『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く―倭国一の寺院 ―
『日本書紀』で「元興寺」の在処を読み解く
―倭国一の寺院 ―[論理の赴くところ][神社・寺院]
はじめに
大越邦生氏の論文「法興寺研究」(『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年)に沿って、『日本書紀』の記事から「元興寺」の在処を読み解いてみます。私見が混じっていますが、ご容赦ください。
読み解く方法は、先のブログ記事 私の読解法―筆者の立場で考える―2022年12月18日(日)に掲げてあります。
読み解く記事
まず、読み解く対象となる『日本書紀』の記事は次の二つです。
【原文・訓読文ともに岩波書店 日本古典文学大系68『日本書紀 下』より】
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《推古天皇十七年(六〇九)四月》
十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言、百濟僧道欣・惠彌爲首、一十人、俗人七十五人、泊于肥後國葦北津。是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰、百濟王命以遣於呉國。其國有亂不得入。更返於本郷。忽逢暴風、漂蕩海中。然有大幸、而泊于聖帝之邊境。以歡喜。
〖訓み下し文〗
十七年の夏四月(なつうづき)の丁酉(ひのとのとり)の朔庚子(つひたちかのえねのひ)〔4日〕に、筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)、奏上(まう)して言(まう)さく、「百濟(くだら)の僧(ほふし)道欣(だうこん)・惠彌(ゑみ)、首(このかみ)として、一十人(とたり)、俗人(しろきぬ)七十五人(ななそぢのあまりいつたり)、肥後國(ひのみちのしりのくに)の葦北津(あしきたのつ)に泊(とま)れり」とまうす。是(こ)の時(とき)に、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)龍(たつ)を遣(つかは)して、問(と)はしめて曰(い)はく、「何(なに)か來(まうこ)し」といふ。對(こた)へて曰はく、「百濟(くだら)の王(きし)、命(ことおほ)せて呉國(くれのくに)に遣(つかは)す。其(そ)の國(くに)に亂(みだれ)有(あ)りて入(い)ることを得(え)ず。更(さら)に本郷(もとのくに)へ返(かへ)る。忽(たちまち)に暴(あら)き風(かぜ)に逢(あ)ひて、海中(わたなか)に漂蕩(ただよ)ふ。然(しか)るに大(おほ)きなる幸(さち)有りて、聖帝(きみ)の邊境(ほとりのさかひ)に泊(とま)れり。以(これをも)て歡喜(うれし)ぶ」といふ。
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《推古天皇十七年(六〇九)五月》
五月丁卯朔壬午、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍、二人、而副百濟人等、送本國。至于對馬、以道人等十一、皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。
〖訓み下し文〗
五月(さつき)の丁卯(ひのとのう)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)〔16日〕に、德摩呂等(とこまろら)、復奏(かへりことまう)す。則(すなは)ち德摩呂(とこまろ)・龍(たつ)、二人(ふたり)を返(かへしつかは)して、百濟(くだら)の人等(ひとども)に副(そ)へて、本國(もとのくに)に送(おくりつかは)す。對馬(つしま)に至(いた)りて、以(も)て道人等(おこなひひとども)十一(とあまりひとり)、皆(みな)請(ま)せて留(とど)まらむとす。乃(すなは)ち表上(まうしふみたてまつ)りて留(とど)まる。因(よ)りて元興寺(ぐわんごうじ)に住(はべ)らしむ。
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記事の経緯
記事の経緯を箇条書きにすると次のようになります。
(1)百濟の僧道欣・惠彌を首(このかみ)とする一十人、俗人七十五人が、肥後國の葦北津(あしきたのつ)に漂着した〔漂着日不明〕。
(2)推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕に、筑紫大宰がそのことを〔朝廷に〕奏上した。
〔奏上先が推古天皇とは限らない。〕
(3)筑紫大宰の奏上をうけて、難波吉士(なにはのきちし)德摩呂(とこまろ)・船史(ふなのふびと)龍(たつ)の二人が肥後國の葦北津に遣わされた〔葦北津到着日不明〕。
(4)難波吉士德摩呂・船史龍が百濟の僧道欣・惠彌らに、「何故来たのか?」と問うと、「百濟王の命で呉國に遣わされたが、その國に亂〔戦乱〕が有って入国できなかった。本国へ返る途中で暴風に逢って、貴国の辺境に漂着しました。」と答えた〔尋問日不明〕。
(5)推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等がこのことを〔朝廷に〕復奏すると、德摩呂・龍の二人を副えて百濟人等を本國〔百済〕に送り返すことになった。
(6)〔送還百済人一行が〕對馬に至る〔到着日不明〕と、道人等十一(人)が皆〔倭国に〕留まりたいと願った〔請願日不明〕。
(7)〔道人等十一〔人〕の請願を朝廷に〕上表すると留ることが許された〔上表して許された日不明〕。
(8)〔朝廷は道人等十一(人)を〕元興寺に住まわせた〔住み始めた日不明〕。
事柄の因果関係(A→B、AによってBが起きた。以下同順同様。)
記事の経緯を起きた事柄の因果関係に分けると次のようになります。
A.筑紫大宰は、百済人85人〔内訳省略〕が肥後國の葦北津に停泊したと、〔肥後國から〕報告を受けた。
B. 推古天皇十七年(六〇九)夏四月丁酉朔庚子〔4日〕、筑紫大宰はそのことを〔朝廷に〕奏上した。
C.〔朝廷は、〕筑紫大宰からの報告を受けて、難波吉士德摩呂・船史龍を肥後國葦北津に派遣した。
D.〔葦北津に着いた〕德摩呂・龍は、百濟の首らに肥後國葦北津に「〔この地に〕来たわけ」を尋問した。
E.百濟の首らは、〔德摩呂・龍の〕尋問に答えて、「目的地の呉國に戦乱があって入国できず、百濟に帰還する途中、暴風で遭難したが、幸いなことに貴国の辺境に漂着しました。」と答えた。
F.推古天皇十七年(六〇九)五月丁卯朔壬午〔16日〕、德摩呂等は、〔百濟の首らの回答を、都に帰って朝廷に〕復奏した。
G.〔朝廷は、〕德摩呂等を〔葦北津に〕返して、百済人達に付き添わせて本国(百済)に送還する〔ことにした〕。
H.〔百済人を送還途中の德摩呂等一行が〕対馬に至ると、道人等十一(人)が〔帰国せずにこの国に〕留まることを願った。
I.〔德摩呂等が道人等十一(人)の請願を〕上表し、留まる〔ことが朝廷に許された〕。
J.〔朝廷は、道人等十一(人)を〕元興寺に住まわせた。
以上から次のことが確かめられます。
1.都と肥後國の葦北津との間を行き来しているのは、難波吉士德摩呂・船史龍であること。
2.漂着した百済人は、本国送還になるまで葦北津に足止めされていること(当時 託麻郡にあった肥後国府(現 熊本市国府本町一帯)は、処分未決の百済人達を漂着地の葦北津に留め置いた※と解釈しています。
※ ❶葦北津から国外追放という処分もあり得ます、❷葦北津から託麻国府まで直線距離で約58㎞もあります。
3.百済人の本国送還(葦北津~対馬)に、德摩呂・龍の二人が付き添っていること。
4.百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由であること。
5.元嘉暦では推古天皇十七年(六〇九)己巳年は平年で、四月は30日(大の月)であり、五月は29日(小の月)なので、〔百済人らが肥後國の葦北津に停泊したと〕筑紫大宰が奏上した四月丁酉朔庚子〔4日〕から〔百濟の首らの返答を〕德摩呂等が復奏した五月丁卯朔壬午〔16日〕までは足掛け43日であること。
大きな疑問(謎)は何か
試験問題風にすれば次のようになります。
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上記の二つの記事(推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子条・同年五月丁卯朔壬午条)について、整合的で納得できる解釈が成立するように、次の問いに答えよ。
問1.道人等十一〔人〕が、尋問を受けた時に留まりたいと願い出なかったのはなぜか。
問2.道人等十一〔人〕が、対馬に至ってから留まりたいと願い出たのはなぜか。
問3.俗人七十四人が、留まりたいと願い出なかったのはなぜか。
問4.道人等十一〔人〕だけが留まりたいと願い出たのはなぜか。
問5.寺院(元興寺)に住まわせたのはなぜか。
問6.住まわせた寺院が「元興寺」であったのはなぜか。
問7. 問1.から問6.までの解答によって、納得できるストーリーを組み立てよ。
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誘導式になっていますので、順に答えれば謎は解けるようになっています(笑)。
<thinking time>
模範解答
問1.の解 留まりたいと思うことが無かった(動機なし)。
問2.の解 対馬に至るまでに留まりたいと思うことがあった(動機発生)。
問3.の解 俗人七十四人には留まりたいと思うことでは無かった(俗人には動機発生せず)。
問4.の解 道人等十一〔人〕なので留まりたいと思うことであった(僧侶たちだけに動機発生)。
問5.の解 留まりたいと願ったのが僧侶等であったから寺院(「元興寺」)に住まわせた。
問6.の解 「元興寺」が僧侶等の望んだ寺院であった。
問7.の解 百済の僧侶たちは、本国送還(葦北津~対馬)の行程中に、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を目撃した。僧侶たちは、百濟に帰るよりもその壮麗な寺院でお勤めしたいと思った。そこで在留の申請をして許された。百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院というのが「元興寺」であった。
以上が「整合的で納得できる解釈」です(読み解きました)。おそらくこの二つの記事の筆者は、これでわかるだろうと考えたのだと思います(これは私の感想です)。読者の皆さんはどのような読解をされたでしょうか。
「元興寺」の在処
さて、本題(テーマ)は、「元興寺」の在処 でした。上記の読解に基づいて探索してみましょう。
「d. 百済人の本国送還のルートは、葦北津から対馬経由」でした。
ということは、百濟の僧侶等が目撃した「元興寺」はこのルート上に存在したと考えられます。
葦北津~太宰府~対馬
上図が百済人の本国送還のルート(赤線)の想定です。この道中のどこかに百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院である「元興寺」があったと考えられます。なぜ「対馬に至ってから留まりたいと願い出た」のでしょうか。「元興寺が対馬にあった」とも考えられますが、百濟では見ることもできないほど壮麗な寺院を国境となっている対馬に造営するとは考え難いでしょう。むしろ、対馬(倭国)を離れれば「二度と元興寺でお勤めする機会はない」という切迫した感情が「帰国ではなく在留」を決断させたのではないでしょうか。「対馬に至って」の理由はこれだと私は読み解きました。
さすれば、結論は決まってきます。「元興寺」は倭国の首都(太宰府)に在ったことになります。倭国一の寺は倭国の首都に造営されるのが当然だと私は考えます。
すなわち、「『元興寺』は倭京(太宰府)に存在した 倭国一の寺院 であった」と読み解きました。
(続く)
次回は、この読解に立ちふさがる問題点を論じたいと考えています。
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