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2022年12月18日 (日)

私の読解法―筆者の立場で考える―

私の読解法
筆者の立場で考える[論理の赴くところ]

 教諭が小学生に教えるように上から目線で「読解法」を説くつもりはありません。私はこのように心がけているという程度のことを述べます。 

筆者の立場で考える

 私の読解法は「筆者の立場で文章を考えてみる」方法です。「筆者の立場」とは次のようなものと考えます。 

(1)読者に伝えたいことを文章にする

(2)読者が〔(1)の伝えたいことを〕理解できる文章にする。

(3)書いた後で文章を推敲する((1)の伝えたいことがより伝わりやすい適切な言葉に練り直す)。
文章を推敲には次を検討する。
(3-a言葉の不足はないか(伝えたいことが伝わりにくいようなら加筆する)。
(3-b不要な言葉はないか(無くても伝えたいことが伝わるようなら、その言葉を取り除く)。
(3-c不適切な言葉はないか(あればより適切な言葉に置き換える)。
(3-d隠蔽や盗用等をする場合、それが露呈してしまう記述はないか(あれば文章を書き換える)。 

 すなわち、今読んでいる文章は、(1)(2)(3)を行った結果(完成品)であるとします(当たり前と思っていただければ幸いです)。ここで「完成品」と言ったのは、「伝えたいことが伝わる文章になっていると筆者が認定した文章」という意味です。

 この立場は、ブログ記事 稲荷山古墳出土「金象嵌武器」について―二種類の金合金が使われている理由―2019213 () で挙げた「②製作者は、その持てる技術(レベルはどうであれ)を最大限に注いで製作した。」とする観点の立場と同一です。

 

具体的事例の提示

 既に「東山道十五國都督」記事がなぜ景行紀にあるのか(その1)― 盗まれた「九州王朝の事績」―2017418()で論じましたが、史書『日本書紀』(景行天皇五十五年春二月戊子朔壬辰条〔注①〕)に不可解とされている記事があります。
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【訓読文】

五十五年の春二月の戊子(つちのえのね)の朔壬辰(みずのえのたつ)に、彦狹嶋王(ひこさしまのみこ)を以(も)て、東山道(やまのみち)の十五國(とをあまりいつつのくに)の都督(かみ)に拜(ま)けたまふ。是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。然(しかう)して春日(かすが)の穴咋邑(あなくひのむら)に到(いた)りて、病(やまひ)に臥(ふ)して薨(みまか)りぬ。是(こ)の時に、東國の百姓(おほみたから)、其(か)の王(みこ)の至(いた)らざることを悲(かなし)びて、竊(ひそか)に王の尸(かばね)を盗(ぬす)みて、上野國(かみつけのくに)に葬(はふ)りまつる。
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〖私の口語訳〗
(景行天皇の)五十五年の春二月の戊子朔の壬辰(五日)に彦狹嶋王を東山道十五國の都督に任命しました。これ(彦狹嶋王は)豐城命の孫です。ところが、(彦狹嶋王は赴任する途中の)春日の穴咋邑に到ったところで病床に伏して亡くなられました。この時に、東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないことを悲しんで、密かに王(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬りました。
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 東国の人々が彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った(「東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野國。」)という文章が「不可解」とされています。次のような点が「不可解(変なことをするなぁ)」なのでしょう。

❶何故屍を盗んだのか?
❷何故上野國に葬ったのか?

 筆者は「読者に伝えたいことは伝わる」とした、と理解する私の読解法では「不可解」なことは何もありません。

 

筆者はこれで伝わるとした

 記事内容を事実と仮定すると、書かれている事実は次の五つです。

①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
②これ(彦狹嶋王)は豐城命の孫である。
(彦狹嶋王は)赴任途中に春日の穴咋邑で病没した。
④東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないのを悲しんだ。
(東國の人々は)(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬った。

 筆者は以上のことを書いて、これで「伝えたいことは読者に伝わる」としたのです。

 

不可解とされている箇所

❶何故屍を盗んだのか?
❷何故上野國に葬ったのか?

 これを「不可解(わけわからん)」と言うのは、筆者は①~⑤で「伝えたいことは(読者に)伝わる」としたと考えないからです。「字面だけ読むのは『読解』ではない」のは言うまでもありません。「読解」とは文字通り「(一読では理解できない文章を)読み解くこと」です。例えてみれば、本格派推理小説で、「これまでに(犯人を特定するのに)必要な情報はすべて提示してある。読者諸君は推理して(根拠を示し)犯人を特定してみたまえ。」と作家が挑戦状を出しているのと同じです。

 

屍を盗んだのは何故か?

 まず、「❶何故屍を盗んだのか?」を読み解きましょう。盗むということは密かに(こっそりと)盗む(「竊盗」)わけです。密かに盗まないと(盗むところを見られれば)、屍は入手できませんし、盗人も捕まるでしょう。

 東国への赴任途中で病没した彦狹嶋王は「東國」の人ではありません。(首尾よく盗めなかったら、彦狹嶋王の)屍は、王(彦狹嶋王)の故郷や生活拠点の地方に埋葬されるでしょう。だから、東國の人々は(屍を盗むことまでして)彦狹嶋王の墓所を上野國に造りたかった(⑤)と理解できます。また、(彦狹嶋王の)屍がない墓所では意味がなかったということも理解できます。すなわち、彦狹嶋王の墓所に東國の人々が墓参しても意味がなかったのです。つまり、東國の人々は、彦狹嶋王の跡取り(継承者)に上野國の墓所に墓参させたかった(だから屍が必要だった)、のです。

 このように読解すれば、東國の人々は、彦狹嶋王の墓所を上野國に造り、跡取りに墓参させる目的で屍を盗んだと解明できます(不可解とされている箇所❶❷の謎は解けました)。

 

まだ謎は残っている

 ❶❷の謎は解けましたが、次のことを読み解かねばなりません。

❸(「東山道十五國の都督」)彦狹嶋王の赴任先は何処か?
❹(屍を盗んだ)東國の人々の居所は何処か?

 くどいようですが「筆者はこれ(①~⑤)で伝わるとした」のです。「彦狹嶋王の赴任先は書かれていてないから不明」とするのは「読解」(読み解くこと)を放棄しています。

 「(屍を盗んだ)東國の人々の居所も書かれていてないから不明」とするのも「読解」(読み解くこと)を放棄しています。

 

 この二つの謎(❸❹)を「(読み解くために)必要な(示されている)情報」を再掲します。

①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
②これ(彦狹嶋王)は豐城命の孫である。
(彦狹嶋王は)赴任途中に春日の穴咋邑で病没した。
東國の人々はその王(彦狹嶋王)が着任しないのを悲しんだ。
(東國の人々は)(彦狹嶋王)の屍を盗んで上野國に葬った。。 

 地域名・国名を含めると記述されている「場所(place)」は、次の4ヶ所(上記の下線部分)だけです。

(a) 東山道の十五國
(b) 春日の穴咋邑〔注②〕
(c) 東國
(d) 上野國

 すなわち、筆者は「(a)(b)(c)(d)で赴任先は伝わる(この中にある)」とした、と私はみなします。また、筆者は「(a)(b)(c)(d)で東国の人々の居所は伝わる(この中にある)」とした、と私はみなします。

 

「東山道十五國」について

 『日本書紀』には「(a)東山道の十五國」の国名は挙げられていません〔注③〕。私は「九州王朝の東山道十五国〔注④〕を「豊前国、長門国、周防国、安芸国、吉備国、播磨国、摂津国〔改訂版では凡河内國(おおしかわちのくに)に訂正〕、山城国、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、武蔵国、下野国」と比定しました。また、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を東山道としています。

 『延喜式』に挙げられている東山道(諸国)と私が比定した「九州王朝の東山道十五国」を重ね合わせると、景行天皇五十五年にある「東國」は「美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国」(以東は蝦夷の国)と考えられます。しかし、この「東國」の五ヶ国(美濃・飛騨・信濃・上野・下野)をまとめて「都督の赴任先」とすることはできません(管轄する地域が複数・広域であろうが赴任先というのは一ヶ所です)。

 「(b)春日の穴咋邑」は赴任途中で没した地点なので、これも「赴任先」にはできません
 また、「(c)東國」は、「四至(東西南北)」で分けただけのもので、これも「赴任先」とはできません
 以上より(消去法によれば)「彦狹嶋王の赴任先」は「(d)上野國」であると読み解けます。
 また、同様にして「彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った東國の人々の居所」も「(d)上野國」であると読み解けます。

 筆者は、これら(①③④⑤)の文章から「東山道都督彦狹嶋王の赴任先は上野國」であり「屍を盗んだ東國の人々の居所は上野國」であると読者は理解する(読者に伝わる)としたのです。

 このように、読み解けば、「不可解」なことは何もありません

 「いや、都督の赴任先は(「上野國」だと)書いてない」「いや、東國の人々の居所が「上野國」だとは書いてない」「だから都督の赴任先も東國の人々の居所も不明だ」というのは「理解できないように読んでいる」と言われても仕方ないでしょう(理解したくないかに思えます)。

 なお、「以上より(消去法によれば)」と書きましたが、別記事からも「彦狹嶋王の赴任先」と「東國の人々の居所」は「(d)上野國」であったと追って明らかになります。

 

墓所を上野國に造ったのは何故?

 既に、東国(上野國)の人々が屍を盗んだ理由(わけ)は、❷上野國に彦狹嶋王の墓所を造る目的のためだったと読み解けました。では、この記事(①②③④⑤)から「彦狹嶋王の墓所を上野國に造ったのは何故?」が読み解けるでしょうか。

 わかることが一つあります。「④東國の人々は彦狹嶋王が着任しないのを悲しんだ。」とあります。これは、「上野国に『東山道都督』が着任しない」ことが悲しかったと読み解けます。すなわち「上野國」の人々は、「上野國」に『東山道方面軍の最高指揮官』が着任しないことが悲しかったのです。つまり、彦狹嶋王は東山道十五國の都督となって()赴任することになっていたのですから、「彦狹嶋王に来て欲しかった」というよりも「東山道都督』に来て欲しかった」のだと読み取れます。しかし残念なことに、この記事(①②③④⑤)を何回読んでも「上野國の人々が「東山道(方面)軍の最高指揮官」である『東山道都督』に来て欲しかった理由」が分かりません(軍事に関係することだとは推測できますが・・・)。

 

不足している情報

 これまでの情報(①から⑤により読み解いたこと)だけでは「何故上野国の人々は『東山道都督』に来て欲しかったのか?」ということが伝わってきません。私の読解法「(3-a)言葉の不足はないか(伝えたいことが伝わりにくいようなら加筆する)。」に従えば、筆者は(それが読者に)伝わるように必ず加筆するはずです。その通りでした。五十五年春二月戊子朔壬辰条に続く五十六年の秋八月条の記事となっています。

 つまり、五十五年春二月戊子朔壬辰条五十六年の秋八月条は(年を跨いでいますが)、話としては一連のものです。

 景行天皇五十六年秋八月条〔注⑤〕に次のようにあります。
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【訓読文】

五十六年の秋八月に、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「汝(いまし)が父(かぞ)彦狹嶋王、任(ことよ)さす所(ところ)に向(まか)ることを得(え)ずして早(はや)く薨(みまか)りぬ。故(かれ)、汝(いまし)(たうめ)東國を領(おさ)めよ」とのたまふ。是(ここ)以て、御諸別王、天皇の命(おほみこと)を承(うけたまは)りて、且(まさ)に父(かぞ)の業(ついで)を成(な)さむとす。則(すなは)ち行(ゆ)きて治(をさ)めて、早(すみやか)に善(よ)き政(まつりごと)を得(え)つ。時に蝦夷(えみし)(さわ)き動(とよ)む。即(すなは)ち兵(いくさ)を挙(あ)げて撃(う)つ。時に蝦夷の首帥(ひとごのかみ)、足振邊(あしふりべ)・大羽振邊(おほはふりべ)・遠津闇男邊等(とほつくらをべら)、叩の頭みて來(まうけ)り。頓首(をが)みて罪(つみ)を受(うべな)ひて、盡(ふつく)に其(そ)の地(ところ)を獻(たてまつ)る。因りて、降(したが)ふ者(ひと)を免(ゆる)して、不服(まつろはざる)を誅(つみな)ふ。是(ここ)を以て、東(ひむがしのかた)、久(ひさ)しく事(こと)(な)し。是(これ)に由(よ)りて、其(そ)の子孫(うみのこ)、今(いま)に東國(あずまのくに)に有(あ)り。
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〖私の口語訳〗

五十六年秋八月に、御諸別王に「汝の父彦狹嶋王は赴任地に向かうことができずに早世してしまった。だから、汝が東国を専領しなさい(専念して治めなさい)。」との詔がでました。このようなわけで、御諸別王は、天皇の命を承るとともに、父業(であった都督の任務)を成し遂げようとしました。それで、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷きました。まさにそんな時、蝦夷の騒乱(武力侵攻)がありました。(御諸別王は)すぐさま軍を差し向けて(蝦夷軍を)撃破してしまいました。その時、蝦夷()の首帥の足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等は頭を叩いて(降伏に)やって来ました。頓首して罪を受けて其の地(蝦夷の領有する土地)を盡(ことごと)く獻じました。それで(「盡獻其地」)で降伏する者は(騒乱の罪を)免じ、降伏しない者は誅()しました。これで、東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなりました。こういうわけで、その子孫(豐城命の子孫)〔注④〕が今東國を領有しているのです。
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 上記の「五十六年八月条」に書かれているのは、次のことです。

⑥御諸別王に「(早世した父に代わって)汝が東國を専領しなさい」との詔がでた。
⑦御諸別王は、天皇の命を承け、父業(東山道都督)を成そうとした。
⑧御諸別王は、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷いた。
⑨まさにそんな時、蝦夷騒動(蝦夷の武力侵攻)があった。
(御諸別王は)すぐさま軍を差し向けて(蝦夷軍を)撃破した。
⑪蝦夷()の首帥たちが(降伏しに)やって来て、蝦夷の領有する土地を尽く献じた。
⑫それ()で、降伏する者は(罪を)免じ、降伏しない者は誅()した。
⑬これ(⑩⑪⑫)で、東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなった。
⑭こういう(⑥~⑬)わけで、その子孫が今東國を領有している。

 

東山道都督に来て欲しかった理由 

 五十六年八月条から東の人々が彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った理由が理解できます。

 まず⑥⑦から、彦狹嶋王の子の御諸別王も「東山道都督」として東國(上野国)に赴任したことがわかります(「是以御諸別王承天皇命、且欲成父業」)。

 ⑧⑨から、「東國」は「善政」を敷いても蝦夷騒動が起きるところだった(「則行治之、早得善政。時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。」)ことがわかります。

 東國の人々が『東山道都督』(東山道方面軍司令官)である彦狹嶋王の着任を待ち望んでいた理由は、「東國は蝦夷騒動が起きる(物騒な)所だったから」と読み解けました。

 

「蝦夷騒動」とは何か

 「騒動」とあるのは「蝦夷人の反抗・反乱」でしょうか。いいえ、「(れっき)とした蝦夷国軍〔注⑦〕によるもの」でした。

 「蝦夷の首帥」とあり、「」は「軍隊の最高級指揮官」ですから「軍隊」が攻めてきたのです。その軍隊には「~邊」とか「~邊」とかの階級(大将とか中将とかのような)もあるようですから、しっかりと組織された軍隊でしょう。また、「尽く其地を献じた」とあり、領土を持っていたのですから、蝦夷人は「国」を形成していたでしょう。つまり「騒動」を起こしたのは「蝦夷国の正規軍(国軍)」だったということです。もし、その「騒動」を起こした蝦夷が「武装した夜盗などの集団」でしかなかったならば、他の武装集団が「騒動」を起こすこともあったでしょう。しかし、そうではなくて、蝦夷国(蝦夷が形成していた国家)が(東山道軍との)戦争に敗れて全面降伏したので、「東方は久しく(騒乱などが起きる)事が無くなった」ということなのです。ちなみに「」は「軍隊の最高指揮官(元帥、統帥)」を表す言葉です。武装した夜盗などの首領に対しては用いられません(夜盗などには「首魁」などが使われます)。

 

東山道都督の赴任先は上野國

 ⑩から、御諸別王(東山道都督)の赴任先には、「騒動」の発生に即応対処して差し向け(「即挙兵」)られる軍隊(常備軍=東山道軍)が置かれていたことがわかります(「時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。」)。

 「~道軍」というのは、「~道」と呼ばれる(官道ごとに設定された)方面軍管区を守る国軍(国家防衛軍)」です。普通、方面軍の拠点は敵国と戦況が把握しやすい前線近く(近すぎず遠すぎず)に置かれます。そこ(=東山道都督の指揮する常備軍の拠点のある場所)が彦狹嶋王が赴任途中で病没して着任できなかった赴任先であり、彦狹嶋王の子の御諸別王が父にかわってが赴任した先なのです。その赴任先が次(④⑤)によって、筆者が「伝えたいことは(読者に)伝わる」としたのです。

①彦狹嶋王は東山道十五國の都督となった。
④東國の人々は彦狹嶋王が着任しないのを悲しんだ。
⑤東國の人々は彦狹嶋王の屍を盗んで上野國に葬った。
⑥御諸別王に「(早世した父に代わって)汝が東国を専領しなさい」と詔がでた。
⑦御諸別王は、天皇の命を承け、父業(東山道都督)を成そうとした。
⑧御諸別王は、(東國に)行って(東國を)治め、早々と善政を敷いた。 

 御諸別王にとって、「父の墓所」(在上野國)が蝦夷の領域になることは望まないしょう。東国の人々は、彦狹嶋王の墓所が上野國にあれば、子の御諸別王が必ず来るであろうと考えたのです(それほど「蝦夷騒動」が切実な問題だったと思われます)。

 それが奏功したかどうかは不明ながら、子の御諸別王が都督として赴任する結果になった、と筆者は書いているのです。

 そう読めば、謎は一つもありません。つまり、筆者の伝えたいことが伝わったのです。

 

容易に理解されることは書かない

 「書かれていてないこと」は①「書かなくてもわかること」または②「書かない方が(隠蔽や盗用などに)都合がよいこと」のどちらかです(筆者の「書き洩らし」(ミス)が全くないとは断言できませんが・・・)。

 「書いてないから不明だ」と即断するのは不毛です。

 書かなくても理解されることは省かれます。

 私の口語訳を見てください。省かれていることを随分補ってあります。『日本書紀』の記事の筆者は、書かなくても読者には理解できることは省いているのです。馬鹿馬鹿しい例をいくつか挙げましょう。

 

・『三國志』のどこにも「この史書は『短里』で書かれている」とは書かれていません(魏・晋朝の読者には周知の事実です)。

・国土地理院の地図のどこにも「mとは『1秒の299,792,458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離』である」とは書かれていません(地図を理解するのに、そんな事実は不要でしょう)。

・『日本書紀』のどこにも「上野國は東山道に属する」とは書かれていません(周知の事実なのでしょう)。

・特別必要な場合を除き「『九州の』太宰府」とは書きません(九州にあることは周知の事実です)。

 「暗黙の了解事項」や「言わずとも理解できること」は省かれる、と言いたいのです。

 

「納得できる解釈」を目指す

 私は、「分からないことは『分からない』と言う」のを否定しているのではありません。読み解けば分かることを「書いてないから分からない」と即断するのは「読解を放棄」していると言いたいのです。

 本来、「読解(読み解く)」とは「どう理解すれば納得できる(解釈になる)のかを考えることである」と私は考えています。

 もし、納得できない(解釈になっている)場合には、「いままでの見方・考え方・読解の仕方が間違っているのではないか」と疑うべきです。「理解できなくなるように読む」のは「読解」ではありません。「謎は読み解かねばならない」のです。

 

終わりに

 肥沼孝治さんから、実に興味深い疑問が次のブログ記事で提示されています。

肥さんの夢ブログ:彦狭嶋王に東山道十五國都督を命じた人物は誰か?20191015()

 私は、『日本書紀』がこの話を九州王朝から盗用したという仮説を持っています。どこにその痕跡があるかと言えば、次の事柄です。

 「(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」(原文「是豐城命之孫也。」)

 これ、この話に必要ですか?私は「不要」と見ます。なぜなら、この一文を削除しても話は立派に完結しているからです。

 「(ここ)を以て、東(ひむがしのかた)、久(ひさ)しく事(こと)(な)し。是(これ)に由(よ)りて、其(そ)の子孫(うみのこ)、今(いま)に東國(あずまのくに)に有(あ)り。」(原文「是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。」)

 この「(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。」を省くと何が変わるかと言えば、「その子孫」(「其子孫」)が「豐城命の子孫」から「彦狹嶋王の子孫」に変わるだけです。御諸別王彦狹嶋王の子なので実質は何も変わりません。では、何故筆者は不必要な「是豐城命之孫也。」を加えたのでしょうか?

 私の読解に従えば、答えは簡単です。豐城命(とよきのみこと)」を「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」(『古事記』では「豊木入日子命」)と同一人物に仕立てる(「背乗り」する)ためです。

 「是豐城命之孫也。」が無ければ、第10代崇神天皇(御眞木入日子印恵命(記))の皇子「豊城入彦命()豊木入日子命()」の出番はないのです。

 「是豐城命之孫也。」が無ければ、崇神天皇とは何の関係もない(すなわち大和国とは何の関係もない)話なのです。

 誰が「豐城命=豊城入彦命」という人物の等式を証明したのでしょうか(反語:誰も証明してはいません)。

 これも「不要なことを何故削除しなかったか?」によって「読み解けたことがら」になります。「人物の名称の(命を除いた)四文字「豊城入彦」中二文字(「豊城」)が一致すれば同一人物」、これが一元史観の捏造の一方法です。

(終)

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注① 景行天皇五十五年春二月戊子朔壬辰条 ‥‥‥岩波書店「日本古典文学大系67」『日本書紀 上』の原文(三一五頁)は次の通りです。
五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盗王尸、葬於上野國。

 注② 春日の穴咋邑 ‥‥‥ 穴栗神社(穴吹神社)に関して「紀には地名は「春日穴咋邑」とある」とか「纏向から東国へ向かってすぐに薨じた」とかなど奈良県奈良市あたりを比定する見解が横行していますが、この「詔」が景行天皇から出たとは断じられませんし、大和国(奈良)から盗んだ屍を上野国まで運んだというのには無理があります。春日穴咋邑は「東山道」に沿った所(美濃国、飛騨国、信濃国のどこかで最も可能性が高いのは上野国に最も近い信濃国)であると思われます。 

注③ 『日本書紀』には「(a)東山道の十五國」の15か国の国名は挙げられていません ‥‥‥ 語句「東山道」が登場するのは次の三ヶ所のみです。ただ、『日本書紀』によれば、崇峻天皇二年(五八九)七月条では、東山道は蝦夷国境まで至っていることになりますし、天武天皇十四年(六八五)七月条では、美濃国が東山道に属していることがわかります(しかしながら、「古来より東山道は美濃国以東であった」とは決められません)。
《景行天皇五五年(乙丑一二五)二月》
五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓悲其王不至、竊盗王尸葬於上野國。
《崇峻天皇二年(五八九)七月》
二年秋七月壬辰朔、遣近江臣満於東山道使、觀蝦夷國境。遣完人臣鴈於東海道使、觀東方濱海諸國境。遣阿倍臣於北陸道使、觀越等諸國境。
《天武天皇十四年(六八五)七月》
辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東・諸國有位人等、並免課役。 

注④ 九州王朝の東山道十五国 ‥‥‥この仮説は古田史学会報139「東山道十五国」の比定 西村論文「五畿七道の謎」の例証並びに古田史学の会編『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十一集 発見された倭京――太宰府都城と官道』(明石書店、2018/03/25、ISBN 9784750346496)に掲載されています。
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 この後に、十五国の一つ「摂津国」を「凡河内國(凡川内國)」(おおしかわちのくに)に改訂しています。改訂事情は次のブログ記事をご覧ください。
「東山道十五国」の比定【改訂版】― 西村論文「五畿七道の謎」の例証 ―2017315()
 なお、「【改訂版】」とあるのは、肥沼孝治さん(古田史学の会々員、肥さんの夢ブログ)によって「摂津国・山城国のつながり方が狭い」というご指摘を頂き、調べたところ「摂津国・和泉国・河内国の三ヶ国は、九州王朝時代には凡川内國造(凡河内國造)が統治していた一つの領域「凡河内國(凡川内國)」(おおしかわちのくに)だった。」ことが判明しましたので、「摂津国」を「凡河内國(凡川内國)」に改訂いたしました
その経緯は次の通りです。
sanamao「九州王朝の北陸道」十二國201844()
上記記事に古賀達也さまからコメントで下記のご指摘を頂きました。
「1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。
2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。」
 次のブログ記事が当時の私の回答(根拠なき妄想)です。
sanamao「九州王朝の北陸道」の不審―古賀達也さまからのご指摘―201847()
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1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなった以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。
2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。
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 要するに、「北陸道」という名称は、「九州王朝の『東山道』」の近畿以西の名称を「山陽道」とし、「九州王朝の『北海道』」の近畿以西の名称を「山陰道」として、「『山〇道』の陰・陽の対(つい)」に改称した時期か、あるいはそれ以降の(いつの時期かわかりませんが)どこかの時点で、「九州王朝の『北海道』」であった近畿以東の名称を「北陸道」と改称した、とする妄想です。
肥さん:九州王朝の「東山道十五國」比定・肥さん案2018415()
sanmao仮説「九州王朝の北海道十四國」―“海峡国家”でなくなった時代―2018413()
肥さん:山田さんの仮説「九州王朝の北海道十四国國」について2018414()
sanmao肥さんの「東山道十五國」2018415()
肥さん:山田さんの質問にお答えします2018416()
 また、肥沼孝治さんから「関門海峡は潮の流れが急で危険」との指摘もいただきました。
sanmao「関所」が設置される場所―論理の赴くところ(その16)―2018417()
この要旨は、関所は急峻な場所ほど適している。九州王朝の東山道の関所(に適した所)は関門海峡、東海道の関所(に適した所)は豊予海峡(禁止されていた豊予海峡(佐賀関のルート)を使わせてくれとの上申が許された。『続日本紀』)です。
肥さん:再び・山田さんの質問にお答えします2018417()
肥さん:昔「凡川内国」という国があった!?2018420()
なお、この仮説に阿部周一(James Mac)氏からブログ古田史学とMeで『常陸國風土記』との矛盾点を指摘頂いただいています。
阿部周一(James Mac)氏:「東山道十五国」とは 20180331(この記事に関連する「東遊」の起源起源についての詳細記事は倭国への仏教伝来について(七)20150215日をご覧ください)
 さらに古賀達也氏からも 古賀達也の洛中洛外日記 第第1709話2018/07/19で「『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。」と『常陸國風土記』と関係する問題点をご指摘いただいています。これらについては、「九州王朝の東山道十五国」の仮説を前提にしては、妄想程度のことしか思いつきません。この後の課題です。
sanmao「東山道十五國の時代」考―『常陸風土記』の東海道―201882() 

注⑤ 景行天皇五十六年秋八月条 ‥‥‥ 原文(三一五頁)は次の通りです。
五十六年秋八月、詔御諸別王曰、汝父彦狹嶋王、不得向任所而早薨。故汝専領東國。是以、御諸別王、承天皇命、且欲成父業。則行治之、早得善政。時蝦夷騒動。即挙兵而撃焉。時蝦夷首帥足振・大羽振・遠津闇男等、叩頭而來之。頓首受罪、盡獻其地。因以、免降者、而誅不服。是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。 

注⑥ その子孫(豐城命の子孫) ‥‥‥ 五十五年春二月戊子朔壬辰条と五十六年秋八月条は一連の話と考えられますから、私は「其子孫」とは「豐城命の子孫」を意味すると広く解釈しましたが、「御諸別王の子孫」を意味すると狭く解釈することも可能です。文面からはどちらが正しいと断じることはできませんでした。 

注⑦ 歴(れっき)とした蝦夷国の軍隊 「歴(れっき)とした」とは「立派な、正真正銘の、正式な、由緒正しい」と言う意味です。すなわち、蝦夷国の正規軍(国軍)が「騒動」(軍事侵攻)を起こしたと読み解きました。その根拠は、❶「帥(軍隊の最高級指揮官)」が居て階級らしきものがあること。❷領土(「其地」)を持っていたこと、❸降伏後に騒動が全く無くなったこと(国家の降伏だったから)、です。
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北京・商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.459より〔下線は山田による〕

shuai4  ❶軍隊中最高級的指揮官:元~.統~.❷英俊,瀟洒,漂亮:[辶文]个小伙儿很~.他的動作~級了.字写得~.
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〔个=ヶ()、伙=夥、儿=児〕
※「英俊」=ハンサム。「瀟洒」=威勢がいい(日本語とは意味が異なる)。「漂亮」=美しい、見た目がいい(「好看」=good looking )。 「[辶文]个」=この。小伙儿」=男の子。「很帥」=とても威勢がよく見た目がよいハンサム。

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