« なんちゃって哲学―逆立ちした思想― | トップページ | 無文銀銭論考の紹介―ブログ「古田史学とMe」から― »

2023年1月14日 (土)

倭国一の寺院「元興寺」(4)―名前のない伽藍配置―

倭国一の寺院「元興寺」(4)
名前のない伽藍配置[論理の赴くところ][神社・寺院][多元的「国分寺」研究] 

 このところ「元興寺」について論じてきましたが、その過程で、今まで悩んでいたことが解決しましたので、それを報告いたします。

 

きっかけ

 肥沼孝治さん(注①)を中心とする「国分寺」の共同研究(名称「多元的「国分寺」研究」)に参加していたころの話です。古代史の専門的知識を持たない私は、テーマを国分寺遺跡の「造営尺度」や「伽藍配置」を絞って調査・研究をしていました。

 そのテーマを選んだのは、森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記していたことがきっかけでした。

 

一定していない国分寺の伽藍配置

 私たちには、伽藍配置が一定していない原因は当初からわかっていました。『続日本紀』天平13年(741)の年の聖武天皇の“国分寺建立の詔”には「「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,「国分寺」という言葉はない。」と肥沼孝治さんがブログで発表した(注②)からです。すなわち“国分寺建立の詔”ではなく「七重塔建立の詔」だったのです。つまり、既存寺院に「七重塔」を建てればよかったわけです。既存寺院の伽藍配置も様々ですし、七重塔を建てる位置も各々異なりますから、「国分寺の伽藍配置は一定していない」結果になるのは当然なわけです。ただ、朝廷から「国分二寺図」が諸国に頒布されていますので、私は諸国国分寺の伽藍配置と「国分二寺図」の関係についてまとめてサークルに投稿(注③)しました。

 

名前のない伽藍配置様式

 諸国の国分寺の伽藍配置を調べていくうちに、「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」の国分寺がかなりあると知りました。ところがこの伽藍配置様式に名前がついていないのです。
名前のない伽藍配置様式(信濃国分二寺の例)
Photo_20230114135701 
 私は、接近した二寺がある信濃国分寺が代表例になるのかなと思って、“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置と言っていました。

 

正式名称が決まった

 誰もこの様式に名前を付けていないのなら、「早く付けたもん勝ち」です(笑)。

 信濃国分寺よりふさわしい寺院が見つかりました。「元興寺」です。正確に言えば「新元興寺」なのですが、「新元興寺」は解体移築した「元興寺」の伽藍配置をとったはずで、また移築先の大安寺の伽藍配置にも「元興寺」の伽藍配置の痕跡が認められますので、これは間違いないと言ってもいいでしょう。

 

元興寺式伽藍配置
…………………………………………………………………………………………………………………………

元興寺は飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)に起源をもつ。平城遷都後の718年(養老2)法興寺を平城京左京四条・五条の七坊の地に移して元興寺と称し,飛鳥の法興寺を本元興寺と称した。奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。
(平凡社世界大百科事典 第2版より)
…………………………………………………………………………………………………………………………

 ここに「奈良時代の元興寺の伽藍配置は,南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並び,回廊は金堂を囲んで中門と講堂を結ぶ。」とあります。表現の仕方は異なりますが「中門から発した回廊が金堂を囲って講堂の両妻にとりつく伽藍配置」です。

 「倭国一の元興寺」を「わがもの」にするためには、「新元興寺」が「元興寺」を真似て造られるのは必然です。「倭国一の元興寺」の伽藍配置であったから多くの寺院がこの伽藍配置を採ったというわけです。

 

元興寺式伽藍配置の復原

 元興寺の伽藍配置は、移築された大安寺の伽藍配置を見ると、「南中門」(解体された元興寺の南大門)と中門の距離が極めて狭いことから「古式寺院」(正しくは塔が回廊外なので「新式寺院」だが、内郭比が3対2の古式。つまり、過渡期的新式の鏑矢)であったとわかります。また、①「新元興寺」(平城京に移築した法興寺)が「南大門・中門・金堂・講堂が伽藍中軸線上に並」んだ「縦型」であること、②古式寺院の縦型回廊は縦横3:2の比であることから、「元興寺式伽藍配置」の回廊も縦横3:2の比であると考えられます。ただ、回廊が金堂を囲っていることから、塔(おそらく五重塔)は回廊外の東側に置かれたと考えられます。回廊は当初は単廊で後には複廊となったかもしれません。

元興寺式伽藍配置の復元図
Photo_20230114134801

結語

 今後、私はこの伽藍配置を「元興寺式伽藍配置」と呼ぶことにしました。この伽藍配置に付ける様式名には「上宮法皇が法を興し元めに創建した古寺の名」である「元興寺」が最も相応しいでしょう。また、この命名は「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する(注④)のではないかと考えています。

(続く) 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

注① 肥沼孝治さん ‥‥‥ 古田史学の会会員。「肥さんの夢ブログ」主。ブログ「多元的「国分寺」研究サークル」の運営主。去年(2022/04/10)ブログ更新停止。
古田史学の会のHP新古代学の扉」の「HP内の検索エンジン」で「肥沼孝治」を検索していただくとたくさんヒットします。古田史学の深化に多大な貢献をされています。私が一番印象に残っているのは次の論稿です。
古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?古田史学会報108号2012年2月10日 

注② 肥沼孝治さんがブログで発表した ‥‥‥ 「国分寺」はなかった!2016年1月30日(土) 

注③ サークルに投稿 ‥‥‥ コメントで投稿したものを肥沼孝治さんが記事として掲載してくれました。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2017年1月10日(火)
 お読み頂くのであれば、コメント版(↑)より当ブログ再掲版(↓)の方が読みやすいと思います。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―2021年10月5日(火) 

注④ 「元興寺式伽藍配置」を採る寺院の創建年代の推定に資する ‥‥‥ 国分寺式伽藍配置の前の時代に盛行した伽藍配置ではないかと推測した論考をいくつか書いています。
作業仮説:「伽藍配置の変遷過程」試論―“(仮称)プレ国分寺式”伽藍配置の時代があった―2017年7月30日(日)
「国分寺」伽藍配置の変遷試論(1)―「新式」寺院を更に分類したら―2021年2月11日(木)
これ()は肥沼孝治さんの肥さんの夢ブログにも取り上げて頂いています)。
名前のない伽藍配置様式の怪―“(仮称)信濃国分寺式伽藍配置”― 2021年11月17日(水)

« なんちゃって哲学―逆立ちした思想― | トップページ | 無文銀銭論考の紹介―ブログ「古田史学とMe」から― »

多元的「国分寺」研究」カテゴリの記事

神社・寺院」カテゴリの記事

論理の赴くところ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

古田史学先輩の追っかけ

無料ブログはココログ