「多元Skype会」でのご質問
―感想―[コラム]
2023年1月16日に、吉村八洲男さまよりご寄稿いただきましたので掲載いたします。
なお、神科条里略図の位置は、ブログ掲載上山田の一存で変更しています。ご了承ください。
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「多元Skype会」でのご質問
上田市 吉村 八洲男
過日行われた「多元Skype会」では、貴重なご意見を頂いた。大いに感謝するのだが、いささかの感想も持った。以下にいくつかを述べてみたい。
1.「番匠」地名について
私論考では、上田に残る「番匠」地名への不審を述べた。論旨は本文に尽きるのだが、郷土史家による「番匠」語への解釈が私には不明で、私論はそこを論考した事になる。
『「番匠」とは「大工」の事を言う』が定説であったが、これに疑問があったのである。
疑問は二点であった。上田「検地帳・類」にも多用されている「番匠」語の語義(根拠とする資料や用例)と、その説明に多用される「大工」語の語義が不明と思えたからだ。
「番匠」語への語義説明資料として郷土史家が必ず用いるのが「令集解」(「職員令」「木工寮」に関する記載)であるが、驚く事にそこには「番匠」語は登場しない。「木工寮」部分には「番匠」「大工」語は出ていないのだ。さらに史家は根拠とする他の文献を説明していないと思えた。
しかし、各地の「検地帳」や地名(「番匠川(大分県)」もある)にはこの「番匠」語が多く残る。「番匠」語とは、出典・根拠が不明なのに中世・近世ではなぜか多用された「言葉」といえそうだ。大和朝廷律令下の役職名にもこの名称はない。それなのになぜ定説では、「大工(だいく)」を意味すると言うのだ?全国でもこの解釈が多用されるのだ?
「大工」語にも不明な点がある。まず「令集解」にはこの語句への説明がない。現在は「木工匠・大工(だいく)」職を意味するが、古代も同じように使われたとは思えない。『大「工匠」』、つまり「工匠」の「長」としての使用が先と思える。「文献」(「令集解・職員令」では「大」とは「長官」の意)・「棟札」などに残る「小工」表記からも、『「工匠」の「長」』を意味する「大工(匠)」用例があったと窺える。その時の呼び方は「だいこう」であったかも知れない。
これらを考えた時、「三嶋神社縁起」文からの「正木裕」氏の発見・論考の重要性に改めて気づく。
「三七代孝徳天王位。番匠初。常色二戊申日本国御巡禮給。・・・」である。
九州年号と共に表記されたこの「番匠」語には、相応の評価がなされるべきだろう。最古の「番匠」語例と思える。そしてここからは『「番匠」即「大工(だいく)」だ』とは言えないと解る。「工匠」を「番(かわるがわる)」徴集した「制度」が想起されてよいと思える。だから「番匠」には、様々な「職種」があったと思われるのだ。
となると上田周辺での60もの「番匠」語が、「土地・古代条里水田」造成者として(又は関連語として)使用されていることには注目されてよいだろう。『縁起』中で発見された「番匠」語の用法(制度名?)をそのまま残すかと思えるのだ。少なくとも「大工」職を意味してはいないと思える。定説はおかしいと判断されよう。私には上田での「番匠(職)」とは、「日本書紀」に表現されている「鼠(ねずみ)」語と同じ職種と思えたのだが(「鼠再論(二)」をご覧ください)。
阿部周一氏の論考、『大和朝「律令制」下では「番匠」語が消え「丁匠」語がそれに該当する』も大きな意味を持つと思えた。同じく「令集解」から『「徴集国」をブロック化して「番匠」制を運用した』と推定した事にも注目される。「番匠」制度の実際(徴集・運用)を示していると思えるからで、「神科条里」での「検地帳に残る国名」がそれに該当するかと思え、阿部氏の論考の正しさを証明すると思えた。
地方での使用の痕跡は残るが「律令」には明記されていないのが「番匠」語なのである。ここからも大和朝の「番匠」への対処が窺えると思えた。大和朝は「番匠」語を「制度」として残したのかも知れないが、どこかの時点でそれを消したと思える(有名無実化)。
それなのになぜ上田周辺には「60」もの「番匠」語が残るのだろう(2個や3個ではない)。そして7世紀と思える「条里・寺」が残るのだろう。私にはそれが根本の疑問なのである。
2.「免」について
上田・「「検地帳・類」には、「番匠免」のように「ばんしょう」が「免」と繋がり「成句」となっている例がある。取り上げた57例中の「6」例が該当する。
この「免」語の用例については、郷土史家の「小池雅夫」氏が既に論考している(小池氏は上田・小県地方の地名研究の第一人者であり、紹介した小冊子の編集にも携わった研究者である)。
小池氏は、郷土史研究誌『信濃』・22巻10号で「信州上田・小県地方の免地名」と題し、詳細に論考している。そこでの結論めいた表現を借りると、『(検地帳などでの)・・・上田・小県地方における免(めん)の呼称は、(中略)租税免除を意味する用語として使用されている』とし、「年貢割付状」などからは「年貢」の意味もあったか、としている。さらに、『江戸初期において、既に地名化し、単に小名として田畑の一筆ごとの位置を示す必要から記録にとどめられた免地名』とも言い切っている。
小池氏は、「検地帳・類」・「年貢割付状」等に表記された「免地名」の270例をあげ、その一つ一つの用例をチェック、江戸期の「免」用例は「租税免除」を意味すると推定したのである。
それもあり、私論でも「番匠免」はこれに該当する例として扱った。
ただ、それらの田・畑等が「地租免除」となった理由には小池氏の論考も言及していない。私的には、「免(地)」の本来的な発生要因は「神」への「捧げもの」に由来すると理解するので、「免」名が付いた理由は、「Skype会」でのご指摘の通りと思われる。他地域ではこの用例が頻出するかも知れないが、私の論考はあくまで「江戸期」の上田・小県地方の「検地帳・類」からの論考である。すでに結論が出ていると思える、その点にはご理解を頂けたらと思う。
ただ小池氏の論考で興味深い事は、「免地名」を大別した時、『1.信仰関係免地名 2.村の経費関係免地名 3.その他』とされた事で、さらに上田地域では不思議な「地域差」があるともされている点である。また、「すず(鈴)の免」(神楽の鈴)地名が最多であるとも指摘されている。
私も「検地帳」を調べ、「ぶたい(舞台)」地名、「まい(舞)」地名がこの地に多く残りそこに地域差があると思っていた。だからこれらは関連した注目すべき地名と思え、「番匠」語が持った地域差とも関連するかも知れないと感じた。そういえば、上田の神社に残る神楽が「浦安の舞」だけなのも不思議な事ではある。
3.「神科条里」研究と考古
「鼠再論(三)」に既述しているが、「神科条里」発見後の研究進展・評価にはいささかの「ズレ」が見られる点を主張したい(長くなります、その点お詫びします)。
「神科条里」は昭和38年「白井恒文」氏により発見された(古田武彦先生が『「邪馬台国」はなかった』を発表される9年前、まだ「多元歴史観」は生まれていない)。
白井氏の発見は歴史界から驚きをもって迎えられた。当時の「条里遺構」は部分的な発掘に限定され、「神科条里」のように格子状の畦畔が「方6丁(町)」を形成し、水路を伴って台地上に広大に展開する事なぞ予想もつかなかったのだ。そこには古代道や名称付けられた「方」区画の存在が予測され、「寺」さえ組み込まれたかと推測されたのである。受けた衝撃のほどが解ろう。しかも地方でそれらが確認されたのだ!
発見からは「歴史地理学」分野が生まれ、「古代道」・「条里」・その他への研究が一気に進むのだが、振り返ると早すぎる発見だったと言えるかもしれない。発見者(白井氏)も研究者も、一元歴史観からの理解・解釈に終始したからである。発見がもたらした真の貴重さを示す「多元歴史観」は、その時点ではまだ市民権を得ていなかったのだ。
『孝徳天皇による「班田収授の詔」から始まった「条里制」だが、「平城京」に先立ち地方に存在する事などはあり得ない。「律令制」の地方への波及を考えても「8世紀」・それ以降にこの「神科条里」が作成されたと思える』
これが追及の際の暗黙の結論だったのである。条里作成者には疑問は持たれないのだ。
さて、郷土史家「一志茂樹」氏は長野県の古代史研究を主導した優れた研究者だが、かねてより「神科の地名」に着目、そこから宿願とした「信濃国府」の発見・確定を目指し研究を進めていた。
白井氏の条里発見を受け、一志氏は永年の研究を一気に「信濃国府」論考として発表する。「神科(染谷台)台地の条里遺構」に「国府」が存在するとしたのである。触発されて長野県下の郷土史家も一斉に各分野から「神科条里」への究明を進める。歴史研究誌『信濃』は、関連研究一色となった。
そして一志氏・郷土史家は、「神科条里遺構」中に「信濃国府」が存在すると結論するのだ。
上田市は47年から市内に点在する「条里遺構(水田)」を調査し、続いて昭和57年から5回にわたり正式な調査団による「神科条里遺構」発掘を行う。それが、「創置の信濃国府跡推定地発掘調査」である。タイトルから解るように、「条里遺構」の詳細解明を目指した発掘ではなく、「古代界」最大の謎だった「信濃国府」の存在確認が最大のテーマだったのである(そこにはある種の「ズレ」があったのだ)。
だが発掘からの結論は、「8・9世紀に作成された条里」とした歴史家諸氏の予想とは大きく乖離する。発掘からの「考古」は、それを否定したからだ。
「土器」類から説明しよう。
なぜか「破片」とされた「土器・類」が圧倒的に多く決め手にはならなかったのだが、その8割が「土師器」で、製法・形式分類からは、「7世紀(鬼高期末期)」が主であろうと想定された。石器類もあり、須恵器も少量が確認された。また数点の「土製模造鏡」もあり注目される。
住居・家屋関係では、掘立柱建物(小屋)祉と思える「四十数棟」が「柱穴」を伴い確認された。重なり合う箇所もあり(永年の使用が窺えるか)、穴中に石が残る大型建物(「柱穴」から)址も複数発見された(性格は不明とされた)。これらはいずれも古来の建築様式(「柱穴を掘りそこに柱を立てる」「(土台)石を使わない」形式)で、やはり「7世紀・又はそれ以前」の築造を示していた。住居跡以外では「祭祀場」跡かと想定される建物が発見される。
5回に及ぶ「国府」確認発掘で(「神科条里遺構」の「1000分の8」しか調査されていないのだが)調査団は結論する。『この条里は8世紀ではないと思える、つまり「平城京以後」に作成されたものではなく、だから当然「国府」ではないだろう。』
「国府」が存在したと決めるには、余りにも遺構が古すぎたのである。結果、「国府」説は否定される。「発掘調査書」では、慎重ではあるが再三にわたり「条里遺構」は「7世紀の遺構」と表現する・・・。
こうして「信濃国府」の遺存を信じた多くの研究者達の興味は薄れていく。行政の限られた予算も、「信濃国分寺」調査に主力が置かれていく・・7世紀に「条里制」が存在する事などあり得ないと思われていた時代だ。7世紀を示す「条里の考古」は無視されてしまう。「国府」もないのだ。こうして「神科条里」への関心は薄れていくのである。
肝心で最大の疑問、『水利のない台地上に「堰」や灌漑用水路を張り巡らせ、地域にも条里水田を造り、そして「寺」さえつくった強大な権力を持つ体制』を追求する事など考えもしないのだ。そんな体制が存在する筈がないからである。
「多元史観」は「市民権」を得ていなかった。宅地化により発掘も困難さを増した。早すぎた発見が「神科条里」への正当な評価を阻み、発掘を不可能にしたと思える。
こうして『正体不明な地方豪族によりこの条里が作られた』と結論され、説明しきれないまま『条里的遺構』という奇妙な用語が使われだす。「条里」だが「条里」ではない、と言うのだ・・・。
4.「〇〇寺(尼寺)」と「神科条里」
発見された白井氏は、大学では測量も学ばれていた。その経験を活かし条里の研究を進められたのだが、「条里」と「○○寺」との関係をこう説明される。
『発掘された「国分尼寺」の中心線と磁北とは5°13E、「国分僧寺」の場合は3°15Eの差異が認められる』とし、『「条里遺構」の「中心地帯」は、ほぼ5°E』だから、誤差の2°は仕方ないとしても、とうてい「僧寺」とは一致しない、と。
こうも述べている。『「条里」のある「千曲川・第3段丘面」は、「尼寺」の発掘現場(「第2段丘面」)からは望見できないのに、「地図」上では(条里南北線が)一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」から)。
やはり、『「〇〇寺(尼寺)」は「神科条里」に組み込まれた「寺」』と結論してよいと思う(この推定が「長野県史」にも記載されていた事は、既述した)。
「条里遺構」への追及がおろそかにされたのと同じように、この重要発見も正当に認知されなかったと思われる。
同時期に発掘を開始した「信濃国分寺・遺構」だが、文献がなく「考古」「瓦」からの各種研究がそこに集中する。結果、「尼寺」は等閑視され「僧寺の考古」「日本書紀からの歴史観」を援用した当たり障りのない判断・推測しかなされてこない。今でも7世紀創建「○○寺」に、8世紀の「僧寺」からの「考古・歴史」判断が使われているのだ・・・。
「僧寺」と「尼寺」の中心線の違いはなぜ生まれたのだろう。
「条里(水田)」にも使われたと思える「尼寺での単位」は何だろう。
「尼寺」と「僧寺」の伽藍配置・他の違いは何が原因だろう。
「尼寺」と「僧寺」とが異常なほど(全国一)接近しているがその理由は何だろう。
「尼寺・尼房」の大きさが「僧寺・僧房」よりも大きく、しかも「日本書紀」叙述とは合致しない。なぜだろう。
等々は不明なままなのである。
そして、最近指摘され始めた「瓦・先行建物・たたら跡」への疑問がここに加わる。
疑問だらけの「尼寺」なのである。「多元史観」からの詳細な説明・推測こそがそれを解決すると思えるのだが。
5.終わりに
土地勘のない方々には奇異に思えるかも知れないが、私は「番匠・条里・寺」が「三位一体」で「科野」の古代を解く、と思っている。「神科条里」・そこに組み込まれた「〇〇寺(尼寺)」は、全国から徴集した「番匠」を使った九州王朝が作ったもの、と信ずるからである。「条里」が7世紀に作られたのなら「寺」も7世紀に創建されたのに決まっている。つまり「九州王朝の寺」なのである。
私は、「弥生前期」には既に「九州勢」がこの地に進出し始めたと思っている。既述してきたように、「栗林式土器」分布がそれを示すと思っているのだ・・・だから7世紀の条里は、当然な事だとも思っている。
改めて皆様にもご理解を頂けたらと思います。
(終)
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