倭国一の寺院「元興寺」(7)―太宰府にあった傍証―
倭国一の寺院「元興寺」(7)
―太宰府にあった傍証―[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究]
この「倭国一の「元興寺」」シリーズの第一回 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―2023年1月1日(日) で、次のような論理で「元興寺が太宰府にあった」としました。
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葦北津~太宰府~対馬
上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。
さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
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私自身、「この理屈で万人が納得する」とは思えませんでした(ああも言えればこうも言える理屈=論証できていなかった)。今回、「元興寺」が太宰府にあった論理的傍証を見つけましたので報告いたします。
寺院の建立場所
寺院の建立場所に地理的な条件は特にありません。人里離れた山奥にも里村の中にも建てられています。道がない場所でさえ武蔵国分寺のように「参道」で繋いでいます。つまり、建立時の事情にさえ合えば、寺院はどこにも建てられます。
参道を付けた寺院のイメージ
「元興寺」の曲がった外郭
次の図をご覧ください。「南大門」から出た外郭が屈曲しています。
「元興寺」の曲がった外郭
この外郭の曲がりは以前から気になっていましたが、やっとその理由(わけ)に気づきました。
参道さえ付ければどこにでも建てられる寺院が、南大門から出た外郭にこのような屈曲を付けなければならない理由はただ一つだけなのです。
大路に面した寺院
寺院が「大路」に面していた場合、まっすぐな外郭に「南大門」を付けると次のようになります。
真っ直ぐな外郭に付いた「南大門」
当たり前ですが、これでは交通の妨げになりますので、少なくとも次の位置まで「南大門」を寺地内に下げる必要があります。
「元興寺」が太宰府にあった傍証とは、「元興寺」が「大路」に面して建てられていたことを「屈曲した外郭」(「南大門」の位置)が示している、ということです。
「いや、平城京だからじゃないか。」という反論が成り立つでしょうか。それは成り立ちません。なぜなら、九州(葦北津~対馬までの百済人送還ルート上)に平城京はありません。九州で「条坊都市」と言えるのは「倭京(太宰府)」だけだからです。私は寡聞にして九州の「条坊都市」は「太宰府」しか存じませんが、この百済人送還ルート上で太宰府以外の「条坊都市(遺構)」の存在をご存じであればご教示くださるようお願いいたします。
塔の景観を損なう「南大門」
上図は「元興寺」の伽藍配置(復原図)とは「南大門」の位置に違いがあります。すこしテーマから外れますが、その理由を検討します。
上図では、寺院の前(すなわち「南大門」の前)に立った人が塔を仰ぎ見た時、「南大門」が塔を覆い隠す状態になります(青色で示した塔の視野角に「南大門」が入り込んでいます)。
塔の景観を損なう「南大門」
「元興寺」の「南大門」は、塔の景観を重視して位置決めされていると考えられます。大路から寺地に入る位置(「南大門」の前)に立って塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれていることがわかります。「南大門」を通り抜けて「中門」との中間地点でも「南大門」が妨げになっていません。つまり、礼拝が終わって「中門」を通り抜けた時にも塔を仰ぎ見る視野の妨げにならない位置に「南大門」が置かれているのです。
妄想が暴走
ここまで解明してみると、次のような妄想の暴走が起きました。
太宰府にあった倭国一の「元興寺」は「七重塔の双塔」ではなかったか?
「高市大寺(藤原京の大官大寺)」も、その前身の「百濟大寺」も「九重塔」でした。「九重塔」があるのに倭国一の「元興寺」が五重塔であったのだろうか。「七重塔」を建てよという聖武詔勅は、倭国一の「元興寺」が「七重塔」であったからではなかったか。妄想は妄想としてとっておきましょう。
次回は「元興寺の伽藍配置」ではなく「元興寺式伽藍配置」の仮説を述べる予定です。
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