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2023年1月10日 (火)

倭国一の寺院「元興寺」(2)―異論の検討(その1)―

倭国一の寺院「元興寺」(2)
異論の検討(その1)[論理の赴くところ][神社・寺院]

始めに

 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) で、次のとおり予告しました。
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…(前略)…『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。
続く
 次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。
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 今回は、「倭国一の寺院」は「元興寺」ではない、と言う意見(異論)について考察します。

 論じるにあたり論点を複雑にしないために、前提とする事項を明確にしておきます。次の通りです。

(1)「倭国一」というのは「道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。」の記事の日付「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点のこととします。

(2)「『倭国』一」の「倭国」というは、「推古天皇十七年(六〇九)五月」の時点〔(1)〕のことですから、701年に「大寶(大宝)」を建元して建国した「大和王朝」(注①)ではなく、「大長九年」(712)まで存続した「九州王朝」(注②)のことです。

 

異論1

 ブログ記事 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院― を執筆中のとき、折しも「多元No172 Nov.2022 (「多元的古代研究会」会誌)が届きました。その④~⑤頁に『法隆寺のものさし』(注③)の著者 川端俊一郎氏の論稿「法隆寺「ナンバー・ワン」」が掲載されていました。

 今回は、この「法隆寺「ナンバー・ワン」」を「この読解(『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。)に立ちふさがる問題点」として取り上げてみようと思います。

 

川端氏の論稿

 川端氏は、法隆寺が倭国ナンバー・ワンの寺院であるとする論拠を、次のように示されています(「多元No172 Nov.2022 号」より転記。下線(注記)は山田による)。伽藍配置については ポピュラーな伽藍配置2018年5月16日(水) をご覧ください。

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法隆寺「ナンバー・ワン」

札幌市 川端俊一郎

(A)聖徳太子の四天王寺は推古元年、五九三年「始造」というが、創建当時のものは何も残っていない。ただ伽藍配置は当初のものを伝えている。六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡(注④)からは四天王寺と同じ伽藍配置が発掘された。

(B)今の法隆寺は、その焼け跡を整地した上に建っているが、寺材は焼失より七五年も前の五九四年に伐採されている(年輪年代測定法2001)。今の法隆寺は現在地での新築再建ではなく古寺の移築であった。その伽藍配置も四天王寺とは違っている。

(C)移築再建は焼失四十年後である。真福寺「七大寺年表」の和銅元年、七〇八年に、詔により観世音寺を造るに続けて一言「作法隆寺」とある。また東寺王代記の和銅二年の勅修観世音寺の翌年に或る記に言うとして一言「法隆寺建立」とある。古寺の移築がすめば、観世音寺の営造である。

(D)再建法隆寺の伽藍配置は観世音寺遺構とは違っている。観世音寺の金堂は仏舎利塔の西にあって東面し、本尊は東の塔と向き合っているが、再建法隆寺の金堂は塔の東にあって南面し、本尊は西の塔の方を向いていない。

(E)金堂本尊の光背(注⑤)には何故か焼失法隆寺の造作経緯が刻されている。用明天皇の悲願「病太平」のための「造寺」と「薬師像作」は「小治田宮」の天皇(推古)と「東宮聖王」が六〇七年になしとげたという。焼失法隆寺の本尊は薬師像であった。移築されてきたのは釈迦像なので、その光背に薬師像の故事を刻し「薬師如来」と通称している。

(F)ところが、天福元年(1233)、本尊の東にあった釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が曲がり周縁の飛天も飛び散った(注⑥)。その修理を機に、やや大きめの三尊像を中央に移して本尊とし、やや小さめの釈迦像と入れ替え、それを「根本本尊」とした(注⑦)

(G)この釈迦三尊像は移築後に金堂に運び込まれたもので、元からあった像ではない。光背銘によると、五九一年に仏法を興し元めて三二年に「上宮法皇」が急逝し、その「往登浄土」を願って釈迦三尊像が造られ翌年完成した。それは金堂に押し込むのではなく、別に八角の仏堂を造って安置した。しかしその夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた(注⑧)

(H)この上宮法皇も聖徳太子も同一人物だとするのは太子信仰であろう。しかし聖徳太子は「ナンバー・ツー」で上宮法皇こそ倭国九州王朝の「ナンバー・ワン」だから、両者は決して同一人物ではありえないと看破したのは古田武彦である(『古代は輝いていたⅢ』1985)。

(I)上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。日本書紀は蘇我氏が飛鳥に法興寺を造ったと言うが、飛鳥に実在するのは元興寺の遺構である。「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。その法興寺を解体して遠く大和の斑鳩の里に運び、聖徳太子の法隆寺として組立変身させるのが新しい日本政府の事業となった。また法興寺の跡地には、詔により観世音寺が造られた。

(J)その旧観世音寺跡の礎石にも現法隆寺と同じ南朝尺二四五㎜での営造が認められる。太宰府政庁正殿の礎石間隔は一等材(一尺二寸)の倍数である。現法隆寺は二等材(一材は一尺一寸)、旧観世音寺は三等材(一材は一尺)である。「材」とは、ある建物で共通に使用する同一規格の角材の大きさを断面の高さで表す尺度で大小八等あり柱間隔などは材の倍数で示す。

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(はじめ)に法を興した古寺の名は

 川端氏は(I)で「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「法興寺」の他にはない。」と断じていますが、そうでしょうか。寺号から検討してみましょう。Wikipedia「元興寺」には次のような一文があります。
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「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
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 なるほど、このWikipediaの筆者には「一日(ついたち)」も「元日(がんじつ)」も同じ意味のようです。川端氏も同じ見解なのでしょうか。

 

 「法興寺」とは「法(仏法)を興す寺」という意味です。「法興寺」という寺号の「興」という漢字には「元(はじめ)に」という意味は全くありません。漢字の辞書を引いてみましょう。

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北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.544

xing1

❶挙辧,発動;~工.~利除弊.~修水利.❷起来:夙~夜寝(早起晩睡).聞風~起.❸旺盛((連)―盛、―旺)。[興奮]精神振作或激動。❹流行,盛行:時~.❻<方>或許:他~来,~不来.❼姓
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 「法興寺」の「興」という漢字は「盛行」(盛んにする・流行らせる)という意味で、何度も言いますが、「興」という漢字には「元(はじめ)に」と言う意味は全くありません。それは「蓮如は本願寺中興の祖。」などという言葉があることからも自明です。 

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北京商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000225日、日本版改訂版第1刷)P.602

yuan2

開始,第一((連)―始):~旦.~月.~年.[元素]在化学上,具有相同核電荷数的同一類原子的総称。現在已知的元素有112種。[元音]発音時候,従肺里出来的気使声帯顫動,在口腔的通路上不受阻碍而発出的声音,也叫“母音”。拼音字母 a,o,u等都是元音。❷為首的:~首.~帥.~勲.❸構成一個整体的:単~.~件.❹朝代名(公元1278-1368年)。公元1206年,蒙古孛儿只斤・鉄木真称成吉思汗。1271年,国号改為元。1279年滅南宋。❺同“圓❹”
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  ご覧のように、「元興寺」の「元」という漢字こそが「開始・第一」という意味なのです。すなわち、川端氏は上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。と言わねばならなかったのです。つまり、川端氏は開始・第一」の意味で「法興寺」としている箇所を「元興寺」に置き換えなければならない、ということになります。

 川端氏は(I)で、「「ナンバー・ワン」の法興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と述べています。漢字の意味から「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名は「元興寺」の他にはない。」と明らか(「元」=「開始・第一」=「ナンバー・ワン」)になったのですから、前述の川端氏の見解は「「ナンバー・ワン」の元興寺は、倭国の都、太宰府で営造された。」と「法興寺」を「元興寺」に置き換えねばなりません。となれば、川端氏も私の読解「『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった。」に同意いただけると思います(どのように読解したかは 『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院―2023年1月1日(日) に示してあります)。

 (し)(いは)く、過(あやま)ちて改(あらた)めざる、是(これ)を過(あやま)ちと謂(い)(原文「子曰、過而不改、是謂過矣。(『論語』衛霊公第十五29)) 

(続く)

次回は「元興寺」の移築先を論じます。

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注① 「大和王朝」 ‥‥‥ 一般的(一元史観的)には「大和朝廷」とされていますが、「九州王朝」との対比のため、701年に「大宝」を建元して建国した王朝を「大和王朝」と呼ぶことにします。また、それ以前を「大和王権」と呼んだりします(私がそう呼んでいるだけです)。

注② 「大長九年」(712年)まで存続した「九州王朝」 ‥‥‥ 「大長」は704年から712年まで続いた最後の倭国年号(九州年号)です(古田史学の会の「九州年号総覧」による)。「大長九年」は日本国年号では「和銅五年」にあたります。 

注③ 『法隆寺のものさし』 ‥‥‥ 川端俊一郎著『法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎』(ミネルバ書房、2004年02月25日、ISBN 9784623039432
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注④ 六七〇年に焼失したという法隆寺の焼け跡 ‥‥‥ “若草伽藍”と呼ばれています。「四天王寺式伽藍配置」であったことが判明しています。
 『日本書紀』には天智天皇九年(六七〇)四月壬申〔30日〕条に、午前0時過ぎに法隆寺に火災が起きて全焼(一屋無餘)したとあります(原文「夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。」)。
 「若草伽藍(わかくさがらん)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。」(Wikipedia「若草伽藍」より抜粋) 

注⑤ 金堂本尊の光背 ‥‥‥ 金堂内陣の「東の間」に安置されている薬師如来像の光背です。銘文は次の通り。また、光背の銘文の「歳次丙午年」(推古天皇十五年(六〇七年)は後世のものとして否定されています。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。」(Wikipedia「法隆寺」より抜粋)
「像の制作年代および銘文の記された年代を文字どおり推古天皇15年(607年)とみなすことは福山敏男の研究以来、否定されており、実際の制作年代は法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年(623年))より遅れるものとみなされている。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋)
画像「”薬師如来像”の光背銘」(ダブルクオートで囲っているのは、「釈迦如来像」と見られるから)
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『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉
【文面の内容】
用明天皇が病気の時(用明天皇元年(586年))、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。」(Wikipedia「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」より抜粋) 

注⑥ 法隆寺釈迦三尊像 ‥‥‥ 「一屋無餘」に焼失した法隆寺の仏像がこの世に存在するわけもなく、この釈迦三尊像は何処からか(不明)法隆寺の移築再建後に運び込まれたことになります。この釈迦三尊像の光背銘文が法興年号(九州年号)で記されており、人物名が大和王朝には該当がないことから、釈迦三尊像を造ったのは九州王朝であったことが明白です。古田史学では、この釈迦像は「阿毎多利思北孤の等身大像」というのが定説となっています。下記論文をご覧ください。
正木 裕「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来(古田史学会報130号、2015年10月9日掲載)
阿部 周一「法隆寺」創建本尊について(ホームページ(最終更新2015/01/11)よりブログ 古田史学とMeに転載(2018年05月16日))
画像 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
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【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文】(下線は山田による)
法興元丗一年歳次辛巳十二月
前太后崩明年正月廿二日上宮法

皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安

住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟乘斯微福信道知識現在安隠

出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

・法興元年は591年ですので「丗一年」は621年です。法興は32年間で622年に終わります。
・「當造釋像尺寸王身」とあり「釈迦像を王の等身大に造った」ことになります。
・「願力轉病」とあります。倭国年号(九州年号)の「願轉」は601年~604年です。600年あたりに疫病が流行したのかもしれません(妄想です)。
・王后が亡くなった「(622)二月廿一日」の日干支「癸酉」が、金石文にあるわが国最古の日干支と思われます。
・「登遐」は天子・天皇・法皇につかわれますが、天子・天皇には(鬼前太后にも)「崩」と記されますので、「登遐」と記されているのは「法皇」であるためと思われます。
・翌年(癸未年623年(仁王元年)三月中)にこの像と光背が出来上がったとあります。
(読み下しの例)[40]
法興元丗一年、歳は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇、病に枕して弗悆(ふよ)。干食王后、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。」(〔 〕内は補注。)
」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋。ただし、大和王朝には該当者がいない人物名に無理やり「間人皇女」や「聖徳太子」や「膳妃」を当てる(一元史観による)補注は山田が削除しています。) 

注⑥ 天蓋が落下して光背が飛び散り ‥‥‥ 天福元年(1233)に釈迦三尊像の天蓋が落下して光背が飛び散ったという史料はネット検索では探せませんでした。 東の間の天蓋は天福元年(1233)の補作で、西の間阿弥陀像を造った運慶第四子、康勝が製作に関与しているとみられています。
 しかし、川端氏が言うように、「修理」したのであれば飛天が元通りに付けられたはずで、その後何らかの事情で外()れたとしても、法隆寺に一体の飛天(の破片すら)も残っていないのは不審です。飛天を取り外す理由があったのではないでしょうか(例えば、飛天の裏側に法隆寺にとって都合の悪い文字が書かれていたとか)。ただ、光背の周縁には枘穴(ほぞあな)が開いており、元は飛天が付いていたと考えるのは妥当です(飛天付きの光背はいくつも例があります)。
光背拓本画像(「法隆寺金堂釈迦三尊像 法隆寺資料彫刻編第1輯」に「→」を加工
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「当初、この大光背の周縁は “飛天” で飾られていて、枘穴は飛天を取り付けるための差し込み穴であったのだ。」(平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」明治40(1907)、考古界69号、後「仏教芸術の研究」に所収) 

注⑦ 「やや小さめの釈迦像」(“薬師如来像”のこと)と入れ替えて「根本本尊」とした ‥‥‥ 川端氏は、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』によって、本尊を大きさで入れ替えたとしていますが、「本尊を交替」したと仮定したとしても、交換した理由は川端氏の主張(大きい方を本尊にした)とは異なっていたのではないでしょうか。
鎌倉時代の法隆寺の学僧で、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』の著者である顕真もこの点を不審に思い、同書に「当初は薬師如来像が本尊であったが、釈迦三尊像の方が大きいので、後に交替して釈迦三尊が本尊になった」という意味のことを記している。しかし、寺の本尊が単に像の大きさのみで交替するということは常識的には考えにくい。また、釈迦三尊像の頭上に吊るされている箱形天蓋(飛鳥時代)の大きさが同像の台座とほぼ同じ大きさであることからみても、金堂「中の間」本尊は当初から釈迦三尊像であったとみるのが自然である[8]。」(Wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より抜粋) 

注⑧ 夢殿を移築するとき、釈迦三尊像は金堂に運び込まれ、本尊の右にあった「上宮王等身木像」(救世観音)と入れ替えられた ‥‥‥ “救世観音像”は法隆寺夢殿の本尊です。
夢殿
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。法隆寺/法隆寺伽藍/夢殿より抜粋)
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法隆寺夢殿の本尊で,聖徳太子の等身の御影と伝わる観音菩薩立像。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」より)
法隆寺の救世観世音菩薩像は、200年間公開されていなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)、国より調査の委嘱を受けたアーネスト・フェノロサが、夢殿厨子と救世観音の調査目的での公開を寺に求め、長い交渉の末、公開されたものである。後に著作『東亜美術史綱』で像影の写真付きで公刊されている。回扉されると立ったまま500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれた状態で、解くとすごい埃とともに「驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」と表現している[3]。」(Wikipedia「救世観世音菩薩」秘仏と公開 より)
 しかし、川端氏の主張(完成した釈迦三尊像は“夢殿”を造って安置されたが、夢殿の移築の際に金堂にあった“救世観音”と入れ替えられた、とする)の根拠となる史料は見当たりませんでした。
法隆寺東院夢殿 一棟
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物で、著名な救世観音を本尊とし、あわせて東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置する。この地は太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見し、そのことが確認された。また、この調査では東院創立当初の回廊や南門の規模も判明した。
その創立を天平一一年(七三九)とする『法隆寺東院縁起』には多少の疑問ももたれるが、天平宝字五年(七六一)の『法隆寺東院資財帳』には夢殿以下各堂宇の記録があるから、少なくともそれ以前の建立であることはまちがいない。
堂は八角形の平面をもち、一般に八角円堂と呼ばれる。建立以来何回かの修理をうけてきたが、なかでも寛喜二年(一二三〇)の修理は大改造をともなったもので、今見る姿はほぼこの時に定まった。改造の主な点は、組物を一段分積み重ね、軒部材を新材にとりかえて軒の出を増し屋根勾配を強くしたなどで建立当初と比べると建物の建ちが高くなり、全体に鎌倉時代らしい武骨さが強まったといえる。
このように中世の改造はあるものの、当初形態の復原も可能で、栄山寺八角堂とともに奈良時代の円堂を今に見ることができるのは幸いである。なお、頂上の露盤宝珠は宝瓶に八角形に宝蓋や華麗な光明をともなったもので、世上著名な優作である。
【引用文献】

『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五)」(文化遺産データベース「法隆寺東院夢殿 ほうりゅうじとういんゆめどの」より。下線は山田による。)
〔前略〕夢殿は八角円堂で,この形式は現存遺構は少ないが鎮魂の堂の役割をもつ例が多い。」(コトバンク 世界大百科事典 第2版「夢殿」の解説より抜粋)

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