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2022年12月 4日 (日)

「初期瓦」と「仮設寺」―「一元史観」のたわごと―

「初期瓦」と「仮設寺」
「一元史観」のたわごと[コラム]

 昨日(2022/12/03)、吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので、掲載いたします。

 吉村さんが「仮設寺」と記しているのは、聖武天皇の詔で建立された寺院跡(「(聖武)国分寺跡」)に、国分寺以前の「先行建物」が発掘されて、そこから寺院の証拠となる瓦(当時の瓦葺建物は「宮殿」と「寺院」のみ)が出土すると「創建瓦」ではなく「初期瓦」として、その先行建物を「国分寺」建立のための“仮設段階”の建物とする「一元史観」を揶揄して「仮説寺」と述べています。
 諸国の「国分寺跡」には(聖武)国分寺」以前に建築された「仮設段階の建物・先行建物」跡や「初期瓦」が出土するケース〔注①〕が数多(あまた)あります。
仮設とは目的たる建物を建築するために立てる「足場」とか「建築資材の仮置用建物」などのような、目的建築物完成後には取り壊すものを言います。

【お断わり】
 寄稿本文内も含めて、下線を付して〔〕で囲った注記番号はすべて山田が付したものです。一行を区切りっている引用文も、山田の独断で区切りを解除して繋げてあります。また、寄稿文で定まっていた一行の文字数も解除してありますので、お使いのPCの画面解像度やブラウザによって変化します。ご了承ください。

…………………………………………………………………………………………………………………………

「初期瓦」と「仮設寺」

上田市  吉村八洲男

1.始めに

 令和2年9月、私の住む上田市に隣接する「青木村田沢」にある「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮社務所・応接室」で、無造作に陳列されている「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認した〔注②〕(10年程前に学芸員さんも確認しているが格段の興味を示さなかったと言う)。

 だが、私には驚きの「瓦」たちであった。中でも「蕨手文瓦」は過去全国でも6例(全てが上田近辺)の報告しかない貴重な瓦である(11月の「古田史学・関西例会」に持参、皆様にもご覧いただいた)。まだ確定されていない特別な時代の存在を証明する重要な「瓦」なのだと私は思っていたからだ。

 だから私は、「蕨手文瓦」の7例目の確認者となった事にもなる。それもあったがとにかく驚いた。「何でこの瓦がここにあるのだ!?」

 一昨年、幸運なことに私は「真田の鉄」関連遺品を各種発見した〔注③〕。偶然からの出来事であったのだが、それら遺品への「化学分析・岩石分析」からは、「正史・一元歴史本」に記載のない「科野の古代製鉄」の実像が浮かび上がり、進出者の姿が見えたのである。

 これら真田での一連の出来事は得難い体験だったのだが、子檀嶺神社・社務所での「蕨手文瓦」たちへの確認は、私が青木村でも再度の幸運に遭遇したのかと思えた。

 4年前、「信濃国分寺」に関連させある論考を試みた(第一回「八王子セミナー」で『「科野の国」から見る「磐井の乱」〔注④〕』がテーマだった)。論証の不十分さ・結論への性急さが目立つ粗い論考なのだが、今読み返した時、その論旨・主張内容が現在の主張とほぼ同一である事には驚く(進歩がないのだろうか)。

 今回の出来事は、その論考に直接関連した「考古資料」の発見に私が立ち会えた事を意味していた。何という強運だろう!そして青木村で確認されたこの「瓦・考古資料」からの推定は、嬉しい事に4年前の私の推論を裏付けるものだったのだ。

 さらに新たな推定も可能になって来た。「瓦」からの科学がエビデンスとしてハッキリしているだけに、そこには相当な真実が含まれるとも愚考した。

 改めて「蕨手文様瓦を含む瓦・8点」からの新たな推論を試みたい。ご批判を頂ければ幸便です。
Photo_20221204152601 

 

2.「確認」された「瓦」たち

 青木村「子檀嶺神社・社務所」で確認した8点の「瓦」を掲示する(上図。貴重な「軒平瓦」「蕨手文軒丸瓦」も含まれている)。

 それぞれの重要さは言を待たないだろう。

 が、中でも注目されるのは、この8点が「応接室(兼展示室)の棚」に纏めて掲示されていた事である(これら「瓦」以外には明らかに「縄文期」と思われる「土器破片」が3点あった)。

 私は「宮原宮司」に確認した。「誰に何処ごろ採取され、何時頃からこの瓦を展示するようになったのですか?」

 返事は明解であった。関係した記憶は一切なく、成人になった時にはすでに「瓦」たちはあったという。「先代宮司」が全てを処理したかと判断されると言われた。

 「バラバラに」収納されたかについても記憶がない、と言う。ただ、神社には「神宮寺」があったという伝承があり、それと何らかの関係があるかと予想される程度だというのである。私は貴重な瓦と思える旨を伝え調べさせて頂くことになった。

 まず「瓦8点」を紹介する(特に貴重と思われた3点と5点とに分けてある)。
Photo_20221204152701
 これらの「8点瓦」に「仮名称」を付けてみた。写真を参考にされそれをご確認下さい(「瓦」外形からの判断・特徴も付記した)。

目盛りは5㎝、山辺邦彦氏撮影

 8点 軒平瓦
    蕨手文軒丸瓦
    平瓦 大型
    丸瓦 ①.同種の大型丸瓦の一部 平瓦と類似した製法・原料が疑われる
       ②.小型・破片・小さく平瓦に近い形状 「9.」と書かれる
       ③.小型・破片 「円(丸形)」は明らかに②より小さく側面に「8.」
         と書かれる 裏面に「接合痕」がある
       ④.小型 大型平瓦に似ているが「焼き」が異なる
    平瓦 ⑤.小型だが厚みがあり黒色が残る 裏面に「奈良前期」と書かれる

 以上の8点である(この仮分類が後に大きな意味を持つ)。

 貴重な「瓦」だが、観察だけでは個人的過ぎる意見が生まれてしまうと思えた。

 例えば、色調から窺う「焼成温度」推定では、「瓦・8点」が同一の「窯」で焼かれたと言えないように思えた。チョット見からは「3種類(3ヶ所)で焼成されたのか」と言え、これら各種各様の意見判定の為にも「瓦」への詳細な「岩質分析」(科学判定)がどうしても必須な事だと思われた。

 確認された青木村の「瓦・8点」についてはきちんとした学術調査が必要だろう。そこから得る事は大なのである。それがなされる様、行政には改めて切望したい(もちろん所有者・宮原満宮司の許可を得ての事だ)。

 

3.「信濃国分寺」研究史と「瓦」

 さて、私の住む上田市には何故か「信濃国分寺」がある(「長野市・松本市」にないのが不思議だ)。しかも「僧寺」と「尼寺」がはっきり残り、両者は全国でも珍しい位に隣接する(「尼寺」は「僧寺」創建後に築造された〔注⑤〕と言う)。そこから「科野の国・その国府」がどこか、「二寺」がなぜ隣接するのかという単純な疑問が湧くのだが「既成の歴史観」はそれらの疑問には明解に答えない。

 代わりに強調するのが「聖武天皇の詔」〔注⑥〕で、上田の両寺はこの「詔」により造営された「国分寺(僧寺・尼寺による二寺制)」の典型例とするのである。

 確かに「国分寺」の歴史は「聖武天皇の詔」からスタートする(とされている)。「定説(一元歴史観)」からは『続日本紀』記載の「間違いない歴史」を証明する遺跡が「信濃国分寺」である。だからそこは「多元歴史観」の立ち入りが許されない聖域でもある(全国に「国分寺」があるが、すべてが「聖武天皇詔」という歴史定点から判定され順序付けられる・・・)。

 ただ私には「信濃国分寺」に関して長年各種の疑問が生まれていた。「信濃国分寺」には別の歴史(多元の歴史)があるのではないか・・・、信じられてきたこれらは「砂上の楼閣」的定説なのではないか・・・。

 この疑問は年ごとに強くなって来た。これからそのいくつかを論考するのだが、その時「青木村」の「瓦」たちが重要な位置を占める。いや、この「瓦」の存在こそが疑問に溢れる「信濃国分寺」定説への決定的な突破口になったと私は判断したのである。

 前口上はこの位とし、「信濃国分寺」定説の重要部分、『「瓦」の「考古学」』について検討を始めよう。

 研究史への俯瞰にもなる以下の説明は、多くが『信濃国分寺跡発掘五十年史』(「信濃国分寺資料館」編・平成26年)によるものだが、私による要点説明なので不十分な点があるかも知れない。その点はご寛恕下さい(引用文責は吉村です)。

埋蔵されていた「信濃国分寺」への調査は昭和36年頃から開始され、昭和43年に第一次発掘が始まった。調査は詳細にそして当時の学問的水準を超えた追求がなされ、七回に及んでいる。団長は当時の「古代道研究」の第一人者「斎藤忠」氏、さらに考古学誌「信濃」を創刊した「一志茂樹」博士、科野・上田の郷土史研究を支えた俊英たちも追求・研究に参加する。

「瓦」に関しては、第一次の調査で「僧寺」の「講堂・金堂」南側を中心に約5tの「瓦」出土が報告され、さらに数回の調査からその全貌が明らかになって来る(「軒丸瓦・珠文縁八葉複弁蓮華文」は370点、「軒平瓦・圏線縁均整唐草文」は280点が出土)。まず、それらを「布目文系瓦」と「押型文系瓦」とに分類、その比率からの推論を試みている(そこからの推論は当時の「瓦」学問の水準内、妥当な判断が多い)。

やがて酷似した瓦が「平城京街区」「東大寺」「興福寺」跡から見出だされ、関連して「信濃国分寺創建時期」への推定も進む。さらに研究が進み「軒平瓦」が平城京西隆寺の軒平瓦と同范であることが確定し、「瓦」製法の推定からも(「糸切り素材・削り粘土締め全形仕上げ法」)この同范関係が再確認される。遺跡内で発掘された「瓦」のほとんどがこの製法と同一で、これも「信濃国分寺」創建期確定、遺跡各種への推定の大きな論拠となった。

こうした創建「瓦」追求だけではなく遺構や出土品への究明、さらに文献からの推定が相まって「僧寺・尼寺」二寺を中心とした律令下「信濃国分寺」像が確定していくのである。

 そして、信濃国分寺への発掘調査だけでなく、関連した地域(「国分寺遺跡群」など。この近辺には多くの未解決問題があった)へも数回の調査がなされていく(それら「信濃国分寺」関連研究論文・成果などは、この冊子の終末に詳細に列挙・網羅されている)

 驚くのだが、「信濃国分寺」の創建年を正確に記した文献はない。「僧寺」も、そして「尼寺」もである。だからこそその決定に際しては発掘による考古からの推測が重要で、それを関連文献による推定が支えて行ったのである。

 こうして考古と文献により緻密な追求・論証がなされ『絶対的かつ強固な「信濃国分寺」像』が完成していくのだが、それに対し最初に疑問が出されたのは皮肉にも「瓦・考古学者」からであった。

 かねてから「信濃国分寺(僧寺)」に隣接する「尼寺」と「瓦焼窯」近辺からは、説明しにくい「瓦」が出土していた。絶対数こそ少ないが内容は多種、「文様」や「製法」は明らかに「創建瓦」とは異なっていた。

 既成の歴史常識では説明のしようがない「瓦」だったのだ(問題として来た「蕨手文軒丸瓦」はその代表格で、セットと予想された他の瓦・その文様もすんなり説明できなかった)。

 それらに対し『これらの「瓦」は「信濃国分寺(僧寺)創建瓦」とは明瞭に異なる』と判定したのである。「瓦」での各種差異、「瓦」製法への違い・「文様」の特異さから明確に両者を区分すべきとしたのである。そしてこれらを「初期瓦」として認定したのだ。初めて「初期瓦」を認め、それに主権(?)を与えた研究だった。

 提唱者は同時に、「尼寺」遺構に見る不審点(2ヶ所)も指摘した。つまり「瓦」にも「遺構」にも未解決な疑問がある、としたのである。これらは、衝撃的な指摘であった。

 その指摘二点を図として要約してみる。
Photo_20221204153001
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 上図・・・推定「東回廊」遺構下に更に「瓦捨て場」を示す遺構がある(*吉村・注* 「回廊」で隠された「瓦捨て場」の確認から、「尼寺」以前の建物に使われた「瓦」の存在が推定されるとした)。

 これ以外にも、「中門」遺構(「尼寺」)に不審があると指摘したのである。

 これら的確な推定は驚愕の事実を指し示した。この「初期瓦」を認定するとそれを使った「寺」を想定しなくてならず、つまりこの指摘は「国分寺・僧寺」創建以前にここに「寺」があったと認め、それを断言した事になったのだ。

 この指摘を受け定説「瓦」考古学者は悩む(私の予想だが・・・)。進歩しつつある「瓦」考古学からの「初期瓦」への的確な指摘であり、それへの反論は容易ではないからだ。

 そこでかねてから囁かれていた「仮設寺(先行建物)があった」論理を適用、それを受け入れ、「新(?)・信濃国分寺の歴史」とするのである。

 天平13年(741)「聖武天皇」の「国分寺建立の詔」が発布されたのだが、文献追求からは「信濃国分寺(僧寺)」の創建は751年~775年頃と推定されていた。「詔」が発布され、寺(瓦葺き建造物)の完成はその10~15年後と推定していたのだが、これが幸いする。前述した「発掘50年史」にはこうある。

「初期瓦」は・・・「創建瓦」より古い8世紀中葉から第3四半期(末葉まで行かない)の製作とし、・・・「尼寺」中門跡西側付近にこの「初期瓦」を葺いた「先行建物」が存在した可能性が考えられている。』と判断、「初期瓦」を認めつつ既存の「瓦」考古学・「寺の歴史」との見事な(?)整合を図ったのである。

 図にしてみる。
Photo_20221204153301 
 こう説明し「初期瓦」の歴史的位置を決めたのである。『「詔」以後~創建以前』に、「初期瓦」を使った「仮設寺」があり、「在地有力者が「初期瓦」作成にかかわった」と推定するのだ。そして「初期瓦」は「創建瓦の補修瓦としても使用された」とし、「詔」と「仮設寺」との関係・「初期瓦」と「国分寺・創建瓦」との関係をスムースに(?)関連・説明したのである(この「仮設寺」は、「尼寺」の創建まで存続したとする)。

 こうして「仮設寺」を追加認知し「初期瓦」を説明した。これにより、「信濃国分寺定説」はより詳細な歴史をもつものとして確定して行くのである。

 はたして「初期瓦」へのこれらの判断は正しいのであろうか? 何よりも「仮設寺(先行建物)」は存在したのだろうか。

 私は密かに疑った。「仮設寺」とは「初期瓦」説明の為の「仮想寺・仮想建物」ではないのか?実在する「初期瓦」とは、「信濃国分寺」と別の歴史の存在を示す瓦ではないのか?

 

4.青木村の「寺」

 ここから青木村で確認された「瓦・8点」の出番となる。

これらの「瓦」は、どこで造られ、誰に運ばれ、なぜ青木村・「子檀嶺神社」に集まったのだろう?

 これは当然出てくる疑問である。何しろ日本では上田地域にしかない「蕨手文瓦」が含まれた「瓦・8点」だからである。貴重な瓦だからなのだ。

 その質問に対して、定説からは「東山道を使い他地域から青木村へ運ばれた瓦」と説明される。が、これでは明らかにおかしい。今迄の定説では「地域の有力者による」としてきた筈で、「運ばれてきた」説明では「信濃国分寺の蕨手文瓦」説明とは異なる。青木村は「上田地域」なのだから「上田の蕨手文瓦」と同じ説明がなされて当然で、青木の瓦だけ特別扱いされる事はない。さらに、上田にも「東山道」は通っているのだからこの「運ばれて来た」説明では明らかに不十分、正当な説明になっていないと思われる。

 更に、青木村の「蕨手文瓦」は「信濃国分寺・蕨手文瓦」とは明遼に違う。

 青木村での「蕨手文・瓦」写真を示そう。
Photo_20221204153501
 両者には大きな差異がある。「信濃国分寺・蕨手文瓦」の推定直径は17.8㎝、内区径8.0㎝と報告されるが、青木村「蕨手文瓦」の直径は19.2㎝なのだ。明らかに直径(大きさ)が異なる(さらに「岩石分析」結果も「異なる岩質を持つ瓦」と判定する)。

 それなのに青木の瓦には日本「6例」だけの「蕨手文様」がハッキリ残るのだ。

 「径」も「材質」も違うのに、「瓦文様」だけは同じという事になる。なぜなのだ?

 それらを説明する事が、発見された青木「蕨手瓦」説明には必要と思われる。不十分な説明ではかえって混乱するだけになろう。

 例えば、「何処からか運ばれて来た」より「造られた「窯」が異なるから」と説明したほうが、「瓦の違い」に対し納得される説明となるのだが・・・。

 「瓦」を詳細に点検すると、奇妙な事に気付く。「瓦」に番号が付けられているのである。それが次の写真だ。
Photo_20221204153502
 番号が付けられた瓦は二つあり、「」「」という数字が認められた。

 さらに「奈良前期」と書かれた「瓦」があった。
Photo_20221204153601
 これらは「ペンキ」で書かれたと思われた。書かれた内容判断には異存がないだろう。

 再確認する。

 「瓦・8点」には、「」・「」・「奈良前期」と書かれた「瓦」3点が含まれているのだ。そこからは各種の推論がなされる。

「瓦」出土時又は「神社」寄進時に、この番号()が付けられた

 どう考えてもそうなる。その前の番号(1~7)は必要がなかったのだとも解る。「」を最終数字とした事は、「」が出土瓦数を示していると思えるからだ。

 さらに『瓦発見者(又は共同作業者)がこれらの「瓦」を「奈良前期」と判定し、この「文字を書いた」』とも断言出来る。そうでなくては、この「」「」「奈良前期」は書かれない。「瓦」製作者がこれらを書いたという推定・判断は100%あり得ないからだ。想像さえできないのだ。

 現在は「8点」が残されているが、発見時「瓦」はもう一枚あった事になる(残念だが、その1点は紛失してしまったか)。

 これらから「8点」瓦は、最初からまとまって発見され、まとめてここに届けられたと判定して良い。だからこそ「」「」「奈良前期」と記されたのである。バラバラに発見され、数回にわたって収納されたのではない。そう断言されるのだ。

 ここで「瓦8点」を「形状・特徴から分類」した事が重要な意味を持つ。

 分類した「8点」瓦を見比べてみると良く解るのだ。これらは「同じものがない瓦たち」で、つまりすべての瓦がそれぞれの特徴を持つのである。

 「丸瓦」4点を例とすると、各瓦が持つ「円径(丸)」の大小、その厚さ、予想される焼成温度などには明瞭な違いがある。それぞれがそれぞれの特徴を持った4枚の「丸瓦」なのである。そして「平瓦」にも、「大型」「小型」がある。

 残された「蕨手文瓦当瓦」や「不明な文様を持つ軒平瓦」への説明は不要だろう。その独自性・特異性はひときわ際立ち、他と同じ「瓦」とは到底言えないのだ。

 やはり「8点瓦」には、「同じ種類の瓦はない」と思われる。という事は、こう説明されよう(発見時を想定すると理解しやすい)。

発見した時には同じ種類の瓦が数多くあった。だがそれらのすべては届けられない。そこで種類を代表して「一枚」の瓦が選ばれ、それらがここに届けられた。』

 そう考えて改めて「瓦・8点」を見直してみると良い。これら瓦には同じ特徴を持った瓦がない、それは、それぞれが屋根を構成する数種類の瓦を代表した瓦だったという事なのだ。

 それが集っての「8点」と思われた。「瓦8点」の背後には「寺の屋根」を構成した数種類(恐らく多数)の「瓦」があったと思われるのだ(「瓦当瓦」も「軒平瓦」もあるのだから、「寺」の屋根に決まっているだろう)。

 ここで「子檀嶺神社」の伝承、『昔、「神宮寺」があった』が重要な意味を持ってくる(神社に付属する「寺」を一般的に「神宮寺」と呼ぶ)。

 いままでの事実・推論のすべてが、『これらの「瓦8点」はその「神宮寺」を造っていた瓦なのだ』と結論するからだ。

 『この「瓦8点」は、青木「子檀嶺神社」の「神宮寺」に使われた瓦だった』、つまり『「蕨手文様瓦を含む初期瓦」が「神宮寺」に使用された』、と断言するのである。

 定説派は「瓦8点」が公的機関に届けられていないから「青木」に古代「寺」は存在しなかった、と断言する。「中山道」や「集落・遺跡」を認めるが、古代の青木に「寺」はなかったと言うのだ。人々の生活痕跡が多くあっても「信仰の場」はないというのである。

 だがこれはおかしな論理である。「寺」の存在は、「瓦の届出」とは無関係な事だからだ。誰にでも解るが「届を出す」ために「瓦」や「寺」が存在した訳ではないのである。私たちが「落とし物」を見つけた時、「持ち主が自明」ならばそれを公的機関へ届けない。「届」を出す前に持ち主に返すのだ。それが常識だと思われる。青木の「瓦」発見時の予想がそうだ。「瓦8点」を発見した人もまず持ち主に返したのである。

 彼にとって、発見(発掘)した「瓦」の持ち主は自明な事だったのだ。「神宮寺」を持った「子檀嶺神社」しか持ち主はいなかったのである。「瓦」をそこへ返したのは当然な事で、「届出」とは無関係な事なのである。

 こうして「神社(社務所)」に「瓦・8点」が届けられ展示されるようになったと私は判断した。青木の古代には「瓦・8点」(「初期瓦」だ!)を使用した「神宮寺」があったのである。

 「子檀嶺神社」は、創建以来何回かその位置を変えたと伝わっている。現在地より1㎞程下方にある「中挾(なかばさみ)地区」にあったという伝承もある。驚く事にそこには小字名「こまゆみ」が残る。だから往時にはこの付近にあったかと想像出来るし、その盛大さも窺えるかも知れない。この付近に「神宮寺」を持っていたのであろうか・・・。

 永年にわたる考古学結論から、「蕨手文瓦」を含む「瓦」は「初期瓦」と分類されている(それが永年の「瓦」研究の結論だ!)。

 やはり神社社務所に展示されている「瓦・8点」からは、古代・青木村に「初期瓦」を使った「寺」があったと結論されるのである。

 

5.「仮設寺」の論理

 ただ、これは驚くべき展開とある結論を示す。こう判断されるからだ。定説では『上田では「信濃国分寺」造営の為、「初期瓦」を使い「仮設寺」が造られた』と説明する。ところが青木村にも「初期瓦」を使った「神宮寺」があったと判明したのである!

 定説はおかしくは無いか?定説からは、青木の「寺・初期瓦」が説明出来ないのだ。青木村の神社は、「信濃国分寺」所在地とは13~15㎞は離れている。遠距離といって良い。さらに『青木に「国分寺」があった』事などは想像すらされない事である。青木村に上田とは別に「国分寺」があった筈がないのである。

 ところが青木村には「初期瓦」使用の「寺」があったのである。両者は矛盾する。だから、そこからの答えは一つであろう。

 『信濃国分寺』創建と「初期瓦」の存在とは「無関係」なのだ、と。

 青木にも、上田にも「初期瓦」を使った「寺」があるのだからこう結論する他はない。それとも15㎞も離れた所に、「信濃国分寺」創建準備のため「仮設寺」を造ったというのだろうか。そんな事は、ありえないのだ。

 「蕨手文様の瓦を含む初期瓦」を持った寺(建物)は、「信濃国分寺」創建とは無関係に、上田にも青木にも存在していたのだ。当然ながら「信濃国分寺」創建以前の建物に「初期瓦」があった事になる。

 驚きの結論だが、それ以外の解答はない。

 さらに今迄見過ごされて来た「坂城町・込山廃寺」から出土の「蕨手文様瓦」の存在にも改めての注目が集まる。

 定説からは、「信濃国分寺創建瓦」製作を分担した「坂城町・土井の入り窯」との関連からこの「蕨手文瓦」が解釈されて来た。つまり「信濃国分寺」創建・その瓦という観点からこの「瓦」を説明して来たのである。

 ところが「坂城町」は、「上田・国分寺」と15㎞ほど離れている。そこからは青木と同じ解釈が出来る事になる。

 「蕨手文瓦」が出土した「坂城町・込山廃寺」は、「信濃国分寺」創建とは無関係な寺ではないだろうか。遥か以前の、別の歴史を証明する「寺」ではないだろうか。「蕨手文瓦(初期瓦)」の存在がそれを証明しているのではないだろうか。

 そう考えると「込山廃寺」で発見され、定説からは説明のつかなかった謎の「瓦当(軒丸瓦)」に、新たな光が当たるのが不思議だ・・・(下図)。
Photo_20221204153701
 (坂城のこの「瓦」と同じ文様の瓦破片が、上田「国分寺」地域からも発掘されている。与えられた「名称」は「人面文瓦当(獣面文とも)」で、「鬼瓦」ではない。「信濃国分寺資料館」に展示されている。ご確認下さい)。

 

6.終わりに

 私はいままでの論考で、上田の「蕨手文様」は、6世紀に築造された九州の古墳と密接な繋がりがあると主張して来た。端的に言うと、「物部一族」の「印章」であったと考え、「磐井の乱」との関連もそこから窺えるとしてきたのである。

 だから「蕨手文」が描かれた「瓦」(「初期瓦」)が示す時代への推定もそれと繋がる。それは「6世紀」を示し、「物部一族」(又は「金氏一族」)により造られ使われた「瓦」と思っている。

 そして今回の主張は、定説となっている「仮設寺」が、実は「信濃国分寺」にはなかったという一点だ。そこからも『蕨手文瓦を含む「初期瓦」』は別の「寺」に使われ、別の歴史を示すのだと判断出来るのである。

 「初期瓦」の存在こそが、「聖武天皇の詔」による「信濃国分寺」創建と別の歴史がここにあった事を示すのだ。「蕨手文」という文様からは、これが「物部一族」により使われたと推定される。そして「蕨手文瓦」を持った寺も、彼らにより「青木・坂城・上田」それぞれに造られたと思えるのだが・・・。

 いずれにせよ「信濃国分寺」こそ「多元」を証明する驚くべき「寺」で、単純な「聖武天皇の詔」からの理解ではとうてい説明しきれない寺と私は思っている。

 そう信じて来たし、その推測を支える根拠が多くあるとも判断している。

 次回も「瓦・8点」に関してだが、特に詳細な観察・「岩石分析」からの推論を数点述べてみたい。

(終)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注① 「(聖武)国分寺」以前に建築された「仮設段階の建物・先行建物」跡や「初期瓦」が出土するケース …… 次のブログ記事で一例をあげてありますのでご覧ください。
「仮設段階・仮設建物」はたわごと―上総国分寺の例証―2018年427()

注② 「子檀嶺(こまゆみね)神社・里宮社務所・応接室」で、無造作に陳列されている「蕨手文瓦」を含む「8点の瓦」を確認した …… 次のブログ記事として掲載されています。
科野からの便り(32)―「蕨手(わらびて)文様瓦の発見」編―2021年919()

注③ 「真田の鉄」関連遺品を各種発見した …… 次のブログ記事に詳しく載っています。
科野からの便り(19)―真田・大倉の「鉄滓」発見記―2020年127()
科野からの便り(20)―【速報】真田の「鉄滓」発見―2020年1211()
科野からの便り(21)―「真田・大倉の鉄滓」発見②―2020年1228()
科野からの便り(22)―「真田・大倉の鉄滓」②【資料編】―2021年12()
科野からの便り(23)―「真田・大倉の鉄滓」③―2021年122()
科野からの便り(24)―「真田・大倉の「鉄滓」③(続)―2021年126()
科野からの便り(25)―真田・大倉編④―2021年223() 

注④ 「科野の国」から見る「磐井の乱」 …… 次のブログ記事として掲載されています。
「科野の国」から見る「磐井の乱」―「古代史セミナー」で発表された論考―2018年1114()

注⑤ 「尼寺」は「僧寺」創建後に築造された …… この見解が間違っているという論考は次のブログ記事として掲載してあります。
論理の赴くところ(その10―信濃国分僧寺より「〇〇寺」が先に建てられた―2018年227()

注⑥ 「聖武天皇の詔」 ‥‥‥ この詔には「国分寺」と言う語句はなく、「(既存寺院に)七重塔一区」を建てよという「七重塔建立の詔」であったと肥沼孝治さん(古田史学の会々員)が、肥さんの夢ブログの次の記事で明らかにされています。
「国分寺」はなかった!2016年130()

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