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2022年12月15日 (木)

科野「神科条里」②―「条里」と「九州王朝・国府寺」編―

科野「神科条里」
「条里」と「九州王朝・国府寺」編[コラム]

 一昨日(2022/12/13())に吉村八洲男さまからご寄稿いただきましたので掲載いたします。
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科野「神科条里」②

「条里」と「九州王朝・国府寺」編

上田市 吉村八洲男

1.初めに

 前論〔注①〕で江戸期「検地帳」に残る「番匠」地名から「科野・神科条里」が九州王朝によって作られたと推断した。私論への認・否判断は改めて読者諸賢にお任せするが、その推定からは歴史への再検討も予想される。それもあり「神科条里」についての推定を「考古」からの視点も加えながら追論・再考してみたい。

 

2.阿部周一氏の「番匠」論

 「阿部周一」氏が「古田史学会報No.143」(「古記と番匠と難波宮」)で重要な推論を展開されていた。私にとってこれが「頂門の一針」となった。

 阿部氏の論考は資料・文献の綿密な読解に裏打ちされたものが多く、学ぶことが多いのだがその立場から、『「前期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員された、それが「続日本紀」からも窺える』と読解・断定されたのである。

 阿部氏は、「令集解」に登場する数多い注釈書の中から、最古の注釈書と言われる「古記」に注目され論考を進められた。「古記」は「養老律令」以前に作られた「大宝律令」の唯一の「注釈書」と言われていたが、「大宝律令」以前の事例にも数多く言及した「研究書」と言うべきものだと推論され、その実例をいくつか挙げられたのである。簡単には「古記」・その「注釈」を読み過ごせない、と断言されたのだ。

 そして、『「令集解」の「古記・注釈」中に、「(前期)難波宮」設立に際しての「番匠」の存在を疑わせる記述部分がある』と読解されたのである。『三嶋神社縁起』で発見された「番匠」語の詳細を、「令集解」への「古記」解釈から読み解き、説明されたのだ。驚天動地だが、反論のしようがない指摘・その論理であった。

 阿部氏は、「番匠」とは「養老律令・賦役令」にある「丁匠」がそれに相当すると発見されたのだ。さらに厳密な「令集解」解読から、この制度が「大宝令」以前に生まれ、関連する「語」の使用も「孝徳時代」からだと論定されたのである。

 阿部氏の綿密な論考は「番匠」制度の運用にも及んだ。その時(「前期難波宮」造営時)、「近国(西方の民)」から「中つ国(瀬戸内周辺国)」・「遠国(近畿地方の国)」と「匠」の徴発国が変化しているとも読解されたのである。各地から交互に「匠」の徴発を行うこの制度は、「交番制」を意味する。そこから、「番匠」制度がすでに造られ諸国から「匠」集団を徴集していた、と推定したのである(この「遠・近・西方の民」の設定から、この制度の創立者が「九州王朝」だとも判断された)。

 細部にまで及んだこれらの論考は、正木氏の先見的な数々の推論を裏付けるものだった。阿部氏は、正木氏の論考の正しさを追証し、支持されたのである。

 私も両者の立論には納得させられた。正木氏により「孝徳期に番匠制度が始まった(「三島神社縁起」)」と発見され、阿部氏により「番匠」の痕跡が確認され・運用も推定されたのである(しかも「令集解」に、「番匠」語の痕跡がはっきり残っていたのだ!)。反論のしようがない驚きの「正木・阿部論考」と思えた。

 そして、「科野」に残る「検地帳」・「番匠」地名には、両氏の推定を更に裏付ける「論理」と「考古」が残っていると私には思えた。

 

3.もう一つの「番匠」の論理

 阿部周一氏論考にある「番匠」の運用法(「徴集」部分)を紹介しよう。

 論考にはこうある。『「九州」地方からの「近国」としての徴発が最初にあり、その後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となったと思われる

 「番匠」制度を説明した重要な部分と思える。ここから「匠」徴集の際、ランダムに(思いつくままに)「国」を決めていない、と読み取れる。その移動の難易度や「匠」の技能特徴などを考慮、派遣の決定に際して「国々をブロックとした」と予想されるのである。計画的に「匠」を徴集していたと解るのだ。

 そう考えたとき、「神科条里」想定地の「検地帳・類」に記載されるもう一つの特徴的な「地名」事実に思い至る。

 それが、「国名」を示す「地名」の存在である。それが「神科条里」と隣接する村にだけ残っているのである。

 「笹井村検地帳」には、「はりま(播磨)町・いずみ(和泉)町・するが(駿河)田」とあり、「染谷村検地帳」には「えちご(越後)田」、「新谷村」には「さぬき(讃岐)田」、「伊勢山村検地帳」には「やまと(大和)町」、と記載されているのだ。「いせ(伊勢)」名も多く残されていた(合計すると7か国名。さらに「我妻」「びぜん」「たじま」名も離れた他の村から確認された)。

 私には、これらが「国名」であることに間違いないと思えた。そして驚くべきことにも気づいたのだ。

 これらの「国々」は「ブロックを形成している」と思えたのだ。ランダムな選択による地名・国名の列記とは思えなかったのだ。「播磨・和泉・駿河・越後・讃岐・大和・伊勢」、私にはこの国名は「近畿・中部」地区に属する「国名」と判断されたのだ。そしてそれは阿部氏論考にある『遠国(国名)』がピッタリ該当すると思えた。

 「科野・神科条里」で「番匠」と呼ばれた「土地造成の匠」とは、「令集解」にある『「遠国(近畿・中部地方)」から徴集された匠たち』であったかと推測できるのだ。「神科条里・その周辺」に残る「国地名」は、阿部氏推論の実証例・具体例と思えたのだ。

 新発見「資料」から「番匠」制度の存在が確定された現在、これらの国名が残る「神科条里地名」は、第二の「番匠の論理」を示していると私には思えた。

 

4.真田の「番匠」地名

 先日、真田町・清水潤氏から真田町「番匠」について貴重なご教示を受けた。私の論考中、「同一と思えるが不明」とした『まんちう村』地名表記(資料・「不明 7」〔注②〕)に関することであった。

 この地名は、清水家伝来の古文書『真田氏給人知行地検地帳(天正6~7年頃か)』に残っていた(同文書は、地域の重要古文書として「信濃資料」にも取り上げられ、更に郷土史家で地名研究家でもある「小池雅夫」氏によって詳細に研究されている)。

 清水氏は、「まんちう」とは一地名ではなく、『真田検地帳』に耕作者が複数名書かれている事から、一地名(地点名)ではなく連続する地名ではないかと指摘されたのである。真田の「まんちう(番匠)」とは地域名でもあろうか、と指摘されたのだ。

 確かに「真田町」には、現在でも「番匠」が「字」名として残り、伝承も「番匠神社」の存在を伝えている。それもあり「不明」としながらも、「まんちう」とは「番匠」であろうと私は確信していたのだが、それ以上の推測が可能だというありがたい指摘であった。私は「真田検地帳」を詳細に確認する事とした。

 『真田給人知行地検地帳』の該当部分を表示する。🔴印は吉村による)
Photo_20221215151801
「8か所」に「まんちう(中)」名があり連続していた。さらに土地所有者「松尾豊前守」の配下と思える複数の耕作者名(7名)も連続して書かれていた。

 指摘された通りであった。真田「まんちう(番匠)」とは、一地点名ではなく「地域」を表す広域地名だったのである。「真田検地帳」からそう断言されるのだ。

 小冊子作成の際、これらの「まんちう」名を一つの地名として扱ってしまったと思えた。
Photo_20221215152201
 上図は、現在の「真田町・字(あざ)」図の一部である。「番匠」地名が確認される(朱線部)。

 古代の「番匠」語がそのまま「地域」名となっていると思えた。「まんちう」と書かれている「真田

検地帳」の存在が、両者を繋げていると思えた。

 現地名にも、「番匠」語が残っていたのである!(しかも重なっているのだ!)

 「番匠神社」が存在したという伝承も真実味を帯びてくる。「真田町史」では、『「番匠」地名の命名された理由は全く不明である』とするが、その説明のままではすまないだろう。推論(結論)はすでに出たと思えるからだ。

 実は「検地帳」の「神科条里」地名にも、「番匠」語が「町」名と結びついて残っている(資料 25・26・27)。「神科」以外にもある(38)。だから「真田の番匠」地名と考え併せ、こう判断してもよいだろう。『「番匠」地名には、広域地を示す地名もあった!

 「番匠」語が「町」・「村」・「字(あざ)」名として残っている事から、派遣された「番匠」(と呼ばれた匠)は、想像より「多人数」で、永くそこで生活していたとも推察される(「検地帳」に「バンショウ」地名が多く残された理由の一つなのかも知れない)。つまり『「多数の匠」が長期間「科野」での仕事に携わった』のである。

 そう考えた時、上田地区でこれに該当する事業は一つしかないと思える。それが、「神川」を中心とした「治水(灌漑)・土地改良事業」である。「神川」左部に「吉田堰」や水田を造り、右部では堰(堀越堰など)や「神科条里」を造った事業だ。

 水を確保し豊かな土地を造る、それは進出地支配を完全なものとする一連の事業と思えた。

 「神科条里」は、九州王朝が作ったと改めて断言できるのである。

 「神科条里・周辺」を図とする。論考と併せてご覧いただければ幸いです。
Photo_20221215152401

 

5.上田の「国分寺二寺(僧寺・尼寺)」

 さて、「科野・上田市」には「国分寺」が至近距離に二つある。定説では、発掘された「寺」遺構の大きなものを「国分寺・僧寺(跡)」、小さな方を「国分寺・尼寺(跡)」と判断、歴史書にもそう紹介されている。

 昭和38年から数回にわたり発掘が行われた。「発掘50年史(信濃国分寺資料館)」も刊行されている。発掘された状況を現在地図と重ね合わせてみる(上記書中にもある)。「国分寺僧寺」と、「国分寺・尼寺」の関係が良くわかる。

奈良時代の信濃国分寺僧寺尼寺伽藍配置図〔注③〕
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 この両寺は、「聖武天皇」による「国分寺設立の詔」に始まった「二寺(僧寺・尼寺)建立」の具体例だとされた。細かな疑問点が生まれていたが深い追及はなされず、むしろ二寺の存在は、天皇の威光が地方に及んだ好例と思われて来た。

 文献はほとんどなく、主として「考古学」からこの「国分寺」問題が取り組まれて来た。それらの努力の結果、「僧寺」の「聖武期」建立が証明される(「瓦」の判定が決め手となった)。

 自動的に左脇の小伽藍は、「尼寺」と判断される。それへの議論・検討の余地は全くなかった。「日本書紀・聖武天皇の詔」が、絶対的判断基準だったからである。一つが「僧寺」なら、もう一つは後に創建された「尼寺」に決まっているのである(?)。

 ところで改めて、「伽藍配置」・「二寺遺構図」を見てほしい。「アレッ?」「なんかオカシイなあ!」子供でもそれには気付くだろう。

 どう見ても「二寺は同方向を向いていない」のである。「伽藍配置の中心(軸)線」が、「二寺」では明瞭に異なっているのだ。皆様もぜひご確認ください。

 見過ごしてしまうが、これは重要な事である。「伽藍中心線の違い」は、作成者の思想の違いを示すと思えるからである。近距離にある建物方向線の違いは、「前・建造主体(前王朝)」を否定する例が多いとも最近の「考古学」は指摘しているのだ。

 確かにおかしい、「僧寺」のあと「尼寺」が築造されたと言う定説通りなら、後の「尼寺」の「伽藍中心線」は「僧寺」の中心線と「平行」な筈であろう。同じ体制下に作られた二寺で、しかも隣り合わせの二寺である。隣接する「尼寺」をわざわざ「方向(中心線の)」を変えて作る理由など全くないのだ。

 しかし、確実に両寺の中心線は異なっている。だから疑問がわいて当然と思える。ひょっとしたら「尼寺」が先に創建されたのではないか。つまり、九州王朝により作られた「○○寺」が先で、それが後に「尼寺」と呼ばれたのではないだろうか。

 そう疑った時、問題とする「尼寺中心線」への数多い論考に気づく。

 「神科条里」を発見された白井恒文氏は、その著書中で再三にわたり『尼寺の伽藍中心線は、条里線と一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」)と主張されていた。

 各種資料を根拠としたこの推定を「信濃国分寺発掘団長・斎藤忠氏」も間違いないとしたようだし、最近でも「山田春廣氏」が航空図・僧寺参道などから同様な推定をされている(ブログ・「sanmaoの暦歴徒然草」H18・2・27)。それらが認められ平成元年発行の「長野県史」にもこの推論が記載されている(「現在版」にはないが)。

 発見者も、一流歴史家も、在野の研究家も、定説も、異口同音に「尼寺中心線は条里線と重なる」と主張し、それが認められているのだ。

 これは「尼寺」が条里に組み込まれていた、つまり条里と共に創建されたことを意味している。白井氏も、尼寺発掘現場から見えない崖の上の条里線が「尼寺中心線」となぜ一致するのかを不思議がっていた(残念ながら氏には、「○○寺」が先に創建されたなどとは思いもつかない事だったのだ)。

 永らく「考古学」は、こう断定してきた。『条里線と尼寺伽藍中心線は一致すると思えるが、国分寺創建問題はそれとは無関係である』、と。

 今回の「番匠」地名が示した『神科条里は九州王朝によって作られた』結論は、この定説を疑問視、いや否定する。

 『条里は九州王朝により作られた』のだから、当然『「尼寺」もその時に作られた』のである。つまり、条里線上にあった「尼寺」とは、九州王朝により作られた「○○寺(国府寺)」だったのだ!

 まさに驚天動地の結論となる。だが論理は、そう言うのだ。

 そしてこう考えると「伽藍中心線の違い」が、不思議ではなくなる。「九州王朝が作った寺(〇〇寺)」を否定すべく、次の時代に建立された寺が、聖武天皇(大和王朝)の「国分寺・僧寺」となるからである。そう考えた時「中心線の違い」は当然の事となる。前王朝創建寺を否定する為に中心線が変わったと思えるからだ。

 「尼寺」と言われた「○○寺」こそ、九州王朝により建立された寺だったのだ。その寺がリメイクされ「聖武の詔体制」に組み込まれ、「尼寺」と呼ばれるようになったと思える。九州王朝が創建した「○○寺」が「尼寺」となり、今に残るのだ。

 そしてこれは今迄の「多元」研究者の数々の推定を裏付ける。

 研究者たちは既に「九州王朝・多利思北孤」による「六十六分国」・「国府寺の設置」を推定していたのである。

 古賀達也氏は一連の「九州年号」研究・「多利思北孤・聖徳太子」研究などから、『二つある「国分寺」〔注④〕』を指摘し、『告貴元年(594)の「国分(府)寺」設立』を先駆的に推論されていたが、その推論が正しいと思えるのだ。現実に「科野」に「九州王朝の寺」が遺存しているからである(正木氏も、「九州年号「端正」と多利思北孤の事績」・「盗まれた分国と能楽の祖」などで同様な推論をされている)。

 両氏の推論の正しさが、上田に残る「番匠」地名と考古(「信濃国分寺」二寺中心軸線の違い)で証明されたと私には思えた。

 『九州王朝は、上田周辺を「科野の国」とし(分国し)、そこに「国分(府)寺」を建立した』と結論してよいと思えた。資料にしか残存しない「九州王朝・国分(府)寺」が、上田には「考古遺構」として実存しているのである!

 そして「○○寺(尼寺)」・「信濃国分寺(僧寺)」には未解決とされる数多くの考古問題がある。新規に生まれた「多元からの解釈」がそれを解決すると思える。

 「○○寺」建物・建物間に使われた単位は?「建物」・「塔」への解釈は?伽藍配置に見える「二王朝」の仏教観は?「蕨手文瓦」の位置づけは?「国分寺」地籍遺構に見られる「多元仏教観」は?・・・等々が改めて見直されるべきだろう(「蕨手文瓦」については些か論考した)。「聖武詔」・「古代道」への新推定も生まれるだろう。

 論考してきた「条里」と「国府寺」との関係だが、これは「科野」だけの問題ではないと思える。

 「国分寺」と「条里遺構」とが異なる方向線を示している例が各地でみられ、「国分寺・二寺」の中心線が異なる例も報告されている。

 「科野」がそうだったように、「体制」の違いがそれらを生んだとは推論できないだろうか?「多元」論考だけがそれを解決すると私は思う。

 

6.最後に

 今回の論考で、もう一つの問題にはあえて言及しなかった。

 科野・「○○寺」の「7世紀創建」は確定するが、それが「7世紀初頭か、中期か」がより重要な問題となってくる。この地の6,7世紀の歴史進展が日本史上のある難問と関わってくると思えるからである。

 私は「7世紀初頭」には「科野国府寺」が創建されたと思っている。そうでなくては、科野(上田周辺)に残る「6世紀・磐井の乱」と関連する(と思える)数多くの「考古資料」が説明できないからである。

 飛躍した推論だが、「科野の国(上田周辺)」は、「磐井の乱」の重要な舞台だったと私は思っている。全国でも上田にしか発見されない「蕨手文様を持つ軒丸瓦・石祠」と「高良社」の集中、さらに他の多くの考古資料も6世紀・「磐井の乱」との関連を想定しなくては説明できないからだ(特に「蕨手文様・瓦」への推定から)。

 前勢力(「磐井の乱」を起こした勢力)を否定する為に、「科野」の「分国」・「国府寺」創建を急いだと私は思っている。だから、「○○寺」の創建は「7世紀始め」か、と推論しているのだが・・・

(終)

*「国分寺」「蕨手文瓦」への論考は、ブログ「sanmao の暦歴徒然草」に寄稿した私論考をご覧くだされば幸いです。「蕨手文・瓦」からの「国府(分)寺」推論となっています。*

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注① 前論 ‥‥‥ 科野・「神科条里」① 「条里」と「番匠」編を指しています。

注② 資料・「不明 7」 ‥‥‥ 資料とは、科野・「神科条里」① 「条里」と「番匠」編にある次の表(再掲)で、「不明 7」とは同表中の項目「同一と思える語」にある「7.まんちう村 真田氏給人知行地検地帳」(朱字部分)のことです。
1.ばんば 櫻井村御縄打帳 2.番匠田 井子村御縄打帳
3.ばんじょう田 祢津村検地水帳 4.ばんじょう畠 祢津村姫小沢検地帳
5.ばんじょう田 姫小沢村六段水帳 6.ばんば田 木村所左エ門御改之帳東上田ノ内
7.ばんば 田畑惣貫之御帳上深井村 8.番匠畑 本貫文改帳加沢村検地水帳
9.はんしやう田 田畑貫高帳田中町 10.ばん志やう田 夏目村御検地水帳
11.はん志やう免 田畑貫高帳神川村 12.ばんじやう 田畑貫高帳国分寺村
13.ばんば田 田畑貫高御改帳小井田村 14.番場之畑 田畑貫高御改帳森村
15.ばんば田 田畑貫高御改帳森村 16.ばんば田 田畑貫高御改帳林之郷
17.はんじょう田 田畑貫高御改帳下郷村 18.ばんじょう田 田畑貫高御改帳矢沢村
19.番免 田畑貫高御改帳岩清水村 20.はんじょう村 田畑貫高御改帳 洗馬組下原村
21. 番川原 本貫文水入帳傍陽村横道 22.ばん志やう田 軽井沢村貫寄御帳
23.ばんば 軽井沢村貫寄御帳 24.ばんじょう町 田畑貫高帳伊勢山村
25.番匠町 田畑貫高帳長島村 26.万匠町 貫高改帳染谷村
27.ばんの田 藤原田村縄打帳 28.ばんば 御縄打帳依田村御岳堂
29.ばんば 古開・新開御縄打帳 30.ばんば 飯沼村検地帳
31. はんちやう田 長窪古町水帳 32. ばんじょう免 長窪古町水帳
33. ばん志やう田 長窪新町御検地水帳 34.番匠はた 東松本帳
35.番匠免 田畑貫高御帳小嶋村 36.番免 前山之郷御毛付帳
37.番匠村畠 前山之郷御毛付帳 38.ばんでう村 田畑貫高御帳東前山村
39. 番匠めん 野倉惣帳 40. ばんちやう田 田畑貫高御帳別所村
41.番匠田 小泉村(推定・寛永末) 42. ばんば 小泉村(推定・寛永末)
43.坂上はた 田畑貫高御帳上室賀村 44.はん上坂はた 田畑貫高御帳上室賀村
45.はんしやう免 貫高帳奈良本村 46.番匠田 名寄帳 諏訪方村
47.番匠田 田畑ならし帳中之条村 48.ばん丁田 田畑貫高御帳吉田村
49. 番匠田 毛附御検見御引方勘定帳仁古田村 50.ばんじょう田 田畑貫高御帳村松郷
同一と思える語
1.半入道 貫高帳 金剛寺村 2.はんハ田 田畑貫高帳野竹村
3.下まん上 名寄帳 ふ三入村 4.中まんちょう 田畑貫高御帳御所村
5.下まんちょう 田畑貫高御帳 御所村 6.中まんぢやう 名寄帳 諏訪形村
7.まんちう村 真田氏給人知行地検地帳

注③ 奈良時代の信濃国分寺僧寺尼寺伽藍配置図 ‥‥‥ この伽藍配置図は発掘調査での正確な寸法に基づいていません。「イメージ図」程度のものです。妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―の「第36図 僧寺伽藍と推定塔跡建物跡位置図」が発掘調査に基づく正確な伽藍配置図です。
 なお、管見では、「信濃国分僧寺」は「聖武国分寺」として建立された寺ではなく、「〇〇寺」の後に建てられた「🔲🔲寺(五重塔があった)」に「七重塔」を建てて「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」としたものだ、とみています。「信濃国分寺」には異なる方位が3つあるのです(❶「〇〇寺」の中軸線、❷「僧寺」の中軸線、❸正方位の推定19×19mの建物跡と判断される版築土層)。この❸が「聖武・七重塔」であると見ています。そう考えると「〇〇寺」はかなり早い時期に建立された(すなわち、条里もかなり早い時期に造営された)ことになります。

注④ 二つある「国分寺」 ‥‥‥ 「大和国分寺」です。一つは「総国分寺」である「東大寺」、もう一つは橿原市の「国分寺」です。

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