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2023年1月

2023年1月30日 (月)

「松江商業高校」グルーピー9―第24回定期演奏会―

「松江商業高校」グルーピー9
第24回定期演奏会[「松江商業高校」グルーピー] 

 投稿者が楽曲にチャプターを入れてくれましたので、時間が無い方はお好みの楽曲だけでも視聴なさってください。

松江商業高等学校 吹奏楽部@第24回定期演奏会【4K】
投稿者コメント
Matsue Commercial High School Wind Orchestra
日時:令和5年1月6日 金曜日 午後6時30分~
場所:島根県民会館大ホール(島根県松江市)
演奏曲 1ST STAGE
  0:00:00 ARSENAL
  0:02:20 September
  0:07:50 マーチ「ブルー・スプリング」
  0:11:15 もののけ姫セレクション
  0:20:01 お楽しみコナー第一弾
   0:22:55 情熱大陸
   0:26:00 Official髭男dism – Subtitle
  0:32:49 ディズニー・ハイライト
  0:48:32 お楽しみコーナー第二段
   0:54:07 明日があるさ
   0:54:56 トランペットパート
   0:58:31 金髪セーラー大好き四人組
  1:05:07 MATSUSHO SPECIAL 2022
   1:05:25 おジャ魔女カーニバル!!
   1:06:38 DO-RE-MI Ver.MatsushoR3
   1:08:20 鎌倉殿の13人メインテーマ
   1:09:38 Love so sweet
   1:11:22 ミックスナッツ
   1:12:33 栄光の扉
   1:14:13 Paradise Has No Border
   1:16:02 ディープ・パープル・メドレー Deep Purple Medley 2ND STAGE
  1:18:56 CHILDREN OF SANCHEZ
  1:24:26 ONE MORE TIME,CHUCK COREA
  1:27:20 Never Enough
  1:30:21 Another Day of Sun
  1:32:43 SEET MEMORIES
  1:35:28 CANTINA BAND "A LA" SING,SING,SING
  1:39:42 GR
  1:45:23 部長挨拶
  1:56:20 ハナミズキ
  1:59:52 新時代
  2:02:02 ウィーアー
 ※1 音楽著作権の関係で広告が表示されます。
  2 コメントは承認制になっており、全てのコメントが表示されるとは限
   りません。
  3 レコーダーの電源を入れ忘れたため、20分あたりまではカメラ外部
   マイクの音声になります。m(__)m

「京都橘高校」グルーピー94―第1回「大阪キャッスルマーチング」(2019年11月23日)―

「京都橘高校」グルーピー94
第1回「大阪キャッスルマーチング」2019年11月23日)―[「京都橘高校」グルーピー]

 投稿者コメントにある通り、過去動画の再編集版とのことです。

 元動画と再編集版を観比べ・聴き比べたい方は、記事末にリンクを貼ってありますのでどうぞ 

京都橘高校吹奏楽部/大阪キャッスルマーチング/ re-edited version「4k」Kyoto Tachibana SHS Band
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / Kyoto Tachibana SHS Band /
「re-edited version」

過去動画ですが動画と音声を手直し再編集致しました。
2019年11月23日、大阪城公園本丸広場で開催されました
第1回「大阪キャッスルマーチング」での
京都橘高校吹奏楽部の皆様のステージ演奏です。
※音源のライセンス関係で広告が表示されることがあります。
※動画の無断転載はお断り致します。
◎お願い◎
当コメント欄にて以下のコメントを禁止し、該当する場合は管理者権限において警告無く当該コメントの削除を行わせていただきます。
1.個人を特定する書き込み(本名・あだ名・出身校・勤務先など)
2.いわれのない誹謗中傷や差別的侮辱的な表現
3.管理者が不適切と感じたコメント及びコメントを見た方が気分を害すると思われるコメント
以上、偉そうな事を言いますが、上記の件宜しくお願い致します。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
動画楽しく観てもらえれば幸いです。

【元動画】
京都橘高校吹奏楽部 大阪キャッスルマーチング 音声補正版「4k」Kyoto Tachibana SHS Band

2023年1月28日 (土)

なんちゃって哲学―「違いがわかる」だけでは―

なんちゃって哲学
「違いがわかる」だけでは[なんちゃってシリーズ][学問・資格]

 かつて「♪ダバダ~ダ~バ~ダバダ~♪」で始まる「違いがわかる男」というキャッチコピーで知られる「ネスカフェ ゴールドブレンド」のCMがありました。

 古賀達也の洛中洛外日記第2926話 2023/01/24 多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2) に、阿部周一氏の「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について 「九州倭国王権」の貨幣として(2020年8月12日 古田史学会報159号 掲載)が要約されて紹介されています。少し長いですが引用します(文字の彩色太字化は山田による。改行は省略しています)。
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(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。
(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。
(3) 七曜紋も粒が大きい。
(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。
(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。
(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。
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 これに対する古賀氏の論評が素晴らしく適切でした。次の部分です。
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この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。
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 私が何をもって「素晴らしく適切」と言ったのか。「(1)~(4)は従来から言われてきたこと」と指摘している部分です。この古賀氏の言葉から(1)(4)を読み直してみて、「違いがわかる」という冒頭のCMを思い出したのです。

あるものごとAとBが同じであることは「感性」さえあればわかります
あるものごとAとBの違いについては「悟性」を働かせさえすればわかります。 

 上記の従来から言われてきたこと(1)(4)は、備わっている「感性」「悟性」を働かせればできることです。しかし、そこ((1)(4))までなら「学問」の名に値しません。何故なら「何故?」という「問い」もなければ「答え」もないからです。

 「学問」とは「何故?」という「問い」を立ててその「答え」を「知性と「理性を使って追求するものだからです。

 古賀氏は阿部氏が(5)(6)(7)という「答え」を導き出したことを評価しています。特に(7)を「卓見」と評価されています。

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感性」「悟性」「知性」「理性」についてはsanmaoの「なんちゃって哲学」―わかりやすい?わかりにくい?に、1~2分で読める「(なんちゃって)解説」があります。

2023年1月27日 (金)

倭国一の寺院「元興寺」(7)―太宰府にあった傍証―

倭国一の寺院「元興寺」(7)
太宰府にあった傍証[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 この「倭国一の「元興寺」」シリーズの第一回 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―2023年1月1日(日) で、次のような論理で「元興寺が太宰府にあった」としました。
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葦北津~太宰府~対馬
20230127
 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
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 私自身、「この理屈で万人が納得する」とは思えませんでした(ああも言えればこうも言える理屈=論証できていなかった)。今回、「元興寺」が太宰府にあった論理的傍証を見つけましたので報告いたします。

 

寺院の建立場所

 寺院の建立場所に地理的な条件は特にありません。人里離れた山奥にも里村の中にも建てられています。道がない場所でさえ武蔵国分寺のように「参道」で繋いでいます。つまり、建立時の事情にさえ合えば、寺院はどこにも建てられます。
参道を付けた寺院のイメージ
Photo_20230127160201
 

「元興寺」の曲がった外郭

 次の図をご覧ください。「南大門」から出た外郭が屈曲しています。
「元興寺」の曲がった外郭
Photo_20230127160401
 この外郭の曲がりは以前から気になっていましたが、やっとその理由(わけ)に気づきました。

 参道さえ付ければどこにでも建てられる寺院が、南大門から出た外郭にこのような屈曲を付けなければならない理由はただ一つだけなのです。

 

大路に面した寺院

 寺院が「大路」に面していた場合、まっすぐな外郭に「南大門」を付けると次のようになります。
真っ直ぐな外郭に付いた「南大門」
Photo_20230127160501
 当たり前ですが、これでは交通の妨げになりますので、少なくとも次の位置まで「南大門」を寺地内に下げる必要があります。

Photo_20230127160701 

 「元興寺」が太宰府にあった傍証とは、「元興寺」が「大路」に面して建てられていたことを「屈曲した外郭」(「南大門」の位置)が示している、ということです。

 「いや、平城京だからじゃないか。」という反論が成り立つでしょうか。それは成り立ちません。なぜなら、九州(葦北津~対馬までの百済人送還ルート上)に平城京はありません。九州で「条坊都市」と言えるのは「倭京(太宰府)」だけだからです。私は寡聞にして九州の「条坊都市」は「太宰府」しか存じませんが、この百済人送還ルート上で太宰府以外の「条坊都市(遺構)」の存在をご存じであればご教示くださるようお願いいたします。

 

塔の景観を損なう「南大門」

 上図は「元興寺」の伽藍配置(復原図)とは「南大門」の位置に違いがあります。すこしテーマから外れますが、その理由を検討します。

 上図では、寺院の前(すなわち「南大門」の前)に立った人が塔を仰ぎ見た時、「南大門」が塔を覆い隠す状態になります(青色で示した塔の視野角に「南大門」が入り込んでいます)。
塔の景観を損なう「南大門」
Photo_20230127160901
 

 

塔の景観を重視した伽藍配置
Photo_20230127161001

 「元興寺」の「南大門」は、塔の景観を重視して位置決めされていると考えられます。大路から寺地に入る位置(「南大門」の前)に立って塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれていることがわかります。「南大門」を通り抜けて「中門」との中間地点でも「南大門」が妨げになっていません。つまり、礼拝が終わって「中門」を通り抜けた時にも塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれているのです。

 

妄想が暴走

 ここまで解明してみると、次のような妄想の暴走が起きました。

太宰府にあった倭国一の「元興寺」は「七重塔の双塔」ではなかったか?

「高市大寺(藤原京の大官大寺)」も、その前身の「百濟大寺」も「九重塔」でした。「九重塔」があるのに倭国一の「元興寺」が五重塔であったのだろうか。「七重塔」を建てよという聖武詔勅は、倭国一の「元興寺」が「七重塔」であったからではなかったか。妄想は妄想としてとっておきましょう。

 次回は「元興寺伽藍配置」ではなく「元興寺伽藍配置」の仮説を述べる予定です。

倭国一の寺院「元興寺」(6)―「元興寺の伽藍配置」―

倭国一の寺院「元興寺」
―「元興寺の伽藍配置」―[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

【訂正のお知らせ(2023/01/27)】
「元興寺伽藍配置」と題する次図は「元興寺伽藍配置(復元図)」の誤りでしたので、図を差し替えました。
Photo_20230127115001
【訂正のお知らせ】終わり



 倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―2023年1月19日(木)は、次の事実から、倭京(太宰府)の「元興寺」は縦型の回廊をもつ古式寺院の特徴を備えているとし、内郭の縦横比は3:2の比率を持っていたとし、その様式をそのまま大安寺に移したとして、復原を試みたものです。また、それを検討する中で、塔の心々間距離が内郭の縦の長さと同じであったため、塔も道慈の「修造」前はその距離で倭京(太宰府)あるいは平城京(左京六条四坊)に建っていたであろうとしました(「双塔」で「新式」!)。

「法興寺(ほうこうじ)」(飛鳥寺(あすかでら))を平城京に移した「新元興寺」(注1)の伽藍配置が「「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」」であること
② 倭京(太宰府)に存在した倭国一の寺院「元興寺」を平城京に移築した「大安寺」も「新元興寺」と同じ「縦型」であること。
「大安寺」の「南大門」(注2)と「中門」の間が狭いので「古式寺院」(注3)とみられること

元興寺の伽藍配置(復原図)
Photo_20230127115401
一部分、外郭の屈曲を左右対称になるように、修正しています

 縦横3:2の比率がこんなにもドンピシャリと適合するとは、思ってもいませんでした。しかも、内郭(回廊基壇)の外側で当てはまるのは「信濃国分寺」の「〇〇寺」(尼寺)と同じなのですから驚きました。復原に用いた図は、奇しくも森郁夫氏の「わが国古代寺院の伽藍配置」の「挿図9 大安寺伽藍配置図1:2500」(26頁)でした。
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これは国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードできます。皆さん自身で確認できるでしょう。 

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注1 「法興寺」(飛鳥寺)を平城京に移した「新元興寺」 ‥‥‥ 『続日本紀』養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕条に「法興寺を新京に遷す。」(原文「甲寅、遷法興寺於新京。」)とあります。
 霊亀二年(七一六)五月に「元興寺」を倭京(太宰府)から平城京左京六条四坊に大安寺として移築した(「元興寺」が消滅した)ので、養老二年(七一八)九月に「法興寺(飛鳥寺)」を移して「元興寺」を名乗れたわけです(この順序関係は重要です)。次のブログ記事に詳しく述べています。
平城京の大官大寺(2)―「元興寺」が移築された―2022年2月7日(月) 

注2 「大安寺」の「南大門」 ‥‥‥ このもと倭京にあった「元興寺」の「南大門」は、『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」(原文「始徙建元興寺于左京六条四坊」)段階では文字通り「南大門」でした。しかし、「702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り[1]、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国した[1]」(Wikipedia「道慈」より)道慈が「塔院(双塔)」を七条四坊(左京六条四坊の大安寺が面した六条大路を挟んだ南ブロック)に修造した時点で「南大門」が新造されたので、もとの「南大門」を「南中門」と呼ぶことになったものです。

大安寺の「南中門」(元興寺の「南大門」)について、詳しくは次のブログ記事をご覧ください。
“大安寺式伽藍配置”は無かった ―大安寺“南大門”、塑像の証言―2017年7月10日(月)
平城京の大官大寺(1)―南中門の塑像―2022年2月7日(月)
道慈の「修造」については次のブログ記事をご覧ください。
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)

注3 「古式寺院」 ‥‥‥ 「寺地」(寺の所有地)を伽藍地(聖なる施設を配置する区域)として囲う大溝・生垣・塀等を「外郭」(どんなもので囲うかは一定していません)、外郭内をさらなる聖なる区域として囲う回廊・築地塀等を「内郭」と呼んでいます。外郭内が「寺院」で、内郭内が「寺院中枢」です。
回廊等で囲った寺院中枢に塔を置く寺院を「古式」、内郭外に塔を置く寺院を「新式」と呼び分けています。
「古式寺院」には中軸線(中門心を通り内郭を東西に二分する南北線)上に中枢伽藍を配置する「縦型」と、中軸線と直行する東西線上に中枢伽藍を配置する「横型」とがあります。「古式寺院」の内郭は、「縦型」が3:2、「横型」は2:3の縦横比率を採るのがほとんど(例外は少数)です。
 「古式」は、塔を内郭内に配置しているため、南大門(外郭の入り口)と中門(内郭の入り口)の距離が狭いという特徴があります。ほとんど、この特徴で判別可能です。
古式寺院例(縦型「四天王寺」と横型「法隆寺(西院)」)
Photo_20230123132901 Photo_20230123133001

2023年1月19日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(5)―伽藍配置の復原―

倭国一の寺院「元興寺」
伽藍配置の復原[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]

 先のブログ記事 倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―2023年1月14日(土)で、つい次のように述べました。
…………………………………………………………………………………………………………………………

(前略)①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 これでは単なる「憶測」(つまり妄想)にすぎません。事実を確認する必要があります。そこで、倭国一の寺院「元興寺」を太宰府から移築した大安寺(平城京の大官大寺)の遺跡を検討してみると、次のことが判明しました。

(1)元興寺を移築した大安寺の伽藍配置も「新元興寺」と同じ①「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」でした。
(2)大安寺の伽藍配置も、回廊基壇(外側を測定)信濃国分寺遺跡の〇〇寺(尼寺)と同じ②縦横3:2の比(古式寺院の縦型回廊)でした(復原図をご覧下さい)。
(3)大安寺の塔院(東西両塔)の塔心々間距離が縦型回廊基壇(外側を測定)と一致していました。すなわち、大安寺は元興寺をそのまま移築したと仮定すると(後に道慈による「修造(塔の移築)」があったとしても)、元興寺の塔は双塔であった可能性が高い(つまり「塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれた」という考えは間違いの可能性が高い)。

元興寺の伽藍配置の復原図
Photo_20230119130601

 この大安寺の伽藍配置については以前のブログでも検討していました。多少見解を修正しましたが、参考になさっていただければ幸いです。
平城京の大官大寺(3)―古式伽藍配置の元興寺―2022年2月8日(火)
平城京の大官大寺(4)―道慈による「修造」―2022年2月9日(水)
平城京の大官大寺(5)―大安寺式伽藍配置は無かった―2022年2月11日(金)

参考図(信濃国分二寺)〇〇寺(尼寺)がこの「元興寺式伽藍配置」です(塔は不明ですが)
Photo_20230119131401
僧寺の方は「古式縦型寺院
」にみられる3:2の縦横比はありません(創建時期は〇〇寺より時代が降ることを示しています)。
また、五重塔跡(水色)は金堂院の中軸線と同方位ですが、七重塔跡(ピンク色)は「正方位(真北)」なのでこれが「聖武七重
塔」と考えられます。すなわち、僧寺は既存寺院に「七重塔」を建てて国分僧寺にしたと考えられます。
妄想「信濃国分僧寺・七重塔」考―聖武・七重塔はどっち?―2019年7月28日(日)

2023年1月18日 (水)

「多元Skype会」でのご質問―感想―

「多元Skype会」でのご質問
感想[コラム]

 2023年1月16日に、吉村八洲男さまよりご寄稿いただきましたので掲載いたします。
 なお、神科条里略図の位置は、ブログ掲載上山田の一存で変更しています。ご了承ください。

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「多元Skype会」でのご質問

上田市 吉村 八洲男

 過日行われた「多元Skype会」では、貴重なご意見を頂いた。大いに感謝するのだが、いささかの感想も持った。以下にいくつかを述べてみたい。

 

1.「番匠」地名について

 私論考では、上田に残る「番匠」地名への不審を述べた。論旨は本文に尽きるのだが、郷土史家による「番匠」語への解釈が私には不明で、私論はそこを論考した事になる。

 『「番匠」とは「大工」の事を言う』が定説であったが、これに疑問があったのである。

 疑問は二点であった。上田「検地帳・類」にも多用されている「番匠」語の語義(根拠とする資料や用例)と、その説明に多用される「大工」語の語義が不明と思えたからだ。

 「番匠」語への語義説明資料として郷土史家が必ず用いるのが「令集解」(「職員令」「木工寮」に関する記載)であるが、驚く事にそこには「番匠」語は登場しない。「木工寮」部分には「番匠」「大工」語は出ていないのだ。さらに史家は根拠とする他の文献を説明していないと思えた。

 しかし、各地の「検地帳」や地名(「番匠川(大分県)」もある)にはこの「番匠」語が多く残る。「番匠」語とは、出典・根拠が不明なのに中世・近世ではなぜか多用された「言葉」といえそうだ。大和朝廷律令下の役職名にもこの名称はない。それなのになぜ定説では、「大工(だいく)」を意味すると言うのだ?全国でもこの解釈が多用されるのだ?

 「大工」語にも不明な点がある。まず「令集解」にはこの語句への説明がない。現在は「木工匠・大工(だいく)」職を意味するが、古代も同じように使われたとは思えない。『大「工匠」』、つまり「工匠」の「長」としての使用が先と思える。「文献」(「令集解・職員令」では「大」とは「長官」の意)・「棟札」などに残る「小工」表記からも、『「工匠」の「長」』を意味する「大工(匠)」用例があったと窺える。その時の呼び方は「だいこう」であったかも知れない。

 これらを考えた時、「三嶋神社縁起」文からの「正木裕」氏の発見・論考の重要性に改めて気づく。

 「三七代孝徳天王位。番匠初。常色二戊申日本国御巡禮給。・・・」である。

 九州年号と共に表記されたこの「番匠」語には、相応の評価がなされるべきだろう。最古の「番匠」語例と思える。そしてここからは『「番匠」即「大工(だいく)」だ』とは言えないと解る。「工匠」を「番(かわるがわる)」徴集した「制度」が想起されてよいと思える。だから「番匠」には、様々な「職種」があったと思われるのだ。

 となると上田周辺での60もの「番匠」語が、「土地・古代条里水田」造成者として(又は関連語として)使用されていることには注目されてよいだろう。『縁起』中で発見された「番匠」語の用法(制度名?)をそのまま残すかと思えるのだ。少なくとも「大工」職を意味してはいないと思える。定説はおかしいと判断されよう。私には上田での「番匠(職)」とは、「日本書紀」に表現されている「鼠(ねずみ)」語と同じ職種と思えたのだが(「鼠再論(二)」をご覧ください)。

 阿部周一氏の論考、『大和朝「律令制」下では「番匠」語が消え「丁匠」語がそれに該当する』も大きな意味を持つと思えた。同じく「令集解」から『「徴集国」をブロック化して「番匠」制を運用した』と推定した事にも注目される。「番匠」制度の実際(徴集・運用)を示していると思えるからで、「神科条里」での「検地帳に残る国名」がそれに該当するかと思え、阿部氏の論考の正しさを証明すると思えた。

 地方での使用の痕跡は残るが「律令」には明記されていないのが「番匠」語なのである。ここからも大和朝の「番匠」への対処が窺えると思えた。大和朝は「番匠」語を「制度」として残したのかも知れないが、どこかの時点でそれを消したと思える(有名無実化)。

 それなのになぜ上田周辺には「60」もの「番匠」語が残るのだろう(2個や3個ではない)。そして7世紀と思える「条里・寺」が残るのだろう。私にはそれが根本の疑問なのである。

 

2.「免」について

 上田・「「検地帳・類」には、「番匠免」のように「ばんしょう」が「免」と繋がり「成句」となっている例がある。取り上げた57例中の「6」例が該当する。

 この「免」語の用例については、郷土史家の「小池雅夫」氏が既に論考している(小池氏は上田・小県地方の地名研究の第一人者であり、紹介した小冊子の編集にも携わった研究者である)。

 小池氏は、郷土史研究誌『信濃』・22巻10号で「信州上田・小県地方の免地名」と題し、詳細に論考している。そこでの結論めいた表現を借りると、『(検地帳などでの)・・・上田・小県地方における免(めん)の呼称は、(中略)租税免除を意味する用語として使用されている』とし、「年貢割付状」などからは「年貢」の意味もあったか、としている。さらに、『江戸初期において、既に地名化し、単に小名として田畑の一筆ごとの位置を示す必要から記録にとどめられた免地名』とも言い切っている。

 小池氏は、「検地帳・類」・「年貢割付状」等に表記された「免地名」の270例をあげ、その一つ一つの用例をチェック、江戸期の「免」用例は「租税免除」を意味すると推定したのである。

 それもあり、私論でも「番匠免」はこれに該当する例として扱った。

 ただ、それらの田・畑等が「地租免除」となった理由には小池氏の論考も言及していない。私的には、「免(地)」の本来的な発生要因は「神」への「捧げもの」に由来すると理解するので、「免」名が付いた理由は、「Skype会」でのご指摘の通りと思われる。他地域ではこの用例が頻出するかも知れないが、私の論考はあくまで「江戸期」の上田・小県地方の「検地帳・類」からの論考である。すでに結論が出ていると思える、その点にはご理解を頂けたらと思う。

 ただ小池氏の論考で興味深い事は、「免地名」を大別した時、『1.信仰関係免地名 2.村の経費関係免地名 3.その他』とされた事で、さらに上田地域では不思議な「地域差」があるともされている点である。また、「すず(鈴)の免」(神楽の鈴)地名が最多であるとも指摘されている。

 私も「検地帳」を調べ、「ぶたい(舞台)」地名、「まい(舞)」地名がこの地に多く残りそこに地域差があると思っていた。だからこれらは関連した注目すべき地名と思え、「番匠」語が持った地域差とも関連するかも知れないと感じた。そういえば、上田の神社に残る神楽が「浦安の舞」だけなのも不思議な事ではある。

 

3.「神科条里」研究と考古

 「鼠再論(三)」に既述しているが、「神科条里」発見後の研究進展・評価にはいささかの「ズレ」が見られる点を主張したい(長くなります、その点お詫びします)。

 「神科条里」は昭和38年「白井恒文」氏により発見された(古田武彦先生が『「邪馬台国」はなかったを発表される9年前、まだ「多元歴史観」は生まれていない)。

 白井氏の発見は歴史界から驚きをもって迎えられた。当時の「条里遺構」は部分的な発掘に限定され、「神科条里」のように格子状の畦畔が「方6丁(町)」を形成し、水路を伴って台地上に広大に展開する事なぞ予想もつかなかったのだ。そこには古代道や名称付けられた「方」区画の存在が予測され、「寺」さえ組み込まれたかと推測されたのである。受けた衝撃のほどが解ろう。しかも地方でそれらが確認されたのだ!
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 発見からは「歴史地理学」分野が生まれ、「古代道」・「条里」・その他への研究が一気に進むのだが、振り返ると早すぎる発見だったと言えるかもしれない。発見者(白井氏)も研究者も、一元歴史観からの理解・解釈に終始したからである。発見がもたらした真の貴重さを示す「多元歴史観」は、その時点ではまだ市民権を得ていなかったのだ。

 『孝徳天皇による「班田収授の詔」から始まった「条里制」だが、「平城京」に先立ち地方に存在する事などはあり得ない。「律令制」の地方への波及を考えても「8世紀」・それ以降にこの「神科条里」が作成されたと思える

 これが追及の際の暗黙の結論だったのである。条里作成者には疑問は持たれないのだ。

 さて、郷土史家「一志茂樹」氏は長野県の古代史研究を主導した優れた研究者だが、かねてより「神科の地名」に着目、そこから宿願とした「信濃国府」の発見・確定を目指し研究を進めていた。

 白井氏の条里発見を受け、一志氏は永年の研究を一気に「信濃国府」論考として発表する。「神科(染谷台)台地の条里遺構」に「国府」が存在するとしたのである。触発されて長野県下の郷土史家も一斉に各分野から「神科条里」への究明を進める。歴史研究誌『信濃』は、関連研究一色となった。

 そして一志氏・郷土史家は、「神科条里遺構」中に「信濃国府」が存在すると結論するのだ。

 上田市は47年から市内に点在する「条里遺構(水田)」を調査し、続いて昭和57年から5回にわたり正式な調査団による「神科条里遺構」発掘を行う。それが、「創置の信濃国府跡推定地発掘調査」である。タイトルから解るように、「条里遺構」の詳細解明を目指した発掘ではなく、「古代界」最大の謎だった「信濃国府」の存在確認が最大のテーマだったのである(そこにはある種の「ズレ」があったのだ)。

 だが発掘からの結論は、「8・9世紀に作成された条里」とした歴史家諸氏の予想とは大きく乖離する。発掘からの「考古」は、それを否定したからだ。

 「土器」類から説明しよう。

 なぜか「破片」とされた「土器・類」が圧倒的に多く決め手にはならなかったのだが、その8割が「土師器」で、製法・形式分類からは、「7世紀(鬼高期末期)」が主であろうと想定された。石器類もあり、須恵器も少量が確認された。また数点の「土製模造鏡」もあり注目される。

 住居・家屋関係では、掘立柱建物(小屋)祉と思える「四十数棟」が「柱穴」を伴い確認された。重なり合う箇所もあり(永年の使用が窺えるか)、穴中に石が残る大型建物(「柱穴」から)址も複数発見された(性格は不明とされた)。これらはいずれも古来の建築様式(「柱穴を掘りそこに柱を立てる」「(土台)石を使わない」形式)で、やはり「7世紀・又はそれ以前」の築造を示していた。住居跡以外では「祭祀場」跡かと想定される建物が発見される。

 5回に及ぶ「国府」確認発掘で(「神科条里遺構」の「1000分の8」しか調査されていないのだが)調査団は結論する。『この条里は8世紀ではないと思える、つまり「平城京以後」に作成されたものではなく、だから当然「国府」ではないだろう。

 「国府」が存在したと決めるには、余りにも遺構が古すぎたのである。結果、「国府」説は否定される。「発掘調査書」では、慎重ではあるが再三にわたり「条里遺構」は「7世紀の遺構」と表現する・・・。

 こうして「信濃国府」の遺存を信じた多くの研究者達の興味は薄れていく。行政の限られた予算も、「信濃国分寺」調査に主力が置かれていく・・7世紀に「条里制」が存在する事などあり得ないと思われていた時代だ。7世紀を示す「条里の考古」は無視されてしまう。「国府」もないのだ。こうして「神科条里」への関心は薄れていくのである。

 肝心で最大の疑問、『水利のない台地上に「堰」や灌漑用水路を張り巡らせ、地域にも条里水田を造り、そして「寺」さえつくった強大な権力を持つ体制』を追求する事など考えもしないのだ。そんな体制が存在する筈がないからである。

「多元史観」は「市民権」を得ていなかった。宅地化により発掘も困難さを増した。早すぎた発見が「神科条里」への正当な評価を阻み、発掘を不可能にしたと思える。

 こうして『正体不明な地方豪族によりこの条里が作られた』と結論され、説明しきれないまま『条里的遺構』という奇妙な用語が使われだす。「条里」だが「条里」ではない、と言うのだ・・・。

 

4.「〇〇寺(尼寺)」と「神科条里」

 発見された白井氏は、大学では測量も学ばれていた。その経験を活かし条里の研究を進められたのだが、「条里」と「○○寺」との関係をこう説明される。

 『発掘された「国分尼寺」の中心線と磁北とは5°13E、「国分僧寺」の場合は3°15Eの差異が認められる』とし、『「条里遺構」の「中心地帯」は、ほぼ5°E』だから、誤差の2°は仕方ないとしても、とうてい「僧寺」とは一致しない、と。

 こうも述べている。『「条里」のある「千曲川・第3段丘面」は、「尼寺」の発掘現場(「第2段丘面」)からは望見できないのに、「地図」上では(条里南北線が)一致する』(「上田付近の条里遺構の研究」から)。

 やはり、『「〇〇寺(尼寺)」は「神科条里」に組み込まれた「寺」』と結論してよいと思う(この推定が「長野県史」にも記載されていた事は、既述した)。

「条里遺構」への追及がおろそかにされたのと同じように、この重要発見も正当に認知されなかったと思われる。

 同時期に発掘を開始した「信濃国分寺・遺構」だが、文献がなく「考古」「瓦」からの各種研究がそこに集中する。結果、「尼寺」は等閑視され「僧寺の考古」「日本書紀からの歴史観」を援用した当たり障りのない判断・推測しかなされてこない。今でも7世紀創建「○○寺」に、8世紀の「僧寺」からの「考古・歴史」判断が使われているのだ・・・。

 「僧寺」と「尼寺」の中心線の違いはなぜ生まれたのだろう。

 「条里(水田)」にも使われたと思える「尼寺での単位」は何だろう。

 「尼寺」と「僧寺」の伽藍配置・他の違いは何が原因だろう。

 「尼寺」と「僧寺」とが異常なほど(全国一)接近しているがその理由は何だろう。

 「尼寺・尼房」の大きさが「僧寺・僧房」よりも大きく、しかも「日本書紀」叙述とは合致しない。なぜだろう。

     等々は不明なままなのである。

 そして、最近指摘され始めた「瓦・先行建物・たたら跡」への疑問がここに加わる。

 疑問だらけの「尼寺」なのである。「多元史観」からの詳細な説明・推測こそがそれを解決すると思えるのだが。

 

5.終わりに

 土地勘のない方々には奇異に思えるかも知れないが、私は「番匠・条里・寺」が「三位一体」で「科野」の古代を解く、と思っている。「神科条里」・そこに組み込まれた「〇〇寺(尼寺)」は、全国から徴集した「番匠」を使った九州王朝が作ったもの、と信ずるからである。「条里」が7世紀に作られたのなら「寺」も7世紀に創建されたのに決まっている。つまり「九州王朝の寺」なのである。

 私は、「弥生前期」には既に「九州勢」がこの地に進出し始めたと思っている。既述してきたように、「栗林式土器」分布がそれを示すと思っているのだ・・・だから7世紀の条里は、当然な事だとも思っている。

 改めて皆様にもご理解を頂けたらと思います。

(終)

2023年1月17日 (火)

無文銀銭論考の紹介―ブログ「古田史学とMe」から―

無文銀銭論考の紹介
―ブログ「古田史学とMe」から―[著書や論考等の紹介]

 古賀達也氏のブログ 古賀達也の洛中洛外日記多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」(第2916話 2023/01/14) が掲載されましたので、James Mac(阿部周一)氏の無文銀銭に関する論考をご紹介します。貨幣が「貝」や「石」などから「貴金属」に移行する過程では、貴金属の「地金(じがね)」の重量を価値(交換価値)として「貨幣」にしていた時代が必ずあります(貨幣経済になるのが遅かった地域は最初から非貴金属鋳造貨幣を用いることになりますが…)。また、非貴金属鋳造貨幣の価値の変動が激しい時には貴金属貨幣が復活しますし、現代でも「ブレトンウッズ体制」が崩壊する以前は、「1オンス35USドル」と「金兌換」によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保っていました(すなわち、米国は「兌換紙幣」であるドル紙幣の発行額と金保有高を一定の割合に保たねばなりませんでした)。

 古代の倭国でも銀を貨幣として使用していた時代がありました。それが「無文銀銭」です。無文銀銭は一定の重量になるように鋳造されていました(少量を後から付け足したりしています)。貴金属が貨幣として用いられる背景には「国際交易」が盛んなことがあるようです。

「無文銀銭」その成立と変遷(2012年6月10日、古田史学会報110号掲載)
(↑)の見解を少し修正しています(↓)。

「無文銀銭」について(一)2017年06月28日

「無文銀銭」について(二)2017年06月29日

「無文銀銭」について(三)2017年06月29日

「無文銀銭」について(四)2017年06月29日

 

2023年1月14日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―

倭国一の寺院「元興寺」(4)
名前のない伽藍配置[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究] 

 このところ「元興寺」について論じてきましたが、その過程で、今まで悩んでいたことが解決しましたので、それを報告いたします。

 

きっかけ

 肥沼孝治さん(注①)を中心とする「国分寺」の共同研究(名称「多元的「国分寺」研究」)に参加していたころの話です。古代史の専門的知識を持たない私は、テーマを国分寺遺跡の「造営尺度」や「伽藍配置」を絞って調査・研究をしていました。

 そのテーマを選んだのは、森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記していたことがきっかけでした。

 

一定していない国分寺の伽藍配置

 私たちには、伽藍配置が一定していない原因は当初からわかっていました。『続日本紀』天平13年(741)の年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”には「「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,「国分寺」という言葉はない。」と肥沼孝治さんがブログで発表した(注②)からです。すなわち“国分寺建立の詔”ではなく「七重塔建立の詔」だったのです。つまり、既存寺院に「七重塔」を建てればよかったわけです。既存寺院の伽藍配置も様々ですし、七重塔を建てる位置も各々異なりますから、「国分寺の伽藍配置は一定していない」結果になるのは当然なわけです。ただ、朝廷から「国分二寺図」が諸国に頒布されていますので、私は諸国国分寺の伽藍配置と「国分二寺図」の関係についてまとめてサークルに投稿(注③)しました。

 

名前のない伽藍配置様式

 諸国の国分寺の伽藍配置を調べていくうちに、「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」の国分寺がかなりあると知りました。ところがこの伽藍配置様式に名前がついていないのです。
名前のない伽藍配置様式(信濃国分二寺の例)
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 私は、接近した二寺がある信濃国分寺が代表例になるのかなと思って、“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置と言っていました。

 

正式名称が決まった

 誰もこの様式に名前を付けていないのなら、「早く付けたもん勝ち」です(笑)。

 信濃国分寺よりふさわしい寺院が見つかりました。「元興寺」です。正確に言えば「新元興寺」なのですが、「新元興寺」は解体移築した「元興寺」の伽藍配置をとったはずで、また移築先の大安寺の伽藍配置にも「元興寺」の伽藍配置の痕跡が認められますので、これは間違いないと言ってもいいでしょう。

 

元興寺式伽藍配置
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元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。
(平凡社世界大百科事典 第2版より)
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 ここに「奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」とあります。表現の仕方は異なりますが「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」です。

 「倭国一の元興寺」を「わがもの」にするためには、「新元興寺」が「元興寺」を真似て造られるのは必然です。「倭国一の元興寺」の伽藍配置であったから多くの寺院がこの伽藍配置を採ったというわけです。

 

元興寺式伽藍配置の復原

 元興寺の伽藍配置は、移築された大安寺の伽藍配置を見ると、「南中門」(解体された元興寺の南大門)と中門の距離が極めて狭いことから「古式寺院」(正しくは塔が回廊外なので「新式寺院」だが、内郭比が3対2の古式。つまり、過渡期的新式の鏑矢)であったとわかります。また、①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。

元興寺式伽藍配置の復元図
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結語

 今後、私はこの伽藍配置を「元興寺式伽藍配置」と呼ぶことにしました。この伽藍配置に付ける様式名には「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名」である「元興寺」が最も相応しいでしょう。また、この命名は「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する(注④)のではないかと考えています。

(続く) 

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注① 肥沼孝治さん ‥‥‥ 古田史学の会会員。「肥さんの夢ブログ」主。ブログ「多元的「国分寺」研究サークル」の運営主。去年(2022/04/10)ブログ更新停止。
古田史学の会のHP新古代学の扉」の「HP内の検索エンジン」で「肥沼孝治」を検索していただくとたくさんヒットします。古田史学の深化に多大な貢献をされています。私が一番印象に残っているのは次の論稿です。
古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?古田史学会報108号2012年2月10日 

注② 肥沼孝治さんがブログで発表した ‥‥‥ 「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

注③ サークルに投稿 ‥‥‥ コメントで投稿したものを肥沼孝治さんが記事として掲載してくれました。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017年1月10日(火)
 お読み頂くのであれば、コメント版(↑)より当ブログ再掲版(↓)の方が読みやすいと思います。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2021年10月5日(火) 

注④ 「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する ‥‥‥ 国分寺式伽藍配置の前の時代に盛行した伽藍配置ではないかと推測した論考をいくつか書いています。
作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―2017年7月30日(日)
「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―2021年2月11日(木)
これ()は肥沼孝治さんの肥さんの夢ブログにも取り上げて頂いています)。
名前のない伽藍配置様式の怪―“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置”― 2021年11月17日(水)

なんちゃって哲学―逆立ちした思想―

なんちゃって哲学
逆立ちした思想[なんちゃってシリーズ]

 ブログ記事 倭国一の寺院「元興寺」(3)―異論の検討(その2)―2023年1月12日(木) で、森郁夫氏が著書『一瓦一説』(P.140)の中で書かれた次の事柄について、思わず「ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」とどうして言えるのでしょうか(アタオカでしょう)。」と口走ってしまいました。
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大安寺の造営工事は、『続日本紀』に「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある霊亀二年(七一六)であることがほぼ確実視されている。ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りであることが周知の事実となっている。
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 「アタオカ」というのは「頭(あたま)おかしい」の短縮スラングです(「アタオカ」と口走ってしまった理由は前掲ブログ記事をご覧ください)。記事をアップしてから読み直しているうちに、次のことが気になってきました。
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 森郁夫氏は次の経歴をもつ優秀な方だ。
國學院大學文学部史学科卒業。帝塚山大学教養学部教授、人文学部教授、1998年「日本古代寺院造営の研究」で國學院大歴史学博士、帝塚山大考古学研究所所長・附属博物館館長。2010年定年退任、名誉教授。Wikipedia「森郁夫 (考古学者)」より)
 「肩書」や「権威」で判断しているわけではなく、その著書や論文などを拝見していても頭脳の明晰さをうかがうことができる方です。なのに、その森郁夫氏をもってしても根拠のない原文改訂による通説(定説)を受け入れている。それは何故だろう。
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 そして、通説(定説)の誤りを論証するのに使った年表のマトリックスをなにげなく眺めていると、あることに気づきました。私は「元興寺」(太宰府にあったとする)を年表の列の項目にしていますが、通説(定説)を受け入れている方々はその列項目「元興寺」がない状態で考えているのだと。そう思って年表をみれば『続日本紀』の霊亀二年(七一六)に「「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある「元興寺」は、「養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」と考えるしかない(法興寺=元興寺と考えないと収拾がつかない)ことがわかりました。

 何のことはない。「一元史観」でものを考えているから解(わか)るものも解(わか)らなくなっていたのです。

 「一元史観」・「一元通念」というのは「論証されていないもの」です。すなわち「イデオロギー(ideology)」です。
 「イデオロギー」というものは「イデア(理想の姿)」から物事を見たり考えたりした結果生ずる観念・意識です。つまり、どんなに体系化されていようが「正しく認識した事実」を前提に思考(推論)してはいないものなのです。論理学で言えば真である前提に基づいていない推論の結果がイデオロギーです。

 前掲した通説(定説)は「一元通念」に基づいてものごとを見たり考えたりしている(「正しく認識した事実」を前提に思考(推論)していない)ので、それに合わない「事実」を目前にした場合に、「一元通念」の方を疑うのではなく「事実」の方を「間違っている」とする羽目になるわけです。 

 イデオロギー(観念形態・意識形態)とは一般に体系化された観念や信念のことを指し、おおまかには「思想(thought)」、つまりthink(思(おも)い、考(かんが)え、予想(よそう)した結果で現在も引き続き頭の中に抱いている観念や信念(現在完了形)と言えます。それを疑うのは難しいことかもしれませんね。

2023年1月12日 (木)

倭国一の寺院「元興寺」(3)―異論の検討(その2)―

倭国一の寺院「元興寺」(3)
異論の検討(その2)―[論理の赴くところ][神社・寺院]

 前回(倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火))に「次回は「元興寺」の移築先を論じます。」と予告した通り、今回は「倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院『元興寺』がどこに移築されたか」を考察します。

 

「法隆寺「ナンバー・ワン」」の主張

 「多元No172 Nov.2022 号」に掲載された川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」から一部を再掲します(全文は 倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―2023年1月10日(火) に掲載してあります)。
…………………………………………………………………………………………………………………………
(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 この(I)に述べられている論点は次の五つです。

❶ 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「法興寺」である。
❷ 飛鳥に実在するのは「元興寺」の遺構である。
❸ 「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。
❹ 法興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。
❺ 法興寺の跡地に観世音寺が建てられた。 

 論点❶と❸は、「法興寺」ではなく「元興寺」であると前回で論証しました。

 それを訂正すると次のようになります。

① 上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺は「元興寺」である。
③ 「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。

 

飛鳥に実在する遺構

 川端氏は、「日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と断じています。そうでしょうか。
明日香村付近の航空写真(Google Earthに加筆)
Google-warth
水色の曲線が飛鳥川、黄緑の横線の長さが約800mです。

 現在の「明日香村」の範囲ほどには古代の「飛鳥」は広くはなく(注①)飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たる…〔中略〕…平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど」(岸俊男など)だったのです。

 「南北1.6キロ、東西0.8キロほど」の(飛鳥川の右岸(東側))「古代の飛鳥」を推定してみましょう。
 明日香村近辺の「寺」は次の通りです。
古代の「飛鳥」の地にある寺院(Google Earth による)
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〇岡本寺(明日香村583)の大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。縁起には「「飛鳥岡本宮」(注②)ともいわれる旧蹟を伽藍とした」とあり、「もともとは飛鳥岡本宮と呼ばれるところにあった」とも伝えられています。「岡」(大字は「岡」)の本(ふもと)にあった宮なので「飛鳥岡本宮」と呼ばれ、宮の所在は「飛鳥」だったが、「岡」は「飛鳥」ではなかった、と考えられます。
 「岡と岡本は等しい」と主張する人は、「山と山本は等しい」とか「坂と坂本は等しい」とかを主張せねばならないでしょう。「飛鳥岡本」は「(大字)岡」と違う大字に属していて「(大字)飛鳥(小字)岡本」なのです。
飛鳥岡本のイメージ図
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〇橘寺(注③)(明日香村 532)の大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇川原寺(現在 弘福寺(ぐふくじ))(明日香村 川原1109)の大字は「川原」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。
〇常谷寺(明日香村 1191)は後世の寺。大字は「岡」なので「飛鳥」ではないと考えられます。
〇香爐寺(明日香村 540)創建・由緒などは不詳。大字は「橘」なので「飛鳥」ではないと考えられます(飛鳥川の左岸(西側)でもある)。

 これらを直線(アバウトなやり方ですが)で除外していった結果が次の区域です。
古代の飛鳥に在った寺は「飛鳥寺」(法興寺)のみ
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 ご覧のように「古代の飛鳥」にあったのは「飛鳥寺」(法興寺)の遺構(注④)だけです。それは当然です。平地に造られた寺は所在を示す「山号」にかえて「邑()号」ともいうべき「〇〇寺(〇〇でら)」で所在を示したからです(だから一邑に同じ名の寺はありません。寺の呼び方―山号・院号・寺号―2023年1月 3日(火)をご覧ください)。

 

飛鳥寺は元興寺の遺構か

 川端氏の言う「元興寺の遺構」とは、養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷して「元興寺」と称した(注⑤)ため、法興寺(飛鳥寺)を移した平城京(奈良市)の「元興寺」を「新元興寺」(注⑥) と称し、飛鳥(高市郡明日香村)の飛鳥寺(法興寺)を「本元興寺」と称することになった「本元興寺(飛鳥寺(法興寺))の遺構」を意味しているのでしょうか。

 もし、川端氏が「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」と言うのが「本元興寺の遺構」のことであるならば、「飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。」という表現は誤解を招きます。「飛鳥に実在するのは本元興寺(法興寺)の遺構である。」が正しい表現です。

 

元興寺は平城京に移築された

 川端氏の「法興寺は斑鳩の里に移築され法隆寺となった。」と断じています。そうでしょうか。

 川端氏が言う「法興寺」とは「元興寺」のことであると既に明らかになっていますので「❹ 元興寺は斑鳩の里に移築されて法隆寺となった。」と読み替えて検討します。残念ながらこれも間違っています。

 『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛卯〔16日〕条に「始めて元興寺を左京六条四坊に徙(うつ)し建(た)つ。」とあります(原文「辛卯、〔…中略…〕。始徙建元興寺于左京六条四坊。」)。
 また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「移立元興寺于左京六條四坊」とあります。

 このことに関して、森郁夫『一瓦一説』(P.140)に驚くことが書かれていました。次の通りです。
…………………………………………………………………………………………………………………………

大安寺の造営工事は、『続日本紀』に「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」とある霊亀二年(七一六)であることがほぼ確実視されている。ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りであることが周知の事実となっている。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「周知の事実となっている。」とありますので、「一元史観」の通説(定説)なのでしょう。川端氏も森氏同様にこの通説(定説)に従っていると思われます。正しければ通説(定説)に従うことは間違っていません。しかし、この通説(定説)は「不当な原文改訂」の上に成り立っています。何人も認めざるを得ない間違いが原文にあれば、事実に従って原文を誤りとして改訂することはあってしかるべきです。しかしながら、何の根拠もなく「自説に都合が悪い」あるいは「自説に都合が良い」という理由で勝手に原文を改訂するのは科学的歴史学ではありません。

 

非科学的歴史学の宿痾

 私は「『続紀』や『元興寺伽藍縁起』を鵜呑みにしろ」と言っているのではありません。記録がそうなっているのであれば、その記録に沿って検討してみる。するとそこに矛盾があれば、どこが間違っているかを確かめた上で、原文の間違っている箇所に注を付して、注記中で改訂が必要な理由を明記する(検証可能にする)ことが正しい改訂方法だと思います。日本の古代史学界には改訂の正しい仕方が根付いていないように思われます。

 それはさておき、森氏が「周知の事実となっている。」と述べた通説(定説)が間違っていることを論証しましょう。

 

「元興寺」・「大安寺」・「新元興寺」・「本元興寺」

 『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺」を移したと記している場所「左京六条四坊」には「大安寺」(平城京の大官大寺)が今も存在します。すなわち、『続紀』や『元興寺伽藍縁起』によれば「大安寺」は元興寺を移築したものになります。この『続紀』や『元興寺伽藍縁起』が「元興寺を左京六条四坊に移した」とする記述が正しいこと(通説(定説)が間違っていること)を論証しましよう。 

 「元興寺」が三寺登場します。混乱を避けるため、「太宰府の元興寺」を単に「元興寺」と、「法興寺」を平城京に移した元興寺を「新元興寺」と、飛鳥に残った「法興寺」を「本元興寺」と呼ぶことにします。

 次は、『日本書紀』・『続日本紀』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの記録による年表です。

年月日など

元興寺

大安寺・大官大寺

新元興寺

本元興寺(法興寺)

和銅四年(七一一)

 

藤原京大官大寺焼亡

 

 

霊亀二年(七一六)五月辛卯

始徙建元興寺于左京六条四坊

(元興寺消滅)

始徙建元興寺于左京六条四坊

(平城京大官大寺)

 

 

養老二年(七一八)九月甲寅

 

 

遷法興寺於新京

(新元興寺)

遷法興寺於新京

本元興寺)

 ご覧の通り、どこにも矛盾はありません。

(1)藤原京(高市郡)の大官大寺が焼亡してしまった(大官大寺が無くなった)。
(2)元興寺を移して大安寺(平城京の大官大寺)とした(元興寺が無くなった)。
(3)法興寺を平城京に移して「新元興寺」とした(元興寺ができた)。
(4)飛鳥に残った法興寺を「本元興寺」と呼ぶことになった。

ここに「元興寺」とあるのは、『続日本紀』の養老二年(七一八)五月十八日の「法興寺を新京に遷す」の記事によって誤りである」とどうして言えるのでしょうか(アタオカでしょう)。
平城京左京六条四坊の位置
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日本国(大和王朝)の事業

 川端氏はこのように言っています。
その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。

 私はこう言いましょう。
倭国一の元興寺を解体して遠く大和の平城京に運び、①平城京の大官大寺(大安寺)を造り、②倭国一の元興寺(九州王朝の元興寺)を消滅させて、大和一の法興寺を移して大和王朝の元興寺(新元興寺)を手に入れるのが新しい日本政府の事業となった。

 動機はこれなのです。倭国にとって代わった日本国には「元興寺」が必要だったのです。
 法興寺では役不足なのです。その理由は、妄想「元興寺」考―なくせない寺「元興寺」―2018年2月2日(金)をご覧ください。 

(続く)

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注① 古代の「飛鳥」は広くはなく ‥‥‥ 

飛鳥時代当時に「飛鳥」と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられている(岸俊男など)。
今日では飛鳥川の上流(橘寺一帯)や下流(小墾田宮・藤原京一帯)、更には飛鳥時代には「檜隈(檜前)」と称された高取川流域地域までを含み[4]、行政区域的には明日香村一帯、あるいは人によってはその近隣までを含んで飛鳥と指し示すこともある。
」(Wikipedia「飛鳥」より抜粋) 

注② 「飛鳥岡本宮」 ‥‥‥ 私見ですが、明日香村(大字)岡にある「飛鳥京跡」は「飛鳥岡本宮」ではないと考えます。飛鳥は狭く大字「飛鳥」と呼ばれる範囲が「古代の飛鳥」だと考えます。
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。」(Wikipedia「岡本宮」より抜粋)
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
飛鳥宮は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持った。これは後に現れるような、建設当初から計画され固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。」(Wikipedia「飛鳥京跡」より抜粋) 

注③ 橘寺 ‥‥‥ 本尊は聖徳太子で、正式名は「仏頭山上宮皇院菩提寺」というそうです。
橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村橘にある天台宗の寺院。山号は仏頭山。本尊は聖徳太子。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。観音堂は新西国三十三箇所第10番札所で本尊は如意輪観音である。」(Wikipedia「橘寺」より抜粋) 

注④ 「飛鳥寺」(法興寺)の遺構 ‥‥‥ 法興寺中金堂跡に今も残る旧坊(安居院)だけが現存しています。飛鳥寺(法興寺)は、『日本書紀』によれば、崇峻天皇元年(五八八)是歳条に、蘇我馬子が飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めるとあります(原文「蘇我馬子宿禰、[言靑]百濟僧等、問受戒之法。以善信尼等、付百濟國使恩率首信等、發遣學問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。」)。推古天皇四年(五九六)四年十一月に法興寺が完成し、大臣男善德臣を寺司に任命し、この日に慧慈・慧聰の二僧が法興寺に住み始めたとあります(原文「四年冬十一月、法興寺造竟。則以大臣男善德臣拜寺司。是日慧慈・慧聰、二僧、始住於法興寺。」)。 

注⑤ 養老二年(七一八)九月二十三日に法興寺を新京に遷した ‥‥‥ 『続日本紀』に次のようにあります。
《養老二年(七一八)九月》
甲寅、遷法興寺於新京。
〖読み下し文〗
養老二年(七一八)九月甲寅〔23日〕、法興寺を新京に遷す。
元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」(平凡社世界大百科事典 第2版より) 

注⑥ 新元興寺 ‥‥‥ 平城京の元興寺(「新元興寺」)の禅室南面と極楽堂西面の屋根には、法興寺創建当初の軒平瓦が使われています(色が斑(まだら)になっています)。軒丸瓦には段差が付いた玉縁式と段差のない行基式があります。
右手は新元興寺の極楽堂の屋根、左手はその西側に建つ国宝・禅室の屋根
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法興寺の盛衰と三つの元興寺
 平城京の官寺は平安京遷都後朝廷の庇護が弱り次第に衰微していくが、当寺院も同じ道を歩む。そしてその衰退が決定的になったのは室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆によって出火し、主要堂宇のほとんどが焼失してしまったことである。焼け残ったのは、五重塔、観音堂、極楽坊のみであった。その後金堂が再建されるがこれも台風により倒壊し、その後一つの伽藍として再興されることなく寺地は荒廃した。そこに町家が次第に進出し始め、元興寺は進出した町家の中に埋もれるように観音堂・五重塔、焼失後仮堂を建て復興に努めた小塔院、極楽坊の三つに分かれ存続することとなった。そして、この三寺の中で東大寺より支援を受けた五重塔を擁した観音堂が元興寺を称した。」(Webサイト 元興寺/1.所在地/(1)法興寺の盛衰と三つの元興寺 より抜粋)
元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
1.元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
2.元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
3.小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。(Wikipedia「元興寺」より抜粋)

2023年1月10日 (火)

倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―

倭国一の寺院「元興寺」(2)
異論の検討(その1)[論理の赴くところ][神社・寺院]

始めに

 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) で、次のとおり予告しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………
…(前略)…『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。
続く
 次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 今回は、「倭国一の寺院」は「元興寺」ではない、と言う意見(異論)について考察します。

 論じるにあたり論点を複雑にしないために、前提とする事項を明確にしておきます。次の通りです。

(1)「倭国一」というのは「道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。」の記事の日付「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点のこととします。

(2)「『倭国』一」の「倭国」というは、「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点〔(1)〕のことですから、701年に「大寶(大宝)」を建元して建国した「大和王朝」(注①)ではなく、「大長九年」(712)まで存続した「九州王朝」(注②)のことです。

 

異論1

 ブログ記事 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院― を執筆中のとき、折しも「多元No172 Nov.2022 (「多元的古代研究会」会誌)が届きました。その④~⑤頁に『法隆寺のものさし』(注③)の著者 川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」が掲載されていました。

 今回は、この「法隆寺「ナンバー・ワン」」を「この読解(『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。)に立ちふさがる問題点」として取り上げてみようと思います。

 

川端氏の論稿

 川端氏は、法隆寺が倭国ナンバー・ワンの寺院であるとする論拠を、次のように示されています(「多元No172 Nov.2022 号」より転記。下線(注記)は山田による)。伽藍配置については ポピュラーな伽藍配置2018年5月16日(水) をご覧ください。

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法隆寺「ナンバー・ワン」

札幌市 川端俊一郎

(A)聖徳太子の四天王寺は推古元年、五九三年「始造」というが、創建当時のものは何も残っていない。ただ伽藍配置は当初のものを伝えている。六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡(注④)からは四天王寺と同じ伽藍配置が発掘された。

(B)今の法隆寺は、その焼け跡を整地した上に建っているが、寺材は焼失より七五年も前の五九四年に伐採されている(年輪年代測定法2001)。今の法隆寺は現在地での新築再建ではなく古寺の移築であった。その伽藍配置も四天王寺とは違っている。

(C)移築再建は焼失四十年後である。真福寺「七大寺年表」の和銅元年、七〇八年に、詔により観世音寺を造るに続けて一言「作法隆寺」とある。また東寺王代記の和銅二年の勅修観世音寺の翌年に或る記に言うとして一言「法隆寺建立」とある。古寺の移築がすめば、観世音寺の営造である。

(D)再建法隆寺の伽藍配置は観世音寺遺構とは違っている。観世音寺の金堂は仏舎利塔の西にあって東面し、本尊は東の塔と向き合っているが、再建法隆寺の金堂は塔の東にあって南面し、本尊は西の塔の方を向いていない。

(E)金堂本尊の光背(注⑤)には何故か焼失法隆寺の造作経緯が刻されている。用明天皇の悲願「病太平」のための「造寺」と「薬師像作」は「小治田宮」の天皇(推古)と「東宮聖王」が六〇七年になしとげたという。焼失法隆寺の本尊は薬師像であった。移築されてきたのは釈迦像なので、その光背に薬師像の故事を刻し「薬師如来」と通称している。

(F)ところが、天福元年(1233)、本尊の東にあった釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が曲がり周縁の飛天も飛び散った(注⑥)。その修理を機に、やや大きめの三尊像を中央に移して本尊とし、やや小さめの釈迦像と入れ替え、それを「根本本尊」とした(注⑦)

(G)この釈迦三尊像は移築後に金堂に運び込まれたもので、元からあった像ではない。光背銘によると、五九一年に仏法を興し元めて三二年に「上宮法皇」が急逝し、その「往登浄土」を願って釈迦三尊像が造られ翌年完成した。それは金堂に押し込むのではなく、別に八角の仏堂を造って安置した。しかしその夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた(注⑧)

(H)この上宮法皇も聖徳太子も同一人物だとするのは太子信仰であろう。しかし聖徳太子は「ナンバー・ツー」で上宮法皇こそ倭国九州王朝の「ナンバー・ワン」だから、両者は決して同一人物ではありえないと看破したのは古田武彦である(『古代は輝いていたⅢ』1985)。

(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。

(J)その旧観世音寺跡の礎石にも現法隆寺と同じ南朝尺二四五㎜での営造が認められる。太宰府政庁正殿の礎石間隔は一等材(一尺二寸)の倍数である。現法隆寺は二等材(一材は一尺一寸)、旧観世音寺は三等材(一材は一尺)である。「材」とは、ある建物で共通に使用する同一規格の角材の大きさを断面の高さで表す尺度で大小八等あり柱間隔などは材の倍数で示す。

…………………………………………………………………………………………………………………………

 

(はじめ)に法を興した古寺の名は

 川端氏は(I)で「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。」と断じていますが、そうでしょうか。寺号から検討してみましょう。Wikipedia「元興寺」には次のような一文があります。
…………………………………………………………………………………………………………………………

「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 なるほど、このWikipediaの筆者には「一日(ついたち)」も「元日(がんじつ)」も同じ意味のようです。川端氏も同じ見解なのでしょうか。

 

 「法興寺」とは「法(仏法)を興す寺」という意味です。「法興寺」という寺号の「興」という漢字には「元(はじめ)に」という意味は全くありません。漢字の辞書を引いてみましょう。

…………………………………………………………………………………………………………………………
北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.544

xing1

❶挙辧,発動;~工.~利除弊.~修水利.❷起来:夙~夜寝(早起晩睡).聞風~起.❸旺盛((連)―盛、―旺)。[興奮]精神振作或激動。❹流行,盛行:時~.❻<方>或許:他~来,~不来.❼姓
…………………………………………………………………………………………………………………………

 「法興寺」の「興」という漢字は「盛行」(盛んにする・流行らせる)という意味で、何度も言いますが、「興」という漢字には「元(はじめ)に」と言う意味は全くありません。それは「蓮如は本願寺中興の祖。」などという言葉があることからも自明です。 

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北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.602

yuan2

開始,第一((連)―始):~旦.~月.~年.[元素]在化学上,具有相同核電荷数的同一類原子的総称。現在已知的元素有112種。[元音]発音時候,従肺里出来的気使声帯顫動,在口腔的通路上不受阻碍而発出的声音,也叫“母音”。拼音字母 a,o,u等都是元音。❷為首的:~首.~帥.~勲.❸構成一個整体的:単~.~件.❹朝代名(公元1278-1368年)。公元1206年,蒙古孛儿只斤・鉄木真称成吉思汗。1271年,国号改為元。1279年滅南宋。❺同“圓❹”
…………………………………………………………………………………………………………………………

  ご覧のように、「元興寺」の「元」という漢字こそが「開始・第一」という意味なのです。すなわち、川端氏は上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。と言わねばならなかったのです。つまり、川端氏は開始・第一」の意味で「法興寺」としている箇所を「元興寺」に置き換えなければならない、ということになります。

 川端氏は(I)で、「「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と述べています。漢字の意味から「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。」と明らか(「元」=「開始・第一」=「ナンバー・ワン」)になったのですから、前述の川端氏の見解は「「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と「法興寺」を「元興寺」に置き換えねばなりません。となれば、川端氏も私の読解「『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。」に同意いただけると思います(どのように読解したかは 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) に示してあります)。

 (し)(いは)く、過(あやま)ちて改(あらた)めざる、是(これ)を過(あやま)ちと謂(い)(原文「子曰、過而不改、是謂過矣。(『論語』衛霊公第十五29)) 

(続く)

次回は「元興寺」の移築先を論じます。

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注① 「大和王朝」 ‥‥‥ 一般的(一元史観的)には「大和朝廷」とされていますが、「九州王朝」との対比のため、701年に「大宝」を建元して建国した王朝を「大和王朝」と呼ぶことにします。また、それ以前を「大和王権」と呼んだりします(私がそう呼んでいるだけです)。

注② 「大長九年」(712年)まで存続した「九州王朝」 ‥‥‥ 「大長」は704年から712年まで続いた最後の倭国年号(九州年号)です(古田史学の会の「九州年号総覧」による)。「大長九年」は日本国年号では「和銅五年」にあたります。 

注③ 『法隆寺のものさし』 ‥‥‥ 川端俊一郎著『法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎』(ミネルバ書房、2004年02月25日、ISBN 9784623039432
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注④ 六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡 ‥‥‥ “若草伽藍”と呼ばれています。「四天王寺式伽藍配置」であったことが判明しています。
 『日本書紀』には天智天皇九年(六七〇)四月壬申〔30日〕条に、午前0時過ぎに法隆寺に火災が起きて全焼(一屋無餘)したとあります(原文「夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。」)。
 「若草伽藍(わかくさがらん)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。」(Wikipedia「若草伽藍」より抜粋) 

注⑤ 金堂本尊の光背 ‥‥‥ 金堂内陣の「東の間」に安置されている薬師如来像の光背です。銘文は次の通り。また、光背の銘文の「歳次丙午年」(推古天皇十五年(六〇七年)は後世のものとして否定されています。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。」(Wikipedia「法隆寺」より抜粋)
「像の制作年代および銘文の記された年代を文字どおり推古天皇15年(607年)とみなすことは福山敏男の研究以来、否定されており、実際の制作年代は法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年(623年))より遅れるものとみなされている。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋)
画像「”薬師如来像”の光背銘」(ダブルクオートで囲っているのは、「釈迦如来像」と見られるから)
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『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉
【文面の内容】
用明天皇が病気の時(用明天皇元年(586年))、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋) 

注⑥ 法隆寺釈迦三尊像 ‥‥‥ 「一屋無餘」に焼失した法隆寺の仏像がこの世に存在するわけもなく、この釈迦三尊像は何処からか(不明)法隆寺の移築再建後に運び込まれたことになります。この釈迦三尊像の光背銘文が法興年号(九州年号)で記されており、人物名が大和王朝には該当がないことから、釈迦三尊像を造ったのは九州王朝であったことが明白です。古田史学では、この釈迦像は「阿毎多利思北孤の等身大像」というのが定説となっています。下記論文をご覧ください。
正木 裕「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来(古田史学会報130号、2015年10月9日掲載)
阿部 周一「法隆寺」創建本尊について(ホームページ(最終更新2015/01/11)よりブログ 古田史学とMeに転載(2018年05月16日))
画像 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
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【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文】(下線は山田による)
法興元丗一年歳次辛巳十二月
前太后崩明年正月廿二日上宮法

皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安

住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟乘斯微福信道知識現在安隠

出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

・法興元年は591年ですので「丗一年」は621年です。法興は32年間で622年に終わります。
・「當造釋像尺寸王身」とあり「釈迦像を王の等身大に造った」ことになります。
・「願力轉病」とあります。倭国年号(九州年号)の「願轉」は601年~604年です。600年あたりに疫病が流行したのかもしれません(妄想です)。
・王后が亡くなった「(622)二月廿一日」の日干支「癸酉」が、金石文にあるわが国最古の日干支と思われます。
・「登遐」は天子・天皇・法皇につかわれますが、天子・天皇には(鬼前太后にも)「崩」と記されますので、「登遐」と記されているのは「法皇」であるためと思われます。
・翌年(癸未年623年(仁王元年)三月中)にこの像と光背が出来上がったとあります。
(読み下しの例)[40]
法興元丗一年、歳は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇、病に枕して弗悆(ふよ)。干食王后、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。」(〔 〕内は補注。)
」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋。ただし、大和王朝には該当者がいない人物名に無理やり「間人皇女」や「聖徳太子」や「膳妃」を当てる(一元史観による)補注は山田が削除しています。) 

注⑥ 天蓋が落下して光背が飛び散り ‥‥‥ 天福元年(1233)に釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が飛び散ったという史料はネット検索では探せませんでした。 東の間の天蓋は天福元年(1233)の補作で、西の間阿弥陀像を造った運慶第四子、康勝が製作に関与しているとみられています。
 しかし、川端氏が言うように、「修理」したのであれば飛天が元通りに付けられたはずで、その後何らかの事情で外()れたとしても、法隆寺に一体の飛天(の破片すら)も残っていないのは不審です。飛天を取り外す理由があったのではないでしょうか(例えば、飛天の裏側に法隆寺にとって都合の悪い文字が書かれていたとか)。ただ、光背の周縁には枘穴(ほぞあな)が開いており、元は飛天が付いていたと考えるのは妥当です(飛天付きの光背はいくつも例があります)。
光背拓本画像(「法隆寺金堂釈迦三尊像 法隆寺資料彫刻編第1輯」に「→」を加工
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「当初、この大光背の周縁は “飛天” で飾られていて、枘穴は飛天を取り付けるための差し込み穴であったのだ。」(平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」明治40(1907)、考古界69号、後「仏教芸術の研究」に所収) 

注⑦ 「やや小さめの釈迦像」(“薬師如来像”のこと)と入れ替えて「根本本尊」とした ‥‥‥ 川端氏は、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』によって、本尊を大きさで入れ替えたとしていますが、「本尊を交替」したと仮定したとしても、交換した理由は川端氏の主張(大きい方を本尊にした)とは異なっていたのではないでしょうか。
鎌倉時代の法隆寺の学僧で、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』の著者である顕真もこの点を不審に思い、同書に「当初は薬師如来像が本尊であったが、釈迦三尊像の方が大きいので、後に交替して釈迦三尊が本尊になった」という意味のことを記している。しかし、寺の本尊が単に像の大きさのみで交替するということは常識的には考えにくい。また、釈迦三尊像の頭上に吊るされている箱形天蓋(飛鳥時代)の大きさが同像の台座とほぼ同じ大きさであることからみても、金堂「中の間」本尊は当初から釈迦三尊像であったとみるのが自然である[8]。」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋) 

注⑧ 夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた ‥‥‥ “救世観音像”は法隆寺夢殿の本尊です。
夢殿
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。法隆寺/法隆寺伽藍/夢殿より抜粋)
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法隆寺夢殿の本尊で,聖徳太子の等身の御影と伝わる観音菩薩立像。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」より)
法隆寺の救世観世音菩薩像は、200年間公開されていなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)、国より調査の委嘱を受けたアーネスト・フェノロサが、夢殿厨子と救世観音の調査目的での公開を寺に求め、長い交渉の末、公開されたものである。後に著作『東亜美術史綱』で像影の写真付きで公刊されている。回扉されると立ったまま500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれた状態で、解くとすごい埃とともに「驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」と表現している[3]。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」秘仏と公開 より)
 しかし、川端氏の主張(完成した釈迦三尊像は“夢殿”を造って安置されたが、夢殿の移築の際に金堂にあった“救世観音”と入れ替えられた、とする)の根拠となる史料は見当たりませんでした。
法隆寺東院夢殿 一棟
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物で、著名な救世観音を本尊とし、あわせて東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置する。この地は太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見し、そのことが確認された。また、この調査では東院創立当初の回廊や南門の規模も判明した。
その創立を天平一一年(七三九)とする『法隆寺東院縁起』には多少の疑問ももたれるが、天平宝字五年(七六一)の『法隆寺東院資財帳』には夢殿以下各堂宇の記録があるから、少なくともそれ以前の建立であることはまちがいない。
堂は八角形の平面をもち、一般に八角円堂と呼ばれる。建立以来何回かの修理をうけてきたが、なかでも寛喜二年(一二三〇)の修理は大改造をともなったもので、今見る姿はほぼこの時に定まった。改造の主な点は、組物を一段分積み重ね、軒部材を新材にとりかえて軒の出を増し屋根勾配を強くしたなどで建立当初と比べると建物の建ちが高くなり、全体に鎌倉時代らしい武骨さが強まったといえる。
このように中世の改造はあるものの、当初形態の復原も可能で、栄山寺八角堂とともに奈良時代の円堂を今に見ることができるのは幸いである。なお、頂上の露盤宝珠は宝瓶に八角形に宝蓋や華麗な光明をともなったもので、世上著名な優作である。
【引用文献】

『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五)」(文化遺産データベース「法隆寺東院夢殿 ほうりゅうじとういんゆめどの」より。下線は山田による。)
〔前略〕夢殿は八角円堂で,この形式は現存遺構は少ないが鎮魂の堂の役割をもつ例が多い。」(コトバンク 世界大百科事典 第2版「夢殿」の解説より抜粋)

2023年1月 7日 (土)

「京都橘高校」グルーピー93―未紹介動画コレクション4―

「京都橘高校」グルーピー93
未紹介動画コレクション4[「京都橘高校」グルーピー]

 先に紹介した動画京都橘高校吹奏楽部/parade & kitchen in fuso70th/Kyoto Tachibana SHS Band /stage marching/right camera versionの「改訂版(Revised version)」とのことです。

京都橘高校吹奏楽部/parade & kitchen in fuso70th/Kyoto Tachibana SHS Band/ Marching parade /Revised version
投稿者コメント
京都橘/パレード/Kyoto Tachibana SHS Band / Marching parade/
Kyoto Tachibana High School marching band
2022年10月29日「扶桑町70周年を祝う音楽と食の祭典」

PARDA & KITCHEN inFUSO70thでの京都橘高等学校吹奏楽部の皆様のパレードからの動画です。「先にUPしました動画のタイトル間違い補正、及び一部動画の差し替えを行いました。
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2023年1月 4日 (水)

構文論(syntax)と意味論(semantics)―分数同士の割り算―

構文論(syntax)と意味論(semantics)
分数同士の割り算[論理学][数学の面白さ]

 皆さんは、小学生から次のような疑問を尋ねられたらどうお答えしますか?
…………………………………………………………………………………………………………………………
「分数同士の割り算は、割る方の分母・分子をひっくり返して掛け算する」って教わったけど、
なぜそのようにして計算するの?
…………………………………………………………………………………………………………………………

 この子は「分数同士の掛け算は、分母同士・分子同士を掛け算する」ことは納得しているようです。

(ab)×(cd)(a×c)(b×d)………①

 納得している理由は、「通分」を認めているからと思われます。

(ab)×(cd){(a×d)(b×d)}×{(c×b)(d×b)}{(a×d)×(c×b)}{(b×d)×(d×b)}

{(a×d×c×b)}{(b×d×d×b)}{(a×c)×(b×d)}{(b×d)×(b×d)}(a×c)(b×d)

 

分数同士の割り算(構文論)

 (ab)(cd)(ab)×(d/c)(a×d)(b×c)………②

 上記の式②の下線部分(分子c, 分母d をひっくり返して掛け算する)が疑問となっているのです。

 「通分」を認めているのであれば、そのように説明すれば良いと思います。

…………………………………………………………………………………………………………………………
(ab)(cd){(a×d)(b×d)}{(c×b)(d×b)} 〔通分〕
{(1(b×d))×(a×d)}{(1(d×b))×(c×b)} 〔通分の逆(約分)分母と分子に同じものがある〕
(a×d)(c×b)(ab)×(dc) 〔掛け算の逆。分母同士・分子同士の掛け算は分数同士の掛け算で表せる。〕
…………………………………………………………………………………………………………………………

 このように「分数の『意味』」など考えずに「式」を変形していくだけで「証明」できます。数学とは構文論で成り立っているのです。数学に要請されることは「整合がとれている」ことと「実際に役立つ」ことだけです。おまけとして加えるとすれば「美しい(「式」になる)」ことです。 

 数学的に証明してあげたとしても、(たぶんですが)小学生は納得してくれない(「なんだかなぁ?」)でしょう。「意味」が分からないからです。

 

分数の意味

 分数(有理数=整数の比で表せる数)の「意味」は、二つ考えられます意味とは無関係に分数の計算は成り立っています)。

 一つは、数量を分けるときの単位(例えば「人」)当たりの数量を表す場合です。

例1 一升(.8㍑)の酒を5で酒盛りすると、一人当たりの飲める量は幾らか(小学生は飲めない)。
.8㍑/5人=18005 (ml/人)360 (ml/人)

 もう一つは、ある数量の全体に対する割合を表す場合です。

例2 ある自動二輪車で、満タン18㍑の15を消費して目的地まで走った。目的地までに要したガソリンの量は幾らか。
18㍑×153.6

 

分数同士の割り算(意味論)

 割る数が整数でなく分数の場合には、つぎのように意味づけられます。

 先の例1の場合を分数同士の割り算にしてみます。

一升(.8㍑)の酒を360ml(0.36)のコップに分けると何杯とれるか。 

(1810 )(3601000 )(95)(925)(95)×(259)

(9×25)(5×9)2555 (杯)

 

 先の例2の場合を分数同士の割り算にしてみます(部分と全体の割合)。

ある自動二輪車で、満タン18㍑の15を消費して目的地までの道のりの23を走った。このバイクの出発点から目的地までに要するガソリンの量は幾らか(いわゆる「燃費(㎞/㍑)」ではありません)。 

(18㍑/5){(23)×目的地までの距離}〔(答え:X㍑/目的地までの距離)はこれででる。〕

{(18×3)(5×3)}{(2×5)(3×5)} 〔通分。「/目的地までの距離」は省略。〕

{(1(5×3))×(18×3)}{(1(3×5))×(2×5)} 〔通分の逆〕

(18×3)(2×5)(18㍑/5)×(32)      〔掛け算の逆〕

〔(18㍑/5)×(32) は {(18㍑/5)2}×3と変形すれば、「目的地までの距離の2/3に要するガソリン量を1/2して、目的地までの距離の1/3に要するガソリン量を算出しておき、それを3倍すれば目的地までの距離に要するガソリンの量がでる」という意味になります。だから2/3の分母分子をひっくり返して(3/2)掛け算するのです。〕

5.4㍑(/目的地までの距離)

2023年1月 3日 (火)

寺の呼び方―山号・院号・寺号―

寺の呼び方
山号・院号・寺号[論理の赴くところ][神社・寺院]

 管見では、寺院の呼び方(山号・院号・寺号)は次の通りと考えます。

 

「寺」とは

 「寺」とは、仏教の(布教や儀式を執り行うなどの)ために特別に供された場所(領域)です(古来は行政のための「役所」を「寺」と言いました(「鴻臚寺」(外交官署)))。

 

院号は施設を示す

 「寺」の領域内で、特定目的の施設を囲った区域を「院」といいます(塔を囲った「塔院」、金堂を囲った「金堂院」、戒壇を囲った「戒壇院」など)。「〇〇院」とは本来はどのような施設なのかを示すものでした。ここから「〇〇院」という寺の院号が発生しました(「普賢総持院」(教王護国寺))。

 

「寺院」とは

 「寺院」とは、「寺」(領域)と「院」(施設)の総称(まとめて呼んだもの)です。

 

山号は所在を示す

 「××山」という山号は、密教系の寺院の多くが山中に建てられたので、寺院の所在を示す目的で呼ばれました(比叡山(延暦寺)高野山(金剛峰寺)身延山(久遠寺)定額山(善光寺)など)。平野に建てられることが多いわが国では、山名ではなく邑名で所在を示しました(飛鳥寺(法興寺)〔斑鳩〕(法隆寺)など)。また、同じ村に寺が二つあれば「鵤僧寺(法隆寺)とか「鵤尼寺(中宮寺)とか呼んで区別しました。
 ちなみに、わが家の菩提寺は「磯村山釈迦寺」といいます(磯村にあります)。古代であれば磯村寺(いそむらでら)とか呼ばれたのかもしれませんね。

 

寺号は固有の識別名

 寺号((飛鳥寺)法興寺(鵤僧寺)法隆寺(高野山)金剛峯寺(定額山)善光寺など)は、寺院の「固有の識別名(unique identifier)」なので寺号が同じ寺はありません(仏教の規則として同じ名はつけられません。ただし、違う場所に建てられた「別院」は例外です)

「京都橘高校」グルーピー92―未紹介動画コレクション3―

「京都橘高校」グルーピー92
未紹介動画コレクション[「京都橘高校」グルーピー]

 昨年の拾いもれ動画です。なお、コメントの一部分の太字強調(「先にUP・・・音声補正版です。」)は山田によるものです。

京都橘高校吹奏楽部 / マーチング・カーニバル in 別府 2022/Opening parade/Kyoto Tachibana SHS Band 「Audio corrected version」
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部 / MARCHING CARNIVAL IN BEPPU 2022 / オープニングパレード。
Kyoto Tachibana High School marching band
2022年10月30日マーチング・カーニバル in 別府 2022での
Opening paradeで京都橘高校吹奏楽部の皆さんのパレードからの動画です。
先にUPしました動画は音声ノイズが多かった為こちらは音声補正版です
※「Audio corrected version」
00:00 Down By The Riverside
02:31 Back to the Future
03:09 Super Mario Bros.
04:00 Little Brown Jug
04:41 In the Mood
05:35 It's a Little World
06:33 Pink Panther
07:10 Another Day of Sun from La La Land
08:11 ブン・バボーン!
08:46 Faith
09:51 Jurassic Park
10:50 Cinderella
11:13 Copacabana
15:11 Down By The Riverside

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「京都橘高校」グルーピー91―Memories of You~Sing Sing Sing ―

「京都橘高校」グルーピー91
Memories of You~Sing Sing Sing[「京都橘高校」グルーピー]

 グルーピー動画の紹介は、基本的には(見落としがなければ)動画投稿日付順になっています。この動画のようにイベントの開催日順にならない場合があります。ご承知おきください。

Memories of You~Sing Sing Sing / Kyoto Tachibana SHS Band(Nov 29, 2022)
投稿者コメント
京都橘高校吹奏楽部
2022年10年29日 扶桑町制施行70周年記念事業イベント
愛知県扶桑町イオンモール駐車場にて

2023年1月 2日 (月)

「京都橘高校」グルーピー90―愛の賛歌/rehearsal―

「京都橘高校」グルーピー90
愛の賛歌/rehearsal[「京都橘高校」グルーピー]

 台湾「双十節」公演(9:329:49)でのドラムメジャーさんの演舞のフルバージョンをこのリハーサルで見ることができます(次の動画の1:001:25)。

京都橘高校吹奏楽部 / メリディアン・マーチングフェスタ / Hymn A L'Amour / 愛の賛歌 / rehearsal / Kyoto Tachibana SHS Band
投稿者コメント
京都橘 / メリディアンマーチングフェスタ / Kyoto Tachibana SHS Band 
2022年10月23日/メリディアン・マーチングフェスタでの京都橘高校吹奏楽部の皆さんのリハーサルからの動画で

♪ 愛の賛歌 「 Hymn A L'Amour」です。
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「出雲商業高校」グルーピー51―第17回定期演奏会 アンサンブル演奏―

「出雲商業高校」グルーピー51
第17回定期演奏会 アンサンブル演奏[「出雲商業高校」グルーピー] 

 このようなダンスのない演奏ももちろん楽しめますね。

2022.12.22 島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部/第17回定期演奏会 アンサンブル演奏
投稿者コメント
2022年12月22日
島根県立出雲商業高等学校吹奏楽部
第17回定期演奏会
アンサンブル演奏

 

 

2023年1月 1日 (日)

『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―

『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く
倭国一の寺院[論理の赴くところ][神社・寺院]

はじめに

 大越邦生氏の論文「法興寺研究」(『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年)に沿って、『日本書紀』の記事から「元興寺」の在処を読み解いてみます。私見が混じっていますが、ご容赦ください。

 読み解く方法は、先のブログ記事 私の読解法―筆者の立場で考える―2022年12月18日(日)に掲げてあります。

 

読み解く記事

 まず、読み解く対象となる『日本書紀』の記事は次の二つです。

【原文・訓読文ともに岩波書店 日本古典文学大系68『日本書紀 下』より】
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
《推古天皇十七年(六〇九)四月》
十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言、百濟僧道欣・惠彌爲首、一十人、俗人七十五人、泊于肥後國葦北津。是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰、百濟王命以遣於呉國。其國有亂不得入。更返於本郷。忽逢暴風、漂蕩海中。然有大幸、而泊于聖帝之邊境。以歡喜。

〖訓み下し文〗
十七年の夏四月(なつうづき)の丁酉(ひのとのとり)の朔庚子(つひたちかのえねのひ)〔4日〕に、筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)、奏上(まう)して言(まう)さく、「百濟(くだら)の僧(ほふし)道欣(だうこん)・惠彌(ゑみ)、首(このかみ)として、一十人(とたり)、俗人(しろきぬ)七十五人(ななそぢのあまりいつたり)、肥後國(ひのみちのしりのくに)の葦北津(あしきたのつ)に泊(とま)れり」とまうす。是(こ)の時(とき)に、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)(たつ)を遣(つかは)して、問(と)はしめて曰(い)はく、「何(なに)か來(まうこ)し」といふ。對(こた)へて曰はく、「百濟(くだら)の王(きし)、命(ことおほ)せて呉國(くれのくに)に遣(つかは)す。其(そ)の國(くに)に亂(みだれ)(あ)りて入(い)ることを得(え)ず。更(さら)に本郷(もとのくに)へ返(かへ)る。忽(たちまち)に暴(あら)き風(かぜ)に逢(あ)ひて、海中(わたなか)に漂蕩(ただよ)ふ。然(しか)るに大(おほ)きなる幸(さち)有りて、聖帝(きみ)の邊境(ほとりのさかひ)に泊(とま)れり。以(これをも)て歡喜(うれし)ぶ」といふ。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

《推古天皇十七年(六〇九)五月》
五月丁卯朔壬午、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍、二人、而副百濟人等、送本國。至于對馬、以道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。

〖訓み下し文〗
五月(さつき)の丁卯(ひのとのう)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)〔16日〕に、德摩呂等(とこまろら)、復奏(かへりことまう)す。則(すなは)ち德摩呂(とこまろ)・龍(たつ)、二人(ふたり)を返(かへしつかは)して、百濟(くだら)の人等(ひとども)に副(そ)へて、本國(もとのくに)に送(おくりつかは)す。對馬(つしま)に至(いた)りて、以(も)て道人等(おこなひひとども)十一(とあまりひとり)、皆(みな)(ま)せて留(とど)まらむとす。乃(すなは)ち表上(まうしふみたてまつ)りて留(とど)まる。因(よ)りて元興寺(ぐわんごうじ)に住(はべ)らしむ。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 

記事の経緯

 記事の経緯を箇条書きにすると次のようになります。

(1)百濟の僧道欣・惠彌を首(このかみ)とする一十人、俗人七十五人が、肥後國の葦北津(あしきたのつ)に漂着した〔漂着日不明〕。
(2)推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕に、筑紫大宰がそのことを〔朝廷に〕奏上した。
〔奏上先が推古天皇とは限らない。〕
(3)筑紫大宰の奏上をうけて、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)(たつ)の二人が肥後國の葦北津に遣わされた〔葦北津到着日不明〕。
(4)難波吉士德摩呂・船史龍が百濟の僧道欣・惠彌らに、「何故来たのか?」と問うと、「百濟王の命で呉國に遣わされたが、その國に亂〔戦乱〕が有って入国できなかった。本国へ返る途中で暴風に逢って、貴国の辺境に漂着しました。」と答えた〔尋問日不明〕。
(5)推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等がこのことを〔朝廷に〕復奏すると、德摩呂・龍の二人を副えて百濟人等を本國〔百済〕に送り返すことになった。
(6)〔送還百済人一行が〕對馬に至る〔到着日不明〕と、道人等十一()が皆〔倭国に〕留まりたいと願った〔請願日不明〕。
(7)〔道人等十一〔人〕の請願を朝廷に〕上表すると留ることが許された〔上表して許された日不明〕。
(8)〔朝廷は道人等十一()を〕元興寺に住まわせた〔住み始めた日不明〕。

 

事柄の因果関係(A→B、AによってBが起きた。以下同順同様。)

 記事の経緯を起きた事柄の因果関係に分けると次のようになります。

.筑紫大宰は、百済人85人〔内訳省略〕が肥後國の葦北津に停泊したと、〔肥後國から〕報告を受けた。
. 推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕、筑紫大宰はそのことを〔朝廷に〕奏上した。
.〔朝廷は、〕筑紫大宰からの報告を受けて、難波吉士德摩呂・船史龍を肥後國葦北津に派遣した。
.〔葦北津に着いた〕德摩呂・龍は、百濟の首らに肥後國葦北津に「〔この地に〕来たわけ」を尋問した。
.百濟の首らは、〔德摩呂・龍の〕尋問に答えて、「目的地の呉國に戦乱があって入国できず、百濟に帰還する途中、暴風で遭難したが、幸いなことに貴国の辺境に漂着しました。」と答えた。
.推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等は、〔百濟の首らの回答を、都に帰って朝廷に〕復奏した。
.〔朝廷は、〕德摩呂等を〔葦北津に〕返して、百済人達に付き添わせて本国(百済)に送還する〔ことにした〕。
.〔百済人を送還途中の德摩呂等一行が〕対馬に至ると、道人等十一()が〔帰国せずにこの国に〕留まることを願った。
.〔德摩呂等が道人等十一()の請願を〕上表し、留まる〔ことが朝廷に許された〕。
.〔朝廷は、道人等十一(人)を〕元興寺に住まわせた。 

 以上から次のことが確かめられます。
  1.都と肥後國の葦北津との間を行き来しているのは、難波吉士德摩呂・船史龍であること。
  2.漂着した百済人は、本国送還になるまで葦北津に足止めされていること(当時 託麻郡にあった肥後国府(現 熊本市国府本町一帯)は、処分未決の百済人達を漂着地の葦北津に留め置いたと解釈しています。
   ❶葦北津から国外追放という処分もあり得ます、❷葦北津から託麻国府まで直線距離で約58㎞もあります。
  3.百済人の本国送還(葦北津~対馬)に、德摩呂・龍の二人が付き添っていること。
  4.百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由であること。
  5.元嘉暦では推古天皇十七年(六〇九)己巳年は平年で、四月は30(大の月)であり、五月は29日(小の月)なので、〔百済人らが肥後國の葦北津に停泊したと〕筑紫大宰が奏上した四月丁酉朔庚子〔4日〕から〔百濟の首らの返答を〕德摩呂等が復奏した五月丁卯朔壬午〔16日〕までは足掛け43日であること。

 

大きな疑問()は何か

 試験問題風にすれば次のようになります。
…………………………………………………………………………………………………………………………
 上記の二つの記事(推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子条・同年五月丁卯朔壬午条)について、整合的で納得できる解釈が成立するように、次の問いに答えよ。

問1.道人等十一〔人〕が、尋問を受けた時に留まりたいと願い出なかったのはなぜか。

問2.道人等十一〔人〕が、対馬に至ってから留まりたいと願い出たのはなぜか。

問3.俗人七十四人が、留まりたいと願い出なかったのはなぜか。

問4.道人等十一〔人〕だけが留まりたいと願い出たのはなぜか。

問5.寺院(元興寺)に住まわせたのはなぜか。

問6.住まわせた寺院が「元興寺」であったのはなぜか。

問7. 問1.から問6.までの解答によって、納得できるストーリーを組み立てよ。
…………………………………………………………………………………………………………………………

 誘導式になっていますので、順に答えれば謎は解けるようになっています(笑)。 

<thinking time>

 

模範解答

問1.の解 留まりたいと思うことが無かった(動機なし)。

問2.の解 対馬に至るまでに留まりたいと思うことがあった(動機発生)。

問3.の解 俗人七十四人には留まりたいと思うことでは無かった(俗人には動機発生せず)。

問4.の解 道人等十一〔人〕なので留まりたいと思うことであった(僧侶たちだけに動機発生)。

問5.の解 留まりたいと願ったのが僧侶等であったから寺院(「元興寺」)に住まわせた。

問6.の解 「元興寺」が僧侶等の望んだ寺院であった。

問7.の解 百済の僧侶たちは、本国送還(葦北津~対馬)の行程中に、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を目撃した。僧侶たちは、百濟に帰るよりもその壮麗な寺院でお勤めしたいと思った。そこで在留の申請をして許された。百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院というのが「元興寺」であった。

 以上が「整合的で納得できる解釈」です(読み解きました)。おそらくこの二つの記事の筆者は、これでわかるだろうと考えたのだと思います(これは私の感想です)。読者の皆さんはどのような読解をされたでしょうか。

 

「元興寺」の在処

 さて、本題(テーマ)は、「元興寺」の在処 でした。上記の読解に基づいて探索してみましょう。

 「d. 百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由」でした。

 ということは、百濟の僧侶等が目撃した「元興寺」はこのルート上に存在したと考えられます。
葦北津~太宰府~対馬
Photo_20230101125001
 上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。

 さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。

 すなわち、「元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった」と読み解きました。 

(続く)

 次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。

新年明けましておめでとうございます

新年明けましておめでとうございます[挨拶]

 年頭にあたり、私の綱領的文書 「戦後型皇国史観」に抗する学問 を読み直しました。

 古田武彦先生は、「愛国者」として、次のことを追求されたと私は理解しています。

 為政者の意のままに操られないために、国民は自国の真実の歴史を知らねばならない、と。

 2020年に書いた下記の付言が的を射ていた現状になっています。

【付言(2020/01/01)】
 「為政者の意のままに操られないために」(下線部分)と書いてありますが、これは自国の為政者に限った話では無いし、また、「為政者」そのもの」ではなく「為政者の意を受けたマスコミ」の方が、最近は人々を「操ろう」としています。心すべきです。【付言】終わり

…………………………………………………………………………………………………………………………

「戦後型皇国史観」に抗する学問

古田学派の運命と使命

古田史学の会・代表 古賀達也

一.日本古代史学の宿痾

 日本古代史には宿痾とも称すべき不動の通念がある。それは神代の昔から日本列島の中心権力者は近畿天皇家であるという通念(近畿天皇家一元史観・古田武彦氏による造語)である。『日本書紀』成立以来、現在に至るまで続くこの通念は「近畿天皇家が日本列島の代表権力者とする『日本書紀』の歴史像の大枠は真実である」というものだ。そしてこの通念は学問的論証を経ていないにもかかわらず、戦前はおろか戦後の「民主教育」においても疑われることはなく、この通念に基づいて日本古代史が論じられてきた。

 その結果、通念にあわない史料事実や考古学的事実は無視ないし軽視され、ひどい場合は史料事実を誤りとして退け、原文改訂さえも学界は厭わなかった。その著名な例が、『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国(ヤマイ国)」を「邪馬臺(台)国(ヤマタイ国)」とする原文改訂である。

 この原文改訂は江戸時代の学者、松下見林によりなされており、その理由は日本国は古来よりヤマトの天皇家が代表者であるから、ヤマトと読めない倭人伝の原文「邪馬壹国(ヤマイ国)」をヤマトと読めそうな「邪馬臺国(ヤマタイ国)」に改めればよいというものであった。これは近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づくものであり、学問的論証の結果ではない。この見林による、近畿天皇家一元史観に不都合な史料事実は書き換えてよいとする非学問的な方法はそれ以後の日本古代史学の宿痾となった。

 

二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇

 松下見林による近畿天皇家一元史観に基づく原文改訂という方法はその後の歴史家にも受け継がれた。しかも原文改訂は倭人伝の中心国名だけにとどまらない。その位置を示す方角記事「南に至る邪馬壹国」の「南」をも「東」としたのである。倭人伝に記された邪馬壹国への行程記事は朝鮮半島から対馬・壱岐を経て松浦半島・糸島平野・博多湾岸へと進み、その南に邪馬壹国があるとされているのだが、この方角が「南」では奈良県(ヤマト)に至らないので、「東」の誤りとする原文改訂がなされた。

 基本文献(基礎データ)を自説に都合よくあわせるために好き勝手に改訂(研究不正)するという方法が学者により公然と採用され、学界もまたそれを受け入れたのである。この瞬間、倭人伝研究は学問ではなく素人でも簡単に参入できる「趣味」の領域となった。アマチュア研究者による「邪馬台国」論争ブームの幕開けである。

 学者による原文改訂という方法を知ったアマチュア研究者が、自らの思いつきで自由に原文を改訂したり学問的手続きを経ずに自由に倭人伝を解釈した結果、全国各地に「邪馬台国」候補地の乱立という「百家争鳴」の様相を示したのはご存じの通りである。たとえば前述のように「南」を「東」に改訂してよいのなら、同様に「西」や「北」など三六〇度どこにでも「邪馬台国」の所在地を想定可能だからだ。

 おりからの出版ブームがそれを後押しし、その出版された非学問的な著書を読んだ別のアマチュア研究者が更に奇想天外な思いつきを競い合い、それを「学問的仮説」と称して出版するという学問的負の連鎖が一世を風靡した。学者が行っているような方法(論証抜きの原文改訂)を駆使し、自らの思いつきを「邪馬台国」ブームに乗って世に発表したいと考えるのは無理からぬことであり、出版社もそうした人々を「自費出版」というビジネスモデルの格好のターゲットとしたこともまた否定できない側面であろう。

 戦後の「邪馬台国」ブームにおいて最も悲劇的だったことは、原文改訂などの非学問的方法を古代史研究者自身が正せなかったことにある。どのような学問分野でも科学的根拠や学問的根拠を持たない俗説・誤論が世にはびこったとき、卓越した知識や専門性を持つ学者が「その方法や結論は誤っている」と警鐘を打ち鳴らすのが普通であろう。そうした責任と実力を有していることがプロとしての存在価値だからだ。ところが日本古代史学では学者が率先して自説に都合よく原文改訂するという「研究不正」に手を染めてしまっていたため、アマチュア研究者による同様の方法とその結果至った奇想天外な結論を「学問的仮説」と称することに真正面から批判できなかったのである。

 

三.邪馬壹国説の登場

 一九六九年九月、日本古代史学界に衝撃的な論文が発表された。古田武彦氏の「邪馬壹国」(『史学雑誌』)だ。それまで研究者の誰もが疑うことなく使用していた『三国志』倭人伝の中心国名「邪馬台国」は原文改訂されたものであり、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする論文であった。従来、「邪馬壹国」は本来は「邪馬臺国」であり、「壹」と「臺」の字を書き間違えたものと論証抜きで取り扱われてきたのだが、古田氏は『三国志』にある「壹」と「臺」の字を全て調査され、この二つの字は正確に使い分けられており、誤って取り扱われた例がないことを証明された。従って、必要にして十分な論証なしで基本史料(倭人伝)の原文改訂を行うことは「否」であるとされた。更に当時「臺」の字は天子の宮殿を表し、魏の天子その人をも意味する神聖至高の文字であることを明らかにし、夷蛮の国名に使用されることはありえないとされたのである。確かに「邪馬壹国」のように「邪」や「馬」のような「卑字」を国名に使用しておきながら、自らの天子その人を意味する「臺」の字を『三国志』の著者陳寿が夷蛮の国名に使用するとは考えにくい。

 この『三国志』の「壹」と「臺」の全数調査という誰も試みなかった方法や、神聖至高文字という漢字の持つ時代背景と論理性の重視という古田氏の指摘や学問の方法は、それまでの「邪馬台国」研究とは比較にならないほどの圧倒的な説得力をもって読者に受け止められた。まさにこの古田氏の著書の出現はそれまでの恣意的な原文改訂を「是」としてきた学界の常識を否定し、古代史研究を異次元の高みへと引き上げたのである。

 この論文「邪馬壹国」はその年の最も優れた古代史論文と評価されたことからも、日本古代史学界に与えた衝撃の大きさがうかがえよう。そして一九七一年十一月には古田武彦氏の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎』が朝日新聞社から出版された。同書は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後も角川文庫・朝日文庫と出版社を変えながら復刻され、現在もミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションの一冊として書店に並んでいる。

 

四.九州王朝説の登場

 『「邪馬台国」はなかった』に続き、古田氏は古代史第二著『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』(一九七三年)を同じく朝日新聞社から出版された。これら二書は『盗まれた神話 記・紀の秘密』(朝日新聞社、一九七五年)とともに「古田武彦初期三部作」と読者から呼ばれることになる。中でも『失われた九州王朝』は博多湾岸に存在した邪馬壹国の後継王朝「九州王朝(倭国)」について論じたもので、古代中国史書に記録された日本列島の代表国「倭国」は近畿の大和朝廷ではなく北部九州に君臨した「九州王朝」であることを中国史書などから明らかにされた。

 たとえば『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として表記されており、倭国は邪馬壹国の後継王朝としてその歴史が略述され、日本国は「倭国の別種」で小国だったが倭国の地を併合したと紹介されている。また『隋書』「倭国伝」(注(1) )も倭国の紹介記事に阿蘇山の噴火の様子が記されており、倭王は阿毎多利思北孤(アメ・タリシホコ)という男性であり、近畿天皇家の推古天皇(女性)とは異なる(注(2) )。このように古代中国史書に見える倭国は北部九州にあった国(注(3) )であり、近畿の「大和朝廷」ではありえない。また「九州王朝」は独自の年号(注(4) )を採用しており、その王族の末裔が現代に続いていることなども後に明らかとなった。

 このように、古代の日本列島において「九州王朝」を初めとして複数の「王朝」が並立あるいは勃興を繰り返したとする歴史理解を古田氏は「多元史観」と命名し、近畿天皇家一元史観に対抗する概念として提唱された。戦前のむき出しのイデオロギーに基づく皇国史観は、戦後史学においても「実証性」の装いをまとった「戦後型皇国史観」として継承された。それに対して古田氏は「多元史観」をもって日本古代史学界の宿痾に挑戦されたのである。

 

五.市民運動と古田史学

 古田史学・多元史観は、通説の基礎となる一元史観を完全否定するものであり、ともに天を戴くことが不可能な学説であった。このような古田史学は、通説やその学問の方法に疑問を抱いていた多くの古代史ファンやアマチュア研究者に多くの支持者を得たのみではなく、その論理的な学問の方法や学説に基づいた研究者をも陸続と生み出した。そしてその潮流は古代史分野における市民運動として日本各地に波及していった。同時に、学界や古代史ファンに衝撃を与えただけではなく、たとえば『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評が池田大作創価学会会長(当時)により発表されたのをはじめ(注(5) )、各界の人士から少なからぬ賛意が表明された。

 一九八〇年頃には古田氏の読者・支持者により関西では「市民の古代研究会」が、関東では「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」が発足し、古田氏の講演会開催や会紙・研究誌の発行などの活動が盛んに行われるようになった。わたしも一九八六年に「市民の古代研究会」に入会し、幹事・事務局長を歴任するとともに、古田氏に師事し、日本古代史研究を始めた。入会当時は二百名ほどの会員数で推移していたが、事務局長就任以来会員拡大と全国の支部創設をわたしは意識的に行った。古代史ブームも重なり、「市民の古代研究会」は会員が千名近くまで急成長したのだが、古田史学・多元史観への支持とその影響力の増大に危機感を感じた古代史学界からは露骨な古田武彦外しが始まった。

 

六,学界からの無視と「古田外し」

 おりからの「邪馬台国」ブームと古田史学・邪馬壹国説の人気はマスコミからも注目をあび、たとえば朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして事前に古田氏に参加要請がなされたが、そのたびに「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、古田氏に参加要請していたにもかかわらず二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 学会誌に掲載される論文や書籍から古田説への言及や批判はおろか、引用文献・参考資料の項目からも古田氏の著作・論文は姿を消していった。それはまるで古田説の存在そのものを最初から無かったことにしようと、古代史学界で申し合わされたかのようであった。「古田外し」の現場をわたし自身も目撃したことがあるほどだ(注(6) )。こうした学界の対応は、古田説の根幹である「多元史観」が、旧来の通説(一元史観)を全否定するという論理性を有しており、従来説の部分修正などでは済まないという学説であったために必然的に招いた現象ともいえる。

 他方、一九九〇年頃には古田説を支持する最大の市民団体に成長した「市民の古代研究会」も様々な謀略に晒された。急激に増加した会員数と会活動を支えるために運営組織を肥大化させたことにより、心中では古田説を支持しない人々が「市民の古代研究会」の中枢(理事会)に入ってきたのである。

 

七.「古田史学の会」の創立と発展

 古田氏は『真実の東北王朝』(駸々堂出版、一九九〇年)において、青森県五所川原市飯詰の和田喜八郎家に伝わった「和田家文書」(注(7) )を紹介され、貴重な近世文書であると評価された。ところが、「和田家文書」を所蔵者による偽作とする「偽作キャンペーン」が勃発し、同文書を評価した古田氏も偽作に加担したとする熾烈な事実無根の古田バッシングが、古代史論争で古田氏と対立した安本美典氏らを中心として開始された。それはNHKの報道番組や「右翼」雑誌とされる「ゼンボウ」をも取り込んだもので、周到かつ執拗に続けられた。

 この古田バッシングと偽作キャンペーンに「市民の古代研究会」も翻弄され、理事会内部は反古田派と古田氏と距離を置こうとする中間派、そして古田氏を支持するわたしたちとに分かれて激しく対立した。中間派を取り込んだ反古田派が理事会で多数派となったため、藤田友治会長(故人)と事務局長のわたしは古田支持の理事と共に「市民の古代研究会」を退会し、一九九四年四月に「古田史学の会」(注(8) )を創立するに至った。この騒動の後、古田氏から離れた「市民の古代研究会」は内部分裂を繰り返し、解散した。

 迫害や中傷に屈しない筋金入りの古田史学支持者と研究者により創立された「古田史学の会」は順調に発展し、会紙『古田史学会報』(隔月刊)と論文集『古代に真実を求めて』(明石書店、年刊)などを発行し、ホームページ「新・古代学の扉」やfacebook「古田史学の会」も開設している。会員による地域組織として「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・東海」「古田史学の会・関西」「古田史学の会・四国」が活動しており、今日では各地でその影響力を高めている(注(9) )。こうして古田説を支持・研究する古田学派は体勢を立て直し、「古田史学の会」は日本古代史研究団体として底辺を広げ、優れた研究陣を輩出するに至っている。会員の研究成果として会誌『古代に真実を求めて』の他、ミネルヴァ書房から『「九州年号」の研究』(二〇一二年)『邪馬壹国の歴史学』(二〇一六年)の二冊を上梓したことを特筆しておきたい。

 

八.古田学派の運命と使命

 二〇一五年十月十四日、古田武彦氏が亡くなられた。享年八九歳。奇しくも古田氏が深く敬愛された親鸞の没年齢と同じであった。わたしたち古田学派は亡師孤独の時代を迎えた。

 涙が乾く間もなく、翌二〇一六年一月十七日、大阪府立大学なんばサテライトにて「古田武彦先生追悼会」を執り行った。主催は「古田史学の会」「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」の三団体。共に志を同じくする人々だ。古田氏の著作を復刻された株式会社ミネルヴァ書房の協賛もいただいた。

 追悼会には全国各地からファンや研究者が参集された。次の方々からは追悼文が寄せられた(注(10) )。古田氏生前の親交の一端をうかがわせるものである。

 荻上紘一氏(大妻女子大学学長)、池田大作氏(創価学会インターナショナル会長)、佐藤弘夫(東北大学教授、前・日本思想史学会々長)、高島忠平氏(学校法人旭学園理事長、考古学者)、中山千夏氏、桂米團治氏(落語家)、森嶋瑤子氏(故森嶋通夫ロンドン大学教授夫人) ※順不同。肩書きは当時のもの。

 続いて一月二四日には東京の文京シビックセンターにて「古田先生お別れの会(東京)」を開催した。ここにも関東や東日本の会員やファンが多数集った。

 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。そのため、多元史観という真実の古代史と古田氏の学問の方法を広く世に訴えるという社会運動も続けざるを得ないのである。従って、組織として二つの異なるテーマを用心深くバランスよく意識的に取り組まねばならないという複雑な運命を背負っているのだ。

 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。

 古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。

 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように(注(11) )。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。

 本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。

        (二〇一六年十二月三十日記)

(注)
  (1) 『隋書』の原文では「イ妥(タイ)国」とする。「大委(タイイ)国」の「一字国名」表記と思われる。
  (2) 九州王朝の天子、多利思北孤については『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編、明石書店。二〇一五年)に詳述されているので参照されたい。
  (3) 倭国(九州王朝)の首都は七世紀においては太宰府(福岡県太宰府市)と考えられている。
  (4) 倭国の年号(九州年号)は「継躰元年(五一七)」から「大長九年(七一二)」まで続いたことが後代史料や金石文の研究により判明している。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店。二〇一七年三月)を参照されたい。
  (5) 池田大作「批判と研究」(一九七二年一月十五日『週刊読売』掲載)。その後、池田大作著『きのうきょう』(一九七六年、聖教新聞社)に収録。
  (6) 滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に聴講したときのことだが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情を忘れ難い。同学会の「重鎮」たちの顔色を気にしながらのことだったようである。
  (7) 江戸時代の主に寛政年間頃に秋田孝季により著された史料(『東日流外三郡誌』他)の写本(多くは明治・大正期の書写)を初めとする文書群。わたしは約二百冊ほどを実見した。
  (8) 「古田史学の会」代表は水野孝夫氏、古賀は事務局長として参加した。その後二〇一五年六月に古賀が代表に、正木裕氏が事務局長に就任し、今日に至る。
  (9) 「古田史学の会」主催講演会では会員のみならず、著名な考古学者・自然科学者を講師に招いている。他方、久留米大学や愛媛大学などで会員が講師として招かれ、古田史学を紹介している。
  (10) 追悼文は『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店。二〇一六年)に収録した。
  (11) 親鸞研究は古田氏の母なる学問領域であり、優れた研究業績を残されている。次の著書が有名である。『親鸞 -- 人と思想』(清水書院、一九七〇年)、『親鸞思想 -- その史料批判』(冨山房、一九七五年。後に明石書店より復刻)
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