命、且欲成父業。」)。
⑧⑨から、「東國」は「善政」を敷いても蝦夷騒動が起きるところだった(「則行治之、早得善政。時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。」)ことがわかります。
東國の人々が『東山道都督』(東山道方面軍司令官)である彦狹嶋王の着任を待ち望んでいた理由は、「東國は蝦夷騒動が起きる(物騒な)所だったから」と読み解けました。
「蝦夷騒動」とは何か
「騒動」とあるのは「蝦夷人の反抗・反乱」でしょうか。いいえ、「歴(れっき)とした蝦夷国軍〔注⑦〕によるもの」でした。
「蝦夷の首帥」とあり、「帥」は「軍隊の最高級指揮官」ですから「軍隊」が攻めてきたのです。その軍隊には「~振邊」とか「~男邊」とかの階級(大将とか中将とかのような)もあるようですから、しっかりと組織された軍隊でしょう。また、「尽く其地を献じた」とあり、領土を持っていたのですから、蝦夷人は「国」を形成していたでしょう。つまり「騒動」を起こしたのは「蝦夷国の正規軍(国軍)」だったということです。もし、その「騒動」を起こした蝦夷が「武装した夜盗などの集団」でしかなかったならば、他の武装集団が「騒動」を起こすこともあったでしょう。しかし、そうではなくて、蝦夷国(蝦夷が形成していた国家)が(東山道軍との)戦争に敗れて全面降伏したので、「東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなった」ということなのです。ちなみに「帥」は「軍隊の最高指揮官(元帥、統帥)」を表す言葉です。武装した夜盗などの首領に対しては用いられません(夜盗などには「首魁」などが使われます)。
東山道都督の赴任先は上野國
⑩から、御諸別王(東山道都督)の赴任先には、「騒動」の発生に即応対処して差し向け(「即挙兵」)られる軍隊(常備軍=東山道軍)が置かれていたことがわかります(「時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。」)。
「~道軍」というのは、「~道」と呼ばれる(官道ごとに設定された)方面軍管区を守る国軍(国家防衛軍)」です。普通、方面軍の拠点は敵国と戦況が把握しやすい前線近く(近すぎず遠すぎず)に置かれます。そこ(=東山道都督の指揮する常備軍の拠点のある場所)が彦狹嶋王が赴任途中で病没して着任できなかった赴任先であり、彦狹嶋王の子の御諸別王が父にかわってが赴任した先なのです。その赴任先が次(④⑤)によって、筆者が「伝えたいことは(読者に)伝わる」としたのです。
①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
④東國の人々は彦狹嶋王が着任しないのを悲しんだ。
⑤東國の人々は彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った。
⑥御諸別王に「(早世した父に代わって)汝が東国を専領しなさい」と詔がでた。
⑦御諸別王は、天皇の命を承け、父業(東山道都督)を成そうとした。
⑧御諸別王は、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷いた。
御諸別王にとって、「父の墓所」(在上野國)が蝦夷の領域になることは望まないしょう。東国の人々は、彦狹嶋王の墓所が上野國にあれば、子の御諸別王が必ず来るであろうと考えたのです(それほど「蝦夷騒動」が切実な問題だったと思われます)。
それが奏功したかどうかは不明ながら、子の御諸別王が都督として赴任する結果になった、と筆者は書いているのです。
そう読めば、謎は一つもありません。つまり、筆者の伝えたいことが伝わったのです。
容易に理解されることは書かない
「書かれていてないこと」は①「書かなくてもわかること」または②「書かない方が(隠蔽や盗用などに)都合がよいこと」のどちらかです(筆者の「書き洩らし」(ミス)が全くないとは断言できませんが・・・)。
「書いてないから不明だ」と即断するのは不毛です。
書かなくても理解されることは省かれます。
私の口語訳を見てください。省かれていることを随分補ってあります。『日本書紀』の記事の筆者は、書かなくても読者には理解できることは省いているのです。馬鹿馬鹿しい例をいくつか挙げましょう。
・『三國志』のどこにも「この史書は『短里』で書かれている」とは書かれていません(魏・晋朝の読者には周知の事実です)。
・国土地理院の地図のどこにも「mとは『1秒の299,792,458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離』である」とは書かれていません(地図を理解するのに、そんな事実は不要でしょう)。
・『日本書紀』のどこにも「上野國は東山道に属する」とは書かれていません(周知の事実なのでしょう)。
・特別必要な場合を除き「『九州の』太宰府」とは書きません(九州にあることは周知の事実です)。
「暗黙の了解事項」や「言わずとも理解できること」は省かれる、と言いたいのです。
「納得できる解釈」を目指す
私は、「分からないことは『分からない』と言う」のを否定しているのではありません。読み解けば分かることを「書いてないから分からない」と即断するのは「読解を放棄」していると言いたいのです。
本来、「読解(読み解く)」とは「どう理解すれば納得できる(解釈になる)のかを考えることである」と私は考えています。
もし、納得できない(解釈になっている)場合には、「いままでの見方・考え方・読解の仕方が間違っているのではないか」と疑うべきです。「理解できなくなるように読む」のは「読解」ではありません。「謎は読み解かねばならない」のです。
終わりに
肥沼孝治さんから、実に興味深い疑問が次のブログ記事で提示されています。
肥さんの夢ブログ:彦狭嶋王に東山道十五國都督を命じた人物は誰か?2019年10月15日(火)
私は、『日本書紀』がこの話を九州王朝から盗用したという仮説を持っています。どこにその痕跡があるかと言えば、次の事柄です。
「是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」(原文「是豐城命之孫也。」)
これ、この話に必要ですか?私は「不要」と見ます。なぜなら、この一文を削除しても話は立派に完結しているからです。
「是(ここ)を以て、東(ひむがしのかた)、久(ひさ)しく事(こと)無(な)し。是(これ)に由(よ)りて、其(そ)の子孫(うみのこ)、今(いま)に東國(あずまのくに)に有(あ)り。」(原文「是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。」)
この「是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」を省くと何が変わるかと言えば、「その子孫」(「其子孫」)が「豐城命の子孫」から「彦狹嶋王の子孫」に変わるだけです。御諸別王は彦狹嶋王の子なので実質は何も変わりません。では、何故筆者は不必要な「是豐城命之孫也。」を加えたのでしょうか?
私の読解に従えば、答えは簡単です。「豐城命(とよきのみこと)」を「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」(『古事記』では「豊木入日子命」)と同一人物に仕立てる(「背乗り」する)ためです。
「是豐城命之孫也。」が無ければ、第10代崇神天皇(御眞木入日子印恵命(記))の皇子「豊城入彦命(紀)・豊木入日子命(記)」の出番はないのです。
「是豐城命之孫也。」が無ければ、崇神天皇とは何の関係もない(すなわち大和国とは何の関係もない)話なのです。
誰が「豐城命=豊城入彦命」という人物の等式を証明したのでしょうか(反語:誰も証明してはいません)。
これも「不要なことを何故削除しなかったか?」によって「読み解けたことがら」になります。「人物の名称の(命を除いた)四文字(「豊城入彦」)中二文字(「豊城」)が一致すれば同一人物」、これが一元史観の捏造の一方法です。
(終)
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注① 景行天皇五十五年春二月戊子朔壬辰条 ‥‥‥岩波書店「日本古典文学大系67」『日本書紀 上』の原文(三一五頁)は次の通りです。
五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盗王尸、葬於上野國。
注② 春日の穴咋邑 ‥‥‥ 穴栗神社(穴吹神社)に関して「紀には地名は「春日穴咋邑」とある」とか「纏向から東国へ向かってすぐに薨じた」とかなど奈良県奈良市あたりを比定する見解が横行していますが、この「詔」が景行天皇から出たとは断じられませんし、大和国(奈良)から盗んだ屍を上野国まで運んだというのには無理があります。春日穴咋邑は「東山道」に沿った所(美濃国、飛騨国、信濃国のどこかで最も可能性が高いのは上野国に最も近い信濃国)であると思われます。
注③ 『日本書紀』には「(a)東山道の十五國」の15か国の国名は挙げられていません ‥‥‥ 語句「東山道」が登場するのは次の三ヶ所のみです。ただ、『日本書紀』によれば、崇峻天皇二年(五八九)七月条では、東山道は蝦夷国境まで至っていることになりますし、天武天皇十四年(六八五)七月条では、美濃国が東山道に属していることがわかります(しかしながら、「古来より東山道は美濃国以東であった」とは決められません)。
《景行天皇五五年(乙丑一二五)二月》
五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓悲其王不至、竊盗王尸葬於上野國。
《崇峻天皇二年(五八九)七月》
二年秋七月壬辰朔、遣近江臣満於東山道使、觀蝦夷國境。遣完人臣鴈於東海道使、觀東方濱海諸國境。遣阿倍臣於北陸道使、觀越等諸國境。
《天武天皇十四年(六八五)七月》
辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東・諸國有位人等、並免課役。
注④ 九州王朝の東山道十五国 ‥‥‥この仮説は古田史学会報139号「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証並びに古田史学の会編『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』(明石書店、2018/03/25、ISBN 9784750346496)に掲載されています。
この後に、十五国の一つ「摂津国」を「凡河内國(凡川内國)」(おおしかわちのくに)に改訂しています。改訂事情は次のブログ記事をご覧ください。
「東山道十五国」の比定【改訂版】― 西村論文「五畿七道の謎」の例証 ―2017年3月15日(水)
なお、「【改訂版】」とあるのは、肥沼孝治さん(古田史学の会々員、肥さんの夢ブログ)によって「摂津国・山城国のつながり方が狭い」というご指摘を頂き、調べたところ「摂津国・和泉国・河内国の三ヶ国は、九州王朝時代には凡川内國造(凡河内國造)が統治していた一つの領域「凡河内國(凡川内國)」(おおしかわちのくに)だった。」ことが判明しましたので、「摂津国」を「凡河内國(凡川内國)」に改訂いたしました。
その経緯は次の通りです。
sanamao:「九州王朝の北陸道」十二國2018年4月4日(水)
上記記事に古賀達也さまからコメントで下記のご指摘を頂きました。
「1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。
2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。」
次のブログ記事が当時の私の回答(根拠なき妄想)です。
sanamao:「九州王朝の北陸道」の不審―古賀達也さまからのご指摘―2018年4月7日(土)
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1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなった以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。
2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。
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要するに、「北陸道」という名称は、「九州王朝の『東山道』」の近畿以西の名称を「山陽道」とし、「九州王朝の『北海道』」の近畿以西の名称を「山陰道」として、「『山〇道』の陰・陽の対(つい)」に改称した時期か、あるいはそれ以降の(いつの時期かわかりませんが)どこかの時点で、「九州王朝の『北海道』」であった近畿以東の名称を「北陸道」と改称した、とする妄想です。
肥さん:九州王朝の「東山道十五國」比定・肥さん案2018年4月15日(日)
sanmao:仮説「九州王朝の北海道十四國」―“海峡国家”でなくなった時代―2018年4月13日(金)
肥さん:山田さんの仮説「九州王朝の北海道十四国國」について2018年4月14日(土)
sanmao:肥さんの「東山道十五國」2018年4月15日(日)
肥さん:山田さんの質問にお答えします2018年4月16日(月)
また、肥沼孝治さんから「関門海峡は潮の流れが急で危険」との指摘もいただきました。
sanmao:「関所」が設置される場所―論理の赴くところ(その16)―2018年4月17日(火)
この要旨は、関所は急峻な場所ほど適している。九州王朝の東山道の関所(に適した所)は関門海峡、東海道の関所(に適した所)は豊予海峡(禁止されていた豊予海峡(佐賀関のルート)を使わせてくれとの上申が許された。『続日本紀』)です。
肥さん:再び・山田さんの質問にお答えします2018年4月17日(火)
肥さん:昔「凡川内国」という国があった!?2018年4月20日(金)
なお、この仮説に阿部周一(James Mac)氏からブログ古田史学とMeで『常陸國風土記』との矛盾点を指摘頂いただいています。
阿部周一(James Mac)氏:「東山道十五国」とは 2018年03月31日(この記事に関連する「東遊」の起源起源についての詳細記事は倭国への仏教伝来について(七)2015年02月15日をご覧ください)
さらに古賀達也氏からも 古賀達也の洛中洛外日記 第第1709話2018/07/19で「『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。」と『常陸國風土記』と関係する問題点をご指摘いただいています。これらについては、「九州王朝の東山道十五国」の仮説を前提にしては、妄想程度のことしか思いつきません。この後の課題です。
sanmao:「東山道十五國の時代」考―『常陸風土記』の東海道―2018年8月2日(木)
注⑤ 景行天皇五十六年秋八月条 ‥‥‥ 原文(三一五頁)は次の通りです。
五十六年秋八月、詔御諸別王曰、汝父彦狹嶋王、不得向任所而早薨。故汝専領東國。是以、御諸別王、承天皇命、且欲成父業。則行治之、早得善政。時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。時蝦夷首帥足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等、叩頭而來之。頓首受罪、盡獻其地。因以、免降者、而誅不服。是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。
注⑥ その子孫(豐城命の子孫) ‥‥‥ 五十五年春二月戊子朔壬辰条と五十六年秋八月条は一連の話と考えられますから、私は「其子孫」とは「豐城命の子孫」を意味すると広く解釈しましたが、「御諸別王の子孫」を意味すると狭く解釈することも可能です。文面からはどちらが正しいと断じることはできませんでした。
注⑦ 歴(れっき)とした蝦夷国の軍隊 「歴(れっき)とした」とは「立派な、正真正銘の、正式な、由緒正しい」と言う意味です。すなわち、蝦夷国の正規軍(国軍)が「騒動」(軍事侵攻)を起こしたと読み解きました。その根拠は、❶「帥(軍隊の最高級指揮官)」が居て階級らしきものがあること。❷領土(「其地」)を持っていたこと、❸降伏後に騒動が全く無くなったこと(国家の降伏だったから)、です。
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北京・商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000年2月25日、日本版改訂版第1刷)P.459より〔下線は山田による〕
帥shuai4 ❶軍隊中最高級的指揮官:元~.統~.❷英俊,瀟洒,漂亮:[辶文]个小伙儿很~.他的動作~級了.字写得~.
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〔个=ヶ(個)、伙=夥、儿=児〕
※「英俊」=ハンサム。「瀟洒」=威勢がいい(日本語とは意味が異なる)。「漂亮」=美しい、見た目がいい(「好看」=good looking )。 「[辶文]个」=この。小伙儿」=男の子。「很帥」=とても威勢がよく見た目がよいハンサム。
科野「神科条里」②
―「条里」と「九州王朝・国府寺」編―[コラム]
一昨日(2022/12/13(火))に吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので掲載いたします。
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科野「神科条里」②
「条里」と「九州王朝・国府寺」編
上田市 吉村八洲男
1.初めに
前論〔注①〕で江戸期「検地帳」に残る「番匠」地名から「科野・神科条里」が九州王朝によって作られたと推断した。私論への認・否判断は改めて読者諸賢にお任せするが、その推定からは歴史への再検討も予想される。それもあり「神科条里」についての推定を「考古」からの視点も加えながら追論・再考してみたい。
2.阿部周一氏の「番匠」論
「阿部周一」氏が「古田史学会報No.143」(「古記と番匠と難波宮」)で重要な推論を展開されていた。私にとってこれが「頂門の一針」となった。
阿部氏の論考は資料・文献の綿密な読解に裏打ちされたものが多く、学ぶことが多いのだがその立場から、『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された、それが「続日本紀」からも窺える』と読解・断定されたのである。
阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から、最古の注釈書と言われる「古記」に注目され論考を進められた。「古記」は「養老律令」以前に作られた「大宝律令」の唯一の「注釈書」と言われていたが、「大宝律令」以前の事例にも数多く言及した「研究書」と言うべきものだと推論され、その実例をいくつか挙げられたのである。簡単には「古記」・その「注釈」を読み過ごせない、と断言されたのだ。
そして、『「令集解」の「古記・注釈」中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。『三嶋神社縁起』で発見された「番匠」語の詳細を、「令集解」への「古記」解釈から読み解き、説明されたのだ。驚天動地だが、反論のしようがない指摘・その論理であった。
阿部氏は、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当すると発見されたのだ。さらに厳密な「令集解」解読から、この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代」からだと論定されたのである。
阿部氏の綿密な論考は「番匠」制度の運用にも及んだ。その時(「前期難波宮」造営時)、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」と「匠」の徴発国が変化しているとも読解されたのである。各地から交互に「匠」の徴発を行うこの制度は、「交番制」を意味する。そこから、「番匠」制度がすでに造られ諸国から「匠」集団を徴集していた、と推定したのである(この「遠・近・西方の民」の設定から、この制度の創立者が「九州王朝」だとも判断された)。
細部にまで及んだこれらの論考は、正木氏の先見的な数々の推論を裏付けるものだった。阿部氏は、正木氏の論考の正しさを追証し、支持されたのである。
私も両者の立論には納得させられた。正木氏により「孝徳期に番匠制度が始まった(「三島神社縁起」)」と発見され、阿部氏により「番匠」の痕跡が確認され・運用も推定されたのである(しかも「令集解」に、「番匠」語の痕跡がはっきり残っていたのだ!)。反論のしようがない驚きの「正木・阿部論考」と思えた。
そして、「科野」に残る「検地帳」・「番匠」地名には、両氏の推定を更に裏付ける「論理」と「考古」が残っていると私には思えた。
3.もう一つの「番匠」の論理
阿部周一氏論考にある「番匠」の運用法(「徴集」部分)を紹介しよう。
論考にはこうある。『「九州」地方からの「近国」としての徴発が最初にあり、その後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となったと思われる』
「番匠」制度を説明した重要な部分と思える。ここから「匠」徴集の際、ランダムに(思いつくままに)「国」を決めていない、と読み取れる。その移動の難易度や「匠」の技能特徴などを考慮、派遣の決定に際して「国々をブロックとした」と予想されるのである。計画的に「匠」を徴集していたと解るのだ。
そう考えたとき、「神科条里」想定地の「検地帳・類」に記載されるもう一つの特徴的な「地名」事実に思い至る。
それが、「国名」を示す「地名」の存在である。それが「神科条里」と隣接する村にだけ残っているのである。
「笹井村検地帳」には、「はりま(播磨)町・いずみ(和泉)町・するが(駿河)田」とあり、「染谷村検地帳」には「えちご(越後)田」、「新谷村」には「さぬき(讃岐)田」、「伊勢山村検地帳」には「やまと(大和)町」、と記載されているのだ。「いせ(伊勢)」名も多く残されていた(合計すると7か国名。さらに「我妻」「びぜん」「たじま」名も離れた他の村から確認された)。
私には、これらが「国名」であることに間違いないと思えた。そして驚くべきことにも気づいたのだ。
これらの「国々」は「ブロックを形成している」と思えたのだ。ランダムな選択による地名・国名の列記とは思えなかったのだ。「播磨・和泉・駿河・越後・讃岐・大和・伊勢」、私にはこの国名は「近畿・中部」地区に属する「国名」と判断されたのだ。そしてそれは阿部氏論考にある『遠国(国名)』がピッタリ該当すると思えた。
「科野・神科条里」で「番匠」と呼ばれた「土地造成の匠」とは、「令集解」にある『「遠国(近畿・中部地方)」から徴集された匠たち』であったかと推測できるのだ。「神科条里・その周辺」に残る「国地名」は、阿部氏推論の実証例・具体例と思えたのだ。
新発見「資料」から「番匠」制度の存在が確定された現在、これらの国名が残る「神科条里地名」は、第二の「番匠の論理」を示していると私には思えた。
4.真田の「番匠」地名
先日、真田町・清水潤氏から真田町「番匠」について貴重なご教示を受けた。私の論考中、「同一と思えるが不明」とした『まんちう村』地名表記(資料・「不明 7」〔注②〕)に関することであった。
この地名は、清水家伝来の古文書『真田氏給人知行地検地帳(天正6~7年頃か)』に残っていた(同文書は、地域の重要古文書として「信濃資料」にも取り上げられ、更に郷土史家で地名研究家でもある「小池雅夫」氏によって詳細に研究されている)。
清水氏は、「まんちう」とは一地名ではなく、『真田検地帳』に耕作者が複数名書かれている事から、一地名(地点名)ではなく連続する地名ではないかと指摘されたのである。真田の「まんちう(番匠)」とは地域名でもあろうか、と指摘されたのだ。
確かに「真田町」には、現在でも「番匠」が「字」名として残り、伝承も「番匠神社」の存在を伝えている。それもあり「不明」としながらも、「まんちう」とは「番匠」であろうと私は確信していたのだが、それ以上の推測が可能だというありがたい指摘であった。私は「真田検地帳」を詳細に確認する事とした。
『真田給人知行地検地帳』の該当部分を表示する。(🔴印は吉村による)
「8か所」に「まんちう(中)」名があり連続していた。さらに土地所有者「松尾豊前守」の配下と思える複数の耕作者名(7名)も連続して書かれていた。
指摘された通りであった。真田「まんちう(番匠)」とは、一地点名ではなく「地域」を表す広域地名だったのである。「真田検地帳」からそう断言されるのだ。
小冊子作成の際、これらの「まんちう」名を一つの地名として扱ってしまったと思えた。
上図は、現在の「真田町・字(あざ)」図の一部である。「番匠」地名が確認される(朱線部)。
古代の「番匠」語がそのまま「地域」名となっていると思えた。「まんちう」と書かれている「真田
検地帳」の存在が、両者を繋げていると思えた。
現地名にも、「番匠」語が残っていたのである!(しかも重なっているのだ!)
「番匠神社」が存在したという伝承も真実味を帯びてくる。「真田町史」では、『「番匠」地名の命名された理由は全く不明である』とするが、その説明のままではすまないだろう。推論(結論)はすでに出たと思えるからだ。
実は「検地帳」の「神科条里」地名にも、「番匠」語が「町」名と結びついて残っている(資料 25・26・27)。「神科」以外にもある(38)。だから「真田の番匠」地名と考え併せ、こう判断してもよいだろう。『「番匠」地名には、広域地を示す地名もあった!』
「番匠」語が「町」・「村」・「字(あざ)」名として残っている事から、派遣された「番匠」(と呼ばれた匠)は、想像より「多人数」で、永くそこで生活していたとも推察される(「検地帳」に「バンショウ」地名が多く残された理由の一つなのかも知れない)。つまり『「多数の匠」が長期間「科野」での仕事に携わった』のである。
そう考えた時、上田地区でこれに該当する事業は一つしかないと思える。それが、「神川」を中心とした「治水(灌漑)・土地改良事業」である。「神川」左部に「吉田堰」や水田を造り、右部では堰(堀越堰など)や「神科条里」を造った事業だ。
水を確保し豊かな土地を造る、それは進出地支配を完全なものとする一連の事業と思えた。
「神科条里」は、九州王朝が作ったと改めて断言できるのである。
「神科条里・周辺」を図とする。論考と併せてご覧いただければ幸いです。
5.上田の「国分寺二寺(僧寺・尼寺)」
さて、「科野・上田市」には「国分寺」が至近距離に二つある。定説では、発掘された「寺」遺構の大きなものを「国分寺・僧寺(跡)」、小さな方を「国分寺・尼寺(跡)」と判断、歴史書にもそう紹介されている。
昭和38年から数回にわたり発掘が行われた。「発掘50年史(信濃国分寺資料館)」も刊行されている。発掘された状況を現在地図と重ね合わせてみる(上記書中にもある)。「国分寺僧寺」と、「国分寺・尼寺」の関係が良くわかる。
奈良時代の信濃国分寺僧寺尼寺伽藍配置図〔注③〕
この両寺は、「聖武天皇」による「国分寺設立の詔」に始まった「二寺(僧寺・尼寺)建立」の具体例だとされた。細かな疑問点が生まれていたが深い追及はなされず、むしろ二寺の存在は、天皇の威光が地方に及んだ好例と思われて来た。
文献はほとんどなく、主として「考古学」からこの「国分寺」問題が取り組まれて来た。それらの努力の結果、「僧寺」の「聖武期」建立が証明される(「瓦」の判定が決め手となった)。
自動的に左脇の小伽藍は、「尼寺」と判断される。それへの議論・検討の余地は全くなかった。「日本書紀・聖武天皇の詔」が、絶対的判断基準だったからである。一つが「僧寺」なら、もう一つは後に創建された「尼寺」に決まっているのである(?)。
ところで改めて、「伽藍配置」・「二寺遺構図」を見てほしい。「アレッ?」「なんかオカシイなあ!」子供でもそれには気付くだろう。
どう見ても「二寺は同方向を向いていない」のである。「伽藍配置の中心(軸)線」が、「二寺」では明瞭に異なっているのだ。皆様もぜひご確認ください。
見過ごしてしまうが、これは重要な事である。「伽藍中心線の違い」は、作成者の思想の違いを示すと思えるからである。近距離にある建物方向線の違いは、「前・建造主体(前王朝)」を否定する例が多いとも最近の「考古学」は指摘しているのだ。
確かにおかしい、「僧寺」のあと「尼寺」が築造されたと言う定説通りなら、後の「尼寺」の「伽藍中心線」は「僧寺」の中心線と「平行」な筈であろう。同じ体制下に作られた二寺で、しかも隣り合わせの二寺である。隣接する「尼寺」をわざわざ「方向(中心線の)」を変えて作る理由など全くないのだ。
しかし、確実に両寺の中心線は異なっている。だから疑問がわいて当然と思える。ひょっとしたら「尼寺」が先に創建されたのではないか。つまり、九州王朝により作られた「○○寺」が先で、それが後に「尼寺」と呼ばれたのではないだろうか。
そう疑った時、問題とする「尼寺中心線」への数多い論考に気づく。
「神科条里」を発見された白井恒文氏は、その著書中で再三にわたり『尼寺の伽藍中心線は、条里線と一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」)と主張されていた。
各種資料を根拠としたこの推定を「信濃国分寺発掘団長・斎藤忠氏」も間違いないとしたようだし、最近でも「山田春廣氏」が航空図・僧寺参道などから同様な推定をされている(ブログ・「sanmaoの暦歴徒然草」H18・2・27)。それらが認められ平成元年発行の「長野県史」にもこの推論が記載されている(「現在版」にはないが)。
発見者も、一流歴史家も、在野の研究家も、定説も、異口同音に「尼寺中心線は条里線と重なる」と主張し、それが認められているのだ。
これは「尼寺」が条里に組み込まれていた、つまり条里と共に創建されたことを意味している。白井氏も、尼寺発掘現場から見えない崖の上の条里線が「尼寺中心線」となぜ一致するのかを不思議がっていた(残念ながら氏には、「○○寺」が先に創建されたなどとは思いもつかない事だったのだ)。
永らく「考古学」は、こう断定してきた。『条里線と尼寺伽藍中心線は一致すると思えるが、国分寺創建問題はそれとは無関係である』、と。
今回の「番匠」地名が示した『神科条里は九州王朝によって作られた』結論は、この定説を疑問視、いや否定する。
『条里は九州王朝により作られた』のだから、当然『「尼寺」もその時に作られた』のである。つまり、条里線上にあった「尼寺」とは、九州王朝により作られた「○○寺(国府寺)」だったのだ!
まさに驚天動地の結論となる。だが論理は、そう言うのだ。
そしてこう考えると「伽藍中心線の違い」が、不思議ではなくなる。「九州王朝が作った寺(〇〇寺)」を否定すべく、次の時代に建立された寺が、聖武天皇(大和王朝)の「国分寺・僧寺」となるからである。そう考えた時「中心線の違い」は当然の事となる。前王朝創建寺を否定する為に中心線が変わったと思えるからだ。
「尼寺」と言われた「○○寺」こそ、九州王朝により建立された寺だったのだ。その寺がリメイクされ「聖武の詔体制」に組み込まれ、「尼寺」と呼ばれるようになったと思える。九州王朝が創建した「○○寺」が「尼寺」となり、今に残るのだ。
そしてこれは今迄の「多元」研究者の数々の推定を裏付ける。
研究者たちは既に「九州王朝・多利思北孤」による「六十六分国」・「国府寺の設置」を推定していたのである。
古賀達也氏は一連の「九州年号」研究・「多利思北孤・聖徳太子」研究などから、『二つある「国分寺」〔注④〕』を指摘し、『告貴元年(594)の「国分(府)寺」設立』を先駆的に推論されていたが、その推論が正しいと思えるのだ。現実に「科野」に「九州王朝の寺」が遺存しているからである(正木氏も、「九州年号「端正」と多利思北孤の事績」・「盗まれた分国と能楽の祖」などで同様な推論をされている)。
両氏の推論の正しさが、上田に残る「番匠」地名と考古(「信濃国分寺」二寺中心軸線の違い)で証明されたと私には思えた。
『九州王朝は、上田周辺を「科野の国」とし(分国し)、そこに「国分(府)寺」を建立した』と結論してよいと思えた。資料にしか残存しない「九州王朝・国分(府)寺」が、上田には「考古遺構」として実存しているのである!
そして「○○寺(尼寺)」・「信濃国分寺(僧寺)」には未解決とされる数多くの考古問題がある。新規に生まれた「多元からの解釈」がそれを解決すると思える。
「○○寺」建物・建物間に使われた単位は?「建物」・「塔」への解釈は?伽藍配置に見える「二王朝」の仏教観は?「蕨手文瓦」の位置づけは?「国分寺」地籍遺構に見られる「多元仏教観」は?・・・等々が改めて見直されるべきだろう(「蕨手文瓦」については些か論考した)。「聖武詔」・「古代道」への新推定も生まれるだろう。
論考してきた「条里」と「国府寺」との関係だが、これは「科野」だけの問題ではないと思える。
「国分寺」と「条里遺構」とが異なる方向線を示している例が各地でみられ、「国分寺・二寺」の中心線が異なる例も報告されている。
「科野」がそうだったように、「体制」の違いがそれらを生んだとは推論できないだろうか?「多元」論考だけがそれを解決すると私は思う。
6.最後に
今回の論考で、もう一つの問題にはあえて言及しなかった。
科野・「○○寺」の「7世紀創建」は確定するが、それが「7世紀初頭か、中期か」がより重要な問題となってくる。この地の6,7世紀の歴史進展が日本史上のある難問と関わってくると思えるからである。
私は「7世紀初頭」には「科野国府寺」が創建されたと思っている。そうでなくては、科野(上田周辺)に残る「6世紀・磐井の乱」と関連する(と思える)数多くの「考古資料」が説明できないからである。
飛躍した推論だが、「科野の国(上田周辺)」は、「磐井の乱」の重要な舞台だったと私は思っている。全国でも上田にしか発見されない「蕨手文様を持つ軒丸瓦・石祠」と「高良社」の集中、さらに他の多くの考古資料も6世紀・「磐井の乱」との関連を想定しなくては説明できないからだ(特に「蕨手文様・瓦」への推定から)。
前勢力(「磐井の乱」を起こした勢力)を否定する為に、「科野」の「分国」・「国府寺」創建を急いだと私は思っている。だから、「○○寺」の創建は「7世紀始め」か、と推論しているのだが・・・
(終)
*「国分寺」「蕨手文瓦」への論考は、ブログ「sanmao の暦歴徒然草」に寄稿した私論考をご覧くだされば幸いです。「蕨手文・瓦」からの「国府(分)寺」推論となっています。*
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注① 前論 ‥‥‥ 科野・「神科条里」① 「条里」と「番匠」編を指しています。
注② 資料・「不明 7」 ‥‥‥ 資料とは、科野・「神科条里」① 「条里」と「番匠」編にある次の表(再掲)で、「不明 7」とは同表中の項目「同一と思える語」にある「7.まんちう村 真田氏給人知行地検地帳」(朱字部分)のことです。
1.ばんば 櫻井村御縄打帳 2.番匠田 井子村御縄打帳
3.ばんじょう田 祢津村検地水帳 4.ばんじょう畠 祢津村姫小沢検地帳
5.ばんじょう田 姫小沢村六段水帳 6.ばんば田 木村所左エ門御改之帳東上田ノ内
7.ばんば 田畑惣貫之御帳上深井村 8.番匠畑 本貫文改帳加沢村検地水帳
9.はんしやう田 田畑貫高帳田中町 10.ばん志やう田 夏目村御検地水帳
11.はん志やう免 田畑貫高帳神川村 12.ばんじやう 田畑貫高帳国分寺村
13.ばんば田 田畑貫高御改帳小井田村 14.番場之畑 田畑貫高御改帳森村
15.ばんば田 田畑貫高御改帳森村 16.ばんば田 田畑貫高御改帳林之郷
17.はんじょう田 田畑貫高御改帳下郷村 18.ばんじょう田 田畑貫高御改帳矢沢村
19.番免 田畑貫高御改帳岩清水村 20.はんじょう村 田畑貫高御改帳 洗馬組下原村
21. 番川原 本貫文水入帳傍陽村横道 22.ばん志やう田 軽井沢村貫寄御帳
23.ばんば 軽井沢村貫寄御帳 24.ばんじょう町 田畑貫高帳伊勢山村
25.番匠町 田畑貫高帳長島村 26.万匠町 貫高改帳染谷村
27.ばんの田 藤原田村縄打帳 28.ばんば 御縄打帳依田村御岳堂
29.ばんば 古開・新開御縄打帳 30.ばんば 飯沼村検地帳
31. はんちやう田 長窪古町水帳 32. ばんじょう免 長窪古町水帳
33. ばん志やう田 長窪新町御検地水帳 34.番匠はた 東松本帳
35.番匠免 田畑貫高御帳小嶋村 36.番免 前山之郷御毛付帳
37.番匠村畠 前山之郷御毛付帳 38.ばんでう村 田畑貫高御帳東前山村
39. 番匠めん 野倉惣帳 40. ばんちやう田 田畑貫高御帳別所村
41.番匠田 小泉村(推定・寛永末) 42. ばんば 小泉村(推定・寛永末)
43.坂上はた 田畑貫高御帳上室賀村 44.はん上坂はた 田畑貫高御帳上室賀村
45.はんしやう免 貫高帳奈良本村 46.番匠田 名寄帳 諏訪方村
47.番匠田 田畑ならし帳中之条村 48.ばん丁田 田畑貫高御帳吉田村
49. 番匠田 毛附御検見御引方勘定帳仁古田村 50.ばんじょう田 田畑貫高御帳村松郷
同一と思える語
1.半入道 貫高帳 金剛寺村 2.はんハ田 田畑貫高帳野竹村
3.下まん上 名寄帳 ふ三入村 4.中まんちょう 田畑貫高御帳御所村
5.下まんちょう 田畑貫高御帳 御所村 6.中まんぢやう 名寄帳 諏訪形村
7.まんちう村 真田氏給人知行地検地帳
注③ 奈良時代の信濃国分寺僧寺尼寺伽藍配置図 ‥‥‥ この伽藍配置図は発掘調査での正確な寸法に基づいていません。「イメージ図」程度のものです。妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―の「第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図」が発掘調査に基づく正確な伽藍配置図です。
なお、管見では、「信濃国分僧寺」は「聖武国分寺」として建立された寺ではなく、「〇〇寺」の後に建てられた「🔲🔲寺(五重塔があった)」に「七重塔」を建てて「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」としたものだ、とみています。「信濃国分寺」には異なる方位が3つあるのです(❶「〇〇寺」の中軸線、❷「僧寺」の中軸線、❸正方位の推定19m×19mの建物跡と判断される版築土層)。この❸が「聖武・七重塔」であると見ています。そう考えると「〇〇寺」はかなり早い時期に建立された(すなわち、条里もかなり早い時期に造営された)ことになります。
注④ 二つある「国分寺」 ‥‥‥ 「大和国分寺」です。一つは「総国分寺」である「東大寺」、もう一つは橿原市の「国分寺」です。
科野・「神科条里」①
―「条里」と「番匠」編―[コラム]
昨日(2022/12/13(火))、吉村八洲男さまよりご寄稿いただきましたので、掲載いたします。
なお、本文中における、下線及び〔番号〕による付注・文字の彩色化・強調・リンクの貼り付け・ルビの8ポイント化などは山田の独断で行っています。
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科野・「神科条里」①
「条里」と「番匠」編
上田市 吉村八洲男
1.初めに
今回、「上田盆地」の「(旧)村・集落」への「江戸期検地帳・類」に記録された地名から、60近い「番匠・番」語を発見した。「神科条里」を中心に、地域一帯(盆地内)に残され(使用され)ていた。江戸期に、多数の「番匠」語が、「一村一地名」的に残り、すべてが「土地・農地」を意味して使われていたのである。古文書がそれを証明していた。そしてそこから、ある結論が導かれる。『「神科条里」は九州王朝により作成された』、と。
「神科条里」は60年前(古田先生が「多元史観」を主張され始める9年前!)に発見された遺構だが、「神科条里」研究(発見者の白井恒文氏が先駆的研究〔注①〕をなされた)からは多くの不審が生まれていた。築造時代も不明だった。建物・土器などの考古資料は7世紀と推定したが、当時の歴史判断から8世紀作成とされ、最終的には「条里的(!)遺構」という結論が与えられてしまう正体不明な「条里遺構」であった。
私が個人的に発見した「製鉄遺構」・「蕨手文瓦・軒先瓦」〔注②〕からは、九州の文化が「条里」以前から「科野の国」へ到来していたと推論されていた。「神科条里」も7世紀「九州王朝」によって作られたのではないだろうか?彼らは弥生期から「科野」に来ていたのではないだろうか?私はそれを疑い、やがて間違いないとも推論した。
今回決定的と思える「資料」(文献)を確認した。膨大な江戸期「検地帳・類」資料から当時の地名をとりだした郷土史家作成の小冊子に、問題とする「番匠」語が残されていたのである。しかも60(!)近い使用例が確認されたのだ。それらは特異な分布を持ち、特定の職種(土地造成者・土工匠)を意味する言葉として残されていたのである。あり得ない事が、記録されていたのだ。そこからは、『「神科条里」は「九州王朝」により7世紀に作られた!』結論しか出てこないと思えた。
その経緯(いきさつ)を紹介したい。「条里」認定の結果から生まれる「科野の国」への新解釈・「東国古代史」への新見解に、改めてのご理解を頂けたらと心から思います。
2.「番匠」語への理解
まず問題とする「番匠」語である。余り接することのない「語」で、「辞書」にもこの語への正しい説明はなされていないようだ(『「京」に集められた匠・「大工」のこと』などと説明されている)。公的な「資料」にはこの語の用例・根拠が見えず、確認できないまま「令集解」からの解釈を拡大・援用し、これらの説明をしていると思えた。
この「番匠」語の最古の資料を発見、この語を含めた一連の研究から画期的な推論を導かれたのが正木裕氏である。それらは、「常色の宗教改革」(古田史学会報・85号)や「前期難波宮の造営準備について」(古田史学会報124号・古代に真実を求めて21号)などに述べられている(現時点での九州王朝研究の根幹を形成する推論と思える)。
まことに僭越ではあるが、そこにある「番匠」語に関する推論部分を、ここで紹介させて頂く(あくまで吉村の読解です。詳細は皆様でご確認ください)。
愛媛県越智郡大三島町大山祇神社〔注③〕諸伝の『伊予三嶋縁起』に記された記事(「修験道資料集Ⅱ」中に記載・昭和59年発行)発見が、重要な推論をもたらしたのである。
『縁起』には、こう書かれていた。「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二戊申。日本国御巡礼給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智性給之。・・・(以下略)」。
正木氏は、この「縁起」記事から、『「番匠」とは九州王朝が諸国から「匠」を徴集する制度』で、この「番匠」制により「(前期)難波宮・造都」がなされたと読み解いたのである。その都で「評制」「神社令・律令」が施行され、倭国は「中央集権的国家」へ変貌していくとされたのだ。不明とされがちであった「多利思北孤」の時代から「白村江の戦い」に至る九州王朝の事績・変遷を推定する画期的な論考であり、複都であった「前期難波宮」をも確定する重要論考であった。
正木氏は同時に「前期難波宮」造営の過程は、時代が過ぎた(34年後)「日本書紀・天武紀」に詳細に描かれるとも推定された。「日本書紀」に「番匠」表記はなく「工匠」として表記されるが、その業務内容から両者は同一のものとみなしてよい、とされたのである。「番匠」語は、王朝交代後の「日本書紀」からは消されたと私には思えた。
正木氏の一連の研究から、存在すら疑われた「前期難波宮」への推論が確定し、九州王朝研究は一気に進展するのだ。
「縁起」記事からは、「番匠」は九州王朝が始めた制度と理解されるから、王朝交代後の「大宝令」「養老令」「令集解」などの公式資料に、この「番匠」語・表記が使われない理由も解ってくる(「番役」・「分番」などの表現はあるが)。九州王朝が創設した制度だから、と思えた。九州王朝を示す「番匠」表記は消され、代わりに「工匠」・他の表記(語)となったと思えた。
「番」とは、「かわるがわる」の意味である(諸橋徹次「大漢和辞典」)、だから創設された時、「番匠」語(制度)は、その当時の社会状況を適切に表現した言葉であったろう。支配下の各国から「匠(たくみ)」を「かわるがわる」徴集し、特定の国に過度の負担をかけることなく目的の事業を遂行する制度と思えたのだ。
「番匠」制度を造り、諸国に「番匠」派遣を命じたある王朝はすでに全国を支配していたのである。「番匠」語とは、九州王朝の存在を証明する貴重な語だったのだ。
王朝交代後、公式記録からは「番匠」語が消されたようだ。公的資料には残っていない(消しきれず、地名やその他資料にわずかに残る)。だから我々が眼にしなくても当然なのである。「資料」に残り、それが確認されるだけでも貴重な「言葉」と思えた。
それなのに、なぜ「科野・上田盆地」に60近い「番匠」地名が残るのだ?
3. 上田盆地・検地帳に残る「番匠」
「神科条里」が発見され、条里の作成された時代を決定しようと各分野からの研究(神科史・古代水利灌漑・古代農業、等々から)が進むのだが、「地名」研究からは特に大きな進展・推論が生まれた。
「神科条里」には不審な地名が数多く残されていたからである(現存する地名、また「検地帳」などに記載された地名から)。
「大夫町」「天竺」「番匠町」「西の手」「東の手」「甲之町」「馬尻」「乞食婆々」「笠縫町」等々である。しかもこれらの地名が「神科条里推定地」に集中していたのである。
ここから「地名」追及の必要性が郷土史家に再認識され、この小冊子が誕生する。
地域に残った「検地帳」関係の膨大な古文書から、「地名」だけを抽出したのである(実はこれには先例がある。川上貞雄「神科村における地名の変遷」で、昭和28年ガリ版刷りで作成されたものだ。合併し生まれた「神科村」の地名変化を「検地帳」から追ったものだった)。
小冊子の正式名称は『検地帳・類より収録した 上田・小県(ちいさがた)地方の地名』で、現・行政区名では「上田市」「東御市」「小県郡」地域が対象だった。作成者は、「上田・小県誌刊行委員会歴史部」とある。小池雅夫氏と中村貴福氏を中心に作成したとも書かれている。「昭和38年」に基本部分が作成されたが、後に「追加」もあったようだ(追加でも「小池雅夫」氏が挨拶されている)。「市誌」「郡誌」編纂を担う郷土史家・研究者たちに、歴史における地名研究の重要性を認識してもらおうと作成されたようだ(ラッキーにも私は、追加分を含めた特別装丁の小冊子を見ることが出来たのだ!この小冊子の残存さえ危ぶまれるのに)。
該当地域には、165の村・町があった(江戸末期「天保郷帳」・明治初期「絵図」「番付帖」「差出帳」から)ようだが、そのほとんどの「村内地名」がこの小冊子に記録されている。典拠とした書類も200(項目で単純な枚数ではない!)に及ぶ。
巻頭には(「はじめに」)、この小冊子の編集方針が書かれている。
『(前略)・・・本稿は主として、現在上田小県地方の各町村に最も数多く残存している寛永・承応・寛文年間等江戸初期の検地帳類を中心に、また同期の帳が現存されない町村については時代の降っての検地帳類の小名を収録した。・・・』
原文の典拠は、「○○家文書」、「○○地区保存文書」などとしてまとめられる多量の古文書からのものと思われた。その中の「検地」に関する古文書が対象となったのだろう。それらから「広さ」「石高・等級」「所有者(耕作者)」などの「検地関連事項」を外し、「地名」だけに絞り込んでこの冊子が作られたようだ。『野帳〔注④〕として利用してほしい』とも書かれているように「利便性」も考えての「小冊子」形式と思えるが、同時に「歴史部会員」の研究に対応できる正確さ(資料性)もあったようだ。拝読してその内容の高さが窺え、郷土の先学者の御努力には改めて多大な敬意と感謝を感じたものである。
そこに記載されていた「バンショウ・バン(また、同一と思える語)」地名を列記する(資料〔注⑤〕)。「検地帳」表記のままの地名で、そこに出典(古文書)名を添えてある(番号は、読みやすいよう吉村が付けたものである)。
1.ばんば 櫻井村御縄打帳 2.番匠田 井子村御縄打帳
3.ばんじょう田 祢津村検地水帳 4.ばんじょう畠 祢津村姫小沢検地帳
5.ばんじょう田 姫小沢村六段水帳 6.ばんば田 木村所左エ門御改之帳東上田ノ内
7.ばんば 田畑惣貫之御帳上深井村 8.番匠畑 本貫文改帳加沢村検地水帳
9.はんしやう田 田畑貫高帳田中町 10.ばん志やう田 夏目村御検地水帳
11.はん志やう免 田畑貫高帳神川村 12.ばんじやう 田畑貫高帳国分寺村
13.ばんば田 田畑貫高御改帳小井田村 14.番場之畑 田畑貫高御改帳森村
15.ばんば田 田畑貫高御改帳森村 16.ばんば田 田畑貫高御改帳林之郷
17.はんじょう田 田畑貫高御改帳下郷村 18.ばんじょう田 田畑貫高御改帳矢沢村
19.番免 田畑貫高御改帳岩清水村 20.はんじょう村 田畑貫高御改帳 洗馬組下原村
21. 番川原 本貫文水入帳傍陽村横道 22.ばん志やう田 軽井沢村貫寄御帳
23.ばんば 軽井沢村貫寄御帳 24.ばんじょう町 田畑貫高帳伊勢山村
25.番匠町 田畑貫高帳長島村 26.万匠町 貫高改帳染谷村
27.ばんの田 藤原田村縄打帳 28.ばんば 御縄打帳依田村御岳堂
29.ばんば 古開・新開御縄打帳 30.ばんば 飯沼村検地帳
31. はんちやう田 長窪古町水帳 32. ばんじょう免 長窪古町水帳
33. ばん志やう田 長窪新町御検地水帳 34.番匠はた 東松本帳
35.番匠免 田畑貫高御帳小嶋村 36.番免 前山之郷御毛付帳
37.番匠村畠 前山之郷御毛付帳 38.ばんでう村 田畑貫高御帳東前山村
39. 番匠めん 野倉惣帳 40. ばんちやう田 田畑貫高御帳別所村
41.番匠田 小泉村(推定・寛永末) 42. ばんば 小泉村(推定・寛永末)
43.坂上はた 田畑貫高御帳上室賀村 44.はん上坂はた 田畑貫高御帳上室賀村
45.はんしやう免 貫高帳奈良本村 46.番匠田 名寄帳 諏訪方村
47.番匠田 田畑ならし帳中之条村 48.ばん丁田 田畑貫高御帳吉田村
49. 番匠田 毛附御検見御引方勘定帳仁古田村 50.ばんじょう田 田畑貫高御帳村松郷
同一と思える語
1.半入道 貫高帳 金剛寺村 2.はんハ田 田畑貫高帳野竹村
3.下まん上 名寄帳 ふ三入村 4.中まんちょう 田畑貫高御帳御所村
5.下まんちょう 田畑貫高御帳 御所村 6.中まんぢやう 名寄帳 諏訪形村
7.まんちう村 真田氏給人知行地検地帳
4.「科野」の「番匠」語
驚くべき数と分布であった。そして検討の結果、上田「バンショウ・バン」地名の3特色が解って来た。
① 圧倒的な数(57)と特徴的な分布を持つ。前述したように各地にわずかに残る「資料」からの推論と言う点では、「九州年号」例と類似するかも知れない。が、上田「バンショウ」語例はやや異なる。単なる地名としても他に例がない程の絶対数がありしかも特徴的な分布を持ってこの地域に残るのである。
② 「バンショウ・バン」語は地域内に散在している。そして「一村一地名」と言える程の特徴的な分布を示す。そこからは、重要な推測が生まれる。江戸期・村・集落が形成される以前からこの「語」があった、つまり「条里・古代水田」形成時にこの「番匠語」が生まれたのか、と推論される事だ。そうでなくてはこのような地域分布を示さないからだ。
その推論を支持するように、「古代水田予想図」と「バンショウ」地名とは、不思議な一致を示していた。
(上図は「神科条里」発見者が予想した上田盆地の「古代条里・水田遺構図」である。この図での「水田所在地」と「バンショウ」地名との関連が疑われた。詳細は、ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」へ寄稿した私の論考(「鼠再論(四)」)で述べている。ご確認下さい。
③ すべての「バンショウ・バン」語は「土地・農地」語と関連する。
末尾のすべてが、「田」・「畑」・「畠」・「道」・「村」・「町」・「川原」などの土地関連語と結びつく(「免」もあるが「地租免除」の意と思われる)。だからどう考えても57ある「バンショウ・バン」語とは「土地」に関連した言葉であろう。それ以外の言語例はまったくないからだ。
「番匠」地名が多いことには定説派史家も気づいていたようだが、資料がないまま「令集解」からの解釈を援用し、「木工寮」に属する「大工」と判断し、説明し続けてきた。「番匠」とは「大工」だから、数が多くても不思議ではない、としたのだ。
だがもうその説明は成り立たない。そんな用例は一つもないからだ。発見された新資料(「三嶋縁起」)も言っている。「番匠」とは、「大工」ではない!
「神科条里」への定説と、条里作成者への見直しは必須なのである。
5「番匠」の論理 ①
残存する「番匠」語が九州王朝により作られたものかが最大の疑問となろう。前述した「3特色」を考えて貰えばそれへの結論は自明と思うが、さらに念を入れたい。
決定的な事があるからだ。『「番匠」語は「制度」の名称であって、「匠」たちの職種を示す言葉ではない』という事だ。これは「番匠」語を発見された正木氏も言っている。『「番匠」制度により諸国から「匠」を徴集して「難波宮」を造った』、と。
そう考えた時、「科野」の60近い「番匠」語の特異さに気付く。消された言語がこれだけ使用されている異常さにも気づくが、そのすべてが「土地に関連する」語である事にも驚く。「科野」では、「番匠」とは「土地・水田造成者」を意味していたのだ!
だが、「番匠」には「土地・水田造成者」の意味は全くない(発見された「縁起」での用例、又辞書・資料からも)。「縁起」発見から窺えるこの「番匠」語の本義は「制度」名で、特定の職種を示す言語ではない。「匠」たちは、「番匠制度」のもと(その指令に従い)各地へと派遣されたと思えた。
では、「科野」の人々は、「番匠」語の意味をはき違え、誤って「条里造成の匠」としたのだろうか? いやそうではない、逆であろう。「条里造成の匠」を、「バンショウ」と呼んでいた事こそ、ある事実を証明すると思える。
科野の人々が「条里造成の匠」を、「バンショウ」と呼んだのは、「番匠」制度により「条里造成の匠(土地・水田造成の匠)」が「科野」へ来た事を示しているのである。つまり、派遣された「土地造成の匠」を「番匠」と呼んでいた事実こそ『「匠」を派遣する「番匠制度」の実在』を証明しているのだ!だから、「番匠」制度のもと「科野」へ派遣された「土地造成の匠」を、人々は「番匠」と呼んだのである。
となるとそれを可能とした勢力は、「番匠制度」を創設し「匠」を各地に派遣した九州王朝しかありえない事になる。これは「科野の番匠(語)」の論理なのである。
「土地造成の匠」」を「番匠」と呼んだ「上田盆地の57例」は、たくまずして「番匠制度」が存在した時代とその創設者を物語っているのである。「番匠」制度に「土工の匠」があり、彼らが各地に派遣されていた時代を示しているのである。
「神科条里」は、九州王朝により作られた条里だと断言できるのだ。
6.終わりに
驚きの推定が生まれたが、江戸期「検地帳」からの推定・結論には従わざるを得ないと思える。『弥生期には九州王朝は「科野の国」に到来していた、そして、7世紀には「神科条里」を作成した』のである。
この論考を認めたとき、新たな推論が生まれる。今迄解釈不能とされて来た盆地内「考古資料」にも新たな「スポットライト」が当たる。説明できなかったそれらに対し、定説に風穴をあけた新たな解釈がどうしても必要になるからだ。
「考古資料」への再評価、そして生まれる新たな「東国観」へもご理解を頂けたらと思う。
(終)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
注① 白井恒文氏が先駆的研究 ‥‥‥ 白井恒文著『上田付近の条里遺構の研究 ―― 実地調査から国府域の推定へ ――』(非売品の為入手困難。寄贈された「国会図書館」や「東京大学」のオンラインで見ることが出来ます。)
吉村さんがこの著作について―白井恒文「上田付近の条里遺構の研究」と多元史観―と題して講演されたときのレジュメが次のブログ記事です。
「科野からのたより」(「多元の会」4月14日発表講演)2019年7月18日 (木)
なお、「上田付近の条里遺構の研究」について以下のブログ記事に詳しく論じられています。
Yassiの古代徒然草 №2「神科・染谷台の条里と国府」編(1) 2019年5月19日(日)
Yassiの古代徒然草 №2(2/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(2) 2019年5月20日(月)
Yassiの古代徒然草 №2(3/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(3) 2019年5月21日(火)
Yassiの古代徒然草 №2(4/4)「神科・染谷台の条里と国府」編(4) 2019年5月22日(水)
注② 「製鉄遺構」・「蕨手文瓦・軒先瓦」 ‥‥‥ 製鉄遺構に関するブログ記事は次のものです。
科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―2020年12月7日(月)
科野からの便り(20)―【速報】真田の「鉄滓」発見―2020年12月11日(金)
科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―2020年12月28日(月)
科野からの便り(22)―「真田・大倉の鉄滓」②【資料編】―2021年1月2日(土)
科野からの便り(23)―「真田・大倉の鉄滓」③―2021年1月22日(金)
科野からの便り(24)―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―2021年1月26日(火)
科野からの便り(25)―真田・大倉編④―2021年2月23日(火)
「蕨手文瓦・軒先瓦」に関するブログ記事は次のものが最新です(関する論考の数が多いので他は割愛します)。
「初期瓦」と「仮設寺」―「一元史観」のたわごと―2022年12月 4日 (日)
注③ 愛媛県越智郡大三島町大山祇神社 ‥‥‥ 四国ではなく、瀬戸内海中の「大三島」に座します。
主祭神は大山祇神。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社。全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社。(Wikipedia「大山祇神社」より抜粋)
注④ 野帳 ‥‥‥ 一般的には「野外での記入を想定した、縦長で硬い表紙のついた手帳)のこと」ですが、ここでは「野外調査の記録をまとめたもの」を指しています。
「野外調査の記録(をまとめたもの)をフィールドノートということもある(英語で「field notes」という場合はこちらの意味である)。」(Wikipedia「野帳」より)
注⑤ 資料 ‥‥‥ 吉村氏からPDFファイルでご寄稿いただきましたが、ブログ掲載のためにPDFからテキストをコピーしていますので、コピーソフトの読み取り間違いがある可能性もあります。もし、この論考にある地名を引用される場合には、次に掲載するPDFのスクリーンショットをご利用ください。
「検地帳」表記のままの地名とその出典(PDFのスクリーンショット)
「初期瓦」と「仮設寺」
―「一元史観」のたわごと―[コラム]
昨日(2022/12/03)、吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので、掲載いたします。
吉村さんが「仮設寺」と記しているのは、聖武天皇の詔で建立された寺院跡(「(聖武)国分寺跡」)に、国分寺以前の「先行建物」が発掘されて、そこから寺院の証拠となる瓦(当時の瓦葺建物は「宮殿」と「寺院」のみ)が出土すると「創建瓦」ではなく「初期瓦」として、その先行建物を「国分寺」建立のための“仮設※段階”の建物とする「一元史観」を揶揄して「仮説寺」と述べています。
諸国の「国分寺跡」には「(聖武)国分寺」以前に建築された「仮設段階の建物・先行建物」跡や「初期瓦」が出土するケース〔注①〕が数多(あまた)あります。
※「仮設」とは目的たる建物を建築するために立てる「足場」とか「建築資材の仮置用建物」などのような、目的建築物完成後には取り壊すものを言います。
【お断わり】
寄稿本文内も含めて、下線を付して〔〕で囲った注記番号はすべて山田が付したものです。一行を区切りっている引用文も、山田の独断で区切りを解除して繋げてあります。また、寄稿文で定まっていた一行の文字数も解除してありますので、お使いのPCの画面解像度やブラウザによって変化します。ご了承ください。
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「初期瓦」と「仮設寺」
上田市 吉村八洲男
1.始めに
令和2年9月、私の住む上田市に隣接する「青木村田沢」にある「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮社務所・応接室」で、無造作に陳列されている「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認した〔注②〕(10年程前に学芸員さんも確認しているが格段の興味を示さなかったと言う)。
だが、私には驚きの「瓦」たちであった。中でも「蕨手文瓦」は過去全国でも6例(全てが上田近辺)の報告しかない貴重な瓦である(11月の「古田史学・関西例会」に持参、皆様にもご覧いただいた)。まだ確定されていない特別な時代の存在を証明する重要な「瓦」なのだと私は思っていたからだ。
だから私は、「蕨手文瓦」の7例目の確認者となった事にもなる。それもあったがとにかく驚いた。「何でこの瓦がここにあるのだ!?」
一昨年、幸運なことに私は「真田の鉄」関連遺品を各種発見した〔注③〕。偶然からの出来事であったのだが、それら遺品への「化学分析・岩石分析」からは、「正史・一元歴史本」に記載のない「科野の古代製鉄」の実像が浮かび上がり、進出者の姿が見えたのである。
これら真田での一連の出来事は得難い体験だったのだが、子檀嶺神社・社務所での「蕨手文瓦」たちへの確認は、私が青木村でも再度の幸運に遭遇したのかと思えた。
4年前、「信濃国分寺」に関連させある論考を試みた(第一回「八王子セミナー」で『「科野の国」から見る「磐井の乱」〔注④〕』がテーマだった)。論証の不十分さ・結論への性急さが目立つ粗い論考なのだが、今読み返した時、その論旨・主張内容が現在の主張とほぼ同一である事には驚く(進歩がないのだろうか)。
今回の出来事は、その論考に直接関連した「考古資料」の発見に私が立ち会えた事を意味していた。何という強運だろう!そして青木村で確認されたこの「瓦・考古資料」からの推定は、嬉しい事に4年前の私の推論を裏付けるものだったのだ。
さらに新たな推定も可能になって来た。「瓦」からの科学がエビデンスとしてハッキリしているだけに、そこには相当な真実が含まれるとも愚考した。
改めて「蕨手文様瓦を含む瓦・8点」からの新たな推論を試みたい。ご批判を頂ければ幸便です。
2.「確認」された「瓦」たち
青木村「子檀嶺神社・社務所」で確認した8点の「瓦」を掲示する(上図。貴重な「軒平瓦」「蕨手文軒丸瓦」も含まれている)。
それぞれの重要さは言を待たないだろう。
が、中でも注目されるのは、この8点が「応接室(兼展示室)の棚」に纏めて掲示されていた事である(これら「瓦」以外には明らかに「縄文期」と思われる「土器破片」が3点あった)。
私は「宮原宮司」に確認した。「誰に何処ごろ採取され、何時頃からこの瓦を展示するようになったのですか?」
返事は明解であった。関係した記憶は一切なく、成人になった時にはすでに「瓦」たちはあったという。「先代宮司」が全てを処理したかと判断されると言われた。
「バラバラに」収納されたかについても記憶がない、と言う。ただ、神社には「神宮寺」があったという伝承があり、それと何らかの関係があるかと予想される程度だというのである。私は貴重な瓦と思える旨を伝え調べさせて頂くことになった。
まず「瓦8点」を紹介する(特に貴重と思われた3点と5点とに分けてある)。
これらの「8点瓦」に「仮名称」を付けてみた。写真を参考にされそれをご確認下さい(「瓦」外形からの判断・特徴も付記した)。
目盛りは5㎝、山辺邦彦氏撮影
8点 軒平瓦
蕨手文軒丸瓦
平瓦 大型
丸瓦 ①.同種の大型丸瓦の一部 平瓦と類似した製法・原料が疑われる
②.小型・破片・小さく平瓦に近い形状 「9.」と書かれる
③.小型・破片 「円(丸形)」は明らかに②より小さく側面に「8.」
と書かれる 裏面に「接合痕」がある
④.小型 大型平瓦に似ているが「焼き」が異なる
平瓦 ⑤.小型だが厚みがあり黒色が残る 裏面に「奈良前期」と書かれる
以上の8点である(この仮分類が後に大きな意味を持つ)。
貴重な「瓦」だが、観察だけでは個人的過ぎる意見が生まれてしまうと思えた。
例えば、色調から窺う「焼成温度」推定では、「瓦・8点」が同一の「窯」で焼かれたと言えないように思えた。チョット見からは「3種類(3ヶ所)で焼成されたのか」と言え、これら各種各様の意見判定の為にも「瓦」への詳細な「岩質分析」(科学判定)がどうしても必須な事だと思われた。
確認された青木村の「瓦・8点」についてはきちんとした学術調査が必要だろう。そこから得る事は大なのである。それがなされる様、行政には改めて切望したい(もちろん所有者・宮原満宮司の許可を得ての事だ)。
3.「信濃国分寺」研究史と「瓦」
さて、私の住む上田市には何故か「信濃国分寺」がある(「長野市・松本市」にないのが不思議だ)。しかも「僧寺」と「尼寺」がはっきり残り、両者は全国でも珍しい位に隣接する(「尼寺」は「僧寺」創建後に築造された〔注⑤〕と言う)。そこから「科野の国・その国府」がどこか、「二寺」がなぜ隣接するのかという単純な疑問が湧くのだが「既成の歴史観」はそれらの疑問には明解に答えない。
代わりに強調するのが「聖武天皇の詔」〔注⑥〕で、上田の両寺はこの「詔」により造営された「国分寺(僧寺・尼寺による二寺制)」の典型例とするのである。
確かに「国分寺」の歴史は「聖武天皇の詔」からスタートする(とされている)。「定説(一元歴史観)」からは『続日本紀』記載の「間違いない歴史」を証明する遺跡が「信濃国分寺」である。だからそこは「多元歴史観」の立ち入りが許されない聖域でもある(全国に「国分寺」があるが、すべてが「聖武天皇詔」という歴史定点から判定され順序付けられる・・・)。
ただ私には「信濃国分寺」に関して長年各種の疑問が生まれていた。「信濃国分寺」には別の歴史(多元の歴史)があるのではないか・・・、信じられてきたこれらは「砂上の楼閣」的定説なのではないか・・・。
この疑問は年ごとに強くなって来た。これからそのいくつかを論考するのだが、その時「青木村」の「瓦」たちが重要な位置を占める。いや、この「瓦」の存在こそが疑問に溢れる「信濃国分寺」定説への決定的な突破口になったと私は判断したのである。
前口上はこの位とし、「信濃国分寺」定説の重要部分、『「瓦」の「考古学」』について検討を始めよう。
研究史への俯瞰にもなる以下の説明は、多くが『信濃国分寺跡発掘五十年史』(「信濃国分寺資料館」編・平成26年)によるものだが、私による要点説明なので不十分な点があるかも知れない。その点はご寛恕下さい(引用文責は吉村です)。
『埋蔵されていた「信濃国分寺」への調査は昭和36年頃から開始され、昭和43年に第一次発掘が始まった。調査は詳細にそして当時の学問的水準を超えた追求がなされ、七回に及んでいる。団長は当時の「古代道研究」の第一人者「斎藤忠」氏、さらに考古学誌「信濃」を創刊した「一志茂樹」博士、科野・上田の郷土史研究を支えた俊英たちも追求・研究に参加する。
「瓦」に関しては、第一次の調査で「僧寺」の「講堂・金堂」南側を中心に約5tの「瓦」出土が報告され、さらに数回の調査からその全貌が明らかになって来る(「軒丸瓦・珠文縁八葉複弁蓮華文」は370点、「軒平瓦・圏線縁均整唐草文」は280点が出土)。まず、それらを「布目文系瓦」と「押型文系瓦」とに分類、その比率からの推論を試みている(そこからの推論は当時の「瓦」学問の水準内、妥当な判断が多い)。
やがて酷似した瓦が「平城京街区」「東大寺」「興福寺」跡から見出だされ、関連して「信濃国分寺創建時期」への推定も進む。さらに研究が進み「軒平瓦」が平城京西隆寺の軒平瓦と同范であることが確定し、「瓦」製法の推定からも(「糸切り素材・削り粘土締め全形仕上げ法」)この同范関係が再確認される。遺跡内で発掘された「瓦」のほとんどがこの製法と同一で、これも「信濃国分寺」創建期確定、遺跡各種への推定の大きな論拠となった。
こうした創建「瓦」追求だけではなく遺構や出土品への究明、さらに文献からの推定が相まって「僧寺・尼寺」二寺を中心とした律令下「信濃国分寺」像が確定していくのである。
そして、信濃国分寺への発掘調査だけでなく、関連した地域(「国分寺遺跡群」など。この近辺には多くの未解決問題があった)へも数回の調査がなされていく(それら「信濃国分寺」関連研究論文・成果などは、この冊子の終末に詳細に列挙・網羅されている)』
驚くのだが、「信濃国分寺」の創建年を正確に記した文献はない。「僧寺」も、そして「尼寺」もである。だからこそその決定に際しては発掘による考古からの推測が重要で、それを関連文献による推定が支えて行ったのである。
こうして考古と文献により緻密な追求・論証がなされ『絶対的かつ強固な「信濃国分寺」像』が完成していくのだが、それに対し最初に疑問が出されたのは皮肉にも「瓦・考古学者」からであった。
かねてから「信濃国分寺(僧寺)」に隣接する「尼寺」と「瓦焼窯」近辺からは、説明しにくい「瓦」が出土していた。絶対数こそ少ないが内容は多種、「文様」や「製法」は明らかに「創建瓦」とは異なっていた。
既成の歴史常識では説明のしようがない「瓦」だったのだ(問題として来た「蕨手文軒丸瓦」はその代表格で、セットと予想された他の瓦・その文様もすんなり説明できなかった)。
それらに対し『これらの「瓦」は「信濃国分寺(僧寺)創建瓦」とは明瞭に異なる』と判定したのである。「瓦」での各種差異、「瓦」製法への違い・「文様」の特異さから明確に両者を区分すべきとしたのである。そしてこれらを「初期瓦」として認定したのだ。初めて「初期瓦」を認め、それに主権(?)を与えた研究だった。
提唱者は同時に、「尼寺」遺構に見る不審点(2ヶ所)も指摘した。つまり「瓦」にも「遺構」にも未解決な疑問がある、としたのである。これらは、衝撃的な指摘であった。
その指摘二点を図として要約してみる。
上図・・・推定「東回廊」遺構下に更に「瓦捨て場」を示す遺構がある(*吉村・注* 「回廊」で隠された「瓦捨て場」の確認から、「尼寺」以前の建物に使われた「瓦」の存在が推定されるとした)。
これ以外にも、「中門」遺構(「尼寺」)に不審があると指摘したのである。
これら的確な推定は驚愕の事実を指し示した。この「初期瓦」を認定するとそれを使った「寺」を想定しなくてならず、つまりこの指摘は「国分寺・僧寺」創建以前にここに「寺」があったと認め、それを断言した事になったのだ。
この指摘を受け定説「瓦」考古学者は悩む(私の予想だが・・・)。進歩しつつある「瓦」考古学からの「初期瓦」への的確な指摘であり、それへの反論は容易ではないからだ。
そこでかねてから囁かれていた「仮設寺(先行建物)があった」論理を適用、それを受け入れ、「新(?)・信濃国分寺の歴史」とするのである。
天平13年(741)「聖武天皇」の「国分寺建立の詔」が発布されたのだが、文献追求からは「信濃国分寺(僧寺)」の創建は751年~775年頃と推定されていた。「詔」が発布され、寺(瓦葺き建造物)の完成はその10~15年後と推定していたのだが、これが幸いする。前述した「発掘50年史」にはこうある。
『「初期瓦」は・・・「創建瓦」より古い8世紀中葉から第3四半期(末葉まで行かない)の製作とし、・・・「尼寺」中門跡西側付近にこの「初期瓦」を葺いた「先行建物」が存在した可能性が考えられている。』と判断、「初期瓦」を認めつつ既存の「瓦」考古学・「寺の歴史」との見事な(?)整合を図ったのである。
図にしてみる。
こう説明し「初期瓦」の歴史的位置を決めたのである。『「詔」以後~創建以前』に、「初期瓦」を使った「仮設寺」があり、「在地有力者が「初期瓦」作成にかかわった」と推定するのだ。そして「初期瓦」は「創建瓦の補修瓦としても使用された」とし、「詔」と「仮設寺」との関係・「初期瓦」と「国分寺・創建瓦」との関係をスムースに(?)関連・説明したのである(この「仮設寺」は、「尼寺」の創建まで存続したとする)。
こうして「仮設寺」を追加認知し「初期瓦」を説明した。これにより、「信濃国分寺定説」はより詳細な歴史をもつものとして確定して行くのである。
はたして「初期瓦」へのこれらの判断は正しいのであろうか? 何よりも「仮設寺(先行建物)」は存在したのだろうか。
私は密かに疑った。「仮設寺」とは「初期瓦」説明の為の「仮想寺・仮想建物」ではないのか?実在する「初期瓦」とは、「信濃国分寺」と別の歴史の存在を示す瓦ではないのか?
4.青木村の「寺」
ここから青木村で確認された「瓦・8点」の出番となる。
『これらの「瓦」は、どこで造られ、誰に運ばれ、なぜ青木村・「子檀嶺神社」に集まったのだろう?』
これは当然出てくる疑問である。何しろ日本では上田地域にしかない「蕨手文瓦」が含まれた「瓦・8点」だからである。貴重な瓦だからなのだ。
その質問に対して、定説からは「東山道を使い他地域から青木村へ運ばれた瓦」と説明される。が、これでは明らかにおかしい。今迄の定説では「地域の有力者による」としてきた筈で、「運ばれてきた」説明では「信濃国分寺の蕨手文瓦」説明とは異なる。青木村は「上田地域」なのだから「上田の蕨手文瓦」と同じ説明がなされて当然で、青木の瓦だけ特別扱いされる事はない。さらに、上田にも「東山道」は通っているのだからこの「運ばれて来た」説明では明らかに不十分、正当な説明になっていないと思われる。
更に、青木村の「蕨手文瓦」は「信濃国分寺・蕨手文瓦」とは明遼に違う。
青木村での「蕨手文・瓦」写真を示そう。
両者には大きな差異がある。「信濃国分寺・蕨手文瓦」の推定直径は17.8㎝、内区径8.0㎝と報告されるが、青木村「蕨手文瓦」の直径は19.2㎝なのだ。明らかに直径(大きさ)が異なる(さらに「岩石分析」結果も「異なる岩質を持つ瓦」と判定する)。
それなのに青木の瓦には日本「6例」だけの「蕨手文様」がハッキリ残るのだ。
「径」も「材質」も違うのに、「瓦文様」だけは同じという事になる。なぜなのだ?
それらを説明する事が、発見された青木「蕨手瓦」説明には必要と思われる。不十分な説明ではかえって混乱するだけになろう。
例えば、「何処からか運ばれて来た」より「造られた「窯」が異なるから」と説明したほうが、「瓦の違い」に対し納得される説明となるのだが・・・。
「瓦」を詳細に点検すると、奇妙な事に気付く。「瓦」に番号が付けられているのである。それが次の写真だ。
番号が付けられた瓦は二つあり、「8」「9」という数字が認められた。
さらに「奈良前期」と書かれた「瓦」があった。
これらは「ペンキ」で書かれたと思われた。書かれた内容判断には異存がないだろう。
再確認する。
「瓦・8点」には、「8」・「9」・「奈良前期」と書かれた「瓦」3点が含まれているのだ。そこからは各種の推論がなされる。
『「瓦」出土時又は「神社」寄進時に、この番号(8.9)が付けられた』
どう考えてもそうなる。その前の番号(1~7)は必要がなかったのだとも解る。「9」を最終数字とした事は、「9」が出土瓦数を示していると思えるからだ。
さらに『瓦発見者(又は共同作業者)がこれらの「瓦」を「奈良前期」と判定し、この「文字を書いた」』とも断言出来る。そうでなくては、この「8」「9」「奈良前期」は書かれない。「瓦」製作者がこれらを書いたという推定・判断は100%あり得ないからだ。想像さえできないのだ。
現在は「8点」が残されているが、発見時「瓦」はもう一枚あった事になる(残念だが、その1点は紛失してしまったか)。
これらから「8点」瓦は、最初からまとまって発見され、まとめてここに届けられたと判定して良い。だからこそ「8」「9」「奈良前期」と記されたのである。バラバラに発見され、数回にわたって収納されたのではない。そう断言されるのだ。
ここで「瓦8点」を「形状・特徴から分類」した事が重要な意味を持つ。
分類した「8点」瓦を見比べてみると良く解るのだ。これらは「同じものがない瓦たち」で、つまりすべての瓦がそれぞれの特徴を持つのである。
「丸瓦」4点を例とすると、各瓦が持つ「円径(丸)」の大小、その厚さ、予想される焼成温度などには明瞭な違いがある。それぞれがそれぞれの特徴を持った4枚の「丸瓦」なのである。そして「平瓦」にも、「大型」「小型」がある。
残された「蕨手文瓦当瓦」や「不明な文様を持つ軒平瓦」への説明は不要だろう。その独自性・特異性はひときわ際立ち、他と同じ「瓦」とは到底言えないのだ。
やはり「8点瓦」には、「同じ種類の瓦はない」と思われる。という事は、こう説明されよう(発見時を想定すると理解しやすい)。
『発見した時には同じ種類の瓦が数多くあった。だがそれらのすべては届けられない。そこで種類を代表して「一枚」の瓦が選ばれ、それらがここに届けられた。』
そう考えて改めて「瓦・8点」を見直してみると良い。これら瓦には同じ特徴を持った瓦がない、それは、それぞれが屋根を構成する数種類の瓦を代表した瓦だったという事なのだ。
それが集っての「8点」と思われた。「瓦8点」の背後には「寺の屋根」を構成した数種類(恐らく多数)の「瓦」があったと思われるのだ(「瓦当瓦」も「軒平瓦」もあるのだから、「寺」の屋根に決まっているだろう)。
ここで「子檀嶺神社」の伝承、『昔、「神宮寺」があった』が重要な意味を持ってくる(神社に付属する「寺」を一般的に「神宮寺」と呼ぶ)。
いままでの事実・推論のすべてが、『これらの「瓦8点」はその「神宮寺」を造っていた瓦なのだ』と結論するからだ。
『この「瓦8点」は、青木「子檀嶺神社」の「神宮寺」に使われた瓦だった』、つまり『「蕨手文様瓦を含む初期瓦」が「神宮寺」に使用された』、と断言するのである。
定説派は「瓦8点」が公的機関に届けられていないから「青木」に古代「寺」は存在しなかった、と断言する。「中山道」や「集落・遺跡」を認めるが、古代の青木に「寺」はなかったと言うのだ。人々の生活痕跡が多くあっても「信仰の場」はないというのである。
だがこれはおかしな論理である。「寺」の存在は、「瓦の届出」とは無関係な事だからだ。誰にでも解るが「届を出す」ために「瓦」や「寺」が存在した訳ではないのである。私たちが「落とし物」を見つけた時、「持ち主が自明」ならばそれを公的機関へ届けない。「届」を出す前に持ち主に返すのだ。それが常識だと思われる。青木の「瓦」発見時の予想がそうだ。「瓦8点」を発見した人もまず持ち主に返したのである。
彼にとって、発見(発掘)した「瓦」の持ち主は自明な事だったのだ。「神宮寺」を持った「子檀嶺神社」しか持ち主はいなかったのである。「瓦」をそこへ返したのは当然な事で、「届出」とは無関係な事なのである。
こうして「神社(社務所)」に「瓦・8点」が届けられ展示されるようになったと私は判断した。青木の古代には「瓦・8点」(「初期瓦」だ!)を使用した「神宮寺」があったのである。
「子檀嶺神社」は、創建以来何回かその位置を変えたと伝わっている。現在地より1㎞程下方にある「中挾(なかばさみ)地区」にあったという伝承もある。驚く事にそこには小字名「こまゆみ」が残る。だから往時にはこの付近にあったかと想像出来るし、その盛大さも窺えるかも知れない。この付近に「神宮寺」を持っていたのであろうか・・・。
永年にわたる考古学結論から、「蕨手文瓦」を含む「瓦」は「初期瓦」と分類されている(それが永年の「瓦」研究の結論だ!)。
やはり神社社務所に展示されている「瓦・8点」からは、古代・青木村に「初期瓦」を使った「寺」があったと結論されるのである。
5.「仮設寺」の論理
ただ、これは驚くべき展開とある結論を示す。こう判断されるからだ。定説では『上田では「信濃国分寺」造営の為、「初期瓦」を使い「仮設寺」が造られた』と説明する。ところが青木村にも「初期瓦」を使った「神宮寺」があったと判明したのである!
定説はおかしくは無いか?定説からは、青木の「寺・初期瓦」が説明出来ないのだ。青木村の神社は、「信濃国分寺」所在地とは13~15㎞は離れている。遠距離といって良い。さらに『青木に「国分寺」があった』事などは想像すらされない事である。青木村に上田とは別に「国分寺」があった筈がないのである。
ところが青木村には「初期瓦」使用の「寺」があったのである。両者は矛盾する。だから、そこからの答えは一つであろう。
『信濃国分寺』創建と「初期瓦」の存在とは「無関係」なのだ、と。
青木にも、上田にも「初期瓦」を使った「寺」があるのだからこう結論する他はない。それとも15㎞も離れた所に、「信濃国分寺」創建準備のため「仮設寺」を造ったというのだろうか。そんな事は、ありえないのだ。
「蕨手文様の瓦を含む初期瓦」を持った寺(建物)は、「信濃国分寺」創建とは無関係に、上田にも青木にも存在していたのだ。当然ながら「信濃国分寺」創建以前の建物に「初期瓦」があった事になる。
驚きの結論だが、それ以外の解答はない。
さらに今迄見過ごされて来た「坂城町・込山廃寺」から出土の「蕨手文様瓦」の存在にも改めての注目が集まる。
定説からは、「信濃国分寺創建瓦」製作を分担した「坂城町・土井の入り窯」との関連からこの「蕨手文瓦」が解釈されて来た。つまり「信濃国分寺」創建・その瓦という観点からこの「瓦」を説明して来たのである。
ところが「坂城町」は、「上田・国分寺」と15㎞ほど離れている。そこからは青木と同じ解釈が出来る事になる。
「蕨手文瓦」が出土した「坂城町・込山廃寺」は、「信濃国分寺」創建とは無関係な寺ではないだろうか。遥か以前の、別の歴史を証明する「寺」ではないだろうか。「蕨手文瓦(初期瓦)」の存在がそれを証明しているのではないだろうか。
そう考えると「込山廃寺」で発見され、定説からは説明のつかなかった謎の「瓦当(軒丸瓦)」に、新たな光が当たるのが不思議だ・・・(下図)。
(坂城のこの「瓦」と同じ文様の瓦破片が、上田「国分寺」地域からも発掘されている。与えられた「名称」は「人面文瓦当(獣面文とも)」で、「鬼瓦」ではない。「信濃国分寺資料館」に展示されている。ご確認下さい)。
6.終わりに
私はいままでの論考で、上田の「蕨手文様」は、6世紀に築造された九州の古墳と密接な繋がりがあると主張して来た。端的に言うと、「物部一族」の「印章」であったと考え、「磐井の乱」との関連もそこから窺えるとしてきたのである。
だから「蕨手文」が描かれた「瓦」(「初期瓦」)が示す時代への推定もそれと繋がる。それは「6世紀」を示し、「物部一族」(又は「金氏一族」)により造られ使われた「瓦」と思っている。
そして今回の主張は、定説となっている「仮設寺」が、実は「信濃国分寺」にはなかったという一点だ。そこからも『蕨手文瓦を含む「初期瓦」』は別の「寺」に使われ、別の歴史を示すのだと判断出来るのである。
「初期瓦」の存在こそが、「聖武天皇の詔」による「信濃国分寺」創建と別の歴史がここにあった事を示すのだ。「蕨手文」という文様からは、これが「物部一族」により使われたと推定される。そして「蕨手文瓦」を持った寺も、彼らにより「青木・坂城・上田」それぞれに造られたと思えるのだが・・・。
いずれにせよ「信濃国分寺」こそ「多元」を証明する驚くべき「寺」で、単純な「聖武天皇の詔」からの理解ではとうてい説明しきれない寺と私は思っている。
そう信じて来たし、その推測を支える根拠が多くあるとも判断している。
次回も「瓦・8点」に関してだが、特に詳細な観察・「岩石分析」からの推論を数点述べてみたい。
(終)
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注① 「(聖武)国分寺」以前に建築された「仮設段階の建物・先行建物」跡や「初期瓦」が出土するケース …… 次のブログ記事で一例をあげてありますのでご覧ください。
「仮設段階・仮設建物」はたわごと―上総国分寺の例証―2018年4月27日(金)
注② 「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮社務所・応接室」で、無造作に陳列されている「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認した …… 次のブログ記事として掲載されています。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年9月19日(日)
注③ 「真田の鉄」関連遺品を各種発見した …… 次のブログ記事に詳しく載っています。
科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―2020年12月7日(月)
科野からの便り(20)―【速報】真田の「鉄滓」発見―2020年12月11日(金)
科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―2020年12月28日(月)
科野からの便り(22)―「真田・大倉の鉄滓」②【資料編】―2021年1月2日(土)
科野からの便り(23)―「真田・大倉の鉄滓」③―2021年1月22日(金)
科野からの便り(24)―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―2021年1月26日(火)
科野からの便り(25)―真田・大倉編④―2021年2月23日(火)
注④ 「科野の国」から見る「磐井の乱」 …… 次のブログ記事として掲載されています。
「科野の国」から見る「磐井の乱」―「古代史セミナー」で発表された論考―2018年11月14日(水)
注⑤ 「尼寺」は「僧寺」創建後に築造された …… この見解が間違っているという論考は次のブログ記事として掲載してあります。
論理の赴くところ(その10)―信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた―2018年2月27日(火)
注⑥ 「聖武天皇の詔」 ‥‥‥ この詔には「国分寺」と言う語句はなく、「(既存寺院に)七重塔一区」を建てよという「七重塔建立の詔」であったと肥沼孝治さん(古田史学の会々員)が、肥さんの夢ブログの次の記事で明らかにされています。
「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土)
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